はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2012年6月24日日曜日

夢のなかで出会った何かの人

明け方のゆめ


人がガヤガヤしている。
私にこんな機会はないのだから、と無理やり
おじさんのとなりに座らされる。何かの人らしい。
まわりの人が記念なのだから、何かもらうといいという。

おじさんが作ったらしい、記念品をもらうと、
まわりの人が記念なのだから、何か聞くといいという。

私は、「今まで生きた中で印象に残った一言とかありますか?」
と聞いた。

おじさんはちょっと書いてくるからと言って去り、しばらくして
秘書らしい女の人がやってきて、お守りのような手紙を渡した、
「これはおじさんからのものです。大事に取っておいてください。」

夢から覚めた。


2012年6月22日金曜日

前の文章の続き

文章書いたり、読んでもらったりして、
気分がほんの少しだけほぐれてきたので
続きを書いてみます。

確かに、文章書くのは気分の整理にも
なったりとか、気分の上昇のきっかけを
つかむのにもたまに有効なときがあります。

書きながら、ちょっとはよくなったとか
自分に暗示をかけていくのです。

暗示が効くということは、気分が落ち込んで
いくときも、落ち込む気分を味わいながら
自分で自分に暗示をかけていっているの
かもしれません。

ときに底を打ったと思えるときがあるのです。
気分の落ち込みが底を打って、上昇に転じる
ときです。

そういうときは、上昇気流に乗っていくのですが、
今度はハイテンションとかが問題ですよね。

主治医との話によると、私の抑うつは鬱の症状
とも何か違うみたいだと言われましたし、
友達から聞くところの鬱の症状はもっともっと
ひどい症状なので、私も違うと思います。

ハイテンションのほうも、私のは穏やかな範囲で
収まっています(通常の場合はですがね。)

私のケースなどよりもっと苦しんでいる人はいる
のだし、私の場合は生活の中で楽しめている要素
もあるのでよしとしなければいけませんよね。

どんよりとした心の空

なんとなく、このところ心が曇っている。
あんまり難しいことが考えられなかったり、
あんまりたいしたこと思いつかなかったり、
そういうわけで憂鬱な感じがする。

それでも、そういうことは毎度のことなので、
心が晴れてくるのを待つしかない。
そう、待つしかないし、また待っていたら
そのうち晴れてくると思う。

それにしても、心が曇っていると
暗いことを考えがちで、
本当に暗いことを引き寄せるのでは
ないかと、不合理なことまで考え始め、
いけない、いけないと思ってやめようと
するのだけど、またしばらくすると
暗いことを考え始める。

こういうときはどうすればいいのだろう?
一つは自然にまかせるということで、
一つは心を観察することなのかもしれない
けれど、なかなか優等生風にはいかない。

安心して話せる友達と話すと
そのときだけは気分がほぐれることが
ある。
でも、また一人になるとよくない考えが
立ち昇ってくる。

まあ、メランコリックな谷があるから、
そうでないときの楽しさを感じられる
わけであって、そういう意味では
うまくできているのかもしれないけれども。

と書きながら、やっぱり心の曇りは晴れない。


2012年6月19日火曜日

ubuntuの接続設定、抑うつその他

ubuntuを昔使っていたノートパソコンに入れたのだけど、
ネットへの接続設定で例によってつまずいている。

接続設定でつまずくのは儀式みたいに毎度のことだ。

別件で、抑うつがまた出てきた。ここしばらく出てこなかった
けど、たまたま状態が比較的ここしばらくよかっただけなの
かもしれない。

両ひざにリウマチの症状が出始めた。右肩、両ひざ、
要所要所に出てきたのがなんとも、、、これと抑うつが
相乗効果であんまりよくない状況が続いている。

抑うつその他否定的な要素を「魂の浄化」みたいな
感じで捉え直すという感じの心理操作みたいなことを
やってみるけど(自己流でね)なんどもやっているうちに
擦り切れてくる。

たまには苦痛の中での高揚感に浸れることもあるけど、
こういうのって単なるMなだけなのかもしれないとも
思ったりする。まあ、そういう形の否定は単に自分を追いつめる
だけなのでよくないような気がして、なるだけそういう
風には考えないようにしている。

2012年6月16日土曜日

最近症状らしい症状を感じない

最近症状らしい症状を感じない。
とはいっても、安定の底は浅く、ちょっとしたことで
崩れることだろう。

仕事などの負荷がないことと、
自立訓練などで、一応の所属感が与えられている
こともあって、状態はいい。

でも、なぜか灰色なのだ。

患者であることが唯一の肩書きである人間から
症状までとってしまうといよいよ何も残らない。

思えば30代のころ奇妙な精神症状が起こると
苦しみ半分、でも、その苦しみと闘っていること、
そして、その苦しみになんとかめげないでいること
は生きる力を与えていたように思う。

それが今、なくなってしまって、それと共にもっと前
の時期はあると思えていた感性もなくなってしまった
ような感じがして、虚脱感がある。

躁の高揚感がなくなっただけかもしれないし、病気と
ともに亢進してきたと思われる何かが自分にとって
陳腐化して、水のように存在感を感じられなくなって
しまったのかもしれない。

精神的には灰色の安定感、そして、加齢と若いときの
無頓着からやってくる体調に対する不安感が今の私を
形づくっている。

とはいえ、ものはいい方向に考えなければならないから、
灰色の安定感なんていう言い方は贅沢そのものだ。
リアルタイムで苦しんでいる人も多かろうと思うし、この
文章読んでいる人がまさにそうなのかもしれないから。

寒さと厳しさについて

寒さと厳しさといえば、自分の中では植物なのです。
植物の寒冷適応。

熱帯雨林の中で育まれた植物たちは競争の激しいこの地
から極地を目指します。

気温の問題、水分の問題をクリアしながら厳しい環境に
適応していきます。

厳しさは参入障壁であり、そのハードルをクリアすれば、
比較的競争のゆるい世界が待っています。

アジア人の中でもとりわけ体の華奢な日本人の祖先も
またバイカル湖畔に長らく住んでいました。

なんでそんな厳しい環境に住んだかといえば、住む方法
さえ見つかればかえって温和な地方よりも安全に暮らせた
のかもしれません。

厳しい環境は裏返しの天国だったのかもしれません。

わたしの生きてきた人生は厳しかったのか温和だったのか
よくわかりません。どっちでもあるように思います。ひとそれ
ぞれ、恵まれた要素、厳しかった要素両方ある人が多いの
ではないでしょうか。

P.S 日本人が大陸のアジア人に比べて比較的体が華奢なのは
島嶼環境への適応なのかもしれません。とはいいながらこの説
も単なる思い付きなのでそんなに自信はありません。それに
時代ごとに食料事情も違いますからその辺まで考えるとどうなる
のでしょう。バイカル湖畔に住んでいたマリタ人と各時代ごとの
日本人の体格なんて考えたこともありませんから。

世俗的なことに関心は薄いけど、それでも生きていかないといけない

気分的には俗っぽいことに関心は薄い。
とはいうものの、ブログ今日何人みたなんてのは
すごく気にかかるから、そうでもないのかもしれない。

本当に霞を食って生きていけるのなら
それに越したことはないけど、この世界は
そうはできていない。

むしろほとんどの人はなんらかの意味で
競争的な環境に晒され、その中であくせく
しのいでいくしかない。

牢屋の中でさえ食は保障されているのだから、
たぶん経済的にはどうあれ、本当は食べて
いけるのだろう。

なんでこの世はそんな風にできているのだろう?
そんなことばっかり考え、いたずらに時間を
浪費しながら病気の後の青年期の後半を
生きていた。

そういうことを知るためにはこの世の成り立ち
をしらないといけないと思うから、本は濫読
ばかりしていた。でも、その結果興味は分散し
なにひとつみっちりとした理解にいたることなく
この年まで生きてきてしまった。

ある意味生きたいように生きた人生。
病気になったのは残念だったけど、
その後は定年後のような悠悠自適な
生き方を遣り通した。

家族がセーフティネットになってたので
それがたまたま可能だったのだけど。

本当にキリギリスのような人生。
キリギリスなのなら演奏旅行でも
しながら冬を乗り切っていけるの
かもしれないけれど、わたしの場合は
どうなることやら。

生きることを許される範囲で生きていければ
いい。行き倒れだろうが餓死だろうが
甘んじて受け入れるつもりだったけど、
本人はよくても周りが受け入れてくれない。
周りに迷惑をかけてしまう。

なんでそんな世の中にこの世界は出来上がって
いるのだろう?

必要な辛さ、気功のレクチャーの言葉の断片を
思い出す。レクチャーの中では必要な緊張という
ことばを使っていたけど、必要な辛さといいなおす。

現実世界の中では否定的な要素である、
ものが錆びていくこと、朽ちていくこと、
その他、熱力学に関係しそうなこの世界の
制約がこの世界にリアリティを、この世界の
豊かさを成り立たせていることは仮想世界で
学んだことだ。

必要な辛さ、たぶんこの要素を取ってしまえば、
かなりつまらない世界になってしまう。
ゲームオーバーのないゲームのように
弛緩した世界になってしまう。

そうはいいながらも、当事者として巻き込まれると
受け入れたくはない、その杯は飲みたくない
ものだ。

たぶん生きること自体が逆立ちでもするような
無理なことなので必要な辛さが出てくるのだろう。

無意識に立っていられるように、無理して生きている
とは普段思っていない。生きることは立っていること
のようになんでもないことのようにも一見見える。
単に生きていくことの辛さ、生活の辛さがまだまともに
わかっていないからそう感じているだけなのかもしれない。

2012年6月15日金曜日

書かないと書けなくなる、、、とはいうものの

文章書かないとますます書けなくなります。
でも、無理してひねりだしてもつまらない。

粗製乱造でどんどん出していくのがいいの
でしょうかねぇ。
そんなことしたら、誰も読む人がいなくなって
しまいます。私もそんなもの読みたくない。

書くテーマにさえたどりつけたらなんとか
書けるものなのですが、、、

なら、テーマを調子のいいときに出して貯蔵
して使えばいいじゃないのとくるのですが、
鮮度が落ちてしまうのです。

そのとき思いついたことで何か書きたいのです。
といいながらずるずると引き伸ばしているのですが、
じゃあ、インプットすればいいかというと、それも何か
違うような気がするのです。

頭の中に、頭のどこかに材料はちゃんと入っている
のです。
何かテーマがあれば、あっちの引き出し、こっちの
引き出しと材料並べて何かが出来上がるのです。
ただ、材料は材料であって、組み合わせて料理みた
いにしなければなりません。

そう、それ、料理。
やっぱりおいしいものを振舞わなければなりません。
材料の鮮度も大事。保存食ばかりでつくってみても
誰も食べてくれません。書く以上はおいしい文章を
つくってみたいと思うのです。

毎日料理つくらないと腕が落ちるからといって、
うまくもない料理を食べさせられるほうはたまりません。
とはとはいいながら吐き出してしまうような料理つくった
余罪はたっぷりあります。

そろそろ画面の向こうからあくびの声も聞こえてきそう
なのでこのへんで。やっぱり無理して書いてもろくなの
が書けませんねぇ。

2012年6月14日木曜日

考えすぎると馬鹿になるとはいうものの

日常生活、素朴な疑問は湧くのですが、
いちいちつっかかっていては社会生活送れません。

世間の人は考えすぎると馬鹿になるとよくいいます。
立ち止まって考えているうちにわかっていると思ってた
ことも怪しくなって何がなんだかわからなくなるからです。

私はあなたが読んでいることを知りませんし、あなたが
誰であるかも知りません。それでもなぜか知らないけれど
あなたはこの文章を読み、微かな痕跡をあなたの心に
残していきます。

そういう関係って一体何なのでしょう?袖すりあうも他生の
縁とはいいますけれど、今の世の中こういう不思議な縁に
満ち溢れています。そして、この縁は壊れやすく、縁がない
ことで縁がつながっているとさえいえないことではありません。

商業出版されている本をめくるとき、そんなことはあまり考え
ません。本は手紙である前に商品です。モノを購入するように
本を購入し、ときにはあっさりと手放します。

ここに書き付けているのは瓶に入れた手紙のようなものです。
生々しくプライベートなニュアンスに彩られた何かです。
もっとも受け取る側ではそんな思い入れもなく、街で配られる
チラシに書いている文章とあんまり変わらないのかもしれません。
それでもまあ別にいいのですが、、、。

ともかくも、私がもやもやと何かを考え、文字化したものが今
もしかしたら遠くの存在であるあなたに届いています。原初的
ですが、その不思議さを何度も何度も反芻しているのです。

おもえば、あなたの生活をいろどるいろんな道具や、その他
大きなものこまごまとしたものも遠くから誰かの想いとともに
伝わってきたものです。もしかしたら悠久とした歴史の流れ
さえそこに感じられるののかもしれません。そして、あなたが
考え付いた一工夫や、その他ちょっとしたことなども案外、
考え付かないほど遠いところまで運ばれるのかもしれません。

私たちはそれをいちいち追っかけることはできませんが、
想像を巡らせることはできます。

この文章、河のあぶくのような文章のひとつと言い切って
いいでしょう。少なくとも遠く伝えられる文章のようには
思えません。読む人もせいぜい多くて5人くらいなのでは
ないでしょうか。私も興にまかせて書き散らしただけですし。
でも、これを読んでいる今、あなたに届いたことだけは確か
なのです。そこに今の世の中の不可思議さの一つが凝縮
されているように思います。

タンポポの落下傘が見知らぬ土地に着陸した瞬間みたいな
ものです。

2012年6月13日水曜日

偶然撮れた一枚

SSの面白いところはいろんな角度から撮ることができることがそのひとつで、
偶然の効果で本人の能力を越えたものがたまに撮ることができることです。
万華鏡まわしてみるような面白さがあります。

能力から来る制約と境遇から来る制約とどう折り合うか

能力から来る制約
境遇から来る制約

俳句や短歌が文字数という制約が前提となって
つくられるように、個々人にはそれぞれの場所に
おける制約がある。

それを前提にして、個々人は自分の器に何かを
盛っていくわけだけど、、、
頭ではわかるのだけど、なかなか受け入れがたい
のですよねぇ。

そういうある意味不平等さがこの世界のリアリティを
作り出しているということもやっぱり頭ではわかるの
だけど、当事者として巻き込まれると痛みというもの
を感じます。

舞台に何度も立つうちに、自分は主役の器ではない
と痛いほど悟り、そしてその上で自分は舞台上でどの
ような役割を引き受けるべきなのかと自分に残された
可能性を探っていくわけです。

以上全部比喩的に自分の最近のあれこれを反省して
文字化してみたものです。

片一方には上には上がいるという世界があり、
片一方には奈落の深淵がぱっくりと口を開けています。

運命のいたずらで、私はたまたま、まったりとした
ゆるい日常世界に住んでいます。

なぜかフンザを思い出します。80年代後半に、
カラコルム地方のフンザを訪れました。風光明媚
なところで、同じ宿にはカラコルム山脈にアタックする
登山客も逗留していました。

宿からは「解のない山」として恐れられたウルタル峰や
「悪魔の尻尾」の異名をもつラカポシという7000m級の
山が見えます。

そして、眼下にはインダス川の上流のフンザ川が流れ
深い谷になっています。

私はトレッキング気分で「ここ」までやってきたように
思います。「なんでもない一般人」であり、ごくごく
平凡な家庭に生まれた、平凡な人間だったと思います。

80年代後半、誰でも世界旅行する時代が来て、時代が
時代であれば、京大探検部などが訪れた地域とほど
近いあたりを誰でもない私がうろうろしました。

今は誰でも表現する時代になって、ローカルな自分の
周りの世間の中では、あるいは町内レベルであれば、
進取の気性に富んだという表現がぴったりなのかも
しれませんが、おっちょこちょいな感じで何かを表現
する一人となりました。

フンザを訪れる前にカシュガルで何泊かしましたが、
カシュガルなどはNHK特集『シルクロード』でお茶の間
で画面の中の世界としてただ憧れとして、そして受け取る
ものとしてそこにありました。

80年代にバックパッカーが流行し、個人が世界旅行する
ようになったように、今は個人が自分の世界を表現する
ようになりつつあるのだと思います。

個々人が世界の中に投げ出され、自分探しとしての旅を
見つけていったように、今は制約を持った個々人が
メディアによる自己表現の世界に投げ出されています。
スーパーヒーローではなく、ただの個人がそういった世界
に投げ出されている文脈こそ意外と面白いのかもしれません。

押さえ込まれていた何かが発現するかもしれないし、
個性がないとされていた人々の中にある個性が
そして、多様性が引き出されうるからそう思うのです。

P.S 表題とあまり関係のない話に終わってしまいました。
さらに関係ない話しますけど、書きながら「ハイポニカ」という
水耕栽培のシステムを思い出しました。環境さえ整えば
トマトも樹木のような姿になるのですね。そう、環境さえ整えば。
今のわたしもあなたも環境が整わないでいじけてしまった
街路樹みたいなものかもしれません。今ある姿が絶対的な姿と
考えずに、もっと柔軟に自分というものを考えてもいいのかも
しれません。そして、環境というものもある程度は自分でまた
作れるのだと思います。今の環境を受け取ることも含めて。

2012年6月8日金曜日

エピンビという名前の由来について

私のアバター名のEpimbi(エピンビとよびます)は
どこから来たかというとEpiはランの仲間の
Epidendrumの略で、mbiは満州語の語尾です。

Epimbiで一発で検索できるように、新規な合成語
にしました。たぶんそんな言葉ないだろうと思って。

ところがあったのですねぇ。ほかならぬ満州語に。
検索したらフランス語の満州語についてのテキスト
が出てきて、翻訳機能とかで調べてみると
「飽き飽きする」だったのです。

ブログの表題について

ブログの表題『Cymbiノ青キ心』どこからきているのか
不思議に思っている人もいるかもしれません。

CymbiはCymbidiumの略で蘭の花にそういうのがある
のです。

ただし今の人にとってのCymbidiumのイメージと私の
世代のそれとは若干違うかもしれません。

今のCymbidiumのイメージは安売りされるようになった
バナナみたいなもので、昔は高く、私の幼少の頃でも、
それなりにまだ高級なイメージがしていたのです。

Cymbidiumには青い花がありません。

ラピスラズリのような深い群青の青い花の心を
私は求めたのかもしれません。

心の底のどこかにある青い花の心。
私の心の底というよりも、まわりと関係をもちながら
鏡のように外のイメージを映しこんだ人の心の底の
ほう。

『青い花』というノヴァーリスの小説のことはしらない
うちの記憶のどこかに紛れ込んでいたのかもしれません。

読んだ本の断片や見た風景、体験したさまざまな
出来事、それらのイメージを素材に糸をつむぐように
何かを作っていきます。

アリアドネの糸をたどりながらこの世界という迷路を
通って、『憧れ』にたどり着くそういう巡礼の旅を
モチーフにしたものでも、またあるのかもしれません。

イメージつらつら

イメージについてつらつらと書きます。

子供の頃は汽車が好きでした。
家は鹿児島港の近くでしたが、
海岸近くに貨物線があって、
結構遅くまでSLが走っていました。

貨車のにおいとかさまざまな類の貨車
などが印象的でした。

あと、鹿児島の百貨店の老舗、山形屋の
中4階におもちゃ売り場があって、
一番の楽しい場所でした。
手品用品売り場には名物の手品師の
おじさんが常駐していたり、私の好きな
鉄道模型のジオラマがあったりしました。

母と買い物にいくたびにジオラマを
食い入るように見てました。
鉄道模型買って、買ってといつも
泣き出して、むりやり母から手を
引っ張られるものでしたが、
鉄道模型はNゲージ70年代当時で
8800円。epimbiの家の家計では
とてもとても無理でした。

でも、逆に買えないとなると
子供の想像力の中で汽車のイメージ
が働きだすのです。

マッチ箱があると、マッチの軸で
汽車を描き、広告の裏にも汽車、
裸の地面(当時はけっこうありました)
があると、地面に汽車を書きました。

汽車のイメージで頭が満たされていました。

その後、いろいろ興味の対象は移っていく
のですが、自分が何が本当に好き
なのか分からなくなったとき
鉄道写真の本を眺めます。
初心にもどる感じでですね。

あと、幼少の頃の私の頭を支配してた
イメージは縁日のミドリガメですね。

なぜか知らないけれど、縁日の
ミドリガメが可愛くて、カメすくいに
六月灯(鹿児島の祭り)のたびに
行っていました。

私の想像の中で当時住んでいた
長屋の物干し台に温室をつくって、
温室の中に池をつくって、ミドリガメ
育てるというイメージで遊んでいました。

欲しいけど、買ってもらえない。
買ってもらえないから想像の中で
イメージで遊ぶ、こういうのがパターン
でした。

でも、大人になってみるとかえって
そっちのほうが幸せでもあるのですね。

今も書くことや作ることのイメージが
わいたりわかなかったりするのですが、
その基礎体力つくったのは幼少時の
イメージ遊びでしょうね。

それは書いたり作ったりすることだけでなく、
病気をどう受け止めるかみたいなところにも
いい影響を与えていたのかもしれません。

2012年6月6日水曜日

私の見る夢について

私はたまにこういうたぐいの夢を見る。
蘭の花が出てきたり、北斗七星が出てきたり、
象徴的なモチーフにはことかかない。

夢の素材は昼の生活の中で取り入れる
わけだから、象徴的なモチーフが出てきたと
しても単に読んだ本が出てきたというだけの
話かもしれない。

夢といえば、また母の話なのだけど、
母は夢を字義的に解釈する。

夢の中で祖母が出てきて、徳之島の
義名山神社におまいりにいってくれと
告げられたら、いってしまうような人だ。

実際におまいりにいってしまった。
義名山は私の先祖がそこの出なのだそうだ。
義名山には徳之島カムィヤキ陶器窯跡があり、
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=192732
天人女房伝説というのが伝わっている。
http://www16.ocn.ne.jp/~shiokaze/amore.html

祖母も不思議なことをどちらかというと
いう人だった。そういう家族環境の中
で育ったので合理的にあろうとしても、
神秘的な血が体に流れているのかも
しれない。

シマウタの小川学夫先生の話によると
徳之島には300年くらい昔の人の感覚が
いまだに残っているらしく、母のいうことを
聞いているとそんな感じもしてくる。

母の話し方なのだけど、先祖が生きている
かのように話す。母の話の中で先祖が生きている。

昔、韓国語私が習っていた時期があって、
韓国ではお墓の前に家族があつまって、
まるで先祖が生きているかのように振舞って
そういう空間をつくりあげる文化があるのだそうだけど、
母の仏壇周りでの話し方もそういう感じが残っている。

アニメーションが生命のないものに生命を与えるごとく
母は先祖に生命を与える。

母まで引き継がれたアニミズム的な発想は私の
中にも流れているのかもしれない。

P.S 母は洋裁をするので針供養というものをやる。
母からまとまった世界観を聞くことはないし、
母の父はどちらかというとインテリで合理的な人間で
霊などというものはないのだと戦前、徳之島にあって
母に伝えたくらいなので、別に狂信的にあの世的な
ものを信じ込んでいるというたぐいの人じゃない。
それでも断片的にアニミズム的なものがそこかしこに
散りばめられている家庭環境の中で私は育った。

夢の本人なりの説明

最初のほうに出てくる弁護士は夕べのテレビドラマに出てきた
弁護士が印象深くて出てきたのだと思う。

ドラマの名前は『リーガル・ハイ』。
言葉のお化けみたいな弁護士が出てくる。

その親のほうの弁護士のイメージがそのまま夢の素材に
なったのだろうと思う。

余談だけど、私、テレビほとんどみないのだけど、
最近はBS11の深夜アニメとか見はじめて、テレビを見る
習慣が復活した。

で、『リーガル・ハイ』はなぜか引き込まれた。
なんだか、作り手の熱い気持ちが伝わってきたようだった。

韓流ドラマが席巻したり、デジタル化がきっかけになって、
視聴するのをやめた人もいたりして、テレビの地盤沈下が
気になっていたのだけど、自分のどこかで作り手にがんばって
もらいたい、もし、いい番組があったら支える側にまわりたい
と思っていたのだけど、ついにそんな番組に出会えたような
気がした。

テレビの話はそのへんにして、夢に戻ると、
ユング派的に見れば、老弁護士は老賢者ということに
なるのかもしれないけれど、夢の解釈はやめにして、
自分の夢を素材にして、それについて思ったことを語りたい。

セノイ族は夢みると夢についての話を周りの人とするの
だという。夢から各人各人が何かを学んでいくらしい。

蘭のようでもあり、カエルでもあり、モルフォ蝶でもある
コンジュガエルなる存在が出てくるけど、コンジュという
言葉あるのかないのかわからなかったので検索したら、
紺綬褒章という勲章がでてきた。
wikipediaによると「公益の為私財を寄付し功績顕著なる者」に
授与される ということだ。

公益という言葉でひっかかることがある。昔、鹿児島で
留学生の世話をしてらっしゃった東文子さんという方の
経営するキャビンという店に通いこんでいた頃、なぜだか
しらないけれど、洋裁店をしている母が息子がハマッてるらしい
東さんにライバル意識みたいなのを向け、
私に、「東さんの仕事は立派だけど
じゃあ私の仕事はどうなの?」と言った。私も洋服を縫ったり、修繕
したりすることで社会のためにお役に立っているわよ、という
ことだと私は受け取った。

コンジュガエルが五葉の葉に変容し、それ自身が変形して
縫い合わせられ、メビウスの輪のようにひっくり返ったり
しながら結びあわされていく、そして、卵を産む玄室を
作っていく。

玄室、ピラミッドのイメージがして玄室という言葉が出てきた
のだけど、玄室という言葉は地下式横穴という
古墳時代の南九州独特のお墓に関する名前から
出てきたのかもしれない。縁起でもない話なのだけど、
私の無意識が地下のほうへ潜っているような感じがする。
夢の中で縁起でもないモチーフが現れても字義的に解釈
しちゃいけないらしい。

卵って母が作ってきた何かであり、私が作ろうとしている
何かなのかもしれない。生きた証として残していくなにがしか
のものである。

五葉の葉がモルフォ蝶の光輝く青い色に変容し
あっというまに茶色っぽく枯れて行く。
ユング派どっぷりだけど、錬金術的なイメージ
がする。青い色は錬金術でよくでてくるラピスの
色でもある。茶色っぽく変容していくのは腐敗
であり、ニグレド(黒化)といわれている段階。

風が吹き、ハラハラと茶色っぽくなった羽は
散っていく。自然に還っていくイメージだけど、
存在することは自然からの借り物だから
自然に還っていく。生々流転するこの世の
ルールだし、その上で私たちはつかの間の
間、存在することを許されている。

ものを作る人はある意味幸せだ。本人がいな
くなっても、本人がつくったものはしばらくの間
この世に留め置かれる。でも、歴史の流れの
中で作ったものも、本人の名前も消えていったり
忘れられていく。存在するものはすべて大きな
河に流れる小さな渦巻きのひとつなのかもしれない。
大きい渦巻きだったり、小さな渦巻きだったり、
渦巻きがまた違う渦巻きを引き起こしたりいろいろ
するけれど、大きな河はすべてを飲み込みながら
今も昔もとうとうと流れている。

大いなる原理はそうなのかもしれないけれど、私は
流れを上から観察するものではなく、流れに
まみれる当事者だ。少しでも幸運が舞い込むように
願いながら、ばたばたと日々やり過ごしていくしかない。

コンジュガエルの夢

夕べみた夢

老人の弁護士がテレビのショーに出演して、
カメラの撮影をする。

被写体は熱帯のマニアックな着生蘭。
コンジュガエルという名をもっていて、
蘭の花であり、五葉の植物の葉であり、
カエルであり、モルフォ蝶の羽でもある。

五葉の植物の葉になったコンジュガエルは
それ自身で裁縫をして五つの葉を縫い合わせ
卵を産む玄室を作り上げる。
メビウスの輪のように葉が変形しながら、
それ自身の力によって、
縫い合わされていく。

縫い合わされていくうちに、五つの葉は
モルフォチョウの羽に変容し、
玄室は完成し、
みるみる青色の羽は茶色っぽく
枯れてくる。

風が吹き、茶色っぽくなった
羽はハラハラと散っていく。

卵がどうなったかよく
覚えていない。

2012年6月5日火曜日

宿命に抗うこと

自分って努力型の人間なんだなと思う。
もちろん、いいかげんな人間でもあるけれど。

小さい頃からいじめられ続けてきて、
その境遇から抜けようと無意識に思い続けて
いたに違いない。

もっとも、いじめといっても昔風のいじめであり、
不登校に追い詰められるほどのものではない。
逆に12年間、伝染病以外で欠席しなかったから、
それが可能だったくらいのいじめであって、
今のいじめに直せば、からかいぐらいのもの
かもしれない。

でも主観的にはスケープゴートという感じで、
その言葉しったとき、まるで自分じゃないかと
思ったものだった。

遺伝的に弱い人間だったと思う。でも、その
弱さを認めたくはなかった。弱い癖に負けん
気だけは強かった。将棋に負けて泣き出す
タイプだ。

高校の頃、いじめの続く日々の裏で、
人形劇三国志から兵法という概念を知り
経営者向けの孫子の兵法の読み物を
読んでいた。

自分なりに努力し続けてきたけど、
青年期半ばで折れてしまった。

諦めが悪かったのでそのあとも
努力した。正しい努力だったかは
知らない。

でも、生地としての自分はやっぱり
ちっぽけな奴なんだと振り返ると思う。
ちっぽけな奴がちっぽけな役割に
満足できないから、努力に努力を
重ねる。

自分の宿命に抗いながらも、
そろそろ限界を自覚すべきとき
なのかもしれない。

限界を受け入れてどうするのだろう。
努力すること自体は慣性の法則のように
これからも続いていくことだろう。
たぶんいろいろあって疲れているのだろう。

どうせまた傲慢な気分が立ち昇ってくる
だろうサ。

2012年6月3日日曜日

言葉が支えてくれる

言葉って何なのだろう?
中身のこもっていない言葉は空手形みたいな
感じだ。でも、中身がこもっていないように見えて
組み立てた言葉によって支えられることもあるから
不思議だ。

今、ライフイベントの中にいる。みんなライフイベントを
越えて人間として成長していくのだけど、逃げ出したい
気分ももちろんある。何日か前に物語としての深みの
ために人間の弱点はつくられているみたいなこと書いた
けど、重い言葉として今味わっている。カネ、性、そして
生命、人間の弱点だ。

それでも、言葉ってそれらの人間の弱点に向き合う重要
なツールのような感じがする。ひ弱な人間だけど、自分の
運命みたいなものを受け止める言葉をもっている。

本当にひ弱な人間。昨日は頭がほわーっとしてあまり
難しいことが考えられなかった。今日もほわーっとした
感じが残る。微妙に崩れた程度で済んでいるけれど、
追加注文で次なにかきたらアップアップしそうな感じ。

日ごろ偉そうなこと書いたり、今も書いているけど、
ここ一番というときからっきしだめだ。一番評価されない
人間のたぐい。でも、そういう脳を使いながら残りの
一生を渡っていかないといけない。

堅牢な脳の人間はここ一番の負荷に強い。
脆弱な脳の人間は負荷がかかると簡単に音を上げてしまう。

脆弱な脳を使いながら、ライフイベントをなんとか越えようと
努力している。ライフイベントを越えることで人間として
少しでも成長できることを信じながら。

脆弱な脳であることを自覚していたから
ひたすら言葉を磨いてきたのかもしれない。

このライフイベント越えてもいつかさらに大きな波がくる
だろう。そして、人間って結局最後の波で砕け散る宿命
をもっている。

願うなら、そのとき少数の人でも「よくがんばった」と
思ってくれるような人生を生ききってみたい。
願いがかなうのなら、、、

2012年6月2日土曜日

波と軽い会話

ちょっといろいろあって(曖昧な書き方ですいません)
波がきて、頭がほわーとした感じになって、
一人でいるとあんまりいい感じではないのですが、
チャットとかやるとその時だけ気分がほぐれます。

チャットとか重い話は向かないのですが、
軽い会話でも、会話すること自体によって気分が
ほぐれます。

あと、思ったのですが、非定型精神病、普段のとき
は健常者と大体状態はほぼ同じなのですが、何か
があったりしたときには、今回の場合は頭がほわー
とした感じになったり、顔の神経がぴりぴりしたり、
書類が一度にどさっと来た感じがして、判断がうまく
効かなくなったりとかやっぱり大変だなあと思いました。

状態も刻一刻と変わるのですが、今はブログ書くこと
によって気分もしゃっきりする程度には落ち着いています。

まえ、職場にいたときも、調子悪いときは「書類がどっさり
きた状態」になって判断が効かなくなりました。

父が死んだときには一時張子の虎状態になりました。
外面上は取り繕っているけど中身は張りぼてみたいな
感じですね。

反省ができるくらいなので、今、リアルタイムでは
落ち着いています。

問題はまた一人になったり、就寝時だったりなのですが
心配しても仕方のないことかもしれません。