はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2017年12月30日土曜日

2000年紀の最初の百年の六分の1を終わってみて

こういう大それたお題を即興で書けるような立場でないと思うのだけど、それでも見れたことなどを書いておこうと思う。

2000年頃、熱中していたのは放送大学だった。鹿児島学習センターができて、最初のセンター所長さんもまだおられた頃の話である。1教科か2教科ぐらい科目をとって、あとはお試しという感じで、学習センターのビデオ教材に浸りこんでいた。本でしか知らない先生の動いている姿を拝見したり、教科そのものを楽しんだりしていた。数学には憧れていながら近づけなかったが、微分積分学の斎藤正彦先生の講義はわかりやすく、講義の内容だけでなく、斎藤先生の人柄までじわりと表に出てきているようですばらしかった。長岡亮介先生とか杉本大一郎先生とか、放送大学の講座を視聴したおかげで名前を知ることになった先生方も多い。鹿児島学習センターは私のいた最初の頃は客員教授は2人だったが、あと多数に増えた。日替わりで面接室で茶のみ話を楽しんだ。もちろん、雑談ではなく、学習内容と絡んだ雑談だった。その耳学問の蓄積は後々効いてきたと思う。

受け皿となっただけの教養は病気のときの神秘的な体験を基点として、この世界自体に興味を持ち始め、多言語学習サークルの集まりでのやりとりとか、そこを種銭にして、桜島ユースホステルでミーティングと称しての、旅人への質問攻めとかそういう有機的な前史がある。そして、放送大学の後には鹿児島大学の総合研究博物館で周囲の先生やら、標本室で調べ物をやりに来訪した先生方へいろいろ尋ねたり、あるいは大学での仕事時間が終わったのち丘を登ってカフェギャラリーに行きお茶しにいき、ときどき現代アートの作家の方がレクチャーされたり、また質問したり、とした生活が続く。カフェギャラリーでの思い出の頂点は舞踊家の田中泯さんが来られて、「舞踊と武術とどう違うのですか?」と私が聞いて、「武術は踊っていないでしょ」と答えられたときであった。

2009年あたりから仮想世界secondlifeをやるようになった。この頃、最初の頃の残り香が結構残っていた。結構早い時点で積み木方式で構造物を作るようになった。最初の頃はとにかく、何か見るに値するものをつくることができなくて苦労した。三淵啓自先生からきのこいちごという作品をもらったのだが、それを手がかりにして「いちごねずみ」という言葉を案出し、それを積み木方式で立体に翻訳するという作業をしてみたら案外思うようなものができはじめた。頭の被り物、簡素な服、でキャラクターとしての自分のアバターを自作し、土地を借り、周囲の構造物をつくり、言葉も作っていく、それによって舞台のような「自分の世界」が出来上がると気づいたのはいつの頃だったろう。

中でも「自分の言葉」が一番思うにならないと思ったのだった。ひとつ抜けていたけれども、病気になって退院した後、地元の南日本放送のやっている話し方教室に母の薦めで入った。家でぶらぶらしていても、あまりいいことを考えないのではないかという母なりの配慮だったと思う。小澤 達雄先生と横山欣司先生のお世話になった。ここで学んだことは言葉は一生もので一朝一夕には身につかないということだった。

SNSでまた自分の世界を拡げることになった。仮想世界の使い方、というか使う目的がないという共有された問題が存在したが、「自分の世界」を可視化するツールとして雄弁であると思う。画像と言葉という組み合わせが大雑把に言えば機能し、自己開示により、友達にしてよさそうかどうか、という判断材料にもなること、人によっては千人超の友人がいるはずであるが、コンテンツがそれなりに機能している場合、いいねはもらえなくとも見てはもらえるらしいこともわかった。「見てはもらえる」ということを学んだのは「ほぼ日」の世界であった。

どのあたりの時期かもう記憶にないのだが、毎週月曜日の「ほぼ日」の糸井重里さんのダーリン・コラムにまめに感想を送っていた時期がある。「読んでもらえる」というのはありがたいことだ。しかし、今になって、編集部にいる身としてはよくないことをしたと思う。当時は編集部というのは「夢の世界」であった。本当が「現実そのものな世界」であるはずなのに。ただ、メディアの世界を外と内とでそれぞれ眺めてみるという態度を持つことができた。そして、メディアの内外をつなぐ接点というものは非常に微妙な領域であることも学んだ。

残りはラグーナ出版と「考える患者」がらみのことを書こう。中井久夫先生の存在は『最終講義』あたりから知り、鹿大の図書館で「世に棲む患者」の文章を読んだ日が忘れられない。敬慕限りないところであるが、youtubeにしても、動画はないし、ラジオによる音声を放送大学のコンテンツの中で一回聞いたきりであった。ラグーナで働き始めて、少しずつ近くなった。森越先生と中井先生が対談するのをテープ起こしした。こんなに中井先生の肉声をまとまって聞くことは初めてだったので密かに感動した。

植物標本室で単調なデータ入力作業を日がなやっている一方、標本室にあるTYPE標本というものを仕事ですべて見る機会があり、アクセスも厳重に制限されている標本室であるがゆえにさらに貴重な機会であった。中井先生の肉声のテープ起こし、は似たような密かな
贅沢を味あわせてくれた。

その中井先生が「考える患者たち」のために無理を通して、神戸から鹿児島まで寝台特急できてくださったのは光栄とか通り越して、不思議なことだった。最相葉月さんもその現場におられた。中井先生をして、そこまでの行動にとらせたのは何だったのだろう?非常にドラマチックな出来事だったのだけど、何か夢幻のようでもある。

トランジスタラジオが実用化され、全国津々浦々に映像がいつしか届くようになり、かつて受け手だった人々はささやかではあるが日々のことを書き記す日常を送っている、技術者はそういうったもろもろのことを「夢にさえ思い描けない」ようなことだと書いている。

母方の祖父は渋谷駅の駅長をしていた息子に、一週間に一度、東京で発行されている新聞を巻物状にして、郵便で、徳之島の伊仙町の祖父の屋敷に送ってもらい、雑誌もときどき送ってもらい、日々移り変わる世界情勢を小作の人々に縁側で解説していたという。母も子供のときにムッソリーニとか蒋介石とか名前を聞いたという。ラジオもない環境、隣の集落までの交通機関は舗装されていない山道を馬で行き来するのがもっとも早い便。谷を怖い思いして降りたり上ったりを二回して、物資のある港町、平土野へ行く。卵は遠足と正月くらい。豚も鶏も売ってはいなくて自分の家で育て、正月に潰す。そんな生活環境。

二世代後の生活がこんな感じである。ぐちゃぐちゃな書き方であるが。

2017年11月18日土曜日

日用文

日用のために文を綴っている。
ただし、ひとつの野心として、空間的にも時間的にも遠く隔たった地点まで届くような書き方ができればいいなという気持ちを微かに持っている。
まったく、身も知らない人に私個人というより、私のいる時間空間みたいなものがうまく説明できるような文章。

それはもとより実際どうあるかよりも、私はどうそれを捉えているのかというのをこう伝えたいと思っているという文章になると思う。私がどう書いたところでそういうふうにしか担保されないらしいことはしばらく前からの学習の結果知った。

日用と書いたので、本当に卑近な日常のことを書いてみようと思う。
食 母に作ってもらっている。母も80を過ぎたので、だいぶ食事をつくるのもめんどくさくなったようで、近くのスーパーで買ってきた弁当を食べることも増えた。母がつくるのはすき焼きとか、カレーとか。兄が野菜が嫌いでほとんど食べないので、栄養の偏りを気にして野菜をミキサーですりおろしたのを入れて煮込む。うまい。
土日は歩いていける距離にあるデパート、山形屋の地下でおこわとか買ってくる。二番目の姉が帰ってきたときは、末吉といううなぎ屋に行くこともある。このあたりが我が家の贅沢の上限である。家族でこじゃれた料理店に行くことなど考えたこともない。
飲み会、宴会などにも足が向かない。経済状態もさることながら、あのざわざわした雰囲気は今では苦手になってしまった。その時間帯はたいてい、図書館で本読みである。

衣 昭和のおじさん服を着ている。亡父のお下がりだ。まあ、新しい服を買おうと思えば買うことができるのだけど、今、街でみる若い人が着ているような服はあまり着る気がしない。そういうのを見かねて、大阪に住んでいる姉が服を送ってくることがあり重宝している。

住 母、兄と三人で暮らす。家貧乏だと思う。家貧乏の意味がネット上の意味とは違う。こういう意味である。母は単身で鹿児島に渡ってきて、家で苦労した。とにかく家だ、住むところだと思ったらしい。それで家に対する執着心がある。そのかわり、そのほかのことに対して切り詰めている。特に食に対して贅沢しようという気持ちが起きない。

信仰生活 家の宗派は浄土真宗である。母も兄も篤いと思う。盆と正月、彼岸とかお墓に行く。ただし、形式的には葬式仏教でお寺とは薄い関係だと思う。母にとっての先祖とは遠い氏神みたいな存在ではなく、亡き父やら父の父母あたりである。墓のある坂元というところの上空あたりで我が家を見守ってくれているというイメージである。あと、母は夢を大事にする。兄にもそんなところがある。
さて、私。悪い意味で合理主義が入っていると思う。そういうところを最近感じる。時がたつにつれ、正月の世界も、盆の世界も少しずつ遠ざかっているような気がする。でも、逆に考えることもある。祖父母がいたころの正月やら盆の景色を覚えている。たまらなく懐かしい。そして、それは私にとって確かに大切な思い出なのである。
もう何回か書いたので、ちょっとしか触れないが、正月は凛とした雰囲気でお屠蘇を飲む。祖父母のやっていたタバコ屋で。沖縄で作られた仏壇の前で。赤い膳にのっていて、するめとか塩とか昆布とか載っている。祖父母はもちろん和服であり、私も精一杯きちんとした格好である。
お盆も似たような雰囲気であるが、精霊流しの風習が残っていた。船を流す港の区画への通り道に祖父母のたばこ屋は当たっていて、近所の人がみな挨拶していた。祖父は人格に優れ、近所の人からも尊敬されていたと思う。

2017年11月17日金曜日

飛べない感じ

飛べなくなって、しばらく経ちます。
なので飛べたころのことを振り返ることにします。

記録は残っていないのですが、
90年代中ごろ、キャノワードというワープロ専用機で
「内心暴露」という文章を綴っていました。
完全に自分向きです。打ち出した文章がどこかでみつかったら
ぜひ見てみたいです。あの頃の文章を。
まったく、その文章に価値を見出していませんでした。

いろいろPCも換わり、換わるたびに過去の文章は打ち捨てていました。
文章の整理は苦手です。

メーリングリストなどにも混ぜてもらった時期もあるのですが、
内面を綴るようなものが当時から多かったので、
なんとなく浮いてしまっていました。

文章を書いているうちに、気分が酔ってきてしまうというのも
悪い傾向でした。一晩、寝かして発信するという習慣も
自己検閲するという習慣も根付きませんでした。

そろそろ、ガソリンが切れてきたのでこのへんで失礼します。

2017年11月5日日曜日

貯木場

鹿児島市、浜町に貯木場というのが子供の頃あった。
鹿児島本港北埠頭が埋め立てられる前、
水族館ができる前、桜島フェリーの港の施設が
まだ古い建物だった頃の話である。

貯木場には屋久島で当時くらいまで伐採されていただろうヤクスギ(だと思う)
が天さらしで、たくさんあった。数字的な感覚にうとい私に正確なことはかけないが、何十本というくらいの規模であったような気がする。一本の原木は2メートル以上くらいの直径があり、長さは5メートル以上くらいあったような気がする。当時の私はせいぜいのところ小学校5、6年生くらいであり、大きさの感覚が子供にとっての感覚なので不正確なのはやむをえない。

横倒しになリ、何列かに並んでいたヤクスギの上にのぼり、何をやっていたかというと着生ランの採集である。結論からいうと、マメヅタランしか取れなかった。でも、マメヅタランはいくらでも取れた。珍しいものではなかった。ほかのランはヨウラクランのたぐいか、(着生ランの名前が出てこない、悲しい。検索。)オサランかどっちかが一回だけみつけられた。名前は不詳だが、ツツジのたぐいも着生していた。そっちは目当てではなかった。

管理は鷹揚で、柵などはなく、子供も入れた。ほかの子供たちはカブトムシの幼虫が朽ちた木の中に入っているらしく、そっちが目当てだった。こっちのほうは見つかると怒られた。

ヤクスギのにおいは今でも、かすかに記憶がある。はっきりはしていないけども。

マメヅタランは性質が弱いのか、何度、家に持ち帰っても、しばらくすると枯れてしまい、家では花を咲かせれれな刈った。

家といっても、当時の実家から100mくらい離れた祖父母のタバコ屋の二階の窓の枠にヘゴの棒を切って、それに植えつけていた。コチョウラン、ムギランのたぐい、キバナセッコク、カシノキラン、それからチケイラン、そのあたりのものも祖父母の家で栽培していた時期がある。キバナセッコクの花は壮観だった。

マメヅタランの花は一度だけみたことがある。広島、宮島の弥山の頂上付近の巨石に着生していたものが花をつけていた。

2017年9月8日金曜日

学術・教育目的であれば、画像の利用を許可します。

そういう人はいらっしゃるかどうか不明なのですが、
学術・教育目的であれば、画像の利用を許可します。
特に申請とか要りません。もちろん、お金とかもいただかなくて
結構です。

外国からの閲覧の方も多いので本当は外国語で表示した
ほうがいいのでしょうけど、日本語が読める方が多いような
気がしたので日本語で書かせていただきました。

いつも読んでいただいてありがとうございます。

そういう可能性はほとんど考えの外なのですが、
何か成果物ができたときにはラグーナ出版にでも
贈っていただけたらありがたいです。

画像の利用の範囲は以下を含みます。

facebook上の私の作成した静止画像。
https://www.facebook.com/epimbi.madrigal/photos?pnref=lhc

以上の判断をした理由の一つは

海外日本研究者の画像利用事情
https://www.shibusawa.or.jp/center/network/pdf/iup_all.pdf

というpdfを読んだがきっかけと、もう一つあります。
私の作成したものが何かお役に立てられたらと思いました。

2017年8月29日火曜日

赤とんぼ

昔いた大学での形態学講座での宴会での話し。
講座で懇意にしていた蘭園の社長さんが、何か一曲ということで
赤とんぼの歌を歌われた。

その当時の社長さんの歳にもまだなっていないのだが、
当時まだ精神的にも幼かった私にはあまりピンとこなかった
この曲の含意も少しわかるようになった。

社長さんの歌はなんといっていいのかわからない
哀愁を含んだ調子でぼんやりと印象に残っている。

今の歳に合った歌、今の心境に合った歌を一曲でいいから
探し出し、思いをこめていつかどこかで歌いたいと思う。

若いときの歌は若いときの歌。
今は頼まれてもあまり歌いたい気がしない。
体力的にももう歌えないと思う。

じゃあ、赤とんぼはどうかと思ったりするけれど、
この歌をしみじみと歌ったところで
あまり説得力もたないと思う。

社長さんの歌の面影が耳に残っているから、
あれにはとても及ばないと思う。

文章読まれて「若い」と思われるかもしれない。
「幼い」という意味も含めて。

仕方がない。体験経験が圧倒的に足りず、
無為に結局すごしてしまった時間も多い。
図書館で本を読んでみてもきっと埋め合わせには
ならないだろうし、現場を見ずに字づらを追っても
あれこれ想像できるだけに過ぎない。

きりぎりすの歌う赤とんぼになりそうだ。
どっしりとした存在感は持てず、
他人の目を気にする脆弱さが
いつまでも残りそうだ。

2017年8月15日火曜日

母の催眠術

朝、兄は寝ていた。
母が兄の顔を見ながら、
「鼻がぴくぴくするよ~。」
「もうちょっとしたら笑うよ~」
「笑うよ~」
「鼻がぴくぴくするよ~。」

私もたまにこの攻撃を受けるのであるが、
大体持ちこたえられない。

今朝は当事者でなく、兄が攻撃を
受けるのを横から観察したのだが
「母はどこでこういうやり方を学んだのだろう?」
という疑問を持った。
立派な催眠術ではないか。

母の子供のころの子供文化だったのか?
戦前の徳之島の。
そんな想像までしてしまうのであった。

テレビやら本から学んだという線も、
信じられないし、
独力で生み出したというのはもっと
信じられない。

いつか聞いてみよう。

庶民にとっての学知

高等教育を受けたといっても、私はやっぱり庶民のような気がする。家の中のモノの配置や私が買ってきた本の散乱の仕方、書物の扱い方からしてそうだと思う。

イメージ的にはこんな感じがする。私の近所でも、家の周囲に鉢を並べてホームセンターから買ってきたとおぼしき植物を育てている人もいる。何気ない景色だけど、たぶん江戸時代の頃から連綿と根付いている庶民の中での園芸文化である。どこの国でもありそうだけど、案外そうでもないのかもしれない。

そんな感じで自分なりに学んだものを水槽で飼っているのか、鉢で育てているのかは判然としないのだが、本に書かれている死んだ言葉を生き返らせ、生きた学問として頭の中や友人知人との間やメディアを通して遠くのみもしらぬ誰かと共有したりする。

病気して鹿児島に帰ったとき、植物学を生かす道を絶たれたと勝手に思っていた。代わりに浮上したのが語学だった。生き物を飼うような感覚でしばらく諸外国語に手を出し、ひろげたりもした。でもしばらくだった。

その感覚だけは今も生きている。範囲は縮小し扱うものも日本語の文献ばかりだけど、自分なりに読みこなし、それだけでは満足できず、発信もしている。

自分の身体の中でなんらかの意味でいろんな学問が生きていることが自分にとっては大事なのだと思う。本当にそれはささやかなものに過ぎないのかもしれないが、知ることは単純に面白い。同じ人生を生きるのならおいしいものを食べて生きるほうが幸せであるのと同じ位の意味合いでこの世界のことがわかり、いろいろなものが読めるのが幸せのひとつなのかもしれないと思う。

ヘレンケラーがつめたいさらさらしたものに水という名前があり、世の中のありとあらゆるものに同じように名前がついていることを悟るという感動的なシーンがある。

同じ素朴さで私なりにいろんな物事に感動することは多い。毎日毎日、何かしらこの世のことを知っていく、でも同時に生涯かけてもほんの一部しか知らないままで過ごさなければならないだろうし、何かを明らかにしたいと思うとすると、多くのことを知ることをあきらめ、一隅を照らすような感じで特定の物事に集中しなければならないらしい。

私は別に歴史に名前を登録したいという希望はわずかなのでお茶の間でオリンピックを観戦し、オリンピックの全体像を自分なりに思い描くようなほうを選びたい。読者は王様であり、専門的に知ることを諦める代わりに一般的な常識を身につける喜びを得られるかもしれない。そして、その時間、考えたことの結果を残すことも。それさえも、オリンピックといえないこともないのだ。

2017年7月29日土曜日

放送みました

「あなただからできること
~“心の病”と生きる出版社~」
http://www.nhk.or.jp/kagoshima/program/kago_spi/2017/07/index.html

母と二人でみました。母はとっても喜んでいました。
大阪と埼玉の姉から電話もかかってきました。「どうだったね?」と。


母のお友達で私もお世話になっているTさんから電話がありました。
「今からの世の中は複雑になっていくから、こういう困りごとは増えるかも。
大事なことだと思うよ。」みたいなことを言っておられました。

その後、幼馴染の「船長さん」からも電話がありました。

「いい味だしてたよ。たぶん、いろいろ伝わったと思うよ。」と。
そんな感じのことを言っていました。

最後に私自身の感想を。
Oくんにも、先日言っていたけれども、

自分は晴れの舞台で立ちたいというよりも、
舞台の袖で見ていて
若い人が活躍していく姿を見届けたい。
そういうことを思っていたので

あのくらいの長さちょうどよかったような気がしました。

栫さんもこの時間、会社で勉強されていて、

私も図書館とか「ここ」で勉強しているので、
切磋琢磨できていいのではないかな、と思いました。

あと、夢ですが、今回編集部の人が目立ってしまいました。

ラグーナ全体が、そしてラグーナだけでなくいろんなところに
光が当てられればいいなと思います。舞台の広さがもっと広くなって
ほしいのです。

若干の勇気と、たぶん、若干の精進もいるかもしれませんが、

とりあえず、露払いみたいな感じで
当事者では栫さん、私、ねこさんが出てみたという感じに
なるのではないかと思いました。

NHKの記者さん、カメラマンの方
どうもありがとうございました。

そして、番組を見てくれた人もありがとうございます。

2017年7月27日木曜日

明日放送に出るみたいです。

NHKでラグーナ出版の特番が放送されるそうです。
あなただからできること
~“心の病”と生きる出版社~
http://www.nhk.or.jp/kagoshima/program/kago_spi/index.html
リンクページから入れる動画の中に私もちょっとだけ登場します。
金曜日は母とみることになりそうです。

2017年7月16日日曜日

大人物

facebookの過去の投稿をしばらく眺めているうちに、自分がもしかしたら
大人物なのではないかという幻想が起こり、あわててまた自分で否定しよう
とする。

これがいつもの蜃気楼である。昔からよくあった。

ニート的な感じで仕事もせず、親のすねを齧り、そのことを恥とも思わないで
図書館にこもったり、一日中、放送大学の学習センターで有名な先生のビデオ
講義を缶詰になって視聴したりする期間が長かった。

柄の悪いことに、ヨーロッパでは資産家は職につかず、好きなことをして暮らす
人もいることやら、中国の陶淵明など隠者の系譜についての豆知識、そういった
こともぶらぶらした生活を後押ししていた。

資産家というよりも、単に時代的に大昔よりやや豊かになり、仕事をしなくても
明日飢えるというわけではないだけである。

キリギリスのような優雅な生活。そういう人は多かろう。この日本では。

何の因果か、今の仕事の環境ではそういう怠惰な時代の遺産が不思議な具合
に活かされている。

ニート的な状態に余儀なくされる、ということは起こりうることで
その空いた時間をどう過ごすかというのは結構大事な話につながっている
ような気がする。働いている人は忙しいからということと、何かひょこっと
チャンスがやってきたときに、その現れた椅子に座れる受け皿にそのときの
自分がなっていることは死活的な重要性を帯びるということかもしれない。

大人物というよりも、単にどこかに拾われたキリギリスという表現のほうが
私にはふさわしいかもしれない。

運が悪かったようでもあるが、運がよかった局面もときどきあって、
おおいにそういう局面に助けられた。

2017年5月28日日曜日

手作りのことば

中井久夫先生にしろ、霜山徳爾先生にしろ、手作りのことばという感じがする。
もちろん、先人はいるわけだけど、何かを手本にして自分のことばを構築したというよりも、いろんな広い分野から「使えるものは何でも使う」形式でことばを集めていた感がする。パイオニアゆえの苦しみだったのか、楽しみだったのか私は知らない。

銅鉄実験というのがある。どこか欧米とかで金でやった実験を今度は銅に変えて、あるいは鉄に変えて同じ形式でやるような手法の実験である。個人的にはあまり好きな感じではないが、そういう地道な作業をする人も必要なことも知っている。

何もないようなところから何か道を拓くような仕事にあこがれるが、時間がかかったり、成果がでなかったりして非効率であるし、どんどん成果を積み上げていく人を横目に見ながら成果が出せないのは本当に苦しい。

おまけに、何か成果が出たと自分で思ったとしても、周囲の人、ましてや世間の人がそれを認めてくれるのはまた別次元の話である。ある程度そういうことをこなすことができるのは政治的なセンスを持っている人なのかもしれない。

それでも、自分なりの手作りのことばを紡ぎ、そういうことばを背景にしてみて画像をつくってみたいという誘惑に駆られてしまっている。

こういうのは道に迷ってしまった人、と世間の人はみなすかもしれない。

2017年5月3日水曜日

立位体前屈

立位体前屈というのは正式な名称である。私は正式な言い方を知らず、単に前屈と呼んでいた。身体能力測定のひとつの項目である。英語ではanteflexion in standingというらしい。立位体前屈もanteflexion in standingも今、検索で知ったばかりである。

さてと、なんでこんなことをテーマにするかというと、ほかの何でもない、私の一連の「作業」について関連があるからだ。

精神的な意味での前屈をすることによって、その時点でのテスティングができる。ある種の検定である。ただし、点を取ることが目的になり、選抜され、社会的地位の上昇を企てるという意味よりも、実験室などで、生き物相手の測定に似ている。競争と関係することよりも、その時点での正確なデータ取りである。

それはミクロな意味合いでは、私個人にとっての体調管理の一環という意味合いでもあるし、もうちょっとマクロな意味合いでは空間的、時間的、社会的なある種の属性を背負った一個人による、いろいろなことに関する、観察と考察の記録である。ああ、なんと暇な人なのだろう。もっと、肩の力を抜いて自然に行えばいいではないかとも思うし、また時間の経過とともにそんなスタイルに移り行くかもしれない。

とにかくその時々の精一杯のことをやってみる。ただそれだけである。

寺子屋で文字を覚えた江戸時代の農民が、誰かの役に立てればいいのではないかと、経験と先人から教えられた知識により、農作物の育て方、その他いろいろ知っていることを書き付ける。

それによって、後世の私は江戸時代の篤農家の自然の描写に感動を覚える。必要に迫られることによって人は必死になって、その与えられた環境の中で身につけられることを覚える。

今の世の中で、あるいは日本で、鹿児島市で50歳を生きるということはいったいどういうことだろう?

ある人は私の限られた世界の狭さを哀れに思うかもしれない。
ある人は今の日本にもこういう類型の人がまだいることを喜んでくれるかもしれない。
別に外国人に合わせた、古き良き日本の面影を表現しようと試みているわけではない。たぶん、そういうものは観光客向けに作られた伝統的生活のテーマパークみたいなもので、本物ではないので、そこを眼力のある人は見抜くだろう。そこを狙えば自然と邪心が芽生えるだろう。

もっとありのままの何かを写し取りたい。たぶん、ここで何かを書くことは、それ自体、純粋な目的とすべきであって、何かもっと別なことへの手段としないほうが賢明だろうと思う。たぶん、ほどほど食べていけるくらいで生活を維持し、あまり社会的な意味でのスポットライトも当たらず、したがって生活も静かな生活のままに推移して、そのかわり、誰にも邪魔されないような落ち着いた環境の中で、自然に観察し、自然に考察して、何かを書きつけ、表現し、周囲の人や遠くの人に何らかの意味で役立ててもらう。たぶん、そういう形が私にとっても、私の表現にとっても真の幸福であると思われる。

2017年4月29日土曜日

フロイト 「植物学研究所の夢」について

今日の午前中、鹿児島県立図書館の書庫から、
『夢分析入門』鑪幹八郎(たたらみきはちろう)著
を借り出した。

鑪先生の講義は総合講義のとき、一度だけ大講義室で受講した。
そういう先生がいることさえも、広島大学当時知らなかった。
鑪先生は寅さんの大ファンらしく、テープレコーダー持ち込みで、講義で、「男はつらいよ」のテーマソングを流し、臨床心理の話などは一切なく、90分、ひたすら寅さんへの思いを語っていたような記憶がある。それまで、寅さんとか、無理やり連れて行かれる正月映画みたいな負のイメージしか私は持っていなかったのでものすごい印象を講義から受けた。先生が何をしゃべったのか記憶に言葉の断片さえも残っていないけど、とにかく、寅さんという存在は、鑪先生から見るとすごい存在なのである、という圧倒的印象だった。

時は移り、鹿児島へ帰ってきて、寅さん映画を全巻、ビデオショップで順番に借りた。タンカバイの口調や、寅さんの語りに引き込まれた。

『「芸能と差別」の深層―三国連太郎・沖浦和光対談』でまた別の寅さんというか渥美清像を見るのだが、それは後年で別の話である。すっかり脱線してしまったので戻る。

鑪先生の本そのものはあまり読んだことがなかった。だから、ちょっとちら読みすることにした。

『夢分析入門』をめくっていくと、「植物学研究所の夢」という話が出てきた。フロイトの著作集からの引用もあった。孫引きにはなるが、気になる人は著作集を当たってほしい。

「私はある植物に関する研究論文を著した。その本は、私の眼前にある。私は丁度、挿入された彩色のある図版のところをめくる。どの一冊にも、植物標本館からもってきたような、その植物の乾燥標本が綴り込まれている。」(著作集第二巻、一四四頁)

『夢分析入門』では115P

以下も『夢分析入門』からの引用、

次々にあらわれる連想をまとめたのが図7である。
「花の話をした婦人」→「私の妻の好きな花(シクラメン)、(ここでは、花の好きな奥さんに花をちっとも贈らないフロイト自身の反省も記述されていて興味深い)、など。

Epimbiメモ: 上の夢の話は初見であると最初思ったが「シクラメン」の話は何か新書で読み、それが記憶のどこかに残っているくらいの影響は受けたことになる。
たぶん、再発の後の時期であり、かつ植物標本室で働く前だろう。

『シナプスの笑い Vol.21』の「ラベルがべたべた貼られた標本」 というタイトルで書いた私の文章があるのだが、そこではシクラメンの話も影響をほとんど与えなかったと思いうし、フロイトの著作の中に植物標本館とか植物の乾燥標本というキーワードが出てくることは、知らなかったと断言できる。でも、一方で、「狼男の言語標本」というキーワードをたぶん、知っており、『樹をみつめて』の中の植物界の話は読んでいたと思う。そして、『徴候・記憶・外傷』の「世界における索引と徴候」の冒頭のキンモクセイの香りの話は鹿児島大学総合研究博物館、植物標本室で植物標本のラベル情報のデータベース入力をしていた頃、よく鹿大図書館で読んでいたような気がする。ラグーナ出版に入る前である。

この文章全体を通して、何が主張したいのだろうか? フロイトの「植物学研究所の夢」と私や私の文章をこじつけ的に結びつけたり、逆に、「植物学研究所の夢」を背景に文章を書いたということを否定しようとしているのだろうか。その解釈は私が書いても、主張はできても、立証できない。読み手にゆだねられる。恩師の「人形芝居のような人生はないよ」という言葉と、仮想世界でアバターを操っていて、画像を作っていることなど、あまりにもご都合主義的に出来ているところが私のライフストーリー中には散見できる、第三者がいろいろ詮索して、裏を取ろうと試みたとき、明らかな否定の証拠も挙がらなければ、明らかな肯定の証拠も挙がらない、という感じになると思われる。書いてしまっては全体の信頼度を下げてしまう恐れがあって、私にとっては面白いエピソードではあっても、書くことを控えていることも少しある。

かなりの労力を使って記録を綴っているので、全体の精度、信頼度が下がること自体は本人にとっても脅威である、ということだけは読者の方々の心のどこかに留めてほしい。記録自体が不整合などによって裏切ることもあるかもしれないが、そのときは多大な労苦が無に帰するわけである。

2017年4月23日日曜日

夕べの夢 そういう状況になってわかった

夕べの夢

今日のはそんなに長くない。

クーデターか何かで追い詰められたどこか外国の最高権力者。
その側近か、何かしらないけど、近くに私もいる。

最高権力者が最後の演説をする。

さあ、飲んでください、みたいな感じで毒の入っている
錠剤を強制的に私の口に敵たちがいれようとする。

「死にますから、死にますから」といいつつ。
頑強に口をひらかない。
猛烈な恐怖。

ここで目が覚める。
日ごろは、生死に淡白である、などと自分では思いつつも
やはりそういう状況に追い込まれたら、死は怖く、
生きたいと必死になって思うのだなと思う。

書きながら、抵抗の言葉を吐きつつ、
頑強に口を開かないというのは話として
合わないな、と思いつつも、
そういう矛盾は私の文章には結構あるな、
と観念して書いてみる。

2017年3月31日金曜日

わかったようなことはあまり書きたくない

なにかものごとがわかったようなことがあまり書きたくない。
そういう柄でもないからだ。

写真家でいろんな国の路地とか、下町とか、伝統的な暮らし(といってもお屋敷とかよりは、スラムのほうに若干近いようなたたずまい)の雰囲気ある写真を撮られる人がいる。

私と私の家族をそういう感じの写真の登場人物にしてもたぶん、違和感ないと思う。

前近代的な暮らしの登場人物。絵になる風景ではあるけれども。

母は本人が言うには裸一貫で鹿児島に南の島からやってきて、それも勉強をしたいがためにやってきて、艱難辛苦をして、たまたま時代の波に乗れて、下町レベルではまあ、いい感じの人生を送ることができた。四人の娘、息子をそれなりにきちんと育て、末っ子の私には大学の仕送りを送れるくらいの蓄えもつくれた。

おかげで、絵になる風景の登場人物でありながら、私は何とかかんとか、文字を書くことができた。エリート家庭の基準では十分な識字レベルではないかもしれないが、自分の境遇を思い巡らせてみると、このくらい書けるだけでも、何かの基準を満たしていると思う。

それは他者の手を借りなくても、不備はあるとはいえ、自分と周囲の世界を自分の手で描き出せるのだから。また、ずれてきた。そうそう、わかったようなことはあまり書きたくない、だった。そういう柄ではない、からずれてきた。

私はわかったようなことを書くような柄の人間ではないのだと思う。この際、せっかくだからずれてしまえ。

絵になる風景の登場人物が何を考えているか、その内側の世界に何があるのかは、普通描かれない。内面の世界なんて高級品で、近代の産物だからなのかもしれない。

逆に、内面の世界に目覚めてしまった、というのが私にとっては新鮮なのかもしれない。そういうものがあるとは、周囲の人は教えてくれなかった。

かといって、精神世界の棚を漁る気にはなれない。ああいう既製品の言葉には魅力を感じない。

伝統的な暮らしの根が完全に断ち切られないところで、もう一つの近代的な目も持つことが不充分ながらできている。

だから観光客ではく、地元民の目で、地元の暮らしの奥のほうに何があるか、心の内側を探すことができる、かもしれない。

たぶん、そこには近代の暮らしのなかで失った、リアリティという宝が埋もれているような気がするのだが…

P.S 母が戦時の空港建設の手伝いの賃金などでためたお金をはたいて、命の危険までおかしながら、鹿児島にやってきたものの、すぐ高校に行けるほど、世間は甘くなかった。
母が高校の卒業資格を得たのは、私が幼稚園のころ、母が四十をすぎてからだった。

2017年2月19日日曜日

シゾフレミン あるいは患者の人格について

シゾフレミンとは精神科医の業界にある隠語らしい。『統合失調症のひろば』の創刊号で初めて、その言葉を知った。『日本の精神医学この50年』には違う角度から眺めたこの言葉のニュアンスが書かれている。

読者の便宜になるかどうかわからないが、両方読んだときの印象を元にしてじぶんなりの読み取った理解を書いてみる。

良心的な精神科医にとってある種の患者というのは欲がなく、純粋であり、世間の人が世間で生きぬくために身に着けさせられている心理的爪や牙というものをもっていないらしい。サル社会の順位制の中でボスザルがロボトミーみたいな手術を受ける実験で、サル独特の攻撃性や他者コントロールの技能を失った結果、そのサルの個体群の最下位の順位に転落する実験をどこかで読んだことがある。

私はサル山のサル的なところは人間社会にも厳然としてあり、宗教家の世界やら学問の世界のような超俗的な世界でさえ、そういう動物行動学で記述されるような本能から逃れられないと信じるほうである。

精神病者が心理的な爪や牙を失った存在と捉えるのは正確ではないと思う。2回しか直接、目にしたことはないが調子が不安定化したときはしばしば非常に攻撃的、暴発的であるところもたまに観察するからだ。ただそのときでも、自分の立場を有利にするために攻撃性を利用するということはしないと思う。そういうときの暴発は調子の崩れであって、本人にとって不利にしか作用しない。ここで書いているのは統合失調症の要素の濃い人の場合で双極性障害の要素の濃い人が病状が進んだときに見られるイライラからくる暴言、汚言の場合は話はまた別である。ただし、これも私は医者ではないので患者の観察、理解として読んでもらいたい。

欲がなく、純粋であるというのは出世主義的視点でみれば損な性質であるが、人間的な目で見れば美質でもある。そのため、良心的な管理者に恵まれた精神科病院はどこかユートピア、理想郷的な面影がやどることもときにはあるのかもしれない。

私が再発したときにお世話になった病院では同じ時期に入った患者の中に人をまとめる能力を持った年配の方がいて、その方が声をかけて、病院の「同窓会」を一回やったことがある。他の科では同窓会という発想はないと思われる。

ただし、「精神科病院というものは一般には自由というものがないのですよ」と水を差されたこともある。私は一番長くても、三ヶ月か四ヶ月かぐらいしか入院経験はなく、それも入院回数は二回であり、しかも二回の入院先もそんなに悪い待遇ではなかったために、そんなことが書けるのかもしれない。ひどい話はいろいろ聞いている。

患者の人格に限らず、人格というものが私にはよくわかっていない。日常的にはよく使われることばであるが、その中身はぼんやりしている。親子で似ている性質もあったり、双子の場合はそとからはどちらがどちらかわかりにくい場合もあるので遺伝学的な意味での心的形質というのもあるのかもしれない。ただ欧米とちがって、日本は牧畜文化は浅いので漠然とした遺伝学的常識しか一般には広まっていない。一方、欧米のほうでは牧畜文化の裏として優生学的発想が社会の根にあるのではないかと想像しているのだが、あまり詳しいことは知らない。少なくとも犬が犬種によって行動パターンが違ったり、犬の仕事の向き不向きが違ったりするのとある程度似たような感じのところは人間にも当てはまるのではないかと思う。残念ながら生物学科を出たにしては未だにメンデル遺伝さえ十分に理解していないのでこのくらいにしておこう。

姉の家が吹田にあるので、国立民族博物館には大阪に行くときは大体行く。それで、文化という言葉には関心がある。人格には文化も関わっていることは常識であるが、文化という言葉も生活でよく使われるわりには実態のはっきりしない言葉である。

母が生まれ育ったのが徳之島の島尻のほうであり、父が生まれ育ったのは台湾のちょっと内陸のほうであり、二十歳のときに台北で終戦を迎えたり、あるいは両系ともさかのぼっていくと徳之島が故地であること、それらのことは今の私にどう効いているのか自分でも見えていない。

ただ、漠然とした形ではあるけれど、本土の人と微妙なところで価値観が違うようなことを時々確認するのみである。向こうからしても異質な感じがどこかするのであろう。

P・S シゾフレミンというのは薬の名前をもじったものであるみたいだ。その仮想の薬を飲むと世間的な欲の垢が落とされ、患者とともに心のユートピアで暮らしたくなる、そんな薬らしい。

2017年2月18日土曜日

てんしはくうことにこだわらない

タイトルの「てんしはくうことにこだわらない」というコトバはおとといの晩、うとうとしていたときに閃いたもの。なんとなく、大事な言葉なのではないかと思って、起きだして、ノートに書きとめまた寝た。

天使 食うこと こだわらない の三つに分割される。

天使に対する淡い憧れはある。諸外国語にはまっていたとき、ポルトガル語のついでに、歩いてなんとか行ける距離にあるザビエル教会でイタリア語講座をイタリア人の神父さまがやっておられていて受講し、ついでにキリスト教の講座もしばらく受講していた。その流れで鹿児島純心短期大学で佐々木亘先生によるトマス・アクイナスなど中世哲学の講座があり、それにも参加した。その流れであれば、受洗という可能性もありうるかもしれないが、イエスの復活の概念がどうしても受け入れられず、ザビエル教会からは足が遠のくことになった。しかし、その間に「ザビエルの聖腕」が鹿児島にやってくるというイベントもあった。

ザビエルの聖腕
http://www005.upp.so-net.ne.jp/a-kgs/seiwan.htm

聖腕を夜、教会で見ていて体が気功状態みたいになりポワーっとなった。次の夜もあの感覚をもう一度と思い教会にいってみたがそうならなかった。欲は持たないものである。今考えると霊的なものにある程度感じやすい体質なのではないかと振り返る。

佐々木先生の講座では天使が実在のものとして出てきた印象を持ち不思議だった。先祖の霊だって実在している人には実在しているわけである。天使が実在している人がいても不思議ではない。

アンタはどうなんだと問い詰められると困る。骨壷と中身を含めて、宗教儀礼の道具である、という覚めた見方もすれば、モノのイメージは生きていてココロすらあるのではないかとか、出来事のイメージさえも生きているのではないかと思うこともある。それも必ずしも脳というメディアをしばられない形でもなんらかの情報はそれ自体として存在する可能性もあるのかしらん、と思うこともある。

壁画有翼天使図
http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=TC556

食うこと。立花隆がマスメディアで今より活躍していて、知識の総体がどうのとおっしゃっていた頃、自伝か何かで「食えること」という言葉が出てきて、なんと下卑たことを書くのだろうと若いときの私は思った。残念ながら今は私はカネに逆襲されて、日に日に困窮しつつある。日本人の媒体で「食うこと」というのはよくテーマに出されるという印象がある。経済最優先みたいな価値観なのかな、と思う。

こだわり。ドイツ語の講座に通っていたころ、Oさん(よく出てくるOくんとは別人物、中年の女性)がこだわり、という言葉をよく使われていた。生活の質を追及されていて、家には最低限のモノしか置かず、食事を楽しむ文化をもっていらっしゃった。食文化を中心に日本のCMでは「こだわりの逸品」とかの表現でこだわりという言葉が頻出する。

「てんしはくうことにこだわらない」は天使にあこがれる私のやせ我慢的マニフェストなのだろうか。


2017年2月10日金曜日

不思議なおじさん

以下は社内であった絵本のコンペの私めの落選作品です。
1時間くらいでざざっと書いて出しました。いいわけはこのくらいにしましょう。

以下です
ーーーーーーーーー
不思議なおじさん

もさもさくんは今日もたいくつしていました。
何か面白いことはないかな?
そうだ不思議なおじさんを呼んでみよう。
煙ぽっとあがるとそこには不思議なおじさんがいました。
不思議なおじさん、退屈しているんだけど。
もさもさくん、ものをつくることは楽しいよ。
ポケットからさいころ取り出して、ぴゆっと引き伸ばしました。
そして、ペタンとつぶしました。
空飛ぶじゅうたんのできあがり。
ふたりでじゅうたんに座ってそらの旅にでかけました。

空に昇っても昇っても空は空。
星を作ってしまおう。
不思議なおじさんはポケットからガラス玉を取り出して、
ぴゆっと引き伸ばしました。
目の前に大きなお星様が浮かんでいました。

ポケットから花の種の袋を取り出すと
パラパラ捲きはじめました。
緑の森がどんどん広がっていきます。
色とりどりの花も咲き始めました。


おじさんは別れ際にこういいました。
いっぱいいっぱい本を読んで、
いっぱいいっぱい夢を描いて、
この傷ついた大地を
もう一度幸せな場所にするんだ。

おはよー ママの声が聞こえました。
おじさん、最後へんなことを言ってたけど
まあいいや。何かものをつくってみようかなー。
ーーーーーーーーーー
子供の頃あった教育テレビの番組「できるかな」をベースにしてつくりました。
なんと子供っぽい発想なんだろう、と出すのも恥ずかしいです。

2017年1月20日金曜日

本の世界についてのイメージ

最近、本を通読するということをほとんどやっていない。いつも並行読み、つまり何冊か並べて、あっちを読んだり、こっちを読んだりする。ノートも取らない。求道的なイメージも持っている反面、娯楽と言われてしまえば、返す言葉はない。

アメリカとか、オランダとか、ポーランドとかカメルーンとかいろいろ国名が出てくるがなんとなく、勝手にイメージが出てくる。いずれも行ったことはないので勝手に出てくるイメージである。一つの国とはいえ、場所により、時代により違って当然だし、それらのイメージの全体像を把握しているわけではないはずにも関わらず。アメリカとかかれると自分の中で自分なりに把握した感じになる。たぶん、アメリカというブラックボックスがあって、そのラベルに「アメリカ」と書かれている状態である。

物理学、生物学、桜、鯨、稲、西郷隆盛、マイケルジャクソン、その他なんでもやっぱりブラックボックス状態である。理解にはいろいろなレベルがある、というわけであまり神経質にならなくてもいいだろう。本のイメージというよりも言葉のイメージになってしまった。

本のタイトルと中身の関係もにているところがある。翻訳ものでは原題と違う場合も多いので微妙である。文は線状性があり、冊子体になっていて、時系列的な並びになっている。しかも、巻子本ではないのでランダムアクセスしやすい。そのあたり、始まりと終わりがあるところは人生にも旅にも似ていて、また、著者のエッセンスみたいなものでもあるらしい。墓碑銘とも言われることもある。

テレビはほとんどみないので新聞のテレビ欄がごっそり頭の中から抜けている状態である。テレビの世界の有名人の名前も知らないか、うっすらとしか知らない。

その代わりといっては何であるが、アタマの中に日本語圏での本の棚がなんとなくある。これにも上には上があるはずなので自慢はできない。自分にとって気になる書き手はいろいろいるが、その分野の内部にいる人の間での見方とアウトサイダーである私にとっての見方は違うかもしれない。その代わり、ほかの分野における、その人と似た匂いをもつ人を私なりに知っているかもしれない。

たまたま翻訳者がいたり、図書館の人の気まぐれで置いていたり、置いていなかったり、書庫の奥に持っていかれたりするので、私にとっての本の世界は地域や時代に枠付けされているかもしれない。

最近記憶力が落ちていて、特に固有名詞がだめである。だから、本のタイトル、著者名もすぐ忘れる。ノートをきちんととる技術をもっていないし、ノートの管理状態も悪い。生理的、文化的にも私にとっての本の世界は枠づけされている。

されど、と強調したい。逆説的だけど、そういう制限を利かせることはできると思う。文化が環境と気質の織物のような感じで、私にとっての本の世界もある種の織物状態であると思いたい。

「本の世界についてのイメージ」について大して説明しているようにも思えないのだが、疲れてきたのでこのへんで。

2017年1月8日日曜日

具体的な人格について

ルリヤの『偉大な記憶力の物語――ある記憶術者の精神生活』という本が家にあるが、それを読んでから「人格」というものがやけに気になるようになった。

近代にまつわる様々な用語、「市民」「社会」「会社」「民主主義」「自由」その他さまざまな用語がわからないような感じで「人格」という言葉もわからない。

明治になって大急ぎで近代の諸制度もろもろを輸入したので、日本なりの形でそれらを機能させることはかなったわけだけど、出来上がった形で輸入した引き換えとして、それが出来上がる過程の理解が薄いのかもしれない。それぞれの専門家は専門家なりに、そして私のような下々の人間は下々なりに、そんなに昔でもない頃からそういう疑問なり悩みなり抱えているのかもしれない。

柳父章という人のカセット効果という言葉を知って、そういう気持ちが強くなった。まあ、それはいいけど。

人格でした。

私が自分の人格について、これこれの人格ですといっても、自画像的な振り返りにはなっても、たいして説得力は持たないと思う。そして、内省的にあれこれ述べるよりも、細々とした生活にまつわることを書き連ねたほうが、偶然の結果として、意図しないまま自分の人格について示せるのではないかと思った。いわば、風景写真を写して、風景の歪みによって、レンズの性質がわかるようなことである。

どう考えても、私が書き連ねたものを熟読するような暇な人間はいないとしか思えないのだけど、具体的な人物の人格のことを考えるためにはある分量のまとまった資料が必要なのではないかと思う。そして、何度も書いたけれども、一つそういうものがあれば、あとは断片的な資料も活用しながら、比較するという作業を通していろんなことがわかることもあるのではないかと思った。

そして、その作業のなかで、それぞれの資料はどれくらい信頼に足るものなのか、その他、資料の性質もわかると思う。また、訓練を受けない素人が作成したがゆえの不備なども、ほかの資料と突き合わせることで、互いに補いあうような感じで埋められるのではないかと思った。というより、読書の結果そういうこともありうることを学んだ。

私の人格なんかがわかったところで何が面白いことがあるのだろう?という疑問は当然起こると思われる。でも、顔が違うように心も違うということは面白いと思う。そして、ヒトの心の多様度も時系列的に変化すると思う。今、多様度が増加しつつあるのか、それとも、それは世界中、あるいは分野間のミームが混ざり合っただけで、在来種が減っていくような感じで多様度も下りつつあるのか、どちらの側面もあるような気がする。

日本人は画一的だと一般には言われる。でも、自動車などが典型であるが、似たり寄ったりな雰囲気をかもしつつ、細かい差異に富んでいるように思われる。近縁であっても、区別ができれば別種として扱うことができる。そして、日本は細長く、地形やら気候も多様であり、各地の食文化があるような感じでよく見ると「こころの地域区分」みたいなことも可能かもしれない。ただ、そのためにはデータが必要である。

時代的、あるいは世代的に見てもそうである。ネットが日常化するまでは、文字で記録する習慣がなかった人も多かったような気がする。そして、ネットが日常化してそんなに時期もたっていないので、ネット上の文字文化も成熟していないと思う。だから逆に言えば、時系列的な変化を追っていく楽しみもあるのだと思う。

私がやっていることがほとんど何の役に立たなくても、何かを調べるときの仮説設定の足場くらいにはなるのではないかと思う。なんでそう思うのか。そういうことをするためにはデータに浸る必要があると思うからだ。何に対するデータなのか自分でもよくわかっていない。

教科書のように、あるいは書店で売られているような完成された代物ではない。そして、きっと読みにくい人には読みにくいし、面白くない人にとっては面白くない。こんなところで時間をつぶしてしまってもったいなかったと思う人もなかにはいるのではないかと思う。

でも、やっぱり、「今」や「ここ」も埋め込まれているように思えてならない。たぶん、それが報われない私の仕事を支えている情熱とつながっているのだろう。

2017年1月7日土曜日

混ぜないこと

生物種の地域集団の系統保存みたいなことに関心がある。ただし、今は、生物学は日々遠くなり、せいぜいのところ生物学関連の本を読む愉しみを維持している程度である。

地域集団の系統保存にあたることをミームの世界でできないかとなんとなく思っている。あまり、自覚することはよくないことであろうけれども、精神病の当事者の集団にもいろいろ系統がある。サポートネットラグーナでWRAPの手ほどきを受けたこともあり、「道具箱」という概念は重宝している。また、べてるの家で行われている「当事者研究」という用語も自分なりに関心を示し、自分の言語標本を残すというやり方で自分なりの方法をつくろうと思っている。

ただ、全然それらの活動に対立するつもりはないのだけど、私、個人はそこそこ距離を取ろうとも思っている。文化には多様性があったほうが健全だと思うからだ。

原種として、自分のやり方にこだわってみたいと思っている。その結果、時流に遅れをとるとしても仕方のないことだと考えることにしている。

系統保存で大事なことは遺伝子を混ぜないことである。あるいは遺伝子の流入を絞り、種としてのアイデンティティを失わないことだと思う。

在来種の一つでありたいと思っている。地域の環境に対応した内発的な変化が好ましいと思っている。普遍性はないかもしれないが、それぞれの地域の環境に合致したものを、それぞれの地域の力で生み出すのが好ましいと思っている。ほかの地域のものを見るにしても参考程度にとどめ、オリジナリティを重視することがいいのではないかと思う。

手本、模倣、あるいは改良というのが日本文化の一つの作法かもしれないが、身の回りにあるものを活用しながら、自分なりのパターンを形成したい。

P・S と書いてしまうと、非常に閉鎖的な印象を受けるかもしれない。気質的には開放的な側面もあるので、刺激は受けたい。でも、せっかく日本は西南、東北方向に細長いので、その距離の効果を生かして、画一的にならず、いろんな地域でいろいろな文化が育つことを願っている。

2017年1月1日日曜日

2017年スタート

あけましておめでとうございます。
近くの人へ、遠くの人へ、それぞれのご挨拶です。

昨日、大みそかをもって、五、六十年続いた、すぐちかくの
朝市の露店の歴史が閉じられました。

滑川市場の朝市です。
滑川市場の前の道路は下は暗渠になっております。
上流のほうは小川のような側溝のような感じになっております。
天文館の近くの清滝川と似たような感じですね。

たぶん、昔は、もっとちゃんとした川だったのかもしれません。
昔、母の店の前で営業していた散髪屋さんのYさんは、
ウナギを目的に滑川の河口の桜島桟橋付近で夜釣りをしていました。

朝市は桜島でとれたさくらじまみかんや桜島大根の並ぶ場所でも
ありました。ここで朝焼かれる餅は名物でした。

祖父母の営んでいたたばこ屋もこの近くで、たばこ屋の近くに住んでいた
Yさんも朝市にいつも座って売っていました。でも、歳をとられて、
最近は姿を見かけなくなられていました。

ちょっと長くなりましたね。

いつもある風景がかけがえのない風景だったと知るのは
いつも、それがなくなるときです。なぜ意識して、そこの場を支える
一人にならなかったのだろうと、いつも悔みます。でも、すぐ忘れます。
そしておぼろげな記憶となり、それも記憶の底に沈んでしまいます。

新しく芽生えてくる世界もあります。たぶん、次の世紀あたりで
大きく育つ分野などの萌芽も、今すでに世の中に目立たない形
であるのかもしれません。

時代の変動期、転換期にあって、モザイクのように新旧のものが
身の回りに共存しています。切なさも含みながら、それを面白いと
思うことにします。

ここで生きている今を深々と受け止め、何かの形に閉じ込めたいです。
それで何になる、とも期待するわけでもないのですが、
喧噪を離れたところで時間と愛情をこめて、淡々と作業をしていく
のは楽しいです。

今、ここ、わたしの三つ組みはもう繰り返すことはできず、
一回限りの機会を通り過ぎないうちに捕まえたいです。

P・S 滑川市場の前の道路で工事があり、暗渠の姿をみたことがあります。
道路はそのうえにかぶさるようにあり、その両脇が市場なのですね。
もう、見ることはあるでしょうかね。

P・S2 何で滑川かというと、人の生活圏は流水系と結びついていると何かで
読んだことがあるのです。流水系が一つの小さな文化圏なのですね。
私の住んでいる上町(かんまち)は戦後復興期に栄え、市内中心部の中では古い区域なのですね。
考え方がちょっとだけ昔風なのかもしれません。よくもわるくもなのですが。