はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2012年10月30日火曜日

水面下で進む世間での精神病のイメージの変化について

特に具体的な資料があるわけではないのだけど、水面下で少しずつでは
あるけれども、精神病のイメージの変化が起こりつつあるのではないかと
思っている。

少しずつ変化していると思っているからこそ私も病気をふくめた自分に関する
さまざまなことをこうやって公開する勇気をもてたと思う。

願わくば、これから何かの動機があって、精神病者を作品の中で描こうとして
いる表現者が資料として精神病者について知るための一つとして
利用してもらって、マスメディアの中で描かれる精神病者像が今までの類型化
されたそれとは違ってくることを期待したい。

そうやってより生に近い精神病者が描かれることによって、世間の人の精神病者
を見る目も違ってくると思われる。

それは精神病者が世間の中で暮らすことにかかわる困難さを少しでも軽くすること
とも関係するし、異変をかんじた人が自ら精神科の扉をたたく勇気をもたせることと
も関係するとおもう。

思えば私自身、異変を感じた時点で精神科の扉をたたけば、そしてそれに先立つ
ストレスと闘って神経を幾分か衰弱させていた時期に大学構内の保健管理センター
の扉でもたたいていたら今、普通の健常者として暮らしていたかもしれない。

別に言葉狩りをしたいわけではない、笑いの世界で狂者が滑稽な姿で笑われたり、
シュールなものを面白く描くことを社会から排除したいという欲望は私はもたない。

よくも悪くもそういうものは文化に深く根差したものであるかもしれない。
差別をなくすという名目のもとにその種の表現すべてを排除していったら文化は
貧しくなると思われる。

私が願うことは相変わらず、類型的な狂気みたいなものは描かれつづけるだろうと
予想する一方で、もっと公平に描いてもらいたいと思うことだ。もっとも、この路線で
「天使みたいな」患者像が類型化してもそれはそれでツマラナイかもしれないけ
れど。いずれにせよ、表現はどこまでも類型化というかステレオタイプを生んでしまう
ので難しい。

多分生の患者がもっともっと自分のことを公開してくれると、患者の中にもいろいろな
人がいるということがわかってくれるかもしれないけど、公開することそのものが
患者の状態を不安定化させる要因にもなるので背中を押すつもりはない。
あくまでも自己責任でやってほしい。

P.S ただひとつの声として聴いてほしい。今は大丈夫だけど、病気にかかり、
退院した後の少なくとも一年くらいは、「キチガイ」という言葉そのものが怖かった、
聞きたくなかった。ユーモアにくるんで笑い飛ばすような感覚で「狂ったんだって
なあ」みたいな感じで言ってくれる人もいたけど、その時はセンシティブでその種の
ユーモアはまったく通じなかった。そういう意味で言葉狩りしたい人の気持ちは
痛いほどよくわかる。

『離島トカラに生きた男』第一部、ちら読み

前からじっくり読みたい本がある。
離島トカラに生きた男』という本だ。
この本に描かれたインフォーマントは同じ鹿児島県内に
在住だった人だ。

でも、世代的にはずいぶん違う。

私とこの人、比べても意味はないかもしれないけれど、
資料的にととのった形で当事者像が描かれた本というのは
ありそうであまりない。

図書館でちら読みしたので、ちょっとだけ感想をメモして
おこう。

同じ県内に在住していた人とはいえ、ずいぶんと当事者像が
ちがう。

トカラ列島という場所がそうさせているのか、環境に存在して
いるのは霊的世界観である。キツネとかそういうたぐいの。

まあ、わたし自体、病気のときは「憑かれて」しまったのだから、
環境として周囲になんとなく漂っているイメージみたいなのを
拾うのかもしれない。

黙示録だの、宇宙人だのさまざまなイメージが時代の中で
断片的な情報として漂っている。そういった情報のかけらを
いつのまにか意識の中にとりこんでいて、病気のときは
材料として吹き出してしまう。

家の中にあるコウジカビの胞子から家独特のみそが
できあがるように、環境の中に漂っている胞子状の情報の
断片から病気のストーリーは編集されできあがる。

昔の人は霊的世界観が補助線になって、自分の病気を
理解するモデルになったのかもしれない。とはいえ戦後
なのだから、装いとしての科学的な知識は取り込んでいる。
でも核になっているのは霊的世界観かもしれない。

ラジオとかテレビとかその時々のメディアの影響を受ける。
現在ならさしずめコンピュータだ。私も病気のモデルを
自分で考えるにあたっての補助線をコンピュータに負っている。

ただし、コンピュータの不具合という形に還元まではできない。
ここは生物学を基礎とする治療者とは違うのかもしれない。

実感なんてあてにならないことは十分知っているけれども、
還元できない割り切れなさはいかんともしがたい。

かくして、片一方の足を神秘主義的世界観にのせ、
片一方の足を唯物論的世界観に乗せるという不安定な
態度になってしまう。両立できないので心の中が矛盾
してしまう。

それらを統合するのならば、井筒俊彦の思想にも
影響されている清水博の立場に近くなるのかもしれない
けど、統合されて、新たな科学的世界観はできるのか
どうかもよくわからない。どうせ未来の話であって、
力のある思想家ならびに、科学者の登場をまたないと
いけない。はたして、そんな人が現れるのはどのくらい
先なのだろう?

とかなんとか読者の立場で考えていても仕方のない
ことだから、自分で考えられる範囲のことを考えておこう。

『離島トカラに生きた男』のインフォーマントは外来者
である。「田舎ー都会」という二重性があるかもしれない。
またトカラ列島は琉球文化と大和文化が接する境界域だ。

ひるがえってみて私は家の文化は私には意識化できない
けれど、奄美的な要素がある程度あって、表面的には
大和文化に同化しているけれど、奄美的な要素もまた
どこかにあるのかもしれない。

そういうわけで私は私で「田舎ー都会」という二重性が
あるのかもしれない。

私の母はなぜかわからないけれども、奄美の文化を
私に継承させようというよりは大和の人間として育て
ようと意図してしているように思われる。

奄美のコミュニティとも私ら兄弟を遠ざけているような
気もする。

では母の意図どうりに私は同化されて、大和の人間に
なったかといえばそうでないような気がする。

同化というよりは根無し草になったという言葉があて
はまるような気がする。同化先の薩摩文化だけど、
歴史を共有していないと完全に同化するのは難しい
ように思う。ほかの兄弟はそこまで意識化していない
と思うのだけど、鹿児島在地の文化、たとえば、他人の
家を訪問したときのしきたりとかぜんぜんわからない。
そして、西南戦争を家の歴史としてほかの家庭で聞いた
ときにいよいよヨソ者しての意識が強まる。

沖縄には沖縄生まれのヨソ者に対して
「島ナイチャー」という用語があてられる。鹿児島には
それに相当する用語はないけど、その身分だと思う。
別に鹿児島の人からそういう風にみられるというわけ
でなく、意識化するとそういう風になるという話。

多分福岡とかもう少し大きな都市だとそういう感じは
しないのかもしれないけれど、鹿児島のような
よくもわるくも地域性の豊かな都市ではそういう現象
が起こってしまうのかもしれない。
違う都市なら根無し草はあたりまえだと思う。
私のような微かな疎外感は鹿児島本土在住の奄美2世
それも、私のように意識化する人のみに感じること
なのかもしれない。

とはいいながら、時代とともに画一化がすすみ、
今や子供たちは東京っぽいイントネーションで
しゃべっている。正月やお盆の風俗もどのくらい
継承されているというのだろう?そう考えてみると
微かな疎外感というのもどんどん無意味化して
いるのかもしれない。いまや地方はある種の
郊外化、文化の砂漠化が進行中なのだから。

『離島トカラに生きた男』についての情報を求めて
きた人には期待外れの情報提供だ。もとよりそういう
意味は含めていない。

同じ県内、同じ当事者ながら、浮かび上がる像が
全然違う。時代の違いなのかよくわからない。

また”発作”のフェーズが始まったのかなあ?

昨日に引き続いて今日も"緊張発作"。
用語的には緊張性頭痛に似ているのかもしれないけど、
なにせ脳の中の現象なので比べることができず、実態は
わからない。

発作に苦しめられたのは博物館時代の後半だけど、
桜島のユースホステルで働いていた時期には始まって
いた。

症状は頭の筋肉かなにかが緊張する感じと軽い混乱
したような雰囲気。と字を書いてしまうと記述が適切で
ないかもしれなくて逆に誤解されてしまうかもしれない。
でも、そうしないと伝わらない。そこがいつもの悩み。

この発作がはじまった最初の頃は、散歩しているとき
など、「ぴりぴり」頭の中で音のなるような感じ、(音は
していないし幻聴でもないのだけど)そういう感じがして、
いつも「始まった」と感じてしまう。そう思った時点で
スイッチが入り始めて、暗示にもなっているのかどんどん
巻き込まれてしまう。

発作が「できあがる」までにはしばらく時間はかかるけど、
その間のあらゆる「気をそらせたり」、「やりすごす」努力は
無駄であって結局「できあがって」しまう。

できあがったら、最初の頃で少なくとも3時間くらい、
発作の渦に巻き込まれてしまう。「気が狂いそうだ」
とか「おかしくなりそう」とか声に出したい気分をぐっと
こらえる。もちろん、この発作で気が狂うことはないこと
を知っているからだ。

でも一方でリストカットしたりする人の気持ちもわかる
ような気がするのである。発作に過剰に反応すると
よくないような気がして、波にゆすられるまま、なるだけ
無反応で、力を抜いておきたい。そんな感じでいつも
浪間に揺られる。

ひとしきり、「船酔い」気分を味わったあと、「底を打った」
気持ちがして、回復の予感をつかむ。あとはだんだん
楽になっていく。

最初の頃は、眠れるような場所だったらなるだけ、
寝て、(でも緊張感なく眠りに入れるのは自宅ぐらい)
いったん眠って、そして起きると治っていることが多かった。
パソコンを再起動させるような感じで、意識を一回
眠りに落として、立ち上げると不具合が消えている感じ。

でも、そういうまだましな時期も最初のうちだった。
発作を繰り返すうちにだんだんと頑固になった。

で、ひとたび発作を起こすと、次の日も朝から
気分が崩れ始めるパターンも出てきた。それが
連日続くのだった。

そのパターンが消えてしまう流れも面白かった。
うまく伝えられないけどこんな感じだ。
http://epimbi-madrigal.blogspot.jp/2012/05/blog-post_9276.html

その中で書かれているふとんって何なのだろう?
もしかしたら上書きされる記憶かもしれない。
日々記憶が上書きされることで、古い記憶はだんだん
下層に埋もれ、再生されなくなるということなのか。

2012年10月28日日曜日

時間旅行の探索基地としての21世紀初頭

また、妄想タイムである。
時間旅行、、、といっても未来においても生身の人間が時間旅行
できたりはしないだろう。
でも、史料に浸るという意味においての時間旅行は可能だろう。

そうしたときに21世紀初頭というのは探索基地として使えると思う。
これは少年ドラマシリーズのタイムトラベラーの記事をヒントに考え
たことなのだけど。

いろんな時代の資料を漁りながら時間旅行をしようというときに、
どこの時代を起点にするか、根拠地にしていろんな時代に飛んで
いくかと考えたときに、21世紀初頭って結構魅力的なのではないかと思うのだった。

まず、資料がそれなりに多い。何を比較していくかというときの
基準点になるのかもしれない。ブログなどの形で個人も簡単に
自己表現可能であって、さまざまなタイプの個人をここでは
見つけることができる。

たとえば普通の人の書いた文章などなら、綴り方運動、生活記録、
サークル村などの文章があって、同人誌や文集の形で残されていて、
後年まとめられて刊行されたものもある。そういったものも資料として貴重である。
ただし、ひとりひとりについてのまとまった資料ではない。

自分史などの自費出版された文章なども各時代のものがある。
それらもデータベース化されると検索可能になって資料としては
利用しやすくなるかもしれない。でも、絶対数としてはそう多い
ものではなく、ありとあらゆる種類の人の文章が発見できるという
わけにもいかないだろう。

時代をどんどんさかのぼって行っても日記や随筆などはあるけれど、
時代をさかのぼるほど文字を書くことのできる特別な人による文章と
いう意味合いが増すだろう。

今、21世紀初頭にあって、すべての人が普段文章書いているという状態
とはほど遠いと思うのだけど、そういう意味ではネット上に文章表現
している人というのも全体からすると一部ということにはなるのだけど、
相対的にはほかの時代と比べると普通の人による文章がまとまった
数あるような気がする。不十分ではあるにしろ、検索することでターゲット
となる文書群もそれなりに集められるだろう。そういう意味で探索基地
にこの時代の文章を使うことはできないのだろうか?

結局、植物学者が植物を比較分類するような感覚で、個人のテクストを
比較、分析していくわけだ。テクスト自体が一種の標本なのである。どこか
のテクスト群を基準にしながら、ほかの場所や時代の類似テクストと比較
していく。どこかでまとまった資料群があれば、ほかの資料が断片的
なものであっても比較することは可能になるのかもしれない。

テクストを比較することによって何が明らかになるのか?ニンゲンの研究
とか日本人の研究とか本格化するのは案外これからなのではないかと思うのだ。
たとえば、有名人の研究とか、えらい人の研究とかはいっぱいあるけど、
普通の人の研究ってあまりない。その証拠に私の祖父なども百科事典に載って
いたりはしない。でも、それはただちに私の祖父は研究する価値はないといえる
のだろうか?普通の人はひとりかふたり人類学者が分厚い記述を生み出せば
それでいいのか?有名人は研究する価値があって普通の人は研究する価値が
ないのか?一銭五厘の価値なのか?疑問はつきない。

もっとも、現在だと個人情報とやらに阻まれて、研究したくても研究しにくいテーマ
でもあるかもしれない。そこで本人による資料提供だ。

一件一件のデータはその時、その場所、その人において何を考えたかという証拠だ。
唯一無二の貴重なデータなのだ。そして、孤立してそういったデータがあっても大して
意味はないかもしれないけれど、まとまってくると意味をもつ。とくに意味なくやっていっ
ても意味が発生してしまう。

普通の人は一般人とか称されてマスメディアから見下される。才能がない
などと言われる。有象無象などとも。それは本当なのだろうか?公平に判断
してそうなのか?そういうことは証拠に基づいてシステムの外にいる人から
裁定される。逆に判断してもらうには証拠としてデータを残さなくては
ならない。

今、恵まれた地位に安住している人はそれに本当にふさわしいのか、
うずもれているデータは「ゴミ」にしか過ぎないのか?それはシステムの外
にいる人から公平に判断してもらうしかない。たとえ私、個人の表現したものが
「ゴミ」と判断されてもそれでいい。でも私の背後にいる類似のデータ全部ひっく
るめて「ゴミ」なのか一銭五厘なのかきちんと判断してもらいたい。

というようなルサンチマンみたいなものがどうしても滲み出してしまう。
「ごめんね」と恵まれた層の人に言ってもらってもその痛みはおさまらない。
せいぜい背中をひりひりさせてもらいたい。

最後に。私の未来人のイメージはラン科植物だったり、カミキリムシだったりする。
情報の熱帯雨林の中でひいき客を求めて自己表現する百花繚乱の花の顔だ。
それぞれが個性をもっている、たとえばエビネ蘭のたぐいの花のように。
身の程知らずの野望だけど、サクラジマエビネのように、一花一花、
顔のちがうエビネ蘭のプロトタイプにあたる、そういうニッチを目指したい。

のっぺらぼうの大衆なんかでいるのはつまらない。というか大衆とか一般人という
名称が許せない。ひとりひとりはちゃんと顔をもっている。そして、ひとりひとりの顔
の彫りはこれからもどんどん深くなるだろう。いずれの日かは南島の唄者のように
ひとりひとりの自分のウタを紙面に展開させる、そんな日々もまた還ってくるに違いない。
取り戻そう!自分たちのことばを。

P.S 未来においては研究なども無味乾燥なデータを吐き出すことから反省されて、
個人の実存から出てきたテーマみたいなものがもっと大事にされるのかもしれない。
そうしたときに一般的なテーマにたどり着くに先立って、「自分自身の研究」みたいな
ことを自分史を書くということを手探りにしながらしていく時代もやってくるかもしれない。

そのときに、自分だけ見てても自分は見えてこない。比較の対象がいる。自分によく似た
だれかを見つけるのがいいのかもしれない。そうしたときに個人のデータというものが
活きるのかもしれない。違う国、違う時代に自分の友人さがしの旅に出る、そんな未来を
夢想したい。

書きたいように書いた文章

また内容に入らなくて、「書くこと」についての文章。
推敲はすべきかどうかという前も考えた問題について
また悩んでいる。

推敲したほうが読んでもらえる。わかりやすい。伝わる。
好感ももってもらえる。いろいろ特典は多い。

でも、それってヨソユキの文章なのだ。
いわば正装したフォーマルな服装。

そういう文章ばっかりでいいのだろうか?
素顔を写した文章みたいなものを書くと、「いま、ここ」に
おける庶民のカオみたいなものに対する忠実な記録に
なるのではないか?

たとえば、80年代の、プロの書き手とかと違うフツーの人の
なるべく飾らない、素顔がみえるまとまった文章とか探した
ときにすぐ見つかるのだろうか?

たとえばもっと昔に帰って綴り方関連とかの文章は本になって
たりするので読める。でも、一人の人についてはエッセイで一枚分
とかそんな感じだ。

自分史とかならどうなのだろう?これもたくさんある。でも、たぶん
冊数とかも少ないので私のところまで届かない。

こんなへんなたくらみめいた話をしていくと、どんどん読み手がどんびき
になっていく。どうしよう。もしかしたら、どこか遠くのだれかがまとめて、
データをとってくれていて、遠い未来にデータは救い出される、そういう
幻想は自分の中にないか?

そういう純でない、へんな欲望というか、娑婆っ気めいたものが綴り方など
の書き手と今の書き手との違いなのかもしれない。どんどんみんな引いていく。


何かへんなこと、今思った。一昔前のテレビで巷に取材にいくと、取材対象の
背後で地元の子供らが手振ったり、ぴょんぴょん飛んでみたりしてテレビに
映ろうとする。そんな感じ。完全なるアーティファクトで画としての価値は落ちる
から、別の方向にカメラを動かす。子供たちもまた移動してぴょんぴょん飛び上がる。

でも、そういう画を現在の視点から眺めると優しい目になれる。それも含めて当時
というものを映しこんでいる。本人ならび、カメラマンの意図から超越したところで
結局のところ時代というものを映しこんでいる。

というわけで、自分の欲望に素直になり、欲望のままに表現したいことを表現すれば
いい。それはきっと私の意図などと全然離れたところで、結局のところ、現在という
ものを映しこんでしまうだろうから。

P.S 今日は図書館で阿部謹也『読書力をつける』という本を読んだ。その中で
昔のドイツの読書協会などの話がでてきて、当時の読書する職人たちを知識
人が「職人が読書しすぎても役にたたない」(記憶で書いたので正確な引用では
ありません)と批判していたみたいだ。現在とどこか似ている風景だ。現在の読み手
としては当時の読書する職人たちが「どう読み、何を考えていたのか」その生の
言葉が読みたいとつくづく思った。彼らは自分たちの先輩であって、論理的には
自分たちの後輩にあたる層もどこかで生まれるはずだ。その後輩たちに万が一
にでも読まれるなどと考えることはおろかだと思うのだけど、宝くじ買ったつもり
であれこれ考えて書き残しておきたい。また、ドナルドキーンの本によると、この
世界のどこかに戦時中に日本軍の戦士たちが書き残した日記群などもあるらしい。
はるか未来において、戦争中の日記と平和な時代の日記が突きあわされて
読まれるかもしれない。そのことによって、私たちにはわかりようのないはるか
未来からみたときの21世紀初頭の日本というものが浮かびあがるかもしれない。

いずれにせよ、今の時代を生きる人々はすっかり欲深くなって、言葉の力に目覚め、
書き残すことによって、どこかではるか未来で読まれるかもしれない希望を潜在的
にはもっている。凍結保存によって、脳を保存する希望は幻想でも、自分の書き残した
データが未来で救い出される希望はまったくの幻想でもない。少なくとも宝くじで夢を
買うことよりは意味があるのかもしれない。小学校のときに埋めたタイムカプセルの
ことを思い出そう。怪獣消しゴムなどくだらないものを埋めたけど、埋めた場所は工事
などされて、結局救い出されることはなかった。そんなわけで、まあここで何か書いた
としても、どこかの時点でデータは破棄され、無に帰するかもしれない。単なる文字資料
としてデータベースの底に埋もれる可能性が一番リアリティをもっている。データベース
から救い出されるためには何等かの意味でデータに価値がなければならない。どれだけ
データが膨大で玉石混交の海の中に漂っていても、何かフックがあれば、未来の頭が
すっかり良くなった機械の手を借りてデータの底から浮かび上がることも可能になるの
だろう。それほどまでして生きた証を残したいのか?みたいな目も当然あると思うのだけど、
どうなのだろう?投票用紙のように機会は前よりは平等に与えられている。権利を行使
するもしないも、その人次第だと思うのだけど。。。 妄想はこのへんにしておこう。

P.S 自分ひとりの極私的なことを全体に拡大するバカなやつと読む人もいるかもしれない。
そう読まれるかもしれないと思いつつも書いている。全体にまでは拡大できないかもしれ
ないが、点としての個人の背後に、群れとしての似たような集団もいるかもしれない。
結局ここに書いているのはある意味、化石みたいなものなのだ。魚が化石になる確率なんて
わずかだ。でも一点の化石の背後に化石として残らなかった群れを想定するのが観察者だ。

2012年10月27日土曜日

歴史像の解体

歴史って何のためにあるのだろう?
別の言い方をすると歴史文書の機能って一体何なのだろう?

他にも気になることがある。
いろんな人の発言の機能って何だろう?
それらを取り込んで構築された私の中の世界像って
何なのだろう?

そういう疑問をもち始めると、なんだかいろんなものが
虚構のような感じになってきて、結局私たちはプログラミング
された存在なのねという感じがしてくる。

フォードシステムって工場の原型みたいなものだけど、
社会の根源まで入り込んでいてゆりかごから墓場まで
ベルトコンベアーに運ばれて通過していく感じがしている。

ベルトコンベアーで運ばれているのを自由がなく、
窮屈だというのならベルトコンベアーから降りてみなさいよ。
もう戻れないかもしれないから、、、

別に日本株式会社が特別そうだというわけではなく、
多かれ少なかれ近代社会ってそういう面を帯びているの
かもしれない。

それはカフカの作品読んでいるとよくわかったりする。

別に悪意の陰謀集団がいてそうなったというわけでなく、
それぞれの担当の人が部分最適化の方針でそれぞれの
社会システムを整備していただけだ。ずいぶん前から情報は
爆発していて、社会全体を俯瞰するという芸当は無理だった
かもしれないから、部分最適化しかする方法はないみたい。

最適化されたはずのサブシステムは結合すると、
ベルトコンベアーで移動するメリーゴーランド、
東京ディズニーランドのようなめまいのするアトラクション
に早変わり。フランケンシュタインのような複雑系。

グローバルブレインとかなんとかロマンチックに語られて
いたけれども、システムは人間じゃないのよね。非人情
で無慈悲。そういう意味ではユダヤ人が書いていた
血に飢えた唯一神とどこかでイメージは重なるのかも。

ローカルな場所に移すと地域活性化の名のもとに
地域の歴史的な事物や自然の事物がカタログ化され、
そのうちマルチメディアの形でコンテンツ化されるのかも
しれない。

そして、それらは受け手の中に取り込まれて世界像の
一部となる。

その結果、人々は地域や国家を愛するようになって、地域や
国家のために頑張り、その恩恵はゆくゆくはそれぞれ
の人のもとに還元される。まったくいい話ではないか?

今までその路線で所得は倍増され、アメリカンホームドラマ
の中で展開されていた生活のカタチはそれぞれの家庭で
実現し、そこそこの幸せは確かに手に入ったのだから。

そして、そういう流れで今、こうして自己表現も手軽にできて
公開することも可能になったのだから。これ以上何を望む
というのだろう?

考えてもみてみなさい。今、いるここは終戦の時点では
夢にさえ思い描けないユートピア。それが苦いユートピア
だったとしてもね。

ううーむ。確かにそうなのだけど、映画マトリクスで描かれてた
仮想世界の中での幸せなのかもしれない。実在の砂漠、
プログラミングが解けた後の生活がオートミールをすする
貧しい世界のようにも見えてくる。

ウサギの穴って何だろう?ニートの身分になって、労働社会から
抜けて、自由になった時間をそのまま図書館にこもって読書しま
くる生活に浸りながら少しずつ見えてくるこの世の真実。

『スカイクロラ』で描かれた、システムというものの全貌。
ローカルな場面場面では見えてこない、場面が結び合わさった
ときの不気味な姿。

それは華厳経の世界のごとく、醜悪な部分を含めても全体は
よくできている、よくできすぎているというこの世の摂理。

「美しい自然界」も当事者ベースのミクロな世界に縮尺を広げると
世知辛い世間にしか過ぎないのかもしれないけれど、風景画の
世界まで望遠にすると個々の哀しみは消えて美しいタペストリー
が出来上がる。

えらい人、とくに文化人など、講演台の上からマスを俯瞰して
語る。会場は美しいタペストリーでしかないのかもしれない。
一人ひとりの生活上の苦しみみたいなものは消えて、
のっぺらぼうの数字の束になりかわる。

とかなんとか、丹念に自分で自分をプログラミングしながら
思うのだった。いろいろ仕方のないところもあるけど、
結局、コンテンツ選択しているのは自分だから、
チャンネルの選択権はワタシにあるのだから観念するしか
ないのか。

思うことは偶然のお導きによってよりよいテクストに出会う
僥倖を願うだけである。よりマシなプログラミングというのも
あるのだろうから。

P.S 頭が悪いうえに推敲しないというのはよくないのかも
しれない。とにかく読みにくいし。冗長で雑音もたっぷり
含んでいるというか雑音の中から情報らしきものを取り出す
苦労を読み手にしいている。

でも、文章は作品というより、資料みたいなものなのだったり
する。飾るところなく、ワタシというニンゲンがさまざまなものを
どう捉え、考えているかということの資料。

そんな私的な文書に何の意味があろうかとも思うかもしれない
けれど、小さな葦の穴から覗いてみた世界観みたいなもの。
いわばマンションの隣の人の部屋のなかみたいなもの。
自分に似ている人もいるかもしれないし、かけ離れているの
かもしれないし。そういうものも比べてないことにはわからない。
そういうための資料。

P.S 結局、新聞やら総合雑誌読んで床屋談義するというレベル
からそう変わらないような世界観。自分がないとも言えるし、
既存の資料の組み合わせ方が奇妙という意味合いでの
自分らしさということなのかも。自分の頭の中こそ、パッチワーク
でプリコラージュされた不気味なフランケンシュタイン、これは
前々から自覚していたけども、ブログ全体が文章でできた
コラージュ療法なのかも。

妄想気分が発生しやすい場面

今日なんとなく思ったことは妄想気分が発生しやすい場面があるのでは
ないかということだ。

妄想気分ってどんなものか?何か説明しづらい。具体的には何も起こって
いないからだ。ただし、周りの人々の動きやら、声の色合いみたいなものが
強調されて認知され、その結果、世界の非日常感が高まって、虚構の世界
の中に投げ出される、この世界は虚構の世界だったのだと。学校や社会で
習った常識は全部ウソだったのだと。


さて、今日の具体的な出来事から。

天文館の某サロンで古代歴史の講座があったのだけど、今日のお題は
聖徳太子の虚構論、実在論というテーマだった。お客さんは年配の人を
中心に高校生も二人と上と下の世代はいて、私のような40代くらいの
男の人は多分私一人だったかもしれない。教室はほぼ満杯で大盛況と
いってよかったと思う。

で、内容は聖徳太子が実在しないと唱える虚構論の意見と、実在する
と唱える実在論の意見を突き合わせながら、資料を併用してみていく
というものだった。

面白いのは自分の中で歴史像みたいなものにヒビが入り、少しずつ
解体されていく感じがしたことだった。

周りのおじさん、おばさんたちの中にもそう感じた人がいたように
思われて、ちょっとざわざわした空気が感じられたことだ。

私が感じたざわざわした感じ、それはリアルなものなのか、私の中
だけで起こったバーチャルな出来事なのかは不確定だ。

ただ、その体験の中で、教室の中の集合的無意識が揺さぶられた
感じがなんとなくして、揺さぶられた集合的無意識の反応として、
おじさんおばさんたちのちょっとしたしぐさや、隣の人とのちょっと
した一言などの中に異様なサインを読んでしまった。

これも、実際の出来事なのかバーチャルな出来事なのか不確定だ。

ひとたびその感じを認知すると、教室という環境と私の心の間に
フィードバックループみたいなのができて、ハウリングみたいな
感じで、場の異様さが私の中で強調されて感じられてしまうのだった。

ただし、この感じはもう繰り返し味わっているのでただちには
恐怖体験とはならない。むしろ、静かに観察し、できれば記録しよう
と思う欲望がわいてくる。



現場で書いたメモ

「世間の無意識が動く時、場面がある。
フィードバックが起こる。
無意識の動き
自分の無意識が動いているのか
世界が動いているのか
不確定なんだよねー。」


空気を察するアンテナが鋭すぎてゴーストを拾うのかもしれないし、
確かに何かいつもと違う情報を拾って、それが増幅されるのかも
しれない。でもそれはよくわからない。

もっとも、中井久夫の書いた文章の中でアンテナという用語を
学び、妄想気分という用語を学び、そういう構えで世間を観察
するようになってしまったのかもしれない。そうすると二次的に
構築された何かであってアーティファクトではないといえないこと
もない。

多分、私のこの文章だけでは情報の価値はないのかもしれない
でも、この文章とまったく無縁のところで類似の現象が観察された
ら、この文章もデータとして価値がでてくるかもしれない。

なお、妄想気分は純粋に脳の機能不全による現象であっていわば
受像機の故障による画像の乱れであって、神秘的な要素はまった
くないといいきれるかどうかわからない。背景としてこんなことも
あるからだ。

数日前からの読書の流れでまったく無関係だけど、
『司馬遼太郎をなぜ読むか』桂英史著と
『昭和天皇の歴史教科書 国史』白鳥庫吉著 出雲井晶口語訳を
読んだ。

『司馬遼太郎をなぜ読むか』のほうはメディア論を駆使しながら、
司馬遼太郎によって植えつけられた歴史像みたいなものを解体
し、ならびに受容のプロセスを分析していくような話だった。

一方『国史』のほうは口語訳された動機は解体されつつある
戦前の歴史像を救済しようというもくろみのように見えた。

この二冊を読んだのは時期的にちょうどよかったのだった。
でも、あまりにもタイミングが良すぎるので、何か関係づけて
しまいたい欲望に駆られるのだった。

主観的にはタイミングの良すぎる下ごしらえのようなちょっとした
伏線的な出来事があって、そのあとに妄想気分が発生しやすい
場面が生まれるという現象は場を変え、品を変え、ある確率で
出てくるのではないのだろうか?

森の中で木が倒れたり、火災が起きたりしてギャップが生まれ、
そのあとにパイオニア植物が生え、桜の木が生える。
偶発的な出来事だけど、森の生態系の営みの中に組み込まれた
サブシステムである。

なんかそんな感じで、人事の世界にも生態学的に意味のある場面
みたいなのがあって、そういう場面と妄想気分の発生、そしてそこ
から起こってくる統合失調症の発病、そして、宗教もしくは巫女の誕生、
なんかこういうのも人間社会の生態系の営みの中に組み込まれた
サブシステムなのではないかと思ったりする。

私は鳥なのか、アマチュア観察者なのか、なんなのかよくわからない
立場(もちろん比喩として)なのだけど、ちょっと面白いかなと思って
書いてみた。アマチュアの書いたものだから荒唐無稽はまぬがれない
かもしれないけれど、何かの記録にはなるかもしれないので残して
おこう。

P.S 『東京ディズニーランドの神話学』桂英史著なども読んでいて、
(こういうアタマの悪い読者がいても迷惑かもしれないけど)、
日常生活が虚構の束みたいにみえてくるといったところが影響うけた。
でも著者はメカニカルな書き方しているので多分唯物論的な世界観
をお持ちであって、日常生活が虚構の束になっても岩盤が揺らぐことも、
ましてはヒビが入ったり、割れてしまったりということはないのかもしれな
い。一方、私は非定型精神病の履歴があって、見事に一度は岩盤割れている
ので今日のような出来事をどう受け止めるかちょっと問題だ。

考えてみるととオジサン、オバサンらはプログラミングされた世界像やら
歴史像をあの歳になって崩されるのは残酷かもしれないけど、私以下の
世代ではディプログラミングという作業が必要なのかもしれない。もっとも
ディプログラミングされた先が単なる陰謀論だったり、カルト宗教だったり
しても困るのだけど、反社会としてのカルト宗教も裏返されたプログラミング
ということなのかもしれない。

頭の悪い私はもうこれ以上考えても無駄なのでいい加減黙っておこう。

P.S2 妄想気分?(本当にそうなのかどうかも実はわからないのだけど)を
感じたときに何が「具体的に」起こったのか、感じたのか?どういうサインを
みて感じたのか陳腐化した語彙など使わないで書くべきだったのかもしれ
ないのだけど、現象学の訓練でもした人でないと難しいと思う。人々の集う
世間がオーケストラのように感じられて、オーケストラのような多声的な空間
でそれぞれの楽器がしぐさやちょっとした言葉の形で全体的な異様な雰囲気
が出来上がっていく感じだった。聞いたことはないけど、ジョンケージの4分
33秒という作品にその空間は似ているのかもしれない。作品という枠にあたる
のが病的体験の履歴をもつ私の世界なのかもしれない。受け止め方次第で
日常空間は非日常に化けてしまう。日常の人々のしぐさがバイオリンのしぐさ
に、ざわざわした言葉の断片が声楽の色合いを帯びてきたり、、、下手な比喩
だけど、病的体験のない一般の人に伝えようとすると誤解をあたえかねない
そういう表現を使うしかないのかもしれない。

妄想気分の説明はこちらを参考に
http://888.mukkon.com/15/post_5.html

2012年10月26日金曜日

気分が高揚したときの文章をあとからみると

気分が高揚したときの文章見ると、なんだかがっかりします。
あれは酒の席での発言だから、、、というのが意味をもたない
ように、高揚したときの文章の中にも心の底でひそかに思って
いることなどがきっと出てくるのです。

多くの人も、表には出せないような言葉が心の底には渦巻いて
いると思うのですが、恥ずかしいので心の中に閉じ込めておくの
だと思うのです。

感情の制御が難しいと、心の中に閉じ込めるのが
できなくなるのですが、出てきた言葉は本音に近い部分なので
読む人はこういう人だと考えてしまうと思うのです。

ただ、書いてしまった自分の文章をあとから眺めるのも、
自分を知るという意味では参考になります。

今日は気分が盛り上がらなくて、あんまり文章は書けないのですが、
気分が盛り上がっている日はつぎからつぎに言葉が出てくるのですね。

酒の力を借りてどんどんおしゃべりが弾むように、そういうときは
言葉に酔ってきて、どんどん言葉が出てくるものです。

それを推敲なしに発信してしまう私もどうかと思うのですが、、、、

結局、自分で選んだことなのですね。

気分が上下する友人にはそれを含めて付き合ってくれる人と
つきあえばいいんじゃないの。と私は勧めるのですが、
このブログ読む人も一緒なのかもしれませんね。

気分に翻弄されるというところまではいっていないのかもしれない
のですが、気分の起伏によって有頂天になる日もあれば、理由も
ないのにへこんでいる日もあります。

そして、その日に書いていることも気分の影響下にあります。
客観的にはみすぼらしい姿をしていると思われるのですが、
気分だけでも高揚し、幸福感に包まれるというのも
一つのシアワセのカタチなのかなあと思います。

哀しい勘違いかもしれなけれども、、、

P.S ここ何年も面接の状態ではあまりひどい高揚とか
ないのですが、文章書くと、出てきやすいのです。
「真夜中のラブレター」という言葉があるじゃないですか、
ああいう感じです。

2012年10月23日火曜日

環境から可能性を引き出すこと

鹿児島にいるとどうしても環境決定論はキライになる。
「田舎の三年、京の昼寝」ということわざがあるけど、
中央にいるとどうしても環境決定論になりやすい。
まあ、確率で考えるかぎり、そうであるし、
高校生クイズなどみてると事実としてもそうである
ことを認めないわけにもいかない。

そうはいいながら、今、鹿児島に住んでいるので
環境可能論的な発想にたちたい。

「環境から可能性を引き出すこと」である。

そもそも、環境を生かし切ることなど原理的にできない。
今の情報爆発の環境にいてもそう思う。

読むという行為がテクストと読み手の間にできる場だと
いうのなら、環境というのは別の見方をすると環境と
主体との間の相互作用の場みたいなものだ。

環境から可能性を引き出す能力を上げるにはどうすれば
いいのだろう?

もしかしたら、与えられた環境は同じでも、前いた環境の違い
によって環境から引き出されるものは違うという残酷な結果
を意味するのかもしれないけれど。

でも、逆に同じような履歴をたどったとしても、ちょっとした心
がけの違いによって差が複利のように違ってくるということも
いえるかもしれない。

ベトナム戦争時、アメリカ人の捕虜が無能化したいために
知恵をいろいろ絞ったそうだ。
http://kumamoto1979.blog58.fc2.com/category3-16.html
孫引きですみません。

捕虜という境遇でさえ、本人の努力いかんで環境の意味が
変わってくるので、ましては自由の身にある私たちであった
ら環境からどれほどのものを取り出すことができるのだろう。

逆に多少の環境上、条件上、境遇上のハンデは
チャレンジングな気持ちを奮い立たせるものなのではない
だろうか?

少なくともそこで主体である自分というものが試されている。

とかナントカいいながら動かないで本読んだりしかしていない
私には何も書く資格はないのかもしれない。

それでも、環境の牢獄というよりは、自分で作った心の牢獄に
囚われている人はおおかろうと思うのだ。

まさにこのことこそ、私自身にもあてはまることなのかも
しれないけれども。

山の匂い、海の匂い、小さな都会の匂い、、、

山の匂い、海の匂い、小さな都会の匂い、港の匂い、下町の匂い、博物館の匂い、
図書館の匂い、、、、

そういう匂いを発散させた文章書きたい。といってもそれを自覚しちゃうと興ざめ
になってしまうのかもしれないけれど、、、、

自分は自分以上のものにはなれない。そして、決定論者ではないけれど、
自分、そして自分の生み出すものは時間と空間の強い影響下にある。

自分に受け継がれた血の歴史の中で、初めて自意識というものを感じた世代
なのかもしれない。

そして、感じた自意識はメディアの上に定着させることで初めて時間、空間の離れた
他者と共有することが可能になる。

『ジェネレーションX』という本の中でダグラス・クープランドは日本のX世代について
書いてある。『幼年期の終わり』の終わりのほうに出てきた、新世代みたいなもので、
親世代にはまったく理解不能な未来人だ。なんとなく、それはよくわかる。

太陽が宇宙の中心と信じていた1925年生まれの父に量子力学の解説本で読んだ
話をしたら目を丸くして、「もうやめてくれ」と言われてしまった。病気が悪くなるのを
心底心配したのだった。

頭の中には両親の世代にはわかりようもないことがたくさん入っていて、それは
なんとなく今も母には伝わっているような感じがする。

あれこれ考えていると、「何考えているの?」と心配そうな顔をする。

戦前生まれの親をもつ人は多かれ少なかれ、親には伝えようもない部分を
抱えている。

戦後生まれの親をもつ人は同じ土俵の上で文化の話ができるのはある部分
羨ましくはある。でも、戦前の異世界の話をある程度ため込むことができた
のは戦前生まれの親をもつ世代の特権でもある。

80年代以降に生まれた世代の人については羨ましい部分、羨ましくない部分
いろいろある。

コンピュータとの馴染みという点では羨ましいものがある。勉強する気さえあれば
私たちの世代が苦労しつつも身に着けられなかった知識、たとえばコンピュータ
言語、外国語、数学の知識など、たぶんこうした知識を進んだ教材やメディアの
力で私たちよりは楽に学ぶことができて、私たちが理解しえた先の風景をみる
ことができるだろう。

羨ましくない点は、裏腹な話だけど、ネット関連を別として、世の中に存在する
さまざまなハード的な事物はそろった後に生まれ、始まりの感覚をもたない
ことだろう。私は1966年生まれだけど、それ以前に生まれた世代ほどではない
けれど、始まりの感覚は多少はもっている。そして、その素朴な喜びは忘れたく
はない代物だ。日常に退屈さを感じたときはそこに帰りたい。

一昔前の上海やら、たぶん今はその風情は失われているかもしれない蘭嶼島、
鉄道が開通する前のカシュガルの空気をしっているのも後の世代からみると
貴重な経験なのかもしれない。何よりまわりの人たちに先立って、外国の個人旅行
を試した世代なので冒険気分を存分に味わうことができた。

自分に影響を与えている空間的な要素に書きたかったけど、結果として時間的な
要素を書いてしまった。筆がすべりまくりなのは毎度のことだけど。

単に自分の考えるところの自慢話なのかもしれないし、それは自慢というよりは
私の精一杯のところの限界を書いているのかもしれない。

朴訥な土の匂いというよりは成金の醜悪さに似た何かを読む人は感じているかも
しれない。それはやっぱり土の匂いの裏返しなのかもしれないけど。

P.S 太陽が宇宙の中心と信じていた父をバカにする気など毛頭ない。ただ、
戦争のためなのか、単に勉強ぎらいだったためなのか父のところまで科学的
な知識がいきわたらなかったという事実が書きたかっただけだ。父は終戦になる
まで、戦っているアメリカという国がどういう国なのか知らなかったとも言っていた。
私がアメリカをしっているとはいえないけど、基本的なことが伝えられていなかった
ような気がする。図書館の書庫の中にある戦前発行の本の中にはきちんとアメリカ
のことも書いてあったりするので知識としては当時もあったのだけど、父のところまで
はいきわたらなかったのだろうと思う。知識がいきわたっていないという点では今の
私もまた同じ問題があるに違いない。

知識人と庶民のアマルガム

私の言葉は知識人の言葉と庶民の言葉が混じっていると
ある方から評されたことがある。

そういうヘンテコな言葉でものを考え、そしてものを表現している
ことは十分自分でも意識している。

でも、それは居直るべきだと考えている。別にコンプレックスを
感じる必要もなければ、修練していって、庶民の匂いを消そうと
努力する必要もない。

私のライフストーリーを反省してみて、そういうありようは当然だ
と思う。むしろ、そういう人間であるからこそ考えることのできる
話題もあるのではなかろうかと思うのだ。

行動上の野蛮さも多々あると思う。お行儀もいいとはいえないし。
別に自分を卑下しているわけでも、差別しているわけでもない。
客観的に自分というものを意識してみて、そう感じるだけだ。

逆に、秩序の感覚からくる差別意識みたいなもの、片一方に
あこがれ、片一方を見下す、こういう感覚は生理的に憎んでしまう。

それは南島に先祖をもった血の記憶がそうさせているのかもしれない
し、体が小さく、弱弱しく、風変わりでもあったためにいじめられてきた
自分の過去の記憶がそうさせているのかもしれない。

だから、ピラミッドをあがって行って、下位のものを見下す快楽は
生理的に受け付けない、また、上のものから見下された不快感を
下位のものに鬱憤を晴らす形で解消する、そういう世界も受け付けない。

私は意識の上では、そういう序列の世界から抜け出たい。解脱したい。

たぶん仏教が天上界に転生することを目指すのではなくて、輪廻の輪から
解脱することを目指すのも社会構造の冷静な観察から得られた発想なの
ではないだろうか。

天上界、修羅界、餓鬼界、、、こういったこの世の外の構造は、社会の中の
構造を拡張したものだと思う。

有頂天になっても地獄に落ちてもこの構造の輪から抜けられない。これこそ、
この世で生を営むことにまつわる哀しさなのではないだろうか?

だから、見下されても、相手もまた許すしかない。私も相手もこの世界の中
で翻弄されながら漂う哀しい存在なのだから。

とかなんとか、かきあつめた借り物のことばをもっぱら使って考えてみる。

きちんと考えるには不十分かもしれないけど、言葉をもってたらそれを
道具にしてあれこれ考えることができる。

宮廷の料理に似たものをいつしか庶民が食すようになったように、
知識人が考えた言葉に似たものを使って、日常あれこれ庶民が
考えるようになった。そのための広場も用意された。

せっかく与えられたものは使わないともったいない。
ジューサーミキサーを死蔵させたように、そして、今は
スマートフォンのほとんどの機能を死蔵させているように
頭の中の道具も死蔵させたらもったいない。

当地、鹿児島では高級化したラーメン屋が花盛りだ。知恵をしぼり
ながら、多様な意匠を凝らしたラーメンがしのぎを削っている。
ばらまかれた知識の使い方の典型だと思う。

そんなラーメンのような表現を目指したい、気取った表現ではなく、
庶民的な、栄養価に富んで、なおおいしくもあるそんな表現をいつの
日が作り出せるようになればなあと思っている。

ニートが高等遊民に化けるには

私、別に自分のこと高等遊民だと言い立てるつもりはない。
旧帝大卒の人のようなエリートでもないし、ドイツ語も少々勉強
したけど、今はほったらかしだし、高等遊民とは違うと思う。

でもなんとなくシンパシーは感じる。そのシンパシーは漱石の
描いた高等遊民にもはるか千年昔の更級日記の作者にも
感じることがある。

で、現代の典型的なニートの人へのアドバイスだけど、
(アドバイスする資格が私にあるかどうかわからないけど)
とりあえず、図書館行って、自分の今のレベルに会った読み物を
探すのがいいと思う。

できれば、一人で探すというよりも、友達とか巻き込んで、
何か読み物を読むというところから何かを始めるのがいいと思う。

友達を巻き込んで、というのは一人で読み物読んでも、思索する
というのは難しい。モチベーションを維持するのも難しいだろうし。

今はマスメディアが発達した時代なので、基礎知識はそれなりに
ばらまかれていると思うのだ。ただし、それは断片的な知識なので
もうちょっと掘り下げないといけない。

日本の社会という世界の中では比較的恵まれた文化環境の中で
暮らしているので呼吸するようにして文化のシャワーを浴びている
ともいえる。たぶん、自分でも気づいていないそうした特典をより
掘り下げることによって、今の苦境なり状況はちょっとずつでも
動いていく可能性をまだまだ秘めている。

小学生段階とかかなり早い時期に不登校状態になってしまって
いる人は常識が抜けている可能性がある。

たとえば、イギリス、ドイツなどの外国の位置が世界地図上で
どこにあるかわからなかったりする。

そういった基礎的な常識は(こういう抽象的な書き方をするのは
まずいと思うのだけど)、たとえていうと本棚に相当して、本棚が
できるとそこに本を入れていくことができるように、テレビなどで
ドイツの話題が出てきたときに記憶に引っかかりができて、記憶に
残ったりするのだ。

逆に基礎的な知識という本棚ができないと、以後マスメディアで
流されたやっぱりドイツの話題などもキャッチできなくて
ざるから水が出ていくように頭の中に残らない。

だからまず、本棚に相当する基礎的な知識をみにつけないと
いけない。

今日の話題はもうちょっとかみくだいて、知識がなくてもわかる
ような書き方をしなければ本当はいけないと思う。

この文章読んで、自分なら同じテーマをもうちょっとうまく書ける、
もっとかみくだいて伝わるように書けると思われた方がいたら
ぜひ続きを書いてほしい。

たぶん原理的には順序を踏むことによって、無理なくニートになって
しまわれた方が知識をつけていく方法はあるのだろうと思う。

それにはきっと誰かの助けがいる。助けがなくて自力でやり遂げられる
人もきっといるにはいると一方では思うのだけど、ちょっとした手助けが
なかったために無為に時間を浪費せざるえない人もいるのではないか
と思うのだ。

自分もそういう方面に自分の持てる知識を使いたいと思う。

私は私なりにもがいていて、獣道を探索する者だけど、振り返ってみれば
同じような問題だったり、私は過去にクリアーした問題に今直面している
人もいると思う。

そして、それぞれの人が振り返ってみるといいと思う。足りない部分はそれ
ぞれあろうかと思うのだけど、自分の境遇の中で学んだこともきっとあるの
ではないかと思う。そういうことを言語化し、貼り出すだけでも何かが変わる
のではないかと思うのだ。

怠惰なニートというイメージが常識だと思うけど、勤勉なニートも世の中には
存在するのだということを伝えたい。無為なる時間の使い方を憎むニートも
いることを。

2012年10月19日金曜日

脳が喜ぶ料理をつくること 

それが私が達成してるかどうかというと、多分達成していないと
思うのだけど、言葉での表現とか絵による表現とか、これ、
脳が喜ぶ料理をつくることだと思う。

そう思うのが一番才能を神秘化しないで済む方法だと思う。

料理をバカにしているのじゃないか?と怒られそうだけど、
かの道場六三郎も気取った料理はキライだったみたいなので
神秘化しないことはいいことなのだろうと思う。

では、脳が喜ぶ料理はどうつくればいいのだろう?

ここで、しまったと思う。

これじゃ、野球がうまくなるにはボールを打つことだと
いうに等しい。その方法が知りたいのだから。
野球のたとえは河合隼雄の本に書いてあった。

道場六三郎は『伸びる男とダメな男はすぐわかる』という本の中で
日本料理は素材8分と書いてある。そして素材をよく知ることの
大切さをこの本の最後のあたりで強調している。

おなじことは表現にもいえないだろうか?

才能がないことを嘆いていても仕方がないし、
天才にしろ、自分の理想と比べるとやはり、
才能のなさに嘆いているはずなのだから、
そこに重心をおくのをやめて地味な努力を
続けてみるのはどうだろう。

多分、今日書いたことは自分にほとんど向けられている。

頭の中の冷蔵庫にその時在庫しているありあわせの
材料で、脳のよろこぶ栄養価のすぐれたちょっとしたもの
をつくって提供したい、これが私のすべてだと思う。

たまには闇鍋風のものもつくってしまうのだけど、
自称「料理人」の私と目の前のお客さんの「あなた」
の出会う「ここ」はインターネットの場末の屋台。

物好きなお客さんの「あなた」はもっと有名な場所で
時間をつぶせばいいものの、こんな処で油を売っている。
酔狂といえば酔狂なのだけど、いいモノ掘り出しましたねぇ、
などとは私は口が裂けてもいえない。

そういう場所じゃないのだから。

ある種「騙されて」こんな場所のカウンターに座っている。
どう騙されているのだろう?

私は時間泥棒。

「料理人」という名の時間泥棒。

2012年10月18日木曜日

誰にもかけない文章 全分野トライアスロンの勧め

文章は誰でも書ける、現在ではそうなりつつある。
それでは誰でも書ける文章の世界で誰にもかけないものを書くには
どうすればいいのだろう?

一つは専門を究めるという道だろう。でも、日本だといろんな分野に専門家
が張り付いていてこの道は難しそうに思える。それに需要もそんなにみこめない。

それに地方だと情報入手にも事欠いて難しそうにみえる。

逆はどうなんだろう?

そこで全分野トライアスロンの勧めである。

といっても私がそれを成し遂げたという風な強弁をするつもりはない。

単に全分野トライアスロンならば、それなりの公共図書館がお近くに
あれば、インフラ的にはクリアーされているような気がするのだ。

その旅程で峠になりそうな場所がいくつかある。

いうまでもなく、数学物理。コンピュータ言語、諸外国語だと思う。
あと、いきものの名前覚えるのも人によってはめんどくさいかもしれない。

むしろ、いろんな分野に関心をもつこと自体が難しいかもしれないけど、
広い分野を束ねる方法はある。それはシステム論関係の本を読むこと。
てっとり早くはワインバーグの『一般システム思考入門』、ベルタランフィの
『一般システム理論』、そしてケヴィン・ケリーの『複雑系を超えて』など読む
のがいいのかもしれない。

立花隆の「知の総体」だの松岡正剛の「編集工学」だの知の巨人みたいな
道もいいのかもしれないけど、そういう仰々しいカタチではなく、普通の人の
サイズで町内に一人ぐらいそういうモノシリがいてもいいのではないかと思う。
インターネットの司書みたいな感じで便利だとも思うし。

立花隆や松岡正剛が『ニューロマンサー』に出てきたウィンターミュート等々の
巨大人工知能だとたとえると、巷の「インターネットの司書」は
『モナリザ・オーバードライブ』に出てきたコリンという小型AIに相当するかも
しれない。

まあ、真面目に全分野トライアスロンしようとすると挫折するしかないかも
しれないけれど、その人なりにという道もあるかもしれない。
普段開けない分野の本を開いてみて、こういう世界もあるのだなあと、
素人なりの素朴な感想をもつこと、それ自体にも何か意味があるのでは
ないだろうか。

理解することは難しくても、本を開いて眺めることだけならば多くの人にできる。
誰にもかけない文章と表題を書いたわりにはそうでもない内容になってしまった
けど、地方にいて自分ならではの文章の味を出すための一つの方法としては
どうなのだろう?

「いま、ここ、わたし」を意識する

いつのころからか思うようになったことの一つは
「いま、ここ、わたし」を意識することだ。

これはささやかなりとも何かを表現し、公開する私にとっての
基本的なことかもしれない。

自分なりに、時間軸、空間軸上の点として自分および、自分の
表現したものを位置づけようという発想だ。

近傍というかローカルな視界しか得られていない点に過ぎない
私が大域的なことをわかるかといえばわからない。
みえるかといえばみえないだろう。

でも、大域的な空間のどこかに位置づけられるということを意識する
だけでも、考えることが整理されるかもしれない。

そして、そのことは何を伝えるべきかというものの選択にも影響して
くるに違いないと思う。

ちょうど、それは書類に日付と、現在地を書き込むことと似ている。
そして、それをつけるかどうかで資料としての価値が全然違ってくる
ことと似ている。

誰でも、そしてどんなものも、空間的、時間的な存在に違いない。
軸の上に位置づけられる点としての存在価値をもっている。

そして、それは頭の中に地図と時計をもつことと何か関係している。

みんな世界という迷路の中でさまよう旅人、そういう比喩は中世の
頃からある。そして、構図としては現在でもあてはまる。

どこを目指すべきか、地図上にはどんな目的地がどんな対象が
あるのか、今はいつなのか?いつまでにたどりつかないといけない
のか?

迷路の中とはいえ、地図と時計をもつかもたないかでは大違いだ。
地図と時計をもつ/もたない、も相対的なことで、もっているようで
もっていなかったり、もっていないようでもっていたり、いろいろだ。

それはわかっていると思っていたことが、本当はわかっていなかったり、
何がわかっていないかということだけはしっかりわかっているということ
とどこか似ている。

blogというのは本当に航海日誌だと思う。
みんなそれぞれみえない海を航海している。航海しているのか漂流して
いるのかも案外、相対的なことなのかもしれない。

何しろ時代自体が漂流しているのだから。グローバルな船自体が漂流
している中で船の中で迷子になっていることは大したことはないのかも
しれない。迷子になっているという自覚があるだけでも出口には確実に
進んでいるのかもしれないから。

P.S 子供のころ、子供向けの読み物でデパートの中などで火災がおこって
煙にまかれたら、みんなと同じ方向に逃げてはいけないと書かれていて
記憶に残っている。冷静になって自分なりに判断しないといけない。
どの扉をくぐるか、冷静に判断することでみんなと違う選択するかもしれない。
結果は自己責任だけど、自分で判断した結果なので納得できる。
時代が漂流する中どう自分は動くかということも応用問題なのかもしれない。

P.S 今日はなんとなく強気な感じがする。漂流中の世の中で真面目に生きている
人々こそ本当は漂流中だなとと言い出しかねない。でも、それもよくわからない。
可能性としては明日、全世界のカネが紙くずになってしまうという可能性もないでは
ない。でもそんなことは起こらないだろうという信頼が世の中を支えている。
天が落ちてくる、だの世の終わりがやってくるだの心配しても仕方がない。そのときは
腹をくくるしかない。でも一方で、先の震災はそういったカタストロフの予行演習にも
みえてしまうのは私ひとりなのか。刹那的に享楽するというよりは一日一日の幸せを
かみしめたい。とりあえず、きょう一日だけでも幸せだった、それは真実なのではないか。
といっても、別に宗教的もしくは黙示録的なイメージの終末論を信じているわけではない。
むしろ、学生のときに組織培養やってたのでロジスティック曲線のイメージにリアリティを
感じる。私たちは坂の上に登りつきつつある。現代文明自体がバブルのようにみえなくも
ない。
金相場のロングチャートを見つけた。
http://www.commodity.co.jp/cx/guide/gold_long_chart.html
金の相場がペーパーマネーその他に対する信頼の逆数だとすると、ここ最近の上がり具合
は不気味だ。全世界のカネが紙くずになるとは誰もおもっていないけど、世の中への不安
自体はあるということなのかもしれない。

「いつもの」という「クセモノ」

いつも接する日常的な卑近なものは繰り返し現れるものだから、
もはや新鮮味がない。

そこには何ら発見がないと思ってしまう。

昔の人はそう思ったのかもしれないけど、今の人は陳腐化という
酸化膜で表面が蔽われたにすぎないことを知っている。

表面の酸化膜を落としてみると、あんまりよく知っていない顔が
現れる。

たとえば日常の事物であっても、歴史がある。

この間、図書館で『箸の考古学』という本を見つけた。じっくり見る時間は
なかったけど、箸とはいえ何もしらないことを知る。

もちろん、作り方にしろ、箸に携わっている会社の顔、人の顔、何も知らない。

商品は製品とブランドに分けられると『バーモンドカレーとポッキー』という本
に書かれてあった。

箸のブランドなんて知らないのだけど、業界の中ではきっとあるんだろうな
と思う。

卑近なものの中に潜む奥深さや、小さなものの奥に潜む大きな世界、
これはもっと若いとき、自力で考えついたことだけど、華厳経の解説本
読むことで深められた。

塵の中の仏、みたいな書き方で書かれてある。

思うにこういう発想はインド数学と関係があると思う。ゼロの発見により、
十進法が可能になる。そして十進法の世界ではどんな極微な数でも
簡便に書き表せる。一十百千万、、、、、無量大数。
そして、小さいほうの数も、、、分、厘、毛、糸、、、、、涅槃寂静。

小さなものの中にも、仏というか大きな世界があることを表現したいという
欲望とどこか重なると思うのだけど、古代人の発想力には敬意を表したい。

現代人なら極微といえば量子力学だの、超弦理論だの、中身は知らない
までもそういう世界を記述する言葉があることを知っている。

もっとも、華厳経は量子力学によって基礎づけられるだのといってしまえば
単なる短絡だと思う。

「この世界の果てはどうなっているの?」という問いは子供なら一度は考え、
もしかしたら大人に投げかける質問かもしれない。

そういう種類の問いが創世記をはじめ、世界中の神話に現れる創世神話
みたいなものを可能にしたのではないかと私は想像するのだ。

どこまで考えることができるか?発想の極限値みたいなものを古代なら、
古代で手に入る考えるための材料を使いながら、それぞれ考えていた
のだろうと思う。

私は私で、私が理解できる範囲のことを素材にして、自分ができる精一杯
のことを考えてみたい。それは大したことはないかもしれないけれど、
現代日本のある種の人々がどこまでものを考えることができるのか?という
ことについての何かのヒントぐらいにはなるかもしれない。

お茶の間でクイズ番組の問題に答えるような感覚で、21世紀初頭の日本で、
そして、辺境の地方都市で拾える限りの考える材料をもとでにいろんなことを
考えてみよう。

P.S 古代の奈良の東大寺の学僧の間で学ばれた華厳経の知識が21世紀に
なってやっと、南の端の普通の人の目に届いたということなのかもしれない。
もっとも卑俗な形の知識に変形はしているのだけど、、、

単なる妄想なのだけど、各時代ごとの華厳経の知識の分布を日本地図に
マッピングするとどうなるのだろう?聖書の知識であっても、量子力学の知識
であってもそれは構わないけれど。何をもってその知識を保有しているという
ことを言うのかは難しいけれど、妄想をめぐらせるだけでも面白いかもしれない。

現代であれば、情報機器に収められたある文字列の分布図みたいな感じで
近似的なことはわかるかもしれない。gmailの中に収められた文字列情報など
も吸い上げられて、時系列ならびに空間分布図が描かれていたら面白いような
怖いようなだなあなんて思う。

2012年10月16日火曜日

まとまった時間をどう使うか?

現在、ニートその他失業中の人が考えるべきことは

「まとまった時間をどう使うか?」ということだと思う。

私は昔から、世間体とかあまり考えず、
そして、「働いていないことは恥だ。」とも極力考えず、
むしろ無為に過ごさないようにするにはどうすればいいか
ばかりを考えていたように思う。

ニート、その他似たような境遇になってしまうのは
人生のめぐり合わせというものもあるのではない
だろうか。

そう考えると、そのこと自体をあまり悔いたりしないで、
むしろ自分の心を守って、病理的になることを防いで、
その日、その日を濃密に、その境遇でできるなりに
充実させることこそが大事なのではないかと、そういう
ことばかり考えてきた。

「まとまった時間を持てること」これは裏をかえせば
大変な特典だと思う。

何か戦略的に考え直すことで人生の強みとして
もてるものでさえあるのだと思う。

何しろ「まとまった時間をもてない」
「考える時間がない」ことは現代の日本人の
かなり大きな弱点なのだから。

私にとっての時間貯蓄銀行は図書館だった。
無為に過ごしたら消えてしまう時間を何かに
替えた。

それは決して、知識、それも役に立つ知識とか
などではなく、本を読むことで考えた経験だと
思う。

文字を読んでいくことが経験なのだとしたら。

図書館の中でドラマは起きるのだろうかと
考えていた。

あたまの中の出来事も、できごとといえるのか?

本のなかのことばとの出会いも出会いといえるのか?

しばらくの間答えはでなかったけど、今はyesといえる。

ことばとの出会いの結果、
考えた経験の結果、
そしてあたまの中で何か出来事が起きた結果、
今こうして何かモノが書けるのだから。

ことばを育てるには時間がかかる。
一朝一夕にはいかない。
もしかしたら一生仕事かもしれない。

考え抜いたことばだけが自分のことばとして
吐き出せる。

ショーペンハウエルが書いていたことを
自分でも考えて、
やっぱりそう思う。

いろいろ考えたことは無駄じゃない
考えるためにつぶした時間も無駄じゃない。
きっとそう思う。

たっぷりある時間のなかで考える

今日もあれこれ考えながら検索していて、であったことばのなか
で気になったのは

「たっぷりある時間のなかで考える」ということばだった。

その前に”考える時間がない”で検索してて、次の文章につき
あたった。

http://www.cheesemarket.jp/column1.html

現代の日本人の問題点として「考える時間がない」ということ
を挙げていた。

私はよくも悪くも考える時間はあるのだけど、毎日図書館で
本を読んでいたり、考え事してたりするとあっという間に
日が暮れる。本当にあっという間に。

考えるというのは非効率で贅沢だとつくづく思う。
湯水のようにお金を使える身分の人はいても
湯水のように時間を使える身分の人はそういないのでは
ないかと思う。

そして、湯水のように時間を使って初めてたどり着ける「場所」
みたいなものもあるのではないかと思うのだ。私はそこに
たどり着いたわけではないのだけど、うっすらながらそう思う。

湯水のように時間を使うといっても自堕落に時間を蕩尽するわけ
ではない。むしろある種の勤勉さでもって時間を使っているのかも
しれない。自分のために自分の時間を使う。でも、それで自分が
報われるわけではなく、結果的には誰かほかのひとが報われる
のだと思う。自分で濃密に時間を使って、何かあることを考えついたり、
それを運よくカタチにすることができても、私は自分を報いるための
方法をもっていないから。

それでいいのだと思う。自分の望みのために何か頑張った結果、
気が付かないうちに後のひとのための路をつくったという経験がささやか
ながら二回ある。

それ以来、たとえそれが自分の望みにすぎない個人的なことでは
あっても、他人にとっても意味を発生させてしまうことがあるという
ことを悟り、そのへんのことを意識しながら、今はいろんなことを
している。

たとえば趣味的にいろんなことに関心をもったり、本をよんだり、
何かつくったり、おしゃべりしたり、、、そういう個人的ないとなみ
をしながらでも、周りには文化の土壌ができるのだと思う。

そこで誰かと刺激的なひと時を共有することができたら、なにか
が耕され、ひとくれの文化の土壌ができあがるのだと思う。

地域にとって、あるいはネット上の片隅で、ちいさないとなみは
ささやかだけど何か意味があるのだと思う。ちょうどそれは
人々がことばを使うことでことばが維持され、知識をつかうこと
で知識が維持されるように。

そして、、、世界中さまざまな地域で出版された本が東京など
で翻訳され、それを日本の端っこである、鹿児島で私は受っとって
いる。ここで書いているのは領収書、受取証みたいなものだ。

どういう風に受け取ったかが間接的ではあるけど反映されている。
世界中でいろんな人が考え発信し、それを自分なりに受け取って、
そこで得たことを道具にしてものを考え、考えた結果をまた発信
している。発信した時点で受け取る行為は完結するのだと思う。

「たっぷりある時間のなかで考える。」といっても私は別に
えらい人ではない、まったく市井のただの人だ。
そして、ことばを手に入れたただの人でもある。

せっかくことばを手に入れたのだから、道具として自分のおよぶ
限りいろんなこと考えて、それを自分なりに表現して、インターネット
の片隅に発信したい。

誰か拾う人はいるかもしれないし、いないかもしれない。
知れている才能なのだから、それでいい。
一票投票するような気持ちで投げておこう。

2012年10月14日日曜日

私にとって本を読むこと

単純にいうと日本語で書かれていて、読むことによって学ぶことができること。
何かで読んだのだけど、幕末に日本にきた外国人らはそれはたいそうな苦労
をして日本語を学んだらしい。まず、適切な教科書があんまりない。タミール語
とかシンハラ語を学ぶくらいの苦労をして日本語勉強したのではないかと書かれて
あった。逆に私はそこから本というものがあれば学ぶことができるのだということを
学んだ。単純だけど忘れられていることを。

もうひとつあるかもしれない。何年もデータベース入力の仕事をしていて、情報入力
の仕事を情報生産の底辺だとすると、そこから情報生産とはどれほど手間がかかる
のかを学んだ。考える時間なども時給計算してみると贅沢な時間だ。何も成果は
生まないかもしれないけれど、ノンストップで時間は過ぎていく。情報入力の労苦は
情報消費の快楽につながる。図書館で無料で学べる知識を生産するにはどれほど
の時間がどれほどの労苦がかかったのだろうって考えてしまうのだ。

この二つの柱が私を読むことに駆り立てているのかもしれない。

とどめがセネカの『人生の短さについて』を読んだこと。
有名人がテレビでみせびらかす豪邸などみてても、悪趣味にはみえても
うらやましいとは思えない。単なる酸っぱいブドウなのかもしれないけれど、
有名人はお金を蕩尽することで人生の失った時間を取り戻しているのだと
思う。欧米人のお金持ちのヨットやらプール付き大豪邸、そしてよれよれに
なった後のクイーンエリザベス号での世界漫遊も魅力的とはいえない。
日本語が理解できて、日本のアニメを愉しめるほうがどれだけいいのかわからない。

セネカは人生を短いものにしているのは自分自身だと言っている。
セネカも本好きだったのかもしれないけれど、文字もありがたいことに
わかるし、図書館にいけば無料で本が読める。これをあたりまえだと思わない
ほうがいいのかもしれない。まあ、翻訳で読んでいるだけなのだけど、
翻訳で世界中の本が読めるのは日本に住んでいる特権だ。これは篠沢教授が
書いていた。篠沢教授はクイズダービーで学者バカのようなキャラクターだった
けど、フランス文学の薀蓄はとても面白い。クイズダービーみてたから何気なく
図書館で篠沢教授の本も手にしてみた。テレビも知識との出会いの場にはなるので
ありがたいといえばありがたい。

本を読むことは贅沢といえば贅沢だけど、一方大したことはないといえば大したことは
ない。活字のしみを目で追っかけているのに過ぎない。でも、活字のしみは私のこころ
に眠っているいろんな記憶を呼び覚ましてくれて、活字の向こうに字面には書かれていない
別の本の痕跡やら嗅ぎ取れると楽しい。一文一文ごとに私なりのイメージが立ち現れる。
取り上げられることのない財産。本当の意味で自分のものということになるだろう。
しょせん人から借りてきた知識とはいえ、自分に馴染んだ知識は自分なりの色合いを
帯びる。

P.S 私の読んだのは『篠沢フランス文学講義 』だ。全巻読んだわけではないけど、フランス文学の雰囲気がよくわかる。ズボラなので小説そのものは通読することはほとんどないのだけど、研究書のほうは読むことがある。そういう読み方は手抜きなのだけど、そういうズルは『読んでいない本について堂々と語る方法』という本から学んだ。この本ハウツー本でも、浅薄な本でもなく、読書というものを逆さにしたような本のような気がする。すべての本に付き合うほどの時間は誰も持てないという真理とどこか関係あるような本だと思う。

坊さん臭いといわれたことがある

昔よく出入りしていたクラシック喫茶で、あるとき坊さん臭いといわれた
ことがある。

そういうニオイがするのだろうか?

個人的にはあまりもののわかったようなことを書きたくない。
そんなにものがわかっているとはいえないからだ。
むしろもののわかっている人はお口のチャックが閉められている感じがする。

わからないからこそ、書いてみて、書きながら考えている。

ただ、考える方向がサトリのほうに意識する、しないにしろ向いているような
気がするのだ。研究者志望というよりは求道者というか探究者みたいな感じ。
とにかく非現実的な願望なのは間違いない。

典型的な野狐禅といった風情だろう。
まあ、それを自覚しているだけ病は軽いとも思うのだけど。

ただ、坊さん臭いニオイを発散させているのはよくない。
そういうニオイのどこかに胡散臭さを自分自身でさえ覚えてしまう。
研究者臭い言葉もどこか胡散臭さを感じてしまうように。

でも、そういった浮世離れした風情ながら、どうやって生きていったものか
と頭も抱えているのだったりする。

カネモウケを軽蔑する心情もあるにはあるのだけど、
私はそれを家族に押し付けているだけだ。
現在、人生落下中で、落下中の機内で無重力状態を愉しんでいるに
すぎない。それはおぼろげながらわかっている。

たぶん程なくして、オカネというものに思いっきり苦しめられるのだろう。
それもちょっと考えるだけでわかること。具体的姿で、具体的数量で
それがわかっていないだけに痛ましい。

けっして、浪費家ではなく、むしろ、最低限のお金さえあれば、
幸せに生きられるたちなのだけど、ないところにはないものだ。
まあ、やりくりしながら静かな人生を生きたいというのが目標だという
ことにしよう。

私からみると乞食坊主はお布施がもらえるだけ幸せなのである。
ある意味そういうシステムが成り立つ世の中だからこそ、そういう
存在でも生きていける。

今の世の中だと労働力を商品として売らなくてはならない。
そして直接売買ということが難しいために、派遣業者などの介在者
が存在するのだろう。

私はいかなるものも作り出す能力がないのかもしれないし、単に
私を必要としている人にまだ出会っていないのかもしれない。

どこかに私を必要としているひとはいるのだろうか?
さっぱりわからない。そして、どこかにいるだろうひとに出会えるので
あろうか?これもさっぱりわからない。

もしかしたら、ここのブログの文章は難破して漂流中の船からの
SOSのメッセージかもしれず、本人もそれに気づいていないだけ
なのかもしれない。

そして、この空の下には同じような漂流中の難破船は数知れず。
もしかしたら難破船同士をつなげていくだけで市場ができる規模
なのかもしれないけれど、アーキテクチャー考えているみなさん、
考えて文書化するだけにとどまらず、もう一歩踏み出して、
実現可能な青写真でもつくってみたらどうでしょう。

まあ、私は声を出せるだけまだ幸せなクチなのかも、、、、

P.S 海の上でこーいう弱気の匂いを出すとヒト喰いサメを呼び寄せる。
ヒトがヒトを喰うという怖ろしい生き物だ。「いいシステムがあるんです」
などともっともらしい話をしながらすり寄ってくる。海外自由旅行の知恵で
向こうから近づいてきた人には注意しようというものがある。何かを求める
のならこちらから扉をたたかなければならない。断られても断られても扉
を叩く、こちらから道を求め、扉を叩く限り、そこにはサメは待ち伏せして
いない。それもみんなが同じことを考え殺到してしまうところではなくて、
地味なところ、世間に注目されていないところがいい。

不器用に考える

私はものを考えるのが好きだけど、切れない、鈍い道具で不器用に
考えているのだと思う。

切れない、鈍いという表現は高橋康の場の量子論関係の本をちら
読みしたときに習った表現だ。憧れてはいても、私には場の量子論
の本など読み解けないのだけど、序文までは読むことができて、
それには鈍い頭をもった人々への愛にあふれているのを感じること
ができる。たぶん私のような読み手もいるのだろう。

高橋康の本の中でラグランジアン、ハミルトニアンという物理用語に
ついての説明がたぶん懇切丁寧に出てくるのだけどついにわからな
かった。

これは解析力学の中で出てくる用語だ。解析力学といっても、まことに
おぼろげなる理解というよりもイメージしか作れなかった。

ニュートン力学を一般化したものという風にしかわからなかった。
そしてニュートン力学は高校物理の時点で挫折している。挫折している
くせになんとなくイメージだけはもっているところが胡散臭い。

ニュートン力学から一般化して解析力学にすることで、脳の現象やら、
カオス力学、そしてそこから近い複雑系の力学なども扱えるようになる
らしい。構成した世界の中での力学をゲーム力学というらしい。
まあ、私はニュートン力学の初歩の段階で挫折している人間なのでその
くらいの理解で御の字だろう。

場の量子論については、放送大学の学習相談室でその専門の先生から
水素原子についての説明をうけた。印象くらいの記憶しか残っていない
のだけど、何やら生き物めいた印象を受けた。活きものというか。

私はアタマの中がぼんやりした感じで、自分の頭というかことばの鈍さ
をよく感じる。ある種の文系の人がしゃべっているその音の中に鋭さ、
そしてことばの緻密さを感じる。私はどうがんばっても緻密にものを考える
ことができない。ことばの輪郭がぼんやりした感じで、しかたないので
その輪郭がぼんやりしたことばでものを考える。

緻密に考えられないくせに、根源的なものには惹かれるらしい。
緻密に考えられないからこそ、根源的なものを考えてみようなどという
身の丈越えたことを考えるのか?素朴かつ、原初的な魂のほうが
根源的なものを直感的ではあるけれど、把握しやすい、というよりも
より強く引き付けられるというものなのだろうか。

ある種、知的障碍者の方々が素直に根源的なものに近づけるということ
とほんの少しではあるけれど、重なる部分もあるのかもしれない。

私のようなものは若干の知恵はある代わりに罪の汚れも受けている。
知的障碍者に罪はないというのはナイーブな見方かもしれないけれど、
そう映ってしまうのは仕方がない。

私が数学や物理に憧れるのはスノビズムではない。素朴な意味で
根源的ということだからに他ならない。カミサマはわりかし平等にこの
世界をつくって下さっていて、数学も物理も波打ち際は間口が広い。
シーソーだったら幼児でもアクセスできる。そしてそこにも対称性という
基本的な原理が隠れている。磁石に驚くのも幼児だ。

ヨーガの先生からヨーガは競技ではないと教えられたことがある。
初歩的なポーズで十分なのだ。むしろヨーガの世界に習熟して
初歩的なポーズに慣れてしまった人向けにより高度な世界を用意
しているように見える。

だからシーソーに驚き、磁石に驚き、この世界の不思議さについて
何か子供が感じることがあったら、その時点でこの世を卒業しなくて
はならなくなったとしてもそれで十分なのではないだろうか。

ひとそれぞれこの世での滞在時間には多様性があって、ある人は
夭逝して持ち時間が断ち切られる。まあ、妻子を持つ人はそういう
境地にはならないのだろうけど、人生というものはいつ終わっても
それはそれでいいのではないだろうか。

それは描きかけの画がどこで終わってもいいのと似ている。
むしろだからこそ、お迎えがくるまでは、苦しくてもこの世で頑張らない
といけないのと裏表のような感じがしないでもない。

まあ、私もわかったようなこと書いているけど、別に信心深い人間という
わけではなく、単に詩的な表現でこの世界について考えを巡らせると
そうなるのではないかと思うだけだ。科学の言葉、詩の言葉、この世を
語るにもいろんな語り口がある。それぞれの言葉がつかえるようになり
たいものだ。

魂の御蔵 場所としてのワタシ

セカンドライフの中で土地をもち、粘土のように場所をいじることができると
場所で考えることが多くなる。

地理学だと所与として与えられた場所(フィールド)を通して問題をみつけ
考えるという手続きを取るのかもしれないけれど、セカンドライフの土地いじり
は実験科学、もしくは技芸みたいもの、データ上ではあるけれど、手を動かして
考えるという作業に近い。

「場所で考える」という言い方と「場所を考える」という言い方はわたしにとっては
別物である。

「場所を考える」は野外科学みたいな感じであって、「場所で考える」は場所を
道具のように、あるいは粘土のように操作して考えることだ。

そういうことは建築関係の人やら、現代美術関係の方でインスタレーションしてる
人なども考えることなのかもしれないけれど、セカンドライフではそうしたことが
よりカジュアルに、より日常の生活次元で考えることができる。低コストで場所が
扱える効用だ。

積み木のように作り出したモノは拡大するとアバターの大きさを越えて、場所として
認知されるようになる。モノと場所が相互浸透する。まあ、続きはまたいずれ書くと
して、ここまでは話のマクラで、今日のお題は「魂の御蔵」というものだ。

どこかで読んだ精神的読み物のかけらがアタマの端っこに残っていたのかもしれ
ないけれど、「魂の御蔵」というキーワードが気にかかる。もちろん宗教的なニュアンス
も濃いのだけど、ワタシもしくはワタシのココロ、意識あるいは魂が一種の場所という
感覚だ。

いろんなとらえ方があって、私が知覚している世界もある意味脳が作り出した表象
であって、よくできているけれど世界そのものではない。世界に色がついているか
というとそうではなく、寒いわけでもなく、熱いわけでもない。それらは知覚に色づけ
された世界の表象だ。

そういう意味では独我論的ワタシに映っているワタシの世界そのものが「魂の御蔵」
の鏡みたいなものであり、魂の素材も、外から入ってきた情報だったりするので世界
の鏡だったりする。うまく言えないけれど、哲学やった人などだと常識的に知っている
ような話だ。

一人称視点だと魂の御蔵はただ一つの世界そのものとなるけれど、二人称、三人称
の視点だと、身体の中にというかうまく書けないけど、どこかにあると想定している
他人の魂みたいなものだ。

マクラの部分と接続すると、他人の魂といっても大部分は不明なのだけど、それを
仮想世界のような形で表現したり、それをスナップショットという画像取り込みみたい
なもので画像にすると不完全ではあるけれど、その人の世界みたいなものが他人に
伝達可能になる。

不完全というのはどこまでが自分の力であり、どこまでがキカイの力なのかわからなく
なることだ。もしかしたら、建物をつくるといっても、設計者が介在したり、施工者が介在
するのとどこか似ているのかもしれない。PCは工場としての比喩ももつものなのだから。

それはネットに接続した現代人が知的な意味でパワースーツをきていたり、モビルスーツ
に搭乗している姿と似ていることとどこか重なる。私たちはキカイの力によって強化された
人間だ。キカイの力がなかったら考えなかったようなことを考えている。それは十分には
自分の力とはいえないのかもしれないけれど、使用するごとに脳という身体になじんでいく、
そしていつしか身体の一部になっていく、衣服だってそういう歴史をたどったのだから。

ネット上の表現はワタシの分身と書かれたものを読んだことがある。ネットという織物上の
役どころを巡って競争しているのかもしれない。ワタシが競争しているのかもしれないし、
ワタシが書いている話題やら、あるいはキーワードが競争しているのかもしれない。
それは種の個体レベルの競争があり、種レベルの競争があるかと思えば、遺伝子の
あるモチーフどうしの競争があるのと似ている。

情報は0と1、あるいは無と有の列によって表現可能なのかもしれない。0と1で表現された
一次元の紙テープみたいな空間が媒体になってすべての出来事は起こっている、あるいは
起こりうるのかもしれない。話が難しくなって、自分でもよくわかってるのかわからないので
このへんにしよう。

P.S 最近、G.バシュラールの『空間の詩学』、イーフートゥアンの著書、ミンコフスキーの
『生きられた時間』そのへんの本を読んで、セカンドライフの土地について何か考えよう
と思っているのだけど、混乱状態だ。以前、清水博の著書、そして、ここ数日は西田幾多郎
の場所論についての文章など読んでいたりして、混迷ますます激しいものになっている。

私の弱い頭でそういう難解な文章を読み砕こうと考えるあたりが問題なのかもしれないし、
たぶん誤解か浅薄な理解しか得られないかもしれないけれど、場所づくり、ものづくりの
ヒントが得られるといいと思っている。

ただ一つよかったのは昔、滝沢克己の読書会に参加していたのだけど、その時は
わからなかった「人間の座」というキーワードが自分なりにわかったことだ。
まさに魂の御蔵、場所としてのワタシということなのだろう。ブログやっていることも
あしもとを掘っていく作業にほかならないもので、あしもとを掘っていく作業の中から
自分にとっての対象を探さないといけないのだろうと思う。そうでないと対象は自分
にとっての実存的な対象にならない。そこらへんのことは阿部謹也の
『自分のなかに歴史をよむ』という本をしばらく前に読んでいて影響をうけたことだ。
『自分のなかに地理をよむ』とでも私の場合はなるのかなあと思う。

2012年10月10日水曜日

王様の仕事としての道をつくること

インターネットが現代版の情報交通路であり、それの基盤をつくるのがグローバルに資源が集まるネットワーク中心付近の仕事であるとしたら、古代においての等価物は王様が道をつくることだったのかもしれない。

道を知ること。中国語で「分かった」というのは我知道と表現する。初めての外国旅行、台湾にいったとき、漢字による筆談でこのことばが出てきたとき、何か深いものを感じたことがある。意味が分かると「あっ、そうか」と了解するのだけど、中国語の学び始めで印象に残った体験だ。

道には分岐がある。右に行くか左に行くか?道を知らなければ路頭に迷う。ちなみに私は今、ubuntuのネットの接続設定でつまずいていて、あれかこれかの迷路の中でさまよっている。

ubuntuばかりでなく、生きることそのものも、いくつも分岐点あったはずだけど、選び間違ってきたのかもしれない。それも重要な選択肢で。その結果として「ここ」にいる。自分で選んだ結果であり、押し付けられたものではないので納得するしかない。

生きる方法そのものも、少し世代が上がれば、定食屋で定食を選ぶくらいの選択肢しかなく、少ない選択肢は、迷い道にはいるのを防いでいたのかもしれない。

親の生業をそのまま引き継ぐ時代だったら、最初から選択肢などないわけで、自由度はないけれど、迷う自由もなかったのかもしれない。


テーマは道をつくることだった。古代と現代の違いは個人に与えられた権限が大きくなったことだ。
迷う自由、そして、道を探る自由をもっている。

PCは工場であり、ネットは光の道だ。ささやかではあるけれど、今の個人は神経細胞なみの機能をもっているのかもしれない。個人レベルで軸索をのばしていくことができる。ああ、これ比喩表現です。意味不明だけど、今までの個人が心臓だったり、肺だったり、どこかの器官に属しながら、生命を維持しているとすると、今の個人は神経細胞みたいなものなのではないかと思う粗雑な比喩です。脳もまた器官ですけど、、、やっぱり粗雑ですね。

呼吸でもするように情報を垂れ流します。粗雑な情報も多いので、そういうものは発信しないで、消せばいいのですが、思考の過程なのでそのままにします。まあ、「ここ」は一人ブレーンストーミングの場でもあります。盛り上がる日、盛り上がらない日いろいろありますけども。

文化が個人化したという意味では、一人一国みたいな感じで、それぞれの人が王国なのかもしれない。領域としてはネット上に狭いながらも、一定の領域を占有していて、そこから発信している。
領域、それは文化上のニッチみたいなもの。まだ誰も表現していない、何かと何かの間の隙間。

話は飛ぶけど、新古今和歌集の研究書をちら読みしている。ツイッターの枠が和歌ににているコンパクトサイズなので興味をもったのだけど、パターンという用語に着目している。

「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」

の「見渡せば」がパターンであり、同じく「見渡せば」というパターンを使った歌はいくつかある。

ツイッター上の文句やら、ブログの表題、文面中の検索語彙みたいなものが「見渡せば」と同じくパターンみたいに見えてくる。

使い古されていないパターンを他人に先駆けてみつけたりすること。潜在的には有望そうなパターンを見分けることなど。

そういうこともまあ大事は大事なのかもしれないけども、むしろ自分の内なる世界の中にあるパターンを掘り出すこと。実存的な意味で自分にとって大いなる意味のあるパターンを。

2012年10月7日日曜日

私にとっての世界

このブログは特に有益な情報を世間に提供するという趣旨は
あんまりなく、私にとっての世界みたいなものを記録していく
媒体だ。

私にとっての世界とみなさんにとっての世界は同じものなのか、
微妙に違う世界に住んでいるのか定かではない。

かなりの程度は同じ世界に住んでいるのはわかっている。
そうでないと社会生活いろいろ支障が出るというものだ。

でも、完全に一致しているかというとそうでもないと思う。
みなさん、ひとりひとりの世界像には多様性があるごとく、
私の世界像も私なりにずれがある、ただしそれは自分では
十分は自覚しえない。

ただし、ひとことだけ言っておくと、狂信的に確定された世界観は
もたない。確固たるといってもいいし、ゆるぎないといってもいい。
そんなものは私のような境遇のものには有害すぎる。

むしろ、みなさんが無意識のうちに前提としている岩盤みたいな
ものに傷がある。活断層はいっているのだ。次の地震があれば
確実にそこから大地は割れていくに違いない。でもどこから割れる
のか今、意識化できない。私は大丈夫だけど、同じような境遇の
人にとっては敏感な部分で、そこに意識を集中させるだけで
恐怖を感じるという人もいるのかもしれない。私の場合はかさぶた
ぐらいにはなっているのかもしれない。

岩盤に傷がつくことで、岩盤の存在が意識化される。岩盤そのものは
認識できないけど、大地ってどうなっているのだろう?という研究意欲
みたいなものは芽生えてくる。このあたりは地震学者と似ているのか
もしれない。

からといって、そういう学問を教えてくれるところはない。自分なりの道具
ではじめるしかない。不器用なかたちでそういう問題意識の元、素朴に
自分なりの研究をしているのかもしれない。方法もととのわない。
記載の仕方などもわからない。まあ、小学生のあさがおの観察レベル
なのかもしれない。

生き物としての表現 世界の裏にはびこる唐草文

”生き物としての表現”で検索したらあんまりなかった。
私的には陳腐な表現だと思うのだけど、意外と使用例がない。

陳腐ではあるけど、逝っちゃった人の行き着くある典型だと思う。
~は生き物だ、という表現は高尚なものから卑近なものまである
と思う。それを一般化すると生き物としての表現ということになる。

もっとも、個物としての表現が生きているのか、情報として意識に
入った状態のものが生きているのか、すべてがネットワーク化された
織物として存在しているのかは定かでない。

むしろみなさんの眺めている画面の裏がかつてのテレビの中身
みたいに唐草紋がごちゃごちゃはびこっているような空間みたい
なものを想像したりするのだ。念のために書くけど、画面の裏とい
ってもパソコン画面の裏ではなく、視覚像の裏だ。

画面の反対側は宇宙の外、この世界の外なので、語りえない。
でも各自の判断で想像する分には自由だ。開かれている。

唯物論的な世界観に立つのもいい。唯物論の世界を支えている
空間に裏側はあるのだろうか?人形芝居の舞台の背後で人形遣い
があたふたと仕事している。それらはオッカムの髭剃りによって
きれいに剃って、つるつるの何もない空虚な空間として掃除される
べきものかもしれない。せっかく単純なものとして片付いたはずなの
にごちゃごちゃしたら、たまらない。生き物のような不衛生なものが
潜んでいるのは美学上許せない、そんなものなのかもしれない。

もうすでに、微視的な世界では20次元だの目がぱちくりしてどう
理解したものかわからないカラビーヤウ空間だの出てくる。

この上生き物まで潜んでいたら、もうお手上げだ。でも、数学者
たちはゼータ惑星のゼータ生物などとのたまっている。
単なる比喩なのだろうか?

わたしみたいなものにはさっぱりわからない。でも、わからなさ加減
のまま、どう見えているか、お茶の間ではどう映っているのか記録
するのも酔狂だろう。

私はこの世の端から端まで理解する必要はないと思う。むしろ、
ブラックボックスのまま、わからない部分が大部分でいいのだと
思う。そういった世界がほとんどの人にとっての世界像だ。

むしろ、ほとんどわからないままというところから出発したほうがいい。
その上で、どう見えているか、どう映っているか、どう想像したものか
各自、各自の像を記念につくっておくのもいいのではないかと思う。

ちょうど、各国の国民が頭の中の知識だけで世界地図をつくって
比べるようなものだ。そこではいかにわかっていないか、いかに
情報が抜けているかが逆に情報だ。そういう見方も存在する。

ここに書かれた情報は目に入ったら、ご愁傷なことに頭の中に
入ってしまう。メタメタに精神汚染してしまうかもしれないし、
単なる弱毒ウイルスで大したことは何もおきないかもしれない。

情報を構成するすべての構造物はウイルスとしての性質をもって
いて脳から脳へ形を変えながら移り住んでいく性質をもちうる。

ある意味、宇宙人みたいなもので、地球の外というよりも、無意識の
かなたから侵略してくるのかもしれない。

P.S まったく支離滅裂な文章と読まれるかもしれない。読めたものでは
ないかもしれない。でも、ものを考えるのは自由だ。人によってはむしろ
想像力の不自由を感じてしまうかもしれないけど、私の想像力なんて
せいぜいこのくらいだ。しれたもの。

P.S ミーム論の話はもちろん読んだ。読む前に病気になったのだけど、
畳の上に広げられた服が宇宙人に見えた。自動車も宇宙人に見えた。
モノとしての自動車ではなく、会社で自動車をつくる仕組みみたいなも
のが。ライオンとかサンスターといったロゴがトーテムに見えた。
ライオンの神、サンスターの神といったもののもとに従業員が働いて
いるという図式だ。意識が芽生えた時点で宇宙戦争は終結していて
言語という宇宙人に人間の脳は制圧されているようなイメージをもっていた。

P.S "世界の根源”で検索したら、次の文章が出てきた。
http://homepage2.nifty.com/thefirstofworld/text/RUNE-MOTHER.html
今日、図書館で読んだバシュラールの『水と夢』の中で
「物質の根元には暗い一本の植物が生育し、物質の夜には黒い花々が咲いている。」
とある。ゲーテの原型の概念のおもかげを読者としてはそこに感じるけれど、
検索で出てきた文章中の「現実を支える影の側の生命の世界」ということばと
どこか響きあっているような感じがする。これを受けて、「暗い一本の植物」に
霜山 徳爾の本に出てくる唐草文様をかけて、自分のことばで似たようなテーマ
を書いてみた。

既成のもののない空間

SL上の自分の土地がどうだかはほかの人に評価はまかせる
として、ベースは極力既成のものは置かず、自分で考えたもの
だけを置くようにしている。

それをブログの文章の空間に置き換えるとどうだろう。
単語や概念を発明するというのはNGだ。
それでは誰も理解できなくなってしまう。

文章というのは既成のタイルを組み合わせて作る構造物だと思う。
使い古された既成の言葉をつかって、新しい表現をつくるということ。

陳腐な言い方だけど、外から取り入れたものを一回自分の肉体を
通して、外に返すようなものだ。未消化なものはあやふやな表現に
なるかもしれず、また、そういうものを出すのは不安なものだ。

いろいろ自分なりに考えに考えたことを出すのがいいような気がする。
未熟かもしれないけど、その時の精一杯考えた限りの答えだからだ。

それでも、まだ、考えが足りないかもしれない。自分が表現したものの
意味がまだ自分でもしっくりわかっているわけではない。

だから、時間をおいて、自分が書いたもの作ったものを一人の受け手と
して読んでみる。一番熱心な受け手は自分しかいないのは自明だろう。
だから、読んでみて、自分が表現したものを一生懸命考えてみる。

反省してみると、書くことの入り口付近で頭を抱えているように思う。
具体的内容に進まずに、書くことつくることそれ自体に悩んでいる
ように思う。ただ、これにも自分なりの言い訳がある。

入門という言葉は象徴的だ。宗教施設など、たとえば鳥居や、
山寺の門など、入り口は一種の結界であって、象徴的な構造物が
ある。

地域の入り口は駅だったり、港だったり、空港だったり。
まあ、旅人は通り過ぎるのかもしれないけど、ゆっくり立ち止まって
観察してみるのもいいのかもしれない。食べ物の入り口は口であり、
これも大事な臓器である。動物などを見ると、口の構造の中にその
動物の生き方などが見事に反映されている。食べ物の違い、大きさ
やら植物性なのか動物性なのか、そういうことも口の構造に反映
される。

話が脱線してきた。いつものことだけど。

私にとっての私の文章は、サトウキビのしぼり汁、または少し加工した
黒砂糖みたいなものだ。素朴で不純物の多い、精製段階前の何かだ。

そこから要素を抽出したり、抽出した要素を種にして、ちょっと発展
させることでオリジナルなアイデアに到達できないのだろうかともがいて
いるわけ。

基本だめなものはだめという厳然たるものもあるのかもしれないけど、
贅沢もいえないわけで、与えられた天分にしたがって、ものを生み出す
しかないわけだ。

なんだろう。自分が何をするべきかよくわかっていないのは相変わらず
なのだけど、自分にしか生み出せない何かを形象化することができたら
なんらかの役割を果たしたことになるのではないかと思ったりするのだ。

自分しか生み出せないもの、そんなものが果たしてあるのかどうか
わからないけれど、仮にあるとしておく。それぞれの人のうちに秘めている
情報の組み合わせからいうとオリジナルなものにたどり着ける希望は
捨てることもないのではないかと思うのだ。評価は評価なのだけど。

今の時代は表現手段と発信手段が与えられて、さまざまな人に眠っている
情報資源を開花させる機会は一昔よりは開かれているのではないかと
思う。それらは単に搾取され、パクられるだけの運命かもしれないけど、
ネット上には先に発信したという証拠は残っている。

パクラれることにめげず、発信しつづけたら何かいいこともあるかもしれない。
もちろん、パクるだけの価値のあるものを何かつくりださないといけないの
だけど。

既成のもののない空間と書いておきながら、新しい何かをひとつでも出せた
のだろうか?と頭をかしげてしまう。駄文ならさっさと終わればいいのだけど。
何か書く意欲があるだけでも、そうでない日も多いのでうれしかったりするのだ。
読み手には申し訳ないけれど。

2012年10月6日土曜日

第二ラウンド

”才能が枯れてきた”で検索したらザクザクでてきた。
みんな一度は通る道なんだ。

まあ、私なんかは才能あるのやら、
ましては開花したことなど、きっとない人の集合に
所属するのだろうけど、才能が枯れてきてからが
第二ラウンドなのかもしれないと思えてきた。

春夏秋冬、自然にはそうなるべき営みがある。
それを自然に受け入れればいい。

春には春の自然があり、
夏には夏の、
秋には秋の自然がある。
そう。秋には秋の。

今まで、病気を受け入れてきたように
枯れてきたことも受け入れるといい。

枯れてきたというよりも、
もともと何にもなかったのかもしれないけれど。

ちょっとだけ、夢のかけらがみれただけなのかもしれない。
まあ、それでもいいのだけど。

忘れっぽい天使とか
なりそこないの天使とかいい。
そこには無理がない。
あくまで描かれたものを楽しむうちであって、
つくるほうとしては超絶なのかもしれないけど、
修行中の天使の変容であり、
作り手の変容がそこにはみられるらしいの
だけど。  あくまでうけうり。

たぶん、まわりの人は

「自然体でいいんじゃない?」って
いうのだろうなあ。

苔むしたお地蔵さんのように、
そうあるようであればいい。

晴れの日もあれば
雨の日もあるけど、
天気ってそういうものだからなあ。

何を書いているのやらわけがわからなくなったけど、
気分もほぐれてきて、おだやかに落ち着いてきたので
このへんで。

治まってはきたものの

なんとかほぐれてきて、治まってきたものの、
根本には、最近何かが枯渇してきたのではないか、
いやいや、最初から何もなかったんだ。単なる、勘違い。

そういう感じにずーっと囚われてたのでありました。

妄想している分には万能感に浸ることができますけども、
カタチにしてみると、いかに自分が何もできないかという
事実をつきつけられます。

ある意味、夢から覚める意味もあって、いろいろ作ってみる
わけですが、自分で生み出したものは自分の子供のような
ものであって、なかなか突き放してみることができません。

そこが勘違いの人の勘違いの人たるところかもしれません。
ひとりよがりっていうやつなのでしょうね。

そういうわけで、気分がどんよりする日が多いのです。

しばらく前は、花壇の花見るだけで幸せになれたものです。
知覚がちょっと変わったのか、生き生きとした感じで、
花が浮かび上がるような、現実感がないようでもあり、
そこだけが真実のようでもあり、そういう不思議な見え方
をするものでした。

足の裏に体重がかかる感じを味わうだけで幸せになり、
風があたるのを感じるだけで、木の葉がころころ風に吹かれて
飛ぶさまを眺めるだけで幸せになれたものでした。

そういうときは、本を読むときも集中できて、
文字を追っているたびにドーパミンドバドバ状態に
なるものでした。

それが今は、夏の終わりの海の家状態。
みすぼらしい風に吹かれて、、、、
んんー、気の利いた言葉さえなかなか
浮かんでこないのです。

んんー。夏が終わって、秋がくる。
わびしいなあ。

せっかく枯れてきたのだから、
わびさび路線でいこか。

また調子低め

この秋は調子が定まりません。またなんとなく鬱です。鬱といっても
本格的な鬱の人には申し訳ないくらいの鬱なんでしょうけど、
それでもイヤーな気分はイヤーな気分です。
調子が治まってくれないかと、雨乞いしている、まじないしの気分。
雨乞いならぬ晴乞い。

2012年10月5日金曜日

ひとり一人は主役なのかねじなのか?

誰にとっても世界の中心にいるのは自分であり、
自分を主人公とした物語が成り立つものだと信じたい。

その一方で”ひとり一人が主役”で検索してみると、
あまりにも多くの記事が出てくる。その多くは行政がらみ
のもので、住民ひとり一人が主役であったり、あるいは
わが会社の社員ひとり一人が主役であるといった記事
だったりする。なぜか知らないけど、建前であり、嘘くさく
読めてしまう。

消費者は王様であり、神様であるとされる。実際、クレーマー
たちの権利意識は大きく、傲慢、尊大ですらある。

でも、逆から見ると、システムに消費されているのは我々
なのかもしれない。主体的に消費しているように見えて、
逆に消費されているのかも。

システムに喰われ、システムの硬い顎で噛み砕かれて
消費される存在なのかもしれない。大なるものが小なる
ものを喰らうとするとそういう図式だ。

いまや、システムは惑星を覆い尽くしてしまったかのように
見える。そして、我々はさまざまな仕方でシステムを支えて
いる。たとえは古いけど、機械化母星のねじの一本なのか
もしれない。これは古代のことばでいえば一本の民草で
あり、ひとり一人が主役という世界観と対極にたつ見方
だ。

シュメールの人たちは悲観的な世界観をもっていて、
人間は泥から作られた神様の奴隷であって、王様
でさえ、奴隷の一人にすぎないとされる。

そういう目で見始めると、現代ですら、その世界観は
成り立つように見えてくる。

厳父であり、慈母でもあるようにシステムは我々を
あるときは無慈悲に、あるときは優しく快適に
包み込む。それは舞台であり、その上でひとり一人
が主役であれ、という願いにもにた聞こえない声が
響く。

でも、悲しいことにこの世界はいろいろな意味で
不完全である。体を維持するためにはほかの命が、
家計を維持するには誰かから手に入れたお金が、
国家を維持するには住民の税金が必要だ。
もちろん、それなりの労働も、そして、
必要に応じて、地球からの搾取も欠かせない。

もしかしたら、スポットライトの当て方なのだろうか?
あるいはスケールの問題なのだろうか?
ある細胞を、あるニューロンを観察者が注視した
とき、それらは主役であり、物語の主人公だ。
図書館の書架で一冊の本を選択して開くと
その本の世界が展開する。
道端の一本のカタバミも観察記録書きはじめると
舞台の主役になる。そういうものなのだろうか?

そういうものかもしれない。むしろわれわれは
舞台で演技する役者であると同時に、スポットライト
であり、カメラでもある。

許された人生の残り時間を舞台の真ん中だけ
ではなく、端っこの役者にも注目しよう。
光を求めるのもいいけど、ささやかな光を
あて、舞台の隅を照らすことにしよう。

2012年10月4日木曜日

知識の総体など目指さなくてもいい

知識の総体を目指すことなどいつの時代でも無理な欲望だったと思うのですけど、
ヒントになりそうな文章がありました。

井筒俊彦の『意識と本質』の格物窮理のくだりです。

大学などで研究する事実に関する学問は格物窮理に相当するものだと思うのです
けど、井筒俊彦によると、格物窮理の目的は意識のゼロ・ポイントに到達すること
です。神学のはしためとしての格物窮理ということなのかもしれません。

世の中には様々な対象があるのですが、そのひとつひとつを究めなければならない
のでしょうか?

箸一本、やかん一つ究められそうではないと思ったりするのですけど、『意識と本質』
にはその答えが書いてあって、ある時点で一挙にわかるみたいな感じなのです。

ホントなのかどうかはみなさんそれぞれ格物窮理を実践してみて、ご自分の体験を
通して実感するしかないのでしょう。

ゼロ・ポイントと表現してしまうと神秘臭くなってしまうのですが、意外なところに現代版
をみたりします。

グレゴリー・ベイトソンの世界です。システムというメガネで世の中を見るとあらゆるもの
の中に同じ存在を見てしまうのかもしれません。

そして、あらゆるものを究める必要はなく、自分と縁のあるいくつかのものを自分なりに
観察していくことで目的は達せられてしまうのかもしれないと思ったりするのです。

とはいえ、私は仙人でもなんでもなく、下界から雲の上の世界を想像するだけなのです
けども、、、、

今も昔も、そういった邪師たちが有象無象のようにいたと思うのです、
ヘレニズムの時代しかり、私度僧が巷に徘徊してた時代しかり。
知識がテキストの形で広められ、知的に成り上がれた時代です。今もそうなのですけど。

そして、今も昔も正師なんて最初から巡り会えませんから、世界という迷路の中を
さまよいつつ、次の人に会うためのヒントを探すわけですね。入法界品の現代版
というか知識を求めるために中国なのかインドなのかわからないけど、とにかく
遠くまで先生を探しにいくRPGゲーム。

世界の中心付近にいるその人を探して。果たして、その人は毛穴からむじゃむじゃと
仏様がでてくるような有難い方なのでしょうか?それとも月の兎の話のように、
みすぼらしい外見をしていて、言葉の端から判断するしかないのでしょうか?

ユング本人の自我肥大について

ユングの本読みつけている人なら常識みたいな感じで既知のことかもしれない
けど、地方に住んでいる私みたいに情報のまわってこない人のためにちょっと
メモっておきます。

『自我と無意識』という本に自我肥大について書かれたくだりがあるのですが、
そこの部分となんとなく響きあっている文章を『現代人のたましい』という本の
中にみつけました。

この本の現代人の魂の問題という章です。

「ところで、こんなことを申す私自身、しょっぱなからおこがましい大言を吐かねばならぬのですが」

以下のくだりなのですが、全体に気分が高揚した印象を受ける文章です。

「現代人ーより正確には、いまこの現在に生きている人ーの数は多くありません。なぜなら、現代人として生きるためには、考えられるかぎりでの最高の意識性、もっとも強烈で、しかももっとも広範囲の意識性が必要であり、無意識性というものから極力遠ざからねばならないのですから。人間としての自分の存在を完全に意識している人間だけが、完全な意味で現在的とよばれるからです。」

ユングが書く限り、べつに読者としては反発も嫉妬も起きません。むしろ、現代人というか私などからみると未来人を探すためには過去を探さねばならないということを再確認するのです。ユングから見るとゲーテなどが未来人だったのかもしれません。

そして、時代の最先端を目指そうなどと考えるまえに、遺産として積み上げられたものを継承するだけでも大仕事というか常人には無理そうだなあと再確認するのです。

「現在の意識をもつ者は、必然的に孤独です。《現代的》人間というものは、いつの時代にも孤独なのです。なぜならわれわれがより高い、よりすすんだ意識性へとむかって踏み出す一歩々々は、われわれを、われわれが本来他の人々とのあいだにもっている純動物的な《神秘的分有》関係、すなわち共有財産であるところの無意識のなかにすっぽりと全身をつけている状態かひき離すのですから。」

孤独な存在で、みなのいるところから引き離すというところは『自我と無意識』の中の自我肥大のくだりに対応する部分があったように思います。

「非歴史的であるということは、プロメテウスのそれにも比すべき罪悪なのです。この意味において現代人は罪人です。したがって、より高い意識を獲得することは罪になります。」

プロメテウス的咎というような表現で『自我と無意識』の中に対応する部分があったような気がします。

私たち個人は現代に生きる市民であるなどと安易に考えたりします。でも、そのような状態に近づくためにはかなりの精進が必要であり、そもそも日本で生まれたり、暮らしている私たちにはできることなのだろうかなどと絶望的な気分になったりします。一方、国民の大多数に位置する人間としてそういった欲望をもつことができるのは日本ならでは現象なのではないかなどど屈折したことも考えたりします。

現代に生きるだけでは、現代というシステムを表層的に使っている利用者であるだけで、本当の意味で現代に生きていることに値しないというのは刺激的なことです。一方、知識の総体を目指すものに感じる自我肥大は時代を越えて繰り返されるのだなあという印象も持ちました。

P.S ユングの文章に自我肥大を感じたのはあくまで私の主観的印象です。ユングの本がそろっている図書館のお近くにいらっしゃる人は実際に本と照らし合わせて検証してみられることをお勧めします。あくまでも、そこにリエゾンするためのメモとして書かせていただきました。

原文の漢字は旧漢字で書かれています。そして、図書館でノートに抜書きした文章の孫引きなので引用した文章も怪しいです。ぜひ、オリジナルを参照してください。

2012年10月2日火曜日

自然物としての内なる自然

景観。ヒトの手が加わることで造られながら、ヒトによっては作り出す
ことのできない一種の自然。
それと同相なものがヒトのココロなのではないか?
ヒトのココロは人工物のような顔も、自然物のような顔も持っている。
土台は生理的なものに根差しながら、人間の文化とも関係している。
そして、それを築き上げるには幾分かは本人の努力も関係している。

それをメディアの上に写し取られたもの。
それはカンペキに人工物ではあるけど、ココロの景観を反映したものだ。

ニンゲンって自然から離れた罪な存在だと思っていたけど、
ある種の必然から世の中に出てきた祝福された存在のように
少し思えてきた。アリの巣が自然の一部だったり、サンゴ礁が
自然の一部だったりするのと同じように、ヒトが作り出した
さまざまなものも大いなる目で見れば自然のふところに入るもの
に違いない。

イルカから知的生命が進化したにしろ、爬虫類から知的生命が
進化したにしろ、思いっきり荒い目で見たら似たり寄ったりの風景が
広がっているのかもしれない。ニンゲンは愚かな歴史を紡いできた
といえば紡いできたのかもしれないけど、やるだけはやった歴史だ
と思う。その証拠に光の面からニンゲンが積み上げてきたものを
見ると壮大というしかない。誰にとってもぼんやりとしか把握できない
けれど、それはすごいものに違いない。細胞と人体のような関係だろう。

すっかり支離滅裂な文章になってしまった。消したほうがいい文章なの
かもしれないけど、思考の計算用紙としてのブログというたてまえなの
で残しておこう。

ブログを空間として捉えると

ブログを空間として捉えるとどういう風に見えてくるのだろう?
雑誌の紙面が空間として表現されているようにブログもまた空間として
表現されている。

と同時にミクロでローカルではあるけれど、そこは歴史を織りなしていて
時間の流れがある。

モノとしてのいまここの情報が物理的な意味でのどこに格納されているの
かは知るよしもない。それはいまここで表現されている意識が物理的な
意味でどこに格納されているのやらわからないのとどこか似ている。

”利用者”としては意識する必要はないし、そういう面倒なことはブラックボックス化
されている。

”利用者”として関心があるのはむしろ、意味的なうえで誰の世界に近いのか?
誰と知り合いになるべきなのか?それをどうやって探せばいいのか?
などである。

意味的な上でどういう地域に属していて、近所にはどんな人が住んでいるのか
ちょっと気になる。

かといって、知らないことで心の平安が得られている場合もあるので内心
複雑といえば複雑だ。

大航海時代のパロディのようにネット上では日々”地理上の発見”があり、
新たな出会い、交易などがある。

文化は多様化していて、空間の使い方も人それぞれ、異文化だ。
逆に他人を鏡にして自分がわかることは多い。

私の文章どういう風に読まれているのかさっぱりわからない。
善意の視線なのか、いじわるな視線なのか、通りすがりなのか、
機械がデータ集めているだけなのか、さっぱり。