はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2014年3月21日金曜日

内面表現のためのいいまわし

精神病者のための文学が必要じゃないか?なんとなく、そんなこと
を思う。自分の内面を語るためのいいまわし。
内面を語っても仕方のない場合もあるし、場合によってはパンドラ
の箱を開ける場合もあって有害なときさえあるけれど、それでも
内面を書き連ね、時と場所を越えて伝えたい場合がある。

精神病者には歴史がない。70年代の精神病者が胸のうちでどんな
ことを考えてたのかほとんど知ることができない。軽症化の時代にな
ったから胸の内を語ることができるようになったのかどうか知らない。

外国の精神病者の胸のうちもそれほど多く知ることはできない。
文化的な違いが症状にあるいは考えることにどのように影を落とすの
か関東と関西の違いですら、沖縄と東北の場合ですら、それほどはっきり
としたことを認識していない。あるいは資料にも基づきもしないでそんなも
のは情報化の時代あるわけがないとはっきり言えるのだろうか?

内面を語るためのいいまわし、心理学や精神病理学の世界にもそれにまつ
わる語彙やいいまわしはあるだろう。もちろん使えるものは何でも使うと
いう主義だから、それも参考にするかもしれない。でも、自分の言葉で
語りたい。自分の言葉といっても、既存の言葉を借り着したものかもしれ
ないけど、自分なりに着こなしたい。

2014年3月18日火曜日

ガミラス星の焼き直しかも

小さいときみた宇宙戦艦ヤマトで出てきたガミラス星
の風景にたぶん影響されてできた作品。


ガミラス星の風景とは似ても似つかないけど、天井があって下に空間があるという発想は同じ。
最初は信号機とか電柱とかモチーフにして書こうと思ったけど、書いてみると、やはり細胞の
表面みたいな感じになってしまった。アイデンティティなのかも

シャボン玉が割れる

うまく言語化できない。

自分のシャボン玉が割れてしまった。
わかったようなことを書く気力が失せてしまった。

キラキラ、ピカピカしたシャボン玉。
太陽の光を受けて、虹色に輝いている。

シャボン玉は割れ、現実に引き戻される。
そこにいるのはみすぼらしい、ちっぽけな自分。
陳腐な言葉でしか書き留めることさえできないような。

でも、これも、単なるいまここの気分の話であって、
また何日もしたら、悟り澄ましたような、なにかわかった
ようなことを、偉そうな態度で書き散らすのだろうなぁ。

その時々のことをとにかく書いていく。
何にもならないかもしれないけれど、
今できることはそういうことしかない。

実効性もなにもないカラの言葉で
虚しくマス目を埋めていく。

2014年3月17日月曜日

メッセージ、あるいはコジツケ

具体的な日にち、そして、どんな文章かは差し障りがあるので
明示できないけれど、妙なことがあった。

文章読んでいる際に、その文章がカミサマか異界からのメッセージ
みたいに読めてくるのだった。

そういうのは前々から繰り返し体験することでたとえばテレビの
中に私、個人に対するメッセージが象徴的な言葉として、
あるいはしぐさとして現れるみたいな。

最初の頃は怖かった。この世界の外にかかわることであって、
公言してはいけない、みたいな気がして、誰にも相談できなかった。

そんな体験でも繰り返し体験するとだんだん文法みたいなのが
見えてきてしまう。

そして、自分でも受けみたいなのができてきて、半分くらい自分の
意思も混じりながらその「読み」の世界に入っていくのだった。

なんでかというと「あちらの世界」に不思議な懐かしさと憧れみたい
な感情が含まれているからだった。

同時に「あちらの世界」に引き込まれて帰ってこれなくなるという恐怖
感も身に覚えがあるので、その体験というか読みの世界とある程度
の距離をとって、ある浅さでとどめておくのだった。入り口をかすかに
覗く程度にして。

その読みの世界にも若干のコジツケもあるかもしれない。心霊写真が
コジツケから始まるように。あるいは天井の木目が化け物にみえてくる
ように。それでも、アタマをひねって無理やりコジツケなくても、自然に
異界からのメッセージとしての不思議な解釈が意識に昇ってくるのだった。

そして、その不思議な解釈の世界が広がり、不思議な気分がこころの中に
ひろがっていく。軽い催眠もかかってくるのかもしれない。

以上のようなことを先ほど主治医との診察で報告してきたのだけど、
はっきりとした体験でもないので自分でも半信半疑だった。
そんなことを言う患者、ほかにもいますか?と聞いてみた。

そしたら、数は多そうでもなかったけど、「いたと思いますよ」
みたいな返事が返ってきた。そんなものかとそのときは思ったけど、
さらに今は疑っている。

何しろ、私は患者仲間のうちでも、医学書沢山読んでいるほうだからだ。
読んだ医学書の影響を受け、症状をなぞっているのかもしれない。
詐欺をするほどの動機も、ずるがしこさも持ち合わせていないと思うけど、
結果的に症状を模倣するということも生じているかもしれない。

今日の「目玉」というほどではないけど、書きたかったことは
半分くらい自分の意思も混じりながらその「読み」の世界に入っていくと
書いたところだ。自分の行動を冷徹に観察したり、反省してみたりする
とそう書かざるをえない。

でも、それをさらに掘り下げて、どういう心理のもとでそんな行動が
生まれるのかあまり意識できない。観察したり、その結果を文章に
書いたりはできるけど、その背景は自分でもわからない部分が多い。

自分のためにならないようなことを何かに憑きうごかされるようでも
して書いてしまうことが多い。そして、それは自分のみならず、自分の
周囲の人たちの印象まで悪くしてしまわないかと心配している。

それでも書き明かすことで何かがわかる、わからないまでも糸口
が見えてくる、そんなこともあるのではないかという微かな希望が
そんな骨折りを続けさせている。最終的に本当にひどい目にあう
可能性さえ自分の中で見え隠れすることもあるけれど、それにも
かかわらず書き続けている。ご苦労なことである(笑)。

2014年3月13日木曜日

精神病者が猛勉強したらパラノイアとなるのだろうか?

パラノイア、言葉だけは有名だけど、実体はどんなものか知らない。

ただ、「サトった」とか「宇宙と一体化した」とか「神の声を聞いた」
とかいったたぐいの病的神秘体験ののち、そのあたりが、動機
というか中核となって、その後の人生で猛勉強しはじめたら、
結果として出来上がるのはパラノイアなのであろうか?

この答えは私にはよくわからない。
ただ気がかりなのは、私が図書館で、他人目には無関係な分野
の本を並べて、読みふけっていることが多いのだけど、なんだか
その動機は、「何かの事実を明らかにしてやろう」でもなければ、
教養のためとか、その他、現実的な目的とか目標が設定されて
いないような気がすることだ。

いろんな本を読んでいくと、なんとなく全体がつながってくるよう
な気だけはするが、具体的にそれをカタチとして取り出してみる
ことができない。また全体がつながるという話もおそらくは病気の
体験も影響しているけども、まったくそれだけでもなく、どこか
読みかじりの読書の影響もきっとあるだろう。

私が猛勉強しているといえるのかどうかもよくわからない。
いろいろかじった語学はほとんど挫折状態だ。そんなに根気が
いいわけでも、アタマが切れるわけでもない。説明するまでもなく
文章を読んでいったら、大体その人がどのくらいのレベルにある
のかは誤魔化すこともなく表面化してしまう。

勉強時間であるが、最近は夜1時ちょっと前くらいには床につく。
でも、アタマの中でいろいろ湧いてきて眠れない。
雑念は雑念だろうけど、結構面白い。
そんなのに付き合っていたらどんどん夜も更けていく。
「眠る時間がもったいない」までいったらほぼ再発の準備状態で
あるから、目をつぶったときの視野が白々して、眠れる気配のな
いときは睡眠剤投入となる。最近、睡眠薬飲む日が増えた。

自分の文章読み直して、そんなにアタマいいとも思えないのだけど、
地域の市井の知識人かちょっとした物知りくらいでいいのだと思う。

自信に満ちていて、他人の意見には耳を貸さないというタイプとは
真逆のような気がする。隣に誰かいると自分の知らない情報を持って
いないかなと、教えの請うことのできるその人の詳しい分野を尋ね
たりする。それは私の「妄想体系」の中に組み込まれていくわけ
だけど、まあ、そういう謙虚な誇大妄想ならいいのかもと思ったり
する。

誇大妄想で検索したのが以下の文章。私も重なる部分はところ
どころある。でも、何かがそこで描写される人物と私を分けている。
どうやって、私はきっと危なかったところでバランスは取れたのだろう。
http://ameblo.jp/ame-oga/entry-10142570342.html

P.S 自分で知識人とか物知りと書いてしまうくらいだから、だいたい
そこで馬脚を現している。私の実態はどこかの馬の骨なのだ。
井の中の蛙の癖に、ちっぽけな知識を誇りたい部分は隠し持つ。
一方、知識量で「あいつよりウエだとか」言う手合いは内心軽蔑してる。
負け惜しみかもしれないけど、量で勝ち負けを誇るゲームとは違う
ような気がする。
それよりはどんなにささやかでもいいから、ほかの人にとってなん
らかの意味のある情報を発信したほうがいいような気がする。
私が書き散らしたものがそれに相当するものかわからないが。
精神病を経た人間の内面というのに興味を持つ奇特なヒトも
この世のどこかにはいるかもしれないから、そういう人への私信
みたいな感じでこれからも細々と続けたい。

精神病という非常事態は私の何を変え、今の私にどういう刻印
を残しているのだろう。私から一般に話を広げるわけにはいか
ないが、何か改めて正式に調査する際の問題意識その他参照
にはなるかもしれない。

2014年3月12日水曜日

なんとなくデキあがっている

春の妖気。
再発の心配とかは別にないと思うけど、何となく気分は
デキあがっている。

考えすぎ、という状況はたまにある。
考えすぎ、と自分をセーブする自分もいるのだけど、
それでも、結局自分の脳の外には出られないから、
だんだん客観視、その他の制御回路は込み入ってきて、
自分でもわけがわからなくなってきてしまう。

のんびりするというのが正解だと思う。

書いて、整理したり、エネルギーのはけ口にしたり
するのはOKなんだけど、あまり熱中しすぎない
ようにしないと。

こういう日でないと書けないようなこともたぶん
あるにはあるのだけど、記録その他よりもまずは
自分の健康を第一にしないと。

と、同時にさわぎすぎなんじゃないか。
心気症というか、狂言一歩手前なんじゃないか
という疑念も起こる。

またしても、なにがなんだかわからない。

いつも、こういうパターン。
「証拠」めいた文章だけが溜まっていく。
主治医のカルテもきっとこんな調子。

嘘つきというよりも、生真面目であるほうを
自分としては信じたいけど。

どうなんだろ。
内側に探りを入れてみてもどこか曖昧。


ここ10年以上再発していない。
これだけが自分で確認できる確かな事実。

とはいえ、過去の書き込みを見ると誇大な
ことをずいぶん書いている。というか何かの力に
よって書かされている、というのが主観的な感じ。

いろんなものを織り込みながら、
ある状態がデキあがりつつあるのかもしれない。
病気というよりもある種の人格。
それを何と呼べばいいのだろう。

虚言症では哀しすぎる。

脳の病変というよりもある種の文化に近いと
なんとなく思う。

遅ればせだけど震災と原発のことをもうちょっと勉強しよう

昨日の文章、あんなこと書いてよかったものかと反省している。
自分の体のことばかりに気が行き、昨日3月11日が何の日か
すっかり頭からなくなっていた。

日本は南北に長いので鹿児島と東北は遠い。北海道は3回
行ったことはあるけれど、東北は大阪からブルートレインで
日本海側を北海道まで行く往復で通過しただけだ。
ある意味、北海道よりも遠い。

その距離のためか、震災のこともワンクッション心理の中で
距離ができてしまう。

アタマを切り替えて、その距離を逆に生かせないか。
知的対象としてある種のアタマの遊びごととしての材料に
してしまうのは論外だけど、それでも距離があるということにも
意味はあるのだと思う。

自分なりに震災と原発のことをもうちょっと勉強したい。

2014年3月11日火曜日

病気エネルギー 核融合反応

仕事中は気づかなかったけど、外に出てみると春の妖気。
病気エネルギーが疼きだす。

仕事中はいつもよりも変に集中してしまった。
まあ、自覚しているだけマシな感じもあって、こういう時は
大体の場合、何かの媒体にエネルギーを留めるべく、
書き物とかしている時が多い。

書き物している中で、大体のその時のエネルギーの水準
がわかってくる。ちなみに、今日はいうほどたいしたことは
ないと思う。

でも、最近、エネルギーレベルが低下していて、表現意欲と
かあまり沸かないときが多かったので、ちょっとでもエネルギー
があるときにはカタチにしておこうと思う。

核融合反応、今日の場合に関していえば、おおげさすぎる。

でも、稀ではあるが、身の危険を感じるほど核反応とでも
たとえるとうまく表現できるような何かを感じる。

原発賛成派では決してないけど、ほかにうまい比喩がみつ
からないのでこういう言い方になってしまう。

核というものに超越的な何かを感じる。ロマンをもっている
わけではないけども。

核反応が物質のもっている質量の転化したものだとするなら、
病気エネルギーとは表現のもっている意味の転化したものだ
と思う。なんとなく。

「無理を通せばチェルノブイリ」という中井久夫先生のつくった
カルタの一文がある。

裏側を覗いてみると、うまく制御してほどほどのところで
うまくエネルギーを取り出し、何か仕事をさせようという欲望
が自分の中でむくむく沸いてくる。

調節がうまくいっていて、適当な負荷を与えていたら、
仕事をしつつ、エネルギーも見事に消費されるという皮算用
である。

そううまくいくのだろうか?
そして、原子力の利用がそうであったように自然に仕組まれた
罠はそこにはないか?

あまり大掛かりなことには手を出さないでほどほどのところで
実験的に運用するのが一番かもしれない。

P.S 「でも」、が二回続いている。馬鹿だ。亡き父が言っていた
けど、祖父がそんな言葉の使い方をしていたそうだ。
「が、しかし」が多すぎると。もってまわった言い方ばかりして、
何がいいたいのかよくわからなかったそうだ。祖父が死んだの
は大学4年生のときで、私は若すぎて、祖父の言葉遣いの
ことまで分析できなかった。89年当時の大学4年生と今の大学4年
生とは違うかもしれない。言葉の面からいえば、今の小学生
は私が子供だった頃の小学生の語彙の在庫にはなかった
ような言葉を操っている印象がある。親の違いが子供の言葉
の風景の違いに反映されていて、子供の小集団の中で壁を
作っているみたいだった。昨日、市内電車の中で子供同士が
しゃべっているのをこっそり観察してて、思ったことだ。
そういう壁は私の子供時代にも別の形かもしれないけれど、
しっかりあった。旧武士階級の子息(士族と当地では呼ばれ
ている)はなんだか雰囲気が違っていて、別世界という雰囲気
をかもし出していた。脱線が多そうなのでこのへんで。

それぞれの人の背負っている背景は雰囲気に出てくる。
その空気感は何代にもわたって練り上げられたものであり、
学習すれば身につくものかどうかよくわからない。
他人のものをうらやむよりも、自分のものの中に流れている
良さに気づき生かしていくという方法をとったほうがよさそうだ。

2014年3月8日土曜日

当事者のブログをあれこれ見ながら思ったこと

ひとつはっきりしていること。安全圏にいるような気がしているから
突き詰められる。これは再発して入院し、一応病状は安定したころの
ことだ。隣のベッドの患者とあれこれ話しているときに、「これ以上話す
と調子が悪くなるから」ということで口を相手はつぐんでしまったことがある。
その感じはなんとなくわかる。

内省するタイプの患者もいることがわかった。全体の匂いがなんとなく
似ているのを感じた。独り言の羅列のようでもあるが、私には興味深く
読めた。裏を返せば、こういう産業廃棄物の倉庫みたいなブログにも
数は少ないとはいえ需要があることがわかる。

患者に哲学的な要素が絡むのは身体に悪いことではあるが、どうして
も根源的なものに興味がいってしまう。まあ、私ごときのアタマで考えて
みたところで詮無きものであるということは十分すぎるぐらいわかってい
るのだけど、それでも自分なりのわかり方で十分だから何かを把握した
い。そしてそれをアタマの中だけでとどめて置くのではなく、不十分な記
述で結構だから記録として残したい、そういう風なことをいつも思っている。

栄誉とかとも別世界だろうし、サトリの世界やら聖なる世界とも別世界だろう。
あくまでも、いま、ここにある私と私から見た周囲の記録だ。そんなものに
価値があるかどうかわからないけど、当事者のブログ眺めてみて、私にとって
それは何か意味を十分もっていたし、こんなブログでも何かのカケラではある
かもしれない。いろんなところ、いろんな隙間に散らばるカケラを丁寧に集めて
いったら面白いことも探りだせるかもしれない。

当事者にとっても、当事者と関わるさまざまな専門職、その他の人にとってみて
も当事者って何を意味するのかどんどん不明瞭になりつつある。

どこからが当事者なのか線引きもはっきりしないし、その内容も多様。そして、
それらのことを伝える記述も多様ときている。

私の場合、急性精神病状態で入院し、精神病の診断を受け、現在も投
薬治療中という意味では当事者ということになるけれど、日ごろ目だった
症状は感じることはない。ただし、自分の内側からでは自分のことは見えない。
外から見たら今でも異質かもしれない。関心の持ち方その他、世間の人の
ネット上での産物と何か違うような気がする。なんとなくではあるが浮いている
ような気がする。そういう風な孤独感はなんとなく感じるところではあるが、
自分の愉しみというのは持っているので群れたいとも思っていない。

記録を残す意味は生きた証が残したいのか?私の名を半永久的に記録上に
残したいという種の欲望だろうか?そういう私的なものか?ひたすら私的なこと
を書いている中にあって、私および私の表現したもの、そのものというよりも、
それを通して映し出される何かに興味をもっている。

今日読んだ本は安藤百福という人の書いた郷土料理の本だ。その本の中には
郷土料理は気候、採れる産物、その他どんどん細分化されていって、最終的に
は家庭ごとの料理というところまでいきついてしまうそうである。同じ農民といって
も庄屋と小作ではきっと食べるものが違うように、それぞれ細かいところまで分か
れていってしまうそうだ。方言の研究でも似たようなことを読んだ。最終的には個人
の言語まで細分化されてしまうのである。

単に私がということではなく、上に書いたような意味での個人に関心がある。
さまざまな条件の違いの組み合わせとしての個人。条件の違いは環境にもどづくものも
遺伝と絡んでいるものもあるだろう。地域社会が空洞化していくのと反比例するかのよう
に情報環境は複雑化している。もしかしたら、情報環境の複雑化は地域社会にフィード
バックされて二次的ではあるが、地域社会を再び豊かにすることもあるかもしれない。
今までもその時代ごとの情報化の波はあったはずで、それにより地域の文化は組み
替えられ、重層化していったはずだから。

今の世の中、熱帯雨林の生態系を調べるかのように、全体は見渡しきれない。
スポットを選択して、スポットの中を観察するような感じでしか観察しきれない。
そういう風なわけで、私は私自身と私の周囲の世界を観察してみただけだ。

世の中に何らかの意味で価値を付け加えたかはさておくとして、そんな営みを続ける
中で私自身として得るものはあったかどうか?無名であることに卑屈さを感じることは
ないのではないかと思った。マスメディアでは有名人が賞賛され、無名人はその他
大勢であり、舞台上の脇役に過ぎないような感じで長い間扱われてきた。平凡な人々と
して。でも、その内容には案外豊かな中身が詰まっているのではないか、何かそんな
気がするのだ。

キッチンがあっても、料理をしなければ、キッチンは猫に小判だ。ブログは歴史の浅い
キッチンみたいなものだと思う。キッチンを使って、各家庭の料理の文化ができあがり
つつある。その始まりみたいな時代にいるのだと思う。キッチンの使い方はわからない
けど、その代わり、試行錯誤して得るものは多い。何よりこの時代の文化が骨格を作る
確率は結構高そうに見えるからだ。そこにたまらない魅力を感じている。

2014年3月6日木曜日

優越意識の根拠

私はいろんな人から言葉として、あるいは態度として見下された
印象が心の底に澱のように溜まっている。一種のルサンチマン。
もちろん好意的に見てくれる人もいる一方で、私が言ったり、
書いたり、質問したりしたことを脅威と受け取る人もいて、そういう
人からはそんな反応が帰ってくる。

日本人にはなんとはない序列意識が刷り込まれているところが
あって、強い立場の人にへつらい、弱い立場の人を見下したり
してうっぷんをはらすようなところがある。

弱い立場の人に鬱憤を晴らすことで、自分の優越感を味わって
るのだろうと思っているのだろうけど、その優越感の根拠って何
なのだろう?っていうのが昔からの疑問だった。

私には個人として優越しているという意識を当人は持っていない
ような気がどこかするのだ。

いわば、どこの集団に所属しているかみたいなところを優越感の
根拠にしているのではないか?そんなことを感じることがある。

鹿児島にはいったん外に出た人、東京、大阪、京都など、中央
に出た人、それから出自が中央にある人もいるけど、そんな人
の中にはどこか鹿児島の人と心の中に一線ひいていて、いわ
ゆる「東京風」を吹かせている人がいる。東京という地域の人の
集団の中に自分を置いていて、在地の人に対して、高みに上る
人がいる。

その人の見えている風景もわかる。やっぱり目につくのだから
仕方がない部分もある。外国人に対して、ステレオタイプ的な
見方をどうしても、本能的にしてしまうのと同じメカニズムだと
思う。

そして、鹿児島では会えないようなたぐいの人、体験できない
ようなたぐいのことそんなものが中央にはあることも知っている。

だから,私はその反作用として、読みの深さを鍛えようと常々
思っている。情報だけは遠くにも届く、その情報から得られる
読みを鍛え、いいたいことを正確に表現できる力を鍛えよう、
そんな気持ちがどこからか湧いてくる。

もしかしたら、私を見下してくれた人々に感謝しないといけない
のかもしれない。

自分のバック、自分のネットワークも自分の一部であり、実力、
その考えはどうも海外では使えないそうである。そして、時間
も隔てるとただ表出されたモノだけが評価の対象になる。
評価されたものが評価されるという循環もあったりして、そう
単純でもないのかもしれないが。

2014年3月5日水曜日

どんな文章に私は魅力を感じるのだろう?

今日も文章のリライト作業。基本的に、より読みやすい文章に代えていく
という作業が中心であった。でも、そんな作業を通して、どこを換えると
より魅力的な文章になるのだろう?そもそも魅力的な文章というのはど
のような文章なのだろう?一般的にというとよくわからないのであるが、
私自身としてはどんな文章に魅力を感じているのだろう?そんなことが
頭の中に生まれた。

文章を読むのは仕事を入れないでも毎日のことである。多分、ここ10
年以上、文章を2時間くらいなら読まない日はないだろう。テレビ漬けに
なる人のごとく、活字中毒になっている。でも、楽しむ読書である。

魅力の所在はどこにあるか?などと分析的に読む習慣はなかった。
また生活上そんな必要もなかった。

分析という言葉を見ると解剖という言葉が浮かんでくる。部分に切り分ける
ことで人は対象を理解する。類語に分類という言葉がある。こちらは対象を
グループごとにより分けて理解する。そして、分けたものにネーミングして
記載する。漠然とではあるがヒトの理解とはこういうものだと思っている。
逆に要素を組み立てたり、構成することで理解するという方向もある。
ただし、生きているという現象にはその方法は適当でない。分解したら、
死んでしまい組み立てても生き返らない。

どんな文章に私は魅力を感じるのだろう?という問いはもう一歩で
どんな人間に私は魅力を感じるのだろう?という問題になりそうである。
どうも、作品は作り手から出たものとみなしてしまう傾向がある。
作品が全てという作り手もいそうである。というか魅力の全てを作品に
つぎ込むと作り手自身はぼろ雑巾ということになるケースも多そう。

文章には容姿も声の魅力も反映されない。抜け落ちてしまうというところ
で自分を伝えきれないと嘆く人がいる一方で、抜け落ちてしまうというと
ころにむしろ魅力を感じる人がいる。筆美人というやつである。私はそれ
を否定しない。それぞれの人は自分に都合のいい媒体の上で生き生き
とすればそれでいいのだと思う。魅力的な俳優でも私生活はめちゃくちゃ
で家族は泣かされている人もいるだろうし、人間は複雑だから面白い。
天は二物も三物も与えているという人もいるにはいる。まあ、世の中いろ
んな人がいるからきっと楽しいのだと思う。今の私がそれほど辛い状況の
中にいると思っていないからそう思うのか何か達観してるのかわからない。

今日もあまり具体例がなく、単に抽象的にものを考えているだけである。
言葉を使いさえすれば、抽象的にあれこれ考えることができる。実際に
経験の中で痛い思いをしなくても、わかることもある。でも、私はあれこれ
と役に立たないことを考えすぎて、本当に今考えなければいけないことを
十分には考えていないのかもしれない。キリギリスは報いを受ける。
もう、桜の時期はほんのそこまでだ。夢想家のキリギリスにもわが世の春
というものは果たしてくることはあるのであろうか?

P.S 私生活上の文章はかきっぱなしにしたい気分がぬけない。文章作成上
の習慣なので、日ごろからキチンとした文章を書く癖をつけないと本当はい
けないのかもしれない。設計家の人の中にはふとんを敷くときも畳の隅に
ぴったり合わせる人もいるそうである。言葉は日ごろの積み重ね。そのこと
はなんとなく知っている。でも、一方で荒削りのよさみたいなのも信じていて
洗練と野趣のトレードオフに悩んでいる。もっとも野趣と呼ばれているのは
都会の人がアレンジした田舎風の何かであって、田舎臭さとは違うような気
もする。あるいは都会の人に切り取られた田舎というべきか。

2014年3月3日月曜日

ブーメランのように

偉そうなことを書いた後はたいてい自己嫌悪のときが多い。
ブーメランのように書いた言葉はそのまま自分に帰ってきて
そして突き刺さる。
昨日(2014.03.02)に書いた
その人なりの人間観がすべての基礎となる。」という一文を
検証したい。http://epimbi-madrigal.blogspot.jp/2014/03/blog-post_2.html

昨日はすべての人がその人なりの人間観をもっていいはずだ、
いや持つべきだと思ったのだけど、今日は
「何を偉そうなことを」という気持ちが強い。

大体私はアタマで考えたり、コトバをこねくりまわして考えたり
というたちなのだ。実践が足らん、一言でいうとそういうことになる。

今日の職場での仕事は編集作業。
誰かが複文で書いたものを単文に分けたりといった

作業が多かった。仕事も文書操作、趣味も文書操作というのがいいの
か悪いのか知らない。どうせならバルザックのようにとことん書いて、
書いて、書いてというのもいいかもしれないけど、悲しいかな波がある。

バルザックは書いていないときは人間観察するために巷に繰り出して
いたのかもしれない。私は人間観察のときといえばチンチン電車で
通勤している時だ。真向かいに座るというのがいい。キレイな人だけ
でなく、オバさんも、オバアさんも、オジさんも、オジイさんも誰でも見る。
さすがに着ているものの値段まで知っているわけではない。でも、
そう書いてみることで、店で何がどのくらいの価格で売られているのか
気にしてみようかと一瞬だけ思う。すぐ忘れてしまうことだろうけど。

私が勘が利くのは本の価格ぐらいだ。ちなみに古本は手を出さない。
ずいぶん前に新古書店通いをしてしまって、もう部屋は倉庫みたいに
なっていて、母からことあるたびに苦情が飛んでくる。話がずいぶんずれた。

人間観は読書だけでは養えないような気がする。いろいろ知識はつく
かもしれない。一般的な雑学も増えるだろう。もちろん、その中にはその
本をもし読まなかったら一生、考えたり、想像したりすることさえできない
ものもたくさんあるということは知っている。そっちのほうに軸足を置くと
どんどん鼻は高々となる。そして、何か「わかったような気」がして、
偉そうなことを言ったり書いたりしてみたくなる。所詮それは受け売りで
あって、そして、単に知識を振り回しているに過ぎないということなの
ではあるのだけど、、、

「受け売りにすぎない」という言葉さえも受け売りに過ぎないという
この種の悲しさ、ひたすら死んだ知識を溜め込んできた私の悲しさだ。

ただ、ほんの少しではあるけれど、喜びもある。それは私がなにげなく
言ったことがほかの人に役に立ったときだ。

一般に人は専門外のことについてはほとんど知識をもっていないという
ケースも多い。詳しい分野、ほとんど詳しくない分野、いろいろよりあつ
まってひとの知識は成り立っている。イギリスがどこにあるか、ドイツが
どこにあるか知らない人は知らない。ベルリンの位置ば東にあるのか
西にあるのか知らない人も結構いるかもしれない。

大体、一生懸命仕事に向かえば向かうほど専門外についてはおろそか
になる場合も多い。でも、私思うにはっきりとはいえないけれど、遠くの
知識同士もつながっていて、ひとつらなりとして全体があるように思う。
これもたぶん受け売りであって、自分でしっかりと確かめられたわけ
ではないけれど。

散々抽象論が続き、嫌気差している人も多かろうと思う。その割には
話は論理的に運ばない。独学というものの悲しさでもあろうかと思う。
新聞を読んで床屋談義したり、テレビを見て、テレビ談義するというの
とレベルはそう変わらないかもしれない。そして広くみれば、そういう
世界はまんざら否定されるものでもないと思う。きっとアンパンも
とんかつもカレーライスもそういう世界から生まれてきたのだ。

溜め込んだ知識を私なりに生かして自分の生活を豊かにすることが
できる。それだけははっきりと胸張って言えるような気がする。
そういう土壌があってこそ、プロの知識人も自分の仕事に精
出すことができる。何かそういう生態系が少しずつできつつあって、
自分もその歯車の一部、そんな感じであったら何とすばらしいこと
だろう。話がまたずれた。

春ですね


昔、作った画像です。こんなシンプルなものですが、いろんな感じが現れてしまうのですね。右の男の人なんとなく、変です。

2014年3月2日日曜日

自分を熟知すること

私は自分を熟知しているというよりも、自分を熟知
するための仮の地図を作るために情報発信している。

そんな骨折りをして何の役に立つのだろうという人も
いるかもしれない。

それに対しては私はこう答えるだろう。私と同じように
自分の地図づくりをしている人がネット上もしくは過去
にいるのならぜひ見てみたいものだと。それは向こうから
しても同じような事情なのではないだろうか?

そんな人がいたとしたら聞いてみたいことはいろいろある。
リスクはないのかとか嫌な思いはしたことがないのかとか。

嫌な思いかどうかわからないけど、私の情報発信したもの
を丹念に読んでいけば、本人以上に私のことが詳しくなる。
本人がとうに忘れている内容も多い。そして、そんなことを
する暇な人もまれにいる。面食らう。今まで経験したなか
では一番のリスクといえばリスクなのかもしれない。

本当はもっと取り返しのつかないリスクは本人は知らない
だけでしているのかもしれない。怖い。でも、そういうリスク
を越えて誰かほかの人の役にたつかもしれないからとの
思いで細々と続けている。

具体的にはどんなことに役立つと本人の中では思っている
のだろうか?

ひとつは何らかの意味での史料になると思っていること。
自分で意識して史料として情報発信することで、逆に自分
なりの歴史意識を育てることができるのではないかと思う
ことである。

それは別にアカデミックな歴史意識でなくてもいい。専門知
をさして持たない市井の人はどんな歴史意識をもっている
のだろうか?という問いがあってもいい。

ほかにも差し迫った事情がある。周囲の患者仲間を観察
していて、患者像みたいなのがすごく結びにくいことだ。
患者一般といっても非常に多様性に飛んでいるけど、自分
の周囲にいる患者仲間は症状が目立たない人が多い。
でも、それは表面をみる限りにおいてだと思う。

表面がわからないのだから、内面にいたってはもっとわから
ない。知り合って長らくあっても聞けないことも多い。

断片的にちょっとずつ、聞けないことの内容も少しずつわか
ってくる。でも、周囲の人でも大部分の人については知らない
ままである。だからといって踏み込もうという気持ちはほとんど
起こらない。踏み込まれた痛さを知るものとして。

思えば私の心に踏み込むための糸口を無数に与えている
といえる。それが一番危険なことのひとつかもしれない。

それは考えようによってはほかの患者にとっての秘密の
所在を教える糸口かもしれず、そういう意味での危険を
ほかの患者にも与えているのかもしれない。

それでも地図を与えようと思う理由は何だろう?
一種のヒトゲノムみたいな感じかもしれない。ミームの
全体像に少しでも近づけること。それが全体の何パーセント
になるのかはしらない。

線虫ゲノムの理解がマウスゲノムの理解にもヒトゲノムの
理解にも役立つような相同性はあるかもしれない。

私は軽度の精神障碍者なのかもしれないが、より重度の
障碍をもっている人の理解の糸口にもなるかもしれない。
症状は違っていても、その基礎となる心的傾向みたいな
のは共有しているかもしれないから。

外国の患者を理解するときの橋頭堡にもなるかもしれない。
病跡学などで気になる外国人の患者は何人かいる。
でも、外国人であれば、文化も違い、宗教も違う。
まして、患者である。多くは「理解したつもり」で終わって
しまうのではないだろうか。そういうとき自国の患者の資料
は役に立つような気がする。

精神科医の中には病気を治したいとか、病気の理解を
したいという欲望のほかに、精神の病を通して人間の
理解を深めたいという欲望をもつ人もいる。精神の病
というのはひとつの人間の状況である。

人間を理解することは人間にとって何にもまして大事な
ことと思われる。どんな職業に就こうが大事だし、職業
に就かなくたって大事なことに違いない。

その人なりの人間観がすべての基礎となる。かといって
人間中心主義というわけではないけど、人間のことが理解
できなければ、人間以外のこともきっと理解できないだろう。
もちろん、ここには逆説もあるのだけど。

以上のことが、自分の地図づくりの動機みたいなことだと
思う。

P.S 自分のことを熟知したい理由のひとつは
他人のことを表面だけで判断したり、裁いたりしたく
ないからです。わかったつもりになるのも怖いわけでは
ありますが、、、

「わかった感じ」に包まれる

「すべてのことがわかった感じ」に包まれている。
本当はそんなことあるわけないのにである。

一足先に鹿児島にやってきた春の妖気のせいだと仮にしておく。
でも、本音は本音として記録はつけておこう。

こういうことはたまにある。春が一番多いと思う。

「悟った」と単純に喜べない悲しさ。
それはどこかの丘くらいの高さの偽ピークに昇っただけである。

偽ピーク。その言葉を覚えたのは80年代後半、大学三年のとき
の大雪山縦走のときだったかもしれない。

そう書くとなにやらかっこいい感じもするけど、夏休み連れて行って
もらっただけだ。えらくもなんともない。

ともかくもそのとき、偽ピークという用語を覚えた。
その「感じ」は今、役に立っている。

「見晴らしはいいかどうか?今までわからなかったあらゆること
が、そしてあらゆることの関係性が一望の下に眺望できるように
なったのか?」

そんなことあるわけない。だから、単なる気分の問題に違いない。

でも、「わかった感じ」は読書するとき足取りを軽くしてくれる。
鬱蒼と茂る樹林帯を見通しも立たずに歩く感じではなく、
だんだん樹木の背丈も低くなり、光が差し始め、もう少し歩くと
森林限界がやってくる、そんな予兆を感じるような錯覚。

あくまで錯覚でしかない。でも、わかったような「感じ」がしないと
読書には救いがない。

それは「自分なりの理解」に違いない。それで、ある意味十分だと
いえる。と、なんだか抽象的なことばかり書いて自己満足に浸って
いるという読者からのお叱りをうけそうなのでこのへんで。

今日は単なる気分の話。

ロボット関連の啓蒙書読んでいるうちに妙な気分になってきた
わけだ。技術者は「ロボットを通して人間がわかる」という。
「ロボットにも仏性がある」とさえ言いそうな先生もいらっしゃる。
そういう風な言葉を読んでいるうちに、自分までそういう世界が
わかったような気持ちに包まれただけの話だ。

高柳健次郎にとってのテレビジョン。なんだかそれが乗り物に
見えてくる。見えない山を登るための乗り物。ルート選択、
技術的手段、そのへんの言葉がごっちゃになりだす。

現物がない時代の見えないテレビジョン。あるいは見えない
AIBOやASIMO。それらが機械進化の尾根上のあるピーク
に見えてくる。そんなことにうつつを抜かす私は、単に旅行記
や登山記や探検記を読みふける読者にすぎない。

それはそれでわきまえているのだけど。そして、私には私に
課せられた現実の仕事上の見えない山を登らないといけない。
そこではっと現実に引き戻される。現実は旅行記読むほどに
快適に進めない。それこそがきっと現実の醍醐味なのであろ
うけど。

幻想から現実に戻り、部屋の掃除でもしよう。

P.S 大言壮語する私の真の大きさが大体本文読むとわかって
くると思う。私は実に「幸せ」な奴なのだ。