はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2012年8月31日金曜日

やっぱり丁寧に書くべきなのかもしれない

どうでもいいことかもしれないけれど、
また自分の文章について悩んでいる。

原石のような文章ということを思いついて
文章は少々荒れたかもしれない。

悪文は確かに多くなった。

悪文には悪文の魅力などもあるかもしれないけれど、
きちんとした小説家などがやればそれも味になるの
かもしれないけれど、(また悪文だ)
私がやったところで読みにくくなるだけかも。

ラーメン屋のおやじさんが、店の味を確定するまで
どういう風な紆余曲折があるのだろう?

ふとそんなことを考える。

ラーメン屋にしろ、喫茶店にしろ、いろんな組み合わせ
を自分で試して、店の味を調合する。

「いろんな」で済ませちゃうのだけど、しっかりした
書き手なら、実際調べて、もしくは、すでに知識を
持っていらっしゃって、具体的なことを書くのでしょうね。


少し気分が落ち気味ですね。秋の気配がして、
夏の疲れが出たのかな。


ラーメン屋と文章とどう関係があるのか
なんて人は考えるのかもしれないけれど、
「文章の味」みたいな感じで私の中では
つながるのです。その辺も説明抜きに
書きだしても人には伝わらないかもしれない。

ああ、文章って難しい。

今日はまとまらないのでこの辺で。 
ちょっと頭冷やしてみます。

2012年8月30日木曜日

適切な記載について

在野のナチュラリストが新種発見したときに、研究者と共著ではなく、
一人で論文書くのが勧められない理由は、新種記載の論文の記述
がしっかりしてないとあと研究する人が困るからだと何かの折に
聞いたことがあります。

そういう意味では私ごときがあれこれ好きなこと書いて発信する
ことにも世の中を惑わしているという嫌疑がかかります。

もっともブログの情報って最初から参照情報としてしか扱われて
いないのかもしれません。

いわばまったく関係ないところに補強したり、反証したりする別件
の情報があって初めてなんらかの意味を帯びてくるのかもしれま
せん。

ジャーナリズムの世界でも裏を取れと言われます。

そういう意味では情報を発信する側としては自分なりの誠実さ
でことに当たればそれでいいのかもしれません。

頭の冴えと気分の高さ

私は躁うつ病的な気分の盛り上がりと、
統合失調症の前駆期の頭の冴えが混同された感じ
になっています。

厳密に分けられるかどうかも私にはわかりません。

統合失調症と躁うつ病がきれいに分かれないのでは
ないかという気もします。

でも、こういうのを議論するのはお医者さんの世界なので
私が変なこと書いてノイズを発信するのはやめたいです。

非定型精神病は躁うつ病と統合失調症の両方の要素を
もっているらしいのですが、私個人の気分の高いときには
頭の冴えの要素も若干あるように思います。

これは躁うつ病と診断された人も気分が高いときは
頭が冴えていると主観的には思っているのかもしれません。

まあ、周りの患者さんみてると、それぞれ症状の出方が
違うので診察室で多くの患者さんを相手にしていないと
みえてこないのでしょう。

気分の爽快感と頭の冴えはなんとか分けられる感じがします。

でも、私はひどい躁うつ病の時の爽快感みたいなのは数度
しか体験したことはありません。

あとのは爽快感というよりもハイテンションという感じです。
そういうときでも多幸感とか、涙腺が弱くなってちょっとした
ことで感動したりとかはあります。

ドーパミンがドバドバ出る感じは深いことが書いてある文章
読んだりするとよく出てきます。割と日常に近いのですが、
多分病気の前にはなかった感覚かもしれません。

と書きながらなのですが、こういうことも何人もの患者さんが
症状とか自分の状態を記録してくれて、比べてみたりしない
とあんまりはっきりしたことは見えてこないような気がします。

病跡学のように少数の天才的な言語化能力のある人の
点情報によりかかるのはどうかなあと症状などを書いている
ほうの私は思います。

書くことにたいして、ある程度の誠実さはもちたいのはやまやま
ですけど、点情報にはあまり重い責任は負えないと思うのです。

P.S ドーパミンドバドバという表現もネット上には散見します。
多分それぞれの人のドーパミンドバドバ感があるのでしょう。
そして、それを読み手なりに読み手の背景で解釈するわけです。
こういうときに言葉の無力さを感じます。

でも何も書かなければ何も伝わらないわけで、言葉という
不自由な道具を使いつづけなければなりません。ありきたり
なことではありますけども。

発散と収束のイメージ

発散と収束のイメージなのですが、
すごくへたくそな図で恐縮なのですが、
こんな感じです。

縦が気分の高さで横が時間です。

赤が頭の冴えが発散して、急性期に入るパターンで

青が適当なところで収束するパターンです。

丸印のついた青がうまくいったパターンなのですが、
気分の波が収束しつつ、ちょっと高止まった感じで維持され、
次の波の収束でもうちょっと高いところにシフトする感じです。

そういうこともありうるのではないかと思って
落書きしてみたのですが、
書いたもの眺めてみるとトンデモな匂いがプンプンしますね。

2012年8月29日水曜日

ゆるくたっていいじゃないか。カネ取ろうというわけじゃないのだから。

前の文章もそうだけど、最近の文章はゆるゆるのような
感じがする。

原石のような表現なんて邪道なことを考え付いたから
表現はゆるくなっている。

でも、そのほうが肩は凝らないかもしれない。

下手に気負った文章、気合の入った文章よりも
痛くはないのかもしれない。

誇大な感じを背景に抱えていることもあって、痛さは
ちらちら見える感じだけど、それも含めての人間なの
だからご寛大に。

そういう開き直りに不快感感じられる方も中には
いらっしゃるかもしれないけれど、普段着の表現
みたいな感じもいいのではないかと思う。

なるべく見せる表現ではなくて、自分にとって楽な
表現をしたい。力を抜きたい。

そのほうが自由にものを考えられるような気がする。
そういう余裕の中から、また新しい芽も出てくるような
気がするのだ。

ロマンチックな狂気は存在しないのか?その2

急性期の前に頭の冴える前駆期がある。

これは必ずしも特殊な患者というわけでもないのかも
しれない。

前駆期が急性期に至る発散をしないで、
ある程度の波で収束するというシナリオはないのだろうか?

それは患者自身の自制にかかっていると思うのだけど、
ネット等の情報なしに、そういう知恵は湧いてきそうもない。

何にしろ、「かねてから持ちたいと思っていた能力がいわば
向こうからやってきたのだから。」(読書より)

「天才」になったのにしろ、「超能力者」になったのにしろ、
その傾きに対して、アクセルではなく、ブレーキをかける
という選択は情報抜きに起こりそうではない。

周りからのありがたい忠告も本人の耳には入らないかも
しれない。周りからの忠告を受け入れ、自らの選択で
精神科のドアを叩くか叩かないかががその後の分岐点
になると思うのだけど、普通は叩かないだろう。

それは仕方のないことだけど、二回目からの前駆期は
少なくともこれからは随分と状況が変わってきそうな
気がする。

そこで、前駆期をどう捉えるかということを考えてみる。

本人の主観的な誇大妄想的な幻にすぎないのだろうか?
それともかけらくらいの真実性はあるのだろうか?

それはその後の人生が決めると思う。

幻だと自分を納得させ、すっかり忘れてしまう、封印し、
忘れてしまおうと努力するのも人生だけど、あきらめきれない
人もいるだろう。

独創性みたいなものを今の世の中で生かしていこうとすると
茨の道になるのは明らかだと思うけれど、少しずつ環境条件
も変わってくるのかもしれないし、環境整備のために個々人が
ささやかながら努力を試みるということには意味はあると
思っている。

病気山から無条件に下山するという時代から、少しずつ
高山帯や亜高山帯の植物観察くらいは許される時代に
なりつつあるのではないか。

もちろん、氷河地帯まで進むことは勧められないと思うけ
れど。また、アナロジー全開になってしまった。スミマセン。

前駆期のときに見られる頭が冴えた状態をある程度愉しみつつ
愉しみすぎないように注意しながら、ほどほどのところで下山して
脳を休める、そういうことを繰り返しながら、増長慢に注意して
神様にも俺様にもならないように注意して、市井に住みつつ
何か自己表現できそうなもので社会に還元しつつ、静かに暮らしていく、
そういうことができたら最高なんだけどなあと思う。

またブログで吠えてしまった。


P.S ロマンチックな狂気は存在しないのか 精神病と創造性
http://epimbi-madrigal.blogspot.jp/2012/08/blog-post_19.html

「すばらしい明日」が来るときが一番胡散臭い

たった二度ほどの急性分裂病状態ですけど、
(私は二度ほどでもう十分だと思っています。)
その体験で得たことは月並みかもしれませんけども、

「すばらしい明日」がやってきそうなとき、
「未来に羽ばたけそうな夜明け」

が一番危ないのではないかという感想です。

大体そういうときは、その前は長いトンネル状態
なのです。

「明けない夜はない」などと励ましてくれる近くの
人はいるかどうかはわかりませんけども、
いつ抜けられるともわからない、長い長いトンネルを
歩いているような時期がずっと続くのです。

そこから、視界が広がり、
未来が開けそうになったとき、
実は魔の刻だったというのが私の感想です。

私の場合は春の草芽の芽吹き、桜の花盛り
そういったものと、自分の心の夜明けが同期して
行き過ぎてしまったのかもしれません。

二回目以降も気分の盛り上がり、未来に続きそうな
何かの波は不定期的にやってきましたけど、
波の盛り上がりをある程度楽しみつつ、
楽しみ過ぎないように心がけてきました。

もうちょっとしたら危ないなあと心の警報器が鳴って
自分なりに脳を休めようと努力するのです。

いつもより、多めに薬を飲んだりして、
無理やり寝かしつけたこともあります。
でも、これは薬の内容によっては絶対しては
いけないことなのかもしれません。

それでも緊急というときがあって、私は
自己責任で、薬をいつもより多めに飲みました。

そうすると頭はどろどろになって、眠りこけ
とりあえずの峠を越した状態になって、
また、いつもの自分になりました。

それの繰り返しです。

たまたま、早め早めに手を打てたので
状態を比較的良い感じでキープできたの
かもしれません。

予防は治療に勝るとはよく言ったものです。

新旧の患者の違い(自分用のメモ)

昔の患者

追われている。
   ↓
追っている「組織」があるに違いない。
   ↓
みんな「組織」と裏でつながっていて
グルなんだ。


今の患者

追われている。
   ↓
追われていると認識している自分がいる。
   ↓
そういう「現実」とはそもそもどうなっているのだろう?
   ↓
それがわかるには手に入る限りの資料に当たらないといけない。
   ↓
図書館に籠ろう。


まわりにヒントを得たり、自分の場合を考えながら
たとえ話風に書いてみました。
このたとえ話で精神病の軽症化の謎ときになるなんて
まったく考えられませんけども、
世間にばらまかれた常識化した知識が病状を軽く
している因子の一つかもしれないと思いました。

今の患者でも、最初から病識をもつとは限らず、
一回目の入院の折には「みんな「組織」と裏でつながっていて
グルなんだ。」みたいなところまでいくのかもしれません。
何しろ未経験かつ未曾有の体験なのですから。

でも二回目以降はまわりの患者の情報なども
入り、症状は軽くなるのかもしれません。

P.S 図書館に籠りっぱなしになり、
三日三晩徹夜で考え抜いたあげく、
「悟って」しまったらどうなるんだ、
それも十分危ないじゃないかと
思いました。

そういう風に書けることで、その可能性も
回避できるのならいいけれど、先のこと
はわかりません。
  
  

2012年8月27日月曜日

経験を思考で埋め合わせる

私は頭でっかちで考えてばかりいて行動はあまりせず、
検証しない。

その考えとやらも、前提並びに、筋道が正しいとばかりは
どうも思えない。

下手な考え休むに似たりということわざは私には
よくあてはまるのかもしれない。

その一方で思考の世界とか思考実験の世界というのも
ちょっとだけ興味深く思える。

私は基本、経験が足りていないということは十分自覚している。
特に職場体験が足りていない。

でも、どの位職場体験というものをすれば満足するのだろう?

職場体験とはいっても、一通りのことを経験するとあとは
日々の繰り返しの世界でそんなにやりがいのある職場とか
少ないし、一見華麗なテレビの世界なども慣れてしまえば
日常になってしまうのだろう。

その一方で、掃除の仕事も奥が深く、極めることは困難で
その気になれば、自分というものをどこまでも成長させて
くれるということも以前働いていたユースホステルのヘルパー
の仕事で学んだことだ。まさに作務だ。

まあ、職場体験ゼロでもないのだから、よしとしよう。

そんなこんなで、経験、特に職場体験の薄さを思考で
埋め合わせようという発想をよくもわるくも続けているように
思う。

現実世界を仮想世界で埋め合わせようという発想と並行関係
にあるのかもしれない。

頭の中の世界、思考の世界にも豊かさ/貧しさってあるの
だろうか?別に自分の思考の世界の「豊かさ」を誇示したいわけ
ではない。

そうではなく、思考の世界にも多様性みたいなものはあるのだろうか
みたいな話題である。

日本人的な発想、地方に住んでいる人のものの考え方。世代による
違いなどなど。

そういった各人の違いも文章読んでいるとよくわかる。各人の背負っている
文化的背景に敬意を示しつつ、いろんな人の文章を読んで楽しんでいる。
教えられることもまた多い。

感覚的に受け付けない考え方とかもあるにはあるけれど、それもお互いが
歩んできた人生行路の違いから出てきたものだろう。異文化理解に
文化相対主義という基本的な考え方の態度があるけれど、そういう寛容性
をもちたい。

話を戻す。経験を思考で埋め合わせるというのは私の基本戦略の一つかも
しれない。柔軟に思考することで、何とか今の状況を打開しようということ
なのかもしれないし、せめて精神的には豊かでありたいという渇望なのかも
しれない。

よくもわるくも人は置かれたその環境、境遇に適応し、それに合わせた
体制を作り上げようとする。確かにその場でしか学べないこと、その場
で得た生活の知恵などもあるに違いない。

自分の場合はもともと柔軟にものを考えて生活を乗り切ろうという傾きは
あったけど、精神病を得てからその傾向は強くなった。

柔軟にものを捉えることができたから、今くらいのところで状態は安定した
のかもしれないけれど、単に運がよかっただけなのかもしれないし、
はっきりしたことはわからない。

それでも個人的にはものを考えて、考えた過程を言語化、記録に残し、
公開するという今のスタイルは性に合っている。

潜在的にはやれることはまだいっぱいあるのは知っているけど、今は
そこに絞り込み、自分の労力を集中している。

結果はどうなるのか知らないけれど、400件越える文章が書けたという
のは成果といえるかもしれない。少なくともコンテンツ作る過程で学べた
ことは多いに違いない。それも経験ということにしておこう。

目標設定自体がそもそも難しい

私の悩みは日々の生活の中で
適切な目標設定ができないことだった。

今は比較的自由な生活で、組織が目標を与えてくれる
ということなどなかったので、自分で目標設定しないと
いけない。

目標設定できないまま、砂漠の上でさまよっているような
無為なその日暮らしをずっと続けているような思いから
抜け出せなかった。

目標設定できない境遇で、それでもどうすればいいの
だろうと悩みながら書いた文章が次の文章だ。
http://epimbi-madrigal.blogspot.jp/2011/11/blog-post_26.html

でも、今日、気が付いたことは適切な目標設定というもの
自体がそもそも難しいことだ。

受験のときの進路指導の場面を思い起こすだけで、
そのことはわかると思う。

ふつうの人は組織に所属していて、組織が目標を設定
してくれるので、それができているのではないかと思うのだ。

組織から離れて、一個人として生きている中で目標設定が
難しいことはもしかしたら当たり前の話なのかもしれない。

それだから、人は組織から離れたときに、とりあえず、
資格試験を目指したりするのだと思う。

目標を設定するから、計画ができて、計画ができたから
実現に向かう、そのことに気づくことができただけでも
一歩前進だったのではなかろうか。

逆をいえば、その時、その時の境遇、能力からみて適切な
目標設定をすることは、その人を今とは違う未来につれて
いくことになるのかもしれない。

今とは違う未来、今の仮の姿とは違う、本当の自分など
とは夢という甘い餌につられた、甘っちょろい自分探しに
すぎないのかもしれない。

今の時点で、私に許された人生の自由度はどのくらい
残されているのかは不明だけど、可動域いっぱいに
考えをめぐらせながら、何かのヒントをつかみたい。
とっかかりを探し出したい。

たぶんそのための強力な道具としてこのブログの場
があるに違いない。

未来に思いを巡らせるためのシミュレーションの
道具としての。

そう、未来への地図なのだ。

ブログの勧め アイデアの芽が隠れている

ブログってまさに航海日誌。

ある程度蓄積されたら、読み返してみると何かを得られる。
はっきりとは分からないけど、伸ばすべきアイデアの芽が
隠れている。

はっきりとは分からないなり、繰り返し読むたびに
少しずつ次の芽が無意識の
中に形成されていくような感じがしてくる。

自分ではわからなくても、ほかの人が先に気づいて、
指摘してくれるかもしれない。

自分ではわからない部分って結構多い。

そして、言葉にしてみてほかの人に伝わることも
非常に多い。

というか表面からうかがえないことは言葉にしてみ
ないことにはほかの人にはわかりようがない。

文書化してみることで、ほかの人の文章と突き合わせて
見えてくるものも出てくるかも。

何かを考える材料にはなっているはず。

断片的な表現でさえ、遠くの誰かにとって
役立つことがある。

その恩恵は私自身よく感じることなので、
私の文章もどこかで役立ててもらえたら
ありがたいことだなあって思う。

高度な自己学習力を育む環境をつくるには

そんなことを私に聞いてもらっても困る。

構成要素にあたる役者としての各人の自己学習力を
それぞれあげていくようにお互い仕向けるしかない。

これは生態系を人工的につくるにはどうすればいい
ですかとか、理想的な家族をつくるにはどうすれば
いいですかなどと同じレベルの愚問かもしれない。

でも、一回くらいは考えてみてもいいテーマかも
しれない。

役者としての各人の周囲にはよかれ悪しかれ
佇まいというものできてくる。

まずはそのことを意識すること。

モデルがあれば最高だけど、とりあえず生活圏
の中に見当たらない場合は本の中の断片みたい
なものでいいから、参考になるものを集め、
自分なりにイメージをめぐらしておくこと。

反面教師くらいなら、生活圏の中でも実例
には困らないだろうから、そういうものも
観察例として、勘定に入れておいて、
どこがまずいのか自分なりによく分析して
おくこと。

どういう要素が抜けているか?これは
考えるのは難しい。

環境が構成された時点で、善循環にしろ、
悪循環にしろ、卵と鶏のサイクルはすでに
回りはじめている。

雛を守ること、鶏をつぶさないこと、
これは大事なことだ。

一方、どれが守るべき鶏なのか、それを
間違わないことも大事なような感じがする。

わかったようなことをぐだぐだと述べてしまった。
ヒントになった断片的なことでもあればあった
でありがたいけれど、基本、何もわかっていない
ので話半分で読んでください。

表題を組み立てて自分なりに考えてみたのです。

実は表題を組み立てて自分なりに考えてみる
ということが一番大事なのかも。

経験は得られなくても、ちょっとしたシミュレーション
くらいにはなるかも。

なんてたってコンピュータと違って人間は考える
ことができるのですもの。

その能力を使わないと損ですよ。

2012年8月26日日曜日

内なる自然から学んだこと 精神病と私

最近は右肩上がりで状態はよくなっている。仕事という負荷がない
せいもあって無理をしない生活なので、状態が崩れることがあんまり
ない。

所属感もそれなりにあって、そういうものも心の安定に寄与している
ような感じがする。

負荷がないことは果たしていいことなのか、状態が崩れることはない
代わりに経験値も、ストレス耐性もつかないということかもしれない
けど、ちょっとそのことは置いておく。

さて、今日のお題は内なる自然から学んだことと書いた。「内なる
自然」という表現と精神病についてはこちらにもちらっと書いている
のだけど、患者の立場からこのことについて考えてみたい。
http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA02752_07

内なる自然、人間が自然界に振り回されるように、ときどき自分自身に
振り回されてほとんど為すすべがない。状態が安定している時期も
細かく見ていくと、大気の呼吸のように気分のゆるやかな変動が
みられる。

そういう自分自身と付き合いながら、自分の境遇に適応し、
夢を見失わないようにしながら、日々を淡々と送っていく。

昔からバイオミメーシスという分野に憧れてた。植物標本室の
標本のDNA配列を医薬開発に生かすみたいな話を読んだとき
から関心もったような気がする。学生時代のころ、南米の
シャーマンに民族植物学者が植物知識を聞き出して、薬の
開発に生かすみたいなJTのコマーシャルがあって、そのCM
に憧れて、JTに就職面接に押し掛けるようなおバカなマネを
したことがある。

バイオミメーシスは生き物の機能を模倣して、たとえば
鳥を参考にして飛行機つくったり、恐竜を参考にして
パワーショベルつくったりとかそういう分野です。

私が最近思うのは、精神病の患者それぞれ、病気の軽重
あったり、出方がちがったりしますが、それぞれの世界の
中で得た生活の知恵、工夫なども、ユニークな生物の生き方
みたいな面白いところがあるのではないかと思うのです。

模倣する価値があるとまでは言わないけれど、それぞれの
患者におけるそれなりの平衡状態みたいなものにも、
自己組織化みたいな深淵な自然の摂理みたいなものが
あるのではないかと思うのです。

とっても卑近な世界である、いまここにある自分の気持ち
の持ち方とか感じ方みたいな、自分にとってなんでもない
ことにも、一枝の草の中にさえ言葉で言い尽くせない何か
があるのと同じような重みがあるのではないかと思います。

軽薄な憧れ、背伸びを含めて、言葉を選ぶひとことひとこと
の中によくもわるくもその人の歴史が現れてきます。

地上にみられる地形の起伏が地球の歴史のひとつのあら
われかたであるように、個々人の言葉やらしぐさその他の
表現の中にも、個人史から地域の歴史に至る、それを
支えている背景というものがあるような気がするのです。

それぞれの人が博物館に収められる標本と同じくらいの
重みをもっているのだと思います。

2012年8月25日土曜日

暇があること、その2

私などよりもっと恵まれた椅子に座っているひとは
結構多いと思うけど、そういう人は残念ながら暇が
ない。

逆にいえば暇を生かせる立場にあるというのも
恵まれた椅子のように思えてくる。

椅子ならぬ椅子。

でも、誰もがものを書けるというわけでもなさそう
だから、ものが書けるゆえの責任というのも発生
する。

自分の能力をどう生かすべきなのだろう?

「ここ」で吠えることはいいことなのか一種の罪
なのか?

自分を生かすべく、もっと動くべきなのか?

それとも、動かないで、今みたいな生活をする
ことにも何か意味はあるのだろうか?

私は無為に過ごしているのだろうか?

忙しく動き回っている人は多い。

私はその時間を図書館で本読んで潰している
ことが多い。そのことには罪悪感感じるけど、
本読みまくって時間潰しているから表現できる
ものもあるような気も一方ではする。

必ずしもその表現は私を生かす力にはなって
いないけど、存在証明にはなっている。

本を読んでそのままでは何も生み出さない
けど考えたことを元手に表現したら、何かを
生み出したことになると思っている。

残念ながらそこで止まっている。

そこで止まっている人はネット上には結構
いらっしゃることだろう。

何が足りないのだろう?単に才能なのだろうか?
どこかに働きかける勇気なのか?

社会に何かを期待する気持ちもないではない
けれど、基本的に自力更生しないといけない。

とりあえず途中まで解いた答案でも、
この先に何か光があるのか、下山する勇気を
もつべきなのか、ちょっと条件を変えると結論
が変わってくるのか、私以上に私の現在位置に
対する見立てができそうな人はいるような気
がする。

感想をもらう手間を惜しんでいるのかもしれない。

とはいいながらまず聞かれそうなことは
「どこに行きたいの?」という質問であって、
自分でもよくよく考えないといけない。

伏線的な要素を作り上げる

このブログ、作り上げる上で、ほかの書き込みから得た
断片的な表現に結構支えられている。

断片的な表現、読み手としては続きが知りたい。

でも続きがない。だから続きを自力で推論してみようみたい
な感じ。

裏を返せばほかのだれかのtwitterなどでのつぶやきが
伏線的な要素になっている。

だから、twitterでのつぶやきやら、ブログで吠えることも
決して無駄ではない。

その断片をヒントに、続きを考えたり、まったく別の文脈に
適用したりしながら、断片はだんだんと一つのまとまった
テキストに生まれ変わる。

情報生態系のように回路の中で情報は代謝されて、
最終的な産物をだれかが産み落とす。

そんなことを考えると、微生物の呼吸のような小さな
つぶやきも自分のあずかり知らないところで世の中を変えたり、
世の中を変えうる何かの形に変換されたりとかいう
興味深いことが見えないところで起こっているような気が
するのだ。

結局、その言語圏からどんなものが生まれうるのかの
鍵を握っているのは文化的土壌の生態系のような感じがする。

搾取するのは勝手だけど、持続的に富を生み出そうという
発想がちょっとでもあれば、土壌の生態系が豊かになる
ための社会的仕組みについて考えをめぐらしてほしい。

土壌が荒れて、疲弊していくか、土壌が豊かになって
その上に熱帯雨林のようなパラダイスが現前するかは
それぞれの立場の人のちょっとした想像力いかんに
かかっている。

それぞれの人の立場でできることは制限があるとは
知っているのだけど、制約ある私でさえできることは
あるにはあるのだから、もっと恵まれた椅子に座って
いる人はその場所でできる何かを探してほしい。

コンテンツの自給自足サイクル

ニートによるコンテンツ生産、実はこれは一種の革命であり、
社会的には十分意味がある現象であるらしいことを検索していく
うちに知った。

コンテンツがお金に兌換できないことは現在はネックになって
いるけど、条件は変わるかもしれない。

そのための準備は何だろうか?

大事なことは伏線的な要素を水面下で粛々と作り上げていくこと。

要素的な何かを結果のことはあまり考えずに作り続けていくと
ほかのひとが要素同志をつなげてくれるかもしれない。

生態系的な発想は大事だと思われる。

高校の生物で習った、カルビン回路やらクエン酸回路のイメージ
がなぜか浮かぶ。

それぞれバラバラな状況で出来上がった化学反応経路は
いつしか線状に結びつき、両端が結びついて、回路を形成する。

今は夜明け前だけど、夜が明けるのはそう遠くないことは検索している
と見えてくる。

イギリスの産業革命のときに起きたような、革命的な面白い現象、
産業革命の進展の過程でおきた、紡績機と蒸気機関が結びついたり、
蒸気機関から鉄道が生まれ、鉄道の発展が製鉄業を盛んにしたりとい
たダイナミックな変化に相当するようなのが日本のコンテンツ革命でも起こる
のではないだろうか?

事例のヒントになりそうなモデルを過去に探し、アナロジカルな発想
をして、コンテンツ革命で抜けている要素、抜けている要素の部品に
なりそうな要素みたいのを着想していくと何か意味あるのではないだろうか?

高校までの歴史の知識、生物の知識などを総動員して考えてほしい。

検索の技術を磨いて、ネット上から考える材料になりそうな資料をひっぱり
だして、自由にものを考え、考えた結果を記録して放出してほしい。

続きはまた別のだれかがきっと考えてくれるから。

ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』の思い出

舞台は1980年頃の鹿児島の上町のとある中学校。
上町というと旧市街みたいな感じで、ちょっと古い感じの
建物とコミュニティが残っている地区。

たぶん北埠頭もまだ埋め立てられなかった頃で、
名山町の海側には江戸時代くらい?に作られた感じの
水路みたいなのも残っていた。

私は中学校の国語の時間に複雑な気持ちをもっていた。
おそらく数学にも。

基本、ドリル学習や漢字の練習というのがキライだった。

春と秋に開かれる植木市のえびね屋さんに入り浸っていて、
山からトラックでごっそり持ってきた、えびねの中からおこずかい
でも買えそうで、かつ面白い花がないかと物色していた。

そのうち通信販売の世界を知り、鹿児島で育てられもしない、
ヒメホテイランやら台湾産のマツノハランなどに手を出したり
するのだけど、それは高校に入ってのことである。

そういう生の体験をもとにして、理科の成績はよかった。
外国への興味も育まれていたので社会科、特に地理の成績
もよかった。地理については中学、高校とも先生に恵まれた。
ほとんど成績を維持するのに苦労みたいなことを知らなかった。
努力と意識しないような持続的な努力があったのかもしれない。

当時、私の頭の中ではごはん科目とおかず科目という分け方が
あった。国数英はごはん科目で味がなく、無理して食べるものと
とらえていた。理科社会美術などはおかず科目で、娯楽の時間
だった。

さて、問題はごはん科目の国語の時間だ。中学2年と3年は福留
先生という方から習った。今考えてみると相当優秀で、情熱をかけて
国語の授業をされていたように思う。

読書感想文の課題のときは「SFと推理小説は受け付けません」と
おっしゃっていて私は反発していた。星新一と筒井康孝ばかり
読んでいたからだった。星新一の文章や筒井康孝の文章のどこが
いけないのか理解できなかった。たぶん時代が悪かったのだと思う。

授業は今考えると下準備を相当されていて、オーバーヘッドプロ
ジェクターを使ったり、グループ学習させたり、発表させたり、工夫
を凝らした授業だった。

その面白さは心の底ではわかっていたのだけど、私を文学に
目覚めさせることはなかった。すれ違ってしまった感じだ。
たぶんプリント等の機械的な学習で嫌気がさして、素直にうけと
れなかったのかもしれない。

宮沢賢治の授業では私は図書館行って大人用の読み物を読んで
「宮沢賢治は失敗者だ。」みたいなことを言って、「何か読んだわね。」
みたいなことを先生からいわれた。嫌な生徒でさえあったかもしれない。

さて、ながながと書いてしまったけど、『少年の日の思い出』だ。
ヤママユガは知らなかったけど、昆虫の知識もちょっとだけもってた
ので面白く読めた。でも、授業やっている最中に落書きみたいな感じ
で教科書の隅に考えたことをいろいろメモとりはじめたのを覚えている。

私はなぜかエーミールという主人公ではないほうのキャラクターが
気になった。表面的に読めばいけ好かない奴みたいな感じで、
クラスメートの大部分もそういう風に読んでいたのだけど、
「先生の息子」という記述があり、「教条主義」という言葉は知らなかった
けど、何かそういう風に育てられた結果、性格が歪んでしまったのでは
ないか、エーミールは実はかわいそうな奴なんだと私は結論した。
まわりのクラスメートはエーミールはかわいそうな奴という私の結論
は理解できなかった。

精神分析という言葉には足りないかもしれないけれど、中学生なりに
文章の表面には出ていないことを自力で推論した。先生にはこの結論
を伝えなかった。

あるとき福留先生は私の母にこう言った。

「あなたの息子さんはほかの人がもっていない何かを持っている。
でも大人になったとき、その何かがいい風に作用するか悪い風に
作用するかは私にもわからない。」

母からこの言葉を聞かされたときもちろん私にはこの言葉の意味
はわからなかった。でも、今考えると重い伏線にはなっていたかも
しれない。

P.S 教員室で何かの理由で福留先生から怒られる際こんなこと
言われた。

「あなたは理科や社会が好きみたいだけど、ものごとを考える基礎は
国語なのよ。言葉を通してひとはものを考えるのだから。」

でも、私にはこの言葉は伝わらなかった。中学生の私には抽象的
すぎて理解できなかった。もうちょっと噛み砕いて言ってもらったら
中学生の私にも届く言葉だったかもしれないけれど。だから大人に
なって、私が同じ言葉をだれかにいわないといけない場面になったら
違う言葉で噛んで含めるように伝えたい。それでも伝わらない言葉
になってしまうけど、大人になって、思い出す言葉にはなってくれるかも
しれないから。

2012年8月23日木曜日

死んだ言葉を生き返らせる

本の上の染みとしての文字、まさに死んだ言葉。
死んだ言葉を生き返らせるのは読者。
別に私の発想ではなく、昔の人がどこかに書いた言葉だ。

死んだ言葉が、あるいは死んだイメージが
生き生きと生命を持ち始めて
その人自身を変えていく、そのためには何が必要なのだろう?

やっぱり環境としてのその人自身の心が
豊かな環境になっていく過程にあることが
大事なのだろうと思う。

たとえ、境遇が貧しく、あるいは能力的に貧困で
荒れた大地みたいな状態にあるとしても、
鍬で一筋一筋大地を耕していくことは
無駄にはならないのだろう。

もしかしたら、そういった苦役さえ必要でなく、
自然農法のような感じで、
あるいは自然環境のように、
ひとりでに生態系は回っていくのかもしれない。

そのための準備としては
何が必要なのだろう?

何も人為を加えないこととはいいながら、
何かの順番というものはあるのだろう。

今の時点で好きなこと、というのは
無理をせずに自分の心の環境を豊かにするために
重要な要素であり、資源であるに違いない。

そこを掘り下げたり、広げたりといった
ことが必要なのだろう。

熱を帯びるためには影響を受ける
友人がそばにいたほうがいいのかも
しれないし、遠くの人であっても、
そういう人を探す努力は惜しまない
ほうがいいのかもしれない。

本人は努力と感じなくても、
傍目には努力に映ることがある。

そういった感じになるにはどう
もっていけばいいのだろうって単に
思っているだけでもいい。

少しずつヒントは集まってくる。

書庫の底の無縁仏

書庫の底には無縁仏のように、読み手を待っている
いくたの資料が堆積している。

そのことを知っているので表現者になりたいというよりも
先に読み手になりたいと思うばかりだ。

光を求める表現者ではなく、光をともす受け手でまずは
ありたい。

よき読み手かどうか知らないし、その資料に出会える
ための資格を持っているかどうかも定かではない。

読んでいるけど、出会ってはいない、そんな場面が
ほとんどだろうと思っている。

偉人の墓に片思いの花を手向ける、そんな感じかも
しれない。

その証拠に、ほとんどの出会いはゆきずりの出会いで
どんどん上書きされ、どんどん記憶の底に沈んでいく。

書庫の底の無縁仏のように、記憶の底にも無縁仏の
ようなイメージたちが多分群れをなしていることだろう。

私が書いた文章やその他の作品たちも、多分、ひととき
の間、何かを感じさせるか、それだけの力さえ持たない
かもしれないけれど、いずれにせよ、読み手の記憶の
底に沈んでいく。

それで十分なのだろうと私的には思う。

作り手には作り手のいろんな思いがあるかもしれない
けれど、一人歩きした作品には作品なりの思いが
あるに違いない。受け手に読み取られた作品の
イメージはまったく別の生き物だ。

だから、いわば記憶の底でうごめいているイメージ
たちに関しては作り手と受け手の間に生まれた子供
みたいなもので、そういったものの生態系として
ひとりひとりの精神は成り立っている。

そういう故郷から出たがっているイメージたちも
きっとあることだろう。外国旅行が簡単にできるように
なったように、今の時代は簡単にイメージたちも
旅ができる。

搭乗口からもうすぐ飛び立とうとしているイメージ。
どれだけの力がそのイメージにあるか。
私には知る由もない。

考える過程の記録

考える過程の記録って何か役立つのだろうか?
考える過程を記録に残すという発想に立つ人が意外と
少なくて、ネット上に”考える過程の記録”という文字列で
すらあんまりない。

役に立つかどうかは読み手に決めてもらうことにしよう。

「頭の中がどうなっているかわからない」って昔、ほかの
ひとから言われたことがあって、頭の中を忠実にあらわ
しているかどうかわからないけれど、ものを考える過程
みたいなものをそのまま打ち込んでいったら、何かヒント
になるのではと思ったりした。

文字を打っていないときもものを考えたりするので、
そこまで書くともっと忠実な記録になるかもしれない
けれど、ちょっと煩雑で読みにくいかもしれない。

そういえば、「意識の流れ」という手法が文学の世界
にあったけど、そんな感じなのかなあ。

意識の流れという手法を使った小説家の一人に
ヴァージニアウルフという人もいて、その人も
非定型精神病だったらしいことを、神谷美恵子という
精神科医が書いている。

そういう著名な文学者とわたしごときを比べても
仕方ないのだけど、自分の意識の流れに強い興味を
感じたり、それを記録に残そうという発想をしたり
するところには一患者として強い共感を感じる。

ものごとの考え方、発想の仕方にほかの人と
何か異質なところを感じ、あるいは異質だと
思ってないのにそういう風に指摘されたりして
とまどったり、複雑なことが起こっている。

ようするに誰だって思う「自分って誰なのだろう?」
というありふれた問いなのだけど、それをきっちり
考えるために記録に残そうとするところがちょっと
違うのかもしれない。

ちょっとした違い、それは些細な違いかもしれない
し、大きな違いかもしれない。ともかくも、どれほど
の違いなのかは私が何かを書き、読み手に読んで
もらって、それぞれ考えてもらうしかない。

そして、それぞれの読み手も読み手の世界をもって
いる。でも、それも記録してみないとはっきりしたこと
はわからない。自分でさえもわかってこない。
書くことで幻想が崩れたり、書くことそれ自体に意味
を感じなかったりするのかもしれない。

でも、それも一種の戸籍なのだ。自分がこの世に
存在したという存在証明。生きた証を残すこと。

でもそのことにどれほどの意味があるというのだろう。

生きた証を残したところで、書庫の底には無縁仏
のようにそういう資料が堆積している。単にごみと
いっては語弊があるだろうが整理に困る何やら
迷惑なものを後の人に残していくことになる。

だから、逆にこの世に自分のいた痕跡を残したく
ないという人もいらっしゃる。立つ鳥跡を濁さずという
わけである。それもわかる。

といいながらいろんなことを紙のうえでひととき
考えてみた。考える過程の記録になったかどうか
わからないけど、読み手としては何を感じただろう。

私の想像の外だけど、それぞれの人の考える過程の
多様性、あるいは画一性について考える材料に
なればと思っている。

アマチュアの発想 定石をしらないことの利点

プロの常識、それは各分野のプロはそれぞれにおける
定石を知っていることだろう。

アマチュアは独学したとしても、定石のどれかが抜ける。
あるいはほとんど定石について無知かもしれない。

とはいえアマチュアにしろ手を動かしているうちに、
素朴な定石のひとつやふたつは経験的に知ることもあるだろう。

基本的なことを知らないがゆえに、意図せずして
もう一つの道に進むこともあるかもしれない。

人通りの少ない道、もしかしたら、過去において踏み跡
はあったとしても忘れ去られた道。

そんな道を自分なりに歩いてすすむ。ときにはやぶこぎ
をしながら。

プロの知識も断片的には知っているかもしれない。
十全ではないにしろ、逆にその制限が絞り込みとして
機能しているかもしれない。

その不足を、アマチュアはこれまで蓄えた”自分の常識”から
埋め合わせようとする。ほかの分野の知識を移入することは
有効なことはなんとなく知っている。

あるいは完全に開き直って、絞り込むと称して、後追いになり
そうなプロの知識の学習はほどほどにして、使えそうな専門外
の知識を漁る。まさに邪道な世界。

人の命に係わるわけでもない分野ならそれもありだと思う。

効率性といえばはなはだ歩留りが悪い。原始時代を延々
続けることにもなりかねない。

しかし我慢して、踏み慣らされていない道を歩きとおせば
はるか未来にワープする抜け道もあるのではないか?
と希望の光をともしつつ不安な道をあるく。

未来にワープしても何もいいことはないのかもしれない
けれど、それはまた別の話。

2012年8月21日火曜日

本質は自然に浮かんでくる

本質を見抜く方法、というよりも
本質は自然に浮かんでくるような気がするのだけど、
どうしたらそういう都合のいい状態にもっていけるのだろう?

いろんなものを見たときに背後にあるパターンが自然に
浮かび上がってくるのだろうけど、、、

ものには表面と背後があるということを
まず経験的にあるいは知識として知っておかない
といけない。

数学みたいなのがそうなのだけど
具体的なものも抽象化していくと形が同じという
ことはよくあらわれる。

数学が難しいのなら
たとえでもいい。

日頃アナロジーを多用してものを考えている。

本を読むときもそのものを読んでいる場合もある
けどアナロジーとして読んでいて全然違うこと
考えているときも多い。

発明のこと考えるために料理の本、
それも料理の文化の本などを最近はよく
読んでいる。

それでも最初はイメージがつながらなくて
つながりそうだなぐらいのところで読むことは多い。

数学の本も数式よめないけど結構読む。
一般書、難しそうな本、大家の書いた
考え方の本など、、、、

たぶん完全には読めていないことはあきらか
だけど、ところどころ意味がわかりそうな箇所
がある。なんだかわからないけど深い意味が
ありそうだなとか、適用範囲広そうだなとか
思う箇所がある。

直接そういった読書が役にたっているか
どうかはっきりしないけど、
それらの断片が合わせ技一本のような
かたちでパターン形成に役立っている
ような感じがする。

人生を旅でたとえたり、、、
そのこと自体はありふれた人々の知恵
だと思うけど、そこで終わらさないで
具体的な旅の本を読んだりする。
ここでもたいがいはイメージはつながらない
で、つながりそうだな、たとえとしては
使えそうだけど何のたとえなのかは
わからないな、くらいの時が多いけど
そのままにしておく。

たぶんそれらの断片は無意識の底で
発酵して断片同志が化学反応おこしたり
して控えの役者みたいに自分の知らない
ところに隠れているのだろう。

何かをみたときに、もう記憶にも残っていない
控えの役者がひょっこり出てきて
パターンを呼び出してくれるように思う。

なんだかわけのわからない神秘的
な話になってしまったのだけど、
たぶんそんな感じだと思う。

P.S たぶんハウツー本みたいにすぐできる
というよりは年から年中そんなことをやって
たり、考えてたりして、地味な努力を根気強く
息長く続けてきた賜物だと思う。
ちりも積もれば山となるというか、
千里の道も一歩からというのか、、、、

ものを考えることの楽しさ

ものを考えることの楽しさを謳歌している。

今の時代にふつうの人として生まれ、
今の時代のふつうの人だからこそ考えられる
普通でないことも多々あるのではないかと思う。

単純に両親と比べるだけでいい。

もちろん両親が立派すぎる人もいるかもしれない
けれど、多くの人は両親よりものを学びやすい
環境で育ったはずである。

ものを学びやすい環境でそだったからこそ
考えることが可能になったこと、
そんなことも多々あるに違いない。

その自由は責任でもある。

だからこそ、自分の今の境遇で可能なことは
何かと自分に問いかけてみる。

せいぜいネットに考えたことを公開するくらい
しかできることがないかもと思う私でさえ、
その制約の中でできることはいっぱいある。

制約の中の可動域いっぱいにものを考え
記録することは意味があると思う。

クラウドな環境の中でクラウドの中の一人
としてものを考え、考えた結果を書きつける。

単純素朴なただそれだけのことでも
誰か未知の人にとっては何らかのヒントには
なるのかもしれない。

自由に筆を動かしている間に気づいたこと
それは世の中で初めて考え付いたアイデア
かもしれない。

検索はそんなチャンスが思ったよりもごろごろ
していることを教えてくれる。

アイデアはすべて出尽くしたなんてでたらめだ。
絵具がそろったに過ぎない。

出尽くしたのではなく、出そろったアイデアを
使って自由に自分の絵を描こう。

描いているうちに自分しか描けない絵も
あることに気づいてくる。

自分だけの組み合わせに気づき、
それらを融合させて、
今までにない何かを生み出そう。

それは苦しいことでもあるけど、
なぜ自分という人間が存在したか
存在する必要があったのかの
答えと何か関係があるかもしれないから。

P.S 「絵」というのはいつものアナロジー思考です。
すぐたとえでものを考えちゃう癖があるのです。
そして都合の悪いことに人様にもそのたとえがすぐ
わかるなんて思ってしまう。こういうときは大体
伝わっていないのですが、面接ではすぐ訂正でき
ますけど、文書上ではちゃんと説明しないと
不親切ですよね。

ことばの使用者として意識する

プログラミング言語とか勉強すると、文例みたいなものの
ありがたさが身に染みる。

いろんな人がいろんな発想でそのプログラミング言語を
使うのでその世界が豊かになることが確認できる。

おなじことは日本語そのものにもあてはまると思う。

私はいろんな日本語があっていいのだと思う。
そして、ネット上にもいろんな日本語の文例があった
ほうが世の中豊かになると思っている。

それぞれの人は日本語の使用者としてネット上に存在
している。その権利を行使したほうがいい。

とりあえず考えてみたことを書きつけてみる。

検索で誰かに届くかもしれない。

最初は平凡なことしか書けなかったり、
文章そのものが浮かばなかったりするけれど、
書き続けているうちに流暢になってくる。

言葉は使えば使うほど磨きがかかる。

それに書いたものが蓄積されてくると
それを通して自分のことがわかってくる。

第三者に見てもらうことで、自分が気づかなかった
自分のいいところを教えてもらうことも可能になる。

文章書いてみて初めて伝わることは意外と多い。

そして、できれば言葉を使うことの楽しさを多くの
人につたえるといいのかもしれない。

ことばとはある種の宗教である。ことば教というのが
あるのかもしれない。ことば教の信者が増えれば
ことば教の世界が豊かになる。豊かになった世界を
背景にして次の時代の指導者みたいな人もあらわれて
くる。

ひとりひとりの作る土壌が一番大事で基礎的なのだ
と思う。

知識の民主化と登山道の整備

たいがいの知識は順番をたどっていけば理解することは
できるものだと思っている。

たとえば猿を使った実験などで難しい課題を学習させる
とき、細かいステップにわけて学習させる。

そんな感じで、数学であろうと、理論物理であろうと、
コンピュータであろうと、細かいステップに分けていけば
人は理解できるものだと思う。

問題は登山道が整備されていない感じがすること。

といっても程度の問題で昔に比べるとさまざまな分野で
登山道は整備されているのかもしれない。

ちょっと脱線だけど、長い登山の過程で峠の茶屋に
相当する息抜きの休憩所があると楽しい。

そこで休憩しつつ、情報収集すれば、迷い道に入ったり
遭難したり、挫折したりというのは防げるのかもしれない。

峠の茶屋には話し好きな喫茶店のマスターみたいな
人がいて、数学の世界であれ、コンピュータの世界であれ、
あるいは理論物理、心理学、それぞれの山歩きの道すがら
必要なアドバイスをしていただけると助かる。

といっても私、別に理論物理の本が読めるわけでない。
せいぜい高橋康の本のまえがき読むくらい。
まえがきはまったく予備知識のない人にも読める。

数学、物理の本のまえがきはよく読む。
まえがき読むだけでも結構楽しい。

背伸びをしているという部分もあるにはあるけど、
数学の本のまえがきを読んでいると、
一見かけ離れた分野の話でも抽象化したりして、
構造的な部分を抜き出すと深い関係があったり
することがよくわかる。

だからはなっから、その話は範囲外とか専門外とか
いって視野の外に放り出すことは危険なことがわかる。

料理の世界の話も、数学の世界の話もやっていることは
似ているような気さえしてくる。食材に相当する材料が
あって、調理という操作をしてみたりして、材料を組み合わせて
料理を客に出すような。

要素の組み合わせと考えると結構近いのではないかと思う。

インド哲学とかあの時代にとても高度なことを考えている
とため息でるけど、素朴な材料を道具にしてものを考えている。

今の人の頭の中はおもちゃ箱で雑多なものが詰め込まれている。
それらのものを使ってものを考え、形にして、公開してみるのも
それなりに面白いのではないかと思う。

誰かがもうそんなことは考えているさなんて考えないで
とりあえずダメ元で書き出してみたら、部分的には面白い
着想とかあって誰かに使ってもらえるかもしれないから。

そういう流れをもっと太く、深くするためにも各分野の登山道は
整備すべきだと思う。インターネットで眺めるだけでも最低限
のことは学べることが大事だ。

他人に期待しないで、自分が登山道つくってみるのもいいの
かもしれない。単なる迷い道だったり、獣道への案内だったり
するかもしれないけど、そういう道のハイキングが好きな人も
奇特にもいらっしゃるかもしれないから。

2012年8月20日月曜日

現代のラマヌジャン

現代のラマヌジャン、といっても数学の話ではない。

インターネットによって知識はばらまかれた。

公開する機会も多くの人に与えられた。

資料を深く読み、深く考え、知識を組み合わせ、
自分の望む形で表現し、公開するということは
すでに多くの人にできる体制にある。

そんな時代背景の中からどんなものが生まれ出てくる
のだろうとちょっとだけ期待している。

アインシュタインだってデビュー前は一介の特許係だった
のだから、今の時代背景ならもっと多くの可能性があるはず
と単純素朴に思うのだ。

カフカだって下級役人、そういう天才と自分はまったく
関係ないと思っているかもしれないけれど、
カフカが知り得た以上のことを今の多くの人は知り、
頭の中にその知識を死蔵させているわけで、
現代の人は恵まれた環境の中にあぐらをかいている
ように思えてしまう。

街に図書館ひとつあるだけでも、
それを前提にして
可能なことは無数にあるような気がする
のだけど、私を含めて、恵まれた環境を
生かしきれず、日々悶々と暮らしていることが
なんとももどかしい。

誰が言ったか 何を言ったかと権威

誰が言ったか 何を言ったか の議論で抜けてるのは
その話題を判断するのに権威は必要かということ。

世の中権威に判断を仰ぐしかない話題と
自分の常識で判断できるものがある。

多分私の文章読んでいるような奇特な方は
自分の常識で選んでいるのだと思っている。

専門的な知識がなければ判定できないような難しいことは
あんまり書いていないからだ。

ネットで検索して文章を選択するのにいちいち誰がいったか
なんて考えていない。もちろんこれはアイデアについての
文章ではあるけれど、、、、

問題はラマヌジャンの公式集のようなものが送られてきたときに
ちゃんと判定できるハーディに相当する人が各方面に
ちゃんといるかということ。

知識がこれだけばらまかれた今、各分野にラマヌジャンに相当
する人が現れる確率は高い。

それを掬い上げられるだけの能力と度量をもった人材がいるのか
ちょっとだけ気にかかる。

インターネットとPCは知識の民主化のための
強力な武器だと思っている。

大きな流れとしては知識は民主化される方向にある
と思っている。むかしの人が投票を行うような感じで
今の人は自分の考えを発信できる。

一人一人の大衆には影響力がないとされてたのは
むかしの話と信じたい。

2012年8月19日日曜日

治療がうまくいく場合、いかない場合、ものの考え方の違い

治療がうまくいく場合、いかない場合、ものの考え方の違いって
何かあるのだろうか?

関連する要因があまりにも多すぎて、とても一般化しようがなさ
そうだ。

ものの考え方というよりも、運のめぐりあわせかもしれないし。

患者として見た場合、私のものの考え方ってどんな特徴がある
のだろう?

自分ではさっぱりわからない。

言葉を使って、自分の問題を考えたりする能力は比較的ある
ほうのように思える。

そのことは何か自分の予後に関係しているのだろうか?

たとえば自分をモニタリングして気分とかを自分で把握したり、
危なっかしいからもうそろそろ考え事はやめようとかいう判断は
できそうな感じがする。

神秘的な体験も一応の距離をとることができた。そこにしがみつかず、
無理な修行とかはじめたり、カルト宗教に入信したりとかはしなかった。

急性分裂病体験にしても、取り返しのつかない決定的な体験とか
人生の敗北とか考えなかった。

自分の人生は終わったとか、努力しても何にもならないとも思わなかった。

片一方で人生を取り返そうとか焦りもしなかった。自分なりの人生が
送ることができればいいと思った。

あまり他人とは比べなかった。薬を一生飲み続けなければならないこと
もそんなに重荷にはならなかった。結婚、就職その他不利益なことが
あることも受け入れられた。

でも、どうしてそういう風に考えることができたのだろう?

一つは家庭環境があまり競争を意識させるようにはできていなかった
のかもしれない。立身出世主義ではなかったこともよかったのかも。

そのことは家庭が本土的というよりはのんびりした奄美的な文化だった
のも大きくからんでいるようにしか思えない。

P.S 補足だけど、入眠時幻覚にも耐性があった。霊的にではなく、合理的に対処した。
霊が体の中に入ってくるような体験、夢魔その他あったけど、合理的に対処できた。

P.S 精神病の軽症化について、もちろん治療薬がよくなったこともあるけれど、教育、
マスコミなどによる知識の普及によって、人々の考え方がより合理的になったことが
関係しているのではないだろうか?神秘的な体験から距離をとるとか入眠時幻覚を
霊的に解釈しないとかはそういう文脈でしか考えられない。

暇だからできること

暇だからできること。

その一つは自分自身を内省し、内面を言語化して
記録して、人に伝えること。

忙しい人にはあんまりできそうのないことだ。

人に伝えるといっても、多くの人が興味もちそうな
テーマでもないし、偶然、検索で訪れた人に伝われば
それでいい。

自分の内面を言語化して何か助かる人はいるだろうか?

私の内面にいろんな人が興味を引きそうな異常な部分とか
奇妙な部分とかあまりなさそうだし、よくも悪くも健全な私の
内面をみても大して何かの理解が深まるかどうかも怪しい
ものだ。

でも、比較対象の一つくらいにはなるのかもしれない。
やっぱり資料としてはいろんなタイプの人の内面がわかった
ほうがいいにちがいない。

いろんな人の内面を比較してみてはっきりすることはきっと
あるだろう。

内面の比較のための資料をつくるためにはどんなことに注意
すればいいのだろう?

そもそも内面の比較のための資料をつくろうということを発想
する段階で異常なのかもしれないけれど、いろんな意味で大切
な資料なのではないかとも思う。

意識することによって、資料的価値から遠ざかるという恐れも
もちろんあるのだけど、内面描写というのは意識しないとできない
かもしれない。

内省しても内面なんてわからないという側面もそりゃあるだろう。
実際の内面と本人が主観的にとらえている内面は違うだろう。
それに本人に都合のいいことしか書きそうもないことも明らかだ。

私は事実を明らかにしたいなどとは思わない。
そうではなくて、何かを調べる際のヒントになりそうなものを提供したい。
そこがとっかかりになって、アンケート調査をしたり、質問項目を考え
たりするための予備になるような資料だ。

どうしても意図せざる側面も出てくるだろう。そこに期待したい。

内面の比較資料という発想はあまりなさそうだ。

いろんな国の人、地方の人の内面、職業の違い、そして、精神疾患
ごとの人の内面、比較対象はたくさんあるに違いない。もちろん時代
による違いなどもあるだろう。

そういった比較によって一体何がわかるのだろう?
大まかに言えば人間についてのなにがしかがわかるような気がする。

私個人にいえば、そういった資料を作ることで初めて、自分に対する
理解の第一歩を踏み出したことになる。

「いま、ここ」という時空の中に「私」という人間がいた存在証明にもなる。
これはまさに植物標本と同じ原則が適応される。

一つそんな記録があっても大して意味はないかもしれないけれど、
私の場合は400件記録はたまった。これだけでも何も記録しないよりは
見えてくるものも多いだろう。

似たような発想をする人は今後現れるのだろうか?
似たような発想に立つ人がいろんな地方や国、いろんな時代で現れれば
それらを比較することによって面白い事実もわかってくるだろう。

人力でそれらの記録を解析するのは骨が折れるに違いないけど今は
コンピュータの時代だ。それらから得られた知識を善用することを願い
つつ淡々と記録を続けよう。

とはいいながらやっぱりわかっていないのだと思う。

私は何かわかったようなことを書くことが多い。

でも、きっとそんなにわかっていない。

謙虚めかして書いているのではなく、
実際そうなのだと思う。

実際何か作業やらしてみても、
うまくいかないことが多いし、
あたまの中も整理がついていない
感じがする。

そのあたりのことをちゃんと自覚したうえで
淡々と息の長い努力を続けたい。

素朴に他人の忠告なら説教やら
受け入れている間は世間の人も
そんなに厳しい態度はとらない。

先生の立場に立とうとしないで、
生徒の立場に立ち続けている
限りそんなに大きな間違いは
起こさないで済むのかもしれない。

生徒の立場に留まりながら
それでも自分の考えたこと
自分なりにわかったことを
記録していきたい。

それはあくまでも
自分なりにではあるけど、
記録してみて初めて伝わること
も何かあるだろうから。

自分なりの最先端、
リアルタイムでの自分を
静かに記録しつづけたい。

悟りの相対化、あるいは俗物進化論

精神病になった人が「悟った」と思う体験をしている
ことは割とありふれているのかもしれない。

問題はそのあとだと思う。

悟りを確信していく方向に向かうか、
悟りを相対化する方向に向かうかである。

殺仏殺祖という言葉のように
プロの禅のお坊さんの世界でも偽の悟りを
警戒している。

その「悟り」が本物か偽物かというよりも、
相対化することに本質があるように思う。

相対化することで前に進める。

ただし、相対化することも相対化しないと
いけないのかもしれない。

相対化を絶対視し、相対化できていない人を
見下してはいけないのだ。

でも、そんなことをいっていると

相対化の相対化の相対化の、、、
と進んでしまう。

結果どうなるかというと単なる俗物の進化
なのだ。どこかで読んだ俗物の高級化なのである。

結局何かにこだわっているのかもしれない。

でもそれも進むと
こだわりにこだわりにこだわりに、、、
と進んでしまう。世の中難しい。

結局、永遠の初心者というところに還って
謙虚な気分を失わないように努力するのがいいの
だと思う。もっともこの路線にもこだわりだすと
単なる嫌味になってしまうけど、、、

ロマンチックな狂気は存在しないのか? 精神病と創造性

残念ながらこのテーマについて考えるための材料はあまりにも
少ない。

プロの精神科医みずからがそういうものは虚構の世界の中だけ
で一般患者は陳腐で地味なのだと書いている。

確かに何か表現らしきことができる患者というのはいわゆる
外れ値に相当する患者で、プロの精神科医でもそうそう観察する
機会に恵まれるものではないのかもしれない。

外国の脳科学者や精神科医が書いた文献なども、いわゆる
病跡学などが主で、名をなした表現者が残した資料などを
調べるケースが多い。

ある意味、精神病と創造性について具体的なことがわかって
くるのはこれからなのではないかと思っている。

それも、日本というフィールドは魅力的に見えてくる。

今の日本は、おたく文化に代表されるように、一般の人にも
表現技術がある程度いきわたって、ネット上に自由に公開
できる情報環境にある。

一般の人の中にも精神病の履歴があって、ある程度暇な
時間が確保されている人はいるのではないかと思う。

そういう人たちが勇気をもってネット上で自分の表現したもの
を公開するケースはこれからもどんどん増えてくるだろう。

そういうケースがある程度増えてきたところで初めて、精神病と
創造性について具体的に何か考えるための基礎資料がそろって
くるのではないかと思うのだ。

精神病の軽症化はどう影響するのだろうか?

慢性患者になったから面白い表現をするとは限らないと思っている。
むしろ病的体験を経たあと、社会にでて経験を得たり知識を得たり
しながら病的体験をとっかかりにして、自分の世界観を相対化したり
深めたり、広げたりということをするのは表現にとっていい影響を
与えるのではないかと思うのだ。

社会から隔離された故の独創性というのも確かにあるのかもしれない
けど、なんだか悲しく響く。

いわゆるアウトサイダーアートないしサイコティックアート的な路線でない
豊かな環境を背景に生まれた表現というのも成り立つのではないかと
思う。そういう表現が次の時代には増えていくだろうし、世界に先駆けて
現代の日本というフィールドからそういう表現が生まれて、あるいは芽を
出しつつあるのではないかと思う。

2012年8月18日土曜日

オリジナルなフレーズ、固有種、隔離

オリジナルなフレーズを育てるには、ある程度の隔離が
必要なのかもしれません。どの程度の隔離かはいろんな
場合があるでしょう。それこそ、ガラパゴス諸島並みの
海洋島的な環境、そして大陸縁辺の日本のような環境
いろいろです。あるいは台湾ー九州間みたいに間をつなぐ
道の島みたいなのがあるケースもあるかもしれません。

いずれにせよ、隔離された環境は固有種を生み出します。
時代遅れのものが生き残るといった場合の固有種かも
しれないし、空白地の多い環境の中で進化した突拍子の
ない固有種かもしれません。

海洋島といってももともとの種は鳥が運んで来たり、
流木の中に混じっていたりというわけで、ゼロから生命が
発生したわけではないのです。

隔離というのは情報交換の制限であって、絞られた流入口
から入ってきたアイデアの種を自分の環境の中で育種して
いく感じだと思います。

文化的にみても、生物相でも、地質の面でも日本列島は
面白いです。オリジナルなフレーズを生み出したいと
もがいている皆さん、頭の体操のような感じで日本を
ケーススタディとして考えてみるのはどうでしょう。
考える材料には結構恵まれていると思いますよ。

借り物の言葉で考えること

今の文章もそうだけど、昔の文章読み直すと借り物の言葉で必死になって
ものを考えているような感じがします。

借り物の言葉で考えることは恰好悪いことですけど、借り物の言葉で必死
になって言葉をこねくり回しているうちにオリジナルなフレーズが思わず
出てくることがあります。

そしてそのオリジナルなフレーズを道具にしてどんどん掘り下げていけば
私の大好きな空白地に行きつけるのかもしれません。

情報の空白地、あまり誰も考えたことのないようなテーマです。といっても
思弁するだけなので、容易推考、すなわち誰でも思いつくようなことしか
思いつけないのかもしれないのですが、一応自分で考え付くだけのことを
考え記録に残し、公開しておけば、続きは誰かが考えてくれるかもしれま
せん。

私は専門家のもつ方法論も資本もないわけですから、できることは非常
に限られています。でも、その限られた範囲の中でもできることは意外と
多いのではないかとも思うのです。専門家のもっていない重要な要素、
暇というものもたっぷりもっているわけですし。

借り物の言葉で考えることを恥としないで、たくさん考え、だんだんと
自分独自のオリジナルなフレーズをため込んで、少しずつ全体を
オリジナルな世界で置き換えていくという戦略は有望なような気が
します。

いわば植生の遷移みたいな感じで、最初の言葉やイメージの世界が
新たな世界に置き換わっていく感じです。

とするとスタートの世界は借り物の言葉の寄せ集めやらパッチワーク
でいいのかもしれませんし、実際のところ多くの人はそのような世界
から始めることを余儀なくされることだろうと思うのです。

大器晩成シナリオの模索

大器晩成シナリオの模索

昔から密かに野望を抱き、淡々と準備をすすめている
ことです。

でもどうやったらそれを成就できるのかはわかりません。

そして、大器晩成といってもどんな形がそうなのかも
わかりません。

メディアなどでスポットライトあたるような華やかな世界も
憧れるのですが、片一方で静かな生活みたいなのにも
憧れるのです。

陶淵明的な世界です。

ある程度財産とかないと無理な世界なのかも
しれませんけど、地味に暮らしながら、心だけは豊かに
というのもなかなか憧れちゃうのです。

今は「それから」の大助的な世界に住んでいます。
親に負担をかける生活です。

それができない人にとっては「ここ」も桃源郷なのかも
しれませんけど、ぬるま湯がだんだん冷えていく世界です。

大助は最後に病気になっちゃうような終わり方ですけど、
私の第二の人生は病気から始まっています。

遊び呆けたキリギリスは秋の夜長に必死にバイオリンの
練習をしています。

冬はアリの巣を回りながら演奏旅行生活などと甘い夢を
追っかけているのかもしれません。

秋の夜の月の光はやさしいようなでもなんだか冷たいような
光をそんなキリギリスに投げかけています。

キリギリスは最後はどうなっちゃうのでしょう?

私はすでに世間を一回泣かせています。
また泣かせて終わっても仕方のないことでしょう。

できれば大団円に終わらしたいのです。

どうやったら大団円に進むのか?
そのために今、何をすればいいのか模索している
ところです。

必ずしもサクセスストーリーの形をとらなくてもいいような
気がするのです。そんな物語は世間を迷わせてしまいます。

私の身の丈に合った小さな物語です。
小さな器の中に大きな宇宙を盛り込めたら最高だけど、
多分それも身の丈超えてるなと思います。

淡々と野望やら幻やら心に浮かんだこと、蜃気楼みたいな
ことを文字化しているけど、そのプロセス自体が桃源郷
なのかもしれません。

マッチ一本の炎の中に幸せな幻想をみることのできる、
そんな世界です。

軽度精神障碍者の世界

軽度精神障碍者の世界って本当に見えにくいと思う。
社会には結構な数、多分いて、その中には障碍のこと
を隠し、健常者に紛れて一般就労していらっしゃる方
も多いだろう。

外から見る分には障碍はわからない。

さらに本人的にも生活上で障碍で年中困っているか
どうかも人によりけりだと思う。

どういう困り方かも人によって違う。

たとえば私の困り方は時折危なっかしいなあと思うこと。
気持ち的にはハイテンション気味で、どんどん発想がわく。

でも、もうちょっと先には滝壺が待っていることは経験上
知っているから、アクセルふかしたいところを抑えて、
Uターンして日常意識の世界に帰ってこないといけない。

難しい本ばかり読んでいて、なんだかわかるような気が
して気分はうきうきしてくる。でも、のぼせ上ってくる気分
を抑えて、脳を休めてあげないといけない。

文章書くのもほどほどにして、反動がこないように注意
しないといけないなどなど。

のぼせ上っているときは「自分は天才だ。」などと身の丈
超えた思いがわいてくる。自我肥大だ。多分こういう気分
のときには言葉の端々に鼻持ちならない感じを発散させ
ているのだろう。

多分それは井の中の蛙、大海を知らずということだろうし、
上には上のある世界を知らないことだろうし、さらには
怖いもの知らずということなのかもしれない。

頭では分かっているのだけど、超越的な気分は自分を
迷いの道にいざなう。悟ったような気分の時こそ魔に
魅入られているに違いない。

修羅のごとく、のぼせ上った気分と戦っている。
修羅のごとくなどと書くところがまさにのぼせ上りを
反映している。

そういう風なところが私の世界における困りごとだ。

鼻持ちならない奴みたいなところで収まればいいけど、
増長漫の世界の果てには破滅が待っている。
自我の崩壊。哀れとしかいう言葉がない。

そこまでは私の場合はいかず、15年くらいにわたって
やり過ごしている。でも、やり過ごしたという実績は
さらなる増長漫を招いてしまう。

軽度精神障碍者というけれど、そういう闇を抱えている。

自分の標本って何だろう?

「自分の標本」と安易に書いたけど、どんなものをイメージ
しているのだろう?

そのことについて考えてみます。

形式は表題があって、日付が出ます。
ほとんど後日、編集、推敲することはないので
その日付が書いた日です。たまに例外もありますけども。

テーマとかはあまり考えず、自分の書きたいものを書いて
いきます。

それが溜まってきて、自分の標本になるのだろうか?

それはよく自分でもわかりません。

でも記録として残すか残さないかの選択をすれば
残すの選択をしました。

ほかの人にとってどんな意味をもつのかよくわかりません。

あるいはアンケート調査のように項目を埋めていくやりかた
がデータとしては役にたつのかもしれないけれど、
そういうデータ作っても本人は楽しくありません。

だから自由作文、つづり方文章みたいな形式で書いていきます。

文章の上達というのは特に目的にしていません。
だから起承転結などの文章構成上の原則もあんまり考えて
いません。文章がまとまろうがまとまらなかろうが、
自分がその時浮かんだそのままを、そのまま移していきます。

いわば寝椅子に座っての自由連想に近いのかもしれません。

自分で考えてみるとそのほうが思考のプロセスをそのまま
表現できるのではないかと思うのです。

それが読み手にどれだけの苦行を強いているのかわかりません
けど、他人の思考のプロセスと自分の思考のプロセスを比べて
みて、似ているな、似ていないななどとそれぞれの人が
感想もつのではないかと想像します。

ほかの人に見られることを前提とした文章には作為が
入り、ある種の虚構であって、自分の標本などにはなりえない
のではないか?

それも言えると思います。正直に自分を出しているか、
出しているように見えるかは受け手が判断すべきことです。

それでも言葉尻までは管理することはできないので、
どうしても本人は出てきてしまうでしょう。

無意識裡にこういう風に見られたいという欲望はわいてきて
それが文面に影響を与えることは否定できません。

社会に晒している以上「ここ」もペルソナであるのです。
見られることを前提にした表現。

でも、自分なりに誠実に表現したいと思っています。
もちろん赤裸々に表現できない部分も裏にはたっぷり
抱えていますけど。

自分を研究することの意味

「自分を研究して何か意味があるのか?」
「自分にそんなに興味があるのか?」
「お前はナルシストか?」

いろんな意見が飛んできそうなのですが、
実際にあれこれやってみて薄らとわかってきたのですが、
自分で自分のことを多分よくわかっていないのです。

ブログの文章も400件溜まってきて、
病気のことを書くというよりも、自分の標本を作る、
人格比較研究の資料をつくる、みたいなコンセプトだった
のでほとんど自分と何かしら関係のありそうなことばかり
書いています。

そうして、ある一定量溜まったところで、頭をかしげています。

自分というものがよくわかっていない。

自分の知らない自分がいるのではないか?

それは病気の時に垣間見る、それぞれの人を人形遣い
が糸引いて天空のかなたから操っているという人間観
と関係あるかもしれないし、人形遣いとは無意識の中に
潜むもう一人の自分なのかもしれません。

まったく、個人的にローカルに、個別なことを調べていた
のですが、ある意味普遍ともつながっていそうな感じかも
しれません。

本格的研究をして論文などの形式できちんとした文章を
残す力はありませんし、やろうとも思いません。

むしろ、患者なりにいろんなこと考えたことを淡々と
打ち込んでいるだけです。そんなことに意味はないの
かもしれないけれど、一定量溜まれば嫌でもなにか
意味を持ってくるのは植物標本室勤務で学んだことです。

2012年8月17日金曜日

何か書けば心の中が伝わるらしい

何か書くことによって心の中が伝わるらしいことを
感想でききました。

非定型精神病の平穏期にも呼吸をするように
小さな起伏があることが伝わったのかもしれません。

その人を見ていても伝わらない部分ってたぶんある
のかもしれないし、心の襞の部分を言葉にするの
もどうやら誰でもできるわけでもないみたいなので
私みたいなものが何か書いてみるのも何か意味
があるのかなと少し思い始めました。

原稿用紙に向かうことで、心の中を観察する態度
がうまれ、それを適切に表現する言葉を探し、
選択し、原稿用紙に打ち付けていきます。

心の中を当事者が観察したところで、実際の状態
とは違うことは脳科学などが明らかにしているとも
思うのですが、それでも、本人がどう捉えているの
か?どういう表現でそういう状態を捕まえているの
か?そういうことを考えるための材料にはなるの
かもしれないと思いながら書いています。

ブログの文章も400件くらい溜まりました。
ちょっとずつですが、当事者が何か書く、文章として
記録を残し、公開することの意味を感じはじめていま
す。

私は比較的軽度な患者でそういう私が何か書いた
ところで大した意味はないだろうって何度も思いま
した。それでも書ける能力がせっかくあるのだから
書いたほうがいいのだろうって思い直しています。

エンジンがかからないので、、

エンジンがかからないので今日は飛べません。
いつも飛んでいるのかどうかわからないけれど、
頭がシャキッとして言葉がどんどん出てくる日もあれば、
今日のような日もあります。

かならずしも、シャキッとした日がいい日なのかは疑問
なのですが、主観的には快適です。まあ、おだやかな
ハイテンションなので今のところはいいのでしょう。

贅沢なのかもしれませんけど、飛べない日がつらいです。
灰色です。どんよりしています。

飛べない日に原稿用紙に向かうのはキツイです。
でも、職業上そういう目に会う人は会うのでしょう。
それでも、あるラインを越えたものを生産するのが
プロなのでしょうから。キツそうな生活だと想像します。

病気で寝込みそうな俳優がそれでも舞台に出てきて、
上演中だけしっかりと完璧な演技をして、舞台のそで
に帰ってきてまた寝込むみたいな映像が流されるとき
があります。尊敬します。私にはとてもまねができません。
たぶん基本が違うのだと思います。

そういうことを書いてきたらエンジンがかかってきました(笑)

一瞬エンジンがかかり、また止まりました。今日はたぶんこういう
気流なのでしょう。飛べないといいつつもよたよたと飛んでいる
感じです。

どこを飛んでいるのでしょう?イメージの世界かな。
気分の高さみたいなのを比喩的にとらえているのでしょう。

飛べているときには離陸した感じがして、それなりに快適
なのです。でもどんどん大空に飛んでいくと何かと危険です。
そのへんはブレーキとアクセルを上手に使い分けて今の
ところは安全運転です。

母は家で私がぼーっとして何か考え込んでいると微妙に反応
します。母なりに何か気づいているのでしょう。「何を考えて
いるの?」とか「あんまり考え込まないでね。」とか言います。
積み上げられた難しそうな本とかが何か不安なサインに
なっているのかなあと思ったりします。

さてと、そろそろ着陸して、脳を休憩させようかな。

2012年8月16日木曜日

黒砂糖のような文章を書きたい

自分が目指す原石のような表現というのは別の
ことばでいうとどういうものなのだろう。

それは黒砂糖のような文章だ。

そういう発想になるのは祖先の出身が奄美だから
なのかもしれない。

黒砂糖のような文章とはどんなイメージなのだろう。
それはあまり精製されていなくて、不純物も多く含んだ
ものかもしれない。

それでも何かを発想したそのままの形に近いものを
文章の中に閉じ込めたものだ。

発想といってもその日の気分、そしてひらめき方には
ばらつきもあることだろうし、最終的製品として出荷する
には何か洗練されていない、田舎臭い味わいをもつもの
かもしれない。

それが自分の文章の味だと開き直るつもりはないけれども、
広いネットの中なのだから、そういう文章もあっていいの
だろうと思う。

そもそも黒砂糖のような文章なんてだれも考えたことは
なさそうだし、まさに地域的文脈が生み出したもののように
思える。そして、幾ばくかの普遍性もありそうな感じがするのだ。

不美人な文章の魅力

文章のうまいへた、でも、必死にその人が何かを
伝えようと思ったとき、その人のライフストーリー
のもつ全体重が表現の上にのしかかる。

舌足らずは舌足らずなりに言いたいことはもっている。
せっかく言葉をもっているのだから、何か伝えようとして
必死にもがく。せっかく言葉をもってこの世に生まれてきた
のだから。

映画に出てくる通行人だって本当は思いのたけを述べたい
に違いない。そして、教育によって知識を、情報革命によって
語るべき場を与えられた今、世の中の通行人たちが一斉に
しゃべりだす。

町内の一人が恥をかくのを承知でしゃべり始めたのを隣の人
がみて自分もしゃべりだす。多分今はそういう段階に近づいて
いる。

うまいへたなんかどうでもいい。声をもってさえいれば、
自分の声をもってさえいればすべてはオッケーなのだ。

多分そういう状況を、表面的には雲の上でせせら笑いながら
でも心の底では恐怖感を感じながら眺めているしかない人たち
も結構な数いらっしゃるに違いない。

雑草の群れの中に埋もれてしまう、そういう恐怖に違いない。

多分雑草の群れの中で生き抜く覚悟がないのだと思う。

言いたいことはそれだけか?
という声も聞こえてくる。美しい秩序を壊して何が嬉しいのか?
と声は続く。

検索という新しい秩序の中で新しいルールを巡って戦いがおこなわれて
いる。

古き秩序とともに土俵全体が沈んでいくのかもしれないし、
雑草の中から新しい優占種たちが生まれ、新しい植物相が展開していく
のかもしれない。

今はまだ何もはっきりしない。

アマチュアの文章のよさ

アマチュアの文章のよさって何だろう?
店先に並ぶ文章でできないことって
なにだろう?

その一つは化粧しない文章をそのまま
出すことなのかもしれないと思っている。

プロの常識の一つは文章は化粧しないと
伝わらないというものがある。

推敲して完璧な文章にしないと読み手には
伝わらないという常識である。

私はこれに対して若干の疑いがある。

物事には完成度という軸と
独創性という軸があると思う。

独創的なものがちらほら見えれば
それは川底に光る砂金のようにちらちら
目に入るのだと思う。

自分のつくったものの中の金の含有量を
意識的にあげていけばいいのだと思う。

あるいは自分の中に眠る金の鉱脈を探す
ことでもあると思う。

金は密度の詰まった粒子だ。与えられた知識や
情報を道具にして真摯に考えていけば
だんだんと密度は詰まってくる。

有名人でなかったりするので暇もそれなりに
あるはずだ。その暇な時間を大切にする。
それしかないのだから。

自分の全体重をかけてものごとを考えていけば
何か見つかるはずだ。それだけのものは今の時代
で自分なりにアンテナを広げていれば手にはいる。

そしてまた自分の考えたこと、かき集めた知識などが
核になってさらなる情報や知識を呼び寄せる。

情報のチャンネルは多様化して、各人の持っている
情報の組み合わせはそれぞれユニークなものに違いない。
そこを突き詰めると自分にしか書けないもの、表現できない
ものもきっとあるはずなのだ。

水や空気のようなこと、現代日本の情報環境の中で生活
していること、地方であれ情報は一応行きわたっていること、
こういう性質を上手に使い、意識的にものを考えていくと
普通の人でもきっと面白いことができるのだと思う。

逆説的な意味でのアマチュアのよさ、そういうものも現代
の日本にはあるにちがいない。むしろ現代の日本で面白い
のは爛熟化したプロの世界にあるのではなく、アマチュアの
世界にあるのだと信じたい。

要するに床屋談義の現代版なのだろうか?

一昔だって新聞によって一通りの情報はばら撒かれていた
し、ばら撒かれた情報を頼りにもっともらしく多くの人が天下国家を
語っていた。

文化人はこういうのを馬鹿にするけれど、一応筋の通った
もっともらしいことを考えられるというのはすごいことだと
思う。

今の人は今の人なりのやり方である種似通ったことを行う。
床屋で話されたことの多くはその場限りで消え去ってしまうけれど、
今は遠くまで伝えることができる。

この文章がまさにそうだけど、カラオケのような文章に違いない。
カラオケと違うことは丸々のコピーではなくて、パッチワークに
少し自分なりのアレンジを加えたようなスタイルであることだ。

ブレンドがうまくいったら、独創的な香りが立ち込めてくる。
もっとも出来上がったものは荒茶のようなもので、誰かにとっての
原材料にしか過ぎないものではあるかもしれないけれど、、、
さすがにこのブログ全体からごっそり持って行って自分のものと
してしまう強者はいないだろう。それだけの価値があるかも疑問
だけど。

現代社会ノカフカ的状況ヲ愉シム

誰に対する批判でもなく、単純に世の中あまりにも複雑になって
しまった。

でも、複雑になってしまったのはいまさらでなく、単にフラクタル次元
が右肩上がりに上がっていっただけのこと。

アシュールバニパルが粘土板集めて図書館つくった時点でもうすべて
は読み切れなくなってしまっていたわけだし、あとは溢れ出す一方。

読み切れないという意味では変わらない。


多分、地理情報が地名辞典のような形で提供されていたら誰も日本全体
について理解ができないかもしれない。

編集者たちが日本地図という形で纏めてくれたおかげで、日本全体をおぼろげ
ながら把握した感じがするということなのだろう。

世の中の全体像は図書館の案内図のような形でしか理解できないのかもしれない。
あるいは総合大学の案内図かもしれないけれど、、、

多分整理棚にはなったかもしれないけれど、ネットワークという視点でみると
インターネットの地図みたいなもので人間の理解を超えるものなのかもしれない。
http://www.visualcomplexity.com/vc/project_details.cfm?id=70&index=10&domain=Internet

知識の世界の地図もKnowledge Networkという形で今や提供されているけれど、どれも
同じに見えてしまう。
http://www.visualcomplexity.com/vc/index.cfm?domain=Knowledge%20Networks

未来の教室の中では3次元の仮想空間の中にアクセスして、複雑ネットワークの
穴埋め問題とかさせられるとしたら嫌だなと思う。このノードは何でしょうみたいな。

検索の仕組みなども情報爆発に対する対策のようなものとして考えられたのかも
しれないと思うのだけど、高速道路つくって渋滞ますます盛んみたいな状況になっている。

おまけに知識はまき散らされて、私のようなものでもこのくらいのことが書ける状況になって
いる。たかが「このくらい」なのかもしれないけれど、されどの部分もあると思う。

本気で悪用を考えたらやっかいなのかもしれない。今や一般の人々はよくも悪くも
それだけのパワーを秘めている。

まったくいろんなことがやりにくくなったのかもしれない。
うまく善用できたら、震災後の束の間のように何かすごいことができるかもしれない。

世の中全体からディストピア的な雰囲気が立ち込めるけど、希望のほうを信じたい。
個人の力が潜在的には大きくなったことを肯定的にとらえたい。




2012年8月15日水曜日

学習言語の生活言語化

学習言語の生活言語化のことを考えてみようと思います。
 "学習言語" "生活言語" と検索してみるといろいろ出てくる
と思います。

学習言語が教室の中のことばで終わらないで生活の中で
使用することばになるためにはそのことばが使われる場が
必要だと思います。

逆に使われる場が確保できれば、自分なりに学習言語を
生活の中のことばとして使いこなすことは可能な感じがします。

研究室やゼミという場は学部生時代に習得したことばを
使う場としてあるのではないかと想像します。でも研究室に
いたのはもう昔の話なので本当かどうかはあんまり自信は
ありません。

研究室時代も遠い昔となった今、学習言語を生活言語として
使う場はどうやって確保すればいいのでしょう?

単純に、自分の使いたいことばに近いことばをもった相手を
探し出せばいいのだと思います。

そんな相手がいなければどうすればいいのか?
確かに興味の範囲が広くなれば、自分の興味と同じ組み合わせ
をもった他人に会うことは叶わなくなります。

ネット上に文章を晒すのは誰か未知の他人のもとに届けばいい
と思うからかもしれません。

2012年8月13日月曜日

「永遠の少年」のソフトランディングについて

「永遠の少年」はユングの本の中に出てくる元型の一つです。

ひらたくいえば大人になりきれない、子供のような大人という
感じです。まあ、ネット上にも説明文がいろいろあるので検索
してみてください。

ここで考えたいのは「永遠の少年」のソフトランディングです。
どうやって現実世界で生活を成り立たせるか、それができたら
重要問題の一つは解決です。

でもそこは私もわからないので、ソフトランディングを成就させる
ための準備みたいなことを考えたいです。

なぜなら「永遠の少年」の人は無為に陥りやすいからです。

あるいは私みたいに「あれもこれも」の罠に陥りやすいし、
もしかしたら「あれもこれも」の罠に落ちてしまった時点を
出発点にしながら問題を考えていかないといけないように
よぎなくされている状態かもしれません。

表現活動というのは誘惑する何かです。でも、自分が好きなことで
生活を成り立たせるためには好きでないこともやらない
といけません。本当に好きなことだけやって生活がなりたって
いるひとはそんなにたくさんいないと思います。

だからとりあえず趣味という形で好きなことをやります。

先回りして書くと、生活は地味な仕事で成り立たせながら
好きなことを大事にして、人生を淡々と生きていく
多分それが正解なのだと思います。

でも、人間には欲望があります。
地味な仕事で他者の夢を実現するために
使っている時間を自分への投資のために使いたい、
そういう気持ちがもたげてくるのだと思います。

そこが大人になりきれない、子供のような大人たる
部分だと思うのですが、今の世の中見渡すと若干の
真理も含んでいると思います。

それでも世の中そういうものなんだと思っている
人も多いと思います。

「のたれ死にしてしまえ。餓死してしまえ。」

そういう声も聞こえてきそうなのですが、
問題をはっきりさせるためにもうちょっと我慢して
考えてみようと思います。

さらに先回りして考えると表現活動で生活が
万が一なりたったとしても自由は訪れない、
ある種の苦さはどうやってもついてまわる、
ユートピアなんてどこにもないのだとなります。

多分これも真理だし、
情報過多な今では行動するまえに
考える材料だけは与えられて
早熟な耳年増状態になってしまいます。

行動してみると「実際の生活」はまったく
違うらしいこともネットという人生の地図の
上で思いをめぐらしているだけでわかります。

地図の上で「旅行計画」ばかり思い巡らせる
ようなこういう生活をある意味積極的にとらえ直す
にはどうすればいいのでしょう。

答えはでてきませんけど、
「永遠の少年」問題を考えるための材料にはなった
かもしれないです。

能力の神秘化は嫌い、でも

才能あるかどうかわからない
海のものとも山のものとも知れぬ私が
吠えても仕方のないことですが、
才能という言い方で能力を神秘化するのは嫌いです。

多分梯子を一段一段登ることでズルはしていない
と思うのです。

なら神秘体験みたいなものはどうなのか?
私の病気のときの体験を神秘体験といって
いいのかどうか私にはわかりかねます。
苦しいストレスが破綻点超えたところで
起こる創発現象、創発という言い方も
立場によっては神秘主義あつかいされないとも
限らない、気持ち悪い表現なのですが、
自分なりに脱神秘化した表現に書き改めると
創発という表現しか使えないのです。
だから、神秘化するのは嫌いと書いたそうそう
変な書き方になってしまうのは嫌なのですが、
精神病理学の本読んでも素人の私が何か
書くのは難しそうなのでこのへんでやめて
おきます。


やっぱり才能というのは神秘的なのか
というため息ともつかないものが
聞こえてきそうなのが少し嫌なのですが、
梯子を一段一段登っていくということも
とても大事なことのように思うのです。

多分職人さんもこの道を通ってきていると
想像するのです。

30前後の頃に離島航路の中で乗り合わせた
おじさんに人生相談してもらってその折に

「道は狭くしなさい。分野を絞りなさい。」と
ありがたい忠告を受けました。

私はその教えにしたがえなくて、下手の横好きで
あれもこれもという道を選んでしまいました。
典型的なアブハチとらずの道です。

その道を進んで今,40代半ばにあっても
何者でもない状態が継続し、
食えない状態が続いているので
おじさんの忠告は重く響いているのかもしれ
ません。

アブハチとらずになった他
頭の中もカオス状態でまとまりません。

いいことといえば、こうやって雑多なイメージの
断片が結びあわさって沸くときはアイデアとか
文章が湧き出すこと。でもその一見きらきらした
印象に幻惑されてこの道に進むと遭難するかも
しれません。「永遠の少年」という用語をしっかり
と調べて見てくださいね。

P・S 心の底に秘めている傲慢さが吹き出してきた
まったくもって嫌な文章です。臭み丸出しです。
私はこういう嫌な部分を底にもっています。
自分ではどうすることもできず、もてあましています。
さらに屈折したことに表向き謙虚に見せているのです。
完全に謙虚な人に化けられたらそれはそれでいいのか
もしれませんけど、化け方の下手な狐か狸なので
尻尾がポロリです。

2012年8月12日日曜日

野生化した言葉の面白さ

野生化した言葉の面白さ

一般書などを通して専門家の世界で使われていた用語が
一般の世界に漏れ出し、多少通俗的にそれぞれの立場で
用語を使ってみる。

専門家はそれに対して眉をひそめる場合が多いのだけど、
それはそれで野生化した言葉の面白さがあるのではないか
などと思ったりするのだ。

そもそも眉をひそめる専門家だって、専門以外の分野を語る
とき野生化した言葉を使っているではないか、それもよく思う
ことだ。

厳密に正しい言葉遣いを求めるのならそもそも言葉とはほとんど
用をなさないことだろう。そんな世界は数学の世界でしかありえない
ように思える。

少なくとも自然言語の世界では言葉の使い方にはある程度の
ゆれがあるのが当たり前だ。ゆれのある状態を前提として
日々の言語生活は送られている。

そして、言葉の使用にしても使用環境の中心付近と周辺部と
あるだろう。周辺部になるにしたがって意味のゆれ、変異の幅
も大きくなっていくことだろう。

それは仕方のないことだ。そして新たな環境の中で、新たな文脈
の中で言葉は使用されていく。それでも辞書、事典などを使うことによって
より正しい使用というのはできるかもしれない。

その一方で参考図書が与えられても正しく解釈できないことも
また発生するケースもあることだろう。直接マンツーマンで質疑応答
することを通してでしか伝わらない微妙なニュアンスの言葉というのも
あることだろう。

野生の言葉とはそういう正統的な手続きを経ていない外道な、あるいは
異端な言葉なのかもしれない。それは言葉の堕落したあり方なのかも
しれない。

それも含めたうえで野生化した言葉には野生化した言葉なりの面白さ
があるような気がするのだ。

野生化した言葉を野生化したなりに使いこなし、野生化したテキストを
生み出す。そういった野生化したテキストはネット上に溢れかえっている。

使いこなされた言葉なのでそれなりに生命力は旺盛である。
多くの人に言葉は使われることでその言葉の、その言い回しの
潜在的な側面が暴き出される。文字列検索してみるとそのことは
すぐにでも検証できる。

重要なテキストは子や孫のテキストを生み出す親になる。
もはや全体の把握はできないけれど、野生化した言葉の進化を
追っかけていくと面白い事実が発見できるかもしれない。

熱帯雨林のようなネットの世界で日々驚異の世界が深化している。

言葉を着こなす、着倒す

言葉の着こなしについて、あるいは言葉を着倒すことについて。

背広が歩いているという表現もあるけど、これの言葉版ってあるの
だろうか?そもそも自分に似合う言葉ってどんなものなのだろう?

似合わない言葉を使うとなんとなく違和感を感じてしまう。
それでも我慢して使っているうちにだんだんしっくりしてくるものなのか?

そのあたりがどうもよくわからない。

からといって身をわきまえて、社会的身分に合った言葉を使うべきなのか?
社会的身分というよりは内面から伝わってくる魂の重さなのだろうか?

いずれにしてもそのときの自分の言葉の力に合った整合性のある言葉の
選択ってありそうだ。そのときの自分の言葉の力からみてちぐはぐでない
言い回しの選択。

一方、着倒すという立場から見ると、言葉は使うことによってより身になじんで
くる、正しい使い方がわかってくるという考え方もある。

社会的身分とは独立したその人のもつ言葉そのものの力というものはありそう
な感じがする。そういう言葉は社会的身分とは関係なく機能する。効力がある。

日本では何を言っているかよりも誰が言っているかで判断する人が多い。
誰が言っているかでしか判断できない分野はもちろんある。これは事実に
関することだ。一方アイデアの面白さなどは何を言っているかで判断できる
場合も多い。眼力がある人なら多分判断できる。

眼力は多くのものに目を晒しているうちに嫌でも身についてくる。

意外と眼力が身に付くことで使える言葉のレベルも変わってくるのかも
しれない。眼力がつくと表現された言葉の違和感などは分かってくる。
そうすると自分の言葉づかいにも気を遣うようになる。

ファッションで考えてみてもそうだ。服を評価選択できるということと
似合う服を身に着けることができることは明らかに関係がある。

そういうわけで言葉を着倒すというやりかたにしても、有効射程距離みたい
なものがあって、なんとか無理すれば着倒すことができるという範囲みたい
なものがあるのかもしれない。無理なくマイルストーンを築くことで、
違和感をそれほど感じることなく、着こなしのレベルも上がっていくことだろう。
そのあたりもファッションと並行関係にあるに違いない。

自分なりのレベルで

自分なりのレベルで分かり、
自分なりのレベルで使えればいいと思っています。

これが私の知識や言葉に対する態度です。

プログラミングや数学が典型なのですが、
難しくしようとすればどこまでも難しくなる一方、
初歩の初歩レベルは恐ろしく敷居が低いのです。

憧れの対象にして、額縁にでも飾るくらいなら
自分なりのレベルで使いこなしたほうがいいと
思うのです。

これは考えること=哲学なども同じだと思います。

2012年8月11日土曜日

手に入る限りの手立てをヒントにしながら

私は他人の時間泥棒します。
質問ぜめします。
ライフストーリーを根ほり葉ほり聞きます。

でも、それはワイドショー的な関心でもなく、
質問の形をとった他者への攻撃でもなく、
さびしんぼうでもありません。

自分が生きていくためのヒントが欲しいからです。

直接はヒントにならなくても、後々効いてくる話とか
もあるような気もしますし、自分の中の世界像の細部
をはっきりさせてくれる情報だったりするのです。

はっきりとはわからないのですが、自分の中に
図書館の棚に相当するような知識の整理棚がある
ような感じがするのです。

生物学、特に植物学は衣食住ずべてに関係していて、
植物がすべての生活を支えていた古代では
地域の植物知識のセンターであったシャーマンに
その地域全体の情報が集積されていたような
気がするのです。

「おばあさんが一人死ぬと図書館が一つ失われる。」
オスマンサンコンさんがアフリカでの知識のありかた
を説明するのに使った言葉なのですが、おばあさんの
知識の基礎になっていたのは植物知識に違いないと
勝手に私は想像しています。

植物学がすべてを支えているとは現在の社会はいえない
にしても、生活の基本にあるのはやはり衣食住です。
たぶん古き構造は今でも有効であって、そういうことが
私をすべての知識に関心を向かせる秘密のような
気がします。

前にも書いたとおり、私の歩いている道はふみならされた
道ではなく、けもの道です。
けもの道をあるくためには使えるものは何でも使うという
態度は必要です。その使えるもの、生活のためのヒント
を得るためにたまたま会った人との話し合いの場を
大切にしながら、私の知らないことを教えてもらう
ということ長いこと実践しています。

本当はメモを取ることも必要だったかもしれないし、
メモをとってさえおけばもうちょっと違った人生も
ありえたかもしれないとも思うのですが、
取材したものをそのままネタとして使うというのは
他人の人生の搾取のような感じがして私は
そうしませんでした。忘れるにまかせてしまいました。

でもいったん忘れることで、また何か作るときに
前聞いた言葉が復活するのを感じます。
前聞いたり読んだりした言葉の端々を利用しながら
言葉を紡ぎだしていることは明らかです。

整理箱にきちんと整理されているような感じもする
一方、私の知識はぐちゃぐちゃしたゴミ屋敷みたい
な感じもします。話し出せば出てくるけれど、話
ながら交通整理している感じなのです。

言葉はひとたび吹き出すとどんどん溢れてきます。
そこには苦労というものを知りません。吹き出す言葉
を推敲なしに並べていくだけです。支離滅裂かもしれ
ませんけど、支離滅裂なりに言葉の力強さみたいな
ものもあるかもしれないです。無意識のうちに何か
訴えかけるような力ももしかしたらあるかもしれないと
勝手に思っています。

生活の中から紡ぎだされた言葉

生活の中から紡ぎだされた言葉、それはそれで
いいのですが、問題はその生活とやらの内容です。

私は「それから」の大助の平成版で、いわゆるニート
みたいなものです。

ただし、ニートは教育も職業もやっていないということ
ですから、生活全体が教育漬けみたいな私はニートから
外れるかもしれません。

受験生並みに勉強だけはしているような生活をもう
20年近く続けています。その間ほとんど、テレビとか
ゲームなどの娯楽に関することをやっていません。

あえて言えば、創造活動みたいなものが娯楽という
ことなのでしょうか。でも、自分でいうのも何なのですが
求道者的な生真面目さがそこにはあるような気がします。

求道者的な生き方には密かな憧れがあります。
厳しい生き方は私にはできませんけど、そこは病気を
得てその後の人生を私なりにもがいているというところ
で許してくれませんでしょうか。

いわば海図のないところ、教科書もマニュアルもない
世界でゆるいなりに探検しているのです。
私なりに目標物がない砂漠のような世界を歩き回って
測量しているような感じなのです。

求道者の世界、それも厳しい修行の世界、確かにそれは
ある種の憧れの世界でもありますが、同時に踏みならされた
道でもあるような気がするのです。私の歩いている道は
せいぜいのところけもの道です。遭難する危険は多いに
あるし、遭難しなくても人生を棒に振る確率は高いのです。

でも、ノーヒントで、いえ、自分の身の回りで手に入る限りの
手立てをヒントにしながら、自分の問題を自分の手でひとつ
ひとつ解いていくのは醍醐味です。解けなくてもいいと思い
さえします。人生というのは数学の試験のようなもので、
部分点もらえる世界だと思うのです。計算用紙に思考の
過程を描いて残しておきさえすれば、後の人にとっての
踏み跡になるわけで、私が遭難したり、人生棒に振ったと
しても、あとの人は正しき道を探してくれるような気が
するのです、まさに俺の屍を越えてゆけみたいな感じですね。

新陳代謝がちゃんと機能してないのよ

「新陳代謝がちゃんと機能していないのよ」


バス停で待っていて、近くで並んでたおばちゃん同志の会話の
中から拾いました。

「新陳代謝」、そして「機能」という用語をおばちゃんなりに
使いこなしている感じがして印象深かったです。

あくまで通俗的な言葉の使い方かもしれないし、健康番組を
通して医学知識がばらまかれている昨今では特に珍しい一コマ
というわけでもないのかもしれません。

そして、誰かから見たときの私の言葉づかいでもあるなあと
思ったのです。

教育やらマスコミやらネットで知識が一般に普及して、
そのことが前提になって知識や言葉をそれぞれの人が
それぞれなりの立場で使いこなしているような世界です。

あくまでそれは通俗的な世界であるのかもしれません。

しかしある意味、野生化した言葉の世界のおもしろさも
そこにはあるわけであって、まったくの意味で生活の中から
紡ぎだされた言葉の世界でもあります。

たぶん生活を持ち出されると困る立場の人もいるかと思います。
アカデミックな用語を使うのは仕事の世界、職場の世界であって
職場を離れ、生活の場に立ったとき、生活の世界と仕事の世界が
うまく統合されているかというとそうではない人も多いのではないか
と想像しちゃうのです。

ちなみに精神病者としての私は24時間精神病者です。軽度なので
症状を感じないときは多いし、アイデンティティとしてもあいまいです。
でも、そのあいまいなアイデンティテイは24時間、365日適用されます。

職場の内、外みたいな区分けはないのです。

ある意味ペルソナがべったりと顔の筋肉と癒着した状態であって、
始末に悪いものかもしれません。おまけに、そのペルソナは病気だと
自分で思い込んで、自分で長年に渡ってつくりあげたものなのかも
しれないのです。ある意味保護してもらいたいというずるさなのかも
しれませんし、卑怯にも精神病という避難所、すなわちアジールに
逃げ込んでいるのかもしれません。それは自分でもはっきりとは
わかりません。

でも、ハイテンションになったとき、アクセル一つ踏み込んだだけで
滝壺に落ちてしまうような危険な感じを肌で感じまして、かならずしも
詐病という手段によって、精神病というアジールに逃げ込んでいる
ずるい人というわけでもないのではないかと思うのです。でもそれは
自分でもよくわからないのです。

結局、ずるい人が学んだ精神医学や心理学の知識を悪用して、
病人に成りすましているのか、真正なる精神病者が精神医学や
心理学の知識を善用して、難しいバランスとりをなんとかかんとか
成り立たせているのかは藪の中、自分でもわからないために
記録を残しているのです。

自分で自分の姿が、自分の言葉や表現が他者にどう映るかは
想像できません。どういう風に見せかけようとかいう器用なこと
は私にはできませんし、私にできることはありのままのそのときの
心境をこうやって書き綴っていくことだけです。結局そのほうが
おもしろいと思うし、もうずいぶん長いこと時間を拝借している
読み手の方々への誠意だと思うのです。

2012年8月5日日曜日

凄い一日だった。

うまく言語化できない。あの空間は一体何だったのだろう?
無我夢中だった。いろんな人に迷惑かけたかもしれなかった
けど、とてつもなく劇的な空間だった。たぶんあの感触は
生涯忘れないだろう。そして、あの刺激をまた求め続ける
ような気がする。

以上、SL24のどくしょ会の感想。

rlのワークショップは自分の知らない世界もあるものだなあと
いう感じで観客に近かった。

SLの場合は舞台をうまくつくりあげると全く非日常的な空間が
できそうな感じがする。結果的には失敗だったような気もする
のだけど、何か新しい世界が私にはちょっとだけ垣間見れた。

梢の高みに飛ぶイシガケチョウのように

梢の高みに飛ぶイシガケチョウのように
乱舞するイメージたちはつかまえられない。

私のことはほったらかして、
優雅にみえない時空を飛び回っている。

いと高きところにホザンナ

聖書の言葉で美しいイメージのひとつ。

高嶺の花という言葉みたいに
自分の手が届きようのない存在に
憧れる。

私にとっての高嶺の花は
コマクサだった。

南九州で育った少年時代の私は
写真で見る高山植物の世界に憧れた。

想像することしかできないもの
行きたくても行けないところ
そういうものに憧れた。

大人になって思うことは
想像することができたこと
すぐにはそれは手に入らなかったこと
こそが幸せだったこと。

少年のころの想像の中のイメージは
今となっては宝石みたいなものだ。

なんとかそれを掘り出したい。
自分の中にあるはずの原石みたいな
イメージを掘り出したい。

露頭をみつけ、地下へ地下へと
坑道を掘っていきたい。

原種が生まれる処

原種というものはそもそも人間が作り出したもので
なく野生の生き物だ。

ところで毎度のことだけど、たとえ話だ。ひとつ前の
文章読まないと何の比喩かわからないかもしれない。
というかこれでわかってしまう人は危ない。

原種、交配親としての何かの表現。
野生の表現って何だろう。

雑草のように育ってしまった表現のあり方。
雑草というと都会の雑草みたいな感じだけど、
もっと豊かな生態系のもとではぐくまれた表現たち
というものもあるにはあるだろう。

インターネットは確かに生態系のような複雑さを
すでにもっている。人の織り成す生態系。

仮想世界、セカンドライフはまだ極相には達して
いない。むしろ荒地から一歩一歩と森になろうと
模索している生態系のように私には見える。

森になるための紆余曲折。そういった背景の中で
私の表現も育っている。

自分なりのニッチを見つけ出し、ほかの種と相互
作用し、共生し、あるいは潜在的競合関係を
もちながら種を進化させている。

自分の内側にもっているいろんな可能性を模索
しながら、触手をのばして、いろんなものを取り込み
消化し、自分の表現として出力している。

あらたな世界に入るための鍵や扉を探すために
今日も見えない迷路をうろうろする。

イメージたちの織り成す見えない万華鏡。
不可視の精神の世界で新しいイメージに出会いたくて
苦労を重ねる。

不可視の世界で生成し、乱舞する生きたイメージたち。

虫取り籠を持ち歩き、捕虫網をばたばたさせる
子供のような私。

梢の高みに飛ぶイシガケチョウのように
私の力ではつかまえられないけれど、
優雅にイメージたちは飛んでいる。

やっぱり捕まえられない私。

P.S 意味不明でぶっとんでる文章だけど
舌足らずなりに何かが伝わるかもしれないので
消さないで残しておきます。

独創性と完成度を秤にかける

最初から独創性と完成度を両立させようとしないほうが
いいのじゃないのかなあと思う。

独創性といっても要素は既存のものの組み合わせに
違いない。要素を部品ととらえると、部品を自作すると
より独創的な感じに見えてくる。

でも、模倣すべきモデルがないのだから、多分プリミティブ
な仕上がりになるのは我慢しないといけない。

できあがったものが、わずかなりとも存在感がありそうな
ものであれば、ほかの誰かがより洗練された次なるもの
を作ってくれそうな感じがする。

いわば種芋を品種改良していく感じ。遠くの縁の原種を
掛け合わせて、というかもしかしたら原種そのものを
作り出している感じだ。交配親を作る感じ。

完成度のほうは縁がないので私にはわからない。
独創性のほうも本人が思っている程ではないのかも
しれない。ただ何となく模倣から入るという世界が嫌い
なので、ゼロに近いところから自分なりの型そのものを
作り出すべく努力をしている。

模倣は最初から高い完成度の世界に連れて行ってくれる。
一方、型より出るのは結構難しそうだ。型に縛られる。
ある範囲の中に入ってしまう。

むしろ、素人レベルでほかの世界の型を練習してみるの
もいいのかもしれない。かけ離れた世界の型を持ち込んだら
オリジナルに見かけ上見えてくる。

伝統的な世界ではそういうのは邪道なのかもしれない。
だから伝統のあまりない世界をフィールドにしたい。

でも、独創性にこだわるのはけもの道を行くようなリスク
がともなう。稚拙なレベルで自己満足に陥ってしまうかも
しれないし、勘違いも起きそうだ。

ほかの人が高速道路を使ってどんどん上達していくのを
しりめに一般道をてくてく使っていく感じだ。目的地に
日暮れまでに到着するかどうかは定かでない。

こういうのはやはり、不本意ながらドロップアウトしちゃった
ような人にしか勧めれれない。

2012年8月3日金曜日

今日の我が家

読書会の会場準備中


毎日意識の感じが違う

あまりしっかり観察したことはないのだけど、毎日意識の
感じが違う。ちなみにおとといはけだるいような、半分
催眠術にでもかかったような感じに一日中捉われていて
どうすることもできなかった。

場に呑まれるのと似ていて、ひとたびそういう感じを感じ
てしまうとあとは強化されてしまう一方だ。一種の自己暗示
かもしれない。

そのしばらく前は過覚醒めいた感じで頭がシャッキリして
このブログにも文章を連投していた。昔はこのシャッキリ
した感じはする日は多かったけど、最近はご無沙汰ぎみ
だった。でも、ハイテンションとも関係がありそうなので、
主観的にはいい感じでも、客観的にいいかどうかは分か
らない。

昨日はセカンドライフがらみで作品?がほめられた。
単純なのですぐ有頂天になってしまう。ほかの人が私に
向けてくる態度次第で私の状態もずいぶん変わってしまう。

これらが非定型精神病の説明の中で出てくる易変性という
用語とどういう関係があるのかはわからない。ただ、ちょっと
した変化が自己暗示みたいなプロセスによって強化されて
しまうというのはこの用語となにか関係あるかもしれない。

自己暗示という言葉で思い当たるのは、状態がいまいちな
ときにショック療法みたいなのが効くことだ。昔の職場で、
状態がいまいちな時にそれでも、どうしても大勢でやらない
といけない作業があって(荷物運びか何か)、仕方なく、
作業していたらいまいちな感じが抜けていた。どやどやした
感じがスイッチになって意識が元の状態にリセットされたの
かもしれない。

でもこれは状況によっては状態のさらなく悪化を招くかも
しれない。だから「ショック療法」はあまり勧められない。

ここずいぶん長い間、いい状態をキープしている。状態が
やや崩れるのも例外的な感じだ。慢心はよくないけど、
自信をもちつつ今後の人生を模索したい。

P.S 気にすることでどもりがひどくなることがあるように、
自分に意識を向けすぎて状態を悪くする傾向があるのかも
しれない。でも、状態が悪くなりそうになると気をそらそうと
私なりの努力をする。その悪あがきが効いたためしが
ない。アリジゴクに落ちたありのように、ずるずると悪い
状態に落ち込んでしまう。