はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2012年7月31日火曜日

じたばたしないのが理想だけど、、、

じたばたしないのが理想だけど、
じたばたしちゃうのがニンゲン。

こんなこと書くのも週末の読書会やら
読書会がらみの中継やら番組出演やら、
そういうものでいかにもじたばたしそうな
感じがすでに予想されているからだ。

なんてちっぽけな人間なのだろうって
自分でも思うのだけど、私って所詮その
程度の器の人間なのだ。

日頃エラそうなこと書いていても、
いざとなるとボロが出る。

そういう人間臭さみたいなのをちょっと
外から喜劇を眺めるようにでもみてあげると
自分というものにもうちょっと優しくなれるの
かも。

せいぜい笑ってあげてください。もし何か
醜態さらしてしまったら。困った状況こそ、
あとになれば面白い思い出になることで
しょう。

ただそれだけのことであるのは間違いない、
どう転んでもせいぜいのところひと時の間
だれかをハラハラさせる、その程度のことで
事は済んでしまう。

迷惑は迷惑だけど、最悪の場合でもその
程度のこと。そういう風に考えていけば
幾分かは気が楽になる。

気が楽になれば、余裕が出て、状況を
楽しめる。

そういう感じで週末まで気分をもっていこう。

これ読んだ人で何か感じるものがある奇特
な人は週末の読書会にぜひ来てください。
http://quest-and-ans.blogspot.jp/2012/07/blog-post_20.html

どう転んでも手の上で踊っているだけ

結局、どう転んでもお釈迦様の手の上で
踊っているだけ、有頂天の孫悟空がお釈迦様
の手の間から出られなかったように。

そういうものなのだろうか?
ある意味そう考えると生きていくのはとてつも
なく楽になる。

人類史眺めていても、巨視的にはそういう
構造になっているようにも見て取れる。

巨視的にはということであって、ローカルな
視点ではあくせくせざるおえない。当事者
というものはそういうものだ。

でも、自分の人生とか振り返ってみても
いろいろあったけど、今のところに落ち着いて
きている。人類史も今のところに落ち着いて
きている。ほんとうにいろいろあったけど。
たぶんそれぞれの当事者の視点で考えると
たまったものではないと思うのだけど、
今ぐらいのところに落ち着いてきている。

のど元過ぎれば熱さはおさまるとはよく
言ったものだと思う。

幸福の頂も不幸のどん底も持続しない。

はからわない文章、はからわない表現

はからわない文章とかはからわない表現、
そんなものはあるのだろうか。

かきたいようにかけばいい、
表現したいように表現すればいい、
そういうことはよく言われることだ。

そして、そのような心持で書かれた子供の
文章、子供の絵をみていると心が晴れ晴れ
するものだ。

それを狙ってやるといやらしさがにじみ出る
そういうこともよく言われる。

結局どうころんでも、本人の本質は長い間
には滲み出してしまう。

だからはからってみたところで仕方がない。

居直ってしまうのも一つの戦略なのだろう。
向上心のない怠惰な生き方なのかもしれ
ないけれど、悟ってしまえばそういうことに
違いない。

努力の果てにスタート地点に戻る、それを
知識として最初に知ってしまうと人は努力
しなくなる。

自然農法の逆説みたいなもので、耕さない
ことで最大の収量を得る、そういう不思議
な世界もまた存在するのかもしれない。

内なる価値を守る

内なる価値を守る、あるいは内なる価値を守り通す、
結構これって世知辛い現在の世の中で難しいことの
ように思う。

内なる価値は秘めるもので、「内なる価値」と書いた
ところで本当は失格なのかもしれない。

秘められた内なる価値は乞食に身をやつした神様
みたいなもので、そういうものをもった人に会ってみ
たいと皆思うものの、そんな人が現れても
見逃してしまいそうなものでもある。

リア王のコーディリアみたいな感じではっきりいって
そんなものは伝わらないに違いない。

あるいは今まで散々見逃してきたものの中にこそ
何か光るものがあったのかもしれない。

それはわからない。でも、そんな目でまわりのもの
を眺めなおしてみると表面的なみすぼらしさの奥に
ちらちら光輝く何かを発見できるのかもしれない。

犬にさえ仏性があるなんて言い方がそんな感じなの
かもしれない。

人は自分でも気づかずに乞食に身をやつした神様
をそれぞれ演じているのかもしれないと何となく思う
ことがある。

光輝くものは人それぞれ持っているものだと思う。
だからこそ、商品を含めてそういうものをほしがる
に違いない。光り輝くもの、それは象徴に違いない。
そういうものを身近に置くことで、内面にそうした
イメージを取り込みたいということになるのだろう。

内なる価値、内なる光、これを求めるのは今の世の中
においても究極の欲望のような気がする。

現実と幻想を折り合わせる

自分の隠れた欲望を分析していくと、
現実と幻想を折り合わせるということなのかもしれない。

今、現実のまっただなかで生きている。

にも関わらず、病気のときに垣間見たあちらの世界への
郷愁というか憧れみたいなものを完全に振り捨てること
ができない。

でも、やっぱり現実の世界の中で生きていかないといけない。
運よく、今は病気の世界に生きているわけではないのだから。

と、したときに、都合のいい媒体がセカンドライフなのでは
ないかと思ったりする。

セカンドライフの中では外見上はファンタジックな恰好になれる。
中身はドンキホーテがやったように、年から年中本ばかり読んで、
ついには本の世界に生きるようになり、本の言葉を話すように
なったら、中身のほうもオッケーである。

と真面目に書いてしまうと私はかなり危険な領域を歩いている
ような感じがしてしまう。

みんなひいてしまうに違いない。

だから、この世でちゃんと生きていくために少し妥協を計る。

自分の内なるファンタジーを大切にしながら、
現実は現実として、「幻実」ではなく「幻日」でもなく、
ちゃんと現実を生きて、この社会の隅っこで生きる場所を
もらって、あまり人に迷惑をかけないで生きていく方法も
なにかあるのではないかと思ったりするのだ。

この世知辛い世の中で夢に生きられる、本当に夢に生きて
いるかどうかはわからないけど、日常の中で夢を大切に
しながら生きていくというのもそれなりに有意義な生き方
なのではないかと思う。現実に存在することで陰りが生じて
ある意味みすぼらしい存在として埋もれることは承知して
いるのだけど、でも内なる価値を守りながら生きとおしたい。
それが私の願いだ。

2012年7月30日月曜日

精神病者の自己実現

自分の問題のハードルを高くしているのは、多分
精神病者の就労というテーマでもがいているのではなく、
精神病者の自己実現というテーマでもがいているから
なのかもしれない。

就労した時点でそれは自己実現なのではないかと
思う人もいるかもしれない。

でも、人間というのは欲が深くて、よりよい形という
ものを求めるのだろうし、それは誰でも持っている、
そして誰でも持つことを許されている欲望に違い
ないと思う。

精神病を得た人間として、どこまで欲をもつことを
許されているのだろう?どこまで社会に、そして
自分の人生に対して期待することを許されている
のだろうと常々思う。

何も努力しないで、棚からぼたもちが降ってくる
ような感じで今まで生きてきたとも思えない。

努力の方向性は正しかったかどうかは定かでは
ないものの、自分なりの努力は重ねつづけて
きたように思う。

精神病者に限らず、自己実現というのは重いテーマ
だと思う。

ある意味、夢を持つように育てられてきた。それは
消費者の一人として、夢という餌に食いつき、
夢のために対価を支払い続けてきたおろかな
人生なのかもしれない。

そうやって育てられてきた人間は多かろうと思う。
そして、その人々の多くはある程度進んだところで
梯子をはずされ、あるいは途中までしか線路は
なかったということなのだろう。

開拓者の時代は途中までの線路そのものが
なかったのだからまだましだという人もいるかも
しれないけれど、夢の旅路で遭難した多くの人
に対して、幾ばくかの責任もまた存在すると思う。

ひとづくり、あるいは教育というものも一種の
ねずみ講であるのかもしれない。でも、それを
嘆いても仕方がない。確かに、目に見えない財産
を一山築いたのだから有効利用を考えよう。

2012年7月28日土曜日

強いものが強いのは当たり前

”強いものが強いのは当たり前だが、
弱いものが弱いなりに健気にがんばっている姿というは、
人に希望を与えるものであるかもしれない。”
という文章がネット上にあったので、自分なりにこのこと
について考えてみたい。

私は体がひ弱に生まれて、格闘技を覚えるなどという
知恵もなかったために、ずっといじめられていた。

だからことあるごとに
「なんでこの世には強いものと弱いものがあるのだろう?」
って素朴に思っていた。

そんなことも大学で生物学学んでみようと思った隠れた
動機の一つかもしれない。

強い集団はおいしい場所を占有している。そして、
弱い集団は周辺に追い出される、そんなイメージがある。

弱い集団の中には世界の外の別世界への冒険に
出るものもいるかもしれない。

新しい世界には敵がいないかもしれない。そして、
その新しい世界で世代を重ね、進化していくうちに
強さを獲得するかもしれない。

人間は学習機能があるから、ひと世代の中で
そういうことを経験できそうな感じがする。

新しい世界を開拓するのは骨が折れる。
でも、目立った敵が少ないのはいいことなのかも
しれない。

何も工夫することがなかったら、開拓した世界を
後からやってきた強いものに奪われる、ただそれ
だけのことかもしれない。でも、開拓した先には
さらなるフロンティアもあることだろう。

もしかしたら、日本人ってそういう集団なのかも
しれぬと獏と思っている。極寒のバイカル湖周辺、
そして、さらに周辺の極東に日本人の祖先は
移ってきた。冒険野郎というよりはより弱い集団が
押し出されてきたのかもしれない。東アジアの民族
の中でも身体的には華奢に日本人が見えるのも
かならずしも錯覚とはいえないだろうから。

弱さを引き受ける強さ

自分が持ちたいもの。
それは弱さを引き受ける強さかもしれない。

誰もが強くありたいと思う。

にも関わらず、世の中は不平等で強いものと弱いものが
ある。

そして、それらの要素のいくばくかは生まれたときに
は出来上がっている。

でも、それを嘆いても始まらない。

この世界の魅力は限りないリアリティであって、
そのリアリティの中には世の中は不平等である
ことやら、強いもの弱いものが所与として与えられている
ことも含まれていると思う。

その文脈の中で人は場所を与えられる。
にも関わらず、どう生きるか?
それが各それぞれのものに与えられているテーマの
ように思えるのだ。

不思議に驕りは滅びをまねていてしまうのも
これまた真理のようにも思う。

逆境にめげずがんばったらそれなりの
報いがあるなんてことは物語の中だけ
だと思うのだけど、逆境にめげないこと
自体に何やら意味があるようにも見て取れる。

そういう意味では世の中はゲームというよりは
物語に近いような感じがする。

ゲームと取るかぎり、出来レースだと思う人
もまたいるだろうから。

進んでいくと壁もあることも意識されるけれど、、、

そうやって、自分なりに努力続けてみて
気づく悲しいことがあります。

それはみえない壁です。

この国には悲しいことに階級構造があります。

努力するからこそ、そういう階級構造に気づきます。
そういうものに阻まれます。

でも、そこからどうするか?と考える分岐点でも
あると思うのです。

まあ、階級構造というのはどの社会にもある
と思うし、アメリカなどと比べると日本はまだ
ましなのかなあと思ったりするのです。

ただ、問題なのは易経の言葉でいえば
天地否というか上と下とが背きあっている
ような構造もちらほらみうけることです。

上は上とだけつきあい、
下は下とだけつきあううちに情報が
隔絶されてきて、妙な偏見が生まれます。

それで思い出したのですが、
エリート層の人は「自分たちは努力したのだから
=投資したのだから、その分多く受け取るのは
当然だ」と思います。

一方下々の人々はたとえば
「イチローの親と、自分の親は違う。
イチローがイチローになれたのは
親が潤沢に投資してくれたからだ。
自分が飲んだくれているのは、
親が投資してくれなかったからだ。
だから仕方がない。」

そういうことを思ったりするのです。

エリート層の人は下々の人たちに
支えられているということを忘れて
いるような気がするし、下々の人たちも
そもそも日本に住んでいるという
メリットを反省せず、自分の今いる
環境を生かし切るということを忘れている
ような気がするのです。

図書館にいくたびに、この世界には
使い切れないくらいの富があり、
それは先人が積み上げてきたもの
だということを確認します。

これらの富というか知識が上手に
使われたら、いろいろな問題って
もうちょっとよくなるのではないか
と単純素朴に思うのですが、、、

普段の人との会話を大事にすると名場面がまわってくる

普段の人との会話の場面をおろそかにせずに、
ある程度真剣さを込めながら意識的に意味の
ある会話の場にしようと努力していくと思わぬ
効用があります。

それは、いろんな場で普段会うことのない種類の
人と会う機会は準備されているからです。

普段努力していなかったら、そういった機会を利用
することはできないと思うのですが、精一杯
の努力を自分なりに続けていたら、たまたまめぐり
あった偶然から多くのチャンスを引き出すことが
できます。

普段会うことのないひととひと時話すことができても
会話は消えてしまうし、どうってことないと思う人も
あるかもしれませんが、なぜかしらないけれど、
そういう機会は何回も繰り返しめぐってきます。

そしてそのたびに何かが少しずつ変わってくるのです。

独創的な会話

私が書いたり、作ったりするもの、これは単なるコピーなのか
独創なのかは私が決めることではなくて、受け手が判断すべ
きものだと思います。

一方、私が普段心がけているのはなるだけ、独創的な会話を
しようと思っていることです。舞台は日常生活の上のなんということ
のない雑談の場です。

そういった雑談の場を自分を育ててくれる大切な舞台だと思って
いるのです。

これは社会経験が足りないことを自覚しているのと関係があって、
社会経験が足りないからこそ、会話の場を大事にして、他人の
脳を借りることのできる環境からなるだけ多くのものを引き出そう
と自分なりに努力しているのです。

会話の素材としては読書によって得られた借り物の知識です。
でもそれはあくまでも素材であって、料理はその時の会話の
場全体です。

会話の場で適切なタイミングで引き出しから適切な素材を
引き出します。もっとも、取り入れた翌日に引き出すような
受け売りの会話はしません。

すぐ引き出さないと忘れることは分かっているのですが、
自分の中である程度発酵させたものを出したほうが結果的
にはいいような感じがするのです。

芋づる式にいろんな関連する話が引き出せたらいいなあ
と思っています。

そういう習慣が身に付くにしたがって、相手のいないとき
でも一人で独創的な脳内対話をするような習慣が育ち、
それは何か表現するときにいい効果になるのではない
でしょうか。

2012年7月25日水曜日

チャップリンと天使

淀川長治さんがモチーフとしたものはチャップリンで
チャップリンがモチーフとしたものは天使、仮にこう
考えてみる。

すべての人を理解してくれる愛の心をもった存在、
仮に天使をそのような存在だとしておくと、だれもが
その人に会ってみたいに違いない。

だけど、悲しいことにそんな人、現実にはいるわけ
がない。

だから、愚かにもその人の代わりになろうなどと
考えてみるわけだ。本当に愚かにも、、、

要するにサンタクロースに化けて子供たちに
プレゼントを渡すような感覚なのだけど、
チャップリンの映画とか淀川さんの演技?とか
はそうやってできたに違いない。

生身の人間としてそんな人間であろうと思うこと
はあまりにも愚かだというか、そのようなモチーフ
をいったん背負ってしまって、逃げられなくなって
しまったとしたら、本当に苦労続きの人生に違い
ない。

人間、そんな完璧な存在にはなれないのだから。

だから、時間限定で、メディアの表現の上だけで、
そういった役を演じてみようとする。お二人が
考えたことはそんなところにあるのではないかと
勝手に想像している。

そういえば、寅さんの役柄が固定したのと時を
合わせて人間としての渥美清ってどこかメディア
の表面から消えていった。

人々の夢を壊さないように、、、、

放送の極意とは恥に慣れていくこと???

去年、放送中にアガってしまい、ぼろぼろだったので、
今年はなんとかならないものかと只今研究中です。
Ustreamとか使って、自分を晒してみて、放送環境に
少しずつ慣れていく練習をしているのです。

晒すといえば、このブログこそ自分を晒している典型
です。もしかしたら、ふつうの人が晒さないようなこと
までとことん晒しているのかもしれません。

無知のなせる業です。

そういうわけで、少しは自分を晒すことには耐性があ
るのです。

それでも、放送となるとちょっと特別な感じがして、
緊張感が走ってしまいます。


もっとも、私が精神病の当事者(こう書くとおこがましくて
気が引けるのですが)なら、アガッて当然なのかも
しれません。

人ごみのざわざわした感じは苦手ですし、目ちからが
弱かったときは、人の視線そのものに心理的な
圧迫感感じたくらいです。

そういえば、何か投稿することさえ、恐ろしさを感じた
ことがあります。チャットの場にも恐怖感感じたころも
あります。でもそんなことしていくと、どんどん無限後退
後ずさりしていくだけです。でしゃばりになる必要はない
けれど、せっかくつくっていただいた機会は生かすべき
です。そういうわけで、只今練習中なのですが、
ひとつ利口になったことがあります。

晒すといえば、恥なのです。そう恥に慣れていったら
放送環境も怖くなくなるのです。鉄面皮とまではいかない
かもしれないけれど、慣れていけば慣れていくものなの
でしょう。そう信じることにしたいと思います。

PS. ことしもセカンドライフの夏祭りSL24で企画すること
になりまして、読書会をするのです。案内はこちらです。
http://quest-and-ans.blogspot.jp/2012/07/blog-post_20.html

それで、例によって放送の取材をしてもらえることにな
りまして、あがらないための対策を練っているところな
のです。私ってマジメだなあ。よくも悪くもね。

2012年7月20日金曜日

時間というキャンバス

一日には一日の命があるのだと思う。
この世はフラクタルな感じに出来上がっていて、
一生の時間とちょうど入れ子のような感じで
一年があったり、一日があったりするのだと
なんとなく思っている。

朝起きたときに、今日の意識が立ち上り、
眠って意識が途切れるとき、今日の命は
終了する。記憶はおぼろげながら継続するけど
昨日の意識と今日の意識はなんとなく違うよう
な感じがする。

そんな感じで、睡眠と睡眠で縁どられた一日
という時間が(正確には半日に近いかもしれない
し、夢見てる時間も結構あるらしいけど)、
一枚のキャンバスのようにも見える。

その一日の中で、自分の自由になる時間は
人それぞれであり、人によってはそんなに
ないかもしれないし、逆に暇で、暇で仕方が
ないという人も中にはいることだろう。

自由になる時間をテレビでつぶす人もいれば、
読書でつぶす人、PCでつぶす人それも、人
それぞれだろう。

でも、「つぶす」という感覚はちょっと勿体ない
感じがする。何かもっと有意義に使いたい。
たとえ、それが自己満足的な使い方であれ、
せっかく万人に平等に与えられた時間という
プレゼントを大事に使いたい。

この世に存在するというのはものすごいコスト
別の言葉でいえばものすごい犠牲の上になり
たっているのだから、その犠牲に見合わない
にしろ、この世に存在しつづけている理由を
みつけたい。それはきっとあるはずだから。

一瞬そんなこと思ったけど、そんな理由など
ないのだろう。現実は物語とは違うので、
社会上の役割はあったとしても、この世の
中での役割なんていうものはないに違いない。

むしろ、一生というのもキャンバスであり、
一日という時間を自分で盛り付けていくように
一生という器も自分で具材を盛り付け、
各人が各人なりに楽しめばいいのかもしれない。

神様がいるかどうかはわからないけど、
いたとしたら、せいぜい一生という時間を
思いっきり楽しんでくださいとしか言わない
だろう。楽しむという言葉は人によっては
キツイ言葉かもしれないけれど、私は
なんとなくそう思う。

2012年7月19日木曜日

絵を書くのが心地よい

絵といっても、イラストレーターで書いたお絵描きなのだけど、
描いていて気持ちがよいです。

下絵をペンで書いて、パソコンに取り込むという方法を使わなくて、
割と機械的な長方形などを組み合わせて、全体を構成するかんじ
で抽象的な感じの絵をかくことが多いです。

機械的な線だからこそ、なんとかこの方法で人間味みたいなもの
を出す方法はないのかなとか、考えることも多く、どちらかというと
出来上がった絵のうまい下手よりも、描くプロセスの中でいろいろ
と考えたりすることが楽しいです。

セカンドライフで基本プリムを組み合わせて全体を構成していく
のとなんとなく似ていたりして、面白く思っています。

ついでに言えば、今まで描いてきたものが一種の拘束になって
いて、過去に現在が縛られるというかそんな感じがして面白く
思っています。

拘束という言葉でピンと閃いたものがあり、動物形態学の本を
よみながら、「発生拘束」という概念を勉強しています。

長らく、学生時代習った植物形態学と今、好きでやっている
イラストレーターのお絵描きやら、セカンドライフでのものづくり
に形態学の知識を応用できないものかと野心を膨らませています。

絵の基本素養はゼロに近く、何かまとまった知識の在庫はといえば
せいぜい学生時代習った植物形態学の断片的な知識だけなのですが、
これも形に関するなんらかの知識ではあるのでなんとかかんとか
つなげられないものなのかと知恵を絞っているところです。

思えば学校教育時代に関心があったことといえば、地図を中心とした
高校地理、初等幾何学、生き物に関する知識、美術の時間のお絵描き
で全体として、空間に関する事柄でした。まあ、幼少時代に関心があった
のは貨車の鉄道模型だったので、三つ子の魂といったところなのでしょうね。

2012年7月10日火曜日

個人ページの機能って何なのだろう?

個人のブログとかホームページの機能って何なのだろう?
よく言われる説が名刺説。

詳しく書いておけば、会う前から、あるいは会わなくても
だいたいのその人のイメージが伝わってしまう。

うまくいけば個人広告。でもうまくいかなくて墓穴掘ることも
結構ありそう。(ここもそうかもしれない)

個人にとっての記録。ライフログ的なもの。公開しなくてもいい
けど、公開することで何かお役に立てれば的なもの。
隅々まで内容分析していくと、多分当人が卒倒してしまいそう
なぐらい分かってしまうのかも。

でも、ここでも味噌は個人のことを内容分析してみる価値があ
るのは個人の向こうには社会が、そしてその時代があるという
ことにある。

一昔まえなら、フィールドワーカーたちが適切な質問をしたりして、
聞き出さないと情報は取り出せなかった。

今は各個人が自分の言葉で語り始めた。拙い言葉かもしれない
けれど、より自然に、より歪みのない形で 何かが伝わるかもしれない。

もちろん盲点はあるかもしれないし、そもそも自分のことは
自分では見えないものだ。でも、勝手に語らせてみて
見えてくるものも何かあるにちがいない。

変な話だけど、自分のことを研究してみるというのも
なにか面白いのではないだろうか?少なくとも本人にとっては
役にたつ。

時間を経たあとで読み返して、よりよく分かる部分がある。
時間を経たあとの自分は他人みたいなものかもしれない。

積み上がったものを詳しくみて分かる自分みたいなものも
あるだろう?

と書いたところで「自分についてそんなに関心があるのか?」
「お前はナルシストか?」と読んだ人は思うかもしれない。

たしかにそういう部分もあるかもしれない。そして、自分を
読んでいくうちに、ある程度ナルシスティックな傾向をもって
るかもしれない他人についても分かろうというものだ。

誰だって少なくとも自分の人生の中では自分が主役であり
たいと思うのかもしれない。子供はともかくとして、それ以外の
他人が主役になって、他人のために生きている人も中には
いるのかもしれないけれど、、、、

そのあたりの配慮をすれば、他人とうまく付き合っていけるの
かもしれない。スポットライトを当ててあげて、名場面をつくって
あげるのもいいことに違いない。話がずれてきた、、、、

個人ページだった。でも、今時の個人が考えていることも
十分面白いのではないかと勝手に思うのだった。視聴者
として溜め込んだ知識を道具にしてあれこれ考えて、
考えた結果を出力する。カラオケでお立ち台にたつことに
酔いしれた個人の目指すべきはメディア発信に違いない
と思ったりするのだ。

それはカラオケがそうであるように自己陶酔に過ぎないの
かもしれない。たしかにそれはそうだろう。でも、そのこと
はある種の文化的土壌を作っていく。何かを生み出すため
の時代背景の一部になっていくに違いない。

2012年7月6日金曜日

欲望

欲望という言葉はこのブログでたまに出てくる用語で
気になる言葉です。

前に書いた通り、希少種の盗掘みたいな記事を読む
たびに逆に人間というものの欲望について思いを巡らせて
みたくなるのです。

蘭への興味から、蘭に欲望を投げかける人間に
ついて興味が移ってきたのです。

それは蘭に惹かれる自分への興味、
蘭を見つめる自分への興味なのかもしれません。

欲は醜いという言葉の裏返しとして、
欲は美しいという表現についても考えてみました。

欲があるからこそ生きていけるのです。
何かよきことを行うにも意欲が必要です。
そういう意味でも欲は美しいという言葉にも
それなりの真実味はあるのかもしれません。

お金がきれいでもきたなくもないように
欲もきれいでもきたなくもありません。
動物として生かされるために自然に備わったもの
だと思います。

人間は動物であること、自然の営みにしたがって
生きる存在であることは前提ですけど、
社会の歴史の中で価値が積み上げられてきました。
誰かが発見し、伝えてきたものですね。

教育が普及し、私のところにも届けられて、
もっともらしいこと書くようになりました。
頭の中のありあわせの材料使って、いろんな
こと考えたり、書けたりするようになりました。

こういうのも欲望の行使だと思うのですが、
あまり迷惑のかからない形での行使なので
調節された欲望ということなのでしょうね。

背伸び

「自分以上のものに自分を見せかけようとは思わない」などと前
書いたけど、これ含めて、背伸びの文章が多いような気がする。

等身大、恰好いい言葉だけど、なかなかそうはいかない。
そもそもファッションに言葉をしてしまうあたりがよろしくないの
かもしれない。

「恰好いい。恰好悪い。」
知らないうちに刷り込まれてきた価値観なのかもしれない。

知らないうちに、そして暗々裏に刷り込まれてきたために
それは厄介だ。

テレビの影響と短絡的に考えてみたのだけど、もっとたどって
いくと江戸の文化から出てきたのかもしれない。

そういう価値観のもとで育ち、そういう時代の空気を吸いながら
生きてきたのだから、多かれ少なかれ背伸びしようという傾き
は多くの人が持っているような気がする。

それは成長への意欲、向上心であることでもあるのであながち
否定はできない。

さまざまな煩悩というか欲望に文化という衣装を着せた存在の
ように人間が見えてくる。

「格好いい」、軽薄かつ表面的に映るこの言葉も実は本質的かつ
深い意味をもっている言葉のようにも見えてくる。

みっともなくない範囲の背伸びも、まあやってもいいのではないの
だろうか。お化粧する人もいる位なので。自分をよく見せたいという
自然な欲望に身をまかせて、無理のない範囲でやりたければやれば
と自分に言ってみる。

2012年7月4日水曜日

ほんの少しだけど、感覚が戻ってきた

午前中、調子悪くて、図書館でぼーっとしていた。
家に家に帰ってきて、ちょっとだけ昼寝。

午後はSLの自分の土地でちょこちょこものづくり。
何かが枯渇したように、手を動かす欲求はこのところ
起きなかったけど、感覚がちょっとだけ戻ってきた。

でも、文章みてわかるように、なんとか無理やり
手を動かしているようなところもないでもない。

頭ばかりでなく、体の調子もいまいちなのが
響いているかんじがする。


2012年7月3日火曜日

私は模範的とはいえない

あんまり恰好のいいことばかり書くべきでない。
そんなに恰好のいい人間ではないことは
自分がよーく知っている。

自分を自分以上の人間に見せかけようとは
思わないけれど、そういう欲望はむしろ無意識の中に
隠れているのだと思う。

私の恰好の悪さ、それは活動的でないことだと思う。
私がやるせいぜいのこと、それは本を読んだり、
こうやって何かごぞごぞと書いたり、ちょこちょこと
パソコンで何かつくったりとかがせいぜいだ。

私は状態は比較的よさそうに見えるのに、
作業所にもいかず、ぶらぶらしている。

自分なりの計算はある。ものを覚えられるのは
もうしばらくであること、そして、ちょっとした
健康不安(むしろ体のほう)。

微妙に生殺しで、親のすねかじりみたいな
状態もそろそろ限界で、岐路に立っているといえば
立っている。

もろもろの状態は芸の肥やしになるのかも
しれないけれど、アイデアの源は枯渇した模様。

アイデアに陰りが出てたころに夭折した人
のことがちょっとだけわかるような気がする。

そこまで才能があるわけでもなさそうなので、
逆に私は意外と長生きするかもしれない。

リウマチのおかげで、、、

リウマチのおかげで十分アクセルが踏み込めない。
アクセルが十分踏み込めないことはたぶん、
危ない領域に入り込みすぎるのを防いでいると思う。

危ない領域に入り込まないことで、こちら側に長いこと
留まり、現実からいろいろなことを学ぶことができる。

おまけに年齢も絡んでくる。年齢があがるごとに
状態は安定し、休火山状態も長く続き、
何らかの不具合を感じることはほんのたまにある
位だ。

記憶力に自信がない、エピソード記憶などの力が
病を得てから落ちてしまったという患者さんは
まわりみてみると私だけでもないみたいだ。

状態がそこそこ安定しているのはいいけれど、
(自分にとっては)面白いイメージがなかなか
浮かんでこなくなって、なかなか書けず、
つくれなくなってしまった。寂しい。

消化器系がなんとなくよろしくない。
でそういうのも何か表現しようとするときに、
絡みついてくる。体と心はつながっている。

すべてを受け入れた上で、それでも自分のできそう
なことを探すしかない。

リウマチになったばかりのころ、最終的には自分の
体はどうなるのやらと思い、末期状態の寝たきりに
なった自分をイメージしてみた。

それでも、その時々にふさわしい姿勢というか
スタイルはあるはずだと思った。そのときどきに
できる精一杯のこと。

自分の状況と対決はせず、受け入れて、
その中でよりよい姿を模索する、
やっぱり私は日本人だと思う。

選択と集中

耳の痛いというか、頭の痛い話。
興味が分散して、あちこち首突っ込んでいるうちに、
早くももう40代の半ば。

自業自得といえばそうなのかもしれない。

興味が分散すればするほど、
中心になるのが欲しい、
軸が欲しいと思っていたのだけど、
見つかったのかどうか。

自分のいまいるところがわからなくなったら、
迷わず、幼少のころの汽車の画を書いていた時代
に戻る。

具体的には見晴らしのいい場所から撮った
鉄道写真の写真集のパノラマをみる。

何か全体的なものを捉えたいのだ。
自分の内側にある全体的なもの。

たとえどんなに貧しい道具立てではあっても、
と納得するのだけど、こんどは思いのたけを
表現する力が備わっていないことに気がつく。

軸のほうは、植物の形態の構造がまさに
軸構造なのだから、なにやらいい位置に
いるのかもしれないけど、そこで止まってしまう。