はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2012年5月31日木曜日

所有の意味がわからなくなった

セカンドライフでもの作っていて感じるようになったの
だけど、所有にもいろいろ意味があるのではないかと。

オブジェクト指向にクラスとインスタンスという概念が
ありますけど、クラスとは型紙みたいなものでインスタンス
は型紙から作った製品みたいなものです。

で世の中眺めてみると所有といっても大体所有している
ものはインスタンスに相当するものだと思います。

設計図にあたるものはほかの誰かのものです。
で、なんとなく思ったことは真の意味の所有って設計図つくったり
デザインしたりすることなのではないかということでした。

そんな感じで家にある私ももちものが必ずしも私のもちもの
にみえなくなってきて、むしろここに書いている文章とか
セカンドライフでつくったものとかが所有物のように思えて
きたわけです。

P.S もっともトータルとしての、ものを含めた生活自体は
それぞれの人が真に所有しているものかもしれません。
ちょうどここに書いた文章が単語レベルでは既存のもの
でも文章全体としては私の書いた文章であるように。
今日の文章全体に突っ込みどころが多いかもしれませんが
思考の計算用紙みたいな感じで残しておきます。

図書館ゲームと代替現実

図書館ゲームとはセカンドライフやらない日に
図書館を舞台として行っているゲーム?である。

セカンドライフやっているうちに2つの欲望がわいてきた。
ひとつは一日中仮想世界にいたいという欲望と、
パソコンという複雑な機械を使うのはエコではないかも
しれないからできれば使わずにいたいということだ。

セカンドライフに生活の拠点を移し、物欲を情報で
代替すると大幅な節約になる。

その上でさらにパソコンを使わない方法を考えて
みると生活はかなり簡素なものになる。

パソコンを使っていないときも、現実世界の中で
セカンドライフに持ち込める素材はないかと物色
している。その主な舞台が図書館だ。

図書館で本読みながらアイデア練っている時間も
込みで仮想世界とみなし、本の行間や紙の上で
仮想世界を体験する。

数学の世界に慣れてきたら、仮想世界上で空間
表示されているものを紙ナプキンや封筒裏の数字
で楽しめないものかと妄想中だ。

ところで図書館ゲームとは何か?実は自分にも
よくわからない。あえていえば図書館ゲームとは
何かというのを探っていくのがその遊び方なの
かもしれない。

態度としての代替現実で、態度として生活全体を
少しずつゲーム化していく感じです。生活の方法を
見つけるということも中に入っているけれど、誰に
とっても難しいようにやっぱり難しいです。

代替現実の意味は説明がめんどくさいので検索
してみてください。普通は誰かにプログラムされた
代替現実を大勢の人で楽しむという解釈がおこな
われますが、代替現実とかゲームなどの概念を
道具に生活を解釈しなおすというやり方でも実現
できるように思います。

ついでに”チョアウォーズ”という用語も検索して
みてください。この概念も拡張可能だと思います。
たとえば、今、私はブログ書いていますけど、
「ブログゲーム」をプレイしているという解釈も可能
です。twitter, facebookその他のゲームとも連動して
いて、トータルとしてのゲーム空間の性質は未知な
のです。現実生活を含めたトータルとしてのゲーム
空間がお金の問題も含め生活を回してくれるという野望も
もてないわけではないかもしれませんし。

P.S 最後のあたり、インターネットを使った錬金術めいた
発想になって、いかがわしい匂いが漂っている。カネと
性の問題が人が生きていく営みに必ずついて回るのは
なぜなのだろうなんて形而上学的なことまで考えてしまう。

P.S2 人間の弱点はカネと性らしい。なんでそうなのか考える
ために”物語” ”キャラクター” ”弱点”で検索してみた。
google先生のおっしゃるところによるとキャラクターに弱点
があることで物語に深みが出て面白さが増すのだとか。

P.S3  セカンドライフにはまりすぎなんじゃないかと友達から
心配したメールが入ったのでメモ。さっきからつらつら考えて
いるのだけど、セカンドライフと非定型精神病の患者である
私の出会いって本当のところとてつもない組み合わせだった
のではないかと思っているところ。魅力的といえば、
魅力的だけどあまりに危険すぎる出会いなのではないかと。
しばらく頭冷やしてみます。



2012年5月30日水曜日

商売ベースから自己表現ベースへ

表現活動全体にいえることだけど、
表現技術の大衆化とともに商売ベースから
自己表現ベースにシフトしつつあるのでは
なかろうか?

情報を拡散させるという意味ではインターネット
があるし、情報の生産、流通に関してはコストが
かからない。

そのために表現活動の大衆化が広がり、
逆にプロとしての活動が難しくなりつつあるのが
全体的な流れだ。

料理や世間話同様、表現活動も
拡張された自己表現としての
コミュニケーション手段になりつつあるのでは
ないかとも思うのだ。

もともと日常のそばにあった表現活動が
純粋化、芸術化されて、
見る人と表現する人に分かれていったのが
また、技術が大衆化して
日常の近くに戻ってきた感じだ。

そのことで表現活動の層が厚くなり、
裾野が広くなって同時に
受け手としても育ち、より高度な表現も
受け入れやすくなったような気がするのだけど
どうだろう。

家庭料理を日々つくりつつ、
たまには料理屋の料理も賞味するような
感じでこれからもプロの表現も成り立って
いくと思うのだけど、
料理を作れればプロだった時代から
料理屋の料理をつくらなければならなくなった
時代になったのではないだろうか。

仮想世界としての表現が出てくるには要素イメージが足りていないか

今の仮想世界は現実世界からモチーフを借りてきて、
現実世界の模型であるかのように、仮想世界が構成
されているけれども、そのうち借りてきた要素同士を
掛け合わせて、仮想世界独特のものが出来ていくよ
うな気がする。

類似するものは今見ているパソコンの画面で、机とか
書類のモチーフは利用しているけれど、パソコン独特
の世界でもある。

そんな感じで、現実世界を理解の手がかりとしながら
も、現実世界にあんまり縛られないで仮想世界その
ものとしての表現が少しずつ出てくるような感じがする。

絵画のリアリズムが完成し、陳腐化した後で抽象画が
出てきたような流れはきっと仮想世界にも出てくるよう
に思う。

あるいはアニメが劇画化の流れにならなくて、
アニメ画としてのアイデンティティを獲得したようなこと
が起こってくるような気がするのだけれどどうだろう。

リアリズムが完成していくにしたがって、表現は一つ
のものに収束していくと思う。でも、表現のあり方には
多様性があってもいいのではないかとも思う。

現実世界を模写するほかにも、仮想世界は心象風景
みたいなものを表現する媒体として優れている。

もっともその心象風景を自在に表現するためには
そのための引き出しとしてのイメージの在庫が豊富
でなくてはならないのかもしれない。

そのため、全体としてみたときに、現実世界あるいは
既存の表現からの移入が行われている段階だけど、
そのうち仮想世界の性質をうまく使った、仮想世界
ならではの表現が出てくると思われる。

私たちはこれまで自己というものをうまく表現する
すべをもたなかった。服装にしろ、家の中の空間
表現にしても、他者によって作られたものを選択
して自分の組み合わせで自己を表現するという
方法しかもたなかった。

他者の表現によらず、自分で作るとなると素朴
なものしか作れないのかもしれない。しかし、
そのような素朴なものでも、雄弁に自分のなに
がしかを表現してくれると思われる。

文字表現が大衆化して、自己の存在を主張する
道具になりつつあるけれど、文字の次に大衆化
するのは空間表現や音楽かもしれない。

服装で自己を表現するような気軽さで、仮想世界
で自分の世界を構成していく世代も現れるに
違いない。

3Dを簡便に操作できる世界の正体はまだわかった感じがしない

いまだにもどかしい思いがなくならない。
それはセカンドライフでは簡便に3Dの世界が操作できるのだけど、
そのことにまつわる深い意味合いがわからない。

そこにはきっと何かあるのだけど、私の能力ではわからない。
その何かの正体がわからない。

3Dの世界にもちこむ素材を漁るために現実世界を物色して
いくとよーくわかることがある。それは決まりきった世界であること。
そんなに突拍子もないものになかなか出会えない。

同じく何か漁ろうとして漫画本やアニメみて思うこと。
量産を前提にしているために、画面の背景はあんまり考え込んで
つくられていない。そして、大体は現実世界や既存の世界からの
移入された要素によって成り立っていること。

といっても何か新たに作り出そうとすると無為に近い時間が
浪費されてしまう。既存のものを移入することからすると効率
も悪いし、創造したところで使えるものであれば、誰かがもって
いってしまわないとも限らない。

それでも3Dの世界の醍醐味は模倣にあるのではなくて、
この世に存在しないものを生み出すことだと思う。
そのための操作の簡便さのように思えてならない。

模倣から入るというのも確かに一つの方便だとは思う。
俳句に写生俳句というのがあるように、創造とか言っている
暇があったら、ひとつでも多くのものをイメージに取り込んで
イメージの引き出しの中身を豊富にさせておくのが賢い戦略
に違いない。

引き出しがいっぱいになったところで、初めて要素同士を
掛け合わせて創造が始まるものだという意見はもっとも
だと思う。でも、なにかいいたいことがある。

日本は模倣から始まるのに対して、アメリカ文化はゼロから
作り出すのだという。アメリカなどではなく、時間の軸をはるか
古代に引き戻し、シュメール文明までいってしまうと、彼らは
文字通りゼロから都市文明の基本要素を見事に作り出した。

模倣からはじめるのに対して、ゼロから作り出すのは効率的
といえないし、出来上がったものはえてしてプリミティブな
完成度にとどまる。細部を重視する日本人にとっては魅力的
にはそれらは映らないかもしれないけれど、0を1にするという
のはそういうことなのだと思う。

そして、学校教育がいきわたり、都市文化が田舎までいきわたった
この世界で普通の人が何か創造しようとするときにこんないい
道具はないと思う。教育によって得た知識をやりくりして、
カレーライスやラーメンを進化させたような日本人のエネルギーを
3Dにつぎ込むことができたら何か面白いものがきっとできて
くると思うのだけどどうだろう。

2012年5月29日火曜日

今日は不漁です。

今日はネタも思い浮かばず、あんまりいい文章かけそうに
ありません。もっとも、毎日そんなにいい文章書いているわ
けでもないのですが、、、

内的省察とはいっても、とくに何か特別なものがそこにある
わけではありません。だだ、思いついたことを思いついたま
まに文字化していくだけです。

心の中を覗き込んでも、真っ暗闇みたいに見えるだけで、
とくに何かつかまるわけではありません。そして、一生懸命
目を凝らしてみてもやっぱり何も捕まえられないのです。

それでも、何かを捕えようとしてしまう。

もやもやを言語に捕えるとき何が起こっているのでしょう。
その選択は何を根拠にその言葉に変換していくのでしょう。

水の中から何かが浮かび上がるのはあくまでも比喩です。

もやもやを言語に捕えると書いたのも比喩です。視覚的な
イメージがくっきりしているかどうかわからないけれど、
曖昧なイメージと言語を駆使してものを考えます。

イメージがさかんに浮かぶかどうかはその時の気分と
関係あるような感じがします。そして今日は不漁です。

イメージが浮かばないと言葉が続きません。外に出てこ
ないのです。というわけで、今日は苦しいのでこのへんで。
最初はそれなりにいけるのかなあと思ったのですが、
やっぱりだめでした。

2012年5月28日月曜日

上から目線で書いているわけではないのだけど

文体が丁寧なですます調でなくて、だ、であるとかそういう書き方
になってしまっていることに気を病んでいる。といっても単に書き
改めればいい話なのだけど。

ニーチェと自分を比べる気などさらさらないのだけど、
ニーチェの使ったタイプライターとか、今私の使っているキーボード
とかは書く文体を電文調にしてしまうこともあるらしい。

打ち込んでいる文章の呼吸みたいなものがあって、それに素直に
従うとどうしても電文調の今ごらんになっている文体になって
しまう。

でも、上から目線で、自分は偉いんだと必ずしも思っているわけ
ではないのです。
必ずしもと限定がつくのは気分が高揚して本当に言葉が強くなって
しまうときも多々あるからです。

身の丈にあったことだけを書きたいのに、それに反して大きな
言葉を使ってしまう。言葉に酔って思い上がったことをつい書いてしまう。

読むほうからすると迷惑千番な話に違いないと思うのだけど、
それも含めて自分なので、平に平に許してもらいたい。
と無理なお願いをしてしまうのだけど、やっぱり丁寧な文体に
したほうがきっといいのかもしれません。

読んでもらうという意識が足りないのかもしれません。
打ち込んでいるときの呼吸が気持ちがよくて、そのまま
書いてみて、何か変だと自分で気づき、文末を丁寧に変えてみたり
するのですが、それはそれで変になってしまって、どうしようかと
悩んでいるところです。

何でもありの世界

人間そっくりのアンドロイドみてつくづく思うことがある。
実在とはなにか?についての常識がなし崩し的に崩されて
いく感じである。

もっとも、そういうことは写真の発明によっても、CGの登場に
よっても脅かされてきた。

思考実験で、数学で極限値とってみるみたいに、技術の向く先
を極限まで考えてみると、まるまる人間のコピーができたり、
世界や宇宙のコピーが出来たりという話になる。

むしろそこまで行き着いた世界を妄想しながら、実在とは何か
について思いをめぐらせていくのがいいのかもしれない。

思えばSFというのは物語という道具を駆使しての思考実験
のような気がしてならない。

今でも、illustratorやらphotoshopなど使って、写真で取り込んだ
情報を自在に編集して作品作ることができて、考えように
よってはこれも何でもありの世界だ。

3D化したり、人工知能の分野が整備したりしてくると眩暈のする
ような世界も現出することだろう。といっても遠い遠い未来の話
かもしれないけれど。

設計図からコンクリートによってビルを起こすみたいな感じで、
今は内的現実とされているものに文字通りの生命を与えるよう
になるのかもしれない。

でも逆に言えば、原植生みたいなものをデフォルトと考えたとき
現在の都市景観も内的現実の集合体みたいなものとは言えない
だろうか。未来までいくまでもなく、なかったはずのもので構成され
ている文明生活って奇妙だと思う。しっかり、根を下ろしている
このネットの世界も80年代には少なくとも自分の身の回りには
なかったものだから、「本当は正体のわかっていない得体の
知れない代物」と生活を共にしていることになる。家電製品その他
得体の知れない代物といえばいえるのかもしれない。

ここに書いている文字でさえ、よく考えると頭が変になってきそう
な代物だ。文字を使ってイメージを簡便に操作できるって、文字を
知らない時代の人にとってはとっても変なことに見えたに違いない。

文字を書くことによってイメージを操作したり、編集したり、保存が
できる。一昔前なら、付箋に書いたメモを移動したりとかの泥臭い
作業だったかもしれないけれど、それでもそのような操作で情報を
加工することが可能だった。

物語の編集というのなら、ホメロスは吟遊詩人たちによって口伝え
で編集されて、練り上げられてきたらしいから何らかの意味におい
て何でもありという要素は昔からその時代なりのものがあったわけ
だ。

おはなしを何度もせがんだり、自由帳に落書きを子供たちは書いたり
するけれど、原初的にはそこらへんが想像力を駆使しての何でもあり
の世界みたいに見えてくる。感動は続かないので次の何かを求める。
子供が発達するにつれて、そして時代が移るにつれて、次の何かを
求めるものだけど、本当のことを言えば最初の時点で本質は与えられ
ている。同じ本質を違う表現で、より大人びた表現で繰り返している
だけなのかもしれない。

P.S 同じ本質を違う表現でというのは数学の場合をイメージした。
リーマン予想その他、わかりもしない憧れの世界はあるけれど、
本質は三角形の内角の和とか円周角が等しいことなどで表現
されているようにも思う。同じモチーフを変奏しながら、より高度
な表現で現されていくような感じだと勝手に思っている。

ブログを書くことは健康のためになっているか、それとも

ブログを書いて内省して、自分の内にあるものを
言語化してみることは、自分の健康のためになって
いるかどうかというと微妙だ。

分裂病圏の人が内省ばかりするのもいいのか悪い
のかよくわからないけれど、問題はそれが生きがい
になってしまっているところ。

「生きがい」と書いたところで、それは自分にとっての
既成事実となり、書いた文章に幾分とも縛られる。

文書化するのは本人なりの一種の介入なのかも
しれない。

催眠療法みたいな感じで、よくなる方向に誘導すべく、
文章を記述していくと確かにいいのかもしれないけれど、
魚拓でもとるようになるだけありのままのそのときを
記録しようと努力している。

その「努力」がまたまずいのかもしれないけれど、
悲しいことにそういう性格みたいだ。

医学書の「病前性格」などを丁寧に読み、適切な用語
が与えられ、参考にもなるけれど、同時にそういう
傾向を強化していく。

ただでさえ理解の難しそうな精神病がネットの生態学
と結びついたとき、たぶんお手上げになるのは必至
だけど、そういう時代に生まれついている。

まあ、病気にかぎらず、心理学、社会学それぞれ
ネットと結びついて、本当のところはお手上げ状態
だと思うのでジャングルの中で探検でもするような
感じで自分なりの道を切り開いていくしかない。

人、それぞれ見たり、読んだりして体験している
リアリティが違うので本当のところそれぞれの
人の住んでいる世界を理解するのは難しい。

それでも、会話にしろ、チャットにしろ問題なく
意思疎通できるので、住んでいる世界の違いは
表面化しにくい。

ブログを書くことさえも、単にメディアとして、
道具の一つとして、何かを書き付けている
場合もあれば、「ブログの世界」とか文字で
表現された仮想世界みたいな感じで捉えられることもある。
表現することを通してその世界を生きるみたい
な感覚も生じていることがあって、
捉え方によりメディアとしてのあり方も
変わってくるのかもしれない。

ブログ書いたことでその日があったことになり、
また他者に開かれることで、なんらかの意味で
自分の書いたものが役に立つという幻想に浸れる
ということが効用なのだろう。

突き放した言い方をすると他人からでも読める形
でネット上に保存するということで、一番熱心に読む
のは未来の自分だと思うし、案外それでいいのだと
も思う。

2012年5月26日土曜日

かといってトンデモ本の提供する世界観はいんちきすぎる

物語としてみたときの物理学的世界観の魅力はその整合性だ。
当たり前といえば当たり前かもしれないけど、よくできている。

もっとも細部に至れば学説同士は矛盾して一枚岩とはいえない
のかもしれないけれど、それにしてもおおよその定説みたいなの
は完備していて、それを覆すのはなかなか難しそうだ。

ところが、病的体験はそれらの大元の土台みたいなものを
みごとに吹っ飛ばしてしまう。

だから、人によっては学研ムーとかの提供する、超自然的な
世界観が魅力的に見えてくるかもしれない。でも物理学的世界観
の完成度からみると縁日のガラクタみたいなインチキな代物に
私には思える。

アインシュタインの相対論を否定した「新説」が相対論よりも
魅力的に見えることはほとんどない。といっても私も相対論を理解
しているわけではないけれど、「新説」のほうがそれより魅力が
ないことだけは直感的にわかる。

疑似科学的な装いがいただけない。古くからの神秘主義はそれ
なりに魅力的にみえるけれど、擬似科学的な用語をちりばめた
現代のものには魅力を感じない。

科学と宗教を統合するみたいな文句は魅力的に映るといえば
映るけれど、実際は無理やり縫い合わせたようなものにみえて
くる。縫い合わせると両方とも使えなくなるように見えてくるの
だけどどうだろう。

私の書いたこのブログの文章もトンデモな内容かもしれない
けれど、私は別に学説を広めたいわけではなく、一患者として
自分の胸のうちにあることを書いているだけでそれ以上でも
以下でもない。

物理学的な世界観にはヒビが入ってしまったけれど、
ムーにも飛びつけない。伝統的な宗教には一定の尊敬は
しながらもやはり私は現代人。アメリカ製の精神世界系の
本もそんなに魅力的には映らず、どうすりゃいいんだろう、
みたいな感じがしばらく前から続いている。

ひとつ提案なのだけど、専門的な職種についている人は
専門家として語りえない、私秘的な部分もどうか日記とか
の形で記録していただきたい。それはいわばお墓にもって
いく自分専用の世界観かもしれないけれど、そういう
世界観は専門の人しか作れないし、思いつけない。

私は常々疑問に思っているのだけど、専門家の人は
「なぜ」の疑問をどうしているのだろうか?本当に「いかに」
の部分についてしか考えていないのだろうか?そして、
そのポストにつくことができたからこそ発想できた、
「なぜ」についての物語もあるだろうと思うものだ。

そういった物語は残念ながら市井の私たちにはきっと
作れない。その物語はその人の権威を傷つけ、あるいは
結果的に世間を迷わす元となるかもしれない。

それにしてもその物語は私のいる「ここ」にいてはつくれなくて
あなたのいる「そこ」にいたからこそ作れたに違いない。
どうか勇気をもって、何も公表しろなんて無理なこと言わないから
せめて、記録として外に取り出していただきたい。

P.S と書いてみたのだけど、検証されない私秘的な物語は
あとの人からみるとトンデモ本レベルであり、それがわかって
いるからこそ多くの人はそれを公開しないのだろう。結局、
おのおのの人が自分なりに事実についての本を読書し、
事実の彼方にあるものを想像するしかない。

仕組まれている舞台としてのこの世界 -この世界の臭さ

一回目の発病のときはどうだったかは
よくわからないけれど、少なくとも二回目の
発病時には世界全体にある種の臭さを
感じたことを覚えている。

どたばた喜劇のような独特の芝居臭さだ。

世界全体が仕組まれているような感じ
なのである。

とにかく自分に関するあらゆる物事が
繋がってくる。何を根拠にその繋がりが
感じられるのかは定かではないけれど
そんな感じがしてくる。

たまたま実際に起こってしまった確率の
低そうな偶然がトリガー引いたり、不幸に
して立て続けにそういった偶然が起こって
しまったのが芝居の始まりなのかもしれない。

そのときに構えができてしまい、その後は
結びつけて考えるようになってしまうのかも
しれない。

おまけにショックによる催眠術みたいな感じ
で意識水準さがり、すこしぼんやりしてくる
から、「象徴的」に類似していたら強引に
ひっつけてしまうこともありそうだ。

いろんなことが繋がり、いまや繋がった
世界の中心に自分がいる。

誇大に高揚したり、恐怖したりする。
教え込まれた世界観は吹っ飛んでしまう。

症状の消えた今、それぞれの患者さんたちの
心の底はどうなのだろう?

あのときの出来事は異物となって、理解不能
なまま自分の生活史の中に挟みこまれ、
死ぬまで理解不能なまま過ごさないといけな
いかもしれない。

あるいはお医者様の世界観を無理やりに
でも受け入れないと社会で生きていくのは
難しそうなようにもみえる。

宗教の用意する世界観はいかばかりかは
あの世界を理解するのに役にたつものなの
だろうか?いろんな思いがよぎる。

一度ふっとんだ世界観は地盤がゆるんで
しまったように潜在的には不安定だ。
片一方の足をこちら側に、片一方の足を
あちら側につけたような不安定さは
一生消えないかもしれない。

この世界だけに生きようとしても、
何かの折に無意識の水位が上がってきたら
容易にもう一方の物語が発動する。

教え込まれた世界観も所詮物語に過ぎない
のでそれは仕方がないのかもしれない。

リアリティの切り替え

電車の中の人のそぶりとか広告の文句とか
意味ありげに訴えてくる時期があって、
今、普段そう見えてはないのだけど、
当時の雰囲気を思い出していくと、
リアリティが少し切り替わるときがある。

といっても、別に脳のどこかのスイッチが
入るというほどでもない軽い感じだ。

「あのときはこういった光景が芝居がかって
みえたんだよねぇ。」「田舎芝居くさく、みて
いる光景全体が見えてたのだよねぇ。」
「怖かったんだよねぇ。」とか当時をしばし
振り返る。

果たして、そこらへんの人々のなにげない
しぐさとか、ひとびと同士の電車の中の
会話とかに裏の意味があったり、私へ
向けた秘密のメッセージがあったりする
のかどうかはわからない。

それらは「この世界の外」に関することなので
わかりようもない。たぶんマニュアル化される
以前の占いの原理もそういった事物の裏の
意味みたいなことから出てくるように私は
勝手に思っているのだけどどうだろう。

以前の私だったら、こういったことは
「世界の秘密」に関することで、怖くて
誰にもいえないような事柄だったのだけど、
二重の解釈ができるようになって
書くことにもそう恐怖感感じることもなくなった。

二重の解釈といってもたいしたことのない
ことで、そう見えるかもしれないけれど、
生理的な事情で世間のものごとがそう
映っているのかもしれないと思うことが
できるようになったことだ。

一方で、裏の意味のほうに捉われているのを
ある意味、読んでいる人は哀れんでいるかも
しれないけれど、この世界の本当の姿は
この世界の中にいる限りわからないというのは
事実であるような気がする。

自分の中では事実のことも他人からみると
違ったりみえたり、ある共同体の中では
事実のことも共同体の外からはそう見えなかったり、
というのを拡大していくと社会通念みたいな
常識にいきつくけれど、それさえもその外側
が存在する。

数学にも不完全性定理というのがあるそうで、
そのシステムの中にいるかぎりわからない
ことはあるみたいだ。

そこらへんの人の話す自分とはなんらかかわり
のないおしゃべりが違って聞こえてきて、
世俗的にいえばわたしの噂話だったり、
悪口だったりしたり、超越的にいえば、
人々をあやつっているこの世の外の人形
使い同士の会話に聞こえてくるのは
たしかに怖いことだろう。

そう聞こえてきたら、少し気分を落ち着ける
といいと思う。パニックをおこさないかぎり
しばらくするともとに戻る。

また俗な世界が帰ってくる。

微妙なところでバランスをとること

物理学的世界観というか研究者にとって、公理といえばいいのか
研究のための土台というか土俵みたいなものがあって、
一方市井に住む人々にとっても無意識の上で土台になっている
世界観がある。それが常識とか社会通念と呼ばれているもの
だと思う。

病気しちゃうとこれが吹っ飛んでしまう。私のように生物学
専攻していたところで何の防御にもならない。これはたぶん
専攻が医学であれ、物理であれそう違わないだろう。

問題は症状が収まったあとだ。しぶしぶ、元の社会通念の
世界に戻ってくるのか(医者はこの線に沿って説得してくる)、
新たな土台を打ち立てるのか、合致しそうな土台をどこから
か借りてくるのかの選択に迫られる。

私は大事なのはどう受け止めているかを静かに観察して
記録することだと思う。新たな世界観を打ち立てるのは
あまりにも思い上がった行為だと思う。合致しそうな土台
をどこからか借りてくるのは退屈な話だ。

心が揺れるさま、それなりに落ち着いていくさま、自分なり
に納得させていくさまを記録するのはどうだろう。

「死ぬか、狂うか、宗教か」みたいな切羽詰った感じに
自分を追い込まないで、どうせ人生終わるまでには
しばしの余裕があるのだから、ゆっくり考えていけば
いいのだと思う。

2012年5月25日金曜日

軽い意識障碍

頭がぼーっとしたまま、作業しようとしたら
スイッチが入ってしまった様で、
今いる部屋の周囲にある棚とか、
ついたてみたいなのとか
テーブルとかいつもと同じなのだけど、
ちょっとちがうような感覚が生じてきて、
その感覚に気が付くと、そういう構えで
周囲を見たり感じたりするようになって、
そうなるとその感覚が強化されて、
合わせ鏡のような、ハウリングのような
ものかもしれないけれど、困った感じ
になった。

人の声が別の意味に聞こえたり、
意味ありげに聞こえる感じではなく、
ただいつもと違った感じ(意味的なもの
ではなく)で聞こえるけれど、
怖い感じではない。

アタマの感じも少ししめつけられるような
感じでいつもと違う感じだ。

感覚の鈍い人なら気のせいと素通り
するところをその感覚を味わい、
強化してしまったのがマズかったの
かもしれない

P.S 意識障碍とするには軽すぎるのかも
しれないけれど、ほかにもっといい言い方
思いつかなかったため、そのままにします。

2012年5月24日木曜日

コリアンダーのような文章の匂い

文章の香り/匂い/臭みについて
考えすぎて、書きすぎて
文章自体が匂ってくるのだけど、
自分の文章の匂いが気になる。

少なくともニュートラルではないこと
は薄々気づいている。

そしてコリアンダーのように人に
よりけり、微妙なことも。

たぶん、私のような思考パターンの
人も世の中にいたり、あるいはそう
いった人々に対して何がしかの
興味を抱いている人も少数ながら
世の中にはいらっしゃって、
そちらにはそんなに不味い匂いには
なっていないように思う。

でも、もっと違う方面に日常の意識を
向けていらっしゃる人は多くて、
そっちの方面にはよくない匂いを発散
させているように思う。

チャンネルの選択権は読者のほうにある
ので単に読まれないというだけで、
バスやエレベーターの中のように強制的
に晒されるということはないので
あまり気にすることはないのかもしれない。

ランの匂いというのは少々特殊みたいな
感じだ。花の激戦区の熱帯雨林の樹冠
で、それぞれのランは自分のひいき筋の
ハチに向けて独特の匂いを発散している
らしい。資料に基づいているのではなく、
単に思弁しているだけなので、話半分に
読んでほしい。

ネット上もこれまた熱帯雨林のように
激戦区なので、不特定多数の読者を
ひきつけるという戦略よりも、特定少数
の読者に届くような感じでコンテンツ作る
といいのかもしれない。

いい匂いかわるい匂いかよりもむしろ
かぎ分けられるかのほうが大事なのかも。

「根源の探求」その後どうなったか?

やっぱり、自分の生活全体が「根源の探求」に向かって
いるのかもしれない。哀れなことに。

私みたいなものが「根源の探求」などしたところで、
マッドサイエンティストというか一種のパラノイアに
なるのがいいところだろう。というか現代のパラノイアって
小説に出てくるいかにもという感じの奇矯な人物ではなく
一見地味な私みたいな存在かもしれない。

こじつけめいた妄想体系築いたところでどうしようもない
ものだということはわかる。

自分なりにパーツを組み合わせて巨大なジグゾーパズルを
組み立てている毎日だ。

まあ、毎日生活に追われているから、ジグゾーパズルを作る
時間的余裕がないのがまっとうな人だとも思うのだけど、
私は今ありがたいことに時間は自由だ。

自分なりに組み立てているからどうしても歪みが出てくる。
ちょうど無理やりパーツをねじ込んだみたいな感じだと思う。

日本地図広げるみたいにして、自分が組み合わせたものを
俯瞰できるのかというとできない。むしろ、部屋に積み上げられ
倉庫のようになった本どうしのつながりをくもの巣眺めるような
感じでは眺められないのとどこか似ている。

それでも、長年住み慣れた地域の土地勘がつくように、
狸の巣穴のように迷路めいた自分の世界を移動しながら
こうして何か書いている。ある分量書いて、出来上がったもの
から再帰的にその人の世界観というのは見えてくるのかも。

連想の道筋というか、よく使う通路みたいなものがあって、
書くことによってそういったつながりみたいなものが可視化され
てくるのではないかと思っている。

「根源の探求」に向かう気ままな一人のりヨットの旅という
感じで、このブログはその旅の航海日誌なのかもしれない。

根源の中心などにたどり着けないことは承知しているし、
気ままなのんびりした旅にみえて、危険な旅であること
も承知している。それでも、それが生きがいになってし
まったので仕方がない。神秘的な体験したけど、宗教も
起こさなかったし、カルト宗教にも入信しなかった。
でも根源には魅入られてしまった。

さて、このブログ読んでいる奇特なみなさん、私の旅の
落としどころってどんな感じなのでしょう。人生の
ハードランディングではなく、ソフトランディングの形って。

風船おじさんって昔いましたけど、おじさんと同じく
永遠の少年である私は気球にのって、人生の後半の
ほうまで気ままに生きてきてしまいました。

少しずつ風船の空気が抜けて高度が下がり、
太平洋のどこかに墜落してそのままサメの餌食でしょうか?
むしろ今まであんまり無理をしなかったために、
墜落しなかっただけマシなのでしょうか?
それともなんらかの努力をすべきだったのでしょうか?

P.S 要するに「人生を棒に振りつつある」というのが客観的
にみた私の現在位置に違いない。それでもそこに至った
航海記録って意味はないのだろうか?失敗学というもの
もある位なので、何か教訓めいたものも引き出せるかも
しれない。それに負けて勝つという意味での人生の勝利
条件もあるのかもしれないとも思っている。

心の気象と気候

天気が変わるように心の状態も変わります。
一方、短期的な変動のパターンではなく、
もっと長期的なトレンドみたいなものも
あるのかもしれません。

私、気象学は知識が抜けている分野です。
複雑系ファンなので、ローレンツカオス
http://en.wikipedia.org/wiki/Lorenz_attractor
は知っているのですが、「バタフライ効果」の
一般書的な意味を知っているくらいで、
あまり詳しい意味はわかりません。

どこが似ているとはいえないけれど、
意識と大気は似ている感じがします。
皆さん感じている気分は主観的な気温
かもしれませんし。

乾いた感じ、湿った感じというのも心の
アナロジカルな表現ですよね。

植物が感情表現の媒体になったように
気象条件も感情表現の媒体になったの
かもしれません。

大気の中にいろんな成分が溶け込んで
いるみたいに、意識もメディウムとして、
そこらへんにあるものを溶け込ませて
いるのかもしれません。何しろ物理の
方程式までイメージとして取り込むく
らいなのですから。

寒さは厳しさとつながります。暑さも
そうかもしれませんけど。温和な気候
と書けば、心と気候のつながりみたい
なものが意識されますよね。

P.S 「心の天気図」という本を河合隼雄が書いている
し、「女心と秋の空」なんてことわざもあるくらいなの
で心と天気の結びつきは昔から言われていること
ですね。でも、科学的にもう一歩踏み込んだところ
ではどうなのでしょう?複雑系の研究の中の
そういうものはあるのかもしれませんね。誰かが
考えそうなテーマですし。

私のブログは「心の百葉箱」なのかもしれません。

アナロジー思考

患者仲間との話はスムーズにいく。向こうの個性的な表現も
受け入れられるし、アナロジー表現についても直感が効く。

それぞれの方のキャパシティ、容量はどのくらいなのだろう。

本人的には個性的な表現と悦に入っていても、他人様には
わかりづらかったり、癖がつよく、臭みになってきて、もはや
読めない、読む気がしないということもあるだろう。そのあたり
の境はどうなのだろう。

できれば、少しキャパシティを広げて、社会の片隅にでも
受け入れてもらいたいと願っている。たまに気分が高揚し
すぎて、少々オレ様的な態度とったりする場合も人により
あるのだけど、もちろん私の場合にも、脳内物質に翻弄
されているのだと哀れんでもらいたい。

ある意味、これを読んでいるあなたも、何かのきっかけで
脳内物質のバランスが崩れたらあられもない醜態を見せる
わけだ、そのへんを汲んで、大目に見てもらいたいと
おもうようなこともある。もちろんそれにしても責任というのは
ついてまわると思うのだけど、人間としての尊厳にかけて。

でした、でした、アナロジー思考。

たとえば今、目の前に半分ウーロン茶の入ったプラスチック
のコップがあるのだけど、それがそのものを超えて何かの
モデルになる感じだ。若干ふわふわとした感じでものを捉えて
いるのかもしれないし、意識全体が若干ふわふわとして、
ほんの少し夢の世界に近くなっているのかもしれない。

たまに、独り言いって、ぷっと吹いたりする不思議くんや
不思議ちゃんがいるけれど、彼らがやっていることをもう
ちょっと上手にやっている感じかもしれない。くちびるをあまり
動かさずに、声も出さずにいろんなことを始終想像なり
空想なりしている感じですね。私も人のみていないところ
でぷっと吹いたりしてしまうことはよくあります。人のみて
いないところで吹くところが不思議くんたちと違うところです。

だから、目の前のコップは得てして、空想のとっかかり
になるということなのかもしれません。そこからしりとりの
ように連想ゲームが続いていく。でも念から年中そんな
ことばかりやっているわけでもありません。気分は天気
ように変わっていきます。心の気候というのもあるのか
もしれません。気候条件を植生が反映しているように
心の気候条件はその人が作り出した表現、身振り、
口ぶりをふくめて、そういうものであらわされているの
かもしれません。

最後に、書くことによって初めて心の世界のなにがしか
を表現し、ほかの人と共有することができますが、
書くことで真実とずれます。本人が見た夢と表現された
夢の報告がずれることと同じことかもしれません。
それでも、書くことで誤解を生むことも恐れながら、
書くことで初めて伝わることもあるだろうと思います。
何よりも自分を知るという意味においても。

2012年5月23日水曜日

また書けなくなっちゃった

書けなくなることを、ライターズ・ブロックというそうなのです。
「書きたがる脳」という本に出てきます。

まったく、何も書けないという感じでもないけど、
書きたいという感じでもないです。

あんまり、浮かんでこないのです。

日頃はどうやっているかというと、何か
いい題名が浮かび、いい題名が浮かぶと簡単に
文章は出てきます。文章書いているうちに、
偶然、魅力的なフレーズ(本人的にはなのですが)
を思いつき、それをネタに次の文章書く感じですね。

粗製乱造のノリノリ気分の文章がはたしていいのか
それとも見るに堪えないのかは読者のみなさまに
おまかせしますが、そのときの気分は記録されている
ように思います。あらら、筆がなめらかになってきた。

で、筆がなめらかになると、ちょっと憑かれた感じに
なってくるのです。自分が道具としての言葉をつかって
文字を書いているというよりは、言葉自身の意思で
私という道具を使って言葉が生まれ出てくる感じです。
でも、この表現は大げさかもしれませんよね。


今日は憑かれたというほどではありません。
まあこのくらいにしておきましょう。

2012年5月22日火曜日

関係者以外立ち入り禁止

統合失調感情障害(非定型精神病)
の人のブログみてふと思ったこと。

私、病気になったかなり早い時点で病気とともに
生きる道を選択しちゃったのだなあってこと。

病気が発病して、一年後再発した折に、
心理学など独学して、「自己治療」しようとした私に
当時の主治医が言ったこと。

「ここからは私たちに治療はまかせてください。
あなたが自分なりに勉強しようとしてこれ以上
先に進んだらもう私たちには治せなくなる。」

そのとき、自分の目の前に関係者以外立ち入り禁止
の鎖が張られてしまったように思ったのでした。

「最終講義」中井久夫 の中に書かれた文章も
病気山からの下山を薦めているように私は読んだの
です。

でも病気山の景色は魅力的でこの世界の根源と
何か関連あるようにも見えてしまったので、
自分も関係者だなどと勝手に思い込んで
立ち入り禁止の鎖の中にすごすご入っていって
しまったのですね。

あれから約20年。確かに自己治療している部分
もあるようでもあり、現在深刻な症状に悩まされ
ているという風ではありません。

でも、自分が書いた文章とかを突き放して
眺めたとき、病気の魔の部分に魅入られちゃった
のだなあってため息をついてしまいます。

それがある意味生きがいだったため、
今の主治医もあんまり何も言わなくなりました。

いずれにせよ自分で選んだ道です。

困った因子にふとんをかける

素質、気質、因子とまぎらわしい用語が並びますが
私もちょっと混乱しています。

で、最近の自分を振り返って思うのですが、プチうつ
みたいなのがあんまりないのです。

緊張発作みたいなものもあんまりありません。
一昔前はこんな感じでした。
http://epimbi-madrigal.blogspot.jp/2010/07/blog-post.html

ふとしたことで発作の引き金をひいてしまい、
それに気づくとしまったと思うのですが、
もう手遅れです。どんどん発作の火の手は
広がっていきます。

気のもちようでなんとかしたのですが、
症状の受け止めかたも人それぞれ
なのではないのかなと思ったものでした。

環境変わって、知らないうちに発作のことが
意識に上らなくなり、スイッチの入れ方を忘れた
ような感じです。スイッチ自体に何枚もふとんが
かけられて地層の下のほうに潜っていって、
今は発作のことをこうして書くぐらいでは発作は
おきません。まあ、油断は大敵なのですが。
ふとんというのは何の比喩にあたるのかは
わかりませんが、ふとんのようなイメージの
なにかということにします。
眠ることで意識にリセットがかけられて
昨日の意識は一応は消えて、
今日の意識が立ち上がります。

でも、記憶の断片が残っているので
発作のイメージがくっきりしはじめると
日を超えて発作が活躍しはじめます。

発作のイメージというかそれはソフトウェア
みたいなものかもしれないし、実態は
神経回路が出来上がるのかもしれません。
わだちのようになったパターンは
意識の中に居座ってしまいます。

そういった厄介な因子はふとんかけて
ふとんの下層のほうで眠ってもらうのが
一番なのですが、どうすればそういう
風にいくのでしょう。私にもよくわかりません。

けんかすると自分の嫌な部分がでてくる

眠ってもらったほうがいい素質で思い出した雑談です。

私、いい人、わるい人というのも確かにいるかもしれない
けれど、いい顔、わるい顔みたいなのもあるかもしれない
と思っています。

人と会って、人と相互作用することで、いい顔が育ったり
わるい顔が育ったりみたいなイメージですね。

相性みたいな感じで、その人には悪い顔を向けていると
いうこともあるかもしれません。逆にいい顔向けている
場合もあるだろうし、そこでいい顔が育てば、ほかの場所
でもいい顔を向けることができるかもしれません。

その人の闇の部分を引き出す、とか闇の部分を引き出す
人みたいな話題もどこかで出たことがあります。

本当に人との出会いって何かの分岐点なのかもしれません。

人それぞれの完成形

今日の「サポートネット・ラグーナ」のプログラムは
「話し方、聞き方教室」で、長嶺さんが講師を代行で
勤めていらっしゃっていた。

アクトレス並みの名演で、感動しながら受講していた
けど、同時に私も予習復習ちゃんとしないとと思った。

で、アクトレスの演技みながら、「あーいう風には逆立ち
してもできないな」みたいな自分と比べても仕方がない
羨望みたいなものまで沸いてきたのだけど、近くで観察
してみてつくづく思うのは素質みたいなもの。

やっぱり素質を支えている遺伝的背景みたいなものは
あるのではないかと直感的に思った。人それぞれの
素質を支えている遺伝的背景みたいなもの。

自分に与えられている道具というか絵筆のような素質を
うまい具合に使いこなして、その人なりの音楽としての
言葉の表現を作り出せればいいのではないかと思った
のでした。

与えられたものは違うので、完成形も人それぞれ違う
形で持っている感じです。

で、振り返りの時間で長嶺さんから私の言葉には
「ふわっと」したところがあると言われて、
私は意外だったのですが
「ふわっと」という表現には別のところでであっている
のです。

奄美シマウタの小川学夫先生に鹿児島大学の研究会
の後の飲み会でお聞きした言葉です。

小川先生が奄美に行くとき、空港に降りたとたんに
「ふわっと」したものを感じられるのだそうです。

で、"ふわっと"とか"ほわっと"というキーワードを
奄美関係の資料の中に探すとちらほら出てきます。

これだけでは単なるコジツケなのかもしれないの
ですが、「ふわっと」した感じを支える気質というか
もっと深く遺伝的背景みたいなものを妄想したわけ
ですね。

私の家系の出である徳之島は闘牛とかもさかんな
ので「ふわっと」した感じとはまた違うのかもしれま
せんけど、島それぞれ、あるいは集落(シマ)ごとの
気質的なカラーとかあって、そこを尋ねていくと
気質に関係した遺伝子ならびに、遺伝子の組み合わせ
までいってしまうのかもしれません。

病気の素因と関係している遺伝子もきっとあるだろうし、
その組み合わせとかも人それぞれで、自分の素質の
どの絵筆をどう組み合わせて使ったとき、もっと
生きやすくなるのだろうかみたいなことも考えます。

掘り出すべき素質、眠ってもらったほうがいい素質
いろいろあると思うのですが難しくなったのでこのへんで。

2012年5月21日月曜日

非定型精神病に魅せられる

非定型精神病に魅せられる。
こういうことを書けるのも私が非定型精神病だからだろうと思う。
人知れずこの病気に魅せられている人はいることだろう。前回
書いた『祝祭性と狂気』なんか読むとそういう雰囲気が濃厚に
伝わってくる。

いわば火山研究者にとっての火山に相当するものなのだろう。
ところで、鹿児島といえば桜島だ。

桜島には研究者が張り付いている。そして災害防止のために日々
研究にいそしんでいる。ただし、個人的には災害防止のためという
だけではなく、研究対象として面白いのだと思う。

昨日、結構大きな爆発があり、鹿児島市内は灰雨だった。最近
火山噴火が活発なのだ。

でも、噴火の少ない時期が結構長く続いた。そして、そのときも
桜島に研究者は張り付いていて、火山性微動みたいなものを
記録しつづけた。

そういう意味で非定型精神病についても平穏期の記録も大事
なのではないかとも思う。平穏期とはいえ、小さな波は結構ある。

そして、水面下で何かが動いているために再発などというやっか
いなことが起こるに違いない。ちょうど、地下でマグマがたまる
ように。

ヴァージニアウルフの日記もまえちょっとだけ読んだ。この人も
非定型精神病だったらしい。文学を続ける中で病気が役に立って
いると日記中にある。文学者だったからこそ日記が刊行され、
図書館の書庫から引っ張り出して私も読めるわけだけど、
今は文学者でなくても記録を残せる。まあ、そのためには何がしか
の言葉の力もいるので、誰もが記録を残せるわけではないけれど。

記録といえば、カルテなども記録だ。むしろ症状についての記録とか
多くの患者についての記録とかはすでに数限りなく存在することだろう。
医学書などにも症例などの形で病気の記録が存在する。でも、患者と
してそれら医学書の症例読んでもつまらないと思う。小説の梗概読んで
るみたいであんまり伝わってこない。それにもっぱら、医者によって言語
化されたものだ。あくまでも外側からの記録として。

外側から眺めているだけでわかるのだろうか?そして、内側から眺めた
ものは主観的であって、意味はないのだろうか?

特に症状が激しかったときの、神秘的な体験については一生の間、忘れ
ようがないだろう。人によっては異物となって胸に突き刺さり続けるし、
神秘的な世界は誘惑し続けることだろう。そして、それは神秘的な世界
に誘うというよりは魔の世界に誘うということも人によってはあるだろう。
激しい症状がもたらす、体験としての記憶は一生の間抱え込むだろうし、
その時その時において意味合いも違ってくることだろう。そういう意味では
本当に問題が深い。

「分裂病の個体は人格比較研究の資料となりうる」

「分裂病の個体は人格比較研究の資料となりうる」

サリヴァンの『分裂病は人間的過程である』という本の8章がそういう
表題らしい。気になる人は検索してほしい。

非定型精神病は症状自体は錯乱、夢幻様状態、その他激しいもの
であるが、病後は欠陥を残さない。その代わり、再発が起こりやすい、
そういうものらしい。個人差は大きい。

でも、その個人差というのがよくわからない。というか、誰か資料
出してくれないと考える材料にならない。

で、点情報にすぎないかもしれないけれど、いろいろ書いてみる
ことにした。ひとつひとつの文章は意味ないかもしれないけれど、
たくさん蓄積することによって意味が出てくることもあるだろう。

そのへんはさく葉標本の場合とにているように思われる。
さく葉標本の場合を思い起こすと、標本を採った日時、
誰がとったか?どこで採ったか?など、標本が標本であることを
満たすための情報がラベルに書かれていないと標本として使えない。

そういう意味では厳密には夕べの睡眠時間とかただいまの気分とか
書かないといけないのかもしれない。でも、そこまでやると人為的な
要素が増えてきてしまう。

学生のとき、染色体の研究室でアーティファクトという用語を聞いた。
染色体の電子顕微鏡撮影するときに資料に出てくる人為的な要素
みたいなことだった。あんまり、研究資料のためになどと考えると
どんどん人為的要素が多くなるので、あんまり考えずに自由に書きたい
ことを書きたい。それでも、量が集まると何かを指し示し始めると
思われる。

外国からのアクセスもけっこうある。昨日はウクライナからなぜか
8件あった。まあ、日に10件くらいしか見る人がいないのだけど、
割合的には外国からのアクセスが多い。

わたし的に気になるのは外国の患者との差異だ。
文化によって症状の出方がちがうとか、
患者のパーソナリティとのかかわり
とかいろいろ問題を含んでいる。日本国内でも南西諸島の患者と
首都圏の患者の様子は違うみたいだ。そのへんのことは
『祝祭性と狂気 故郷なき郷愁のゆくえ』渡辺哲夫 という本に詳しく
出ている。そのうちこの本をどう読んだかかいてみよう。

ちなみに私の家系は南西諸島の徳之島のはずれのほうの出身だ。
現在、家族とマンションに住んでいるのだけど、部屋の中は庶民
風であって、テーブルに椅子という感じではない。ベッドには寝ている
けれども、子供のころからベッドというわけではなかった。ベッドに
対する憧れまであったくらいなので。

現在鹿児島市のわりかし中心部に近い、でもわりと下町風の地区
に住んでいる。私は下町で生まれ、下町で育った。アイデンティティ
的にも下町の人間だと思っている。鹿児島市は60万人くらいの人口
だ。南九州にある。今日はこのへんにしよう。

2012年5月19日土曜日

ごみ置き場でのドラマをどう盛り上げるか?

この文章前回からの続きなので前回の文章よまない
とのっけから意味不明かもしれない。

ごみ置き場でのドラマをどう盛り上げるか?
この文章は比喩として読んでもらいたい。

この文章読んでいる人は陽のあたる舞台の
上にいると思ってるかもしれないし、文字
通りごみ置き場と思っているかもしれない。

これは単に比較の問題に過ぎない。

「ここ」は神々の舞台ではなく、、
死すべき人間たちの舞台に違いない。
そういう意味で万人平等にごみ置き場の
上にいる役者たちだ。

そういう意味では「たかが」の世界なの
だけど、それぞれの人にとって一回
かぎりの人生はまさに「されど」の部分
に属している。

さてと。
ごみ置き場でのドラマをどう盛り上げたら
いいのだろう?

昔の人はある意味うらやましかった。
舞台の外から観客の視線をうけながら
生きていくことが可能だったからだ。

神様だったり、ご先祖さまだったり、
仏様だったり、天使だったり、妖精だったり。

そういった視線をリアルなものと感じ、
世間の目が光っていないところでも
道をはずさなかった。

今の世の中、舞台の外からの観客の
視線を感じるためには想像力をうんと
養わないといけない。

書いたり、表現したりすることは少しだけ
想像力を支えてくれる。実は虚しいこと
かもしれないけど、表現することで想像上
の観客、ないし読者をでっちあげることを
可能にする。

そんな存在は永遠に現れないかもしれない
けれど、観客を未来に求めることができるかも
しれない。「アンネの日記」はそういう意味で
当たってしまったのだけど、本人はどういう
気分であの世からそれを眺めていることだろう。
こう書けば、あの世も作り出すことができるくらい
なので、未来の読者など簡単に作り出すこと
ができるかもしれない。

本当にこの文章の佇まいがごみ置き場風に
なってきたので、見苦しいお芝居はこのへんに
しよう。

意味に満ちたつぶやきをどう育てるか?

凝縮されたイメージとか、どこからどういう風に
出てくるのだろう?

与えられた環境をその人なりに必死に生きる
とかそういうところから出てくるのだろうか?

与えられた文脈、もしくは舞台。

ある意味、空の下のどこでも、
この世界の中のどこでも舞台の上では
ありうる。

ごみにとっては、ごみ置き場が舞台
なのかもしれない。

そのごみ置き場でも、
存在感のあるごみは
まわりにその存在を主張し続けている
に違いない。

この世界から消え去るぎりぎりまで、
ものは演技し続けてやまない。

あるいはすべてのものから忘れ
去られてしまうまで。

もしかしたら、実体をうしない
いかなる意味においても非存在に
なったあとにおいても不可視の世界
において演技しつづけているのかも
しれない。

もしくは不可視の世界において、
この世界とは関係なく、
演技とはなされているものなのかもしれない。

ものがおりなすほとんどの演技は
私たちの目に触れることのない舞台で
行われている。量子サイズの世界だったり、
宇宙の果てのどこかだったり。

地球の上に存在すること(たとえ人類でなくても)
そのこと自体が、大いなるカーニバルに
参加しているようなことなのかもしれない。

実際生きて動いているということはそういう
ことなのだろうときっと思う。

実際生きて動いている、その証拠に何かを
表現している。ささやかながら、歴史の上での
一回限りのドラマをその日その日その人なり
のかたちで演じている。そういうものかもしれない。

アイデアをいつ放流するか?

アイデアをどこで放流するか?は前書いたので、
アイデアをいつ放流するか?というテーマを考えたい。

次の波が起こりそうな場所に次の波が起こる少し前の
タイミングで放り込むのが面白そうだ。

ほとんど株屋の世界みたいになってくる。

あるトレンドに刺激されて、そのトレンドと関係深い
モチーフが浮上してくる。そのモチーフを他人に先駆けて
見つけ出すのだ。

放映中の映画の主役ではなく、周辺の役に出てくる
新人とかにチェックみたいな感じで、記事中のフレーズ
とかキーワードに目をかけてやる。

言葉に関するタニマチといってもいいのかもしれない。

それが可能になるためには背景知識として、幅広い
ことをしらないといけないのかもしれない。

将来有望な新人を見つけ出すにはそれなりに
映画常識みたいな背景知識がいるかもしれない
ように。

新聞読みでも、端っこの小さい記事が好きな人が
玄人だ。端っこの小さい記事内容が新人に相当する。
新人の中でもあるものは後になって大きな記事に
発展するかもしれない。

どこかで日陰になっている新人としてのアイデアには
もっとふさわしい場所があるかもしれない。

もっとふさわしい場所を探してあげて、適切なタイミング
でデビューさせるとそのアイデアは育つのかもしれない。

あるタイトルの映画という舞台で新人が育っていくように
あるアイデアも舞台を変えながら育っていくのだろう。

そして別のアイデアと競演しながら、もしかしたら、
分かちがたく結ばれていく関係とかもできていく
こともあるだろう。

人は100年に満たない生命しかもたないけど、
その人の生み出したアイデアのかけらみたいなもの
が下手をすると永遠に近い生命を獲得するというのは
不思議なことに違いない。

そして、そのアイデアのふるさととしてこれを読んでいる人の
意識はありうる場合もあるだろう。あるいはアイデアが
乗り込んできて、ひと時のドラマを演じ、また次の
船に乗り込んでいくみたいなノアの箱舟ならぬ、
アイデアの箱舟かもしれない。

箱舟としての私の願いはたくさんのアイデアたちに
ありえない出会いを用意させてあげたい。
私から出て行ったアイデアたちに幸せな未来を
用意させてあげられるほどの力はもっていないし、
これからも持つこともなさそうだけど、
自分が報われることを望むというより、出て行った
アイデアたちの幸福を祈りたい。

もやもやをカタチにする/しない

もやもやをカタチにしない、あえてもやもやのままに
漂わせてみるというアイデアもネット上にあったので、
自分なりにこのへんのことも考えてみる。

手っ取り早い形象化はどうなのだろう?

ひとたびカタチとして組み立ててしまうと、
それに引きずられる。

書きなぐりでいい、原石のままでいいと先日は
書いてみたのだけど、書いたものに引きづられるという
側面も考えあわせると、取り出すという作業も
それなりにデリケートなものなのではないかとも思うのだ。

いっぽうもやもやのままにする危険性は、
凝結しはじめる以前の霞状のものは不安定で、
そのまますると拡散してしまうことだ。

そして、何かに書き付けておかないと、もう
そのときの気分は再構成できない。

もっとも言語化、形象化すれば再構成できる
かというのも判然としない。

記憶の中からイメージを検索する鍵みたいな
ものに過ぎない。

厳密にいえば、そのときそのときで違うイメージが
たち現れるのだろう。年齢とともに本の言葉が
違った意味をもつように。

たぶん、もやもやをあえてカタチにしないという
戦術をとるのなら、もやもやをいれている
容器のような何かを考案しないといけない
のかもしれない。

ある、テーマみたいな、もやもやの生息地としての
場所を確保し、もやもやをもやもやのまま保つ
ような。年から年中そこはもやもやしている
みたいな環境をつくりあげないといけない。
そのためのシチュエーションづくりも必要だと
思われる。これらは頭の中での作業なので、
イメージするのは難しいかもしれないけど。

2012年5月18日金曜日

形見としてのその人の作ったもの

その人の作ったもの書いたものは結局、後に残される
形見みたいなもののように思われる。

その人の言いそうな言葉の集合、あるいは頭の中に
生み出しうるイメージの集合全体みたいな莫大な
宇宙を背景にして、肉体をもったその人が存在する。

そして、そのまた一部のような感じでその人の作った
もの書いたものがあるようなイメージだ。

「スーホーの白い馬」が馬頭琴を残したように、
今の人はさまざまなコンテンツを残す。

始末に困るし、迷惑千万な話かもしれない。

P.S それでも、もし、その人しか作れない何か、
歴史上一回かぎりの何かみたいな感じがしたら
迷わず、残すべきだと思う。価値判断はあとの人
がしてくれる。残す必要のないものはどうせ誰かが
始末してくれるから, 形に取り出して記録してみる
のもいいのじゃないだろうか。

自分のいいそうな言葉の集合全体

先日からわけのわからないことばかり書き連ねてお客さんは
どん引きだと思うのだけど、また、ヘンなこと思いついたので
書いてみようと思う。

それは自分のいいそうな言葉の集合全体のことだ。
ソシュールの言語学なんか齧っていておもいついた
ことなのだけど、それに相当する術語も探せばある
のかもしれない。

自分のいいそうな言葉の集合の周辺部は誰でも
いいそうなことである。そして、少し中心部に近づいて
くると、友達や親など近くにいる人が言いそうな言葉
と重なる部分がある。そして、中核部分にその人しか
言えない言葉がある。

いわば、見えない空間の中に色合いの違った領域が
広がるような感じで自分のいいそうな言葉の集合が
広がっている。

その見えない空間は本当の意味でのあの世ということ
なのかもしれない。そして、それは人格として存在して
いるのではなく、領域として存在していることが重要だ。
私の肉体のあるなしにかかわらず、そして、私の肉体
とは無関係にその領域は広がっているにちがいない。

むしろ、私の肉体を通して、その領域の存在がかいま
見れるということなのかもしれない。それぞれの人の
背後にはその人のいいそうな言葉全体という宇宙が
広がっている。そして、その中のほんの一滴みたい
な分量がこの世界で存在することになる。

P.S この話は、ソシュールのほか、ボルヘスの
「バベルの図書館」の話もヒントになってひねり出し
ました。

2012年5月17日木曜日

アイデアのホットスポットを探す

アイデアのホットスポットを探す。
これはインターネットという森の中で
クワガタムシやカブトムシ、できれば
オオクワガタが採れる林をこっそりと
知ることだろう。

多くの人が押しかけていったら、
森は荒れるかもしれない。

というか、どうやったらそういった
森が守れるのだろう?

森は微妙な生態系のバランスの
上に成り立っている。

里山のようにある程度人が
手をかけてやらないと森が
荒れるのかもしれないし、
原生林のように、
人が知らないことで
森が守れらているのかも
しれない。

その森にとっての幸福って
一体何なのだろう。

などと書いていくと、
「ここ」がまるで、
アイデアのホットスポットの
ように本人は感じているの
かもしれないけど、
本人にはわかりようもない
のだ。

指標生物というものがある。
その環境における生物種が
その環境がどんな環境かを
あらわしているように、
それぞれのコンテンツの中には
そのコンテンツのアイデンティティ
にかかわるようなフレーズが
埋め込まれている。

植物調査員が森の中の生物種を
同定していくように、コンテンツ中の
フレーズを同定していきたい。

コンテンツ中のフレーズはどこか別の
環境から移入されたものかもしれない。
そして、そのコンテンツの中で進化を
進めるかもしれない。

絶滅危惧種のようなフレーズも多いこと
だろう。宿命としてそういうフレーズなの
かもしれないし、環境が整わないの
かもしれない。あるいは別の環境の
中に移入されることによって
爆発的な進化を遂げるかもしれない。

重要フレーズに気づくこと

あるコンテンツを眺めてみて、大事なことはコンテンツの
中にある重要モチーフとか重要フレーズに他人に先駆けて
気づくことだと思う。

そのコンテンツの中で、どのモチーフやフレーズが
固有性が強いものかとか、コンテンツ全体に対して、
重要なモチーフやフレーズがどの位占めているのか
みたいな観点だ。

そういったユニークなコンテンツを生態学の上の
ホットスポットみたいな感じで捉えるといいのかもしれない。

いわば、アイデアの多様性における重要地域みたいな
イメージだ。

地域として考えてみると、日本全体がネット上の
アイデアのホットスポットのように見えてくる。

そして、それらは日本の自然自体が、ある意味
ホットスポットであり、歴史や文化もホットスポット
であることとリンクしていると思われる。

そういった意味で、自分や自分の書いたり、
作ったりしたものを点検しなおして、
分類学者が生物種のカタログを作るみたい
な感じで、自分の中の重要なモチーフみたい
なものをリストアップするといいと思う。

方法のひとつは自分の文章中のこれは
と思われるキーワードを検索にかけてみて
上位に出てくるかどうか?そして、その
キーワードがどのくらい重要なものかを
把握することが大事だと思われる。

そして、そういう目で他人のコンテンツも
眺めるのがいいと思う。

アイデアをどこに放流するか?

アイデアを放流するというコンセプトはもうだれかが
思いついたことなので、どこに放流するかについて
代わりに考えてみる。

これもすでに誰かが思いついたことだけど、
情報生態系みたいなコンセプトとかかわってくる
と思う。ネット全体を生命と考えれば情報代謝系
かもしれない。

思いついたアイデアに名札を貼るような感じで
別のキーワードなどを結びつけて発信する。

適切につけられたら、適切な場所に届くような
感じがする。

文字列が長くなればなるほど、文字列の固有性
が増してきて、歴史上一回限りの発明であって、
その人による発明であることがわかるような
感じがする。なんとなく、検索エンジンがその
へんの先取権を守ってくれそうな気がするのだ。

もっとも先取権を守ってくれるような感じでテキスト
は出力しないといけないし、そのあたりが抜けている
テキストはちゃっかり利用させてもらうというのも
ひとつの手かもしれない。

アイデアをめぐって、周辺特許を押さえるみたいな
感じのことは大衆化、一般化されるのかもしれない。

もっともそうなれば、周辺特許を押さえるための
コンテンツが乱立して、ネット自体が不便な
存在になるに違いない。

ということはアイデアによっては公開しないことで
そのアイデアに眠ってもらうということもあるだろう。

あなたのアイデアによって、インターネットが崩壊した
とは誰も言われたくないだろう。知らず知らずのうちに
そういう布石を打っていることになるかもしれず、
自分が撒いた種はどういう実を結ぶかわからないこと
は愉しみでもあるし、恐怖でもある。

発信することは力の行使かもしれないけれど、
恐ろしいことでもあるかもしれない。

個人には影響力はないといわれていたマスメディア
中心の時代と違って、個人に権能を与えられた
分責任も重くなった。

そして、個人に与えられた責任の意味がいまだに
わからない。

もやもやをカタチにする

もやもやをカタチにするのは空中窒素の固定の
のようなものである。

”もやもやをカタチにする”という文字列はとっても
大事な文字列なのに検索すると9件しかない。
誰か育ててほしい。

もっとも、何かものを作ったり書いたりする人に
とっては常識みたいなことなので、違う表現で
どこかに誰かが書いているかもしれない。

もやもやをカタチにするまえと
もやもやをカタチにすることと
もやもやをカタチにしたあと

考えるべきはこの3つかもしれない。
もやもやをカタチにするまえに、
カタチとして析出するための土壌というか
環境を整えないといけないかもしれない。

何かを書いたり作ったりしている人は
今まで作り出したものの中に次作り出す
べきものの芽があるわけだ。何が有望か
どの方向に芽を伸ばすか。どの芽を残し
どの芽を後回しにするかを考えると
いいのかもしれない。

自分を何かの品種ととらえたときの
育種目標みたいなものだ。

自分を品種ととらえたときに、
自分はどんな要素からなるのか
点検するのもいいのかもしれない。

キーワード抽出みたいな感じですると
いいのかも。

全然そこまでいっていない人は
新聞の切り抜きみたいなことをやっている
うちに自分に内在する傾向がみえてくる
らしい。

土壌づくりについても沢山テーマがある
はずだから、それぞれの人は有望なテーマ
をみつけてほしい。健闘を祈る。

次はもやもやをカタチにすること。
とりあえず、原石のようなものでいいから
取り出すべきなのか、取り出す以上
磨き上げて、製品として成り立つものを
出力したほうがいいのか悩むところだ。

自分が報われたいと思う人は磨き上げた
上で、アイデアを盗まれないように注意
しながら、どこかで発表するということに
なるのだろう。

原石でいいという考え方は、
原石からいろんな切り口で磨くことが
できることだ。いわば素材を提供する感じ。
でも、今の時代、皆忙しいから、磨くのは
結局自分という感じもする。結果を楽して
いただきたいという人は多いけど、
原石を磨く手間を惜しまないという人は
少ないのかも。

このへんのことも、まだ考えるべきテーマ
はざくざく眠っているような感じがする。

もやもやをカタチにしたあとだけど、
ほとんどのものはそのまま埋もれてしまう
ような感じがする。どこかで掘り出して
光を当ててくれる人もいるかもしれないけど、
日本人の人口、そしてネット上の人口って
考えていくとそんなに多くないような気がする。

たとえば、本屋さんでも図書館でもいいの
だけど、たくさん人がいて、先を争う
ような感じでいろんな本売れてますか?
読まれてますか?そう考えると
光があたるのはあんまり期待しないほうが
いいと思う。

むしろ、期待されているのはそれぞれの
人が光を当てる側に回ることだと思う。
なるだけ、多くの本を読み、多くの作品に
触れ、それについて考えたり、触発して
何か作って発信するみたいな。

触発されて、何か発信された時点で、
そのコンテンツは初めて影響力を
もったことになるのではないだろうか
などと思ったりする。書くこともささやか
な行動だと思う。何か読んだりみたりして
ひらめいたことがあれば、カタチに残して
ネットに放流して、その成長を眺めて
ほしい。

2012年5月16日水曜日

何かつくらないとその日が消えてしまう。

一種の強迫観念ですね、これ。
文章でもその他何でも、何かつくらないとその日が消えて
しまいそうな感じがするのです。

別に消えたっていいじゃないですか。どうせ価値なんかないの
だから、、、などとはあんまり考えないのです。

何か書いたところで、ネット上の暗黒物質、ダークマターで
だらだらとゴミを垂れ流しているだけで、重要なテキストを
埋もれされるという役割しかはたしていない、確かにそうか
もしれません。

でも、とりあえず、自分にとって価値あればそれでいいのです。
そして、その価値を自分なりに少しずつ高めていけば。
磨き上げていくというよりは、鉱物の含有量を上げていく
感じでしょうか。

自分なりに考えたことの記録が蓄積されていきます。
普通の人の記録したものに価値があるかないか、
そして、価値があるとすればどんな価値か。

それは、記録してみて、ネットに放流してみて
初めてわかることです。このブログみて、誰かが
自分も始めてみよう。自分の記録したものにも
何か意味があるかもしれない、と思ってくれたら
幸いです。

有名人なんかじゃなく、普通の人の文章の
中にこそ、今の時代の空気って記録されると
思うのですよ。たーくさん読んでいったら、
ある意味、この時代が好きになります。

ああ、こんな人も世の中にいるんだなあ、
って、遠くのほうから、いろんな人の
日常を覗いてまわるのも
面白いのじゃないのかなあ。

P.S 普通の人の文章の中にこそ、
今の時代の空気が記録されるというのは
半分は都築響一さんの本のどこかに書いてた
ことのパクリです。「賃貸宇宙」みたいな感じで
このブログ読んでいただけたら幸いです。
個室の中を覗く感じでですね。

2012年5月15日火曜日

最近は基本的には安定してます

病気なのですが、最近は基本的に安定してます。
「サポートネットラグーナ」に通いだす前は、所属感が
なくて、袋小路に入り込みかけたような感じがして、
それなりに調子が崩れていたのですが、そのような
不安定さも最近は少ないです。

このブログ相変わらず更新しているのは、素の自分が
知りたいからです。自分の素因というか気質みたいな
ものが記録できるのではないかと思ったのです。

まあ、意識すると不自然になるし、忠実に自分そのも
のをそれこそ標本でもつくるように記録できているか
は不明です。そんなことはきっとできないと思います。

でも、ある程度まとまった量の記述があれば、それなり
に何か見えてくるような気がするのです。

どういう人がこのブログ見るかわかりませんが、たとえば
同じ病気の当事者が見られたときに、その人と共通する
部分はあるだろうかとか、それともやっぱり、この病気
人それぞれなんだなという感想もつか、アナロジーを
多用する点など、思考パターンに類似したものを感じ
られるか人それぞれでしょう。

状態が悪いときの参考にはあまり役に立たない
かもしれませんが、世の中いろんな人がいるんだな
とでも思ってくれたら幸いです。

ではまたです。

2012年5月14日月曜日

その時代および文脈における聖杯

虚構の世界と現実の世界をまたごっちゃにしているのでは
ないかみたいな感じで言われそうだけど、ちょっと思いついた
ことなので書き足してみる。

まず、後の時代から眺めてみた場合に言えるけど、その時代
時代における聖杯みたいなものってあるのではないだろうか?

トランジスタがそうであったり、活版印刷術がそうであったり、
はたまた農業や遊牧というシステムがそうだったりとか。

そのコンセプトが成立して、世の中の歯車が少し進んだ。

ローカルな場面でもそれに相当するものがあるだろうし、
もっとミクロな個人の生活史でも分岐点を象徴するもの
や出来事が存在するだろう。一冊の本とかあるいは誰か
との出会い、ときには旅行とかも。

過去を振り返りながら、未来を模索する。

とっても卑近な感じでは、人によって聖杯とは就職
だったり結婚かもしれない。そして、それらにつながる
決定打みたいな何かかもしれない。

今、頭の中に存在する何かだって、次のステージにいける
何かの手がかりではあることだろう。もっとも人生は不条理
であって、「ここ」ではない「どこか」にいけるかもしれないと
いう幻想も幸福なる誤解かもしれないけれど、それは置いて
おこう。

虚の世界で思い巡らせることは実に対する逃避とばかりは
いえない。虚の世界の何かに相当する対応物は実の世界
にあることもある。

実に比べて、虚の世界は制約が少ない。地図と現地を混同
しないことも大事だけど、地図の上で思い巡らさないと実現
しない旅行計画とかもあるし、地図の上だけで完結させるこ
とも人の勝手だ。時刻表の上で旅行するのは時刻表買う料金
があれば可能だ。

同じような感覚で私はことばをこねくり回しているのかもしれない。
それは空理空論、空中楼閣なのだけど、もとより、非常に
制約された境遇にあって、そういうものを描けること自体は
責められるものでもないだろう。

哲学者のカントは居住地のケーニヒスベルグからあんまり
動かなかったようだ。そんな哲学者と自分を比べても
意味はないかもしれないけど、世界が限られていることと、
世界を思い巡らせられることは裏と表の関係かもしれないと思っている。

自分のもろもろの境遇、その他、今の自分についてまわる
制約を逆手にとってみようと思っている。

加速世界と検索しながらの思考

「アクセルワールド」最近楽しみにしてるのだけど、その中で出てくる
加速世界のコンセプトのモチーフがわからない。

で、自分にひきつけて考えると検索しながらの思考のように見えてくる。
思いつくままに文字列を検索し、適当なテキストを探し出し、
その中で気になる文字列があれば、また検索し、、、みたいな。

テキストの背後に別のテキストが存在して、だんだんと表層から不可視の
テキスト空間内部に侵入していく。

そうして、思いついたことなどを言語化してみたりする。言語化する際に
また思いついた文字列があれば、検索にかけてみて使用例を探す。

検索しながらの思考なので、検索という手段がなかった場合の千倍
以上の速さで思考が加速していく。こういう世界に住んでいるとしたら
それを加速世界といわずにどう表現すればいいのだろう。

文字化されたものは検証をへたものではないので、妄想みたいな
ものなのかもしれない。世の中に現れた芽のようなものと、ほかの
分野の芽のようなものと掛け合わせたりしながら、自分のイメージを
作っていく。

たぶん世の中に現れた概念とかその他の道具立てを自分なりに
組み合わせたら、現在にいながら未来にいけるタイムマシンみたい
なものをつくれるのかもしれない。身体が別に未来にいけるわけ
ではないけども、手っ取り早く未来の姿を垣間見せてくれるに
違いない。

そこでふとお経のことなどを考える。お経には現代でも通用する
ありがたい教えが書かれてある。聖書のことばでもいいのだけど。
そういう練り上げられたことばというのはその時代取得できる限り
の百科事典的な知識を議論の中で煮詰めていく過程で出来上がる。

日々新しい言い回しとか概念ができていく現代もまた、壮大なる
知識の編集が結び合わされた人々の間で行われているのでは
なかろうか。

P.S 加速世界の中で聖杯を探す、みたいなモチーフを安易に思いついた。
ネットというデータベース上で戦われる聖杯争奪戦の聖杯に相当する
表象とは何だろう?そして、聖杯に関係した既知の表象とは何だろう?
さらに、自分の能力や境遇でも貢献できる聖杯争奪戦の上での役割
って何なのだろう?

fate/zeroという別のアニメの中で聖杯という表象が出てくる。そして、
古い話だけど、「複雑系を超えて」というケヴィン・ケリーの書いた本
の中でも聖杯という表象が出てくる。虚構と現実の間を越えて、人
それぞれの聖杯争奪戦がありそうだ。それをうまく思いついたら、
フラグが立ち、その人にとっての人生の勝利条件を満たすみたいな
イメージ。

2012年5月12日土曜日

磨かれざるアイデアの山

磨かれざるアイデアの山、宝の山ってそういうものだと思う。
磨かれていないから埋もれている。
ここがそうだとはいわないけども、
ネット上で探すべきはそういう場所のように思われる。

磨いていないことの面白さは、そこからいろんな方向に
カッティングしていくことが可能なことかもしれない。

情報というよりは、データに近く、データの中から情報を
取り出す面白さかもしれない。

まだネット上では使い古されていない、言い回しとか、
ものの見方などが存在して、それらは楽屋裏で出番を
まっている表現たちみたいのようだ。

送り手としては、本人が報われることはあまり期待して
いないし、むしろ本人なりの安穏な生活をある部分楽しんで
いる部分もあるけれど、この世に出てきた表現たちの
今後のことは少し気になっている。

埋蔵経ならぬ埋土種子のように永久にネットの地層の
中に埋もれてしまうかもしれないし、そもそもそれだけ
のものに過ぎないのかもしれない。

でも、それらのうちのどれかが、まったく知らない世界の
まったく知らない舞台で新たな衣装を着せられ、
華やかに活躍する機会が与えられたらそれはそれで
いいのかもしれない。

世に知られるアイデアたちも手から手へ渡され、
それを遡っていくと、単なる子供たちの遊びのたぐい
とか、まるで有名な大河の支流の支流のめだたない
泉のようなものなのではないだろうか?

ちょっとした断片とか寄り集まって最終的には
大いなるものが出来上がる。

私が変な文字列とか検索して、その使用例みたい
なものを捜索するようなやり方は私一人のもの
ではないだろう。釣り上げたアイデアはまた自分の
視点で眺めなおして、さらさらと続きを書いて,
放流する。

子供がかつて地域で育てられたように、どこかで
生まれた赤ん坊としてのアイデアも手から手に
渡されて育てられる。

2012年5月11日金曜日

自分のことを普通などと本当に思っているのか?

自分のことを普通などと思っているのは一応の
ポーズであり、本当は特別な人などと自惚れてい
るのではないだろうか?

と今日のお題にしてみたのだけど、知らない人に
ついてのそんな話題に興味をもつ人がいるのだろうか?

根拠のない万能感みたいなテーマにすると、
ニートの人にはそんな人が多いみたいだから、
少しは情報としての意味があるかもしれない。

大勢の人の中から抜きんでたいという欲望について
は、メディア視聴の過程で子供のころから繰り返し
刷り込まれたテーマだ。多かれ少なかれ
現代に生きているとくに若い人の中はそういう
傾向をもつものだと思う。

大体、欲望肯定しないと物は売れない。より良い
生活、それも自分のまわりの人と比べて、そういう
欲望は常に掻き立てられている。そして、それは
嫉妬の感情とも結びついている。

欲望というキーワードは私はよく使う。なぜこの
言葉にひっかかるかといえば、意外なことかも
しれないけれど、植物が好きだからだ。

なぜ、植物と欲望か関係するのか?
幼少のときはランの子供なりのマニアで
ラン屋さんとよくつきあい、
大人になると、希少種の保護に携わる
人の周辺にいるようになった。
ラン屋さんと呼ばずに園芸業者と呼ぶ
ようになった。

ランの盗掘のニュースが新聞に出るたびに
逆に人の欲望ってなんだろうかと思うように
なった。対象物としてのランに対する興味から、
そういうものに欲望を向ける人間のココロの
ほうに興味の比重が移ってきた。

特に病気の後だったと思うけど。

また話が遠くなってしまった。まあ、ここで
書いていることは考える作業の計算用紙
みたいなものなので、そういうことで、、、

本の中の出来事が今日の出来事

本の中の出来事が今日の出来事
そういう人はどのくらいいらっしゃるのだろうか。
今の私の日常がそうだとは言えないけれど、
そういう人の気持ちはよくわかる。

同じことの繰り返しの毎日の中で
本だけが成長の肥やしになるのだとしたら、
それを誰が責められることだろう。

本は疑似体験にしかすぎないと
人は言う。

しかし、その疑似体験にたよらざるをえない
人は少なからずいる。

その結果、言葉だけがいびつに成長する。
体験の裏付けのない言葉たち。

いびつに成長した言葉たちは
本人を振り回す。

高揚させたり、落ち込ませたり、自分を傷つけたり。
自分を癒してくれる治療のためのメスは
そのまま凶器としてのドスになる。

他人にドスとしての言葉を
振り回したことはほとんどないけれど、
それでも、言葉が変なところに突き刺さり、
相手の心を傷つけてしまったことはある。

それでも、本を通して、
自分の貧しい経験を深められると思う。
普通という状態はこれといった特徴が
ないようでもあり、そういった一見みえない
状態を調べるためにも言葉は大事な武器となる。

ところで、普通と書いたけど、本当に自分で
自分のことを普通と思っているのだろうか?
むしろ特別な人などと自惚れているのでは
ないだろうか?そのへんのことも厳しく調べて
みたい。そこのところはまた項をあらためて。



2012年5月10日木曜日

誰もが表現者という時代の空気

大いなる勘違いを偉大なる勘違いにするにはどうすれば
いいのだろう?

勘違いしていいんだと背中を押しているような時代の空気
感が確かにある。

中途半端な才能の者に対して引きとめる声は多い。
でも、食っていくということに目をつぶったとき、あまりにも
今の時代、誘惑が大きい。

環境がそろい過ぎている。どっちにしろ、目の前には
袋小路の路しか見えないときに、滅び行くキリギリスの
一匹として生きた証を置いていくというのは必ずしも
愚かな選択なのだろうか。

大量の遭難者を生み出す時代だったことは後から
明らかになることだとしても、夢を目指して生きていくこと
を教え込まれた世代なのだから、夢に果てたい。

幻想的なメディアを食べ続けさせられたのだから、
おのれの本能として、夢の国を目指してしまうのは
仕方のないことだろう。

それが実際にはどんなに苦い夢の国であったとしても、
そして、夢の国など実際には存在しないことも、
薄々知ってはいるのだ。

たぶん今の時代の苦さを味わっているからこその
幻想であり、夢の国なのだろう。

カーニバルの表現が南米の現実の裏返しのように、
日本の場合にも祝祭めいた表現の裏側に
絶望という言葉のちらつく若いひとたちの現実の
生活がある。

一見ぬくぬくした安穏な生活は
いずれ屠られる養殖されたものたちの
かりそめの今に過ぎない。

ベルトコンベアーの上で粛々と運ばれていくしかない
この社会でうまれたものたちの悪あがき。

文章書く途中で筋道が変わってしまうこと

前の文章が典型で、文章の途中で考えの筋道が変わっている。
つくづく思うのだけど、私の文章って答案ではなく、計算用紙だ
と思う。考える過程が書かれている。そして、そのときの答えと
いっても仮設的な答えであって、別の切り口から考えていったら
別の結論に至るかもしれない。

あえていえば、それでいいのだと思う。思想的に自分が完成
したと思ってはいないのだから。形成途中にあって、日々
自分の内部は変わりつつある。柔軟だといえば、柔軟だし、
軸がないといえば軸がない。

自分の軸なんて、最終的に出来上がるものだと思っている。
本当はそれでは困るのかもしれないけれど、自分の胸に手を
当ててみて、軸に相当するものがあるかといえば、なさそうなの
で仕方がない。

軸といえば、脊椎をイメージする。生命の歴史の最初から脊椎
をもったわけではないし、脊椎のない生物のほうが大部分だ。
とはいってもその生物なりの軸に相当するもの、その最小限の
表現としての内と外みたいなものはアメーバさえももっている。

そこから類推してみると、軸とはいえないまでも、いかにも私が
いいそうなこと、書きそうなことというのは何かしらあるのかも
しれない。その人のその人らしさなんて、内側からはなかなか
気づかないものだけど、その人がひとたび死んでしまったら、
二度と同じ人は現れないのだから、ひとそれぞれ、かけがえの
ない何かをもっているのだろう。だから書くのサ。

トンネル工事のこちら側とむこう側

生き物をモチーフにして、何か作品をこしらえようとしたときに、
ベクトルとしては、表現技術に土台を置いた人がトンネルを掘り進む
方向と、生き物の勉強を土台に置いた人がトンネルを掘り進む
方向があるのでしょう。

生き物の勉強を土台にといってもそんなに大仰なものではないことは
ちょっと自分の胸に手を置いてみればすぐわかることです。

あんまり専門というのを振りかざさないほうがいいのでしょう。

専門に学んだ特権といっても、せいぜい実験室で生活したことと、
フィールドに出て、実習をしたこと、一通り(居眠りも含め)その分野
の授業を受けたくらいに留まります。

その専門で職を得て、毎日の継続する生活になるような経験と
比べると100に対して、1とか2くらいの経験でしょう。

それでも、0に対する1というのもまたあって、たとえば分子生物学
の簡単な実験とか、電子顕微鏡で撮影するような現場なども、
私にとっては貴重な経験といえます。

たぶんそれぞれの専門を学ぶということは、それぞれの背景
に似たり寄ったりのそこでしか学べない経験ってきっとあって、
インターネットで専門外の様々なことが学べたとしても、
頭の隅に置いて、謙虚になることはきっと必要とされることでしょう。

まあ、もしかしたら、何かを行う折の資格制限なんてきっとない
だろうし、実際、もっともっと自由な世界に住んでいると思うもの
です。なんでもありの世界。

こちら側とむこう側の二方向だけなんていうケチな世界ではなく、
迷路状のこの世界においては、どこからでも意外なところに
抜ける通路はあるような感じがするのです。

ある意味の謙虚さを頭の片隅に置きながら、自分なりの切り口
で、ネットという迷路上で出会った様々な対象物に対して、
その人なりの視点、切り口で様々なことを考えたり、そして
それを表現して公開してみたりということは多くの人に与えられた
機会であるように思います。

めくるめく、万華鏡のような迷宮世界、といっても底はそんなに
深くないネットの世界かもしれませんが、いずれかんがえつく
限りのアイデアが検索できる時代がくるかもしれません。その
アイデアのささやかなひとつに自分が表現したものが加えら
れたらいいなあと思います。オークションに出したら、何でも
値がつくように、思いついたことでも誰かにとっては価値ある
かもしれませんから。

2012年5月9日水曜日

アメリカについてなんとなく思っていること(その2)

父は大正15年うまれ。同じ年に昭和に変わる。
父の世代はアメリカと戦った。にもかかわらず、
アメリカという国がどんな国かは知らなかったという。
よく調べると戦前とはいえ、アメリカについての情報が
手に入らなかったとはいえない。しかし、それらの
情報は市井の人にすぎない父のもとには届かない。

叔父は終戦時、徳之島の山の中に疎開していた。
アメリカ軍が島に上陸してきて、火炎放射器で
集落を焼き払い始めたのをみて、白旗かかげて
集落のほうに一人降りていったという。

勇気を振り絞って、兵隊のほうに近づいていくと
あどけない青年たちで、なぜ彼らと戦わなければ
ならなかったのかわからなかったという。
戦後、叔父は自分なりのやりかたで英語を独学し
はじめる。

姉にとってのアメリカ体験は、姉の世代にとっての
典型的な話で、「名犬ラッシー」だ。当時の多くの
人々のように、物語の中に登場する、大型冷蔵庫
とかオーブンに七面鳥、そういったアメリカの生活
に憧れたそうだ。その感覚は12才下の私には
わからない。

私の世代なら、「トムとジェリー」などのアメリカアニメ
だ。毎週の楽しみだった。アニメは戦前につくられた
ものだということはかなり後になって知った。
80年代前半は高校生で、MTVのビデオがテレビで
放映されているのをよく見ていた。洋楽は好きだった
けど、曲名を知るほどまでには情報をもつことはなか
った。これは友達くらいの距離のところに詳しい人が
いないと影響をうけることができないためだとおもう。

アメリカ人と最初に話らしい話したことがあるのは
高校生のときだ。鹿児島湾にはアメリカの軍艦が
当時たまにきていた。港でぶらぶらしてると乗せて
くれたものだった。向こうは英語で日本語はひとことも
話せない。「Hello, My name is xxxx. nice to meet you.」
話せるのはここまでだった。nice to meet youといえたか
すらはっきしない。それでも、英語をぜんぜん話せない
というのは大きな体験だった。

アメリカについては知っているようで知っていないと
よく思う。そもそもアメリカと一言でいえないくらい
複雑な国だと思うのだけど、それも肌身で感じたもの
ではなく、本の受け売りにとどまる。それなのに
知っていないのにわかったような感じになってしまって
いる。

最後に。広島に6年いたのだけど、なぜか原爆投下の
日だけは隠岐の島とか旅行することが多かった。この
日は広島市民と感覚を共有することができないような
感じがなんとなくしていた。それでも、ある夏、原爆投下
の日に平和公園にいったのだけど、アメリカを呪う言葉
を書いたビラをもった人たちの姿が印象的だった。
不思議といえば不思議だけど、日本人でアメリカを嫌って
いる人は多くない。いまだにアメリカを呪っているひとが
いるのだとそのときは不思議に思ったのだけど、
むしろそちらのほうが正常な反応かもしれない。

最近、「ライシャワーの日本史」という本を繰り返し
読んでいる。日本の歴史の全体像がわかるためには
よい本だ。それがなぜか日本人にはかけなくて、
アメリカ人が書いていることに不思議を感じる。
もうひとつ気になる本がある。「入来文書」
The Documents of Irikiという本で日本の封建制を
理解するための基本文献だという。それが鹿児島を
素材にしながら、戦前に、アメリカのエール大学教授で
あった朝河貫一によって書かれている。

戦後の日本社会に対するアメリカのイメージ戦略が
うまくいったのは蓄積された日本研究の成果なの
かもしれぬと漠然と思っている。

「日本人は12歳」、マッカーサーの吐いた忘れられない
言葉だけど、日本研究の厚さを想像したとき、戦前、戦後の
日本人がアメリカ人の手の上で踊っていたようなイメージは
ぬぐえない。

P.S 文章にすると自分の幼稚さがわかる。「日本人は12歳」
私についてはよく当てはまる。成熟できない悩みみたいなも
のを若いときから、私はよく感じる。個人的な問題だと思って
いたけれど、時代背景、社会背景まで想像してみるとかなら
ずしも個人的な問題とばかりもいえなくなってくる。

アメリカについてなんとなく思っていること(その1)

合衆国から読みにくる人も多いので、ロシアと対比しながら
なんとなく思っていることについて書いてみる。

ロシアと比べるとアメリカについては知る機会がふんだんに
あり、翻訳で読んだことのある本もたくさんある。

英語も中学から義務教育で勉強させられる。

それに、生活全般として、American way of lifeみたいな価値観
が浸透していて、今の日本人は伝統文化とアメリカ文化の
キメラのような感じさえする。

平等に期していえば、戦前の満州国の官僚たちはソ連の五ヵ年
計画という仕組みに学んでいる。こっそりとマルクス思想の本など
も読み、労働者の天国というコンセプトだけはいただいたのでは
ないだろうか。

戦後、満州帰りの人脈が戦後の日本の仕組みを作ったと何か
で読んだ。どことなく、日本という国が成功した共産主義の国
みたいに見えるのはそのあたりに原因があるのではないだろうか
と思ったりする。私が昔、短期間いた会社の理念は、
「働くものの幸せのために」だった。これもどことなく社会主義を
思わせる理念だ。

今となって振り返ってみると、東西の価値観のせめぎあいのうちに
戦後の日本人の精神構造はできているのではなかろうか。
東西といっても、東洋と西洋、西側と東側という二重の意味もある
かもしれないけれど、そういう複雑さが現在生きる私たちの胸の
うちにあるのかもしれない。

異端審問するには異端の教えについて熟知しなければならない。
そして、異端の教えのどこに魅力があるのかさえも知らないと
異端審問なんてできないのだろう。そういうわけで、戦前戦後と
ある種の異端の教えでありつづけた、マルクス思想について、
裏側から学習してきた人々や裏側から影響を受けた人々も
けっこういたりするのが、なぜ、日本はどことなく社会主義国に
似ているのかという問題についての私なりの答えのイメージだ。

私の父は電気関連の会社で労組の副委員長を長らくしていた。
父から聞いた話の中で印象深かったことは「立場が違っていて
も誠をつくして話し合えば、わかりあえる」ということだった。
逆を言えば、経営側の資料を見てしまうと、労組の側でも
そう勝手なことばかりいえなくなってしまう。労使協調みたいなのが
日本の特徴と読んだことがあるけれど、父の話もどこか関連
しているかもしれない。

アメリカについての話から遠くなってしまった。あらためてまた
いづれかの機会にでも書いてみたい。

ついでにロシアについて資料に頼らないで知ってる限りのことを書いてみる

ロシアから読みに来られる人はかなり多いので、
お礼のつもりで、私がロシアについて知っている
限りのことを書いてみようと思う。

まず、私は小学校の頃から地理がすきなので、
ロシアの地名は結構知っている。資料を用いないで
書けるだけ書いてみる。

モスクワ、サンクトペテルブルグ、ゴーリキー、
イルクーツク、クラスノヤルスク、ヤクーツク、
ベルホヤンスク、オイミヤコン、ウランウデ、
ブラゴベシチェンスク、ナホトカ、ウラジオストク、
マガダン、アルハンゲリスク、チタ、
ニコライエフスクナームーレ、ボルゴグラード
もうちょっと時間かければ出てくるかもしれない
けれどまあ、このくらい出てくる。

地理がすきだったから出てくるので、日本人の
中では例外的なほうだと思う。

ロシア語は何回も挫折した。ほんの断片的に
しかわからない。キリル文字も全部は読めない。
ちなみに、韓国語、ドイツ語、中国語、英語、
短期間だけど、フランス語とマレーシア語に
手を出したこともあるので、とくにロシアびいき
というわけではない。

ロシア人とあったことがあるのは数回で、
せいぜい、スパスィーバと言ってみただけ
にとどまる。

小学校の頃にチャイコフスキーのレコード
買ってもらって、くるみ割り人形とかメロディ
暗記しているかもしれない。音楽としては
知っているけれど、バレエのほうは通しで
みたことはない。

ロシア文学は罪と罰が家にあるけど、
はじめのほうまでしか読んでいない。
読んでいないくせに、ドフトエフスキー
には妙に関心がある。

コンテンツはみてないのに妙に関心
がある人としてはタルコフスキーが
いる。映画は惑星ソラリスみただけ
なのだけど、映画論について書かれた
本人による図書はじっくり読んでいる。
その本を通して、ロシア人の日本に
ついての関心のことを知った。

あと、私は植物が好きなので
「ヴァヴィロフの資源植物探索紀行」
という本の日本訪問の箇所はよく
読んだ。

以上のように、平均的な日本人よりは
ロシアについて知っているかもしれない
けれど、ロシア通でもないし、ロシアびいき
というわけでもない。世界について万遍なく
知りたいという気持ちのほうが強い。

鹿児島といえば、ロシアと深いつながり
がある人が何人かいる。

まず、東郷平八郎。この人の銅像がある
多賀山は私の家から歩いていける距離
にある。明治生まれの私の祖父はこの
人を尊敬していた。私は伝記は読んだこと
なく、断片的にしかこの人のことを知らない。

ゴンザ、ソウザというロシアに漂着して
日本語を教え、初の露日辞書を作った
人も鹿児島出身だそうだ。図書館で
辞書のコピーを眺めたことはある。

あと、意外なことに島津斉彬。
北方への守りはこの人から始められた
のかもしれない。鹿児島県は島嶼部が
多く、南の端の与論島まで600kmあり
これは鹿児島から北へ伸ばすと大阪
までの距離になる。知らず知らずの
うちにものの見方が広くなるのは
現代に生きる私にまで引き継がれている
のかもしれない。

バルト三国の歴史の本を図書館で読む

遠くから読みにこられる方々の視線が気になっている。
遠いところではラトビアとかウクライナとかから読みに
来られる人もいる。

そういうわけで、バルト三国のあたりが気になりはじめて、
鹿児島大学の図書館で本を探した。

関連しそうな本は4冊くらいあった。リトアニアについて
書かれた本はあったけど、残念ながらラトビアについて
書かれた本はなかった。

日本の端っこにある大学の図書館にバルト三国の本が
4冊ぐらいあるというのは多いということなのか少ないと
いうことなのか?私にはわからない。

当地ではラトビアという国名すら知らない人は多いと思う。
ラトビアの首都がリガって即答できそうな人を自分の身の
周りに一人くらいしか思いつかない。エストニアの首都が
タリンでリトアニアの首都については私も怪しくなる。

さらにはその歴史になると、本を読んでみないかぎり、想像
もつかない。本を読んでみたところで、あまりにも戦後の日本
の安楽な歴史とかけ離れていて、本当のところよくわからない。
安易にわかったといえば失礼になると思う。

ネットで検索してみて、ラトビアで日本語学習に力を入れている
人々かいることを知って本当にありがたいものだと思っている。

http://www.herbis-osaka.com/tabit/online/30/taisyo-2.html

このあたりを読んでくだされば、雰囲気が伝わると思う。

最後にラトビアで日本語学んでいる学習者の人たちに何か
メッセージ伝えたいと思います。伝わるかどうかわからない
けれど、一応書いておきます。

「遠いところで、日本語を学び続ける意欲を持ち続けることは
大変だと思います。でも、何かの縁で学び始めた言葉は
使う機会は不思議にやってくるものです。その人の能力に
応じて自分なりのペースで学び続けていただけるとありがたい
です。遠いところだからこそ、伝わりやすい部分も今の時代
だとありそうな感じもします。光の速さだと一瞬で伝わりますしね。
Liels paldies ! 」

2012年5月7日月曜日

地元民による地元文化の蔑視はやりきれない

まだ、中央の人が地元民ならびに地元文化を蔑視するのは
わかる。受け入れはしないけど。

やりきれないのは、地元民による地元文化の蔑視だ。

西欧かぶれした人が日本を蔑視するのと入れ子のような
現象が、日本の地方には存在する。

ひとつはメディアの影響で、東京発のコンテンツに接しすぎた
ので、東京から地方(田舎という表現をよく使う)へ向けられた
視線みたいなものを内面化した人がものすごく多いように思わ
れる。

地方にいながら、その人の意識の中では東京に所属している
わけだ。

だから、そういう人たちは地方で育まれた文化に対して冷淡
だ。地方で育まれたものは東京文化に淘汰されるべきだと
本気で思っているらしい。

一方で文化上の保護貿易みたいな感じで、東京からの文化の
流入を閉ざして、地方の文化を保護しようみたいな動きは長い
目でみると地方文化を停滞させるように思われる。

地理的な障壁でもって利益を得ている二流三流の人は地方には
多かろうと思う。ちょうど日本語によって守られている人がまた多い
ように。これも、世界ー日本と東京ー地方の関係で入れ子式に
なっている。

片一方に憧れ、片一方を蔑視するというのは古来から日本人に
刷り込まれた様式なので根が深い。

平等思想をもって差別する人を蔑視するという妙な様式もある。
日本語自体の中に差別思想が組み込まれているような感じもする。

区別と差別の違いも微妙というか私には本当のところわからない。

この国にいると磔にされた昔のクリスチャンの気持ちがなんとなく
わかるときがある。なぜ命を失ってまで信仰を守ろうとしたのか。

この国にあって、神のもとの平等という世界は命果てたとしても
その世界に生き、その世界に死にたいと思う多くの人の心を
捉えたのではなかろうか。

「この国」という表現もあまり好きではない、西欧かぶれした人の
よく使う表現だ。長くなったのでこのへんで。

地方に住んでいることの意味

地方に住んでいることの意味を少し意識したい。
地方は退屈だとか、情報量が少ないとか言われる。
東京帰りの人が言いそうなことだ。

確かに、もっと都会に行かないと会えない人も
多かろう。

地方では多方向にアンテナを伸ばす感覚が磨かれる
かもしれない。たとえば図書館。ひとつの分野だけだと
どうしても、もっと都会にある専門図書館みたいなところ
でないと十分な資料が集まらないのは想像できる。

地方の図書館でも、この図書館になぜこの資料がある
のだろう?って思う資料もあるにはある。そういう図書が
離れた分野にぽつぽつある。そして、そのぽつぽつを
活用するためには多分野にアンテナを伸ばしていなくて
はならない。

ブックオフ通いしてた頃もおもったけど、趣味が広いと
たまたま訪れたときにも店内くまなく見渡せば、一冊
ぐらいは買いたいと思う本が見つかる。一方趣味が
狭ければ狭いほどブックオフは無用の場所になりやすい。

同じようなアナロジーは人に対しても適用できる。
趣味が広ければ、なぜこの人はこんなところにいるの
だろう?という人の知識も活用できる。

そんな感じでわりと分散した知識が集まってくることに
なる。それを上手に編み上げることができたら、地方に
おいても快適な知的ライフを楽しむことができる。

相対的に情報ハングリーな環境もいい方向に作用する
だろう。地方性をどう克服するか?というテーマに知恵を
絞ればそれは創造性に直結するように思われる。

鹿児島という土地は歴史を通じて、辺境性に泣かされてきた。
でも時代ごとに辺境性をどう克服するかというテーマはこの
地域の一本の軸として続いてきたようにも思う。

中央から都落ちしてきたいささか環境決定論的な発想を
する人たちはそのへんが見えないと思う。

思えば鹿児島市は北の方向から落ちてきた人たちと
南の方向から上がってきたひとたちの出会う都市だと思う。
北の方向から落ちてきた人ばかりでなく、選んでこっちに
きた人や、流れてきた人たちもいる。それぞれニュアンスが
違う。フランシスコザビエルと禅の和尚、忍室が知的対話を
したらしい福昌寺の遺跡は私の母校、鹿児島玉龍高校にあ
ある。歴史をさかのぼると東西も出会っている。

鹿児島という土地は辺境なりに東西南北の座標軸をもって
いて面白い土地だと勝手に思っている。

P.S 中央からきたというだけで憎んでいるわけではない。
耳の痛いことは当たっていることも多い。ただ、気になるのは
中央との繋がりを背にして、無条件に上から目線でものを
言ってくる場合が多々あって、そういうときは血が騒ぐ。
一応、目上の立場の人も多く、その場は聞き流すことが多い
けども、記憶には長く残ることになる。結局エネルギーの元に
なっているのでむしろありがたいのかもしれないけれど。

それではなぜ私は発信するのだろうか?

それは、セカンドライフでものづくり(簡単な3DCG)をする習慣がついたこと
の延長だと思う。

あるとき、こう思ったものだ。私たちは情報の受け手としてふんだんに
メディア経験を与えられている。

私の世代(1966生まれ)だと、幼稚園のときに「仮面ライダー」(怪人が出てくる初の
特撮)、小学校低学年のときに「帰ってきたウルトラマン」(わりと初期のころの怪獣
の出てくる特撮)、同じく小学校低学年のときに「マジンガーZ(わりと初期のころの
ロボットアニメ)などを見ていた。低学年のころに見た番組は単純な勧善懲悪もの
が多かった。小学校高学年のころ「宇宙戦艦ヤマト」「未来少年コナン」など、
少し高級なアニメが出てきた。成長とともに番組のほうも高級化してその位相が
合っていたような気がする。正確にはもう少し世代の上の人に位相をあわせて
いたような気もするけれど、背伸びしながら番組みて、背伸びすればなんとか
その歳なりに番組が楽しめた。はっきりと物語のストーリーが理解できるのは
数年後に再放送でそのシリーズを見たときだったと思う。

そんな感じで育ってきて、セカンドライフという道具が与えられたときに、
自分の中には十分なコンテンツのイメージが蓄えられていると思ったのだった。

消費者としてコンテンツを楽しむことと、作り手に回ることは違うことはわかっている。
それにしてもいつまでも消費者側にとどまることはもったいないことだし、本当に
自分の求めるものは自分で作り出すしかないことも、作っているうちに意識され
はじめたことだった。

消費による自己実現というのも確かにあるにはあると思う。それを否定しない。
選択するのも自分のセンスだし、選択されたものの組み合わせで、自分の格好
を表現したり、自分の部屋を構成するのはありだと思う。それで満足できる間なら。

自分でつくるとなると完成度としては提供されるものにかなわない。そこが
ひとつの溝だと思うのだけど、たとえ素朴なものしかつくれないとしても
自分で作ったものはよりよく自分というものを表現してくれると思う。

そういった意識がだんだんと文章づくりにも私の場合、浸透してきたような
感じなのだ。

テレビなどをみていたり、プロによる「プロアマ論」を読んだりすると、我々一般消費者
は「いつまでも、消費者でいてくださいね。そしていつまでも私たちを支え続けてください。
決してこっち側には廻ってこないでね。」と諭されているような気がしてならない。

実際、それは悪意なんかじゃなくて、善意に基づいたことであるのは少しずつわかって
いくことなのだけど。一種の南北問題かもしれないし、全世界の人民が幸福を目指し、
牛肉を食べることを求めて、北の人たちはそれに対して苦い顔をしているのと並行的
な話かもしれない。

高エントロピーな社会というか、情報や資源をもたない人が多かったために、情報や
資源をもっている人は成り立っていて、みんなが持つようになったら、全体が幸福に
なるのではなく、誰ももしかしたら幸福でなくなってしまうかもしれないというのは皮肉だ。

ここに書いた文章も廃熱みたいなものかもしれない。でも、プロと呼ばれる人がプロと
呼ばれ続けたいのなら、「ここ」が裾野に過ぎないくらいの高度な表現を目指すべきだし、
層が厚くなることは決して悪いことではないと思う。私もまた受け手として支えたい作品
も出てくるだろうし、今の時代だからこそ受け手が現れる作品もまたあると思うから。

グローバルな視点で考えられるってありがたいことだと思う。

そんなに多くはないかもしれないけれど、海外からも見てくれる
人がいるのはありがたいことだと思う。

私の普段の生活圏はせいぜい10kmくらいに収まっている。
お金もないので、数年前に隣の県の熊本を一度訪れた
きりで、何年も県外にでたことはない。

生活のほとんどは鹿児島市内中心部で収まっている。

東京に滞在したのは30代のころに、埼玉の姉のところに最長
2ヶ月間くらい。姉の子供の家庭教師を頼まれたことがあっての
ことだ。

大阪にも姉がいて、ちょくちょく滞在する。京都府立植物園、
国立民族博物館、JT生命誌研究館などのリピーターだ。

広島には大学、大学院時代6年間いた。帰省の折には福岡の
親戚のところに一泊するのが慣わしだった。

北海道には3回いったことがある。利尻島、大雪山、羅臼岳などを
訪れた。

沖縄、那覇市にも親戚がいて何度か訪れている。西表島と石垣島を
訪れたことがある。祖先の地、徳之島も数回訪れている。特に幼稚園
時代家族そろって20日間帰郷したことがあり、原風景みたいなイメージ
として記憶にのこっている。

仙台、名古屋は訪れたことがない。四国にも渡ったことがない。

外国は台湾、中華人民共和国(上海から入って、カシュガルへ)、パキスタン、
インド一泊、ネパール一泊、タイを訪れている。そうそう韓国も。

生活史における、私の滞在したり、訪れたりしたことのある全範囲だ。

大事なこと忘れてた。2009/06/17から仮想世界セカンドライフを
はじめた。リアルライフでは市内中心部に生活は収まっているけれど、
仮想世界で県外の人とも日常的にチャットする。異文化摩擦に疲れて、
中学英語使ってチャットは可能なのだけど、外国の人と最近チャットして
いない。

ずいぶん長くなったけど、以上が話のまえおきだ。

世界ー日本(東京) 東京ー地方(鹿児島) みたいな入れ子的な
構造があって、放っておくと、どうしても発想が県内(もしかしたら、
鹿児島市内)で収まりやすい。ものすごく狭い世界に生きていて、
その狭さの影響を受ける。

東京に住んでいる人だったら、東京という都市は各地から集まって
くるので、発想がいろいろな地方までアンテナ伸ばすことも可能
なのではないかと思ったりする。

鹿児島市内ならどうか?鹿児島県内の各地なのである。南西諸島
あり、枕崎、川内、、、県外ならお隣の宮崎市とか。でも、基礎知識が
不足しているので鹿児島県内の各地について想像がわかない。

これは自動車持っているかどうかにもよってくると思う。私は自動車
もっていないので、鹿児島県内の各地にドライブすることもなく、
鹿児島県内の各地の情報が少ない。植物が好きなので、県内各地の
山に登ったことも最小限はあるのだけど、リウマチになったりして、
そういう体に負担がかかることもできなくなった。

そんな世界に生きている私としては、海外からこのページ、誰かがみて
くれる状況はありがたい。そのため、私なりの海外体験、異文化体験を
土台にしながら、広い文脈で自分の世界を眺めてみようと最近は思っている。

あくまで、私、個人の世界であって、私、個人の世界を一般に拡大することは
できない。でも、統計とかアンケートでは見えない世界もあって、それは
各個人の事例を集積することで、だんだん広い世界のことも検討ついていく
ものだと思う。

個人情報垂れ流すことは私にとっては不利益多いかもしれないし、
人から見たら、なんと愚かなことをしているのだろうと思うに違いない。

それでも、中央の著名人ばかり、出版したり、メディアに出てくるなかで、
市井に住んでいる普通の人の生活の細部や、その生活の文脈の中で
考えていることを遠い世界の人に伝えていくということは意味あると思う。

それではなぜ、市井に住んでいる人は発信しないのだろうかと思うかも
しれない。それは言葉をもっていないのかもしれない。誰でも言葉はもって
いるのかもしれないけれど、発信するにはそれなりに言葉の力を必要とする。

言葉の力をもつ人もたくさんいる。学校教育は受けてきたのだから。それはそう
だけど、情報を受信することには慣れていても、発信することには慣れていない。

情報を含めて、消費者になるような教育は受けていても、発信者になるための
教育はあまり受けてこなかったのかもしれない。日本に住んでいると何かと
受身になりやすい。

2012年5月5日土曜日

そんなに上手くならなくていいや

最近そんなこと考えている。
何かを上手に表現したいというより、その時の
自分がそのまま、飾り気なく出せればいいと
思っている。

へたくそだというのならそれで結構。

アイデンティティのこととも絡んでくるのだけど、
へたくそな表現すなわち自分、稚拙な表現すな
わち自分だと思う。

上手になって、ほかの人のものと似通ってくる
くらいなら、下手なままのほうがいい。

下手なりに、繰り返しているうちに自分なりの味
みたいなものも出来上がっていくだろう。

伝わらないのなら伝わらないでいい。それに
私が読み手なら、見抜いてみたいとも思う。

ダイアモンドの原石というにはおこがましいけども、
磨かない原石には原石のよさというものもきっと
あるだろう。

読んでもらうという意識はそれでも必要だと
思うので、それなりに心は込めたい。

P.S そんなこと考えていると玉石混交の
中の石ころとして捨てられるかもしれないけども、
私のがそうだとは言わないけども、
身をやつしている表現たちも、
埋もれている中にはきっとあるのだろうと
思う。

報われないことで報われている

前の文章読んで即座に思ったことは
私は報われないことで報われていることだ。

幸せになってしまえば、作れなくなるようなもの
って私の場合きっと多いと思う。

そして、その幸せって今以上の幸せかどうか
わからない。欲がないというよりも、単に勇気
がないだけなのかもしれないけれど、ともかく、
書きたいことが書け、作りたいものが作れる
状態って、そうでない人からすれば幸せな
ことに違いない。小さな幸せに過ぎないに
しろ、その気持ちは大事にしたい。

まあ、私にできることできないこともある。
まず、いくらでもアイデアが沸くということは
ほとんどない。出てくるときは出てくるけど
出てこないときは出てこない。そして、出てきた
ものの品質もよくわからない。

作品として成り立っているかどうかは大いに
不明だけど、何かの記録にはなっていると
思う。素人による記録だから、プロによって
書かれた記録とは違うと思うけど、本人の
言葉や表現によって作られている。

そう、記録に徹することはいいことなのかも
しれない。少なくとも私自身にとっては日々
の記録になっている。私と同じ匂いがする
人も世の中にはきっといることだろう。

そういう限りなく少ないひとに読んでもらう
ために書かれている。該当者はいるのか
いないのかわからない。独り言に限りなく
近いけども、どこかには届くかもしれない
と思いながら打ち込んでいる。そんな
ブログもどこかにあっていいだろう。

そう考えていくと、報われるという表現も
気分が舞い上がったときに遠くに現れる
蜃気楼であろうということがだんだん自覚
されてくる。

夢という言葉に踊らされ、夢という言葉で
人生を間違ってしまう人は多い。そして、
年を経るにしたがって夢が萎んでいくのを
受け止めなくてはならない。

その一方で消えない夢もある。公開する機会は
与えられている。ほろ苦い味もする一方で
魅力的な時代に生きているとつくづく思う。

作っていけばいくほど

作っていけばいくほど自分の世界って何かできあがっていく
のではないだろうか。

その自分の世界って何なのかよくわからないけれど、文章
でも画でも、つくっているうちに積み上げられた作られたもの
がその世界をあらわしていくのではないだろうか。

私の場合内省的だ。普通の人の心の内にあるものなんて
他の人にとって意味あるものかどうかわからないけれど、
ともかくそれを言葉にできるということ自体に意味がある
ように思う。

誰だって日ごろいろんなことが頭をよぎり、そして消えていく。
そういった浮かんでくる断片を捕まえ、記録していく。

内側から出てくるものではあるが、それらは外の世界を反映
したもののように思う。

自分のアンテナに引っかかり、内部に取り込まれ、いったん
忘れられ、他の要素と絡み合いながら浮上してくる何かの
かけら。夢に似ている。

外からの刺激が貧しい分、心の底のほうに探索の網を
広げる。写真の中に入り込むような感じで画面の中を
覗き込む。ときたま、スケッチしたり、抽象化して取り込んだり
悪あがきをやってみる。与えられた環境での悪あがき。

金持ちが天の国に入るのは針の穴にらくだを通すほど
難しいという聖書の言葉をなぜか思い出す。

環境に恵まれている人はそれに寄りかかるだろう。
環境に恵まれてないからこそのハングリーさってきっと
あるに違いない。

まあ、私は私でニートできるくらい環境に恵まれている
のだから、不平はいうまい。

だから、私のいうハングリーって甘いハングリーで
ハングリーという言葉を使うにはもっとふさわしい人も
いることだろう。

そういった感じの世界が私の世界だ。何も伝わらなかった
かもしれないけど、伝わらなかったなりに何か感じるものも
あったかもしれない。

要するに、よく読み、よく考え、そして考えた結果を何かの
カタチに落とす、そういうことしかできなかったために
そういうことをしている。

人はそれは単に知識にすぎない、体験の裏打ちがないと
いう。でも、そうは生きられなかった人々も今の若い世代
では大勢いる。そしてそうは生きられなかったにしろ、
よりよく生きるための方法をその人なりに模索すること
は必ずしも無意味とはいえないと信じている。

そのことだけは誰かにわかってもらいたいと願っている。

2012年5月4日金曜日

想像できたことと、想像できなかったこと

想像できたことと、想像できなかったことと
書いたとき、私は数学や理論物理に対する
憧れのことを思う。

わかりもしないのに、それらの専門書をめくり、
序言読んだり、日本語で書いている読めるところ
を読むことはわりと日常だ。

肝心の数式のイメージができないから、単なる
ファンに留まるけれど、案外それはそれで
結構なことかもしれない。

読めたら読めたで結構なことだろう。でも、
いつしかその世界に慣れてしまう。

組織培養の研究室で培養細胞の凍結保存を
やっていた頃のことを思い出す。

文字に直すとSFチックなものだけど、現場で
暮らすと地味なものだ。

世の中、外からは華やかそうに見える世界も
中に入ってしまえば慣れてしまうものだと思う。

逆に慣れないで新鮮な気持ちが続くとすれば
感覚的にやってられない。いつまでも新鮮な
気持ちを保つように心がけることの大事さは
知った上で、慣れてしまうという脳の自然も
脳を守る上で大事な機能だと思う。

私たちは今、コンピュータ社会のまっただなか
にいる。でも、一方でSFチックな「未来社会」
や「21世紀」は失った。冷静に考えればSF
チックなのだけどもはや日常世界であり、
変化すること自体が日常なので空想する
楽しみという点からすれば過去のほうが
夢があったのかもしれない。

時間や空間を越えて、外部からいまここの
我々を想像のうちに眺めてみると十分SF
チックだと思う。外部から眺めてみたときに
量子力学の世界やゼータ惑星に住んでいる
住民のように我々は見えるのかもしれない。

P.S 文明は峠を越え、中世の人間がローマ
世界に憧れるような時代はいつの日か来る
と思われる。修道士たちが文明の灯をともし
続けたように、文明の終わった世の中でも
文明の残り火はあちこちにともし続けられる
に違いない。

想像力のなせるわざ

何回も書いているように現在ニートだし、職場経験といえる
ものもそんなに長くない。だから、社会経験は比較的貧しいと
いえる。

それなのに、なぜもっともらしいことが書けるのだろう。
まあ、一般的なことばかりなので、読書すれば書けるような
ことしか書いていないとも思うのだけど、それにしても
なぜ書けるのだろう?

それは、社会経験の貧しさを自覚しているから、それを
購うために必死に読んでいるからだ。必死にというのは
おこがましいにしろ、それしかないのだから、私なりに
必死に読んでいる。

その上で必死に想像している。何しろ想像力だけが
自由なのだから、経験を制度によって与えられていない
のだから、自力で想像するしかない。

人は知識ではなく体験が大事だとか、体験に裏打ち
されない知識は無意味だとか言う。それももっともだ
と思う。

だけど、体験は平等には与えられない。ある時代の
ある地域のある親の元で適当に調整された遺伝子
のもとにオギャーと生まれる。その時点ですでに
ハンデがある。

でも、それは人生というある種のゲームに貴重な
リアリティというものを与えている要素なので、
恵みと考えよう。恵みというには重過ぎる人生も
そりゃあるだろうけれど、たぶん恵みと受け取るに
越したことはない、まあ、それができる人に限りは
するけれど。

重過ぎる人生と簡単に書いたけど、その言葉の
意味は私にはわからないと思う。どれだけ、言葉
を尽くしても体験してみないとわからないことは
確かにある、それは私の体験からもわかっている。

その上で、自分の貧しい経験を元手にしながら、
本を読んだり、その他の擬似的な体験をすること
で、自分の人生というのはいくらでも深められる
と私は信じている。どんなに体験を誇ってみた
ところで、世の中のすべての体験からすれば
ほんのスズメの涙みたいなものじゃないか。

それに、体験しなかったことは裏返しの体験に
違いない。ある種、ヨーロッパを本を通してで
しか体験できなかった人々に、インドや中国を
そうであった人々に憧憬や羨望を感じない
だろうか?カネさえ払えば簡単に外国にいける
我々はどんな意味においても彼らより幸せか?
想像の中の憧れの存在として生涯の間持ち続ける
ことのできた彼らにも彼らの幸福はあったのでは
なかろうか?

そこまで考えてみると不公平感も少しだけ、
たぶんほんの少しに過ぎないとはいえ、
減っていく。人生は体験できたことと体験
できなかったことから成り立っている。
そして、想像できたことと想像できなかった
こととでも。ほとんど屁理屈述べているに
すぎないとしても、裏返して考えてみるのも
頭の体操にはなるのかもしれない。

自分の慢心に油を注ぐ人ではなく打ち砕く人こそありがたい。でも

忠告はありがたい。
基本、自分の慢心に油を注ぐ人ではなく、打ち砕く人を求めないと
いけないと思う。

気分障害の傾きがあり、どうしても舞い上がりやすい。

ただ問題は、それはもう少し先のことであって、
自分のことを認めてくれる人もそんなには多くなくて、
自分に自信をもてない。

自信に値するものを持っているのかと聞かれると
困るのだけど、自分を諦めきれないものがあって、
何かキラリと光るかけらみたいなものは自分の内にある
ような気がする。

まあ、あくまでもそれはかけらに過ぎないと身の程を
しることも必要ではあるけれど。

もやもやしたものを内に秘めている間は万能感というか
ナルシズムに浸りこむこともできようけども、
カタチとして外に取り出し、世間に晒してみると
それが幻想にすぎないことが嫌でも身にしみる。

でも、一方で妙に評価されたり、スポットライトが当たったり
しないことにも効用がある。負け惜しみかもしれないけれど、
世間的評価という社会的証拠が与えられることで
自分を見失ってしまう人は多かろう。

弱い人間なので、そういうものに私は脆弱だと思う。
だから、静かに世の中の片隅で淡々と自分が好きな
ものを作ったり書いたりすることができる今みたいな
環境は案外幸せなのかもしれない。

そういう風に思いながらネットの片隅で淡々と
何かを綴っているひともそれはそれで多かろう。

自分と似た匂いのする人を検索しながら探していくのは
私の楽しみである。

霊的物欲

私もシャーマニズムにたいする淡い憧れもあったりして、
スピリチュアル臭いところがあったりするけれど、
基本、スピリチュアル系の人ではないような感じがする。

それ系の本も家にはあまり置いていない。ただし、心理学関連
の本は結構買っているのでセラピー文化圏の周辺部ぐらいには
属しているかもしれない。

かとってスピリチュアルな人々に対して特に偏見をもっている
わけではない。ただ、スピリチュアル用語はあまりつかわないで
自分の言葉を使う努力をすればいいのになあと思う。

これは心理学系の人や宗教系の人にも言えることだ。

それはそれとして、「霊的物欲」という言葉がどこかにあって
気になる言葉だったので検索してみた。

この用語みただけで、何を意味しているかはだいたいわかると
思う。私にも苦しい言葉だ。

ピュアでありたい。ピュアだと言われたいという欲望はかなり強い。
まあ、それを自覚しているだけましだと思うかもしれないけど、
自覚していると思っているところでまた業を深めているかもしれない。

そういうのから、自由でありたい。子供のように天然自然でありたい
と願うけど、意識するたびに自然から遠のいていく。

汚れも含めて、人間は救われているんだ、って教えが真言宗か何か
の本にそういえば書いていたっけなあ。昔、読みやすそうな本のどこ
かに書いていた記憶だけど。

多少の汚れがないとこの世智辛い世の中では生きていけない。
生きていくことはすなわち泥にまみれていきていくこと。

それでも、それぞれの人の中には汚れとともにすくなからず、
よりよく生きたいと思う心があるのだと思う。

霊的物欲という言葉もそのような時代の中に生まれてきた
ものだと思う。ただ、悲しいかな私たちは物欲の時代に長く
生きすぎたので、精神性みたいなものにもそういう方向から
しかアプローチできないのだと思う。精神性なんて言葉に
一番警戒しないといけないのに。

悪魔は聖書の言葉を使いながら近づいてくると言われている。
社会や教会の中にさえ、そういう悪魔はいるかもしれないが、
何より自分の心の中に住んでいる。欲は試しで、実は裏がえ
された教師かもしれないけれど、一生の間、そういうものと
対峙しつづけないといけないのだろう。

2012年5月1日火曜日

普通の人の文章 一般人の文章

普通の人の文章と書かれているときには愛があって、
一般人の文章と書かれているときには愛がない。

その愛って何なのだろう?

普通の人の文章という表現に上から見下ろした感覚はない。

同じ目線か、すくなくとも同じ目線に立とうとしたのかのどちらかを感じる。

見下ろされ、見下ろす社会の哀しいところを見て取るのだけど
どうだろう。

私は日本の社会が嫌いではない。
家族的なよさみたいなのを感じる。だけどこれには裏があって、
日本の家族には長幼の序があるのだ。

これが、組織一般の関係に拡大される。

私のように力のないものにとっては庇護の下に
入れるという安楽なところがあるし、
上に立つということは
それだけ責任も重いということでもあり、
重いものを背負わないといけないという
ことでもある。

重いもの、荷物みたいなもの
というものは力を頼ってくる
力のないものたちのことである。

もちつもたれつの関係で
嫌なところも多いけど、
日本の社会は
なんだかんだいって暮らしやすい。

もちつもたれつの関係で
弱いものなりに
役立てる機会は
あって、弱いものの力を
上手に利用しながら
賢いリーダーたちは
組織を運営していく。

たぶん、小さなものたちに支えられている
という自覚が賢いリーダーたちには
備わっているのだろう。
同じ目線に立とうとする人たちは
そういう自覚を忘れない人たちだ。

できれば、見下ろす人ではなく、
そういう人たちに上に上がっていってもらうと
さらに暮らしやすい社会が出来上がっていくのだろう
なあと思う。

残念ながら上に上がりたいという人は
見下す快感に浸りたいという欲望の
強い人が多く、またそういう欲望こそが
その人を強くさせているのかもしれないけれど。

それぞれの国における地方在住者に思いをめぐらして

少数ではあるかもしれないけれど、海外からも読んでくれる人がいらっしゃ
るのはありがたいと思う。

だから、いつもグローバルな視点を頭の隅に置きながら文章書いている。
すぐ忘れて、国内向きになってしまうのはよくない話だけど。

中央と地方の関係はどの国にもあるだろう。そして、それぞれの国なりの
問題もあり、それらは私たち日本人には想像することすら難しそうだ。

その上でそれぞれの国の地方に住んでいる人々のことにも思いをめぐらしたい。

想像するに、地方に住むという視点においては日本は恵まれている部分も
あるだろう。国名地名においては世界の隅々のことまで知っているし、
googlemapなどを使えば、イギリスの田舎のお城やフランスのブルターニュ
地方、台湾の地方都市台東の町並みもみることのできるご時勢だ。

でも、そこでどんな生活が営まれているか知る由もないし、そこに住んでいる
人がどんなこと考えているかはさらに知る由もない。

私は語学をいろいろがじっていて、辞書を引き引きすればなんとか翻訳できそう
な言語もあるので海外の皆さんが私の文章覗き見しているのを真似して、自分も
海外の普通の人々の文章をのぞいてみるのもぜひやってみたい。そして
そこで思ったことなどをここで書いてみたら、また楽しいかもしれない。

日本ではせっかく学んだ知識を生かさないで死蔵させている人が多い。私なんか
その典型かもしれない。

私は自分の書いている文章がどんな意味をもつかよくわからない。逆に、海外の
普通の人の文章を読む身になれば、そのへんのことの潜在的意味についても
わかるようになりそうだ。

読む身になれば、自分の文章のあらも見えてくるだろうし、そうなれば、
もうちょっと読み手を意識した読みやすい文章を書くことになりそうだ。

まあ、一度、海外の文章読んでみよう、できれば英語圏以外の国の
普通の人の文章を。

地方における自分なりの視点の育て方

地方ってマニアックな店が都内より少ない。そのためface to faceで育まれる
独自の視点ってなかなか育ちにくいのかもしれない。

逆も真なりで、比較的孤立しているから、他の影響を受けず、独自の視点を
確立できる可能性もあるけれど、今日の話は関係あるかどうかわからない。

いくつかの図書館といくつかのまあまあの書店があったりする情報環境の
中で、利用すべきは図書だ。

ただ、その本の読み方も漫然と読むだけでは単なるお勉強になってしまう。
だから、読書の中で自分はどこに引っかかるのか意識しないといけない。

その本のどこの章のどこの表現なのか?そして、なぜその言葉にひっかかるのか?
そういうことを手がかりにしながら、自分の視点、自分の読みを育てていく。

たぶん多くの人が同じ章でひっかかり、おなじ表現にひっかかると思うのだけど、
それでも、ちょっとした違いはあるかもしれない。

前読んだ本の記憶の断片と響きあいながら、自分なりの読みがなされている
かもしれない。まあ、ここまでは本が好きな人なら気づいていることだと思うの
だけど。一般原則は本好きなら知っているような話だ。

各論はそれぞれの人が読んだ本の履歴は違うので恐ろしく違ってくる。
恐ろしくというのは大げさな話で、ある組み合わせの範囲内に収まってくる
かもしれない。同時代下で気になっているキーワードは似たり寄ったりだ。
むしろ地方のほうが特殊性をもてるのかもしれない。

ただ、グローバルな視点をもつと面白そうだ。個性がないといわれている
地方も裏を返せば中央の文化を利用できるからこそそうなっているわけで、
恩恵といえば恩恵だ。隔離されたより後進的な状態と比較するならましだと
いえる。一時的には地方文化が淘汰されたりして、不利益を蒙る人も多い
と思うけど、長い目をみるといいこともあるのだろう。まあ、進歩をよしとする
人からみるとだけども。

単純に古くから残っている地方独自のものも淘汰されるばかりでなく、
新しいものと混じりあいながら、あるいは新しい目で見直されて、
新たな生命を獲得できるといいと思う。単純に東京文化のコピーに
堕してしまわないで、地方文化なりの強さみたいなものを持ちたい。

考えてみればこういうことは現代の日本文化全体にいえることだ。
西欧化、もしくはアメリカ化の文脈でいえば、日本と世界(西欧、
アメリカばかりに限らない)の関係の入れ子みたいな感じで
地方と東京の関係は成り立ち、さらに、地方都市と周辺部も
入れ子の関係になっている。ただし、序列化されるのは嫌い
なので、事実としての入れ子関係は受け入れた上で序列化には
抗っている。

話が遠くなったし、消化不良でわかりにくい文章になってしまった。
ただ、21世紀初頭の日本の地方都市に住んでいて、いろいろ考える
ことも多いことが伝わればいいなあと思う。ネットに発信していて、
しかも読むに足る文章書いている人は中央の人が多く、地方から
の発信ってそう多くないので、地方からの視点が伝わればいいなあ
と思う。