はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2012年12月29日土曜日

枠を超える 枠を生かす

与えられた枠って何だろう?
江戸時代だったら身分制度みたいなものだ。
枠を受け入れて、枠の中で精進する生き方。
小さいといえば小さい生き方なのかもしれない
けれど、枠が外れて得たものばかりだったの
だろうか?

私の母は自分の決めた自分の器を越えた生き方
をしなかった。

洋裁店を経営し、自分の扱える金額の中でお金を
回し、店をやたらと大きくしようとしなかった。

むしろ、一時期は10人くらいいた縫い子さんを少し
ずつ減らし、長い間相棒の縫い子さんと二人で店
を回していた。

その一人にもやめてもらって、今は一人で店を
維持している。

大きな金額を動かしたからといって、大きなお金が
残るとは限らない。

むしろ、小さなお金をこつこつと貯めていったほうが
長くはかかるかもしれないけれど、堅実にお金はたまる
のかもしれない。

私は今働いていないヤクザなドラ息子だと思うのだけど、
私なりに母の生き方を観察している。

私に与えられた枠は精神病の履歴かもしれない。
その枠の中で小さく生きようとしている。

負けず嫌いだったので努力はそれなりにしたけども、
もともと学校時代もリーダーとしては育てられることも
なく、教室の隅のほうにいるようなタイプだった。

自分でそう認めることはできなかったけど、
もって生まれた気質的にも性格は弱かった。

そういうわけで、あまり無茶はせずに枠を生かす
ような感じで生きていこうと思う。

最初に書きかけた江戸時代のそれぞれの階層
の人々だけど、枠に縛られた人たちだったのだろうか。

商人層とか見ていると枠に縛られながらも
枠を超えてしまっている部分さえみえてくる。

米相場つくって、役人たちに対して実質的に
強い立場になってみたりなどである。

そういう皮肉な現象は金融業者になった
ユダヤ人たちにもみてとれる。

枠というものも見かけほど単純なものでもないような
気がしてくる。

結局、枠というのも道具なのだ。状況なりに上手に
使えばいいではないか。

枠を超えるも生かすもそれぞれ一つのあり方。
道具なのだから、自由に、できれば独創的に
使えばいい。

2012年12月28日金曜日

与えられた局面をクリアできるかどうかって

人それぞれ、それぞれの道を巡りながら、それぞれの今
に至っているのだと強く思った日だった。

今日、耳を傾けた話を思い出しながら、与えられた場面、
場面で、その場面をクリアできるかどうかってどうやって
決まるのだろうと思った。

私は高校の頃にいじめを受けていたと何回か書いた。

でも、大したいじめではなかったと思う。
少なくともクラス全員のシカトなど受けたことはなかったし、
徹底的につぶされるというものでもなかった。
昔のいじめには「このへんでやめておこう」などの暗黙の
ルールみたいなものがあったのかもしれない。

私は負けず嫌いだったので、強弱の秩序みたいなもの
が受け入れられなったから、クラスを仕切ってた連中に
嫌われていたのかもしれない。

そのころNHKテレビでは人形劇三国志というものをやって
いて、長坂波の戦いのくだりをやっていた。

曹操に追われて劉備たちの一群が戦いながら逃げ延びる
という風な筋だったと思うのだけど、わたしはずっとこの
シーンを思い浮かべながら、高校の後半を送っていたよう
な気がする。

一方で私なりに戦い、一方でやり過ごす。そんなにカッコいい
姿でもなかったと思うのだけど、なんとか欠席らしい欠席も
せずに高校を卒業し、広島大学へ進学した。

とはいえ、これは私側からみた当時の記憶であって、病気の
ずいぶん前のことだったこともあって当時の記憶は非常に
曖昧だ。クラスを仕切ってた連中の側から見るとまた違う
リアリティもあるのだろうけど、まあ、なんとかかんとか
やり過ごせたのだから、いい経験だったのかもしれない。

その人のその時の力量で、あるいは若干運も絡んでくるの
かもしれないけれど、なんとかその場面を乗り越えて、一つ
の経験として積みあがる場合もあれば、その時のその人に
とって難しすぎて切り抜けられないという場合もあるだろう。

その力量とやらも、気質その他の遺伝的な要素ももちろん
絡み合いながら、その前の場面までで積み上げた経験など
の織物状になった何かに違いない。

ともあれそういうのは全部過去の話だ。過去の話をどう
ほじくっても現在は変わらない。

時にやる心の持ち方なのだけど、戦略ゲームのシナリオ
みたいな仕組みで、ちょうど今の状況の私を、この文章
読んでいる人がいるのなら今の状況のあなたを選んで
ゲームがスタートしたというような心の持ち方をすること
がある。

1945年1月の状況の日本軍の何々連隊で戦ってみるみ
たいな感じだ。いろんな状況ありうると思うのだけど、
その状況なりにベストではないにしても、ベターな戦い方
ってあるのではないかといつも思うのだ。まあ、あくまで
理屈で考えただけのお話ではあるけれど。

イマージュの花が咲くとき

今はそうでもないのだけど、夕べくらいまで
「イマージュの世界」とかナントカそんなこと
ばっかり考えていて、心配はしなかったけど
大丈夫かなあと内心思っていました。

視覚的なイメージがどんどん湧いてくるとか
まあ、そういう風な感じではなくて、単にあれ
これ想像を膨らましていただけなのですが。

『Cymbiノ青キ心』というブログタイトルの
Cymbiってシンビジウムという洋蘭の名を
略したものなのですが、『青い花』といえば
ノヴァーリスですよね。

あの話私も読みました。なんとなく心の底
に求めるものって青い花なのですね。

青いシンビジウムといえば青寒蘭という
ものがあるのですが、これは緑色の花弁
をした普通の寒蘭という意味です。

私がイメージしてるのはラピスの群青み
たいなイメージだったり、深い空の色みた
いな色だったりします。

遺伝子導入みたいな感じで今の技術を
使えば「青いバラ」のような感じの青い
シンビジウムも作れるのかもしれません
けど、私は見たくないです。

ノヴァーリスの『青い花』は後半は未完
なのですが、ある意味未完だからこその
完成なのかもしれないような気もするの
です。どんな感じで完結するのだろうと
いつまでも思いを巡らせ続けられますからね。

寝入りにはいる前のひととき

ベッドに入って寝付くまでがかなり長いほうです。
中には5分くらいで眠りに落ちる方もいらっしゃるそうですが
そういう方がうらやましいです。

考えがどんどん浮かんでくるのです。
いわゆる雑念というやつでしょうか。

さすがに笑いだすほどのものはないのですが、
考えに引き込まれることは多く、
1時間2時間すぐ経ってしまうのです。

毎晩大体こんな感じです。

文章書くときもそうなのですが、日によって着想が
思いつきやすい日、ぜんぜん思いつかない日まちまち
であって、豊漁不漁の差が大きいのですが、
寝入り前もたぶんそんな感じだと思います。
無意識の活動が活発な日、不活発な日とでもいうので
しょうかねぇ。

たしか病気が発病したときは
「眠るのがもったいない」という感じでした。
怖いですね。

「ああ、これは徹夜モードだ」とわかる日もあります。
目をつぶっている意識の視野がなんとなく明るくて
昼間の意識そのもので、こういうときはどんなに
がんばっても眠れません。

何も考えないようにする、頭をからっぽにする、
ゆっくり呼吸をする、あらゆる努力は何の意味も
もちません。

努力すればするほど、さらに意識は昼間のそれ
に近づいていきます。

こういう日、最後のたよりになるのが明け方に
なってきて、なんとなく疲れてきたときです。

知らない間に眠っているときも、
知らない間に夢を見ているときもあります。

夢を見るとほっとします。
昼間の意識のごみが掃除されたような感じがして。
寝不足のときの夢は不思議な夢が多いです。

2012年12月27日木曜日

その人なりの人生の形をみつけること

ゲームという見方で人生というものを眺めたときにみえてくる、
ゲームとしての人生の目的ってなんだろうかと考えたとき、
出てきた答えは「人生とは何か?」ということをそれぞれの人に
考えてもらうということなのではないかと思った。

人生の目的なんて考え始めたのはセカンドライフのおかげだ。

セカンドライフにはゲームの目的がない。
それぞれの人が自分の目的をみつけるのだ。
でも、なかなか自分の目的とやらにたどりつけなくて、
脱落していく人も多い。

社会ではどうなのか?

自力で人生の目的なんてそうそう思いつかない。
そこで社会はというかマスメディアはてっとり早く
人生の目的、どういう生活が望ましい生活なのかと
いうことを教えてくれる。

立身出世ゲームなのかもしれないし、
億万長者ゲームなのかもしれない。

でも、情報化が進み、そういう目的の空しさみたい
なものも知れ渡るようになり、目的を失うひとも多く
なってきたような感じがする。

目的なんて悠長なことなど言っていられなくて、
サバイバルゲームになりつつあるような感じもしてくる。

でも、自分がこの世に別れを告げるときに時間の目盛を
進め、ちょっと考えてみるとやはり、人生の目的とか
人生とは何かという問いというのも大事なのではないか
と思うのだ。

その時に、ポイントとなるのは
その人なりの人生の形をみつけること
なのではないかと思う。

そこに着目することによって、生まれた地域やら世代やら
何やらのその人の状況にまつわる不平等というのが薄まる
のではないかと思う。

昔、あるゼミにまぎれこんでいたときに、そこの学生さんが
東南アジアに旅行してきたのだけど、現地の人々について
「自分と彼らと同じ人生を生きているのではない」と言っていた。
正確にどう言っていたのか失念したのだけど、
「自分たち日本人の人生の質と彼らの人生の質は決定的に
違っていて、自分たちの人生の質のほうが彼らの人生の質
よりもはるかに勝っていて、比較にならない」そういう風な
ニュアンスで私は受け取り、心の底に染みついた。

人生を出来レースと考えるのはつまらない。

それぞれの人にとって納得のつく形で
ゲームの設定の仕方などに思いを巡らしてみる
というのも有意義なことなのではないだろうか?

まあ、そういう風に考えられることも状況が生み出した
ある種の贅沢なことと考えることも正しいのではあるけども。

P.S まったくもって、空理空論、抽象的な話になってしまった。
具体的経験が少ないのだから仕方ないことなのかもしれない。

2012年12月26日水曜日

あちら側を思い起こさせるもの

あちら側を思い起させるものに惹かれるのはなぜだろう?

その一方で、あちら側の世界に飲み込まれることについて
これほどまで恐怖するのはなぜだろう?

誘蛾灯に引き込まれて、ついには身を焦がしてしまうような存在たち。

それは、どこか心の奥底で強く惹きつけられながらも、
同時に引き込まれることを生理的に恐怖する、カルトを遠巻きに見守る
人々とも重なる。

狂気やカルトの毒を清涼飲料水程度に薄めたものが娯楽としての
コンテンツに違いない。

アヘンとしてのお酒にどこかちょっと似ている。

単なる宴会もごく小規模なお祭りみたいなものだ。
儀式につきもののご馳走も演出するメディアの一つ
みたいなものだ。クリスマスケーキなんてまさにそう。

テレビの空間では毎日が正月みたいになっているから
もはやピンとこないけど、かつてはお笑いのようなもの
がたっぷり見られたのはお正月だけだった。

私はその時代を知らないけれど、鶏肉が食べられたのは
お正月だけだったと母は言っていた。

かつて強い光を放ちながら非日常の世界を演出していた
さまざまなものが光を失いながら、なんてことのない日常
の生活を彩るあれやこれやになっている。

たぶん今使っている言葉自体もそうなのだろう。
言葉の力が失われて久しいと聞くけど、
日常の隅々まで言葉がいきわたった結果
なのかもしれない。

今はどーでもよくなっているものすべて
かつては光輝く存在であったとイメージするのは愉しい。

可能性の世界、夢の世界から
それらはやってきたのかどうかは知らないけれど、
詩的な表現を使えば、カミサマからの手紙とでも
書くことができるのだろう。

そう考えると気にもとめないだけで、
結構贅沢な世界で暮らしていることになる。

ただ、この世の端っこに存在しているだけでも、、、

ヴァーチャルなものへのこだわりとあちら側への郷愁と

こんな文章みつけた。

http://www.bekkoame.ne.jp/~hmuroi/vol5.html

読んでなんとなく思ったことは私のヴァーチャルなものへの
こだわりとあちら側への郷愁とどこかつながりがあるのでは
ないかということだった。

なぜにあちら側、すなわち病気の世界なんかに郷愁を感じる
のだろうか?

それは怖い思いをさんざん味わいながらも、こちらの世界で
は味わうことのできない誘惑的な要素をもつからだと思う。

思ったことが本人の中では事実になる世界。
天上的なものも、地獄的なものも即座にインスタントに
本人の中では事実として体験してしまう世界。

思い描くことができさえすれば、インスタントに実現できてしまう、
そういう意味でヴァーチャルな世界と重なる部分がある。

現実って何なのだろう?実現って何なのだろう?
現実と実現の間にはどういう関係があるのだろう。

都市なんて、文明生活なんて、夢の世界が実現した
ものではないか。

テレビなんて、天上の世界のインチキな模型みたいな
ものじゃないか。

その証拠に、憧れているのは業界の中に生身として生計を
たててるアイドルじゃなくて、アイドルがさししめしている
もの、画面の彼方に像を結ぶ、虚像じゃないか。

憧れているもの大体においてみんなそうじゃないか。
誰もがみているのは表面であって、虚像であって、
それよりははるかにみすぼらしいリアルな生計の
世界じゃない。

実現されたものからなるこの世界はどこかインチキ臭い
ところがあって、実現された夢はどこかに苦味をもって
しまう。

リアルといいながら、どこか虚ろな、不完全さを併せ持った
世界に住んでいるから、純粋なイマージュからなる世界に
憧れてしまう。

本当は媒体抜きの純粋なイマージュが生き生きと活動
する世界に行ってみたい。

対象と一つになることを根源的な欲望とするように
媒介となるもののお世話になりたくない。

たぶん、恍惚の絶頂において我を失うことも
肉体が滅びて消滅してしまうことも、
一つの比喩なのだと思う。

精神の病を潜り抜けた人々は
この世は比喩から成り立っていると
どこか心の底で思っている。

ヴァーチャルなものというよりも
メディアそのものが何かの比喩に違いないと
思っている。

2012年12月25日火曜日

ネット上の小さな存在の声に耳を傾けること

私の「声」は大きな声なのか小さな声なのか自分ではよくわからない。
共時的にあるいは通時的にどこまで届きうる声なのかも知らない。

でも、何だろう?少なくとも私にとって気になるのは大きな存在という
よりは片隅にいる小さな存在であり、小さな声だ。

だから、影響力の強そうな人のブログなどを巡回するというようなこと
はほとんどしない。

むしろ、文字列検索機能を自分なりに使い込んで、クラウドの力を借りる
ことが多い。

たまたま、思いついた語句を使っている、気の利いた作文みたいなものが
そのときどきの獲物だったりする。

誰でもそれなりに気の利いた作文をつくることはできる。

でも、同じことは影響力の強そうな人にも思いつかないものであることは
ありえる。

その「場所」が生んだもの。その「場所」に立っているからこそ導き出せた
考えなのかもしれない。

「場所」と呼んでいいのか、むしろ状況とラベルつけしたほうが適当なのか
しらないけど、それぞれの人がそれぞれの人の生きられた世界に住んでいる。

それぞれの人の生きられた世界から自然に生じてくる生き物みたいなもの、
生きた言葉を大事にしたい。



そうはいうものの、自分よりも影響力の強そうな人に金魚のフンのごとく、
近づこうとしていた時期がないわけではないし、今もそういう側面はあるかも
しれない。

でも、少なくとも昔から、器を選ぶように人を選びたいと思ったことはないし、
優れた器のような人に囲まれて生きていきたいと思ったこともない。もっとも
そういう境遇など私には縁の薄そうな境遇でもあるけども。

むしろ、表面的には地味な感じのする人の隠れた光みたいな側面に出会えた
ほうが喜びは大きい。表面的に地味でみすぼらしく見えるからといって、中身に
光る要素がまったくないとはいえない。

たまたま、そういう側面を発見するまで、その人のそういう側面に出会えなかった
だけなのかもしれない。そして、手前勝手に地味な人とラベルづけしていた自分に
強く恥じ入るものだ。

運よく、そういう出会いを何回かすることができて、人を表面だけで判断しない態度
を身に着けることができたらなあと思うのだけど、まだまだ表面の華々しい側面に
目がいきやすい。まだまだそこまで人生を学んでいない。


さあ、それでは読書するときの本の選択でもそういう感じにしているかというと自信は
ない。「人生は短い」などともあまり言いたくない。できれば、いろんな文章につきあって
その文章のいいところをくみ取りたいという気持ちもするけども、そうはしていない。

気にいった文章を何度も読むことが多い。それは結局のところある種の有名人の文章
なのかもしれない。そして、今まで書いたエラそうなたわごと、もそういう文章から単に
学んだことの寄せ集めにすぎないのかもしれない。

P.S そういう風に思えるようになったのも結局のところ、教養なのかもしれない。
断じて自分で導き出した答えではない。昔の賢人のモノマネしているだけに過ぎない
のかもしれないけれど、そのへんのところが今のところの私という器の姿なのかもしれない。

P.S 誰かを小さく、みすぼらしく見てしまう目が修行がそもそも足りないのかもしれない。
でも、俗なる存在にすぎない私の目にはやっぱりそういう風に見えてしまう。カミサマホトケ
サマの目にはなかなかなれない。そこを目指す必要があるかどうかも分からないし、下手
にそういう目を獲得したらきっとある意味、傲慢な奴になってしまうに違いない。身の丈と
いうのはここでもきっとあるのだろう。

PS. ”隠れた光”で検索したらこんなものみつけました。
http://www.ted.com/talks/lang/ja/monika_bulaj_the_hidden_light_of_afghanistan.html

私は声を与えられた恩恵と責任をかみしめながら、これからも日々思うところのものを
淡々と書いていきたいです。文字を書けること、それは今の私には水や空気のような
ものですが、必要とされながら与えられていない人々、声を奪われている人々が地球
の上に無数にいます。その人々の代弁者になる資格は私はないけれど、与えられた
権利は精一杯行使したいです。単なる一票みたいなものですけども。


自分の言葉の習慣について何も知らない

ミクロなレベルでの日本語の違いについて気になる。
価値評価はともかくとして、各人の日本語は違うはずである。

それぞれの生活環境の中で練り上げられた言葉の習慣、けっこう
あるはずである。

両親から生理的に受け継いだ気質的なものから来る要素、
文化的に受け継いだ要素、それぞれあると思うのだけど、なかなか
それを意識化することができない。

その前の段階として、基礎資料になるものさえ集まらない。
基礎資料とはいうものの、どういう方針で集めるべきなのかも
はっきりしない。あんまり、意識しすぎてもアーティファクトな
影響が濃くなってしまうだろう。

空間軸、時間軸、いわゆる共時的、通時的な見方もできると
思う。ある本を読んだことがきっかけになって、その前後で言葉
が少し変わってくるなど。

話は脱線するけど、そんな風に考えてみると、個人が作曲した
下手な歌、下手な絵にも十分存在価値があることがわかるし、
それを調べることによって得るものがある場合もあるように
思う。

何も優れたものだけが調べるに値するものでもないのでは
ないかと思う。美学的な意味合いというよりも、ある種の人類学
的意味合いが発生するのではないかと思うのだ。

それぞれの人々、ひとりひとりは決して一銭五厘の価値のない
存在ではない。むしろ博物館や美術館に陳列してもおかしくない
ものである。ひとりひとりの秘める謎を読み解けないから、単に
平凡な存在とみなされるに過ぎない。

個人情報をワイドショー的興味で根掘り葉掘りするという意味で
はなく、むしろ一番身近な他人である自分自身によって、探究
されるべき謎だと思うのだけど、ひとりひとり、その人でなくては
考えることのできない問題みたいなものを抱えているのではない
かと思う。

そういった謎をはらみながら、それぞれの人のそれぞれの日本語
ってできているのだと思う。

意味ありげと、意味づけこじつけのあいだ

リアルタイムで、微かに意味ありげな空間に生きている。
たまにそうなることがある。

背後で起こる、自分とは直接関係のない人のちょっとした
動き、ほかの人同士の会話に直接の意味のほかに、
意味ありげなニュアンスが混じる。

そういう感じがすると、能動的にそういう受け取り方を
するようにいつの頃からかなっているのだろう。

怖いまで、そういう世界に浸りきるのは怖いと思うのだけど、
繰り返すうちに、少しは慣れることもあるのだろう。

意味ありげだけど、そういう風に認知しているのだろう
みたいなところから進めていないからだろう。

いわば、ブロッケン現象みたいなのが意識の上で起こっている
みたいなものだ。

ブロッケン現象を怪物だと認知するとパニックになってしまう
けど、そういう現象だと知っておくと、珍しい現象として
楽しめてしまうような。

でも、本当に微かに混じっている程度だから、平気でいられる
に違いない。歪みみたいなのが強くなったら、理屈でなく、
世界は怖く映るだろう。

そのあたりは寝入りに入るときの入眠時幻覚のときも同じで
ある。

何も知識がなければ、体の中に夢魔が入り込むあの感じ
はたまらないだろう。きっと世界観もおかしくなるだろう。

私の場合は幸いに症状が軽く、普段、病気の世界に
入り込みすぎていないか、戻れる範囲のことだろう。

2012年12月24日月曜日

幻想と現実の距離

私の場合、幻想と現実の距離ってどんな感じになっているのだろう?
魔法の存在する世界にでも住んでいるのだろうか?

そんなことはない。

でも、日々、イメージの世界の大きさが大きくなったり、小さくなったり
するのは感じる。

まれに幻覚が生じたときも、幻覚であると認識する、ごっちゃにしたり
はしない。

ほぼ完全にこちらの世界に住んでいる。世界に対して怖い思いをする
のは稀であり、例外的な精神現象を体験したとしても長くは続かない。

でも、そこでの世界の綻びはなんらかの意味で常識の地盤を揺るがせ
ているのではないか?脳内の現象として収まっているのだろうか?

人間的な匂いの濃密にこもった”ワタシが生きているワタシの世界”
そのものが胡散臭い匂いの濃密にこもった世界に見えてくる。

よくできた世界だけど、魔法の存在する世界とあんまし変わらない。

例外的な精神現象が起こる状況では、そういう胡散臭い匂いが世界
全面からやってくる感じになる。

2012年12月23日日曜日

汎メディア論的状況 あえて機械を身につけないこと

この状況、既視感がある。

皆が自動車を持っている状況では自動車をもつことが無意味化
する。

むしろ、皆が自動車をもってるような世界に住んでいることに意味
の重点が寄ってくる。

私、普段時計を含めて、複雑な機械を身につけないし、持ち歩かない
のだけど、逆にそういうことが意味を持ってくる状況ってありえないの
だろうか?

隣にスマホ持っている人がいれば、原理的にGmailにアクセスさせて
もらえばメールチェックができるのだ。いわば、自動車に同乗させて
もらうのに似ている。

複雑な機械を身につけたくないと思い始めたのはいつごろからなの
だろう?

ひとつはこれが私なりの環境負荷を軽くする実践なのかもしれないし、
私にかかる情報負荷を無意識のうちに軽くしようとしていることでも
あるのかもしれない。

今、濃密にメディア化された空気をもつ世界の中で暮らしている。

情報収集にあくせくしたり、個々の小道具を手に入れようと画策したり
するよりも案外大事なことってあるのではなかろうか?

コミュニケーションの方言化、暗号化

それで、ふと思いついた、コミュニケーション上のトレンド
なのですが、「コミュニケーションの方言化、暗号化」です。

今の世の中、特にネットが絡むとそういうことになってしまう
のですが、使っている道具やサービスの違いと組み合わせ
などによって、世界が個人化しています。

パソコンの環境がそれぞれの人違うかもしれないように、
その人の住んでいる世界も違うのです。いわばひとりひとり
文化を背負っているような状態。

そういう個人が出会い、コミュニケーションの通路が成立
していくのですが、そこではどんな言葉が使われるのでしょう。

日本に住んでいるので、まあ多くの場合は日本語なのでしょう
けど、コミュニケーションの通路にも歴史みたいなのが発生
するのかもしれません。

最初、ほとんどお互いのことをしらなくて、話があまり、通じない
状態から、相互の世界がずいぶんわかってくる状態へ。

でも、そうなるとそとからはその世界が見えなくなってしまうこと
でしょう。二人の間だけで成り立つ話題などの成立です。

各個人は磁場みたいなものを発生させ、その周囲にその人の
色を担った雰囲気みたいなものが出来上がっていきます。

重力圏みたいなもの、呪縛される感じや、反発する感じ、
場はいろんな性質をもつことでしょう。

blogみたいな場はよくも悪くもその人の世界みたいなものを
意図的に発信したり、あるいは無意識のうちに漏れ出してしまったり
という場なのでしょう

去年の暮から年明けにかけては変なこと考えてたみたい

去年の暮から年明けにかけては変なこと考えていたのでした。
たとえばこのあたりとか、、、
http://epimbi-madrigal.blogspot.jp/2012/01/blog-post_01.html

この文章書いたときには中井久夫著『最終講義』の中の「実在」と
いう言葉がどこから来ているのかわからなかったのですが、今は
もしかしたら、井筒俊彦のいう「神秘主義的実在体験」という用語
と響きあうのではないかと思うようになりました。でも、実態は謎で
すし、著者本人に聞いてみるわけにもいきません。

それで、今年の正月あたりは仮想世界と現実世界の融合みたい
な話題を知りまして、その時には複合された世界を指す言葉は私
は知らなかったのですが、最近は複合現実感(Mixed  Rearity)と
いう風に呼ばれているらしいですね。

ただ個人的に気になるのは技術よりに解釈されるような側面ですね。

解釈を変えれば思いっきり人間よりに解釈することもできるのでは
ないかと思うのです。特別な道具立てを必要としなくて、オフライン下
の裏仕事なども含めた空間を複合現実感と呼んでもいいのではない
かと思ったりするわけです。

紙のノートの上での作業自体が複合現実感の一部を成しているよう
な解釈です。

実は汎メディア論的な状況はしばらく前から継続していて、技術がらみ
の新しい小道具が節目節目で付加したに過ぎないという見方もできます。

複雑さが溢れかえっている状況であり、最初から、読み切れない蔵書数
を誇る図書館の中にいるという感じなのかもしれません。

早速、意味不明になりはじめたので、このへんで。
平静を装っていても、一皮めくればなんとやら、という感じもします。
ワタシが変なのか、ワタシのいる状況が変なのか?どうなのでしょう。

2012年12月22日土曜日

いわぬが花

けっこういわぬが花なことやらかしている
ような気がします。

裏をかえせば、こういう風にイメージを作ろう、
持たせようという戦略はおろか努力もしていない
ような気がします。

ようするに無頓着なのです。
見た目を気にするのなら、文字数きちんとそろえたり、
改善点は無数にあると思うのですが、、、



外国からのアクセスがひいちゃいました

やっぱり性がらみのことなんか書くものじゃなかったので
しょうねぇ。

こういう話題についてあけすけに書くの好きじゃないし、
色ボケなどは絶対していないつもりなのですが、
十分伝えきれなかったのかもしれません。

ニンゲンなのだから、だれでも多かれ少なかれもっている
たぐいのことを正直に書いただけなのに、、、

いわぬが花ってこういうことか、、、

2012年12月21日金曜日

今頃『孔雀王』読んでます(ちら読みですが、、)

さて、背伸びした次の話は堕落編です。
前々回、理趣経うんぬんと書いたのですが、一筋なわでは
いきそうもありません。

思うところあって『密教経典・他』中村元著 を読んでみたの
ですが、性の世界と密教との絡みを中村先生は苦々しい筆致
で書いておられました。

プロパーの修行者自体が一部ではありますが堕落してしまった
ようなのです。もちろん歴史上の話ではありますが、、、

粗雑な山勘なのですが、昨今の性の世界の進化?と理趣経の
世界が恣意的に結びついたとき、醜悪なカルトの世界が出現す
るのだろうと思いました。

そういうわけで理趣経の世界をお勉強するのはかなり後回しに
して、もうちょっと気楽なスタンスで『孔雀王』でも読んでみようかな
と行き先変更してみました。

相変わらず密教とエロの関係をさぐっているのですが、私は大学
時代に『孔雀王』はサークルの部室においてあったヤングジャンプ
で読みました。月日が経って、もうちょっと知恵がついてからまた
読み直すのもおつなものです。

作り手はいったい何を描きたいのだろうか?というところが観察の
ポイントです。

『注文の多い料理店』の感想

夕べ2(012.12.20)、鹿児島市内某所で「賢治の会」がありました。
『賢治の会』は宮沢賢治の作品を読みあうサロンのような読書会です。

そこで喋った感想と家に帰ってから思いついたことなどを書きます。
『注文の多い料理店』のテクストは
ここhttp://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43754_17659.html
で読むことができます。

ぴかぴかする鉄砲を担いだ”紳士”たちは山の中の西洋料理店
「山猫亭」の玄関を入ると、いくつもの戸や扉を入って、そのたび
に下ごしらえさせられて、最後は山猫に食べられそうになるので
すが気になったのは戸や扉は何なのか?ということでした。

世の中の儲け話、宗教の勧誘等々いろんな解釈がありうると
思うのですが、私はこの話はヒトが道をはずれていくプロセスを
描いたものだと思いました。

戸や扉は節目、節目の人生の分岐点だと解釈しました。

山猫は世の中の悪い誰かというよりも”魔”そのものの象徴なの
ではないか?と思いました。

こういうことを思いついたのは前回の話
http://epimbi-madrigal.blogspot.jp/2012/12/blog-post_7508.html
を書き上げたあとのなんとはない後味の悪さでして、私自身が
道を外れていく過程にあるのではないかと思ったからでした。

さらにこんなことも思いました。ぴかぴかの鉄砲を担いだ
”紳士”たち、彼らを他者として考えることも可能だけど、
読み手自身と考えることも可能なのではないか?

ぴかぴかという言葉自体が金ピカな金メッキみたいな心象の
持ち主を想像させ、「こんなとこで、案外ぼくらは、貴族とちかづき
になるかも知れないよ。」という言葉に現われているように、
その人なりの光輝くものへの欲望をたぎらせているような
ものに私たち自身が見えてきました。

そして結局は私たちは”魔”の手に落ち、山猫の胃袋の
底のほうに最初から入っているのではないかと思ったりし
ました。まあ、相対的なものではありますけども。

そして、もうほとんどこじつけの域なのですが、こんなこと
も考えました。

この話は広い滅びの門をくぐりながら最後は”魔”に食べられて
しまう話なのだけど、書かれてはいない別の話として狭い命の
門をぐぐりながら、最後は”真実の出会い”に出会う話もありうる
のではなかろうかと。賢治とは無縁なキリスト教的な話とごちゃ
まぜにしているのですが、暇な人はもう少しお付き合いください。

広い誘惑の門には灯に蛾が集まるように人は集まるものですが、
狭い門は入りがたく、”真実の出会い”には出会い難いものだと
思います。

ものとの出会い、本との出合い、人との出会い、場所との出会い
出会いはさまざまですけども、私を含め多くの人は、出会った
つもりで大抵の出会いは終わるものなのではないでしょうか。

先ほどの”紳士”たちは私たちであり、最初から山猫の胃袋に
入ってしまっている存在である、と私が書いて、反発した人も、
ピンとこなかった人もいるとは思いますけど、良心的に胸に手
を当ててみるとそうなるのではないでしょうか。比較の問題であり、
また相対的な問題でもあるのですけども。

私が”出会い”には出会い難いとひらめいたのは華厳経の解説本
読んで、かなり長い時間たった夕べのことでした。華厳経には
入法界品と呼ばれる読み物みたいな文章があり、善財童子という
主人公が求法の旅の果てに普賢菩薩に出会うシーンがあるのです。

普賢菩薩は誰もが会いたがる究極のキャラクターという風な感じで
描かれています。でも私は思うのです。ここでの普賢菩薩は”出会い”
自体を形象化したものと読むことも可能なのではないかと。そして、
”真実の出会い”は実に出会い難きものなのではないかと。

出会う対象はそこかしこに存在します。いわば”真実の出会い”は
いつも目の前に存在するのです。多分気づくことができれば気づく
のですが、気づいたつもりで終わってしまうこともまた多いのでしょう。

へんてこりんな話にお付き合いさせてしまいました。

P.S 金ぴかな金メッキみたいな野郎がうつろな言葉を吐き出している
そんな感じで読んでくださいませ。話半分ということで。

P.S 「真実の出会い」といういかがわしい固有名詞もあるみたいですね。
本当に言葉と出会うのは出会い難い、というか言葉のむなしさをつくづく
思います。せいぜいこのブログにも心を許さず、最大限の警戒心と疑い
のこころをもっておつきあいくださいませ。

参照 『少年の日の思い出』の思い出
http://epimbi-madrigal.blogspot.jp/2012/08/blog-post_25.html

2012年12月20日木曜日

逆に近づいている棚はどこか

精神世界本の棚に近づいていない、じゃあどこの棚に
最近近づいていることが多いか?

というと顔をしかめる人も多いのでしょうけど、
AV女優とかアダルト関連だったりします。

ネットで検索しているうちに各世代の性意識が水面下
でがらがらと変わりつつあるのではないかと思うように
なりました。

変化の要因のひとつとしてはアダルトメディアの存在です。

で、調べだすと、すぐ印象に残るのが、業界やら作り手
のほうの真摯なものづくりの姿勢だったりします。

そして、そのことに良くも悪くも洗脳されているように
見受ける人も多いです。

メディアリテラシーの基本として、送り手側はどういう風に
伝えたいのか印象付けたいのかを意識するということが
ありますので、素直に洗脳されるわけにもいきません。

でも、説得力はあると思います。

私の場合、副作用としてAV女優を性欲解消の道具と
見れなくなってしまいました。当たり前の話かもしれま
せんけど、ひとりの人間として見るようになってしまい
ました。

AV監督は性の世界をどういう風に描きたいのか?
みたいな観点で、AVの最初のほうの女性が脱がない
シーンを何回もみて考え込むみたいな感じが多いです。

前回の文章との関連でいくと、最近、気になりながらも
決して自分から積極的に近づかず、その時がくるまで
待っておこうと思っているものがあります。

理趣経です。もちろん一部を易しく解説したようなもの
しか読めないのですが、その種のものもしばらく遠ざけ
ておこうと思っています。

常識的に考えればわかるように、性の世界なんて
典型的な煩悩の世界です。そのため譬えの道具として
の探索が最後まで手付かずで残った領域だとも思える
のです。もちろん宗教家がこの世界に近づくことは危険
だし、異端その他逸脱の誘惑はそこかしこにあったの
でしょう。

一方で「使えるものは何でも使う」貪欲さも彼らには
あったに違いないとも思うのです。方便という名目で
逸脱していくというのとはまた違う真摯さをもちながら
だと思います。

私は宗教家でもなんでもないし、またその資格がある
とも思えないのですが、私なりにイメージの世界への
興味は持ち続けています。

わからないなりに、植物原型やゲーテの思うところの
「永遠の女性」のイメージみたいなものを自分なりに
追っかけてみたいと思っています。

日本語では聖と性と生が同じ「せい」という音節です。
そのあたりに昔から不思議さを感じております。

セイレーンの歌声に耳をそばだてながら私もまた
魔界の渦に飲まれていくのでしょうか?

精神世界本の棚に近づかないワケ

「ここ」を読む人には意外なことかもしれないけど、
図書館や書店ではほとんど精神世界本の棚には近づかない。
立ち込める雰囲気もどちらかというと苦手だ。

「聖なるもの」に対する憧れは心の底にきっとあるような気がする
のだけど、なるだけ自分の道を進みたいような気がするのだ。
たとえ、それが獣道ではあってもね。

桜島ユースホステル時代の相棒が「自分はカレールーはほとんど
買わない。香辛料から調合していくのが好き。」と言ったことがある。
相棒は料理がとても好きだった。

なぜかこの言葉聞いたとき、精神世界本のことを思い出した。
書店で売られている精神世界本がスーパーで売られている
カレールーみたいにみえたのだった。

そして、自分の欲望としても、香辛料から調合したいと思うのだった。

またしても本で読んだ読みかじりの知識だけど、
大蔵経にはお経ができた当時のインドの百科事典的な知識が
ちりばめられているという風なことを読んだことがある。

大蔵経は縁遠いけど、新約聖書にも譬えはふんだんに使われている。

裏を返せば、そういった身の回りの事物から始まって、当時手に
入るかぎりの具体的な事例を使い倒しながら抽象的な宗教的真理
みたいなものを見出していったのではなかろうかと想像したりするのだ。

果たしてそんな離れ業的なことが私ごときにできるのかどうかは
さておくとして、「なるだけ自分なりにこの世界について思い巡らして
みたい」と思う人は中にはいるのではないかと思う。

かといってまったく宗教的な読みものは手にしないというほどでもなく、
図書館いったときに宗教書の棚に行ったり、井筒俊彦の本を手にした
りする。それもまあ自分なりにしか読めていないことは重々承知なのだ
けど。

あまりこてこての匂いが移るのも嫌なので読みすぎないように注意も
しながらですね。

「巨人の肩に乗る」というのももちろん大切なことですけど乗ったつもり
でずり落ちているということもまたよくありがちなことだと思うのです。

そんなこといいはじめると何も読めなくなるのかもしれませんが、
近況はそんなところです。なんだかんだいってそのときどき読んだ
本から影響されていますね、私って。

2012年12月14日金曜日

他人との間合いについて

昔は一目ぼれが多かった。

月日はたち、今は相手の魅力に引き込まれるのに
抗うことが多くなった。

他人と距離を狭めようと努力するのではなく、
他人との距離を隔て、淡い関係に抑えようと努力する
ようになってどのくらい経つのだろう。

その間、きっといろんな人との出会いが、そして学び
があった。出会うのが早すぎて失敗した関係、そして
淡い関係の心地よさを学ばせてくれる人、等々があった。

今は相手はどのくらいの距離をもつことを願い、
そして、自分はどのくらいの距離をもつことを願い、
その両方をどう折り合わせながら関係をもつことに
しようかとかなり意識的に考えながら、まわりの人と
やりとりすることが多くなった。

その結果、なんとなく孤影が少し濃くなってきた。
人間嫌いというよりも、むしろさびしがり屋なのだけど、
あまりにも意識的に人間関係を設定すると
ひとりひとりとどうしても遠くなる。

その場その場は濃密だけど、
糸は細く、切れてしまいがちで、
ときには残酷な人間にさえみえてしまう
のかもしれない。

人間を大切にする、このことが一番よく
わかっていない。というか錯綜する人間関係の
中で「人間を大切にする」というのはどういうこと
なのかしっくりわかるのは難しい。

日本人は間の文化を育ててきた。
その厚みを考えるとき自分の歳と経験くらいでは
そのことについてしっくりわかるというのが
そもそも難しいのかもしれない。

コミュニケーションは基本的であり、
日常の場面だけど、奥には奥がある
そんな感じがしてならない。

P.S 昔は性別関係なくこのヒト魅力的と感じると
「オチカヅキニナリタイ」という欲望が強くなって
距離を縮める画策をすることが多かったのですが、
準備の整わないうちに出会うのはいい出会いに
ならなかったり、逆に濃密な関係には濃密な関係
なりの難しさがあったりしたり、
いろいろ自分なりに学んだわけですね。

2012年12月13日木曜日

ラグーナ農園での収穫 たぶんはじめての畑体験

いつもお世話になっている自立訓練施設サポートネットラグーナ
がらみで、たぶんはじめての畑体験をしてきました。

私は鹿児島市内、鹿児島駅周辺に住む街の子で畑というものに
ほとんど縁のない暮らしをずっとしてきました。

ラグーナ農園と書いたのですが、実は鹿児島市郊外にある
橋口農園というところに小さな畑を借りているそうなのです。
http://hashiguchi.me/pineapple1/

鹿児島中央駅のほうから車で約30分ぐらいのところにあります。
本当にちょっと足を伸ばしさえすれば、自然の趣豊かなところが
あるのですね。

今日の午後行ってきたのですが、最初は半日、汗にまみれるの
かーなどと戦々恐々としていたのですが、さにあらず。

一時間もしないうちに収穫できてしまいました。

カブ、ダイコン、ニンジン、チンゲンサイ、ホウレンソウ、ナガネギ
などなど、、、

ほくほくした土の感じ、力をほとんどかけることなく、ダイコンが
地面から抜ける感じ、新鮮でした。癒されました。

話はまた80年代に飛びます。
そのころはバイオテクノロジーが喧伝されて、ニュースに組織培養
の三角フラスコなどがテレビで映されたりして、そういうイメージに
あこがれたりして、組織培養をしている研究室に進みました。

クリーンですがまったく土とは遠い世界。
回転培養機に巨大ランプという感じの世界でした。

そこでランの組織培養やら培養細胞の凍結保存の実験をする毎日
でした。

植物学については全体的に一通り学べたのですが、農学部ではなく、
理学部だったので畑仕事というのがほとんどありませんでした。

そんな感じで、植物学については一通り学んだはずなのですが、
なんとなく、実践に疎いというか農家の人が作物について経験の中で
学んでいく常識といったものにまったく無知でした。

そこがなんとなく自分の中でも足りないなと薄っすらとながら思い続けて
いたのです。

大学院終了して、病気が発病して鹿児島帰ってきて、かなりしばらくの
間、植物関係の縁は切れていました。

ここ最近もリウマチのためなどに山歩きもできない状態で別の意味で
植物とはまた縁が切れかけてはいるのですが、今日は久々に古い
友人に会ったような感じの日でした。

当たり前の話ですが、八百屋やスーパーで売られている野菜と違って
野良の野菜はいきいきしてますね。

そういう至極当然のことも新鮮なことでした。

植物と一口に言っても、草花などばかりでなく、樹木の世界あり、しだあり
こけあり、また別世界である海藻の世界あり、単細胞や原核生物まである
というわけで植物の世界はむちゃくちゃ広いのです。

植物知ってますといったところで名前すらすべて覚えられない状態で
その広い世界の隅のことをちょこちょこっと学生時代に齧った程度の
ことなのです。

そういう私なのですが、今日はちょっとだけ幸せな半日でした。

2012年12月12日水曜日

多様な背景の人を受け入れることが可能になったこと CGの効用について

昔書いた文章、

CGで絵の深みを表現できるのか?

http://epimbi-madrigal.blogspot.jp/2012/04/cg.html

という文章に読み手が現れたのでその中の文章を
補足したいです。

私は美術の授業は高校の正規の授業どまりで
特に美術部とかに所属していたわけではなかったの
でデッサンとかの基礎的な訓練はほとんど受けていないです。

ただ、高校のときの美術の先生は西健吉という先生で
先生の授業中に喋られた言葉、正確には思い出せない
のですが、、、

「余白の白をわざと残すこと」

「自分の中にある病理を大事にすること」

この二つは今も覚えています。

で「自分の中にある病理を大事にすること」という言葉の
意味は高校時代の私にはまったく謎で、謎の言葉として
残りました。今日は時間がないのでまたこの言葉の意味は
宿題に残させてもらいます。


年賀状などで自分なりの勝手な絵をかくことは好きでしたが、
油絵、その他大人になってから書くこともなく、美術の世界は
かなり遠かったです。

大学時代まで関心があったのは生物学で、そっち方面の道
が絶たれてしまったかのように思われた、大学院卒業後は
心理学に興味が移りました。

鹿児島のカフェギャラリーに友達に連れられていったのが
きっかけで美術への興味が少し戻りはじめました。

でも、セカンドライフという場がなかったら自分であれこれ
何か作り始めることはなかったと思います。

セカンドライフはblenderなどと比べると全然使いやすい
3DCG作成機能がついています。簡便なのです。

逆にその簡便さが物足りないという人も多かろうと思うの
ですが、私はネット上でかじったミニマリズムという概念と
相性がいいように思い、素朴さを生かしながら何かつくれ
ないものかと模索しはじめました。

積み木方式のプリムによるものづくりは記号的な感じが
します。いわば活字の背後に深さを感じられるような表現
はだせないのだろうかなどという野心がもたげてくるのです。

それ自体が活字ににている言語表現の深みは井筒俊彦
によると表現の重層性なのだといいます。

表現のレベルがいくつかの層に分かれているのだと。
表面に現れてるレベル、背景に隠されているレベルなど
などです。

そういったことはセカンドライフ上の簡素な表現の中にも
込められるはずなのですが、未だうまくいったことはなく
模索中です。

むしろ、何か無意識に動かされるかのようにして、つくり
たいものを無心につくるとき、そういったものは意図しない
形でこめられ、作品を見るときに作品から感じられる雰囲気
として立ち上がってくるのでしょう。

そういえば列車や機械の顔に興味をもったことがあります。
果たすべき機能とは別なのですが機械も愛されなくはなり
ません。愛着をもってもらわないことには長いこと世の中に
留まることはかなわないのです。そういう要請の中から自然
に機械も顔をもつようになったのではないかと思うのです。

今の人の感覚ではレトロな機械そのものに人間的な温かみ
を感じるみたいですね。もしかしたら日本人特有のアニミズム
的な優しさかもしれず、そういう感覚は大事にしたいところです。

そういうわけで機械にさえ、日本人は感情移入します。
だから今は冷たさを感じるかもしれないCGという媒体にもその
うち愛着を見出すのではないかとも思うのです。これは相対的
な問題です。

ターミネーターの一作目では恐怖の対象だったT800ですが、
流体金属性の新世代T1000が登場すると愛着の対象になりました
そうい目でみれば今のCGも時代が変われば人間性みたいなもの
を感じるのかもしれないと思います。


などと私は思ったりするわけですが、技術的には稚拙どまりかも
しれないけれど、いろんな人の思いを受け入れるCGは懐が深いとも
いえると思います。

数学にしろ、コンピュータ言語にしろ入門自体は優しく、その人の
器量に応じたその人なりの使い方をすればそれでいいのだと私は
思います。最先端を目指せばそれこそオリンピックみたいな世界に
なってしまうのでしょうけど、競技と考える立場もあるかもしれません
けど、自己表現の媒体と考える立場もあるかと思うのです。

英会話では中学英語が案外役に立つように、生活の中に生かすとい
う立場に立てば数学にしろ、コンピュータ言語にしろ、自分に苦痛を
与えない範囲で使うということもできると思うのです。

CGもそんな感じでつかっています。

表現の世界の多様性を私は信じます。ちょっとした手料理をつくる感覚
でやればいいのではないでしょうか。

ものを発信することの意味、責任

ものを発信することにまつわる責任という意味がいまだにわからない。

たとえて言うと出火原因としての私ということあり、ことによると火消し
をしないといけないということでもあり、山火事状態になったらもはや
消すことができないということなのかもしれない。

「それでも発信しますか?」

「覚悟はできていますか?」

と私自身が問われている。


個人にとっての発信手段の発見というのはいわば

「北京原人にとっての火の発見」

と相似のものかもしれない。


この譬でいうと私は火の意味がまだわかっていない段階に相当する。
火の恩恵も
火の恐怖も
未だ味わっていない。

低いレベルなりに火をあつかえる段階にあるので
火の面白さを自分なりにいろいろ試しているような
感じだと思う。

「メディア遊び」という便利が概念があるみたいだけど、
その意味は全然わからない。

メディア遊びという用語を頼りにしながら、
自分なりにその言葉の意味を探っていくことにしよう。

慈悲(恩恵)と恐怖といえばカミの二面性そのものだ。
私の居住する鹿児島でいえば上野原遺跡と関係のありそうな
ヒノカミみたいなものに相当する。

先日『上野原縄文の森』に行ってきて、体験学習で
「まいぎり」による火おこしで遊んできた。

縄文時代にはまいぎりはなかったそうだけど、
興味深い道具だった。

メディア遊びに関連させてみると
「まいぎり」はアマチュア無線ぐらいに相当するのかもしれない。

今はマッチで火を起こせる段階。子供でも使える。

でも、火の使いこなしという意味合いではどうだろう。

多くの人はメディア発信を怖がっている。

大きな流れでみれば火は使うべきだったように
メディアも使うべきだと思う。

大けがしない程度のリスクを背負いながらだけど。

火の譬でいうと、
メディアの場合は
まわりに「大人」がいないということなのだろう。

火の恩恵も恐怖もそれなりに経験の中で知っている大人。

いわば今、情報発信をしている個人は
火を使い始めた第一世代ということになるのかもしれない。

まわりの人の起こした失敗情報をかきあつめながら
自分なりの失敗学、ないし失敗哲学を構築しながら
火という新しい道具と向き合っている状態。

火は自分と向き合う鏡みたいな存在でもあるかも
しれない。メディア遊びを通して自分なりの
使いこなしを考えている。


案外、今が一番楽しい古き良き時代なのかもしれない。

状況を共有すること 『メタバース概論』(第二回)感想その2

先日の『メタバース概論』(第二回)の中の打ち込み、


Setsuna Infinity: 皆さんも少しそうかもしれないと思うのだけど その場(RLの自室等、生活の一部)にいながらにして【仮想空間】を【共有空間として認識できる】のはすごい技術ですよね。。


これについて自分なりに考えてみたいと思います。
前から仮想空間の意味についてわからないことがありました。
空間表現の意味です。単なる背景であり、演出の一つに過ぎないのかと。

雨が降らず、ものを食べることもできず、形と機能は一致しないことの多い仮想世界
での空間表現の意味です。

美的意味、構造の説明、、、まあいろいろあると思うのですが、
一つは場の状況を表現していると思います。

共有された場の性質、あるいは意味を限定する働きです。

典型的には結婚式場、テレビのスタジオ、舞台などですね。

そこは何をする場なのか、どんなことが話されるべきなのかを限定したり、
拡張したりする機能を空間表現はもっていると思います。


拡張という用語を使ったのでこれについて考えてみたいと思います。

典型的なのはラジオの現場ですよね。現実世界のラジオの現場は客席のお客さん
は無言で舞台の上のやりとりを視聴しているわけですね。

でも、セカンドライフ上のラジオの現場では、DJさんがものを言うのに対して、
客席ではリアクションとしてチャットで書き込んだりします。それがフィードバックに
なって現実のラジオでは起こらないかもしれない発信者と客席の一体感みたいな
ものが起こるのかもしれません。これもある意味、小さな場だから可能なことでは
あるかもしれませんが、実験的な試みがいろいろ起こりそうな楽しい現場です。

私は行動圏狭いのでよくわからないのですが、仮想世界上のCafeも拡張の現場
になりそうな感じがします。

ラジオにしてもCafeにしても現実世界から制度が移入したものだと思うのですが、
仮想世界という文脈の中で新たな機能がついたり、意味合いが少しずつずれて
きたり、意識的に現実空間での対応物と意味をずらしていったりとかあると思い
ます。

セカンドライフ内の空間表現は一種のアートであり、用途をもたない、
そういう解釈も可能だと思います。

でも、用途をもたないはずの表現もある文脈の中では機能をもってしまう
ことも確かなことで、そういうことについてきちんと意識化し、言語化して共有
することは大事だと思います。

表現って一般に表現者本人の中で完結するものではなく、社会に放たれた
途端に一人歩きしはじめ、だれかに受け取られます。

いわば領収証としてどう受け取ったかも言語化してみると面白いと思うの
ですね。

それは『メタバース概論』の授業一つにしてもそうであって、月日が経ってしまうと

それはどういうものであったのかということもだんだん曖昧になってきます。

一票、投票するような気分で感想を書くことに意味はあると思うのですが、
同時に記録として残ってしまうことに責任も感じてしまいます。

まあ、それは表現というものはひとたび発信されたら一人歩きしてしまう
ということにまつわる宿命みたいなもので、この文章すらも発信されてしまう
と同じ運命をたどります。お互い様なのです。

せいぜい皆さん発信者としての責任をもちましょうということなのかもしれません
けど、私にも意味のわかっていない言葉であって、これからその意味をかみしめ
なくてはいけない思いをたくさん味わうのかもしれません。

覚悟しないといけないのは私自身なのかも。

2012年12月10日月曜日

2012年 デジアカ メタバース概論(三淵啓自先生) 第二回 感想

だらだらとメモ風に思ったことを書いていきます。

まず、一つ悩むことはセカンドライフの中の人向けに書くか外の人
向けに書くかなのですが、両方の目を一応は意識しながら、でも
一から説明するのは私の能力を超えているので、雰囲気だけでも
伝わればいいくらいの感じで書いていこうと思います。

デジアカというのはセカンドライフの中の学校のような施設です。
http://digiaka.dhsl.jp/
詳しくはここをどうぞ。

夕べ(2012.12.09)の23:時-24時までセカンドライフ内のデジアカの講義室で
メタバース概論という講義がありました。二回目の授業だったのですが、
一回目は残念ながら欠席しました。

講義の形式はアバター名In Yanこと三淵先生が音声で生で講義しながら、
参加者はめいめいチャットでいいたいことを打ち込んでいって、面白いもの
は三淵先生が取り上げて答えながら対話的に授業を進めていくというやり
方でした。

興がのってくると流れるようにチャットが進んでいくので取り上げる三淵先生
のほうは苦労されていたのではないかと思いました。

私はその場では非常に興味深く傾聴していたのですが、何せ病気をもつ人間
の悲しさで、曖昧にしか記憶は残りません。でも確かに無意識の中には残って
いて肥やしにはなっているだろうと思います。そうなのでチャットのログ読みながら
引っかかった書き込みや自分の書いた書き込みなどを参考に感想のようなもの
を書いていこうと思います。


>メディアが進化しても人間関係は変わらずある種の古さを引きづっていくのか、
新しいメディアを土台にしながら人間関係自体が変わっていくのか個人的には気に
なります。

と私は授業の最初のほうに打ち込んだのですが、ちょっと補足します。
阿部謹也というもう亡くなられた社会史の研究者がいるのですが、その方は世間論に
ついていろいろ書かれています。日本は西欧から民主主義制度、会社制度、教育制度
など明治時代に移入したのだけど、人間関係は近代化されず、江戸時代以来の古い
やり方が残ったというのです。その結果、資本主義、社会、その他西欧と同じ用語を
使いながら内実が違い日本的な要素を色濃くもつものが生まれたというのです。

セカンドライフという新しい道具を使いながら、周りの人の話やSNSなどの書き込みみ
ていてもそのことを思い出すのです。印象に残るのはひそひそ話など世間的な色合い
の濃いじめじめした人間関係です。出る杭は打たれる、ウチとソト、上下関係等々日本
ではお決まりの型です。

facebook上で三淵先生とやりとりした中で印象に残る言葉の一つとして
「道具の進化に人間が追い付いていない」という言葉があります。感情的な誹謗中傷
そのあたりのことと関連したお話の中だったのかもしれません。


一方、道具の進化が土台になって人間関係も変わっていく場面も確かにあります。
実名も知らない人とのネット上での共同作業によってデジタル表現を作り上げていく
というような場面です。

私は手話のジェスチャーをアニメーションで作り上げて、当事者の方にセカンドライフ
上で見てもらって、調整を続けながら、より正しい動きをつくっていくという共同作業を
したことがあります。こういった仮想上の協業は未来社会の就業形態の足場になるの
ではないかという予感をもちました。

お金がまったく動かないか、動いたとしても少額のお金なのかどちらかなのですが、
ある種の実験であり、さまざまな人々の実験的な試みの上に何か実際的に機能する
ものができあがっていくのではないかと思いました。まあ、こういったことはセカンドライフ
上ではよくあることで、セカンドライフの中の人にとっては珍しくもなんともないことなの
でしょうけど、外の人には未知のことなのかもしれないので書いてみました。


セカンドライフとは関係ないのですが、人間関係の進化に関わる要素として心理学の
知識の大衆化があげられます。転移-逆転移をはじめとして臨床心理学の用語は人間
関係を整理分析する概念にあふれています。

メタバース概論でもペルソナというユング心理学由来の用語が出てきましたけど、
臨床心理学のある学派に属するかしないかに関わらず、用語自体は便利なので学派
の外でも使われる傾向にあると思います。

その傾向はこれからも広がり、対人距離の間合いの取り方などと関係をもつようになる
と思います。「スープの冷めない距離」「冷え冷えとした温かさ」臨床心理の世界には
ほどよい距離を保つための便利な言葉が結構あります。

セカンドライフ内でも人間関係はそれなりに成熟しているように思うので、間合いの進化
というのはこれからも注目したいところです。

ちょっとつかれたのでいったん切ります。また何か書きたくなったら書いてみます。

P.S 日本的なじめじめした人間関係というのはセカンドライフ全体から匂ってくる
ものではありません。成熟した人間関係を感じることがむしろ多いです。でも時々
そういう匂いが漂ってくる場面もあるようなのです。

P.S2 心理学の世界も人間関係の進化に寄与するばかりといえず、じめじめした
感じはまとわりつくのかもしれません。西欧文化と日本文化のアマルガムという
実態はどこまでもぬぐえないのかもしれず、むしろその中に生きる宿命に私たち
はあるのかもしれません。

2012年12月9日日曜日

ネット上でみつけたいきもの会の部室の写真 (市村さんありがと!)

広島時代85年ー92年3月まで
広島大学 いきもの会というサークルに所属していた。
(でもここではえぴさんと呼んでね)

部室の写真ネット上でみつけました。

http://4travel.jp/domestic/area/chugoku/hiroshima/hiroshima/heiwakinenkoen/travelogue/10222067/

市村さんという当時正体不明の存在感のとても濃いセンパイがいらっしゃって
その方のとられた写真みたいです。

あの時代とても懐かしいですが、病気の前で悲しいことにイマイチ記憶も淡くなり
一人ひとりの名前もあんまり想起できないかもしれません。今の私からすれば
前世のような時代です。

病気で自我が崩壊して、それまでのキャリアみたいなものもすべてオジャンになり、
またゼロから出発しなおさないといけないわけですが、基本的に好きなことばかり
やっていたので都市で譬えれば基礎部分は残っていたのかもしれません。

今の私も経済的に自立さえしていないので、大したことは何も言えませんが、
ただ一つ、あの頃とは違った感じの人間として復興はしているのかもしれません。

ホント原爆で都市が壊滅したほどの実感だったですけど、
時の流れはそれなりに癒しをもたらしてくれるものでもあります。

良くも悪くもそれぞれのひとがそれぞれの人生を巡っていったようにも思います。

隠岐の島ユースホステルのみんなで麻耶観光ホテルにとまった夜

第一次湾岸戦争の前後の頃のこと、私は何年かだけど毎年
原爆の日の頃は隠岐の島ユースホステルで過ごすことが習わし
となっていた。

といっても、常連ではない。そんなにキャラの立った客という
わけでもなかった。

ここのユースは『色即ぜねれいしょん』という映画のモデル地らしい
けども、私にとっては現実の隠岐の島ユースホステルの存在のほう
が大きい。

当時”ギュウニュウ”と呼ばれているヘルパーと”ウニ”と呼ばれている
ヘルパーがいて、なんだろう当時の自分の生活圏の中にはどうにも
いそうもないキャラの立った人たちだった。

その頃私が所属していた広島大学のいきもの会の面々自体がキャラ
の立つ強豪たちが多かったのでなんともすごい人たちだったと思う。

残念ながら病気の前の出来事であって、もはやぼんやりとしか覚えていない。

ギュウニュウとウニは私の生涯の中でも強く印象に残った人の一人で、
ああいう風になりたいと密かに思ったような気がする。

まあ、その後は森重久弥の出演していたらしい大昔の
『太陽の丘』というドラマとどこか微かながらつながっているかもしれない
桜島ユースホステルで数年ヘルパーしてみた。たぶん、ギュウニュウら
にあわなかったらそういう人生は廻らなかっただろう。

もっとも、私の存在感はそんなに大きくなかったので彼らの記憶の中に
私は残っていなかったろうと思う。

心にいつまでも灯をともしづづけるみんなで歌ったシャロムの歌、
美しい浄土ヶ浦の海の自然、お見送りで服のまま海に飛び込んだ思い出、
バカになって大声あげた”叫び”の余興、思い出深いことは多い。

あるとき召集がかかって、神戸の麻耶山にある麻耶観光ホテルに
隠岐の島ユースのみんなで泊まった。当時使われていない
半分廃墟化した場所だったけど、独特の雰囲気があり印象的な夜だった。

いつものようにかくし芸で小泉今日子の学園天国を歌ってふるまった。

いかりや長介のマネのうまかった子や”チバちゃん”とか今どうしている
ことだろう。

私は桜島ユースホステルでギュウニュウやウニとは違ったタイプのヘルパー
になった。

今はセカンドライフ上でEpimbiというキャラクターとして生きている。
別に演じてるつもりはないけど、構築されたものではあるかもしれない。

P.S シャロムの歌
https://www.youtube.com/watch?v=FL66P57NZY0

麻耶観光ホテル
http://www.geocities.jp/kashii_gannyuu/index.maya.htm.htm
私が「マヤカン」に泊まったのは合宿所として営業していた
最後の頃なのか、、、

隠岐の島ユースの旅
http://shikisoku.jp/podcast/

社会の中で活かされることを願っているのだろうか?

前の文章かきながら、私個人については社会の中で活かされる
ことを願っているのだろうか?となんとなく考えた。

やせ我慢かもしれないけれど、社会で認められることについての
欲望は希薄だった。それは俗っぽいし、そもそも私は認められる
に値することを何らしているわけでもないので。
でも、ニンゲンは動物だ。自分の内なる欲望に素直になっていくと
認められたいという欲望はきっとあるし、むしろそれを今まで抑圧
してきたのだという気がしないでもない。

そもそも、何か大きな業績をあげた人はメディアでとりあげられ、
社会から喝采を受ける。そうやって人々を社会の中に動員している
のかもしれないけれど、大きな喝采は人々の中の欲望として、
繰り返し刻み込まれている。

やせ我慢する人は大きな喝采をカルト的なものと感じ、背を向け、
”自分の人生”を生きようとする。

”自分の人生”の価値は極私的なものであり、ときに私秘的な匂い
を感じるものでさえあるので他人には理解されないかもしれない。
世俗的な価値とは真逆の方向、いわば心の奥底にある自分用の
祭壇みたいなものとどこかつながる何かかもしれない。

この方向をつきつめていくと自分カルトになりかねない。いわば
カルトに見立てた社会と背中あわせになっているひきこもった
自分カルトの世界。まあ、他人を引き込もうと思っていないだけ
マシなのではあるにしても。

そういった極私的な世界が背景にありながら、社会的なペルソナ
としていろいろものを書いてみたり、なにやら画像的なものを作って
みたりする。

自分用の祭壇というのは要は図書館とかで部品をあつめながら、
自分用のOSをつくりたいという欲望かもしれない。神なき時代を
生きる人間にとっても心の拠り所は必要みたいだ。多くの人がも
っているかもしれない心のスキマを埋めようとして多くはシステム化
されていそうな匂いのするさまざまなパッケージは開発されている。

でも、自分の欲望はそういうものを自作したいということかもしれない。
小乗仏教的に自分ひとりしか乗れないし使えないこの世界を渡るた
めの乗り物。ゼロから自作するわけにもいかないので図書館いって
あれこれ部品を調達する感じなのかもしれない。

乗り物のようなものかもしれないし、衣服のようなものを編んでいるの
かもしれないし、このblogがそうであるように自分の巣を構築している
のかもしれない。多様体という用語を使うのは不適当だと思うのだけど
イメージか言語の束をなにやらこしらえているのかもしれない。

図書館行って、そういう怪しげな、イメージや言葉の錬金術めいた何か
を密かにやり続けているのかもしれない。

私がちっぽけな存在で留まっているかぎり、社会にとっては無害だし、
単にちょっと変わった人の一人ということなのだろう。それでいいのだ
と思う。まあ、能力的にも知れてるし、歳もとったし、半減期すぎた
放射性廃棄物のように複雑なものを発散させながら、少しずつより
平凡で、安全性の高いなにかに置き換わりながら歳を重ねていく
のだろう。

森羅万象、全体と関わりたいけど自分の能力など知れている

別に知識自体、知識を所有していること自体に意味はないと思う。
これはテレビ近くの棚の中に百科事典があるのか、それとも
アタマの中にそれぞれの人なりの百科事典があるのかの違いに
すぎないと思う。

知識は利用してナンボのもの。ただし、調理法がわからないもの
が多い。

個人で使用でき、公開できるメディアが豊富なので、客にふるまう
場は確保されている。いわば各個人が屋台のブースをもらったよ
うな感じだと思う。

東南アジアの屋台って面白い。本で見ただけなのだけど。実際
行ってみたのは台湾の屋台。88年の春のこと。

屋台がずらっと軒を重ね、物価も安かったのでちょっとした
おこづかいくらいの金額で食べ歩きができた。

何年も経って思うのだけど、情報屋台ってないのかなと思う。
占いブースみたいな外観なのかもしれないけれど、それなりの
おこづかいくらいの金額でいろいろ情報遊びができるような屋台。

間取りは狭苦しいのだけど、コンビニの情報端末みたいな感じも
して高機能。そういうところにそれぞれの人によって編集された
百科事典的な知識が裏付けとしてあっていろいろ楽しませてくれる。

ちょっと怪しいし、危うい感じもするのだけど、占いとか心理療法とか
自己開発セミナーとかその手のものが大衆化してまぜこぜになって
それぞれの人の趣向によって情報屋台で怪しい芸が楽しめる、
たぶんある程度の安全性とある程度の危険な匂いが絡み合う感じ
がたまらない魅力になるのかもしれない。

大学発の知識が流れ流れて、零落していって場末に集積しはじめる
そんな予感がある。「ニューロマンサー」の登場人物のフィンの店の
ような佇まいの。

いろんなところで退職したオジサンがボランティアの解説員になって
蓄積した知識をあれこれ披露してくれたり、とかなんとなく情報屋台
の先触れだと思う。

各地の起業支援のインキュベーションブースも情報屋台の先触れ
だと思う。ただし、交流性に欠けている。気軽にぶらっと訪れる感覚
にはなかなか至らない。

一か八かのリスクを背負って起業する勇気はなかなかもてないから
もうちょっとゆるい環境の踊り場的な場、潮溜まり的な場があると
助かる。あまりお金にはならなかったり、むしろそれなりのお金を
投入しなくてはならなかったりする場になるかもしれないけれど、
それなりの情報と経験値が稼げる場、そういう場は重宝だ。

表題とはかなりずれたので話題を戻したい。

森羅万象の知識、それはその所有自体を誇るべきものではなく、
ましては見せつけたり、力比べをしたりするものではなく、一種の
食材としてアタマの中の冷蔵庫の中に入っているものだと考える。

むしろ大事なのは料理をつくること。お客さんが喜ぶこと。感心さ
せることでは決してなく、、、

どういう風に調理をすれば食べやすくなるのか、乾物のような無味
乾燥な知識はどう水に戻せばいいのか、そんなことに知恵を砕き
ノウハウを蓄える。

あと、個人の能力の問題。南方熊楠でもなんでもない一個人なので
アタマの容量など知れている。歳とともに覚えられなくなるし。まさに
たかが、なのであるけれど、されどの部分もある。たまに実際その
知識はなんらかの意味で自分以外の誰かにとって意味をもつから
だ。なんらかの意味で役立ててもらって初めて自分の知識は活きる。

そもそも知識は個人でもつものではないと思う。人と人の間にある
のではないかと思うことが多い。十分でなく、それなりの知識では
あっても吐き出し口の一つ、受け入れ口の一つにはなりうると思う。
下手の横好きがたたって私の植物に関する知識など非常に薄いの
だけど、聞き手の一人にはなっていると思う。主役だけでは劇は
なりたたない。脇役の一人になるのもいいのではないかと思う。

インターネットの時代、モノシリになっても仕方がない。検索すれば
いいんだし、と思う人も多かろうと思う。でも検索するにも知識は必要
だ。”検索するにも知識は必要”という風な、単語による検索ではなく、
文字列による検索を効果的にするには豊かな知識は必須だと思う。ただ、
私個人についてはモノシリという程でもないし、豊かな知識をもっている
とも必ずしも思わない。ただ、世の中いろんな種類の人間が必要とされ
ていることだけは心に留めてほしい。

何かを検索するというよりも、文章を書く段階ではある程度血肉になった
知識でしか表現することができない。そうでないと”洋服”が歩いている感じ
と似たことが起こる。借り物の知識は借り物の知識でしかないし、第一本人
が心細いものだと思う。

2012年12月7日金曜日

伝えること 伝わること

いまだにblog書いていて、書いたことが何になっているのかわからない。
そもそもblog今書いている動機、意識にあがっているもの、意識にあが
っていない隠れた動機、いろいろわからない。

半ば妄想化(あくまでも軽い意味で考えてね)しているような非現実的
な欲望その他なにかあるのかもしれない。

広告も含めて、世間で行われている情報発信行為、発信の結果なに
が効果として起こっているのか測定したり、理解したりすることは難しい
らしい。

文章なども発信しても、読み手によってどこを読むか、どの点が印象に
のこるかも各自それぞれらしい。発信されたものは宿命として独り歩き
してしまう。子供が親から切り離されるように、作ったものは作り手から
切り離される。

何人のひとに届いたのかわかりもしない、ネットの海に流された瓶入り
の手紙たぶんそんな感じなのだ。

流しびなのように、いろんな思いを込めながら、一つ一つ文章作って
流していく、どこに漂着するのやら知る由もない。

伝えたいことは、私のような感じのニンゲンが日々何を感じ、何を思っ
ているのか伝えたい、そういう単純なことだ。

私のようなと書いてみても、いろんな意味でマージナルな存在のよう
な感じがしてうまく言葉がみつからない。時代の過渡期にあたるので
多かれ少なかれ誰もがマージナルな影をもっているのかもしれない。


文章書くとあまりにも多くのことが伝わってしまうので怖いので書きたく
ないという人も多いらしい。私はバカなのでそのへんのリスクに鈍感
なのかもしれない。たぶんあとで後悔したりするかもしれない。
幸より禍を運んできそうな感じはなんとなくする。それでも書きたい
気持ちがある。今日の文章、全体的にあいまいで何がいいたいの
かあまり伝わっていないことだろう。なんとなく、自分の中でわいて
くるイメージをそのまま言葉にしているのでそうなのかもしれない。

blog全体としてはある程度まとまった量になりつつある。これだけの
文章、全部計算して、こういう風に見えるようにしよう、写るようにし
ようとするのはできないし、そういうつもりもない。つたわってしまった
ものが自分なのだと思う。そうはいっても赤裸々にすべてを裸にして
見せているというものでもない。あくまで社会に見せているペルソナ
として書き出している。それでも本人の意図を越えていろんなものが
きっと漏れ出していることだろう。

たぶん漏れ出した部分をまとめて、提示されたらそれこそ逃げ出したく
なると思う。そういう部分もあって、ひっそりとしたblogという形態に
安心を見出している。

作品というよりは資料としてのblogを目指している。なんらかの資料
といっても目的がないので何にもなりえぬかもしれないけど、私という
窓からみたこの世界という感じなのかもしれない。

外の世界というよりも、内なる世界のように目は向いているのかも
しれないけれど、、、、

2012年12月5日水曜日

荒唐無稽な空想に耽溺すること

長らくblog書いていると本人の事情とは関係なく、書かれたものが
積みあがってくる。全体としてどんな匂いを発散させているのか
ちょっとだけ気になる。

支離滅裂で荒唐無稽、客観的にみるとそんなところだろう。
そういうガラクタを書き連ねて何か得るところはあったのだろうか?

ガラクタなりに日々ものを考えている。下手な考え休むに似たりという
格言は一応知っているけど、もうかれこれ長い間そういう生き方してた
ので今更変えられない。

心身ともにガラクタに日々なっていくのを感じる。リウマチのほうも、
朝なんとなく指にこわばりを感じるようになりはじめた。

たかがワタシごときなのだ。されどの部分もあるのかもしれないけれど、
今日はそっちはどうでもいい。

いい感じで歳を重ねていきたいなどと、昨日は書いていたけど、
早くも一日でいろが褪せてくる。みすぼらしさはいかんともしがたい。

たぶん空想にふけることはそういうみすぼらしさをひとときでも忘れる
ためなのかもしれない。

今日は来年の干支の絵を画塾で描いていた。技術はないけど、
手づくりっぽいのができた。そのあたりが身の丈なのだろう。

今日はだらだらなりそうなのでこのへんで。

P.S 荒唐無稽、論理的ではなくても、それなりに新奇なアイデアが
ちりばめられているのならそれでもよかろう。でも、想像力がそんな
に自由ではないのはよく知っている。歳をとり、幻想の霧が晴れ、
みすぼらしい自分の姿が自分にうつる。夢から覚めたというのは
いいのだけど、夢さえも取られたら何もあとには残らない。

2012年12月4日火曜日

極小と極大は響きあっている、かといって短絡ではなく

精神病者ってセカイ系なのだろうか?
むしろセカイ系は精神病者の心象をモデルにしている
のではないだろうか?

戦隊ものって世界征服を企む悪の組織がなぜかしらない
けど、幼稚園に乱入する、そういうイメージがある。

といっても私、ゴレンジャーで卒業した原初的で平凡な
タイプなのでマニアックな世界はわかりません。

セカイ系のばかばかしさってまったく相似なものだと
思う。短絡した感じの。

でも、強弁かもしれないけれど、極小と極大は響きあっている
と思う。中間項を飛ばしていいというわけではないけれど、
極小なものは極大なものと関係ない、無縁な存在だともいえない。

こじつけかもしれないけれど、なぜか三角形と円との関係を
思い出してしまう。中学校の幾何で習ったような感じの。

内接円とか外接円とかいうやつ。円周角その他。

三角形という角の少ない存在と円という角の多い存在と
の不思議な結びつき。

対極的な存在であるはずのものが美しい関係で結びついている。

まあ、こういうこと書いても詭弁にすぎないし、何の説得にも
ならないのだけど、塵の中の仏という比喩を自分なりにイメージ
するとそんな感じなのだ。華厳経の中の比喩だけど。

実際のところはていよく下々の民草を国家システムに動員する
ための方便なのかもしれないけれど。

家族国家論とかフラクタルとかそういう目でみると響きあってくる。

グローバルなものの中に自分を位置づけるといっても単に
北朝鮮やら創価学会でよくやるマスゲームの中のどのへんに
自分がいるという位置確認をしているだけなのかもしれない。

あれは人間の集団でつくった地図、彼らなりの社会というものの
模型なのかもしれない。ある意味、彼らなりに考えた人間という
ものの根源的な欲望、あるいは幸福のカタチというか。

家族国家論、ハチの巣としての人間集団の一員の中に自分を
溶解させる快楽、すべてのものと溶け合いたいという根源的欲望。

一人の羊飼いにすべてのものが引き連れられて湖に突入する。
なんだか恐ろしいイメージだ。そういう業が多分ひとりひとりの中に
封印されたまま眠っている。だからこそ宗教があるいは洗脳が
恐ろしい。

一人のひとに惹きつけられる、魅惑される、それはローカルな
小さな恋の物語のひとこまなのかもしれない。でも、どこかで
すべてのものの救済あるいは破滅という神話的な話とも地続き
なのかもしれない。

一人ひとりの存在はモナドのような極性をもった砂粒。それは
砂鉄でつくった磁力線のもう一つのペルソナに違いない。

とまあ、とりとめもなくわけのわからないことをまた書いてしまった。
自分でも書いたことの意味がよくわかっているわけではない。

P.S 華厳経といっても解説の一部を読んだにすぎません。
図書館で大蔵経借り出して読んだこともあるけど、冗長でよめた
ものではありません。国家システムなど個人と宇宙をつなぐ中間項
と関係深そうなお経のように思います。個人にとっては国家自体が
想像の彼方にあるロマンチックな存在なのかもしれませんが。

10人に一人くらいは素因をもっているらしい

どこかできいた曖昧な話にすぎないけど、10人にひとりくらい
は精神病の素因をもっているらしい。

そのうちの一人が何かの出来事などがトリガーになって精神病
が発現する。荒いモデルだけど、なんとなくそういう風な感じで
とらえている。

がんにかかわる遺伝子が生命に深く食い込んでいて排除できな
いのと同様、精神病にかかわる遺伝子も神経というものの成り立ち
に深く食い込んでいるのかもしれない。

気分の上下、直観、ひらめくこと、創造性、その他なんとなく関係あり
そうなテーマは多い。毒と薬は紙一重ともいうし。

S親和者という用語がある。統合失調症の親和者と言い換えても
いいのかもしれない。時代先取り的などと本には書かれている。

そこに現在では検索が絡む。

先取り的なキーワードを思いつき検索にかけてみると、少数ながら
モヤモヤを言語化したテクストが得られることが多い。

自然とそうやって寄せ集められたテクスト群はデータベース状態に
なって手元で束ねられる。

その結果現実がわからないくなる。まあ、前の世代の「現実」といった
ってメディア体験の束なのかもしれないけれど、歪みかたはますます
大きくなる傾向にはあるのだろう。

精神病は軽症化したとは言うけれど、同時に複雑化、迷宮化も進んで
いるだろう。

迷宮化した人が出会い、合わせ鏡のように関係の迷宮を形作る。
本人も相手もましては第三者もわかりようのない心の迷宮。

ポーカーのようにすべての札は相手には開示していない。そういう
もの同士の関係なので人間関係というのは根本的に謎めいている。

仮面舞踏会のようにそういうものたちがそういう関係を形作るのが
社会というものだと思う。

心の闇は自分は少なくとも知っている。暗い部分が謎めいて映り
外目には魅力の一つにさえなっているのかもしれない。

謎は明かされないからこその花。

OZだってみすぼらしい手品師のオジサンだったように。
この世界全体が能面のようにも見えて、時に神秘的に、
時に唯物的に映っている、けど、種も仕掛けもあるインチキ
なものの束のように最近は思うことが多い。

全知全能と下の世界からは仰々しくみえるけど、
しがないおじさんのようにも見える。

千石イエスだっけ、そんなおじさんいたよね。

ちょっとした実験室でしがないおじさんが試験管ふってる。
外からみると宇宙ってそんなものかもしれない。

単なるファンタジーだけどね。

オジサン オジサマ オバサン オバサマ

46歳の誕生日。
40代も後半に入り、名残惜しくはあるけど、いい感じで歳を重ねて
いければいいなあと思う。

自分の周りにはオジサマに相当する人も、オバサマに相当する人も
いたので、そんな感じに歳をとっていけたらいいなあと憧れるのだけ
ど、どうも、オジサンどまりだと思う。それでいいのだと思う。

自分は後の世代にとってのモデルになりたいと思うほどの野心はも
っていない。最初からその資格に欠けていると思う。

モデルにはなりえぬけれど、踏み跡にはなりたい。それがより古い
時代を知っているものの矜持だと思う。

自分の姿は答えではない。答えまでたどりついていないから。
でもヒントくらいにはなりたい。一つの生き方の可能性として。
それも一つの生き方ともしいえるのなら。

正しい道から逸脱させる誘惑者にはなりたくない。でも、その正しい道
ってなんなの?という感じがいつもする。伝統的なルートはほころび、
老朽化し、その道を進むのが正しい選択なのかどうか、もはやわからない。

一方で新しいルートは整備されていない。手さぐりのまま、獣道をあるいて
いる感じの人も多いのかもしれない。

私は具体的なことが書けない。モデルになりうるような現代の英雄じゃない
から。むしろ、私の文章なんか読んでいてホントにいいの?と読者にたいし
て心配する。客観的にみて私は漂流者だと思う。時代の漂流者。

思いっきり未熟な存在であり、オジサンと呼ばれるまでにも至っていないの
かもしれない。大きなコドモ状態。でも、それが真実の鏡に映る自分の姿な
ら引き受けるしかない。そこと向き合うことから始めなくては、、、

Cymbiの青キ心というブログの題にふさわしく、いつまでたってもオトナになれ
ず、青キ心をひきづっていくのかもしれない。遺伝からくる、病気の発生と関係
する素因によるものなのか、病気によって普通の大人なら一通り味わえる経
験から疎外された結果なのか知らない。

そういうものを全部ひっくるめた存在としてワタシが成り立っている。そして、
不思議なことにそういう自分を嫌うのではなく、ナルシステックに魅力すら感
じているアキレたヒトである。

言い訳をいえば、自分にだけでなく、いろんなヒト、いろんな存在に興味が
ある。ちょうど分類学者がその他大勢というゴミ箱をつくらずに植物を残さず
に整理していくように。まあ、掃除はぜんぜんダメなのでそういうカッコイイ言
葉を吐く資格もないだろう。むしろ近所から拾ってきたガラクタを捨てられず、
テレビの上などに飾っていた明治生まれのばあちゃんに似ている。今の人に
は通じないかもしれないけれど。

虫にも5分の魂があるというけれど、ばあちゃんは手のとれたキューピーとか
のガラクタにも魂があると思ったのか捨てられなかった。テレビの上にささや
かだけど、舞台を用意したかった。これも一種のアニミズムといえるのかもし
れないけれど、そういうありかたは継承したいと思う。

塵の中の仏、とるに足らないものの中にも大宇宙は潜んでいると華厳経は説く。
私もこのひとときもとるに足らない存在かもしれない。でも、されど、という側面も
あるかもしれない。そこにすべてを賭けている。

2012年12月2日日曜日

カルト化と健全化

濃密な人間関係の場というものは潜在的に腐りやすいと思います。
いわば潜在的にカルト化への危険をもっているのだと思います。

この世界の悲しい宿命として場を運営していくためにもリソースが必要
なことがあります。なんらかの資源を投入しないことには場は維持でき
ないのです。

家庭ですらそうでしょう。

そうしたときに、カルト化という問題が出てきます。
そして、それと反対の力として健全化というものも出てきます。

いわばよくできた場というのはいつでもカルト化の危険を背負い、それ
を自覚しながら健全化への努力を続けている場だと思います。

場というものは場を取り巻く環境によってカルト化への力がつよくなったり、
健全化への力がつよくなったりするものと考えられます。

場の管理者や構成メンバーの存在も大きいと思います。

カルト化への傾向を計測したり、監視したりする人はいたほうがいい
と思います。

よくできた場というのは場を支えてくれる人への負荷が考え抜かれた場
だと思うのです。負荷が考え抜かれているので搾取的な関係から遠ざかって
いるような場です。そういう場はメンバーをかごの鳥にしなくても人は集まって
くるのだと思います。なにせ安心できる場だからです。

P.S 特定の場をモデルにしながら今回の文章は考えたものではありません。
いわば過去出会った経験をベースにしながら取り入れた情報も入れて考えて
みました。

心理学は個人のモンスター化を後押ししているのではないか?

”カルト化” ”カルト的傾向” ”カルト化の前兆” ”カルト的関係”
今日あれこれ検索した「キーワード」。

先日はずーっとAV業界方面のキーワードを検索していて、性の最前線の
奥深さに感心していました。

それが一段落して、心理戦の場になりかねないカウンセリングの場について
気になりだして、今日はその最前線であるキリスト教会方面のブログをたくさん
見ました。

その二つをみながらおおざっぱに感じたのは個人のモンスター化です。
そして個人のモンスター化を心理学は後押ししているのではないかという疑惑。

別の側面からみていくと、言葉を磨きすぎたことによる逆説。

言葉を磨くことはたぶん一生仕事になる長いプロセスです。

その道のりの中で、個人としての魅力が増したり、他人に働きかける力が大きく
なったりします。

でも、そこには逆説があります。その力が強くなりすぎるということは潜在的に
他人を支配する力をもつことでもあります。

そして、だれでも自分に対しては甘いので自己正当化というものも絡んできます。
能力が高い人って独善的になりやすいですよね。

最終的には人間関係も性愛関係も合気道化していくような感じが見えてくるのです。