読者の便宜になるかどうかわからないが、両方読んだときの印象を元にしてじぶんなりの読み取った理解を書いてみる。
良心的な精神科医にとってある種の患者というのは欲がなく、純粋であり、世間の人が世間で生きぬくために身に着けさせられている心理的爪や牙というものをもっていないらしい。サル社会の順位制の中でボスザルがロボトミーみたいな手術を受ける実験で、サル独特の攻撃性や他者コントロールの技能を失った結果、そのサルの個体群の最下位の順位に転落する実験をどこかで読んだことがある。
私はサル山のサル的なところは人間社会にも厳然としてあり、宗教家の世界やら学問の世界のような超俗的な世界でさえ、そういう動物行動学で記述されるような本能から逃れられないと信じるほうである。
精神病者が心理的な爪や牙を失った存在と捉えるのは正確ではないと思う。2回しか直接、目にしたことはないが調子が不安定化したときはしばしば非常に攻撃的、暴発的であるところもたまに観察するからだ。ただそのときでも、自分の立場を有利にするために攻撃性を利用するということはしないと思う。そういうときの暴発は調子の崩れであって、本人にとって不利にしか作用しない。ここで書いているのは統合失調症の要素の濃い人の場合で双極性障害の要素の濃い人が病状が進んだときに見られるイライラからくる暴言、汚言の場合は話はまた別である。ただし、これも私は医者ではないので患者の観察、理解として読んでもらいたい。
欲がなく、純粋であるというのは出世主義的視点でみれば損な性質であるが、人間的な目で見れば美質でもある。そのため、良心的な管理者に恵まれた精神科病院はどこかユートピア、理想郷的な面影がやどることもときにはあるのかもしれない。
私が再発したときにお世話になった病院では同じ時期に入った患者の中に人をまとめる能力を持った年配の方がいて、その方が声をかけて、病院の「同窓会」を一回やったことがある。他の科では同窓会という発想はないと思われる。
ただし、「精神科病院というものは一般には自由というものがないのですよ」と水を差されたこともある。私は一番長くても、三ヶ月か四ヶ月かぐらいしか入院経験はなく、それも入院回数は二回であり、しかも二回の入院先もそんなに悪い待遇ではなかったために、そんなことが書けるのかもしれない。ひどい話はいろいろ聞いている。
患者の人格に限らず、人格というものが私にはよくわかっていない。日常的にはよく使われることばであるが、その中身はぼんやりしている。親子で似ている性質もあったり、双子の場合はそとからはどちらがどちらかわかりにくい場合もあるので遺伝学的な意味での心的形質というのもあるのかもしれない。ただ欧米とちがって、日本は牧畜文化は浅いので漠然とした遺伝学的常識しか一般には広まっていない。一方、欧米のほうでは牧畜文化の裏として優生学的発想が社会の根にあるのではないかと想像しているのだが、あまり詳しいことは知らない。少なくとも犬が犬種によって行動パターンが違ったり、犬の仕事の向き不向きが違ったりするのとある程度似たような感じのところは人間にも当てはまるのではないかと思う。残念ながら生物学科を出たにしては未だにメンデル遺伝さえ十分に理解していないのでこのくらいにしておこう。
姉の家が吹田にあるので、国立民族博物館には大阪に行くときは大体行く。それで、文化という言葉には関心がある。人格には文化も関わっていることは常識であるが、文化という言葉も生活でよく使われるわりには実態のはっきりしない言葉である。
母が生まれ育ったのが徳之島の島尻のほうであり、父が生まれ育ったのは台湾のちょっと内陸のほうであり、二十歳のときに台北で終戦を迎えたり、あるいは両系ともさかのぼっていくと徳之島が故地であること、それらのことは今の私にどう効いているのか自分でも見えていない。
ただ、漠然とした形ではあるけれど、本土の人と微妙なところで価値観が違うようなことを時々確認するのみである。向こうからしても異質な感じがどこかするのであろう。
P・S シゾフレミンというのは薬の名前をもじったものであるみたいだ。その仮想の薬を飲むと世間的な欲の垢が落とされ、患者とともに心のユートピアで暮らしたくなる、そんな薬らしい。
良心的な精神科医にとってある種の患者というのは欲がなく、純粋であり、世間の人が世間で生きぬくために身に着けさせられている心理的爪や牙というものをもっていないらしい。サル社会の順位制の中でボスザルがロボトミーみたいな手術を受ける実験で、サル独特の攻撃性や他者コントロールの技能を失った結果、そのサルの個体群の最下位の順位に転落する実験をどこかで読んだことがある。
私はサル山のサル的なところは人間社会にも厳然としてあり、宗教家の世界やら学問の世界のような超俗的な世界でさえ、そういう動物行動学で記述されるような本能から逃れられないと信じるほうである。
精神病者が心理的な爪や牙を失った存在と捉えるのは正確ではないと思う。2回しか直接、目にしたことはないが調子が不安定化したときはしばしば非常に攻撃的、暴発的であるところもたまに観察するからだ。ただそのときでも、自分の立場を有利にするために攻撃性を利用するということはしないと思う。そういうときの暴発は調子の崩れであって、本人にとって不利にしか作用しない。ここで書いているのは統合失調症の要素の濃い人の場合で双極性障害の要素の濃い人が病状が進んだときに見られるイライラからくる暴言、汚言の場合は話はまた別である。ただし、これも私は医者ではないので患者の観察、理解として読んでもらいたい。
欲がなく、純粋であるというのは出世主義的視点でみれば損な性質であるが、人間的な目で見れば美質でもある。そのため、良心的な管理者に恵まれた精神科病院はどこかユートピア、理想郷的な面影がやどることもときにはあるのかもしれない。
私が再発したときにお世話になった病院では同じ時期に入った患者の中に人をまとめる能力を持った年配の方がいて、その方が声をかけて、病院の「同窓会」を一回やったことがある。他の科では同窓会という発想はないと思われる。
ただし、「精神科病院というものは一般には自由というものがないのですよ」と水を差されたこともある。私は一番長くても、三ヶ月か四ヶ月かぐらいしか入院経験はなく、それも入院回数は二回であり、しかも二回の入院先もそんなに悪い待遇ではなかったために、そんなことが書けるのかもしれない。ひどい話はいろいろ聞いている。
患者の人格に限らず、人格というものが私にはよくわかっていない。日常的にはよく使われることばであるが、その中身はぼんやりしている。親子で似ている性質もあったり、双子の場合はそとからはどちらがどちらかわかりにくい場合もあるので遺伝学的な意味での心的形質というのもあるのかもしれない。ただ欧米とちがって、日本は牧畜文化は浅いので漠然とした遺伝学的常識しか一般には広まっていない。一方、欧米のほうでは牧畜文化の裏として優生学的発想が社会の根にあるのではないかと想像しているのだが、あまり詳しいことは知らない。少なくとも犬が犬種によって行動パターンが違ったり、犬の仕事の向き不向きが違ったりするのとある程度似たような感じのところは人間にも当てはまるのではないかと思う。残念ながら生物学科を出たにしては未だにメンデル遺伝さえ十分に理解していないのでこのくらいにしておこう。
姉の家が吹田にあるので、国立民族博物館には大阪に行くときは大体行く。それで、文化という言葉には関心がある。人格には文化も関わっていることは常識であるが、文化という言葉も生活でよく使われるわりには実態のはっきりしない言葉である。
母が生まれ育ったのが徳之島の島尻のほうであり、父が生まれ育ったのは台湾のちょっと内陸のほうであり、二十歳のときに台北で終戦を迎えたり、あるいは両系ともさかのぼっていくと徳之島が故地であること、それらのことは今の私にどう効いているのか自分でも見えていない。
ただ、漠然とした形ではあるけれど、本土の人と微妙なところで価値観が違うようなことを時々確認するのみである。向こうからしても異質な感じがどこかするのであろう。
P・S シゾフレミンというのは薬の名前をもじったものであるみたいだ。その仮想の薬を飲むと世間的な欲の垢が落とされ、患者とともに心のユートピアで暮らしたくなる、そんな薬らしい。