はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2011年12月31日土曜日

鹿児島在住のOさんへの手紙 このブログについて

お手紙ありがとう。

(ブログについて)
書くのはいいのだけど、書いたことには責任もたないといけないから、
だんだん身動きとれなくなっているところです。
自分の心の底で何を信じてるのだろう?なんて
考え出すとまったく身動きとれなくなるのです。
まったく相容れない立場の人たちに八方美人的に
接していたから、、、
自分の軸にはゆるぎがないなんて格好いいこと
いえる人が羨ましい。もっともこれはファッションの
問題ではなくて、自分の世界観の中心構造の話だから、
大問題です。

そういえば前、私の思想についてはなしてくださいって
おっしゃってましたよね。

私は心霊写真とかみて育ってますから、
高校時代までかなりオカルトの色合い濃いです。
でも、ムーとかトワイライトゾーンとか買ってよむほどでは
ありませんでした。立ち読みで済ましていました。
その一方で大学にはいったら植物学勉強したいと思ってました。

大学はいって物理学概論の楽勝科目があったのですが、
お話好きな先生の最後の授業のとき、21世紀になって
発見されると予想していることを書いてください、みたいな
ところで、「霊の実在が証明される」なんて書いたおばかな一年生でした。

さて、2年3年と生物学の授業が続きます。細胞生物学とか分子生物学の
授業で細胞のメカニズムがいやというほど学ばされます。
(といってもほとんど記憶に残っていません。)その過程の中で、
生命は機械なんだ。すべて仕掛けに沿っているのだということを
明確に学ばなくてはなりませんでした。

3年生くらいでしょうかねぇ。仏教系の怪しそうなサークルの勧誘に
ひっかかって、相手してしまって、実験室までずるずると
勧誘目的の学生がひっついてきました。
そこで「あなたは何か信じるものがあるのですか?」
みたいなことを聞いてくるのです。
「植物学が私にとっては宗教みたいなものでしょうか。」
ってそのとき答えたら
「それは具体的にどういうことですか?」みたいに聞いてきて、
自然の仕組みの精妙さから何かを学んでいるみたいなことが
いいたかったのかもしれませんが、うまく答えられませんでした。

さてと、その後、何年かたって発病するのですが、生物学の教えは
現実界に私を引き止めるための何の役にも立ちませんでした。

以来、私の脳の中はしばらく前のスーダンとかソマリア同様内戦状態です。
科学的世界観も、神秘主義もしっかりと陣地をもっていて一進一退を
繰り返しながら、戦況いまだに定まりません。

ただ、私の科学的世界観のほうも、神秘主義のほうも
「本当のことを知りたい」という
共通の目的をもっていて、「世界の根源について自分なりに理解したい」
という青臭い願いをいい歳してもっていて、「考えても仕方のないこと」と
思えず、時間だけが過ぎてしまった、みたいな感じです。

P.S この文章もったいないのでブログのねたとしてそのまま使います
あしからず

2011年12月30日金曜日

夢の出口

昔、変なこと考えたことがあった。

「願い」自身の願いって何だろう?とか
「祈り」自身の祈りって何だろう?とか

カミサマにはカミサマの夢があって
その夢の出口が
この薄汚れた、不完全なる
宇宙なのではないかと
思った。

青年のときよく思った。
なんでカミサマはこんなにも不完全な
強いものが弱いものを食ってしまうような
世界をこさえたのだろうって。

強いものはますます強くなり
弱いものはとりあげられちゃうような
不完全な世界をこさえたのだろうかって思ったものだった。

でも、人々の夢の出口が
さびたり、こわれたり、
自分の才能の関係上
これが精一杯のものだったりするように、
宇宙全体みても構図は同じなのではないか
と思った。

厳然たる熱力学の法則。
奇跡を起こすには
インチキな手品を使うしかない宇宙。

全知全能のカミサマをもってしても、
これが精一杯というところ
だったのかもしれない。

現実に存在してるものを
もうちょっとやさしい目でみてみよう。
自分に思い描くことすらできなかったものが
大部分なのだから。

消費者としては不満があったとしても
夢の出口にそれぞれのものが
出てこれたものなのだから。

P.S 夢の出口=現実というモチーフは自分で考え付いたものではありません。
http://shinri-care.com/blog/2010/09/15/437/
この文章読んで、刺激うけて、自分ならどう書くだろうと思って書いたのが上の文章です。

謎めいたメモ書き

エヴァンゲリオンと幻魔大戦の違いは何だろうか?




作り手の真剣さがぜんぜん違うのではないか?

エヴァはちりばめてるけど、背景には意味はない。

視聴者が勝手に意味をつくってる。



幻魔のほうは作り手側の人生そのもの。



あちら側の存在を信じているかどうかがまったくちがう。



信じてないと面白いものはつくれないのではないか?



何をどう信じてるかが問題になる。



作り物の世界観なのか?



世界観そのものを信じてるのか?



ファンタジーの世界が実在すると本気で信じてる。

にもかかわらず宗教臭い世界に落ち込んでいない。

このバランス感覚を保つにはどうすればいいのだろう。



宗教の世界もファンタジーの世界に含まれる。



もっとも基本的な要素は媒体だ。

宇宙というか存在は一枚の紙切れなのではないか?

時間を無為に過ごさないこと

私も現在ニートそのものなので、上から目線で
あまりえらそうなこといえないのだけど、
「職安にいく。」
「自分のやれそうなもの、やりたいものがない。」
「だから何もしない。」
というサイクルはあまりよくないと思う。

職に就けなかったとしてもそのことは縁もあるの
であまり自分を責めても仕方がない。

むしろ大事なのは時間を無為に過ごさないことだと
思う。

かといって別に資格試験を目指しましょうということ
でもない。
自分の単なる意見だけど、みんな同じ出口に殺到
している感じがする。裏に道ありってあるんじゃないか。

誰でもやれそうなことは図書館で過ごすこと。
堆肥づくりのように、長い目で見て自分を肥やしてくれそう
な本をじっくり腰落ち着けて読むのもいいと思う。

時間があって、ゆっくり本が読める。これもある種の贅沢
だと思う。そういう時間が必要なのにそういう時間がとれない
人は多い。

そこで尺度をおもいっきり長めにとってみたらどうだろう。
いま、仕事してないと思っている。
でも人生全体を尺度にして、全体として帳尻を合わせて
みたらどうだろう。

今、図書館でじっくり本を読んでいる。そして、それが
未来の自分にとってかけがえのない財産となるのなら
今、しっかり仕事していることになるのではないだろうか?

世間の人の目のことはとりあえず、忘れよう。
自分の未来のことを、遠い先にあるほのかな希望の光
だけを信じよう。

ひたすら北極星の方角に歩いていったら、いつかは
砂漠を抜け出すことだろう。そんな感じでひとつの方針
のもとに、同じことを繰り返していったら、つもりつもって
自分を支えてくれる力になるかもしれない。

人生そんなに甘くないのかもしれない。
努力が報いられるとは限らない。
でもそれは結果であって、
やれるだけのことはやったと思えれば、
自分が自分を救ってくれると思う。

2011年12月29日木曜日

あるがままの表現って何だろう?

「あるがまま」という言葉は日本人好みの言葉だとおもう。
「あるがままの表現」なんて意識すると遠くなってしまうの
かもしれない。でも意識してしまった以上仕方がない。
すべてを含めてあるがままなのだから。

孫悟空が結局のところお釈迦様の手の間から出られなかった
ように、意識しようがしまいが、それが結局のところ自分なの
だろう。

私はこのブログを通して人間を表現したかった。
ブログという窓の中に生を営んでいるある種の人間の姿を。
動物園のライオンが退屈そうに檻の中を歩いているように、
特になんていうことないのかもしれない。

保護室の中だけで十分なのに、世間に自分を晒して、
ブログという部屋の中で個人情報を垂れ流している。

何が面白いのだろうと思う。そんなに世間様に自分を
晒したいのか?そのあたりの心理状態は自分でも
よくわからない。

目立ちたいのだろうか?

人間だから確かにそんな欲望もないこともない。
カラオケで人前で歌うことも、宴会芸とかで
周囲に笑ってもらうことも嫌いではない。
むしろその方面の欲望はかなり強いと思う。

でもその一方で目立ちたくないという欲望もある。
目立ちすぎて、友達が増えたら
ひとりひとりとゆっくり時間つぶす楽しみは失われる。

しっかりと話せる人の数ってどんなものなのだろうか?
片手で足りるという人もいれば、両手で足りるという人
もいる。友達の席数はそんなものだ。

少数の友達とかけがえのない話をしながら
好きなものを作って暮らす。

なんと贅沢な暮らし方なのだろう。
もし、本当にそんな暮らし方が可能なのならば。

中和滴定といって酸や塩基の濃度を調べる操作
があるのだけど、調べる溶液を中和させるのが
難しい。酸性かアルカリ性になって中和してくれない。

ちょうどいい暮らし方ってたぶん、
中和したところでバランスを保つ難しさと相通じるもの
があるように思う。

貧乏か忙しいかでほどほどというものは世間は
許してくれないのかもしれない。

今の暮らしは夏目漱石の「それから」の大助みたいな
状態で高等遊民というか、あまり肩身は広くない。
働かざるもの食うべからずというけれども
私の場合は家族がセーフティネットになっている。

起承転転転でどんどん話がずれていく。
これも私のあるがままなのか。

頂上を目指さない山登り

屋久島の植物学実習の話が出たのでついでに書いておこうと
思う。80年代の終わり、広島大学の学部生時代、植物生態学の
実習で屋久島を訪れた。

屋久島の森の中では私の好きな野生蘭にたくさん出会えた。
ヒメトケンラン、トクサラン、ツルラン、ミヤマムギラン、
印象深かったのはルリシャクジョウだ。これは蘭の仲間
ではないのだけど、植物図鑑の中では蘭の近所だ。
http://kasugak.sakura.ne.jp/comment/rurishakujou.html
不思議な感じの植物でしょう?
腐生植物といって、キノコの仲間と共生しながら
栄養をもらって生活している植物です。

ルリシャクジョウでなんとなく私がイメージするのは
宮崎駿の映画「もののけ姫」の中に出てくるコダマ(木霊)
です。
http://khosanroad.blog35.fc2.com/blog-entry-437.html

もののけ姫のロケ地は屋久島だったので
私のイメージはビンゴなのかもしれません。
”もののけ姫” ”コダマ” ”ルリシャクジョウ”で検索して
ヒットしなかったので私が第一発見者かなあ(妄想かも)。
もしかしたら、そっとしておいたほうがよかったかもしれません。

生態学の先生について屋久島の山登ったので、
木の種類教えてくれるのです。それが贅沢でした。

そしてもうひとつ印象深かったのは頂上まで行かずに
下山したこと。目的は植物だったので頂上を目指さなくても
よかったのです。そんな山登りもあるのだと思いました。

そして、頂上を目指さないということは何か深い意味が
あるようにもそのとき思いました。大事なのは何が目的か
ということ。目的を達成することと、頂上を目指すことは
微妙に違うことなのでした。

鹿児島からは南十時が見える(らしい)

英語版のほうで薩摩のはなしになったので、こっちでも薩摩の話をしよう。
私は小学校3,4年生は天文少年だった。
私の小学校の横が科学館で、一番上の階にプラネタリウムがある。

もともと、科学館にいくお目当ては地下の階にあった巨大な鉄道模型の
パノラマだったのだけど、いつしかプラネタリウムに入り浸るようになった。

そのころはプラネタリウムは手動で動かしていて、説明も毎回人が
行っていた。

担当する人によって微妙に説明が違うのが楽しみで、繰り返し、
繰り返しプラネタリウムの番組を見ていた。

子供が同じお話を倦むことなく聞きたがるのとどこか似ているの
かもしれない。

番組の最後のほうに、ギリシャ神話のスライドショーがあり、
古風な絵柄のギリシャ神話の画と背景音楽の「禿山の一夜」(Night on Bald Mountain)
とか「フィンランディア」(Finlandia)こういったものが刷り込まれるような感じで幼いころのなつかしい思い出になっている。

幼いころになじんだギリシャ神話についての記憶は大人になって
ユング心理学の本読んだときにとても助かった。これは今の人が
ゲームを通して、三国志の武将の名前となじんでいくのと似ているのかもしれない。

プラネタリウムに話を戻すと、私は南の星座にあこがれた。
日本から完全に見えなくなる星座は88ある星座のうち
たった4つで、南半球の夜空の星座も端っこが日本でも見えるそうだ。

たとえば南十時星の上の二つの星は鹿児島からでも見えるらしい。
でも残念ながらみたことがない。南の海の水平線が見えるところの
場所はネットとかで調べたらわかるのかもしれないけど、
自動車もっていないので行くことができない。

なんとかがんばればいけないわけではないだけに悔しい。

嬉しいのは学生時代に屋久島に植物生態学の実習でいったのだけど
その折にりゅうこつ座のカノープスをみたこと。中国名、寿老人という
星でたいへんおめでたい星なのだ。そして、シリウスについで全天で
二番目に明るい星でもある。

最近また、天文が身近になっている。放送大学の鹿児島学習センター
の客員教授の一人が天文学の先生なのだ。宇宙の話をいろいろ
聞くのが好きだ。難しすぎてついていけないことも多々あるけれど、
自分の世界観広げるにはとてもいい機会だと思っている。

2011年12月28日水曜日

どういう物語の中で生きていくべきなのか?

世の中にはいろいろな物語がある。

個人の物語、家族の物語、、、、宇宙の物語。
自分はどういう物語の中で生きるべきなのか?

物語には筋書きがあって、その筋書きの中で
役者は役割をもらっている。
自分は結局のところ何と関わっているのだろう。
そのものとの関わりの中でどういう意味を
どういう価値を担っているのだろう?
って考えてみると、歴史の中での自分について
自覚されることになる。それがどんなささやかな
歴史であったとしても。

生きていく限り、痕跡を残し続ける。
時間を汚しながら、恥を重ねていくことでもある。
世の中そのものが媒体と化した世界の中で
あれこれ考えることは多い。

微化石のように、何かについての情報を担いながら
呼吸するように情報廃棄物を吐き出している。
時間の地層の中にそれらは埋もれていくのであろう。
有孔虫の微化石のように、周りに存在している
情報環境を反映しているものなら幸いだ。
周りに存在している何かを閉じ込めて、
表現として、痕跡を残していく。

近くにあるもの、遠くにあるもの
いろんなものを表現の中に閉じ込めて。
有孔虫がまわりにある砂粒を殻にくっつけて
我が家としていくように。
http://foraminifer.blogspot.com/2011/08/construction-material-of-foraminifera.html

データベース全体を遠心分離機にかける

データベース全体を遠心分離機にかける
そうすると何が残るのだろう?

ちなみにデータベースって自分の中の概念みたいな
ものでネットその他史料になりそうなもろもろのもの
だ。

今、ここで何かを表現しても、きっと埋もれてしまうだろう。
あるいは今、時代の表面で活躍されていらっしゃる方々
も歴史の中で忘れられてしまうかもしれない。

ありきたりな言い方だけど、さまざまな表現は篩にかけられて
残ったものだけが歴史の中で場所を与えられる。

ありきたりな言い方だけど、時間が遠心分離機にあたる
のだろう。

自分の中にも小型の遠心分離機をもちたいものだ。
時間に揉まれる中で、自分がごみの側に分別されるだろう
ことは悲しいことではあるが、せめて、おなじく、ごみのがわ
にひきよせられるもろもろのものの中から、何かを救いたい。
そんな力が自分にあるとはとても思えないけれど、清き一票
として正しい投票を行いたい。

自分が何かを選択すること、それは小さな投票行為だ。
自分の部屋の中に、あるいは頭の中に何かが残り、
次の人に伝えられていく。

何を伝え、何を伝えないか。それぞれの人がゲートキーパー
としての責任を担っている。

ある出来事なのかもしれないし、作品なのかもしれないし、
何かの名前なのかもしれない。

あなたの部屋、あなたのパソコン、そしてあなたの頭は
もしかしたらノアの箱舟みたいなものかもしれない。

2011年12月24日土曜日

確かに永遠の消費者ではなく、永遠の視聴者でもない。だけど、、、

私は常々、一庶民として、プロフェッショナルな人々が
時折見せる居丈高な態度をして、庶民を見下すような
まなざしに腹を立てていた。

庶民は永遠に消費者であってほしい、永遠に視聴者で
あってほしい。作り手側には入ってきてほしくないといわ
んばかりの態度に。

そういう怒りを腹の底に抱えながら、いろいろものを
つくってきて、夕べは逆に対談者として見せる側に
まわってみたのだけど、、、

結論から言うと、プロフェッショナルな方々ってそう
いう風に呼ばれうるだけの修練を積んでこられた
のだと思う。プロとしての誇りには誇るだけの歴史
があるのだということ痛いほどわかった。

私はようするに子供だったのだ。何も知らない
ある意味、無垢な子供。いい歳をしてるのだけども。

怖いものしらずで今までいろんなことしてきた。
その過程で虎の尾を何回踏んできたのやら
見当もつかない。

若さの特権だったのかもしれないし、
知らぬが花ということも私の場合あったかも
しれない。

何もしらないが故に、普通の人が怖れを感じる
場面で、怖れを感じず、分不相応ともしらず、
さまざまな人の時間を拝借してきた。

たぶん時間泥棒をした時間分の何かは
暗に陽に私が表現してるものに出てくる
ような感じがする。

ネームドロッピングするまでもなく、
私の背後に私以外の人の影を
感じる人は多い。

私は単に過去にあった人の
影に過ぎないのかもしれない。

過去にあった人や、その刺激
を受けて読んだもの。

パッチワークなのかも。

2011年12月23日金曜日

I bigin new blog

I begin new blog.
http://epikowbow.blogspot.com/

There text is scribed by English.
I will try to show my art over the sea.
I would like to continue to make contents in the second life.

性懲りもなく新しいブログはじめました。

今夜の対談のリハーサルを終えて、気をよくした私は
欲深いことに、英語のブログを作ることにしました。
http://epikowbow.blogspot.com/
And検索で英語での病名とセカンドライフの画像検索やって
みたのですが、ぜんぜん出てこなかったので、
もしかしたらやってみる意味あるかもと思ったのです。

しばらくはtwitpicにある昔とったスナップショットに
英語のタイトルと解説をつけてコンテンツとする予定です。

twitpicの画像は検索で出てこないので、もったいないこと
してしまったと思っていたところなので、、、

2011年12月22日木曜日

私の心の底にあるものって何なのだろう?

今、書き込みしてきたところ。
そして、そのことについて今考えているのだけど、
私の心の底にあるものって何なのだろう?

心の底には病気の世界があって、
完全にはこちら側の世界に戻っていない
のだろうか?

そもそも病気の世界って何だろう?

イメージたちの世界。
イメージたちが生々しく生きている世界。

イメージたちは脳が作り出したものか?
目に見えない超自然界の生き物なのか?
その辺はわからないし、最終的にはなんとも
いえないだろう。

三角形が目にみえないイデアの世界にある
という意見がある程度の支持を得るのなら、
そのほかのものはどうなのか?

アニメのキャラクターも三角形も似たような
ものなのではないのだろうか?

そういうわけで、ゆるキャラを含めて、
生み出されたキャラクター、
没にされたキャラクターたちが
生々しく生き物として、
私の心の底には徘徊してる。

日ごろはそんな化け物たちが
意識の表面のほうまでお出まし
になったら、日常生活やっておれない
のだけど、幸い出てこない。

でも、そういった無意識の世界が
表面に上がってきた事件は生々しく
覚えていて、暗黙の了解として
平常な日常意識の底のほうに
黒々とそういった世界が広がっている
ことは知っている。

みんな夢の世界だったら思い当たる
ではないか。実は昼間の世界も
画面の背景に、自分の意識のほうの
背景にも夜の黒々とした世界が
広がっている。

無意識の世界が表面のほうに
あがってくるとき、
何気ない他人の話や
ちょっとした身振りとかに
裏側の意味が立ち上ってくる。
意味そのものはわからないけど、
意味ありげな象徴か何かとして
目や耳に訴えかけてくる。

内側にある解釈か何かが変わったとき
この世界はこの世界そのままのままで
あちら側の世界になる。

でも、そういう刻が訪れるのも
最近はめっきり少なくなった。
ある意味、若いときの感性が
必要なのかもしれない。

感性が鈍くなり、
非日常的なほのめかしは
単なる抑うつに変わっていった。

よくも悪くも落ち着いてしまったようだ。

日本人の皆様へ

このブログ読んでいる人はとても少ないのですが、
なぜか知らないけど、海外からもアクセスがくるのです。
で、英文で何か書いてみたら、やっぱり読む人がいました。

なので、ときどき英語で書いてみます。
使う英語の方針として、難しい語彙や言い回しは
使わない。あくまでも、私の使える範囲の英語を
使う。

たぶん読みにくいと思うのですが、あまり論理的に
書かない。あくまでも、日本語で書くような感じの
書き方で書く。

身の丈にあった英語表現を目指してみます。
あくまでも私の英語表現です。

I have a lot of time. In this time, I think a lot of things.

I have no job. So every day are holidaies.
Almost Japanese, If every day are holidaies,
They must lost of meaning of life.
So I have to seek meaning of my life without job.

In this society, All persons are given a role,
 as if they are an actor and actress on the stage.
We are let alive by their role and stage.

I think about my lole.
I shuld be seek where context I can alive.
You may possibly give me the meaning for my life.

I don't know what you are.
But I feel something, the week line betweem the strangers.
What I feel? On the far away, there are eies that watch my poor texts.
I don't know that eye is cold or warm.

because I don't know anything, I am happy.
It is enogh, my this situation.

I have lot of fan, image invisible friends.
I can not image them, So the imagies are opend to a lot of directions.

Thanks for reading, such a non logical text.
The japanese make text as if wind makes his way.
Image to image, japanese logics are flowwing in whirls.

2011年12月21日水曜日

I know myself by my expressions.

I have an identity that is not clear.
I could not build an identity by the work for my mental disease.
In Japan the work is very important as an identity.
So I try to build an identity by my expressions.

I make sentese and 3D image.
I think these teach me what I am.
Or these teach me "You are nothing"
Answer is answer, I shuld be accept.

If you use simple word, you can make your world.

I like to see in my mind.
In my mind, there are many images.
These images want to become clear shapes.
Some times I make sentense, some times I make 3D image.
 Under the sun light, These images have their bodies.
If they want to go abroad, they can go to travel by the road of light.
I can not image their travel. because I am only small man.
I say "Sayonara" to my images. "Have a nice trip"

2011年12月20日火曜日

今週の金曜日VWBC市民放送局に出演します

今週の金曜日VWBCさんという仮想世界の放送局の番組
「市民放送局」の「今週の話題」というコーナーに出演します。
時間は21:00からです。
放送局はこちらです。http://vwbc.jp/
忘年会、クリスマスパーティとかで忙しい方も多いでしょうけど、
お暇な方はぜひご覧になってください。

ちなみに前回出演した「ジタクカフェ」のほうもどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=4wim-Q1Prw4&feature=results_main&playnext=1&list=PLED1AE8AA3DDCD0E2

2011年12月18日日曜日

人生の本質 何もいらない

私が奈良の天理市で、たぶんもう病気の世界に
入っていたのでしょうねぇ。
急性錯乱状態に陥っていくそのほんの前のことです。
ぽかぽかした春の日で桜も咲いていたと思うのですが、
小川の脇を通りながら、

「何もいらない」

と思ったのです。
ゆったりした気持ちで、
すべてのことを放り出して、
どこへともなく去っていく感じで、
みもしらない町を
歩いていたのです。

会社の研修もなにもかも
たぶん自分の人生そのものも
放り出して、
それでも不思議な幸福感に
つつまれながら。

人生の本質なんて昔も今もさっぱり
わからないけれど、

「何もいらない」はたぶんその答えのひとつ
なのでしょうね。

今は生活に巻き込まれて、
とてもそんな気持ちには
なれないけれど、
自分の背負っている人生という
重荷を放り出してみれば、
なんと背中の軽いこと軽いこと。

今も心の底にはあるのでしょうね。
「何もいらない」という気持ちが。

だから、精神病を得ても
関節リウマチを得ても
思うほど身に堪えませんでした。

あれが必要、これが必要
と言い出すと、背負っていく荷物が
どんどん増えていきます。

だから今もバックパッカー気分で
荷物ひとつで個人旅行としての人生を
私なりに楽しんでいるようにも思います。

自分の解釈で、与えられた譜面を
読みながら、自分なりの演奏を
楽しむキリギリスってところ
なのでしょうか。

2011年12月17日土曜日

「シナプスの笑い」原稿かき。

もう締め切りの迫っている「シナプスの笑い」に投稿することになった。
一応書いてみたのだけど、採用されるかどうかわからない。
読んだ人が、どう思うのかもまたわからない。
書き方が抽象的になってしまったのはマズいと思ってしまったのだけど
今回の投稿はそういう文体にしてみたから仕方がない。

一箇所、どうしてもマズい、読む当事者によっては傷ついてしまう
と思う箇所もあるのだけど、そのままにしてしまった。

自分はそうしたけど、その裏にはそうしなかった、あるいはできなかった
読み手もいるに違いない。あの雑誌にはそういった配慮が書くほうとしても
いると思う。

裏側の人生ってあると思う。相談室のこちら側に座るか、向こう側に座るか
も実のところ微妙に思えてならない。すべては何かのめぐり合わせである。

微妙なところで左右に分かれて、片方はこちらに、もう片方は向こうの扉を
くぐるのが人生だと思う。

自分でそれを選んだのだ。結局自己責任なんだとも思えない。
めぐり合わせだと思う。

責任とれるほど、人生についてあらゆることが見えてる人っていない
と思う。責任能力は思うほどないのではないだろうか。

運も実力のうちといってしまうほど、世間で言われてることは
あてにならない。

宇宙の外から人生を見守る、弁護士のような天使がいてほしい
とつくづく思う。仮に死んだあとに厳正なる裁きがあったとしても
それなら納得して死ぬことができる。変な話になってしまった。

裏側の人生の話だった。その人の人生の物語の裏側には
そうでなかった人生の物語があって、人それぞれ思いをめぐらした
ほうがいいと思う。今、現に生きているなんてまさにそうしたこと
なのではないだろうか。あるいは、「ここ」に生きていることなど。
地球の裏側に生きていたって別にかまわないはずだ。

裏側まで思いをめぐらせることによって、人生その他物語の
読み方は深まるはずだ。人生は一回こっきりしかないけれど、
実現した人生の脇には実現しなかった無数の人生もある。
背景の無数の人生を踏まえて、実現した人生の意味とか
浮かび上がってくると思う。

2011年12月16日金曜日

宝くじの代わりに本を買う

今はすっかりやめた習慣ですが、
宝くじ買うような感じで、古本とか買っていました。
別のやりかたの夢のかいかたです。

そのときは確かに夢は買えたのです。
売価は百円だけど、頭の中に知識として
入ったときの値段っていくらなのだろう?
って計算しました。

今は百円で買える本も、その昔は
屋敷ぐらいな値段がしたとか、
そんなこともイメージするのが楽しみ
でした。

この年になり、夢はやっぱり夢だったの
かもしれません。

でも、大型書店の棚を物色しながら、
不思議な幸福感に浸るのです。

たかだか文字を読むだけなのに、
なんでこんなに幸福になれるのでしょう。

その幸福は一億円分はもしかしたら
あるのかもしれませんし、ヨーロッパに
住む大富豪なら金には換算できない
ということでありましょう。

他人には結局のところ、
その人の不幸も
その人の幸福も
わかりません。

もちろん、自分にだって
自分の不幸も
自分の幸福も
見えてないことでしょう。

外からも内からも
結局わからないで、
わからないまま、
存在という謎が
森羅万象の中の一粒として
データベースの一角を占めてる
という感じなのでしょう。

このページ読んでも、
非定型精神病のことも
当事者の私も結局よくわからない
と思いますけども、
根本的にはどの項目、
どういう人もそっくり同じだと思います。

開き直っても仕方ないのですけどね。


隠れた椅子を探す

椅子とりゲームって社会の縮図のようにも見える。
椅子って自分を生かしてくれる居場所かもしれないし、
居場所の中には職場としての居場所を提供してくれる
ところもあるかもしれないし、小額のお金は提供しないと
いけないけれど、経験値ががっぽり稼げる場所かもしれない。

そういう椅子って、どちらかというと隠れたところにあるの
かもしれない。公開されてはいても、派手な宣伝がなかったり、
恵まれた場所のようには見えなかったり、その場所を場所
として生かすためには、こちらにもなんらかの技能が必要
だったりとかさまざまな理由で隠れている。

椅子ってもっと漠然とした、潜在的な需要みたいな形
で存在することもあるかもしれない。既成の椅子でなくて、
何か話しをしたり、アクションを起こしたりすると
そこに「ポコーン」と出現するような椅子。

そういう椅子って見る目さえあれば、社会のあちこちに
あるような感じがする。

ジャングルのような社会の中で、秘密の薬草を探すかの
ように、隠れた椅子を探す。

もちろん、どこにそんな椅子があるかは誰も言ってくれないし、
椅子の探し方もこれまた秘密。みんなが知ってしまえば
荒れちゃうからね。

でも、嗅覚をとぎすますと、なんとなく感じることってあるし、
そんな目でいろんな資料にあたると、隅っこのほうに
親切心でちょっとしたヒントがほのめかされてることもある。

と思わせぶりなこと書いたけど、私は何も知りません。
この文章読む人によっていろんな想像するかもしれないけども、
たぶん社会ってそんな感じなんだろうなって話。

2011年12月13日火曜日

サポートネットラグーナ 聴き方・話し方教室

今日のサポートネットラグーナは「聴き方・話し方教室」で講師は
KTSアナウンサーの山本慎一先生でした。

今日は最初は挨拶の話でしたが、挨拶も奥が深いものだなあ
と思いました。授業中いろいろ挨拶について教えていただき
ながら、ふと思いついたイメージがありました。

自己紹介もそうなのですが、挨拶はその日、その方との人間関係
に入っていく玄関口みたいなものではないだろうかと思ったのです。

みんな玄関口はきれいにします。家という、個人にとってのお城みたい
なものの門にあたる場所です。家の第一印象はそこに現れるのです。

そして、玄関から廊下を通って奥座敷にはいっていくように、
挨拶から、季節の話題があって、話の本題に入っていくという
共通する順序というか流れみたいなものがあるように思いました。

スクリプトというそうなのですが、芝居の台本のように、
さまざまな物事には流れがあるようですね。

お客様にとっては初めてでも、業者さんにとっては毎回同じことの
繰り返しなので、キレイに流れができています。

ちょうど個人レベルでも、社会上のやりとりみたいなものに
自分なりの台本をつくって、できれば繰り返し稽古して
心の中にスクリプトをつくっておけば、もっともっと社会の
中で生きていくのが楽になるだろうなと思いました。

たぶん、つまらないところで、つまづいてしまって、
スクリプト作るのに失敗したり、失敗が原因で
スクリプト作り続けるのをあきらめてしまったりしたり
で、社会の上でのやりとりが稚拙になってしまったのでは
ないだろうかって自分を反省して思うのです。

たぶん社会で普通に働いてらっしゃる方々は仕事の上での
日々のやりとりをとおして、常識という名の膨大なスクリプト
を積み上げてられるのだなあとなんとなく思ったのです。

安心して失敗できる場があればいいのになあと
思ってます。安心して失敗できる場で経験を重ねて、
周回遅れでも、自分なりのスクリプトをつくって
自分なりに社会に参加してみたいです。

書く環境によってネタが浮かんだり浮かばなかったりいろいろですね

今日はいつもの場所と違う場所でアクセスして
ブログ書いているのですが、環境が違うと書く
感覚もぜーんぜん違いますね。

今、気づいたのだけど、体全体の皮膚の感覚とか
そういうものも総動員して書いているようです。

書く環境に慣れないと、書いているからだ全体に
違和感があって、緊張したような、アガったような
感じになり、全然うまくいきません。あまり、筆進まない
ので今回はこのへんで。

2011年12月12日月曜日

ワークショップと躁転

”ワークショップ” ”躁転”で検索して、らしいページが
出てこなかったので私が書こうと思います。

たぶんこの二つは相性がいいのです。

たぶんワークショップを深ぶかと体験できるのは
躁転の素質をもった人だと思います。

さじ加減が難しい。

刺激を受けることは大好きなのです。

深い体験は人生の薬になります。
薬も分量間違えば毒になります。

危ないと本人が直感したときに、
さらなる刺激を遠ざけることができるか?

そもそも危ないと状況を直感できるか?

幸福感や楽しさも腹八分目までいかないところで
収められる人は治められるのかもしれません。

それは自然の本能には逆らう行為です。

とはいえ私も模範的な人間ではなく、
単に今まで運命に魅入られなかっただけ
だと思います。

ほどほどのところで、しっかりと愉しみながら
愉しみ過ぎなかっただけなのでしょう。

2011年12月10日土曜日

灰色の健康

想像力って不思議なものだと思う。
脳も体の一部であり、
頭と胴体は連動しているという
厳然なる事実もあって、
ぜんぜん文章が進まない。

脳になんだか悪い物質が蓄積している
ような体内の感覚があって、
さらに、リウマチの影響で微妙な痛みと
ともに、何かを作り出そうというパワーが
少しずつどこかに漏れ出しているような感覚
も若干ある。

それらを所与のものとして受け入れながら
生きていくしか仕方がない。
もしかしたら、単に気分が少し落ち気味
なだけで、やがて今の状態が嘘のように
またノリノリの時期がやってくるような
気もしないでもない。

まあ、それなりに書けるのだから、
深刻というほどではない。

ノリノリではない今はそう大きな
失敗もやらかさないだろうし、
充電中ということで
むしろ本当の健康なのかもしれない。

これが健康なのなら灰色の健康と
いうほかないのだけども。

2011年12月7日水曜日

書くエネルギーが足りない

ノリノリの時期は終わったのだろうか。書く力がわいてこない。
思いつかないというよりはエネルギー枯渇気味。
仕方ない休もう。

2011年12月6日火曜日

精神のかく乱と再編集のモデル

モデルというほどのものではなく、たんに
たとえ話くらいのものだと思うのですが、
南島のほうでは、病気(カンダーリ)の後、
シャマンになったりして、病気がかならずしも
否定的な体験ともいえなくなるのはなぜなのか
ということをちょっと考えてみたいと思います。

学習には臨界期があって、たとえば9才くらい
だとします。前頭前野のほうはもうすこし、
遅れて25才くらいだとします。このへんの知識は
読みかじりなのでヨタ話くらいに思ってください。

大人になるにしたがって、脳は成熟し、
大枠は臨界期くらいのときに定まり、
その枠の中で微調整がおこなわれる
という感じなのかもしれません。

精神病の発生はシステムに対する
どのくらいに相当するかはわかりませんが
かく乱だとします。

その後、社会的、あるいは文化的な環境が
よければ、システムは再編集されて、
かく乱が創造的に働くこともありうるのでは
ないでしょうか?

南島では発病後の本人の構えも本土とは
違って、病気自体をクリエイティブに捉えられる
文化的環境みたいなものが歴史の積み上げに
よって実現されているのではないか?と妄想したり
するのです。

コンピュータがフリーズしたときも再起動する
方法があるし、フリーズさせたことは恥には
なりません。むしろ、再起動する微妙な時間を
どのように保護的に過ごすかということが
再起動中の事故を減らして、システムに傷を
つけないこととして大事になります。

柔道では受身を、ヨットでは沈させたときの
手続きを習います。

脳に難しい作業を行わせることの多くなった
現在、脳がフリーズしたり、クラッシュしたり
したときの構えみたいなものをどこかで
学んでおくことも本当は必要なのかもしれません。

本土は南島と確かに文化的環境は違います。
でも、文脈は違っても、相同的なシナリオ、
病気になった人が別にシャマンになるわけでは
なくても、その後の人生をクリエイティブに送れる
ようなシナリオはありうると思います。

自分なりのシナリオづくり、未来に続く、
それぞれの地域における文化的環境上の
一人のアクターとして、道なき道の探索
に汗流してみるのはいかがでしょう。

自分が食べたいもの、お客さんが食べたいもの

ものづくりを料理でたとえる習慣があるのですが、
根本的な話、
自分が食べたいもの、
お客さんが食べたいもの、
どちらを作るべきなのでしょう?

仕事として、何かのサービスを成り立たせよう
と思ったときに、自分がほしいものと
お客さんがほしいものの間を調和させないと
いけないのかもしれません。

でも、本気でものをつくろうとしたときに、
根本的に自分が作りたいとおもっていない
ようなものにパワーって出るのでしょうか?

自分がやりたいことは趣味でやればいいの
でしょうか?

卑近な話、ブログづくりなのですが、
自分が書きたいことを書いています。
お客さんが読んでくれればよし、
読む人がいなくてもよし。

膨大な人がいれば、中には
こういう文章でも読んでみたいという
酔狂な人がいるかもしれません。

膨大な人というところに味噌があるの
かもしれないです。

自分に似た人は、膨大にひとがいれば
誰かいるはずです。

そのたった一人に届けられたら
目的は十分達せられると思います。

2011年12月5日月曜日

rlが要らないから、人間が要らないまで

現時点でリアルライフが要らない、バーチャルだけで
いいとする人は存在するかもしれないと思う。
生活するためには何らかのリアルライフを必要とする
のは常識だけど、こと人間関係については
リアルライフのかなりの部分を代替できてしまうと
する人がいても今やおかしくないような気もする。

人工知能の未来を考えたとき、リアルライフがいらない
を通り越して人間はいらないとする人が近未来
でてこないのだろうかという気がする。

レトルト食品や缶詰だけで生きていく不健康な
生活みたいなイメージになるのだけど、
経費節減のためそうした生活を選んだり、
選ばされたりという場面も出てくるのではないか
と思う。

今や手作りの品は貴重品になった。
そのうち手作りのほほえみや、
手作りのあいさつや、
いまなにげないことが貴重品になって
しまうのではないかとちょっと妄想している。

地域のつながりも薄くなってしまったので
貴重品どころかどんなにコストかけても
帰ってこない生態系みたいな感じで
過去存在した場面などを振り返ることがある。

2011年12月4日日曜日

隠された椅子

”椅子取りゲーム” 戦略 で検索したら63700件出てきたの
に対して、”隠された椅子”で検索したら16件だった。
そのうち私が期待してる椅子は一件もなかった。
このことは何かを物語っているのではなかろうか?

整備された登山道には人はうようよしているけど、
登山道から外れたところには誰もいない状態みたいな
ものかもしれない。

就職活動、進路志望その他人気が集中するところには
集中するけど、実態は「人の行く 裏に道あり 花の山」
みたいに見える。

自我にとっての内外

自我という言葉がいまいちよくわからない
のですが、宇宙船の司令室みたいなもの
だと仮にイメージしてみるとします。

で、環境に対するストレス応答とか、
適応戦略みたいなものを考えるとき、
どこまでを内とするか、どこからを外と
するかよくわからないのです。

環境という用語をみたとき、大体からだの
外をイメージすることが多いのですが、
気分の上下みたいなものを考えたとき、
自我の外側みたいな部分も十分環境の
ような感じがするのです。いわば内的環境
ですね。

脳を使う感じは私にとっては
不具合のあるポンコツ宇宙船をなんとか
乗りこなす感じです。

一方でその私=自我がだめなんだという場合も
あって、外と内の境界を体の表面でなく、
自我と無意識の境にもっていくというのも
あんまり、いいアイデアとはいえないかも
しれません。

そういえば、今操作している、パソコンの画面は
まさに私の比喩してる、「宇宙船の司令室」そっくり
にみえます。画面上に利用者のために
提供されている表示には馴染み深いものがありますが、
裏で動いているシステムや、ハード関係はまったくの
無痴です。

パソコンでいうところの環境に適応できた人は
生き易く、適応するのが難しいひとは生き辛いの
でしょう。

環境と個体という分け方もあるのでしょうけど、
環境と認識してるのも目や耳で見た感覚なの
でしょうから、たまねぎのように外から内に向かって
何層も殻みたいなものがあるととらえることも
できそうです。

「思い込みが激しい自分を自覚する。」などの
問題は面白いです。自分はそう思っている。
でも、それは思い込みかもしれない。
まったく、自分の体が牢獄か、迷路になった
ような感じが自覚されて、どうがんばっても
そこから出ることはできないのです。
ただ単に他人に意見もとめるだけで解決
する場合も多いですけどね。

2011年12月3日土曜日

憑き物が落ちたら書けなくなりました。

ここしばらく、半分ハイテンション気味で
毎日のように(内容はともかくとして)
2本づつ書いていたのですが、
ここに至り、気分は去ってしまって
今日は書き辛いです。

書いている感じがぜんぜん違いますね。
しばらく前は書いている最中ドーパミン
出っ放しみたいな感覚で書いていたの
ですが、それが切れちゃったみたい。

小休止なのか、大休止なのかは
まだわからないのですが、
今日はこのくらいにします。

2011年12月2日金曜日

はる



すばらしい明日に
本当に行ければいいのだけど
そんな夜は全力をかけて
ブレーキかけて
飛んで行かないように引きとめる

本当は飛んでいきたいの
だけど

どこまでも
どこまでも


2011年12月1日木曜日

内省的になる理由

外に意識が向かえばいいのに、
内省的になるのは、双極性障碍の
要素があるため、気分が高揚したときも
鬱屈したときも、その本能的な傾きと
戦って、外面的には正常に保たなければ
ならないからだと思う。

本能的傾きとの葛藤、ちゃんと手綱を
握っておかないと何をするのやらという
恐ろしさがある。理性の衰えたとき、
たとえば老年、どういう風に本能的な
部分が出てくるのか今から恐れている。

高揚した本能に動かされ、オレ様的な
文章を書いたのをあとでみると、嫌な
気持になる。でも、自分で書いたのは
事実だから、責任とるしかない。

憑き物が落ちた

夕べ夜中ハイテンションだったので、いつも
の薬倍量飲みました。
朝は頭がぼーっとして、今も少しそんな感じ
です。
憑き物は一応落ちました。でも、一時的かも
しれません。
ハイテンションの時書いた、オレ様的な文章
はみるのも嫌です。
見て、印象悪くして去っていく友達もいるかも
しれません。でも、ハイテンションの時はあんな
文章書くのだなと思ってくださるとありがたいです。