はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2013年12月31日火曜日

時をまたぐ

除夜の鐘がなり、今年が来年になるとき、いつも心に浮かぶ
イメージがある。いろんな出来事や思いを載せて、今年という
列車が時のかなたに去っていく、というイメージだ。

私は来る年、よりも去っていく年に心をひかれるものがある。
これは年をとって、ノスタルジーにひたっているというよりも、
子供の頃からそうだった。

もちろん、列車のイメージは「銀河鉄道」のイメージの影響下
にある。


2013年12月26日木曜日

『失われた歴史 イスラームの科学思想芸術が近代文明をつくった』、県図書でちら読み

昨日、県図書でちら読みした、
という本。
の中で「学者のインクは殉教者の血よりも神聖なり。」という
ムハンマドの言葉を知った。ちょっと続けてみる。以下引用。


学者のインクは殉教者の血よりも神聖なり。
知を獲得せよ、なぜなら、神の道で知をえるものは敬虔なる行為を演じ、
知を語るものは神を称え、知を求めるものは神をあがめ、知を教えるものは
施しをあたえ、知にふさわしきひとびとに知を分けあたえるものは、神への献身の
行為を演ずるがゆえなり。
 知は、知の所有者に善悪の判断を可能にせしめ、天国への道を照らすなり。
知は砂漠にあるときは友にして、孤独なるときは仲間にして、友を奪われたるときは
道連れとなるなり。知は吾らを幸福へと導き、悲惨なるときは吾らを支えるなり。
知は友らのつどいには誉れとなり、敵に対峙するときは甲冑となるなり。

これらの言葉の広範囲にわたる文化的、歴史的衝撃は未来にやってくることになる。


引用ここまで

私は、学者ではないのはもちろんだけど、私のような文弱の徒には有難い言葉だ
と思う。知がないことにはどうしようもないことは世の中には多々ある。知だけあった
ところで仕方がないということも多々あるのではあるが、、、

あと思ったことは詩人(宗教家も広い意味では詩人なのかもしれない)の言葉の
重要性だと思う。たしかにそれは数式でもなんでもない、単なる詩的な言葉に過ぎない。
でも、その言葉が刺激と方向性を与え、引用文に書かれているとおり、広範囲にわたる
影響力を残した。

以前facebook上に「言葉を操って喜んでいるような人々にはなりたくない」みたいなこと
を書いた。ある種の文系の知識人と呼ばれている人がどうも私にはいけ好かない感じ
がしたからだ。それよりはなんらかの意味での手わざを持っている人を尊敬したりする。

最近になって、言葉を使うことにまつわる責任みたいなことを少しずつ感じはじめた。
遅すぎるのかもしれないが。小さなことでは、自分の書いた言葉によって誰かが傷つき、
その結果、友人を失ってしまうようなことである。それは小さなことかどうかわからないが、
ともかく、個人的という意味では小さなことという項目に入れておくことにする。

言葉の間違いはもう少し大きな問題を発生させるかもしれない。立場にもよるということ
になるのかもしれないが、それらのことは身をすくませる。でも、一方で、そこで身が
すくみ、保身に走るようであれば、もともと言葉で何かを表現する資格がなかったのである。
話がずれた。『図説 科学で読むイスラーム文化』で、もう一箇所、気になるところがあった
ので以下、また引用する。代数学で歴史上有名なアル・フワーリズミーについて書かれて
いるくだりだ。


魔術師という名は、そう名づけたひとびとの知を超えて、真実であることをのちに
証明することになる。痩せすぎと風雨にされされて皺のよった頬と、深い眼窩に
据わる射抜くような茶色の眼をもつこの黒髪の男は、他の道でもまた魔術師である。
信仰と魔術の伝統に浸された彼は、宇宙のさまざまな秘密を数のなかに見いだそうと
切望する。彼は数学の諸問題を書き、数を夢見、一日のあらゆる動きを数に還元する。
つまり浴場への歩数、地球に対する太陽の角度とそこに生ずる三角形、地球の半分を
横切るシルクロードの曲線などである。
 これらの系列から次々と紡ぎだされる数や方程式や計算に、彼は宇宙の隠された
諸コードや、神の創造の複雑な数的表象を感じとる。そして神が理性と知を通じて
啓示されうると信じられていた時代のムスリムとして彼は、処理速度と能力で電気計算機
が、人間の最高の思考をも凌駕する時代の最初の一瞥をあたえたひととして、偉大な
数学革命を主導することになろう。


二次方程式は学校数学で習う。ちなみにしばらく前、二次方程式の解の公式を自力
で導き出すことができるかやってみたのだけど、だめだった。ま、何を書いていても
私の今の数学の力はそんなものだ。手計算とか最近めっきりやらないので、すっかり
さび付いてしまっている。そんな私が書いたところでまったく説得力をもたないと思うけど、
中学数学で習う、二次方程式の話は何か魂が抜けたところがあるのではないかと
思ったのだった。たとえば、移項とか、最初に習ったとき、不思議な感じしなかっただろうか。
(3X+2(2X-1)など、文字式同士の掛け算ができることを最初に習ったとき、やっぱり
不思議な感じがしなかっただろうか。

その、不思議な感情に何か大事なものが含まれていたような気がするのだ。
たぶん、数学史の書物でも開いてみないと、その不思議なものの正体が自分でも
わからないような気がする。そして、上の引用はなにかしらその不思議とどこか関係して
いるような気がする。もちろん出典は啓蒙書であり、わかりやすく書かれたための嘘も
混じっているかもしれないが。

P.S 本の題名、やっぱり間違っていたので訂正しました。


2013年12月22日日曜日

最近のパターン

気がついてみると、「芝居がかった感じ」はめっきり見られなく
なった。「芝居がかった感じ」というのは私が芝居がかっている
のではなく、世間の人々のことだ。

一時期、時々ではあるけれど、世間の人々、街角とか、バス停
とか私とはまったく関係のない人同士の、立ち話みたいなのが
芝居がかってみえてきた時期があった。わざとらしいというか
臭い芝居というのか知らないけど、演技っぽく見えていた時期
があった。

そういう風に見えてくるとスイッチが入ってますますそう見えて
くるようになってしまうというカラクリだったのかもしれない。

最近はその種の現象はほとんどなくなった。

入眠時幻覚が起こる確率もかなり減った。こういうのも若さの
エネルギーが必要で年をとると落ち着いてくるのかもしれない。

最近のパターンは、例によって図書館に篭って、雑多な分野
の本を読んでいると、「もう少しでオカシくなりそう」と思うこと
だ。若い頃ももちろんそのパターンはあったけど、最近もまた
そのパターンにはまりつつある。

調子が本当に悪くなるかどうかはわからない。だったら、そんな
読書やめればいいだけなのだけど、(本人的には)危ないとこ
ろまで行かないと読書した気になれない。でも、もっと読んでいる
人からみたら幼稚なレベルかもしれないけれど。

P.S たぶん、私がそういうのんきなことを書けるのは私は急性
の病態とその後の陰性の病態の経験しかなく、長期に渡る
幻聴とか妄想とか体験していないからだろう。

いろいろ感情の起伏はあるし、記憶の問題とか認知、注意の
問題とかこまごましたものはなんとなくあると思っているけれど、
基本的には平穏期を楽しんでいる患者ということなのだろう。

2013年12月18日水曜日

あるモチーフを他人に先駆けて見つけ出すこと

モチーフは神出鬼没だ。おまけに変装の達人でもある。
バラエティだから、お笑い番組だからとバカにしてはい
けない。(もっとも、私はテレビはほとんど見ないのだけど)
もしかしたら、ひょっこりと超弦理論に関与するモチーフが
隠れてさえいるのかもしれない。何にしろ、リンゴが落ちたり、
卵を割ったりするのが大発見の糸口ということもあるのだから。

鹿児島では路傍の雑草に紛れて、絶滅危惧種がひょっこりと
意外なところに生えているケースもあるそうだ。残念ながら、
草刈り機で、ざっくり刈られてしまうケースも最近多いらしい。
そして、その後に生えてくるのは強豪の外来植物というやつ
である。路傍の雑草とはいえ、そこにはそこなりの長年の歴史
がかかって出来上がった、生き物たちの微妙で繊細なコミュニ
ティというものはあるのである。

へんな喩だけど、そんな感じでモチーフはそこらここらに潜んで
いる(と私は思う)。

発明をしたければ、デパートに行きなさいという教えもある。
デパートに陳列されているのは選抜されたあるアイデアの設計解
だ。博物館や美術館で作品を鑑賞するような感じで、デパートに
買い物目的以外で行ってみるのもいいのかもしれない。

大事なポイントは自分の専門分野にだけ、モチーフは隠れている
というわけではないこと。たとえば、アイデア出しの工夫については
お笑いだろうと核物理だろうと新規事業だろうと、料理だろうと、
文学、アートなんでもかんでも変わらないように思われる。

今はネット上に毎日大量のミームが吐き出されている。動植物の
遺伝子に新薬開発のヒントがあるように、大量に吐き出される
ミームのひとことかふたことの中に重要なカギにあたるキー
フレーズ的なものが存在すると思う。そして、そのキーフレーズには
拡張性があったり、応用範囲が広いもの、そして、容易推考とは
決して言えず、逆に専門家の世界の中では思いつくことも、
思い描くこともできないような何かでさえあるということもおおいに
ありうるというものだ。

逆に特殊な環境とかに特殊な機能をもった生物が潜んでいるように
あまり光が当たらないところに面白い何かが潜んでいるかもしれない。

「あるモチーフを他人に先駆けて見つけ出すこと」という句は
今まで書いたようなことよりもっと深い意味が隠れている。いろんな
切り口で考えてみると私には汲みつくせないような発見があるに
違いない。

微生物のライブラリーというものがあるらしい。ある、薬かもしれないし
染料かもしれないし、洗剤かもしれないのだけど、そういう化学物質
の開発でしらみつぶし的に微生物が利用されることがある。
私の説明では舌足らずなので”微生物” ”ライブラリー” ”開発”で
検索してみるといい。

それと同じような扱いで今では各言語で言葉の使用例のコーパスと
いうものが作られている。みなさんのブログとかも機械が閲覧していく
ケースも多いだろう。そういう機械の閲覧の中には言語の使用例を
集めているものもきっとあると思う。

そして、いろんな言葉の使用例が集められ、ライブラリーができあが
るのだけど、言語学の分野で使われる他に製品開発などに使われる
例もあると思う。さっきの微生物ライブラリーのしらみつぶしのミーム
版だ。あまり、知らないのだけど、ビックデータの利用というのがそう
いうものかもしれない。

そして、そういったやり方の超ミニ版というものは個人が使えるevernote
を使ったスクラップブックみたいなものでもやれるのではないかと思ったり
するのだけどどうだろう。

2013年12月16日月曜日

久しぶりに万華鏡的なもの

久々に万華鏡っぽい作品が採れた。

2013年12月9日月曜日

実在感のあるイメージ

見えない世界に相変わらずあこがれている。
でも、怖ろしくていく気がしない。目の前の時空が開け、
入り口が垣間見れたとしても、しり込みするだろう。

とはいいながら、仮想世界が可能にするのは主戦場が
目に見える世界から目に見えない世界に移ることだろう
となんとなく思う。

うまくいえないが見えないものを見える化するといっても
それは作り物ではなく、リアリティのあるモノ、実在感の
あるイメージだと思う。

作品の完成度というのは目に見えない世界において、
もっと進めば、もっとそのものがくっきりするということ
なのではないか?まだ山の頂に来ていない、もっとさが
せば、より標高の高い場所があるということなのでは
ないだろうか?

イラストレーターやセカンドライフのものづくりでつくづく
感じるのは適当に形を組み合わせても印象深い作品は
得られないということ。

そして、何かしら、作品といいたてることが叶うだけの
説得力をもったものはある種の実在感を感じるだろう
ということ。これは単に技術としての実在感というよりも、
作品自体の発している実在感だと思う。

とかなんとか、推敲をかけてない荒い文章で書いている
わけである。


P.S 山の譬えは適応度地形という複雑系用語と関連がある。
ボルヘスのバベルの図書館と組み合わせた表現は
『複雑系を超えて』の中に書いてある。

実在感という言葉は存在感といいかえてもいいのかもしれない。
存在感のある俳優はもともとリアルな存在だけど、
目に見えない世界においても、ある位置をもっているのだろう。
現実世界にいながら、背景には見えない世界が存在して、
その抽象的な世界で位置を変えながら、俳優としての完成度を
あげているのかもしれない。修行の道みたいなものである。

2013年12月7日土曜日

言語の側面から当事者特有の認知的困難さを追っかけることはできないか

一応、主観的には表面からは症状らしきものは消えている。
でも、それはあくまでも表面からであって、微細な認知障碍は
消えず、それは言語表現に影を落としているということは
ありえないのだろうか?

当事者がさまざまな状況で感じる生き辛さが、独特の思考、
ならびに言語表現のパターンからくるということはありえない
のだろうか?

当事者といってもさまざまである。素因をもち、なんらかの
潜在的困難さを抱えながらも発病には至らなかった人を
含め、多くの言語資料みたいなものが集められて、どこに
困っているのか、そういうことがわかるようになればいいと
思う。

一方で当事者の努力というものもある。それはもしかしたら
奮闘努力の甲斐もなく、かえって事態を複雑化させるという
点で悲劇的な側面もあるかもしれない。

けれど、なんらかの表現で、面白い効果を生み出すという
こともありうるかもしれない。障碍が回復する過程で、
神経回路のバイパスみたいなものができて、特殊な能力
が花開くということはまったくありえないこともないだろう。

私が特殊な能力をもっているというわけではないにしろ、
単に能力を失うだけではない側面もあるように思うのだ。

自分では自分のことは知りえない。人それぞれ言葉は
個人差というものを持っている。人それぞれ顔が違うよう
に。

でも、そこから一歩突っ込んで、それぞれの人の言葉と
しての特徴はどんなところにあるのだろうか、ということ
はあまり知ることができない。

自分のことなのに、ほぼすべての人が自分の言葉につ
いて多くのことを知らないまま生涯を終える、そんな気が
してならない。

自分のどこが魅力的なのか、平均的とか、平凡という
言葉に隠されて、なんとなく皆納得してしまう。でも、
人それぞれ顔が違うし、死んだら替えがいないという
面から見ても、何かがあるはずなのである。

それが一体何なのか?言い方を変えると、言葉という
面から見たときのその人の記載されるべき特徴。

記載されることもなく、日々絶滅していく熱帯雨林の
虫たちに似て、一人ひとり違うということは認識されて
いるのにも関わらず、何も記録を残さず消えていく
多くの人たち。

膨大な財産が途切れることもなく、失われつつあるの
ではないだろうか。そして、本当の意味において、
かけがえのない唯一無二の富の代わりにどうでもいい
大量生産品のようなものがこの世に残されていく。

カネも土地もそれ自体はのっぺらぼうである。

そんなこと考え始めると精神病の当事者に関わらず、
それぞれの特有の歪みと恵みをもったひとりひとりの
人の言葉、それらはある種の歴史の証拠として、
かけがえのない価値があるのではないだろうか?

少なくともそれらは乱数や人工生命めいたプログラム
では発生させることのできない、歴史という重みを背景
にもったものである。

それは今のところ、どんなにカネを積もうとも、国家権力
にモノを言わせようとも、その人自身にしか生み出せない、
それがその人のココロであり、その表現である言葉なの
だと思う。

2013年12月6日金曜日

組織培養と台所と錬金術

病気になって鹿児島に帰ってきて、しばらくした90年代の
とある頃、メディア論の自主ゼミに混ぜてもらっていた
時期がある。

その時、思ったこと。
大学の頃、文系の人といえば、遊んでるというイメージしか
なかったのだけど、実際、ゼミに混ぜてもらった時、外国語の世界
に入ったかのように、ほとんど話題についていけずめんくらった。

逆に理系の私が実験とかで手を動かしてお茶を濁しているとき
に文系の人らは文献を読んで着実に知識を積み上げているの
だなという怖れみたいなものを感じてしまった。

90年代、自主ゼミに通いつめて、私なりに読書会の雰囲気には
ついていけるようになった。あくまでも、ついていけるというだけ
でしかないのだが、、、

今はまたひっくり返って、大学時代、手を動かしてお茶を濁して
いた時間が代え難いぐらい貴重なものと思えるようになった。
今は実験室にいないけれど、手の感覚としては実験室の世界の
感覚はなんとなく残っているからだ。

さて、今日のお題は組織培養と台所と錬金術という話。
手を動かしてお茶を濁すという時間の内容は、無菌室で実体顕微鏡
を見ながらシンビジウムという蘭の芽の先にある成長点という部分を
切り出したり、前処理した培養細胞のかけらを液体窒素の中に入れ
たりとかいったことだった。

実験室にはオーブンのような乾熱滅菌器、圧力鍋を大型にしたよう
なもの。棚にはさまざまな試薬。化学天秤。フラスコやら試験管。
形を変えた台所ような感じもする空間だった。

そして、台所と錬金術の設備は重なり合う部分もあるという話を
読んだ。http://www.geocities.jp/choji_kashima/CookChem/index.html
また、海の向こうでは「キッチン・カルチャー」といって家庭で組織培養
をするという趣味もあるらしい。
http://desktopfarmer.blogspot.jp/2010/07/1.html

家に実験室作る代わりに仮想世界の自分の土地が私にとっては
実験室のようなものなのかもしれない。

そして、仮想世界の実験室でやっている内容も正統な科学というより
も異端の匂いがプンプンするものだ。イメージの錬金術といった風で
ガストン・バシュラールの世界をビジュアルでやりたいというような欲望
といったものに近いのかもしれない。

とはいっても、それは方向性であって、結果は全然できていないの
ではあるけれど。

話はまた全然飛んで、鹿児島の上野原遺跡の話になる。
縄文草創期の集落の跡。

集石機構という石焼き料理を作ったかもしれない施設や、
連穴土坑といって燻製を作っただろう施設が残っている。素人の私として
は勝手に考古学的事実を出発点にしながら、想像や妄想を広げたい。
考古学に関する説をでっち上げたいという欲望ではなく、アイデア出しの
イメージの源泉として使いたいという欲望だ。出力される結果は考古学の
領域内にあるのでは多分ないだろうから構わないように思う。

考古学の範囲では土器づくりの初期状態と料理づくりの初期状態を
結びつける発想は許されるかどうかわからない。でも、分野違いの世界
でのアイデア出しのためなら全然構わない。事実から何を発想するかは
全く読者の世界に属するものだからだ。そのあたり、錬金術的思考の
出番なのかもしれない。

海の向こうの「キッチン・カルチャー」の欲望も組織培養そのものではなく、
一種のホムンクルスみたいな感覚であり、その怪しい混沌の中から
気の利いたコンピュータ・コードのひとつでも生み出そうという魂胆なのかも
しれない。

ひとたび生み出された論理は自然言語、コンピュータ言語、数式などの
ジャンルを軽々と越境するのかもしれない。文学の歴史の古い日本には
まだまだ面白い論理が眠っているのかもしれない。

それにしても、私の文章中には「かもしれない」という書き方が多いなあ。

2013年12月4日水曜日

言葉の射程距離

「言葉の射程距離」というフレーズをその人の言葉が効力をもつ限界
という意味で使ってみよう。

と、さんざん自分の身の丈を超えた大きな言葉を振り回してきた私が
使うのも何かとは思うのだけど、少々反省も込めて。

人間離れした事柄を扱う人はいっぱいいる。天文学者、地質学者、
古代を扱う考古学者なども、常人のものさしを超えている。

でも、彼らの使う言葉がリアリティを失うことはあまりない。
何でなのだろう?すぐ浮かぶことが担保とするモノがあるからだと
いうこと。天体観察のデータに、鉱物標本、そして、土器のかけら。
これらは確かにリアリティの担保として使える。そして、どこかで
聞いた話なのだけど、そのリアリティの感覚を確かめるために
資料を舐めたりする人もいたらしい。(今はいるかどうかはわか
らない)

リアル、ではなくてリアリティ。ありありとイメージできること。

やっぱり、私は体験経験の世界に生きる人間ではなく、
イメージの世界に生きる人間なのかもしれない。

想像の世界で遊ぶこと。想像の世界で手にいれたガラクタに
過ぎないにしても、それが手にとって遊ぶに足るおもちゃで
あるには何が必要なのだろう?

可能性の世界の彼方。なかなかたどり着けない遠いところ。
自由に遊ぶように考えるとはいっても、時には身の危険を
感じる程のものだ。それは本人が思っている程、実は危険な
領域というわけではないのかもしれないが、でも主観的には
十分恐怖感を感じる世界ではある。

今日の言葉は醒めている、酔った言葉を発していない。
でも、時々、言葉の世界にはまり込む、イメージの世界に
はまり込む。それも、私の内なる自然なのだと思う。

自然は自然のままに。伝わるかどうかは分からないけれども、
そんな言葉がどこか隅っこにあってもいい。

自分の言葉はどうがんばってみても、自分の言葉でしか
ありえない。それまで、そういう風な言葉の使い方をして
積み上げた自分なりの言葉の使い方。浅かろうと深かろうと
そういう風にしか生きてこれなかったのだから仕方がない。

言葉をこねくり、イメージをもてあそぶことしか知らなかった私。
身体の中の言葉たちは確かに自分の好みによって集められた。
そして、それらをまた自分の好みで組み合わせ、外に撒き散らす。

それらはさしたる感銘を与えるものでも、人を動かす力をもつもの
でもないかもしれないけれど、ただ私自身がどういう人間であるか
ぐらいは本人が意識する以上に語ってくれる。

赤の他人の私のことを知らない誰かに届いたとしても、それが
どれ程のものか。

そういう人がいる。そしてそういう人を生み出した背景というもの
も存在する、ただそれだけのこと。

2013年12月3日火曜日

抑うつがまた始まった

ここしばらく、調子があまり良くなかったのだけど、
夕べからいよいよいい感じではなくなった。

といっても、調子のよいわるいも何を尺度にするかで
違う。急性精神病状態は約二回体験したのだけど、
その頃の尺度ではなく、ここ最近の中での尺度。
(約と書いたのは二回目の入院のときは一度回復
のちに一時状態が悪くなって保護室に戻ったことが
あるから)

前、大学の博物館で働いていた頃に悩まされた
症状に似ている。自分の言葉で書くと「抑うつ」という
感じになるのだけど、本当のところ違う書き方で
書いたほうがいいのかもしれない。問題は「抑うつ」
と書いた言葉の中身なのだから。

でも、うまくそれを表現することができない。なにせ
内部の症状だから。うまく、表現する言葉をもたな
いのだ。

「アタマがオカシクなりそう」とでも、言いたくなる程
辛いように思えるときもあるけど、基本、この症状
でそういう風にならないような気がするので、おお
げさな物言いかもしれない。でも、そういう風に
口走りたくなるような症状でもあるような気がする。

たぶん、日ごろもっとひどい症状を抱えているとか
症状に対する耐性とかで、その人にとっての辛さ
は変わってくるのだろう。

で、仕事に集中すると、そこに気が集中するのか
知らない間に調子は回復した。

前の仕事ではそうなったことはほとんどなかった。
前の仕事ではひとたび調子が悪くなると、アリジ
ゴクに落ちるかのように、あらゆる努力の甲斐も
なく苦しみの世界に入っていくものだった。

前と今と何が違うのか?まず、職場環境が違う。
前の仕事は5時間、一人っきりで作業していた。
孤立した部屋で、一人だけの作業。
内容はデータベースの入力作業。
月曜から金曜まで。今は、周囲に何人かいる
環境の中で仕事している。かといって修羅場み
たいな状況は現れない。

そういえば、前の仕事でも、数少ないけど、
症状が回復したことがあった。症状が出て、
苦しんでいるときに、突発的に荷物運びの
仕事があって、作業していたら治まったこと
があった。一種のショック療法みたいな感じ
がその時にはした。ちなみにショック療法は
受けたことがなく、その辛さはわからない。
だから、ここでもその言葉は本当は使いたく
ないけど、他にうまいたとえが見つからない。

ショック療法はいつも効くとは限らない。かえって
症状をひどくする場合もあるかもしれない。
あと、自分の体であり、ココロなのだけど、自分
で自分のことがよくわかっていない。

実は大したことでもないことで苦しんでいるの
かもしれないし、他の人、似たような症状を
抱えている人にも大問題なのかもしれない。
何せコンディションが不安定で、ここぞという時に
崩れるかもしれないということは、耐え難い人に
とっては耐え難いことなのかもしれない。