はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2012年1月30日月曜日

風邪がやっとなおってきた

風邪がやっとなおってきました。
寝床でものを考えるのは割合嫌い
ではないのですが、とくに何を考える
わけでもなく臥せっていました。

久々に文字打ち込んでみると、
やっぱり少し錆びつき加減です。

ものを書くって努力なんかいらない
と思っていたのですが、まったく
浅はかなことで、体が健康でなければ、
いい文章は浮かんできません。

こんなにも体のコンディションに左右
されるものだと逆の側面からの確認です。

脳も体の臓器。単純なことなのですが、
健康なときはこのことを忘れています。
健康なときは健康のありがたさがわからない。
これもよく言われることです。健康なとき
健康とはただで手に入る水や空気みたいな
ものなのです。

そういえば、このところ水も空気も土壌も
少しずつ病みはじめています。自然環境
ばかりでなく、家族や地域など社会環境も
どこかおかしいのかもしれないです。

不健康なときこそ健康について、健康の
ありがたさについて考え直すチャンスの
ように思えてなりません。

2012年1月27日金曜日

風邪と幻覚

ここ数日ブログ更新していなかったのは風邪で
臥せっていたからです。
おまけに、いやーな予感がしてたのですが、やっ
ぱり幻覚も出てきました。

風邪症候群だという診断だったので、試しに風邪薬
飲んでみるか、向精神薬との併用は少しリスキーが
ことがあるかもしれないと思ったのですが試してみました。

ちなみに数年前、インフルエンザになったときに、薬併用
してひどい目にあったことがあったのです。魑魅魍魎系の
幻覚の出ることでること。目をつむって数十秒かそこらで
ムーミンのニョロニョロのようでもあり、キノコやカビのお化け
のようなものでもあるような魑魅魍魎の跋扈する世界になりました。
ふつう、こういうときは電気つけて覚醒水準に戻ると、幻覚は消える
ものなのです。でもことのときのはたちが悪かった。

そういった前例をもちながら、あえてチャレンジしてみたのですが、
風邪薬二日目にして、怪しい精神現象がでてきて、仕方ないので
電気つけてみたのですが、覚醒水準は戻りませんでした。
ぼーっとした状態が吹っ切れず、電気消すとまた怪しい世界がやって
くるのでした。

その翌日からはもう風邪薬飲まなかったのですが、幻覚は消えては
くれませんでした。天井なんかに貼ってある木目調の化粧版あるでしょう。
あんな曖昧な感じのもようから簡単に人の顔のバターンをこじつけてくるの
です。幻覚くんは。で、それが残像になります。
残像は普段の状態なら減衰していくものですが、逆に増幅してくるのです、
ある程度ですけどね。

おまけに私たちの世代は漫画絵という便利なツールをもっているので、
ポンチ絵のような漫画絵が気の滅入ることなのですが、スプラッタ系とか
本人の嫌がる方向に変形進化していくのです。なんかこれって、
「いじわるな夢」のパターンと酷似していて、苛められの経験とどこか
で関係しているような気がします。

リウマチになってしまったのも暗い影落としているかもしれません。
免疫機能の調整の関係上リウマチの薬は風邪の期間内は飲まない
ことにしているのですが、それでもリウマチ以前の風邪よりひどくなった
塩梅です。そして、風邪にうなされると意識水準落ちるので、その落ちた
のに乗じて無意識に眠ってる魑魅魍魎たちが跋扈してしまうという図式
みたいな感じですね。

P.S あと、いまコーラ飲みながら打ち込んでいるのですが、リアルタイム
で匂いの幻覚に悩まされています。昔どこかで嗅いだ匂いがデフォルメ
された感じでつきまとってくるのです。憂鬱なのは食事のとき。食事の
風味までこいつが介入してくるので、ただでさえ食欲わかないのがさらに
げんなりしてしまうのです。

2012年1月22日日曜日

暇なひとは忙しい

暇なひとだからこそできること(仕事というのはおこがましいかも)
は結構ある。

いつの時代でも現代というのは歴史の末端で、今まで積み重ねられた
ことによって成り立っている。

今まで積み重ねられたものを見て回るだけでも、本当は重労働
というか個人にはやりきれない話だ。

そういえば、昔こんなことがあった。
広島アジア大会のとき、語学ボランティアで参加した。
大会の中にはいってみると、大会のことはまったくわからなくなった。
語学ボランティアのブースで起きているこまごまとしたローカルな
出来事は体験できたが、大会中の出来事はほとんどわからずじまいだった。

むしろそういうことはお茶の間でテレビ見てたほうが整理されたり、
名場面見れたりとか王様気分を味わえるものである。

この出来事は世の中全体考えるときの自分にとっての一つの足場に
なった。

同じような見方はナンシー関のテレビ批評なんか読んだ時も感じるものだ。

一般視聴者、一般消費者は意外なことに王様だ。
専門家やテレビ出演者より世の中全体をまんべんなく見ているような
気がする。そのことに意識するとまた行動が変わる。

せっかくこの世に生まれたのだからこの世の成り立ちを見ないで
終わってしまうのはもったいないみたいなことを読んだことあるの
だけど、まったくその通り。

この世の成り立ちを分析、分解して組み立てると新しい何かが生まれる。
少なくとも雑文書ける。

暇なひとだからこそできること、
あるいは暇なひとだからこそ与えられるこの世での役割
というものがあることを心の隅に留めておいてほしい。

2012年1月21日土曜日

一晩寝ると夕べ考えたことは整理されてしまう。

いいことでもあるのだけど、
一晩寝ると夕べ考えたことが整理されて、
真っ白な状態になって、今日の意識の活動が
はじまる。

真っ白というのは正確でもなく、夕べ考えたこと
などがうっすらと記憶の隅に残っているのだけど、
それもすでにおぼろになり、しっかりと思い出すこと
ができない。

どうやら、寝不足かもしれない。あまり頭が働かない。
つまらないこと書いても仕方ないのでこれにて休業。

P.S 最近、考え事ばかりなのがたたって、就寝しても
考え事続けてしまい、というか寝つけず、寝不足が
続いてます。寝不足だとてきめんで文章かけません。
なんとか止めたいのだけど。

2012年1月20日金曜日

言葉を練ること -粘土細工のように

「言葉を練る」と表現しても、何のことかわからないかも
しれない。
言葉を粘土細工でこどもがあそぶような感じで
練り上げる感じだ。

近くにひとりくらい、気のきいた友人というのは
いるかもしれない。

そういった友人と話す場を大事にして、
言葉を練り上げる。

ただ、なんとなく話すのではなくて、
何か気のきいたこと話そうとか、
気のきいたこと返そうとか意識
しながら、日々の言葉を使う習慣を
少しずつ作り上げる。

そのためには語彙を使いこなすことが
大事だけど、語彙を生かすには話す場が
必要だし、そのためには適当な話し相手が
いなくてはいけない。

たぶん学校教育で習った知識は習ったままで
死蔵されてる場合が多く、せいぜいのところ
クイズ番組でお茶の間で答えるくらいしか役に
たっていないのかもしれない。

そういった知識は乾物みたいなもので
うまく料理すればおいしく食べられる
会話の中の高級食材になりうると思う。

でもほどほどというくらいがいいと思う。
自分が勉強したものを見せようとすると
話は不味くなる。

あくまでも、おいしい会話をするためなので
その目的を間違ってはいけない。

薄利多売にすると情報が吹き溜まる

情報交換の原則は薄利多売にすることだと思う。
情報交換するときの取り分を少なくすると
相手は得したと思う。
アイデアを盗まれたと思われることの逆をする。
ひとりひとりのやり取りで取り分を少なくしても、
多くの相手と取引重ねることで情報は吹き溜まってくる。

情報が吹き溜まると一種の資本みたいになってきて、
うまく運用することで情報が情報を生んだり、
情報が情報を集めたりという状況が生まれる。

前提として元手になるだけの知識をもっていないといけない。
できれば、子供の頃の好奇心とかを変に勉強強いたりして
枯渇させないで、子供の頃の好きを大事にするといいと
思うのだけど。

ガラス細工師の腕を上げる

自分の心が壊れないように守りながら、
心を育てあげていく当事者の営みはガラス細工師の腕を
あげていく営みにどこか似ているのかもしれない。

ガラス細工という表現に出会ったのは病棟の中だったけど、
生地が細くて脆いという意味では本当にガラス細工のようだ
と思います。

精神病になるような人は感情の制御が働きすぎてしまうの
かもしれません。ツメや牙をもつ代わりに、相手の内面に
働きかける表現みたいなものをもったのですが、いいこと
半分、悪いこと半分です。

ほどけかけているハンカチがどこかレースのようにもみえる
ように、壊れかけた心は繊細な線を感じさせてしまうのかも。
http://hubblesite.org/newscenter/archive/releases/2007/30/

2012年1月14日土曜日

エンジンを止めないこと

エンジンが回っているうちは、書きたいことが
書きたいことを生んでいく。エンジンの火を
止めてはいけない。

読んでくれる人の存在って大きいと思う。
だから読んでくれる人の存在をあたまに
おきながら、少しでも読みやすいもの、
ひとりよがりでないものを書かないといけない
と思う。

読んでくれるひと、読者ってどういうものなのだろう。
自分も読者なのだけど、あまり自覚的に考えた
ことはなかった。消費者である自分について自覚的
に考えたことがなく、有権者であることにも自覚的に
考えたことがなかったように。

数と考えては絶対にいけないのだ。ひとつひとつの
数の向こうにその時のきもちがあったり、その人の
存在があったりする。

当然その人には歴史があって、周りの人や地域が
あってという具合に世界が広がっている。

純粋な数も本来そのように考えるべきなのではないか。
抽象的な数の背後には具体的な何かのドラマがある。
すっきり落とされて数としての姿しかみせてくれないけど
想像力をこらしてみれば、数の向こうにそれぞれの人の
人生とかいろいろなものがある。

そこまで、想像力をめぐらさないといけない。

2012年1月12日木曜日

道具としての感情

今日の放送大学の地元の学習センターの相談室での話題は、

プロミネンス(音調)が何を表現しているか、とくに方言とのかかわりに
ついて、という話題だった。

声の調子っていったい何なのだろう。声聞いてるだけで、上品そうだとか、
魅力的、力強い、いろいろな調子がある。

たぶんそれは感情表現と関係がありそうだ。音楽で感情表現ができる
ように、身体においても、一種の楽器として感情を表現することが
できるのだろう。

地域によって、いろいろ声のカラーがある。大阪などはおばちゃんたちの
買い物の風景などもお笑いの要素が入っていて楽しそうだ。

京都は上品な感じがするけど、ときとして冷たさや意地悪さも感じる
ときがある。ただし、こういうのもステレオタイプに過ぎなくて、実際は
いろいろな人がいるのだろう。

鹿児島は年配の人の声は無骨な感じがする。無骨のよさを感じるとき
もあるけど、多くは芋くさく感じる。昔は結構いらっしゃった、上品な感じの
おばあさんの話し方が懐かしい。ああいう感じの声の響きはどんな
環境で育まれるのだろう。

土地土地の歴史があり、そこには名前だけ残っていたり、残っていなかった
りしたプレイヤーがいて、各時代の土地の物語を作っていた。

バトンを手渡すようにして、世代から世代に声の調子も引き継がれて、
練り上げられたり、堕落したりしながらつい最近までその営みが続
いていたのだろう。

高度な感情表現をする文化があるのは沖縄・奄美なのか京都なのか
私にはよくわからない。表現のやり方が違うのかもしれない。
葬式のときの日韓の表現方法が違うみたいな感じなのだろうか。
ちなみに韓国人は悲しみを表に出して表現するのにに対して、日本人
裏に隠しながら、微妙なところで表現する。どちらがいいとも言えない。

2012年1月9日月曜日

ことばの停車駅

ことばの停車駅という表現はネット上でもまだあまり
使われていないようなので、この文字列について今晩は
考えてみようと思う。

昨日の文章"「の」と「は」の違い"で私が検索をどのように使って
いるかはみてとれたと思う。

で今日は”ことばの停車駅"という表現にたどり着いた。

検索をたどっていって、文字列をさかのぼっていくと、
最後は"ライプニッツ"ー"易経"となる。

その日の検索ツアーの各鍵言葉が連想の停車駅に
見えてくるのだ。

"ライプニッツ"とか"易経"とかは重要な銀河ステーション
だと思う。

そういえば、私が勝手にあこがれているエルデシュ先生も
アイデアの種本としてライプニッツをよく読んでいたらしいと
何かの本に書いてあった。

この文章書いているうちにもそれそれの人が銀河旅行を
していて、"地理上の発見"をしていると思うのだけど、
銀河旅行そのもののための旅の小道具というか、
概念上の道具みたいなのは開発できないのだろうか?

大航海時代は旅のためのさまざまな道具が整備されて
いったことだろう。

ネット時代になったといっても結局のところ、
イブン・バットータがやったりしたことのパロディをして
いるだけなのかもしれない。

バッハのフーガのようにおなじモチーフが変奏されて
繰り返される。

駅ということばもよく考えるとかなり古めかしいことばだ。
駅の主は亭主。漢をつくった劉邦ももともとは亭主だ。

駅にたむろする旅人たちの話を結び合わせて
どんな妄想をめぐらしたのだろう。

今の時代、遍歴しなくても、駅の亭主でなくても
机にいながら情報は集まってくる。

おもいつくままに吹き溜まってくる情報は
何を産み落とすのだろう。

2012年1月8日日曜日

「の」と「は」の違い

日本人は「掃除に始まり、掃除に終わる」という言葉が好きだ。
あちこちの職場でこの文句が基本哲学になっている。

たぶん、この言葉は仏教からきているのだろうという見立てから
検索したら結構でてきた。

でも、そこで終わったらつまらない。

「掃除の哲学」を突き詰めていくとどうなるのだろう?
と探していくうちに「掃除とエントロピー」というキーワードが浮かび、
次のページを釣り上げた。
http://blog.goo.ne.jp/hauru_haku/e/a9607f10ccd579da4d3f12bd7013a52d

掃除をしても外の世界とあわせていくと、単に「鬼は外」と吐き出している
だけで、ごみは減らず、エネルギーも無駄遣いだ。

そこで無駄を省くという発想になり、
「人生の無駄を省く」というキーワードが浮かび、検索するといろいろ
出てきたけど、もしかして人生自体が大いなる無駄なのではないか?と思
い、さらに突き詰めると宇宙自体が壮大な無駄なのではないかと思い始めた。

そこで、「神様の無駄遣い」というキーワードを検索すると
1,470,000 件。すごい数。その中に詩があった。

「神様の無駄遣い」
http://88r.jugem.jp/?eid=138

「神様は無駄遣い」で検索したら、3件だった。
その中にやはり詩があった。

「神様は無駄遣い」
http://yaplog.jp/rabizm/archive/1212

奇想を大事にすること

年越しで変なこと考え続け、書き付けて、
読み手はみんな引いてしまったかもしれない。

でも、奇想を大事にしてる。
とりあえず、考えたことを書き付ける。
読まれるもよし、読まれぬもよし。

中には奇特な人もいて、使えない発想から
使える何かを生み出す人もいるかもしれない。

そういう人の下ごしらえしてるだけかもしれない。
私ですら、思いついた言葉を検索にかけて、
誰かその言葉つかっていないか、そのことに
ついて考えていないか探して、続きを考えて
いるようなものだ。

私の文章は全部中途半端だ。
鉱山でいえば、露頭の部分。
文字化したところを足場にして、もっと
奥深いところにいきつけるだろう。

考えてみれば文字の歴史なんて
だいたいそんなものなのではないか。

落穂ひろいしかできないと一見みえる
ところには意外と誰もまだ見つけていない
この世に出てきていない宝が埋まっている
に違いない。

疑問を持たない人は通り過ぎる。
疑問を持つ人はいちいちつっかかる。

本当になんということないところに、
路傍のようなところに珍しい草が
生えているように、着目すべき何かが
放置されている。

いつもの通り道に、いつもつかっている
何気ないことばの中にこの世に出たがっている
何者かが眠っているのかもしれない。

2012年1月7日土曜日

複素数と他界

複素数と他界の類似性、別に新しい
テーマではないのかもしれない。

他界というと現代人はなにかおどろおどろ
しいものを想像してしまう。心霊特番みたい
な感じのもの。

他界に思いをめぐらす効用は、他界から
この世を眺めてみることで、この世の
実体が浮かび上がることでもあるらしい。

死を想うことで生の意味が浮かび上がる
ように。

他界なんて古くさく、多くの人にとっては
すでにそんなものはないのかもしれないけど、
それでは「ない」ってどういうことだろう?

「ない」ことは「ある」ことの裏側なのでは
ないだろうか?

0を数として古代人が認識したように、
「ない」ものがあると発想することは
インド人の世界ではあるらしい。

「ない」と「ある」の関係に思いをめぐらすと
0と1の関係、二進法の世界にいきつく。
0=1とすれば、矛盾律、非論理の世界だ。
非論理を考えたり、思いついたりするのは
困難だけど、非論理の外は思いつけない。
どうやらこのあたりが思考の世界でも限界
みたいだ。禅問答の外の世界も宇宙人なら
思いつけるのかもしれないけれど、地球人
には精一杯みたいなのだ。

他界の実在は実証できない。でも一般人が
他界について推論することまで禁止されて
いるわけでもない。科学は一般にいかにを
問うことはできるけど、なぜをおしえてくれない。
科学的事実の彼方にあるものはめいめい
自分の責任で空想するしかない。

私は「神や仏は心の中にいる」という言い方が
嫌いだ。よけいなおせっかいだと思う。
「私は神や仏を信じない」のは勝手だし、
「神や仏がいるかどうかわからない」なら
私もそうだと思う。まあ、もっとも心の中に
いるのは神や仏ばかりではないく、もの一般も
そうだし、唯物論者も外界にものが存在してる
と信じるしかないのだけども。

複素数と他界というお題だったのに全然
ちがう話になってしまった。

P.S 典型的なカラオケ文章になってしまった。
偉い先生がどこかで書いたりしたもののパッチワーク。
選択によって自己表現するのもアリかなと思う。
服だって、街で買っているし、組み合わせは自分
そのものなのだから。






0と1からなる論理空間

パソコン画面みていつも思うのは0と1からなる論理空間だ。
ウィトゲンシュタインのいう論理空間も、ボルヘスのいう
バベルの図書館もどちらかというとありうる言語からなる
組み合わせ全体の空間みたいなイメージだけど、今は
パソコンの時代だ。今なら、DVDなどの媒体の組み合わ
せとか、もっと素朴にいえば、チューリングマシンの無限の
長さの紙テープみたいな感じになる。

人の意識は曖昧模糊として、実態はさっぱりつかめないけど、
とりあえず、適当な媒体を用いれば、0と1で表現されうるもの
と考えてみるのはどうだろう。さらに、0と1で表現されるのなら
脳とか意識とかはたまたこの宇宙といった媒体から独立して
0と1からなる論理空間の中に実在しているのではないかと
考えてみたくなる。

とてつもない短時間ごとの切片として意識の情報を切り出して
みたりとか、ある種の積分として、パラパラアニメのようなもの
として意識を捉えるとかどうだろう。技術的に可能かどうかと
いうよりも、原理的には可能とみなして、思考実験してみると
楽しそうだ。

粗いたとえでいうと、図書館の中の一冊みたいな感じで、
「どこかに」今日の自分という作品があることになる。
その作品の周囲にはもしかしたらありえたかもしれない
今日の自分についての作品が星雲状に並んでいる。

ありえたかもしれない自分というのを実体化するのが
みそだ。実現した事実は本の中の栞のようなもので、
栞を通して、周りにある実現しなかったことを探索する
ためにあるのかもしれない。

失われた事実は栞が外れて、どこを読んでいるのか
わからなくなったような状態だ。読んでいるところが失われた
のではなく、わからなくなったのだ。ただし百科事典とか
だったら範囲が広すぎてもう探し出せないのかもしれない。

今日も意味不明のこと書いてしまった。似たような話を
読んだ人には幼稚な話なのだけど、読んでいない人には
まったくもって意味不明かもしれない。

まったく幼稚な話で、白紙の原稿用紙にはどんな文学でも
書くことが可能性としてはできる、みたいなことを書いただけ
なのでしょうか。ものと切り離された純粋な情報としての
自分の意識を想像することすらままならない昨今なのなら
こういった妄想もそれなりの存在価値があるような感じも
するのですがどうでしょう。

さまざまな夢魔

最近はご無沙汰なのですが、若い頃よく、入眠時幻覚が起きる
ような状態のときに、夢魔と名づけるのが丁度いいような、
「異次元の」住人たちが眠っている私を訪れたものでした。

主治医に話しても、入眠時幻覚だからとあんまり親身になって
聞いてくれません。

私も生理的に解釈するほうに賛成です。それができるひとならば
なのですが。

生理的に解釈するのなら、何とかして、半睡状態から、覚醒状態に
戻して、金縛り状態からぬけて(医学用語では金縛りといわず、
睡眠麻痺というのだそうです)、私の場合、照明をつけて、一度
完全に覚醒してしまえばOKです。あと、ぐっすり眠って、また、
夢魔がでてくることはほとんどありませんでした。

私の夢にでてくる夢魔は吸血鬼タイプです。吸血鬼といっても
血液を吸うわけではありません。夢の中での私の体はものから
できてるというより、エネルギー体とでも表現したほうがいいよう
なものでできている感じがするのです。半覚醒状態なので、夢を
あるていど観察することも可能です。

で、夢魔は首とか頭とかに引っ付いてきて、精気のような、
エネルギー体のようなものを吸い取っているような感じがするのです。

私の記憶の中の吸血鬼のイメージが夢魔の像を呼び出して、
同じような夢が繰り返されるうちに夢魔の像と吸血行為のような
ストーリーが強化されていったのか、文化とかとは関係なく、
吸血行為みたいなのが、ある条件下の引き込み領域みたいな
感じでそういった状態に落ち着いてくるのかわかりません。

丁度、夢の中の意識といえばいいのか、表象といえばいいのか
わかりませんが、媒体みたいなものの上に夢魔たちは表現されて
いるのかもしれないです。脳型コンピュータ上の人工生命みたいな
感じ、自然発生して、自律進化していくプログラムみたいなイメージ
です。「幻聴さん」たちも原理は似ているのかもしれませんが、
幻聴は発病当初しか体験したことないので、私には書くことはありません。
生活史たどりなおせば、そうでもないのですが、またそのことは別の
ときにでも書いてみようと思います。

夢魔にもいろいろあります。夢にいろいろあるように。
風の塊で体が成り立っているような夢魔。妖怪みたいな
感じのもの。人間のような感じだったのが妖怪みたいに
変化していくもの。毛むくじゃらの女性みたいなの。

エネルギー体でできた夢の中の体の中に入り込んでくる
タイプもありました。エネルギー体はネットワーク状になって
いて、外部から侵入してくるような感じです。

座敷わらしも吸血鬼も想像の産物というよりも、
私が遭遇した精神現象のようなものを踏まえた
実体験に基づくものだと思います。もっともその
精神現象をどう捉えるかは時代によってさまざまでしょうけど。

でも、一方で割り切って考えるのもちょっと寂しい感じがします。
意識とか脳という媒体とは独立に夢魔たちには夢魔たちの国
があるようにも思うのです。まあ、それは意識に表現された
イメージからなる、論理空間のようなものでしょうけど。
パソコン画面の実在感が後押ししてます。

実在論と唯名論の論争の決着はまだついてないと
何かで読みました。私は実在論のほうに与しているの
かもしれません。

心理用語は難しい。

昨日は通っている「サポートネットラグーナ」の心の力の育て方という
プログラムの日だったのですが、受講しているうちになんとなく気が
ついたことがあります。それは心理用語の難しさです。

「機能」「判断」「処理」、抽象的な難しい用語がよくでてきます。
バリアフリーでないような感じです。そのバリアフリーこそ難しい
用語の一つなのですが、便利なので皆使っています。

父を家族で介護してた時期があるのですが、高齢者介護に
出てくる用語がまったく高齢者向きでないカタカナ用語が多い
のにへきへきしていた覚えがあります。

心理用語も似たような感じです。もっともいいかえても大したことないの
かもしれません。「脳の機能」を「あたまのはたらき」に代えても難しい
ことはきっと難しいのでしょう。

そういった義憤めいたことをつらつら考えているうちに調子はまた
悪くなって、いつもの症状である、周りの人の話が芝居がかってくるという
症状が出てきました。でも、ほんのかすかだったですけれども。

周りの人の会話が大根役者の田舎芝居のように芝居臭く感じられて
くるのです。つくりものみたいに。最初は「世界は仕組まれている」に
直行だったのですが、今は距離がとれてます。軽い状態なら。少し
きつくなると、理屈ではどうしようもなくなって、怖くなります。

まわりの会話がわざとらしく聞こえてくるときもあれば、裏側に象徴的な
意味があるようにいちいち感じたりとかいろいろな出方があります。
裏側に象徴的な意味の含んだ、日常的な言葉に、同じような感じの言葉
で返したりとか昔は変なことしたものでした。半分あっちの世界の住人です
よね、それでは。

こっちとあっちの中間みたいな世界だった夜とかも覚えて
います。半分恐怖感にみたされながら、でもそれらは「この世界を
超えたことなので」みなには秘密にしながら、家に帰ってくるとテレビの
内容がまた変なのですね。テレビが私に「シークレットメッセージ」を流して
いるみたいな感じの夜です。
そういう日は主治医からもらっている薬を倍量飲んで、
さっさ寝てしまうのです。
私の薬は軽いからですけど、人によっては絶対まねしてはいけないのかも
しれません。先日の夜も倍量飲んだのですが、つぎの日も???でした。
次の日の朝刊にそのものズバリが掲載されていて、
目を丸くした朝もあります。自分の内側の世界で考えてたようなこととかもの
とかにまつわるものそのものが掲載されるわけです。
偶然の一致が絡んでくるとさらに迷宮度が深くなります。

久々の明晰夢

夕べ、久々に明晰夢みました。
朝方の夢なのですが、夢の中でも毛布とか
かぶっているのです。ごろりと寝ころんだら、
ビルの屋上みたいなところで、寝ころんで
うつむき加減になったら、屋上の端っこで
頭は半分外に出ていて、眼下には駐車場
など、したの風景が広がっているのです。

そこで、一回覚醒したのか、次の話にかわって
みたいな感じなのか、次も毛布をかぶっていて、
そこがアフリカのどこかで、毛布をかぶったまま、
両手を誰かに握られていて連れられていくと、
電子楽器の太鼓みたいなのがありました。
私はそれの名手らしく、太鼓を観客の前で、
たたかされるのですが、私は私で、しかも、
意識上では覚醒状態にあるので、下手なのです。
あまりの下手さに覚醒していまいました。
まあ、本当に人前だったら、アガるでしょうから、
夢の中では覚醒状態でもなかったのでしょうね。

話のポイントは夢の中でも毛布をかぶっていて
みたいな感じで、現実の感じととても曖昧な感じ
です。いつもの夢というよりはもう一つの現実と
いう感じです。正月の話題は他界の実在という
ものでしたが、朝方見るタイプの明晰夢を「異次元
へ連れて行かれた」みたいに受け取っていたら、
たぶん、私はかなりの変人になっていたでしょう。
私の夢にはいつもの夢とリアルな夢があります。
そんな仰々しいものでなく、みなさんそうかもしれま
せんけどね。

P.S 明晰夢では夢の中だけど、意識は覚醒していて、
覚醒しているので画面は現実とあまり変わらないくらい
クリアーでもちろん色つきなのです。ただ、覚醒してい
るのは感覚だけであって、夢のストーリーに巻き込まれて
いるようなので、本当に覚醒しているわけではないので
しょう。

2012年1月5日木曜日

案の定調子わるいです。

へんなことばかり、考えてると調子わるくなります。
いつものことなのです。

でも、調子悪くなったところで、気がついて
引き返すので今までのところ、
大事に至ったことはまれです。

ということはまだ、たいしたことないのかもしれません。

調子いいときには、病気は治ったのではないか?
とか、病気を騙っているだけなのではないか?
とも思うのですが、たまに調子悪くなったところで、
やっぱり調子悪いのだと再確認するのです。

といっても、今の状態は実はたいしたこと
なくて、本当に危なくなるかなり手前のところで
引き返しているのかもしれず、よくわかりません。

直感的に、危なげなサインみたいなのが、
頭の中にちらつく感じだけです。

そういうのもあって、日常はぶらぶらしてる
感じなのですが、仕方ないのでしょう。

ハイテンションで身をもてあますというよりも、
統合失調症的な世界に引き込まれる手前みたい
な不安感です。日ごろはその感覚を忘れていて、
ハイテンションな双極性障碍のような感じにひき
こまれることはたまにあるのですが、
統合失調症的な世界もやっぱりもっているので
すね。

さてと、しばらく脳をやすめることにします。
たまーにあることなのでご心配なく。

3Dプリンタと実在

正月三が日過ぎたのに相変わらず他界の実在に
ついて考えている。どうも、重心は他界ではなく、
実在のほうに焦点が向いてしまう。

実在ってそもそも何なのだろう?平たく言うと実際
に存在するものということになる。観念とかは主観
的なこころの中にしか存在しないものなので、実在
から外れると書かれている。

ユングは神とかお化けとかも「心的現象」として
実在するという。

3Dプリンタとか考えるとまたよくわからなくなる。
プラスチックという媒体によって、仮想の世界が現実
世界に侵犯してくる感じだ。

何かのカタチで表現されてしまった途端に実在への
一里塚が築かれてしまったようにも思うのだけど、
どうだろう。何が表現されたら、他界が実在すること
になるのか。そういった気持ちで仏教美術をみな
おしてみると面白い。その作り手たちは表現すること
と実在の関係をどう捉えていたのだろう。

完璧な演技とは身も心も対象によって乗っ取られて
しまうことかもしれないと思う。「俳優論」草野大悟著
にちらりとそのへんのことが書いてあった。憑霊型
シャーマン、そして現代のチャネラーと呼ばれる人
たちはそんな存在で、トランスに陥るさまを見るひと
たちは強烈なリアリティをそこに感じるのかもしれない。

偽物としての芸術によって虚の世界がなし崩し的に
実の世界に侵犯してくる。虚と実の世界が分かれながら
も交差してくるようなこの世の構造そのものの中に
実在という言葉のもつ秘密が隠されているのかもしれない。

P.S 宗教その他に対する世間の人の感じるいかがわしさ、
胡散臭さは虚が実に侵犯してくる感じと関係あるようにも
思える。手品のようなインチキ臭さ、騙される感じ、
偽物としての表現に引きこまれて、魅せられて、
最後は強烈なリアリティを感じてしまったりすることなど。

2012年1月4日水曜日

夢幻能とヌミノーゼ

県図書(県立図書館)にいって、古東哲明という人の
「他界からのまなざし」という本を読んだ。

他界について考えることや他界からこの世を眺めてみる
というのは決してトンデもないことでもないことがわかった。
また後日ゆっくり読んで感想でも書いてみよう。

その本の中で夢幻能というものを知った。能の音楽とか
舞とかなんとなく興味があったが、この夢幻能こそ、
他界からこの世を眺めてみるという視点に基づいたもの
だった。日本では古来からそうした試みが文化的に
蓄積してきたのだと知った。それで今、youtubeで能の
動画を見てきたところだ。便利な時代になったものだと
思う。
http://www.youtube.com/watch?v=Dxd8wPGazJ4&feature=related

この動画みて即座にヌミノーゼという言葉を思い出した。
「聖なるもの」ルドルフ・オットー著のなかででてくる言葉だ。
神秘体験を起こしたときの心理状態みたいなものを言葉で
言い表したものだ。ただし、私は病気の中で体験するもの
と真性のものとの違いがいまだにわからない。たぶん後の
その人の送った人生を見た上で後ろ向きに判定するのだ
思う。

「聖なるもの」の中で芸術作品の中にヌミノーゼを表出させる
ことについて書かれたくだりがある。直接体験よりは淡い形
でしか伝えることはできないのはもちろんだけど、芸術によ
ってもそれを伝えることができるらしい。

能の動画みて思うのは、能の舞の動きの中にかすかに、
病気のときの記憶と共振する何かを感じることだ。
私は分裂病くささを表現するときのプレコックス感というの
がどういうものかはわからないのだけど、能の舞の動きの
中に見られる何か異様な感じ、名状しがたい感じというの
とプレコックス感、そしてヌミノーゼ、これらを結ぶ線みたい
なのがあるのではないかと思ったりする。

P.S 夢幻様状態と夢幻能、言葉は似ているけど私には遠い
ように思える、しいていえばこの世界の外の出来事。

明晰夢のこと

ついでなので明晰夢のことも書きます。
すべての始まりはこの本です。
http://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%B3%95-%E6%88%90%E7%80%AC-%E6%82%9F%E7%AD%96/dp/441440150X

「自己コントロール法」というこの本を買ったのは
80年代後半、大学時代です。そのときはこんな
世界もあるのかと思うくらいで、この本にのってる
こといろいろ試したのですがうまくいかず、その
ままになってしまいました。

でも、もしかしたら、私を不思議な世界につれて
いった一端はこの本かもしれません。

あるとき、この本に載っている「自発イメージ」
というものが眠りにおちるころに立ち上がってくる
ようになりました。意識の上に写真が立ち上がる
というか、媒体なしに映るので純粋な映像で、夢どころ
か現実の写真よりもクリアーな映像です。

最初のころは静止した映像だったのですが、
そのうちに動くようになり、最後はある程度
自分でコントロールできるようになりました。

そして、その映像がまた不思議なのです。
明晰夢の中の街にいくのが好きでした。

不思議なデザインの車に乗ったりとか、
家の二回から飛び降りたりとかです。

明晰夢が始まるのは昔住んでた自分の家が
多かったです。家の外にでて、車とかで街の
中心のほうにいくのです。

時には夢が意地悪をして、家から出してくれないこと
もよくありました。扉をあけると、また扉があって、
それを開けても扉で、そういうときは結局出られず、
夢が壊れてしまうのです。夢が壊れると視覚像はなくなり、
気持ちの悪い触覚的なイメージに囲まれるものでした。
気持ち悪いのでさっさと覚醒します。

明晰夢の中では視覚像だけでなく、触覚像も聴覚像もあります。
水を飲むと口の中に触覚像が現れるのですが、なぜか
ぬるかったようの思います。

明晰夢の街の中心、ほんとにファンタジーの世界ですよね。
私に才能があれば、再現してみたいのですが、
夢も覚めるとあっというまに消えていくし、もうぼんやりとしか
印象残っていないのがさびしいのですが、
「耳をすませば」の猫の街の雰囲気におもかげにてます。

文字は夢の中では再現できないのかもしれないです。
漢字に似てるのですが象形文字のような、
「オネアミスの翼」の中に出てくる文字のような感じですか。
そんな文字が街の店の看板に書かれてます。
肉屋さんとか昔の下町の肉屋さんなのですが、
微妙に違うのですね。微妙に異世界という感じ。

そういう明晰夢もなつかしい思い出になってしまいました。
最近ではとんとご無沙汰です。

ゆうべは仮想世界が多分素材になった
非現実的な夢でした。最近は稀にそんなのもみます。

究極の仮想世界

さすがに、もう突拍子のないことは考えたくない。
その代わりここ数日自分の書いたものを読み直してみる。
自分が実在を考えてみた他界って要するに究極の仮想世界
なのだと思う。

今のところ、自分が相手にしている仮想世界はセカンドライフと
意識だ。

使ってみて感じるのは両方それなりの不自由さがあること。
セカンドライフではまだ困難なことが多い。
意識のほうも何でも思い浮かぶというわけではないし、
直観像使える人みたいに思ったイメージが視覚像として
明確なカタチをとるわけではない。さらに、頭に浮かんだ
視覚像を自由に操作するとか一生できそうにない。

「あんなこといいな、できたらいいな。」とドラえもんの主題歌
の文句のようなことを実際にできる世界を要請しているのだ
と思う。

もっとも、それは一番最初の発病のとき体験したわけで、
結果は散々だった。罪びとなる私はバッドトリップで地獄
いきだ。それは次の文章の最後のほうに書いた。
http://epimbi-madrigal.blogspot.com/2010/03/1992.html

このとき別に幻覚のような視覚像がうかんだわけでは
なく、たんなる夢幻様の妄想でしかない。ただ、文の
中に書いた毬のような宇宙像は自分の中で視覚的に
イメージが残っている。偽記憶かもしれないけれど。
白い網目のような模様の入った薄いガラスの毬ような
宇宙の像。

何でも実現する究極の仮想世界みたいなものを考えて
みたうえでこの世を眺めなおしてみると、私たちを縛って
いるように見える現実世界の制限が探索範囲を絞って
いることがわかる。そして、宇宙が進化するごとに、
自由度みたいなのが上がっているのもわかる。

地球を形作る素材としての物質の進化も、生命の進化
も情報を含めた文化の進化も自由度というものを尺度
としてみたときに、ひとつらなりの宇宙の歴史物語の
ように見えてくる。そしてその自然な拡張として他界みたい
なものを考えてみたくなるわけだ。陳腐は発想かもしれない
けど。

発明という観点から人類の歴史眺めなおしてみると、
早生まれの発明が多いように見える。楔形文字の発明、
縄文土器の発明、、、ニュートンの法則、産業革命、、
トランジスタの発明、、、そしてコンピュータ、セカンドライフ。

セカンドライフの自由度の高さに悩むけれど、自由度を
生かし切れないのは今に始まったことではない。

大型書店うろつくたびに、ありとあらゆる知識がそろっている
ことに驚く。そしてそれらを生かし切れない自分に歯がゆい
思いをする。大型書店いくまでもなく、現代に生きているという
だけで、私たちのアタマの中にはしらずしらずのうちに情報
や知識が蓄えられている。そして、何かを表現、公開する
機会も潤沢に与えられてる、それなのに十分生かし切れない。
このもどかしさ。愚痴になってしまったのでこのへんでやめます。

P.S 直観像を自由に操作することはできないけれど、その代り
昔、たまに明晰夢みました。自由に操作することはできない
けれど、明晰夢はある程度コントロール可能です。くだらない
ことしかしませんでした。

2012年1月3日火曜日

宇宙のダウンロード

もう正月も終わりだし、妙な空想はそろそろ打ち止め
にしようと思っているのだけど、最後にひとつだけ。
宇宙のアップロードとダウンロードだ。

他界を仮定して、かつメカニズムを考えなければ、
宇宙のアップロードとダウンロードのことも簡単に
考えられる。

そういうこと考えるのも慣れればたいしたことない。
宇宙という記号の中に宇宙を閉じ込められる人間
の能力なら朝飯前だ。

華厳経のテクストとか読むと、その種のとてつもない
発想はインド人には朝飯前だったようにしか思えない。

十進法をつかえば、小さな数も、大きな数も考えられる。
指数を使えば、宇宙もそんなに大きくなくなる。

銀河鉄道999って見た当時は壮大な話に思えたけど、
となりのアンドロメダ銀河にしかいけなかった。

むしろバベルの図書館としての俳句宇宙とかのほうが
とてつもなく壮大だ。ツイッターの背後に広がる空間の
ほうが宇宙よりも大きい。組み合わせの爆発する可能性。
それを日々の生活の中で、扱っている私たちの脳は偉大だ。

インフレマージャンのように、どんどん大きな言葉を
使っていく。単なる記号としての言葉にそれはすぎない
けれど。銀行で扱われる札束のように、慣れれば
慣れるのだと思う。生活実感は全然ともなわないけれど。

無限後退を封じるにはどうすればいいのだろう?

他界を創造してもあまり私の悩みは解決しないのかもしれない。
世界の根源はどうなってるのだろうといった青臭い悩みだ。
神様を発明しても、「ではその神様をつくったのは誰だろう?」ってなる。
あの世を支えるための異世界がまた必要になるだけで問題は先送り。

ただひとついえるのはメカニズムというものにあまりにもとらわれているの
ではないだろうか?

といっても、メカニズム抜きにどうやって機能を実現するのだ?と迫られても
答える言葉はない。単純に「針の先に天使は何人踊れるか?」式の
形而上的な空想をしてるだけだ。

数の概念を歴史の中で拡張してきたように、この世界の拡張としてあの世界
を考え出した発想は自然なものだと思う。

0の発見によって、ないものがあることになった。そして、負の数を考える
ための前提になった。

事実ってそもそも何を考えるためにあるのだろう?
事実は考えるための土台だ。
事実の周囲には推論するための未確定な概念が実在している。
その存在をみとめてあげることによって、事実の集合としての世界は
はじめて世界観に織り上げられるのではないだろうか。

むろん、世界観を織り上げたり、既成の世界観を選択する主体は
その人自身だと思う。

せっかく世界を考えるためのジグソーパズルのピースがそろってきた
のだから、多少穴あきでも、自家用として自分がまとう服みたいなものを
こしらえてみるのはどうだろう。

他界についてもっと自由に考えてもいいのではないか?

他界というとどうしても人は宗教と結びつけて考える。
でも宗教自体がこの世的なイメージから逃れられない
から他界のイメージもこの世のイメージをひきずって
しまう。

自由に想像力を使うのは思ったより難しい。
私はセカンドライフのものづくりで日々それを感じてる。
自由にものを想像しようとしても、どうしても重力のよう
に日ごろの自分の環境とかその他もろもろの日常が
へばりついてしまう。

想像するための素材自体を日常から仕入れている
ため、日常からかけ離れることを難しくしている。

この世と他界の関係もそうなのではないか?
自由に他界をイメージしようとしても、イメージする
ための素材はこの世のイメージなので、イメージ
する人が含まれている社会とか時代とかに縛られる。

他界を仮定しないと、問題解決が難しかったり、
理解が難しかったりする事柄は多い。というか
人生そのものが無意味なものになってしまう。

他界を仮定すれば、人生そのものの無意味化
から逃れられるかどうかはわからないけれど、
いろんなこと考えるための自由度はあがるはずだ。

他界は不定項だ。ひとそれぞれ自由に考えられる。
信教の自由が保障されている今、異端審問に
かけられる心配もなく、自由に想像力を働かせる
ことができる。

逆に自由度が抑えられているこの世についても
あれこれ想像することを可能にする。
自由に制約があるからこそ、容易な選択を可能
にする。小説を書くことは難しいけれど、俳句なら
なんとか素人にでもできる。自由度が高すぎると
探索すべき組み合わせが多すぎて、大体の
ひとは途方にくれてしまう。

80年くらいしか生きられなかったり、青年期すぎる
と老化が始まったりするのは、いい意味においても
制約を与えられているのではないだろうか?
その範囲の中でも人は無数の選択肢を与えられて
いる。

自分についても、生活の中では不自由が多いけど
想像する自由も、文字を書く自由も与えられている。
その自由はきっと使い切れないだろう。

ギリシャ人はあの時代に地球が丸いという結論に
至ることができた。現代人は今ある道具立て使って
どこまで考えることができるのだろう。

クオリアと他界

大晦日から妙なことばかり考えている。
複素平面と現実ー仮想世界について考えはじめてから
妙な世界に入っていった。現実ー仮想世界とは
現実と仮想が統合されたような世界である。

そのへんから他界について気になりだした。

他界の実在とはすごく流行らないテーマだ。

中世をひっくりかえしたように、唯物論的世界観が
世間の暗黙のドグマになっているようなので、
公の席で他界の実在は語りにくいようになっている。

でも私には公の世界はあんまり関係がない。
一般人なのでそのへんは自由にものを考えられる。

そこでクオリアの登場だ。

赤の赤さ、これは脳という器官もしくは
宇宙というこの世界に依存した何かの働きなの
だろうか?

それともそれらとは自立した実体なのか?

赤の赤さに基本的な現実性を感じる。
意識にそれを感じるように。

純粋な知覚表象、裸の知覚表象というのも
存在するのではないだろうか?

もちろんこの世界では存在しないとおもうのだけど。
そこで他界のご登場。

この世界の法則として、情報が裸では存在
できないことがある。コンテンツが存在するには
メディアというか情報を入れるコンテナが必要だ。

コンテナに入った情報を要素とする世界がこの世界で、
裸の情報を要素とする世界を他界とするとどうだろう。

すでに裸の情報からなる世界を近似した世界が存在する。
今みているコンピュータの画面だ。

正確には違うかもしれないけれど、物質から離れた
情報をイメージするのにこんないい道具はない。

イメージといえば、最近考えているのは霊魂だ。タマだ。
これも今の世の中では流行らない。意識は脳の機能と
される。

ただ、古代人にしてはタマのイメージってかなり正解に
近いのではないだろうか。雲のようにもやもやした塊。

私もこの三次元世界に肉体から離れたタマがもやもや
とさまよっているとはあまり思わないけれど。

位相空間みたいなもののなかにもやもやとした雲の
ようなものとして意識という情報を表現するというのは
魅力的に思える。いいイメージだとおもう。

自我意識は知覚表象その他もろもろの情報が統合された
ものだ。何が媒体になっているかはまだわからない。
媒体の上に表象されているものというよりも、表象そのもの
という感じがする。統合された裸の情報そのものという
感じがするのだけど、どうだろう。情報そのものが生きている
感じ、文字そのものが踊っている感じなのだ。

2012年1月1日日曜日

ねじった一枚の紙

以下は単なる冗談ぐらいに受け止めてほしいのですが、
一枚の紙を真ん中くらいでぐるぐるとねじったようなもの。
片一方が数学的な概念の宇宙、片一方が物理的な宇宙。
ねじりをほどいていくと、ただの一枚の紙になる。

頭のいいはずの秀才が発病しないのはなぜだろう?

ついに実在に触れて発病してしまうのを逆から眺めると

「頭がいいはずの秀才が発病しないのはなぜだろう?」という問題になる。

ことばの陳腐化と何か関係がありそうな感じがする。
表現されたことばは薬瓶のようなもので
いかめしい文字が躍っていようと中身に
薬がはいっているとは限らない。

「薔薇の名前」読んだときにそれを感じた。
いかめしい記号が並んでいるけれども
薬の入っていない薬瓶のように
むなしく乱舞している。

魂の抜けた何かに世間は覆われていて、
「正師逢いがたし」
とでもいいたくなる状況は
今ほど当てはまるものはない。

唐の都に玄奘三蔵はいて
真実の言葉をもとめるためにはるばる
砂漠を越えて天竺にいった。

裏を返せば天竺にいけばよかったのだ。
さて、現在私たちはどこにいけばいいのだろう?

P.S 私のことばも咎をまぬがれていない。もちろん。
第一、言葉とことばとコトバの使い分けがまだはっきりしていない。
ニュアンスは違うことまでは把握してるけど、感覚のレベルであって、
なんとなく使っているだけで、厳しく意識化していない。
いかめしい記号の乱舞は私のことばにこそ当てはまる。

P.S 2 頭がいい人が発病しないのは単純に耐性があるからだと思う。
本で先に知識を入れているので、免疫がよくもわるくもできてしまっている。
ビートルズの音楽で失神できない現代人のようなもの。
ビートルズの音楽で失神できた彼女たちがある種羨ましいように、
かくも素朴なモチーフの発見で発病できた私たちがある意味
羨ましいのかもしれない。

新年そうそう危険な領域を歩いているようです。

年をまたぎながら、夕べから危険なことを頭に
めぐらしているような感じがして、ゆっくりゆっくり
頭を使っていこうと思っているところなのです。

実在というコトバがキーワードなのですが、
http://books.google.co.jp/books/about/%E7%89%9B%E3%81%AF%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%A0.html?id=kBMAPQAACAAJ&redir_esc=y

この本がちょっと気になっているのです。
家にこの本書いた宮元啓一という方の
インド哲学の入門書がありまして実在論
のところを何回も読んでいるところです。

関心の方向は仮想世界とりあえずは
セカンドライフとの関連性。

ファンタジーの世界が実在すると本気で
信じてるってどの記事かに書いて、
私、アタマおかしいのではないかと
自分で思ったのですが、
「実在とは何か?」と考えはじめると
だんだんと危険な領域にさしかかるの
です。

http://www.amazon.co.jp/%E7%9B%A4%E4%B8%8A%E3%81%AE%E6%B5%B7%E3%80%81%E8%A9%A9%E3%81%AE%E5%AE%87%E5%AE%99-%E7%BE%BD%E7%94%9F-%E5%96%84%E6%B2%BB/dp/4309263194

「盤上の海、詩の宇宙」という本も
気になっています。  
この本まだ読んでいないのですが、
影のテーマとして「実在とは何か?」というのと
どこか関連していると思います。

私、著者の吉増剛造さんと一回話したことがあって
その折、

「宇宙の中心に一番近い人って誰でしょう?」
「現在存命のひとでもいいし、過去の人でもいいのですけど?」

みたいな意味不明かつおばかな質問したことがあるのです。
 
質問が間違っているというお答えだったと思います。
宇宙の中心付近にあるのは人ではなく、ものとか概念なのです。
 
安直な答えとして
「実在とは何か?」という問いなのかもしれません。
 
安直に私でも書けるけど、そこに触れたら
発病してしまう何かであり、実際
ジョン・ナッシュを狂わせてしまったような
何かのようにも思えるのです。
 
ことばは使っているうちに磨耗し
陳腐化していきます。そのことによって
私たちは守られているのかもしれません。
 
磨耗したことばの芯に秘められている
真実の意味(なんと書くことがむなしいことだろう)
に触れてしまったとき何かがきっと起こるのでしょう。
 
P.S 書きながら「ゆるいなあ」と思ってしまいます。
ゆるくて「てげてげ」だから、私は平穏無事なのかもしれません。

「ついに実在にふれた」の実在って何だろう?

中井久夫の「最終講義」のクライマックスみたいな
ことばとして「ついに実在にふれた」という文がある。

急性分裂病状態の極期に患者が触れる何かに
ついての記述だ。

「分裂病の陥穽」という文章にも似たような部分が
あるが、「ついに実在にふれた」という一文が全て
を要約している。

関連するかどうかわからないけど、ユングの著書
「自我と無意識」の中に自我肥大を起こした患者の
事例が載っている。これもネット上の孫引きなので
きちんと調べたい人は原典にあたってほしいので
すが、

「彼は、世間はいつでも自分の好きなときにめくる
ことのできる絵本である、というすばらしい考えを
思いついたのである。彼によればその証明はごく
簡単で、つまり自分がただふりかえりさえすれば、
新しい一ページが見えるから、というのであった。」

「ついに実在にふれた」を患者の側から記述する
と上のようになるのかもしれない。

「自我と無意識」に書いているように、この患者の
発見したモチーフはショーペンハウエルの
「意志と表象としての世界」の中心モチーフです。

ただし、このモチーフも患者の体験としては
たまにあるのかもしれません。イメージの素材
に恵まれた現代の患者ならば。

私の場合は、完全におかしくなって、
タクシーで精神病院に送られるときに
似たような妄想がありました。
私の両脇には会社の上司が私を抱きかかえる
ようにして捕まえながら、暴れださないように
押さえていたのですが、私は別世界の住人で
創造主のような立場でした。
私が見ている範囲だけが実在で、視界に入って
いない範囲は非実在なのです。私がよそを
向いているときは会社の上司は非実在になり
虚無になるので彼はそのことを大変恐れていて、
私をなんとか自分のほうに向かせようと
していました。ちなみに妄想物語の中では
創造主を支えながら実権を握ろうとたくらむ
ような役でした。

でも私の体験は急性分裂病体験でも後半の
ほうに入っているので「実在に触れた」という
ほどのものではありませんでした。一方、ユング
の患者の事例は柄にもなく、そのことを発見
してしまったために自我がそれを支えられず、
発病してしまった感じですね。

最後に今回の文章読むときの注意でこの文章中の
実在という言葉の意味は二つあって、中井の文章の
「ついに実在に触れた」の実在の意味は
とてつもない何かで、それを見てしまった
ために自我が支えきれなくなって発病に
至ってしまったような何かで、後のほうの私の
体験の説明の中でつかった実在にはそれほど
たいした意味はありません。できればほかの
言葉つかったほうがよかったのかもしれません。

P.S  その人にとっての実在が存在するのかもしれません。
以下たとえ話なのですが、
集合的無意識といえばいいのか、論理空間といえばいいのか、
バベルの図書館といえばいいのかわかりませんが、万人に福引券くれる
場所があって、当りは一等から十等まであるわけです。
十等で発病するひともいれば、五等で発病するひともいる。
私もあなたも、その人の環境、力量に応じた当りくじをひいてしまった
わけですね。わからない用語は検索してみてくださいね。

P.S2 表題はまあいいとして羊頭狗肉みたいな文章ですみません
でした。実在とは井筒俊彦のいうところのイマージュだけで出来上がった
世界のことなのでしょうか?そんな世界を準備なく見てしまったら、
社会通念としての常識は吹っ飛んでしまいます。その後もしぶしぶ社会の
片隅に帰ってきて、人それぞれ「あれは幻だ。脳現象だ。脳の機能不全だ。」と
医者の意見を受け入れ、しぶしぶ自分を納得させるわけですが、また意識が変容
したりすると隅にひっこめたはずのあの世界が全面展開するわけです。
私の場合はそうでした。

本の背表紙

私の尊敬する精神科医の中井久夫先生の逸話として、
「本の背表紙を眺めていると中身が全部出てきて苦しいからと、
すべて逆さまに並べていた」というのがあるそうだ。

私も読んだことあるのだけど、どの本か忘れてしまったので
ネットに引用されてたのをコピペしてしまった。気になる人は
ちゃんと調べてほしい。

その感覚は発病初期の私にもあった感覚で、私の表現で
直せば「背表紙みるだけでおなかがいっぱい」という感覚
だった。気分爽快な感じに包まれていて、アイデアが次々
に沸き起こり、周りの人には面白い話ばかりしていた。

だから、背表紙だけで十分というよりも、はっきりと苦しかった。

でも、それは私の感覚だけでもなかった。

一日、もしくは二日後、閉鎖病棟の「観察室」に入れられていた。
閉鎖病棟の中でもVIP状態で、同室にはすっかり荒廃して
しまったらしい患者さんがいた。

観察室の近くに本棚があった。本棚の本はすべて
背表紙が破られていた。