はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2016年12月6日火曜日

大将の話

前回の肉屋の大将の話。

私が辞めたいと言ったとき、「人を作りたいんだ」と大将はおっしゃった。
大学生を集めて大将と呼ばせているのは小山の大将みたいにそのとき
は見えた。

個性の強い方だったので、今でも顔もどんな服装をしていたかまで思い出がわく。
娘さんがいらっしゃって、その娘さんから「星のお兄さん」と呼ばれていた。

フラムスチードの星図のコピーやら、鹿児島県文化センターのプラネタリウムの
昔のパンフレットのバッグナンバーかなり集めていたのだけど、全部あげてしま
ったような気がする。でも、思い違いかもしれない。

娘さんがパンフレットを捨てなくて、どこかキチンとしたところに寄贈したら、
結構な資料になっていたようなモノだったかもしれないが、どうなっているのか
わからない。まあ、いい。

今考えてみると大将は確かに人を育てていたと思う。
そこの肉屋で働いていた先輩方は個性があり、魅力的な人が多かった。
就職率もよかったと聞いている。タイトーなどコンピュータ関連のところが
就職先だったらしい。

大将から習ったこと。

かごぬけ詐欺、というのが世の中に存在するらしいことを学んだ。
今、検索してそれはどんなものか初めて知った。

大将から「将来どんな人間になりたい?」と聞かれて、大学一年の私は
意味もわからず、「遊び人になりたい」と答えると、大笑いしていた。

大将の奥さんも存在感のある方だった。あるとき、
ほかの人は大体何考えているかわかるが、あなただけは腹の底で何を
考えているのやらわからないと言われた。

いつも愛想笑いして、言葉を飲み込むタイプだったから。先輩方は
言いたいことが、言葉や表情に出てきて、すぐわかるらしかった。

私は学校教育時代にいじめを受けていたので、「柳に風、ぬかにくぎ」
みたいな感じで、表面はヘラヘラしていて面従腹背的なところが多かった。

大将は原爆で被災している。
すごく印象的な話をきいたのだが、取り出せない。
やっぱり記憶が残っているうちに書き残すべきは書き残すことだと思う。

ほかにもいろいろあるのだが書けないような話ばかりだ。

P・S 辞めたいという表情は最後まで出さず、辞めると言い出したら聞かなかった。
その後も何度か出会う海千山千のタイプであるが、平手打ちされても、
結局、引き下がらず、辞めることができた。
先輩からは「辞めることはできない」と何度も何度も言われたがそれにも耳を
貸さなかった。

大学一年生の時期に海千山千のタイプの人と遭遇し、対決というよりも、
胸を借りられたのが一番の教育的効果だったろう。


2016年12月5日月曜日

50歳+1日

50歳になって一日ほど過ぎた。
どんな気持ちなのだろうか?

18、19の頃、辞めようとしていた肉屋のバイト先の大将(そう呼ばせていた)から4年間なんてあっという間だぞ、と言われた。ピンとこなかった。

引き留めようとする、肉屋で働いている大学の先輩の方々も、「ここでは大学では学べないことが学べる」とおっしゃっていた。これもピンとこなかった。

さすがに18、19の頃ほどは幼くないはずだけれども、肉屋で働いていたらどんな実践的な知恵が身についていたのか、結局わからずじまいだった。

そして半端ものの大人になった。

4年間なんてあっという間だぞ、という言葉は結局忘れなかったからここに書けている。ほかの年長者からも似たような感想は折にふれてもらった。そこから類推するにあっという間に50歳なんてやってくる、とはアタマではわかっていた。

一瞬のように通り過ぎていく。

大将の言葉のおかげで、『人生の短さについて』は目にとまり、ときどき図書館の書架から取り出して読むようになった。セネカに影響されたモンテスキューの翻訳ものも読むようになった。

土日、鹿児島県立図書館に行き、ルクレティウスの『事物の本質について』(最近の訳では『物の本質について』とある)を書庫から取り出し、6ページくらいコピーした。

モンテスキューのマネゴトでもしながら、年をとっていくのだろうか…

P・S モンテスキューではない、モンティーニュだ。『エセー』だ。これだから困る。みっともないことこの上ないが、痕跡として残しておこう。所詮、ネットで知り、ネットで訂正できた程度の知識の浅さである。でも、私のようなものでも読むというのは世相をあらわしてはいよう。2016.12.05

2016年11月13日日曜日

私の横顔(照会用)

清水哲男先生の写真展に昨日、画塾の帰りに寄って、
しばらく雑談しました。

で、写真撮ってもらいました。

照会用にリンクしておきます。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1766849243567906&set=a.1381959315390236.1073741828.100007285420439&type=3&theater

2016年11月6日日曜日

「街を攻撃しちゃいけないよ」

夕べの夢を基にしたフィクション

固有名詞がでてきたりするといけないな
と思うこととあらかた忘れてしまって
いるので、少し、嘘で補っています。


夢の終わりのほう
・・・・・・いじめっ子A、いじめっ子Bとその支持者との戦い。

Aの頭をぐるぐるぐると回し、ぼいっと外に投げた。でもその位ではAはくたばらないだろう。
部屋に帰ってみると部屋は燃え尽きていた。Bの仕業であった。

Bは有力な歌手でもあるらしい。その人はBのリスナーで私のほうを攻撃してきた。
私は手をがりっと噛みちぎり、建物からその人を落としてしまった。

私は空を飛べた。地上に何人か街の政治家か有力者の一人か並んで立っていた。
その一人はBの支持者でその人が弾をなげてくる。
びゅっと延びる手でその人の首をひっかけ、ぷいーと遠くのほうに投げた。

「街を攻撃しちゃいけないよ。イワイくんはいわゆるパチャカンで…」
と天からK社長からのやさしい声が聞こえてきた。

とともに地上からはミサイルがびゅんびゅん飛んできはじめた。了

起きてみて…
パチャカンとはパソコンのやりすぎなどによるアタマの病気のことなのだろう。
私としてはそんなことはないのだが…

起きてみて、昔、受けたいじめそっくりだと思った。いじめといっても、心理の先生によると今の相場だとからかいくらいにしか相当しないそうである。

少数の人間のからかいから始まり、応酬しているうちに、ほかの人を間違って攻撃したりして、争いが拡大して、いつしか集団対私みたいになってしまうような。

私は集団で狩られる何かであって、私を狩りの対象とすることで、集団のまとまりを確かめていく媒介とされてしまうような…

そういえば、昨日受講していたホーソーンの『緋文字』のレクチャーではアメリカ東海岸、セイレムでの魔女狩りの話が導入だったっけ。まあ、それはいいけど。

大人になってもいじめられる夢は時々見る。ときにはいじめっ子との和解みたいな夢も見るけど、明け方の夢ではそうでもなかった。

P・S 1985年、大学にてサトウ先生という方の文化人類学の講義を受講した。その中でパチャママという神か何かの名前が出てきた。それが出てきたのかもしれないが、その解釈はこじつけかもしれない。

2016年11月5日土曜日

姉に答えた「話し方のコツ」

ゆうべ帰郷中の姉から「MBC学園の話し方教室に昔通っていたみたいだけど、
話し方のコツって何かあるの?」と言われた。

大体こんな内容のことを答えた。それにいろいろ付け加えて書いてみた。

まず、大前提として言葉の力は一朝一夕には身につかないこと。
裏から言えば、言葉の力がつくとちょっとした財産になるかもしれないこと。
ただし、罠も多いような気もするけれど。

「話し上手より聞き上手」とはよく言うものだけど、それに関連して
多くのヒトにとって最も関心のある話題は「自分のコト」である。
だから会話の場の役者になるよりも、舞台や照明になって、
相手を会話の場の役者に立てて、いい具合に照明を当てたりして、
その日は「いい一日だった」と相手が思えたら、
たぶんそのエピソードは長いこと相手の記憶に残るだろう、ということ。

ヒトから聞いた話はだいたい忘れるのがニンゲンであるが、
ヒトに話した話はなかなか忘れずに覚えている。
むしろ、そうやりながらヒトはものごとを覚えていく。

シ・タ・シ・キ・ナ・カ・ニ
仕事・旅・趣味・季節・仲間・ニュース

とか「き・ど・に・た・て・か・け・し・衣・食・住」

など、定番の雑談の項目はあって、
そういう話題を芋づる式に引き出す習慣をつくると
だんだん引出しの多い人間になっていく、と「話し方教室」
で学んだ。

ただし、ワイドショー的好奇心で相手がしゃべりたくないような
ことを根ほり葉ほり聞いて、相手の心の中に土足で踏み込む
ような不作法はしないように。地雷を踏むかもしれないし。

いつも会う身の回りの人との雑談の時間を大事に
すること。座学で学ぶのもいいけど、日常の態度みたいなもの
がむしろ利いてくる。身の回りの人だからこそ、十分な時間を
割いてくれるので、まずそういう人を大事にすること。

みたいなことである。
抜けはたくさんあるかもしれないけれど、
すぐ出てくることを書いてみた。

最後に、「話し方教室」の最初に習うことって何かあるの?
と姉が言ったのでこう答えた、MBCのアナウンサーの小澤達雄先生の
教室での最初におっしゃられたこと。

「話しとは言葉を絵筆にして、相手の心に絵を描いていくようなこと」

釣りの話を例にされた。漠然とした釣りの話ではなく、具体的に適度
なディテール感をもって描くこと。相手が釣りが好きであったら、
釣りの話を入口にして、釣りの道具の話に持っていくような感じで。

見ればわかるとおり、なかなかうまくいかないものだけど。

P・S 横山欣司先生から習ったことも、いろいろ書いてある。
口癖は「言葉は一生もの」だった。

P・S2 「罠」というのは昔、オーナーさんが存命なころ、「のんきな喫茶店」に
元スチュワーデスだった奥様から言われたこと。

私が話し方教室に通っていると言うと奥様が「でも、言葉を磨きすぎないでくださいね」
とおっしゃられた。いろいろ解釈はあると思う。

ちょっとした目標

ネット上にあちこち書き散らしている。
Epimbi名義でほかのブログのコメント欄に書きつけられた
ものの中には偽物らしきものが出てくるまでになっている。

で、一つの意見として、散乱していて読みにくいので
まとめてほしい、みたいなものがあった。

というわけで、ゆっくりとしたペースでまとめていきたいと
思っている。

ラグーナ出版でマスコミ、大学等、インタビュー受けたり
する機会もあるので、音声録音等、文字おこしの誤差が
発生する事故も避けたい。

空手形になるかもしれないが、気長に待っていてほしい。

2016年10月26日水曜日

友愛フェスティバルの発表全文


以下は昨日の友愛フェスティバルの発表全文です。
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 題 寝耳に水 岩井雄次(エピンビ)

私は一九六六年生まれの丙午世代です。いわゆるバブル世代と世間では言われます。

 父は大正一五年(昭和元年)生まれ、母も昭和一桁です。私は四人兄弟の末っ子。長女とは十二歳違います。

 一九七〇年前後の話だと思いますが、実家から百mほど離れた祖父母のやっていたたばこ屋のすぐ近くに海岸線と地元では呼ばれる貨物引込線が鹿児島駅と中央市場とを結んでいました。かなり遅くの時期まで蒸気機関車が海岸線では走っていました。貨物列車の色と形に興味を持ち、祖母に手を引かれて、鹿児島駅や海岸線に並んでいる貨物列車を見に行っていたりしていました。

 私の子供の頃の家はマーケットと呼ばれる個人商店の集まった市場の一角にありました。

戦災復興時にできた木造の繁華街で中には洋裁店、散髪屋さん、ふとんやさん、魚屋さん、缶詰ものの店、樽造りの味噌が売っている店、精肉店、米屋さん、和菓子が売っている店、めんどうみのいいガキ大将のすんでいた衣料品やさん。そんな感じでした。地域で子育てする環境だったのです。

 興味は移り、春や秋の植木市に入り浸るようになりました。蘭の花が目当てでした。えびね蘭ブームというものがあり、丹精込めて育てられた色とりどりのえびね蘭が品評会を飾っていました。そういうのを眺めてそだちました。

 念願叶って大学では植物学を学び、両親は苦労しながらも学費を工面してくれました。私は充実して学生生活を送り、無事大学も終え、就職した、と家族はイメージしたと思います。そんな折りでした。
 家族の視点に立つと何の前触れもなく就職先の奈良から鹿児島の上町に住む家族のもとに私が精神病になってしまったという知らせが届いたそうです。寝耳に水のような感じだったということです。

 大学は県外に出て、さらに馴染みのない奈良県に転出した早々でのできごとでした。姉の話では私に面会するとほっとしていた表情をしていたという話でした。

 父の話では「自分がどんなことになってもいいから、どうか雄次を元の姿に戻してください」と天に祈ったそうです。

 急性精神病の最中にあった私も病院のベッドで記憶がもうろうとする中で父と姉が目の前にいたことは唐突でした。もう病気の世界にいたので、「ここは死後の世界で、父と姉もがんで死んでしまったんだ」と思ったのでした。

 主治医の判断で一週間位で退院しました。姉の話によると退院の日、私は病院のホワイトボードに自分の名前を大きく書き、「さようなら」といって帰ったそうです。病院の中でも友達をつくっていたようだったといいます。私のほうは記憶がぼんやりして断片的にしか思い出せないのです。

 大阪を経て鹿児島に帰り、大量の薬を飲む生活が続きました。よだれが止まらず、ものが噛めなくなりました。母はそれを見て、カボチャやキュウリをミキサーですりつぶして、どろどろにしたスープをつくってくれました。あとはうどんをつくってくれて、私はそれをまるのみにしていました。

 こんなかたちでの帰郷は、父にとってショックだったと思いますが、「鹿児島に戻ってきてくれたから、いっぱい話すことができてうれしい。戻ってこなかったらこんなに話し合う機会はなかっただろう」と言ってくれました。月日は経ち、父も死んでしまいました。  父が元いた戦前の台湾での暮らしなど父の話は沢山聞きましたが、ついに私の病気のことは立ち入って語らずじまいでした。

 ラジオに出演して私の病気の体験を話し、会社でCDに焼いてくれました。母に聞かせるのは勇気が必要でしたが、姉が帰郷中だったので姉に一緒にいてもらい、母姉兄私の四人で聞きました。私から見た病気の体験を中心とした家族には語られることのなかった私の歴史でした。「雄次のことを何にもしらなくてごめんね」と姉は泣いておりました。

 ラグーナ出版で9月、「統合失調症をほどく」という本が刊行されました。沢山のヒントを頂いた精神科医である中井久夫先生の文章を患者と医療者が共同で読み解いていくというスタイルの本です。その中で私も長文の体験談を載せてもらいました。この本が刷り上がったころに中井先生が会社を訪れてくださいました。私も先生と話す機会があったのですが、相変わらず人生、模索中であったので、「僕は今、どういうところに着地しようかと考えているところです。」と申しますと、先生は「地面を選んで、着地なさると、自然に着地するところが分かるでしょう。」とお答えになりました。私の人生の着地点を探しながらゆっくり地道に生きていこうと思います。御清聴ありがとうございました。

P・S 録音のテーブで中井先生の言葉を聞きながら書き起こしたのですが
「地面を選んで、着地なさると、自然に着地するところが分かるでしょう。」と発表では言いましたが、録音の音声は「着地なさるか」というふうに聞こえました。でも、それでは意味が通りにくくなるので、発表では「着地なさると」と言いました。読まれる方に補足しておきます。

2016年10月25日火曜日

友愛フェステバルで体験発表。


体験発表してきました。原稿用紙五枚分、時間は5分ぐらい。

舞台に立つのはrlでは高校時代の合唱部以来です。もちろん、合唱部のときはテノールの一人としてです。

もともと、そういう風には育てられてこなかったのです。
「うちのクラスの一番後ろ」って感じでしたから。

だから、こういうときの免疫がほとんどありません。うまくいかなくて、衆人環境で泣き崩れるのではないか、などとみっともない予測までして、覚悟だけはしていました。

蓋を開けてみるとうまくいきました。
経験積めました。

が、私、個人としては、若い人たちがやっぱり活躍してほしいと思うし、露払いくらいの役が私にはふさわしいと思っています。

一人で舞台で発表するのと、6人くらいで順番に発表していくのとでは、6人くらいのほうが、不思議なことに心理的負担が低いです。無理なことは無理なので、少しずつ経験を積んでもらい、後ろ向きでなく、積極的にものを見られるような目を養ってもらうのがいいのではないかと思いました。

ほかの発表者の人の原稿をちらりと拝見したのですが、息継ぎのポイントを赤点つけたり、強調のポイントを黄色で塗っている人もいて、それぞれ裏で工夫されているようでした。

ほかにも、(マネをすると困る人もいるかもしれないので書きませんが)、その人らしい独特のやり方で発表のリハーサルをしていらっしゃった方もいました。

やっぱり、準備したことが素直に出てくるのが発表なのかもしれないと思いました。

P.S 発表の始まる前、どこの事業所の誰の作品かはうっかり見落としてしまったのですが、額縁に入れられた絵を購入しました。売価1500円。 点描画です。 学生の頃に点描は植物のスケッチで経験していて、どれほどの手間がかかっているのかわかりましたので購入しました。

発表の後、ドライフラワーの細工物をもらいました。どこかに飾ろうと思います。

2016年10月14日金曜日

空に浮かんでいる空港



長い夢の終わりのほう。
その空港は空に浮かんでいた。
特別に操縦桿を握らせてもらったが、
みごとにオーバーラーンしてしまった。

ほかに乗客がいたのか乗客は私ひとりだったのか
わからないが、豪華な旅客機みたいだった。

女性乗務員がどれか特典を選んでください
といって5つくらいの特典の書かれたカードを
プレートに乗せて持ってきた。

「5回に1回しか外れないくじ」を選んだ。

どこからか小声で「けち」と聞こえてきた。

引いたのは「アルミニウム ドロップ」だった。

「何かが良ければ、何かが悪い」と私はつぶやいた。

女性乗務員が笑う。

ぐちぐちまとめて食べる。「ああ、まずい」

気がつけば、次のフライトの5分前になってしまっていた。

「遅れ判断能力」というルールがございまして、
と男性乗務員が申し訳なさそうに言った。
ものすごいペナルティが発生するようだ。

「「遅れ判断能力」
という概念を教えてもらったのが
一番のプレゼントだったと思います。
モノは壊れれば終わりですが、
概念は何度でも使えますから」
と私は言った。

「最後にカクテルでも飲んでいきませんか?」
と男性乗務員が言った。

「人生遅れてますね」と私が言うと
「そんなことないですよ」と女性乗務員が言ってくれた。

ーーーーーここまで
2日くらい前の明け方にメモをつけた。

長い夢の終わりのほう。いつも長い夢だと終わりのほうしか覚えられない。

で、印象的な夢だった場合は記録をつけるときもある。
大体メモ書きはそのうちどこかに消えてしまう。

下のメモが書いたメモの写し。すなわち原物のテクスト。
記憶に従って、脈絡をつけて書き直してみた。

あくまでも、禁欲的に。


空に浮かんでいる空港
オーバーらーん
一つ選べる
5回に1回しか外れない
くじ
けち
アルミニウム ドロップ
何かが良ければ、何かが悪いと
女性乗務員が笑う
ぐちぐち食べる
次のフライトの5分前
遅れ判断能力
というルールがございまして
遅れ判断能力
という概念をおしえてもらったのが
一番のプレゼント
だったと思います。
それはものはこわれれば終わり
ですが
概念は何度でも使えますから
最後にカクテルでも
飲んでいきませんか?

人生おくれていますね。
そんなことないですよ。


2016年9月12日月曜日

『統合失調症をほどく』について エピンビより

『統合失調症をほどく』が今日発売になりました。

私の体験もまとまった量、載っております。
よろしくお願いします。

あと、私自身に興味をもつような奇特な方がいらっしゃるかどうかわかりませんが、
いろいろ、仮想世界で撮影してもらった動画がありますので、お時間のあられる方
はご覧ください。

[イベント] Second Life - どくしょ会2013
https://www.youtube.com/watch?v=S3qoyMyenMQ#t=11

SL24 2012 どくしょ会

https://www.youtube.com/watch?v=FGAuccn241c

今週の話題「Epimbiの世界」
https://www.youtube.com/watch?v=ZchFfnt7kI8
SL24 2011 ジタクカフェ

https://www.youtube.com/watch?v=4wim-Q1Prw4&feature=results_main&playnext=1&list=PLED1AE8AA3DDCD0E2

撮影はVWBCさん、小山匠さんです。お世話になりました。

ノンフィクションライターの
最相葉月さんがラグーナ出版を取材されたときの記録があります。


第3回 昇り竜となって天を呑み込む日(前編)

精神障害者が働く鹿児島の小さな会社、ラグーナ出版の挑戦
http://www.webchikuma.jp/articles/-/167
第4回 昇り竜となって天を呑み込む日(後編)
精神障害者が働く鹿児島の小さな会社、ラグーナ出版の挑戦
http://www.webchikuma.jp/articles/-/168

大日本住友製薬さんから取材を受けたときの記録は以下です。

VOL.58 「H先生の優しい嘘、ずっと覚えていますよ」https://ds-pharma.jp/gakujutsu/contents/consonance/case_k/vol58.html

むさくるしいオジサンですよ。


「P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)」

とブログの上の説明書きに書いておりますがみにくいのでこちらにも載せます。

ネット上にブログとかfacebookなどで書き散らした雑文もそうですが、塵も積もれば山となる感じであれこれたまってしまいました。自分でもとても読み切れません。いつか整理したいです。

P.S  以下は静止画です。イラレで作ったものもあります。
https://www.facebook.com/epimbi.madrigal/photos?pnref=lhc

その中の
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1127952637237218&set=pb.100000674764281.-2207520000.1473738253.&type=3&theater

はお世話になっていたCafe tegetege という仮想世界の中のCafeで撮ったものです。私の制作物ではありません。



2016年9月4日日曜日

ここしばらくのまとめ

まずは抜粋から。

ギリシャ語の習得
「私の見解では、ギリシャ語文法の基礎的知識はただ実地によってのみ、すなわち古典散文を注意して読むこと、そのうちから範例を暗記することによってのみ、わがものとすることができるのである。私はこの最も簡単な方法によったために、古代ギリシャ語をまるで現行語のようにおぼえた。こうして実際に私はそれをまったくりゅうちょうに書き、またどのような題目についてもやすやすと話し、またいつまでもこの言葉を忘れることはない。私はそれが文法書に記入してあるか、否かは知らないにしても、どのような文法の規則も知っている。そしてだれかが私のギリシャ語の文章の誤りを発見するとしても、私はいつでもその表現方法が正確である証拠を、私が使った言い回しの出所を、古典作家から人に暗誦してみせることによって、しめすことができると思う」
 このように、言語学者ではないが多くの言語を魔法のようにわがものとしたシュリーマンの方法も、原文→模範例文の抽出と暗記→ターゲット言語で書く、話す練習というまったく同じ3段階方式であることがわかる。
 斉藤が生涯の全著作をこの方式を一貫して変えなかったことにもっと注意を払うべきだと思う。

『英語天才 斎藤秀三郎-英語教育再生のために、今あらためて業績を辿る』 竹下和男より

なんとなく、応用範囲が広いというか、「言葉の達人」的な人は多く実践しているやり方なのではないかと思った。もちろん、その中に私なぞは入りはしないが。

語学だけでなく、日本語も。
『素足の心理療法』なかで臨床家は花から花を訪れ蜜を集める蜜蜂に似ている、というふうなくだりがある。花はなぜか患者である。患者の苦悩に満ちた灰色の話も、ある意味、自然の状況の中でのアラベスク模様と言えないこともないみたいだ。なぜなら、そこにはそこの環境に適応したその人なりの世界があるからである。空を行く雲、野の花と同じように患者の後姿にも自然を感じるというようなことが『素足の心理療法』の中に出てくる。

臨床家は患者の言葉だけでなく、本の中の言葉にも目を光らせている。踏みならされた道のないパイオニアほどそういうものかもしれない。

先人が苦労して得た言葉は世の中に撒かれ、あるいは伝習され、その下の代では話し言葉になる。でも、先人のクローンではつまらないと先人自身が思っている。

「検証」という言葉は辛い。いかに尊敬する先人であっても、現実のデータと照合し、合わないときには現実を優先して、理論なり思想なり、モデルなりを書き換えないといけない。そして、書き換えるだけの力が自分たちに備わっているというのはおこがましい。精一杯のところで、先人の遺されたものを歪みをなるだけ入れないで、そっくりそのまま、その魂の部分をさらにその下にバトンを渡すことができることの精一杯であることは多い。バトンの受け手は見つからず、本だけが残されて忘れられる場合もあれば、せっかくバトンを渡してもらえる位置にたまたま自分がいても、とてもではないけれども、自分には受け取るだけの技量がないことを悟るかもしれない。

最後に。ゲーテの継承者の一人が、シュタイナーである事実。これはどう解釈したものか。
シュタイナーはシュタイナーで一応は尊敬している。何より生き方、死に方が誠実である。

ともかくも、言葉は一人歩きしてしまう。これも、歴史の自然であり、言葉の自然なのだろうか。

P・S シュタイナーの晩年の個人面談について書かれた文章を見つけた。別の本ではこの面談により体を壊し亡くなってしまったそうである。そういう死に方に憧れるとともに、そういう死に方は地獄だとも思う。でも、そういう逸話が事実として残ったとすると、シュタイナーの人格の誠実性は信頼おけると思うようになる。以下の文章の下から二段目三段目に面談のことが書いてある。

シュタイナーの顔
そしてカフカとのすれ違い
http://higusumi.world.coocan.jp/japanisch/steiner/kao.html



2016年6月21日火曜日

夕べの夢 かまくらみたいな穴倉

空間にかまくらみたいな穴倉をつくり、入り口を狭くしてのぞき穴にして、世界の中を片目できょろきょろしている。獲物を見つけるためだ。

獲物が近づく。入り口は巨大になり獲物を飲み込み、世界と切り離す。

空間の裏側で獲物は体を梱包され、ばたばたしている。魚がばたばたするみたいに。

ここで目が覚める。

エンドサイトーシスという言葉を思い出す。

エンドサイトーシス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9

同時に子供のころ、当時残っていた水路付近で釣りをしていたのを思い出す。
魚のばたばたは子供にとっては快感である。同時に魚にとっては断末魔みたいなものであるが。

ただこれだけの話である。

2016年5月10日火曜日

自由度について

特に根拠はないけど、自由度は大きいと思う。
最近の生活について。

一方、体も心のある面もガタがきている部分もあるような気がする。
脆弱な基盤の上に毎日をのらりくらりとあまり考えることなく、楽しんでいるような気がする。

文章力は錆びついている。
考える力を落としたような気がする。

考える素材はいろいろ溜め込んだのかもしれないが、
消化不良のまま、不良在庫になっている気がする。

やっぱり自由度といっても根拠があやふやだった。
残念なことだ。

私自身が考える素材になっている。
残念なことだ。

2016年5月8日日曜日

内省の例文が多数出来上がったとはいうものの

最近では内省とか自己実験みたいな手段で研究される方もいらっしゃるようですね。私もそういう欲望はあるにはあるのです。ただ、やり方を知らない。
やり方を知らないにしても、素材を提供するくらいのことはできると思うのです。

過去の自分は時間が経つと自分ではあっても、現在の自分からは遠くなります。過去を眺めることによってある程度は客観的に自分を把握することができます。

一方で私はある程度の観察者です。記録したり公表したりとかはプライバシーなのでしませんが、メモくらいはときにしますが、親しい身近な人でも結構突き放して眺めるときがあります。テレビはあまり見ませんが、人間観察のために見ることもあります。youtubeとかは繰り返し観察できるいい媒体だと思います。文字による記録の観察をするときもあります。

といっても、単に眺めているだけです。詳細な分析とか分析に基づいた記録とかはしません。また例によってその方法も知りません。

なんのために?

アサガオの観察から始まって、小学校から高校にかけて、小規模ではありますが、子供レベルのランの栽培をしました。刻々と植物の姿は移り変わっていきます。

青年期の多感な時期にアジア周遊しました。肌でもって1980年代後半のアジアを体験しました。短いのであれば、デリー一泊とかカトマンドゥ一泊とかそんなのもありますが、街の中に実際に行ってみて、その全体的な感じを受け止めるというのも何かいいことがあるかもしれません。

話はずれ気味ですが、経験値を得たいという気持ちがあります。経験値という観念がどうも頭の中に刷り込まれているようです。そして、経験値を得たうえで何らかのものを外部に出力したいという欲望があります。どうせ脳はいつかは消滅します。記録も儚いものですが、残して発信すれば、どこか必要な人に届くかもしれません。そんな人がいるかどうかはかなり疑わしいですが、ともかくそういう儚い希望でもないと記録なんてできません。別に自分の存在を半永久化したいという大それた希望をもっているわけでもありません。しばらく後の自分が読み返せるというそれだけで今のところ十分です。だから必ずしも、私のことをよく知らない人に向けてわかりやすいように書かれているというところはうまくできていないかもしれません。読まれる方がいたらごめんなさい。

要するに独り言みたいなものかもしれませんね。

ただ、問題は内面が表現されている部分もあるかもしれないと思うことです。ショールームみたいな内面であって、しかも田舎のショールームであって見せ方もあまりうまくないと思います。でもその分いろいろよくみれば結構リアリティのあることも垣間見れると思います。少なくともこう見せたいという意図のもとというよりは今思いついたままにあまり無検閲に出しているような感じです。

内省という作業によって内面が発見される、あるいは構築されるという側面はあると思います。個人的にこれはひと財産だと思います。日本語の中に富があるとするとそういう富が本来なのではないかと思います。ある種の懐かしさを漂わせた富。でも、見えないにも関わらず、ひとたび失われたら復元するのもむずかしく、復元したと思ってもイミテーションにしかなりえないような富。そういう富のあり方もあるのではないかと思います。貧乏人の富ではあってでもですね。自分で書いたもののあまり説得力はないようですね。読まれた方も納得されないと思います。

あるいは今の人のある部分の欲望はそういう方面に向かいつつあるのではと読む人もいると思います。選択して購入するという方法では表現できない宝飾品としての心の富。書いたそばから書きますが、借り物競争みたいなもので、たぶんまだ血肉化されていないもの、消化されていないものを並べ立てているにすぎないという疑いを自分自身に対して持っています。

最近の私は消化できもしないものを消化できない速さで読みすぎています。胃にもたれるような感じで頭が締め付けられているような感覚があります。かといって記憶に自信がないために読んだものを取り出せず、どこかに痕跡はあるにせよ、自分のものにならないのです。

遠い誰かに対するとりとめのないメッセージみたいな感じにして書きました。たぶん、あなたのことを私が知る機会はないと思います。返信とかコメントとか別にいらないです。そういう関係がいいのでしょう。何か考える素材にでもなれば幸いです。何を考える素材かは自分でもよくわからないのですが。今日もお元気で。

2016年4月9日土曜日

無防備に情報を晒してきたけど、この先

無防備に情報を晒してきたけど、この先どうなるのだろう?という不安が若干ある。
いままで、比較的、ひっそりとした環境だったため、安心して情報発信を続けられていた。
裏を返せば、情報発信の怖さについて無感覚だった。
言葉を選ぶという知恵もあまりわかず、よくもわるくもオープンだった。
これも性善説に立っての発想である。

でも、現実の世界はというと性悪説の世界に近いと思う。
心無い人は、不特定多数であれば一定の割合でいるものだと思わねばならない。

かといって疑心暗鬼になっているかといえば、むしろ腹を括らなければならないという
感じが強い。どういう悲劇的な展開が待っていたとしても、その一歩は自分の意思で
したものだ。自分の蒔いた種は自分で刈り取らなくてはならない。それが責任という
ものだと思う。自分についてはの話である。個人の苦しみですめばいいのだろうけど、
世の中何がどう転ぶかわからない。

せめて、謙虚にしていて、高慢にならないように、高慢に見えないように注意したい。

2016年2月20日土曜日

たとえ精神病の履歴があっても

たとえ精神病の履歴があったとしても、人生は十分楽しめるという事実をうまく表現したい。そういう風に見えるように見せるのではなく、自然な日常の記録の中からそういった感じが読み取れるような感じにしたい。

同じ病気を抱えたすべての人がそうなのかはわからない。どちらかというと、行動圏は狭いので、限られた範囲の中でのことしかわからない。それでも、自分なりの人生を楽しんでいるように見える人は結構いる。中には能動的に私などよりも活動的に動き回り、社会的に貢献されている方もいる。

身の丈というのがあるので、私はそういう感じというよりは、別の道をとるような気がする。淡々と日々の歩みをつむぎたい。

充実した人生というのは何を指すのかわからない。自分なりの楽しみが見つけられたら、それは幸せと呼んでもいいのではないか。小さな花でいい。

キュウリグサ、キランソウ、ニワゼキショウ、そこらへんにある小さな花でもよくみれば面白い花も多い。

よく見れば面白い、というふうなスケール感覚って意外といいんじゃないか。
よく見れば、でいいじゃないか。

2016年1月16日土曜日

統合失調症と膠原病

統合失調症と膠原病を併発させているケースはネット上であるかどうか見てみた。
数は少ないがちらほら見られ、「物忘れがひどい」とか「考えることができない」
とかいった今、私が抱えている問題が挙げられていた。

能力障害が今後進んでいくかもしれないことは実にさびしいことではあるが、
では、何が残るのか?というのも気になる。

幸い、過去にとった杵柄というか、ある程度、自分について記述ができるので、
まだできること、どうできないかについて、そして、その時々での希望の見つけ方
など、いろいろできる限り工夫してみよう。そういう意欲がまだあるということは
今のうちにやっていると意味あることもあるのではないかと思うのだ。

一方的に喪っていくに任せるのはまあ、それはそれで東洋的であるがまま
という感じもしないでもないが、せっかく生まれてきたのだから、
まだ猶予されている時間とかを精一杯悪あがきしながら使い切りたい
ものである。ま、無理は禁物ではあるが。

今の自分のいる地点だと「夢も希望もない」にも「まだ希望があるよ」にも
両方見えてしまう。

今いる地点の「地理的配置」「気象条件」みたいなものを記述して、
自分なりの「見えない地誌」でも書きつけてみたいと思う。

不備の多い、記載には違いないだろうが、あとに「ここ」を通った人は
もっと賢いだろうから、言葉にされたものなど見て、どこがポイントなのか、
その人その人で勝手に見てくださるだろう。

今は苦楽の絶妙なバランスの上にいるとしておこう。
時間は無常だから、どんどん移り変わっていくのだろうけど、
砂の上にでも文字を書くようにして、
自分の浜辺の貝殻でも拾いつつ、
大いなる自然に思いをはせよう。

自然観というほどのものは自分にはないかもしれないが
降りかかってくるものどもと向き合いながら
あれこれその日、その日思いつくものでも書き散らしていこう。

あまり内容のあることは書けなかったし、書けているレベルも
たいしたことないのであるが、それが今の自分の精一杯の
ところなのだろう。

その日、できることを選び、形にしながら、日々過ごしていこう。

2016年1月1日金曜日

あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。
画像サイズが大きくなってしまい、個々には遅れませんでした。
ごめんなさい。ことしもよろしくお願いします。

サルメンエビネをモチーフにして、あと、漢字文化を生かそうと工夫しました。

サルメンエビネ
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