はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2013年6月30日日曜日

何をリスペクトすべきなのだろう

アイデアの先手権といったときにどういう単位で
それは発生するのだろう?

単なるフレーズでも発生するのだろうか?そんな
バカな。では画期的な概念だったらどうだろう。
表面上は単なるネーミングにすぎないけど、その
記号の背景にある概念が画期的ならば。

無数の名もなき人々が共同作業で言葉を探したり
その言葉の意味を探したりする作業をするとき、
その結果だけを底引き網で掬い取るようにして、
エライ人々が持ち去っていくのなら、それを後世
の人々はどう書くのだろう?

バレないのだろうか?ネット全体がアーカイブ
されたとして、剽窃を効率よく摘発していくソフト
が開発されてしまったとすると、それこそ底引き
網で捕まるようにして剽窃は摘発されていくだろう。

もちろんその中には記憶の中の出典を失念して
しまったという過失による剽窃もあるだろう。

他人のフレーズを素材として、コラージュするよう
にして編み上げていく文章ならアリなのだろうか。
よく私にもわからない。画像ならどうか?他人の
考えたモチーフを引用なのか盗用なのかよく
わからないけど、部品として使った場合は?

情報生態系の上位階層にいる者たちが下位に
ある者たちが生産したものを利用する。丁度
食べ物として利用するように。そういう風な感じ
にネット世界は仕上がっていくのだろうか。

私も素材として使わせてもらったものもあるから
エラそうなことは言えない。でも、悪質な剽窃は
やりたくないと思っているのだけど、そもそも
何をもって悪質な剽窃という概念に相当するの
か理解していない。要するに被害者の気持ちに
なりなさいということなのだろうけど。

2013年6月29日土曜日

「才能は存在するか?」という素朴な問いについての私なりの考え

才能という言葉は物事を神秘化させてしまうのでキライだ。
「才能は存在するか?」と言葉で書いて考えることによって
言葉でしか考えられないニンゲンのもどかしさを感じてしまう。

とはいえやはり言葉で考えるしか私にはないのだけど、
「人間が身体を使って行うすべてのことに遺伝子は噛んでいる」
と言い換えられるかもしれない。

これは遺伝子決定論というよりも、遺伝子とそれ以外の因子の
複雑な絡み合いをイメージしたものだ。

機械的だけど、「ぱぱぱぱぱ」と発音してみたとき、運動神経
の素質みたいなものも絡み合ってくると思う。

もちろん練習すれば、話は変わってくるけど、練習したときの
上達カーブの上がり方みたいなものに今度は別の方面から
遺伝子が絡んでくるかもしれない。

その人がちょっと変わった人で練習マニアみたいな人で、
一か月前は縦笛の練習をまとまった回数やり、その前は
ピアノ弾きまくっていたというような人ならどうなのだろう。

「練習する」ことそのものに関係する遺伝子が絡んでくる
だろうし、そもそも練習マニアみたいな気質を生み出した
ことに関係している遺伝子も絡んでいるのだろう。

そんなことを考え始めると遺伝子と行動と環境の絡まりあい
の迷路にはまってしまう。

ただ一つ言えそうなのは「複雑」であること。
よい素質、わるい素質なんて二元論みたいな軸では割り切れない
ということ。

犬種と性格の問題をかんがえると確かに性格に遺伝子は
かなり大きな関与をもっているように思う。

でも動物とのアナロジーを深めると優生学みたいな発想法に
行き当たってしまう。現に欧米のほうでは人間の血統書をつくる
ような発想で詳細な家系図が編まれているとか。

99パーセントの日本人は「どこの馬の骨」の籠に入れられる。
私ももちろんそうだけど。でも、欧米みたいに詳細な血統書を
作るなどという文化の元に生まれなくてよかったと思う。

そこには物凄く狭い人間観みたいなものが入っていると思うのだ。
私は雑種の面白さのほうを追求したい。

2013年6月28日金曜日

メニューとしての般若心経

大般若経というお経のことが気にかかっている。
このお経600巻もあり、あまりに長大なために
お寺でも通読することはないみたいだ。

ところでこのお経、三蔵法師がタクラマカンを往復
して天竺まで取りに行ったお経でもある。

取りに行っただけでなく、亡くなるちょっと前まで翻訳
事業に携わっていた。

「なんで?」という疑問がわいてくる。なんでそこまでする
のだろう?って。

一方このお経のエッセンスである般若心経は日本でも
津々浦々まで浸透している。

ふと思うのだけど、般若心経は実はメニューみたいなもの
なのではないだろうか?

ネットにおける自分の興味ある検索語彙集みたいなもの。

メインディッシュは大般若経中にあるに違いない。

なんでそういう風なことを考えたのか?今日は?というと
ある雑誌の原稿をまとめているのだけど、まとめていくと
このブログで印象に残った言い回しみたいなのを使うこと
が多いことだ。

このブログは私の思考の計算用紙であり、また原石みたい
な扱いなのだけど、比較の対象にはならないけど、大般若経
と般若心経の関係に相当するのではないかと思ったからだ。
もちろん、そんな有難いお経と、クズみたいな自分のブログを
比較してみても詮無きことではある。

色即是空とか名文句があるけど、そういう概念が生まれた瞬間
が記録されているお経だとすると私もそのプロットを読んでみたい
気がする。

P・S  このブログの有効な目的として、患者からみた重要な
言い回しを探索するというのはありうるのではないだろうか?

言葉を丁寧に使うということ

「言葉を丁寧に使う」という文の意味は辞書には
載っていない。要素に分解すればそれぞれの
意味は載っている。でも辞書的な意味を担った
要素としての単語を合成すれば「言葉を丁寧に
使う」という言葉の意味は立ち上がるのだろうか?

そのあたりに、心理臨床や精神療法の難しさが
あるような気がする。

もしかしたらいろいろな施設ごとに独特の言葉使い
があって言葉の意味やニュアンスが先輩から後輩
へと引き継がれているのだろうか?

こういうことを考えるのはとっても面白い。

それなら、そういう臨床仕事が秘教めいてくる理由も
よくわかる。

当事者の立場ならどうなのだろう。

自分にまつわるいろんなことを言語化しようとする。
言語化してとりあえず外化、資料化しようとする。

この世界も秘教化する。

私のいいまわしに独特なものが多い理由がなんとなく
見えてきた。

芸事の奥義というのも面白く読める。
奥義が奥義とわかるだけの目が養われていることが
奥義を教えてもらえるための前提条件なのではないか?
そうでないと豚に真珠である。

そして先人が恐れることは言葉のニュアンスが間違って
伝えられることだと思う。

しかし、何をもって間違いというのだろう。

「言葉を丁寧に使う」という言葉はなんでもない常識みた
いなものである。でもここでは独特のニュアンスを込めながら
使っている。

ニュアンスのイメージもまた言語化できる。注釈みたいな
のものがそれに当たる。

何回も何回も読み直すことできづくことがある。
フェルマーの定理は解かれたけど、フェルマー自身は
ただの勘違いだったのかもしれないし、ものすごい近道
を実は知っていたのかもしれない。

思わせぶりなことばかり書くとそれも透けてしまう。
レントゲン当てられるくらいの覚悟でものは書くべきなの
かもしれない。

ここの記載はおかしいというところはわかる人にはわかる

ここの記載はおかしいというところはわかる人にはわかる
今日、ネットをうろうろして見物してなんとなくわかった。

安心していろいろ書くことにしよう。

その前に記載という言葉の意味をしっかり把握しとくことに
しよう。

いろいろな言葉の意味、理解の段階は幾層にも分かれている
というそうな。

普段、多くの言葉はなんとなく、どこかで覚え、なんとなく、使っている。
不安になったとき、改めて辞書を使う。

言葉を仕事で使う職業の人の中には家の中に何か所も国語辞典を
置いているという人もいるらしい。

ある意味、そういう職業だからこそ、不安になることがあるということ
なのか。確認してみたくなるということなのか。

ところで「言葉を仕事で使う」という意味はどういうことなのだろう。
プロ作家をイメージしながら、なんとなく書いてしまったのだけど、
よくよく考えると誰もが言葉は生きていくために使っているではないか。

なんとなく書くというところを少し変えて、少し立ち止まりながらものを
書いていこう。もっとも、少し立ち止まりながらという表現の意味も
ちょっと心配なのだけど。

2013年6月26日水曜日

自分用のメモ 忘れてはいけないこと

私の表現としての実力はアカの他人にコメントかかせるだけの
力もない。そこが等身大の私としての力の及ぶ範囲だ。
そのことはいつまでも真実として心に留めておこう。
状況が何かをきっかけにして変わったとしても。

本当の意味でのカンチガイにならないために。

精神病の患者観の歴史の変曲点に佇みながら

ハンセン病の歴史に変曲点があり、今はその歴史の検証に
焦点が移っているように、精神医学の世界も歴史の変曲点
にあるように思う。ハンセン病の世界も精神病の世界も
両方ご覧になっていた神谷美恵子は心の底で何を感じて
いたのか知りたい。何かを感じていたけど、公言するには
時代はあまりにも早かった、そういう風な何かはなかった
のだろうか。

精神病の患者観もこれからドラスティックに変わっていくに
違いない。でも、患者観をきめるのは一般の人たちだ。
一般の人々の患者観が変わらないかぎり制度はなかなか
改善されないだろう。

話は飛ぶけど「島津家文書」というものが世の中にはあり、
それに関連する読み物で『日本史の一級史料』山本博文著
というものがある。http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334033538

立ち読みしただけなのだけど、光文社の案内を読むと面白い
ことがいっぱい書いてある。


>現在、われわれが知りうる歴史というのは、史料から復元され
>たものであり、かつ史料からしか復元されえないものです。


と案内の冒頭に書いていたのだけど、患者観とか患者像とか
いったものにも関係する文章のようにも見える。

史料を読み込めば一般の人も歴史学者と同じ条件に立てて
自分なりの歴史観をもつことができる。

ひとりひとりの精神病の患者ができるだけ包括的な資料をつくり
多くの人が読める環境下におけば患者観が変わっていくための
手がかりの一つになりうるのではないだろうか?

もとよりそういう意図をもった時点で書く文章になんらかのバイアス
がかかってきても仕方がないことだろう。歴史家に史料批判が必要
なように、患者が書く文章も批判的な目で読まないといけないことは
確かだろう。

ひっそりとしたインターネットの片隅で頭のやや怪しい患者が誇大な
ことを吠えていると思うこともある一方、「ここ」は歴史の現場なんだ
と考えることもある。オスミツキ一本で変わってしまうような社会の
中である。

オスミツキのあるなしに関わらず、「自分の目」で判断できる読み手
が増えればいいなあと思う。

「メディア戦士」「歴史というデータベース」「データベース上の戦い」
いろいろ変なキーワードを思いつき、思いついては意味もはっきり
とは把握しないまま、ネット上に書き散らしてきた。

今、マイクロメディアというものは小さなものたちの抵抗のための
武器であるということがはっきり認識される。ガリ版の現代版。
ガリ版が社会を変えるという夢は夢に終わった。でも、今、その
抵抗の歴史は手を伸ばしさえすれば読むことができる。史料と
いうものの恐ろしさはそういうものだと思う。

P.S 今、言い放った言葉はただちに私に帰ってきます。責任と
いう言葉の意味を噛みしめることになるからです。自分なりに
いくら噛みしめたつもりになっても、噛みしめたことにはなりません。
そういう意味では責任なんて言葉を頭に浮かばせることもなく、
書きたいことをただ書いている今は幸せなのかもしれません。


2013年6月24日月曜日

精神保健の世界におけるパラタクソノミストっていてもいいかもしれない。

パラタクソノミストというのは準分類学者といいます。
精神保健の世界の人にはなじみのない概念かもしれない
のですが、”コスタリカ” ”パラタクソノミスト”で検索して
みてください。いろいろ出てくると思います。

熱帯雨林の現地人の森林レンジャーみたいな扱いです。

精神には精神の森みたいなものがありまして、当事者による
情報発信が盛んになった昨今、当事者の語れる範囲内の
体験、日々思っていること、価値観、世界観その他言語化すること
によって精神保健を支えている人たちにもなんらかの手がかりを
提供できるのかもしれません。

エレンベルガーという人の著書を読んでみると、患者、当事者
と呼ばれる人の貢献というのは意外に大であって、フロイトも
ユングも当事者からさまざまなことを学んで行ったり、言葉や
概念をつくる際の最初のとっかかりを得た側面もあったように
思います。

そういうことは21世紀の文脈に置いてもないのでしょうか?
日本ではよくも悪くも知識が大衆化されています。普通の人も
いろいろ知識をもっていて、持て余している部分もあるのでは
ないでしょうか?

そういう現代日本という背景であればこそ可能なことってあると
思うのです。

震災のときに諸外国の方々が驚かれたのは潜在的な部分の
庶民のパワーだったと思います。

この国では他の外国では実現できないことが実現できる場合
もときにあるのだと思います。

そういう要素は精神保健の世界にもあるのではないでしょうか。

普通の会社においても管理者のみが知恵を出すのではなく、
全員参加状態でアイデアを出したり、練り上げたりする場合も
あるといいます。そういう風なことがこの分野でも可能である
ことはSSTなどを見ていてもよく感じることです。

そういう部分をサイエンスの方向にも拡張していくのは自然な
拡張だと思うのですが、まだ、そういう時期ではないのでしょうか。

P.S 植物誌に相当するのは人物誌と呼ばれるものなのでしょうか。
時間軸、空間軸ありましょうけど、その人物をわかったことになる
ためにはどういう資料があれば必要にして十分なのでしょう。
そして、理解されることから出てくる不利益を防ぐためにはなにが
必要とされるのでしょう。

精神病における患者の知というのはありうるのだろうか?

月に一回、自立訓練施設に外部からWRAPの人が
来てくれる。WRAPは(元気回復行動プラン)というもの
だそうだ。説明しにくいので”精神病” ”WRAP"と
かでググってほしい。

患者の知というのは一昔前だったらそんなものは
ない。おとなしく薬だけを飲んでほしい。よけいな
ことはしないでほしい。という雰囲気だったけど、
随分時代も変わってきた。

WRAPの説明するところによると、精神病における
患者の知というのはありそうだ。

これはSST(social skill training)を受けていても感じる
ことだ。様々な患者がいればそれぞれ生活の知恵を
もっている。

ただ、自分の手持ちの経験知みたいなものを意識化
するのは難しい。何がそれに当たるのかがわからない。
自分にとってはしごく当たり前なことも他の人にとって
はそうでないかもしれない。

私は思ったこと考えたことをその都度、できるだけ
外化(言語化)するようにして、ネット上に資料として
出しているのだけど、それが意味あることなのか
単なるゴミなのかよくわからない。

自分なりには意味があると思っているから続いている
のだと思う。今現在、症状も少ないと思っているし、
そういう風な感じの派手な症状をもっていない私
が文章を書いてみても他の人にとって意味あるか
どうかわからない。

ただ、なんとなく思うのは周囲の健常なひとと
文章にすることの色合いがなんとなく違うことだ。

そして、世間にいる人々とも関心に上がるテーマ
とかそもそものものの考え方などもなんとなくでは
あるけれど違うような気がする。

うまくいえないけど、世間の人は世俗的というか名誉
みたいなものに私よりもこだわっていると思う。

世俗的と書くと、では君は聖別されたと自分では
思っているのか?と矢が飛んできそうだ。でも、
なんとなく、世間的な価値観が世俗的な要素に
骨がらみになっているように感じることが多い。

だんだん表題とずれてきたのでこの話はまた
今度にする。患者の知だった。

非定型精神病は予後もよく、断薬もありうる
ラクな病気なのか、そう見えるのは表面だけで
実は再発がきわめてしやすい厄介な病気なの
かまだ判然としない。

急性期は文字どおり「発狂」してしまう病気なの
でそれは人生上で経験しうるもっとも屈辱的な
経験かもしれない。

そのことをどういう風にその後の人生で折り合い
つけるのか?そういうのはそれぞれの経験者は
どうしているのだろう。

封印しちゃうのだろうか?整理の付かぬまま、
なるだけ触れないようにして、時間だけが解決
してくれるのを待つのだろうか?

そもそもその「経験」とはどのくらいの病者が
経験するものなのか?

トレマ、アポフェニー、アポカリプスとか病気の
深さみたいなのもいろいろあるらしいけど、
急性期を経験する人はみなさんアポカリプスまで
行ってしまわれるのだろうか?よくわからないこと
だらけだ。

最近ではどうなのか?治療がすぐに始まって
あまり病気のときの体験はせず、すぐに薬が
注入されるのだろうか?これもよくわからない。
まあ、こんなこと患者が知っても仕方がないの
かもしれないけど。

調子の浮き沈みにネットも一枚噛んでるかも

気分の高揚のバブルが弾け、静かに謹慎中
今日が雨のせいかもしれないけど、
調子にすぐれません。

憑き物が落ちたように気分も落ちて、
何をすればいいのかわかりません。

こういう日は家で静かに横になっていれば
いいのかもしれませんが、そこまで調子を
崩しているわけでもなく、退屈だし、ノラない
のにネットであれこれ書いています。

こういう日の過ごし方がよくわからないのです。
図書館で本を読んでも燃えません。

日によってはドーパミンがドクドク状態に活字
の読みもの読んだだけでなるし、そういう時は
文字を書いてもサクサク書けるのです。

ときにそういう日は書きすぎで、後で冷静に
なったときに自己嫌悪にはなるのですが、、、

今日もなんとか書いていますが、調子の良しあし
に関わらずものを書いていらっしゃるプロの方々
を尊敬いたします。こういう日につくづくわかる
のです。書くことで生計をたててらっしゃる人
は偉いなあと。自分にはとてもできないなあと。

調子のいいときはある意味万能感に浸って
いるので見えません。客観視できないのでしょう。

表題からずれたことを書いているので表題に
戻したいのですが、もはやそこまでの元気もなく、、、

2013年6月21日金曜日

アバターと自己像、自分の世界、ネット上で表象されたもの

仮想世界セカンドライフで操作する自分の代理のような
お人形のようなものでアバターというものがある。

なかなか説明しにくい。

いろいろアバターにまつわる自分にとっての謎があるの
だけど、まず一つはアバターを長年使うことによって、
生身の自分や自己像みたいなものは変容するのだろう
か?ということ。

仮想世界でのお知り合いも私の頭の中ではアバターの
顔、アバターの格好でイメージされる。生の顔は知らない
し、知りたくもない。

そういうわけで、長年のうちにアバターの仮面は心の
本体とくっつき、分かちがたくなる。それもまた自分という
ことになってしまう。もちろん、主観的にはということだけど。

それは、なんらかの意味でPCから離脱したリアルの自分
にも影響を与えているはずである。アバターの格好が触媒
になって、リアルでも自信をもてるようには少しだけかもし
れないけれど、なっているかもしれない。

セカンドライフではアバターをいじれるだけでなく、土地を
取得し、土地の上にいろいろ構造物をつくって自分の世界
をつくることができる。リアルでは土地を買うこともないだろう
けど、セカンドライフ上で土地を取得し、広大な土地の利用
について頭を巡らすということは可能だ。

まあ、人からみるとドールハウスで遊んでいるようにしか
見えないのかもしれないけれど、画像を残すことができる。
一方、リアルの世界も画像に残すと一片の画像。過去の
世界はメディア上にしか残らない。

そういうわけで、作った画像をblogやらfacebook上に貼り
つけることが多い。多くの人がiphoneで自分の世界を撮って
貼りつけるように、仮想の世界のそれも自分で作った世界
のみを貼りつける。ネットというもう一つの仮想世界上で
身体と身体を入れる世界を持っているような感じが本人的
にはして心地よい。

自分の中ではネットという異世界に住み込んでいるような
感じを出したいのだ。そういうわけでネット上で表象された
ものはすべて仮想の世界の自分で作った風景だ。

それをヒトはどう見るかは知らない。いい年して子供みたい
にと思う人もいるかもしれないし、ネットの世界に耽溺して
帰ってこれないヒトとみるかもしれない。

最後に精神病との関係。これは微妙。「あちらの世界」への
憧憬みたいなものを満足させるという意味ではある種の患者
さんには心地よいのかもしれない。実際に「あちらの世界」
に行ってしまわなくても何かが発散されるかもしれないし。
本人にしかわかりようもない奇妙な世界にはまり込むかも
しれないという危険も反面あると思う。

心理療法が精神病者には禁忌とされる場合もあるという
のと似ている。無意識の世界にはまり込みすぎてしまうの
だ。一方、場合によっては治療効果があるという場合もあ
る。ケースバイケースだと思う。何より本人のバランス感覚
にかかっている。「今日はやりすぎてしまったから、しばらく
控えよう。」などときちんとやれるのなら、有益に働くと思う。


2013年6月20日木曜日

わたしから見た世界像というもの

人間原理という奇妙な考え方がある。それが正しいのか
どうかわからない。でも、人間原理を信奉している人も
ふつうはその適用範囲は一般としての人間社会までだと
思う。

たぶん私のヘンなところは人間原理を「いまここ」のワタシ
まで延長している点だと思う。比喩的には、、、

夜空の写真を撮るとする。自分の家の物干し台も画面の
端に写っているかもしれない。南の空の下には繁華街
の街の灯も写っているかもしれないし、時間によっては
遠くの山もうっすらと写っているかもしれない。

中空には月も写っているかもしれないし、金星のような
近距離の星も写っているかもしれない。シリウスのような
近くの恒星から始まってアンドロメダ銀河のような近い
銀河、そしてかみのけ座の方向をどんどん拡大していくと
宇宙の果てのほうの遠くの銀河も写っているかもしれない。

そういうものすべてをひっくるめて自然は美しいと私は
考えているのかもしれない。家の物干し台さえも自然の
秩序の内には入っていると解釈しているのかもしれない。
それも含めての人間原理と考えているのかもしれない。

もとより人間原理、正しいのかどうかわからない。
偉大な錯覚なのかもしれない。自分にとっては自分が中心
に見えてしまうような。

図書館にいて、いろんなジャンルの本に手を出してしまう
背景には以上のような考え方がある。ライフストーリーや
ら日記研究に始まって、宇宙の話や数学の話まで。
わからないということも今の自分からの距離ではある。
今の時点なりの理解の面白さというものもあるのかもしれない。
なにせその世界で生きるようになれば、日常の事物の一つに
なって、アマチュアの抱くようなロマンはもはや感じられないと
いうこともきっとあるだろうから。

それは東京に行くことがすくないからこそ、パリには一生たぶん
行かぬ運命だからこそ、「花の都」のイメージに浸ることができる
ようなものだ。

自己像を基本にしてあらゆる対象を比較すること。

学問って何のためにあるのだろう?って思ったことは
ないだろうか。そんなこと研究していったい何の意味
があるのだろうって。確かに新たに発見された事実は
事実かもしれない。でもそれは些末な事実に過ぎないの
かもしれない。

学問を見ていると西洋で行われるあまり実態のよくわか
らないゲームを東洋でやっているように見えてくることが
ある。

たぶん西洋では形而上学的な思想が背景にあって、
語りえない世界に属する形而上学的な問いを考える
土台として、実証された確かな事実というものがつか
われるのではないかと思う。

そうしたときに最初に問題になるのは
「自分とは何か?」という問いだと思う。

自分探しに一生懸命になる人がいる一方、そういう
のは若い時期の青臭いものだと忘れてしまって、
生活にまつわる地に足をつけたような物事に人々
の関心は移っていく。

「自分とは何か?」と考えるある人々は瞑想などを
して「本当の自分」を発見しようとしたり、私小説めいた
文章を書こうとする。私もどちらかというと私小説めいた
ものを書こうとする人々の近くにいるのかもしれない。

自己像というものを固定させたいのだ。もとより自分で
描いた自己像なのだから、生々しい自己(録音した自分
の音声みたいな聞くに堪えないようなもの)ではなく、
多少演出、脚色、理想化はまぬがれていないような気が
する。それでも固定することには自分にとっては意味が
あるように思う。

自分にとっての世界像の中心に固定された自己像という
ものがあって銀河系のように周辺に比較される対象がある。
もちろん森羅万象あらゆる対象がその対象を中心とした
世界というものがありうると思う。

でもそういう世界像は現代らしいのではないだろうか?
ある人にとっては自分というものは何かの周囲をめぐる
惑星のような存在かもしれないし、めぐっている対象すら
銀河系の片隅のような卑小なものかもしれない。

自分の置かれた客観的な社会的地位というものが私には
見えないわけではない。でも、地球上のどこを原点ととっても
いいように、自分を原点とした座標系を考えてもいいと思って
いるだけだ。もっともそういう風に考えられることすらも現代に
生まれた恩恵だと思う。

ローカル座標系として自分をめぐるいろいろなものを測量して
いるのかもしれない。ローカル座標があるのならグローバル
座標というものもある。ただグローバル座標の置き方もちょっと
ヒトと違うのかもしれない。遠くのほうを見ている。地球という
リンゴの上の微小なカビの一胞子にすぎぬものが宇宙の果て
を望遠鏡で覗く感覚だ。社会的には微小に過ぎぬものだから
こそ心の中は雄大でありたいというのが私の欲望なのだろうか。

カンチガイ ああカンチガイ カンチガイ

シラフにかえって自分の文章読み直してみると
こっ恥ずかしくなる。読むに堪えないなあと思う。
恥ずかしいことがいっぱい書いてある。消したい
と思う。でも、消せない。

飲んでかいたのではないか?と疑いたくなる文章
も多い。でも飲んでない。言葉自体に酩酊している
だけだ。

自分の言葉に酔える。最高だと思う。少なくともその
時は。酔いが覚めると自己嫌悪になる。懺悔の時間
が始まる。

言葉に酔っているときは「才能がある」と思ってしまう。
ひどいときは「おれは天才だ」になる。年に何回かは
「悟りに近い」にさえなる。カンチガイというものは怖い。

周囲は苦笑いしながら見てると思う。人畜無害だし、
危険な感じはしないから。周囲にひとりくらい、こういう
人間もいてもいいのだろうから。

人間の精神の多様性。世界は広いからこういう人種は
星屑のようにいるのだろう。ありふれてさえいるのかも
しれない。

ほかのだれでもない、唯一無二の人間と思い始めた
日本人の一群。日本人における個人の誕生。

また大げさな話が始まった。

2013年6月19日水曜日

また調子が定位置に戻りました

ここ最近調子が悪くて超越的なことばかり考えていました。
超越的とかくと仰々しいのですが、ちょっとばかり意味を薄めて
解釈してください。

以前の感覚なら、精神病には晩期寛解ということばもあるくらい
だから、だんだん年を食うごとに病気のエネルギーもおさまり、
あるいは病気する元気もなくなり落ち着いていって超越的な
ことも考えなくなるのだろうって思っていたのですがそうでも
ないようです。

思いついたのでまた注意ですけど、いろいろ心理用語とか
精神医学用語とか、まあたまに科学用語とか並びますけど
正式に習ったわけではないので意味はずれていると思います。
そのへん注意しながら読んでください。まあ、意図的に科学用語
を悪用して疑似科学的なことを書くつもりはないと思います。

でも人によってはブログ全体が疑似科学的な怪しいにおいに
満ち溢れていると読む人もいるかもしれません。

今考えたことなのですが、超越的に考える=調子が悪いと
考えている節があります。これはある側の人から読むと不幸
なことに見えてくると思います。

先日はカール・ヤスパース関連の本(鹿大にまとまった数
あるのです)読んでいて、「暗号」という概念を見つけました。

どうもこの人、精神科医をやっていて、患者の側に踏み込む
あまり科学的精神医学を逸脱しちゃったのではないかと私
は読みました。渡辺哲夫という人と似ています。

病気の初期に患者が体験する形而上学的啓示にはある種
のリアリティがあるのではないかと言っているように思えて
くるのです。もちろんリアリティといっても脳にとってリアルな
ことなのか世界の側にリアルな実体があるのか定かでは
ありません。

よく読めば中井久夫の本にも霜山徳爾の本にも似たように
よめてしまうところがあります。中井先生の本には語りえる
ことを書いているのですが、その裏に語りえない背後を
隠しているようにも読めてしまうのです。心の底の底で思って
いることを書かれることを患者としては切に願っているわけで
すが、そのことが多くの患者にとって幸福なことか、不幸に突
き落すことになるのか微妙です。何せ害になることをしないこ
とが第一ですから。

霜山先生の本には、場合によっては急性状態の精神病者の
妄想の世界に(たぶん面接のときでしょう)治療者もはいら
なくてはならない、がそれはとても危険なことで治療者に
期待すべきではないとありました。(引用ではなくうろ覚えの
内容です。詳しくは『素足の心理療法』の最初のほうを読ん
でください)
病者の体験が荒唐無稽なものであれば、治療者が危険に
陥ることはないと思います。でも、病者のその場での状況
を含みながら病者のリアルタイムでの世界を共有すれば
治療者みずからが引き込まれてしまう危険があるのかも
しれません。たぶん病者の世界には病者の世界なりの
リアリティというものがあるのでしょう。

統合失調症が軽症化することによって社会で生きる患者が
多くなりました。病気が慢性化せず、常同化せず、初期の
記憶を保ったまま、その意味について大学図書館の蔵書
などを漁りながら考えることも可能になりました。

P・S 「一流」の哲学者・芸術家と違って「一般」の患者は
(香山リカがどこかで使った「一般患者」という言葉を思い
出します。)初期の体験で出会う形而上学的啓示にもち
こたられえず混乱、パニックに陥ってしまい、慢性下では
自分の手持ちのイメージで無理やり意味づけてしまうと
いろんな本読んでいるうちに読めてしまうのです。

軽症化の時代、さあどうなるのでしょう。今じゃ知識も
いきわたり、鎮静剤による消火も早いので、緊張病的
な急性状態を十分な時間体験する人というのも少ない
のかもしれません。私も二回目の発病ではおかげさま
で治療も早かったのです。『シニフィアンの病』の中で
出てくる「コカコーラ」という用語やフィリップ・k・ディックの
自伝的SF小説『ヴァリス』の中の「キング・フェリックス」
という用語がヤスパースの「暗号」という用語ととても近
いような気がします。もとより他人には意味不明の言葉
なのですけども、『ヴァリス』でいうところの
「巨大にして能動的な生ける情報システム」というような
もうちょっと伝わりやすい記述が未来の日本の軽症化
した病者の手で書かれることはあるのでしょうか。


ヤスパースの「暗号」についてはこちらをそうぞ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%97%E5%8F%B7%E5%BD%A2%E6%85%8B

P・S 本文中に小さな嘘を発見したので訂正します。
ヤスパースの「暗号」という言葉を発見したのは
立ち読みで読んだ『精神医学と哲学の出会い』という
本の中です。この本の中の「精神病理学者ヤスパースから
見たヘルダーリンとファン・ゴッホ―精神疾患における人間存在の「深淵性」」
という文章です。今日書いた本文の一部もパクリとはいえぬまでも強く
影響されてます。立ち読みの後、鹿大へ赴きヤスパースの本を読んだわけです。

2013年6月15日土曜日

一人の患者を底の底まで”わかる”ということ

治療家という職業について、一人の患者を底の底までわかるという
望みをもつことは叶うことなのだろうか?

自分の両親や配偶者を例にして考えてみてもその理解は表面的な
ものに留まるということはわかる。まして精神病者は。

精神病者一人を理解しても仕方がないという見方も賢明だと思う。
それだからこそ、治療家は一人の人に係っきりになるよりもむしろ
多くの患者、多くの症例に触れようとする。

患者を底の底まで理解するということは可能というよりも不可能と
みるほうが妥当だと思うけれども、それでも理解することに近づこう
と考えたときにその前提になるのは何だろう?

それはまずまとまった文字化されたものが広くアクセス可能な状態
で存在することだと思う。

広くアクセス可能なことの意味合いは、読み手によって解釈が違う
からだ。

典型的な患者かどうかは問題にされない。普通患者は自分の意志で
文字化したりしないから。

対象として適切かどうかはなはだ怪しい対象にかかずりあうのは時間
の無駄なのだろうか?

少なくとも対照実験におけるコントロール位に意味合いはあるかもしれ
ない。そしてこの場合、心の底の底まで文字化してやまないという対象
は個人情報保護を望む昨今ではかなりの物好きであり、簡単に見つか
らない。

秘匿した情報、その他都合の悪いこと、それももちろんある。でも、沢山
書き出せば「何を書いていないか」であぶりだされる。

患者に限らず、個人の内面をまとまった量、文字化しているという例も
そんな沢山あるわけではないのだろうか?

それはそんなものに価値があると思っている人がいないからだ。
有名人だったら、価値をもつ、専門的な人だったり、端的に偉い人なら
価値をもつとほとんどの人は考えている。

日本は南北に細長く、また最近になればなるほど世代間で精神構造も
違うみたいだ。その意味では単なるそこらへんの人の内面の文字化し
たものにも価値があると思う。

その価値を信じて、残そうと思っている人が少ないだけだ。
それらは単にご老人の自伝の自費出版みたいな感じで世間に埋もれる
だけなのかもしれない。そういう風になる運命を薄々感じているから
多くの人は私的とされる記録を残さない。それもわかるような気がする。
たしかに単なる徒労なのかもしれない。自分と縁のないアカの他人が
読んでもそんなものはきっと面白くないだろうし。

私が今までに書いたものの中でほかの資料のなかに書いていないこと
はどのくらいあるのだろう?って点検してみると本人が思っているより
も結構多いのではないか?と思うのだ。

情報化社会の今の一般人の実力は本人が気づいていないだけで結構
馬力はあるのではないだろうか?それは日々検索するなかで感じること
もある。一般の人ももっと自信をもってもいいのではないか?卑屈に感じる
ことはないのではないかと強く思う。

自分が考えることなどどうせ大したものではないと思って沈黙している人
は多い。これは潜在的な大いなる損出だと思う。決定的瞬間に立ち会え
さえすれば、素人でもスクープ写真を撮ることができる昨今だ。メディア
の発達した日本社会の中で種々雑多な情報が個人の頭の中には投げ
こまれている。書くことでそれらは化学反応を起こして、自明でないなにか
を表現することはできるのではないだろうか。アタマのなかの決定的瞬間
というのはありうると思う。

自称病人のたわごと

一応外来で治療中だけど、そんなことは証明できないし、
お客さんの前では「自称病人のたわごと」に過ぎないよう
な気がする。

むやみに周囲を心配させて何が嬉しいのだろう?

声が聞こえれば、言葉の速さ、トーンの具合などで
どの位健康な状態からずれているのかだいたい判断が
利く。でも、活字じゃつたわらないので、単なる冗談なのか
本当に心配すべきなのか判断に困る。

自分でモニターした感じだと安全圏にいるような気がする。
でも「酔っていません」と同じ位の説得力しかもたない。

同じようなことは数限りなく繰り返されて、最近は主治医は
苦笑いするばかりで私がいろいろ言っても薬は増量には
ならなくなった。「様子を見ましょう」で済んでいる。

私はオオカミ少年みたいな感じの人間なのだろうか?

発病はいつも手前で回避されている。
でも、本人がそう思っているだけでもともと病気なんてなかった
のではないか?という疑いもある。

破たんがないことは確かにいいことである。
でも自由に野放しにされることでもあって、図書館に籠り
有害な読書が止まらないことでもある。

母も亡き父も読書は私には薬というよりも毒になっている
ことを薄々感じていた。

気がつけば、カルト宗教にはまり込むのとあまり変わらない
ような精神構造が出来上がっていた。野心がある人だったら
人を集めようとさえしていたのかもしれない。だけど、私には
そういう野心も肚もない。単なる小市民だ。

野心がある人だったら、人集めなんかして、問題を必ず起こし、
適正に摘み取られてしまっていたはずだ。でも、私は不幸な
ことに野心はなく、淡々と描いたり書いたりして垂れ流している
だけ。後世から見ればもっと有害な存在かもしれないし、後世
なんか心配することなく、ノイズはノイズらしく、今を楽しめば
いいのかもしれない。どうせすぐ消えるのだから。まあ、元気
なうちは言いたい放題好き勝手なことを書くのだろうけど、
そのうち時間切れになって沈黙してしまう。

世の中にはいろいろなヒトがいたほうが面白い。現に視聴者は
ニュースで登場するいろいろな役者たちを楽しんでいるではない
か。変わったヒトもいないと退屈だ。安全なだけの距離は確保さ
れているのだから。

P.S 精神汚染ウイルスみたいなものも原理的にはなくはない。
魔女狩りの歴史、舞踏病、その他、歴史上に痕跡は残っている。
でも、無暗に恐れるよりも、むしろ実態を把握したほうがいいよう
な気がするのだ。

2013年6月11日火曜日

イメージの世界はそれ自体として存在するのだろうか?

くっきりとしたイメージは実体を主張しはじめる。
私には漠然として定かでない「国」の実在感も
国家の中枢に近づけば近づくほどくっきりとした
ものになり、「想像の共同体」とは言えなくなる。

「お金」というものは庶民の生活にとっても切実
なものなので、何にもましてリアルな存在である。
明日紙切れになる可能性もないではないが、そ
なことは天が落ちてくるというほどの実在感しか
もたない。

バーチャルリアリティを含め、メディアというメディア
はイメージを実体化するための道具である。
いわば杖みたいなものだ。

十分イメージがくっきりした暁には杖はいらなくなる
のだろうか?

丁度珠算の熟達者がそろばんを必要としなくなる
ように。

見えない世界は存在しないというよりも、イメージ
しにくい。

インターネットの世界も見えないけど、パソコンを
使うと実体をもったものになる。
その結果、パソコンを使わないときも、いまこの
瞬間も見えない世界で刻々とモノがうごいている
ことを実感できる。

それも、道具であり杖であり、一種の比喩なの
だろうか?

比喩、昔も今も意味深な言葉だ。


P.S 肉体を必要としなくなるほど、イメージの
世界が鮮明になれば、死の恐怖から解放され、
永遠の生命をもつことと同義になる。

とはいいながらやっぱり死ぬのは怖い。

2013年6月9日日曜日

メディアサイボーグとアバター

図書館の書庫から引っ張り出した『現代史のなかの若者』中野収1987
の中に「メディアサイボーグ」という言葉があった。メディアに深く同化し
メディアと一体化したような若者のことだったらしい。「ウォークマン」を
装着し、勉強など作業しながらテレビを見、個室内に電話を持ち込んで
いるそういう風な生活様式を当時していた若者をそう呼んだらしい。
パソコン通信も黎明期でごく一部でやってだだけだろうし、また私の
近辺でも事実、パソコン通信している人は87年くらいだったらいなかった。

メディアサイボーグという用語を聞くと、今の時代の文脈ならアバターを
思いつく、といっても映画『アバター』ではなく、仮想世界で自分の分身
として操作するキャラクターのことだ。

アバターという存在は日常的に使っていても捕えがたい。そして、
2Dの世界のアバターと3Dのアバターでも感覚は違うのかもしれ
ない、2Dのは使った経験がないから私にはわからないけれども。

Epimbiという自分のアバターしか知らないから自分のアバターのこと
を書くけど、頭は被り物で、被り物は単純プリムだけで作っている。
上着、シャツは単なる512×512の自作のテクスチャー。もちろん
フリーソフトのGIMP2で作ってある。インドの民族衣装のサリー風では
なくシャツっぽく見えるのはデフォルトの上着の型紙みたいなのがある
ためだ。それに単に張り付けたものに過ぎない。
靴も単なる半円のプリムに自作のテクスを張り付けただけ、実にシンプル
な形式だ。

被り物をしはじめたのは仮想世界のカフェで同席した人からサザエさんの
頭の被り物をもらったため。加工できるようになっていたので自分なりに
アレンジしなおして、半分オリジナルなものにしてみたけど、土台から自作
してみたくなり、今の被り物になった。

肌の自作は難しいのでデフォルトで入っている桜の木の皮のテクスチャー
を張り付けた。最初のコンセプトは天使の羽のついたピノキオという感じ
にしてみた。アバターの説明は退屈なのでこのへんにしておこう。

本題に戻るけど、アバターなるものをどう捉えるかは難しい。人形なのか
キグルミに近いのか、それ以上のなにものなのか?

ロボットアニメのロボットに近いといえば近い要素もある。操縦できるところ
が似ている。でも、もっと生々しい何かがある。

そこでまたメディアサイボーグなる用語を現在風に使ってみたい気持ちに
なる。キーワードは肉と機械の一体化、昔風にいうとコンピュータとの共生
もしくは結婚。たしかにこれは何かを増幅させることができる。容姿は選べ
ないがアバターはいじれる。自分なりの「理想の姿」を追求できる。経済の
縛りも幾分ゆるくなる。だだカネではどうにもならないのが自分のことば、
これは地味な努力を続けるしかない。恰好だけ面白くても、あまり魅力に
はならない。あくまでも恰好は演出だけど、演出は効果的に生かすと力を
もつ。

いわばことばを入れる容器の一つとして、アバターという身体があり、
身体を入れる容器としての仮想空間がある。へんな比喩だけど、
お経があって、仏像があって、寺があるのと対応が似ている。

仮想世界は持ち運べないけど、画像を取り込むことができる。
取り込んだ画像はBlogなどにも張り付けられる。インターネットの世界の
中に身体と場所を持てることが楽しかった。自分にとっては現実世界の
写真なんか張り付けて生活の匂いを出すよりも、インターネットの世界の
中に住んでいると見せているほうが楽しい。それでも虚構ではなく、ある
種のリアリティをも持っている世界だから面白いのかもしれない。

アバターを着ているとはいえ、オンラインの仮装パーティみたいなもの
なのだろうか?日常の隣にある第二の人生に過ぎないのだろうか?
それとも向こうの世界をある種生きてしまっているのだろうか?虚構が
実体化したような世界に。そうしたときに「帰ってこれない」という言葉の
意味も様々であるような気がする。

とりあえず、社会生活はちゃんとなりたっているので、それでよしとしよう。


2013年6月8日土曜日

技術の世界のあと

資源は遅かれ早かれピークがくる。
資源が尽きれば技術の時代は終わる。
複雑な機械を使えるうちに複雑な機械が使えなく
なった後のことも少しは考えておくことも必要だろう。

ネズミ算式に文明が発達していくのなら、
あっさりと短期間のうちに技術が使えなくなる状況に
移行することもありうる。

あまり大きな話すぎて、多くの識者の想像力を越えてしまう
ために、あまり真面目に語られない。

バブルが弾けるときでさえ、気づいたときには弾けた後だ。
ましては文明というバブルが弾けるときも、気が付くのは
その後だろう。

食糧危機、その時生き残るかわからない。
腹をくくるのが早道かもしれない。
まあ、仮に生き残ったとしよう。

技術の世界のあととはどんな世界なのだろう?
終わった時点から逆照射すると今は
技術の世界なのだろう。
技術の恩恵を潤沢に受けられる時代。
自販機で買えるように、蛇口から出てくるように
潤沢に使える。紙が無際限に使えると日常の中では
思っていることに疑問をもたない。

とりあえず今日のところは昨日までとほぼ変わらない
ように世界は動いている。そこのところでよしとしよう。

心の隅に技術の恩恵を受けられる時代である
ということを留めておこう。

ヒトの一生は遅かれ早かれ終わるものだけど、
その前に文明が店じまいというのもまったくありえない
話でもきっとないのだ。

生きられたメディア空間

全てのものはメディアであるとする汎メディア論的な考え方も
ある位だから、どの時代でもメディアの複合利用による生きられた
空間というのはあったのだろう。

それはそうなのだけど、secondlife、twitter, blogなどなど、
自分の脈絡で組み合わせながら使うようになってから、いよいよ
のこと”生きられたメディア空間”というものを意識するようになった。

生きられたメディア空間と仮に書く。でも、私はこのフレーズをどう
いう風なものとイメージして使っているのだろうか。

「生きられた」という表現に最初に出会ったのは精神科医の
ミンコフスキーの『生きられた時間』のほうではなく、多木浩二の
『生きられた家』のほうだった。

私の育った家は下町の長屋みたいな感じの木造集合住宅だった
のでなんとなくしっくりくるような内容だった。設計家によって造られた
家は長年使い手に住み込まれることによってその家族の家になって
いくという風に読んだ。大小の改築、モノが置かれること、剥げてしまったり、
傷がつくこと、そういう歴史の重なりによって家は修飾されていく。

そういう風なことをネット上の生活に写像して、新しく加入したサービスに
コンテンツを盛ることによって、少しずつ自分の色に汚していくという風に
考えてみた。

仮想世界と対になるのは現実世界だけど、現実世界も仮想世界の裏
作業空間と考えることもできる。仮想世界に持ち込むイメージの資材
置き場という位置づけだ。そうすると現実世界もなんとなく違って見えて
くる。googleメガネもiphoneさえも使わずに複雑な機械なしに複合現実感
が楽しめてしまう。

複雑な機械を使わないで仮想世界に没入(ジャックイン)できないだろう
かと考えることはよくある。複雑な機械に依存したくないということと、
数学者や物理学者が封筒の裏などに鉛筆でゴシゴシ計算書きながら
異世界に入っていくのに憧れたりしたからだ。

仮想の世界ではソフト的に解決されるものごとが機械的にあるいは
物理的に解決されるというのも発想を転換すれば面白く見えてくるの
ではないだろうか?

クルマや信号機、はたまたコップという器に水を盛ること、風呂に入って
体温を上昇させること、インクの染みで保存された情報を入れた紙の束
の集積地である図書館、仮想世界を基準に現実世界を見直すと不思議
に思えることは多い。

歴史上の出来事も動植物の内部、外部の構造もホームセンターをうろつく
ような感じで仮想世界に持ち込むための素材に見えてくる。そのまま持ち込む
のも面白いけど、要素をごちゃまぜにして、組み替えてみると何ができるの
だろうという喜びがある。

アタマの中だけで、何ももたないで構想を練る時間だったり、ほかの人と
雑談しながら、イメージを膨らませたり、そういう時間も含めて仮想世界
ということにはならないのだろうか。

コンピューターの時間の基準でいくとモニターをみながらぱちぱち指を
動かすのも、コンピューターの前から離れるのも大同小異だと思う。
ヘッドマウントディスプレイを装着したり、究極的には脳髄にそのまま
情報を送るのかもしれないけれど、その感覚にもヒトは慣れてしまう
のだろう。ハイビジョンにもはや慣れているように。

今、大事なことは嘘でもいいから自分にとってのメディア体験を言語化
することだと思う。これは厳密にやろうとすると現象学の知識が必要に
なるのかもしれない。嘘でもいいからという書き方は問題あるかもしれ
ないけれど、意識されないメディア体験を意識化言語化する際に嘘は
発生すると思う。虚空である内面を記述するのと同じく。でも言語化し
なければ何も残らない。80年代私も『夕焼けニャンニャン』など様々な
番組見たりといったメディア体験はしたけど、どういう風にそれらを体験
したのかはもう正確には思い出せない。記録に残さないということは
そういうことだと思う。現在、その時代のコンテンツを見ることはできても
当時の体験は体験できない。

メディアは透明だ。テレビ番組の感想はいくらでも言えても、媒体について
の感想をもつことは困難だ。媒体と出会ったときに一瞬だけ出来たとして
もあっという間に見えなくなってしまう。それでも、そこを敢えて解きほぐし
ながら観察したり、それを言語化したりというのは面白いのかもしれない。
研究者や業界の人ではないアウトサイダーな立場ならではの発見もある
かもしれないからだ。もちろん大部分は既存の陳腐なものに終わるかも
しれない。でも、情報から隔絶されているからこそのオリジナルな視点と
いうのもちらほら出てはくるかもしれない。

2013年6月7日金曜日

オマジナイのはなし

今も抜けているけど、そういう性質は大昔からだった。
「わすれものが多い」通信簿の定番の文句だった。

上履きで通学路の半分まで帰ったこともあれば、
ランドセル空っぽで登校したこともある。

片づけは下手な一方で、片付かない部屋の中で
よくモノをなくしてしまう。

そういうときはオマジナイというかよくウタをうたう。

「ナイ、ナイナイナイ~♪
財布がナーイ、ナーイ、ナーイ~♪」

「カミサマハーイジワルダー
カミサマハーイジワルダー~♪」

これで見つかればいいのだけど、現実は甘くない。

ウタで思い出したのだけど、前、薬がきつくて
午前中の作業が辛かったのだけど、そのときも
ウタを歌っていた。

「OH-ネム、ネムネムネムネムネームー
 たんたんたん
OH-ネム、ネムネムネムネムネームー~♪」

思い返してみるとどれも単純なウタが多い。
多分作詞作曲の才はないのだろう。

考えかえしてみると、一人でいるときのハナウタ
は流行りのウタを歌うのではなくて、即興で作ったり
することが多い。といっても、今見た通り見せるほど
のものでもないのだけど、、、

リンク先の動画の「ニホンノウタヲーウタイマショー~♪」
というのもそういうやつの一つです。

https://www.youtube.com/watch?v=PRGSuR99qqs

P.S 即興でウタを作るといえば、しばらくの間
100円ショップで縦笛を買ってきて、自宅で即興で
演奏してました。音の公害そのものだったと今、反省
するところなのですが、近所のヒトはどう思っていたの
でしょう?