はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2013年4月28日日曜日

どうも心臓にきちゃったみたい

前から仮想世界の放送の場では手ががくがく震えて
文字を打ち込めないという宿痾があったけど、
どうも心臓にきちゃったみたい。といっても今のところ
問題なしといったところだと思うのだけど。

普段、精神病の症状というのは裏に隠れていて健常者
とあまり変わらないのですが、緊張する場面には弱いの
です。尋常じゃないくらい。

そこが非定型精神病でいうところの生物学的脆弱性
というものらしいのですが、どうもそれは心臓とも関わり
があるらしいことを身をもって経験しました。

多分これはいろいろな意味でまた私に制限をかけて
くる材料になるなあというところです。

まあ、心臓のほうはノーマークだったので、そっちのほう
にも気をつけないといけないよというサインだったように
思うのです。

P.S 明日はゆっくり静養して、火曜日にでもかかりつけ
医に相談してみることとします。まあ、あんまり心配しない
でくださいね。

2013年4月27日土曜日

オリジナルな願い

みなさんの自己実現像ってどんなだろう?
そういう風なことを思うようになったのは
「精神病者の自己実現」とか「当事者の自己実現」
とかいってテーマで検索していったときに、自己実現
という文字は踊っているけど、内実が空疎な印象を得た
からだ。

話は飛ぶけど、仮想世界セカンドライフには定まった目的が
ない。これは自由度が大きいということでもあるけど、セカンド
ライフを始めた多くの人々が目的を見出すことができず、
セカンドライフを去っていく要因でもある。

セカンドライフ(第二の人生)に目的がないのなら、
第一の人生、リアルライフにも本来目的はないのだろう。

といってもセカンドライフで目的を自力で選択できる人は
少ないから、実人生でもそうであるに違いなく、社会はいろいろ
とお膳立てしてくれる。

偉人伝から始まって、様々なコンテンツ類など自己実現像を
描いていくための手がかりは多い。

丁度、美容院や散髪屋さんで髪型を決められない人が
ファッション雑誌を持ち込むのとどこか似ている。

旅行先を選択するのともどこか似ている。
現実的な選択肢を選ぶという意味ではとてもよく似ている。

さて、表題はオリジナルな願いという題だった。

ささやかでもいいから自分なりの夢を描きたいという人は
意外と多いのではないかと思う。

別に実現しなくてもいいのだ。むしろ夢のイメージを具現化
することが求められている。

ひところ流行した「夢は現実化する」という自己実現本の
テーマも夢のイメージの明確化と関係深い。

最近、ブログもセカンドライフもイメージの具現化ツールでは
ないかと思うようになった。

例えば電柱の鉢植えみたいなイメージが湧いたとする。
文字にした途端、現実化に向かって歩きだすようにも
思うのだけど、セカンドライフの機能を使うとてっとり早く
イメージされたことが3DCGで表現できる。

それは貧しい表現には違いないけど、一種の型紙として
機能し、ひとたび生み出せばバリエーションを考えるという
やり方で進化させることもできる。

そうやって突拍子もないものを一つ一つ生み出して束ねて
いくと自分なりの世界観みたいなものが出来上がる。

それは現実とは関わらない自己逃避的なものと見えること
もあるけど、想像の世界で遊べることは現実を支えてくれる
ことも多い。現実の可塑性みたいなものとも関係するから
だと思う。

夢を実現できたときの価値は社会の中心よりも、周縁でこそ
大きい。それは社会の周縁でも夢は叶うことの証拠にも記録
にもなるからだ。それは歴史となり、伝統となり、後の人々を
勇気づける助けにもなるだろう。

夢は叶わなくても、挑戦すべき目標として課題を明確化する
ことは有意義かもしれない。目標が定まると通過点を設定
できる。伏線を仕掛けるなどの知恵もまわってくるかもしれない。

アイデアには価値がないとは私も思わない。思いつくということ
の大変さがよくわかっているからだ。

たしかに思いつくことにはお金がかからないかもしれない。
でもいくらお金を積んでみても思いつかないことは思いつかない
そういうこともよくあることだ。

P.S この文章もまた内実の空疎な抽象的な文章になって
しまった。遺憾ではあるけど仕方がない。それでも若干ながら
誰かにとっての手がかりになればと思っている。さらなる具現化
が必要とあらば、続きを考えてほしい。

2013年4月26日金曜日

どうしてそんなに努力するの?努力してみても仕方ないのに。

「どうしてそんなに努力するの?」と全然別々のところで言われたこと
があります。「努力してみても仕方がないのに。」と別に言われたわけ
ではないのですが、そういう風な題名にしてみて考えてみます。

確かに目的ははっきりしないと思います。目的不明の闇雲な努力なの
です。下手をすると病気の体験を前提にした何やら怪しい動機の勉強
かもしれません。それはこのブログのあちこちに書き散らしたことから
も見てとれます。

努力といっても、読書するなどの努力です。目的のはっきりしない語学
なども暫くがんばってみたこともあります。下手の横好き的なものにな
って、諸外国語に手を伸ばして挫折しました。全体的にみてみて横滑り
的にいろんなことに興味をもってしまい、雑学の寄せ集め的な感じに
なってしまいました。

ユング派の言葉ではこういう状態を「永遠の少年」と呼ぶのだそうです。
現代的な言葉に翻訳すると発達障害やADHDなどとどこかで交差する
のかもしれないです。とはいっても私はお医者さんではないので、なん
となくそう思うというだけです。

「永遠の少年」の類型の人は風船のようにふわふわと上昇していくの
ですが、空気を上手に抜いて、怪我しないように軟着陸しなければ
ならないという風なことがどこかに書いてありました。夢多き人なれば
こそ、落としどころはわきまえないといけないということなのかもしれ
ません。

こういう風に書いてみると、努力ともいえないような怪しい努力なの
ですが、それでも、全体としてみるとどういう風な動機でそうした
「努力」をかなり長い間、ほとんど切らすことなく続けてきたのでしょう?

少なくとも、砂漠の上を歩くようでもあり、大海原を漂流し続けるようでも
あった長い間、目立った目標になりえるものがなかったので、「努力」
し続けることがただ一つの生きがいだったように思うのです。

そうした怪しい「努力」を続けることが病気に対してよかったのかわる
かったのか分かりません。でも、それが生きがいではあったので
主治医も黙認しました。

案の定、風船が上がるように気分は高揚したりすることもありました。
自己意識が高揚するのを押しとどめることがその頃の生きがいに
なりました。

病気と闘うことが生きがいになりえる位の病気の重さだったのかも
しれません。急性期の体験は別としても、慢性期の辛さを私は
知りません。だから、精神病の当事者です、と言い立てることも
自分で心苦しくなるときがあります。せいぜいのところパートタイムの
当事者といったところなのです。また話題がずれました。

結局、そういう風に人生を紡いでしまいました。良くも悪くもそういう風
に出来上がってしまったのは受け入れるしかありません。
たまに自分にうぬぼれてしまうのはまあ、病気の症状みたいなもの
としたうえでも、こうやって文章にしてみて、自分の正体を眺めてみる
とみすぼらしい姿が映ります。今度は卑下してると読めるかもしれ
ませんが、「奮闘努力の甲斐もなく」といった感じが最近の心境なの
です。

そのあたりが着地点だったのかもしれません。病気の発病を除き、
大きな破たんはなく、今まで過ごしてきました。ひとえに生活を支えて
くれた家族のおかげです。得るものはあったのか無かったのかよく
わかりませんが、私なりにという点でいえばそれなりにあったのでしょう。

P.S 今日の文章は全体的に抽象的で本人にしかわからないような
文章となりました。背後にはもちろんいろいろ体験はあるのですが、
そこを書くと生々しくなりそうなのでやめました。

2013年4月23日火曜日

棚卸して人間としての面白さを明確化しそれを作品に反映させること

このブログでさんざんやっていることは自分という人間の
棚卸でもあるのかもしれない。

意外と自分のことを知らない人は多い。知っているつもり
ではあったとしても、わざわざ書き出したりはしない。

正直、正確に書き出せるかどうかはともかくとして、
書き出されたものは手がかりとして機能すると思う。

人によって異論もあるかもしれないけれど、その人によって
生み出された作品はその人を反映していると思う。

模倣されたものを表現するとしても、何を選び出しているのか?
どう解釈しているのか?何を付け加えているのかなどによって
やはり、その人を反映するものだと思う。

いいものを見ていることは舌を肥やし、センスをよくし、いいもの
を生み出していくことは疑えない。歴史によって生み出された
文化遺産を生かさないのはもったいない。

一方で地方に住むとか財力がないとかの条件によって、そういう
恵みから遠ざけられている人々も存在する。そういった人はどう
努力しても俗悪なものしか生み出せないのだろうか?

そんなことはないと思う。たとえ素朴で稚拙なものしか生み出せな
ったとしても、それなりの努力や工夫の余地はあり、表現されたもの
は人に伝わるのだと思う。

閉鎖病棟の中で生み出されたものにも人は感じ入ってしまう。限られた
世界の中で生み出されたという逆説が人の胸を打つ。

0と1の関係、表と裏の関係の対等性みたいなものを感じる。

マルクスアウレリウスという人がいる。『自省録』という本を書いた人だ。
ちなみに訳者は精神科医の神谷美恵子。アウレリウスは皇帝なのでも
ちろん偉い人なのだけど、本人は読書三昧の思索の日々が送れること
を望んでいたようだ。同じような人にセネカという人もいる。
『人生の短さについて』という本を書いた人だ。

これらの本をちょっとでもめくるとものを考える時間があるということは
贅沢なのだということが分かる。

私の心が折れないで支えられた本なのかもしれない。

話は戻るけど、手がかりとしていろいろ書き出されたとしても、それを
作品に反映していくことは難しい。そこにはきっと技術がいるに違いない。

企業に理念があったとしても、理念を実現させるには方法が必要なこと
とそれは似ている。

逆に方法、すなわち技術があったとしても理念がなければ、方向付けが
定まらない。自分は何を目指しているのか、目指すべきなのかわからず、
その時々の流行などに流されてしまう。

自分をしっかり持つという意味では理念的なものは必要だと思う。
そこが少しでも明確になっていくと、そのための道具立てはどうすればいい
のかということも定まってくる。

ところでエラそうなことを散々書いたにも関わらず、私は進路がハッキリしない。
もちろん仕事についたという意味では定まったけど、それとは別に自分の人生
としての進路も考えないといけない。そしてそういう大命題はなかなか思いつけ
ないのも事実だ。

そこで表現するという仮の目的を考えてみる。表現するという仮の目的地の
向こうには何かがある。それは必ずしも職業的なものとは交わらないの
かもしれないにしても。究極目的、人生の目的など私などにはわかりようも
ないけれど、わからないなりに表現することで何かが見えてくるかもしれない。
すこし周りの風景も違ってくるかもしれない、そんなところである。

よく言う自分探しのようなもの。海外旅行したり、留学するカネのない私に
おあつらえむきな自分探しの方法、そんなところかもしれない。

青い鳥は遠いところにいるのではなく、自分の手の中にいる。
こうやってものを書けること自体幸せには違いない。
自己満足には違いないけれど、たぶんそういうひと時をもてること
自体は幸福なことに違いない。この時代に感謝。

P.S 「人間としての面白さ」なんて自分で書くところが全然奥ゆかしく
ないといえるのだけど、自己アピールも必要な時代なのかもしれない。
奥ゆかしくみせていても、それは見せかけなのかもしれず、動物として
の人間は欲望というものを持っている。はしたないという感じで不快感
を与えない程度には欲望をそのまま正直に出してみるというのもいいの
かもしれない。

2013年4月21日日曜日

意識の媒体

前から気になっていることがある。
特にパソコン画面みてるととても気になることなのだけど。

意識の媒体って何だろう?知覚像を表示する器体は何
なのだろう?っていう疑問だ。何に映っているのだろう
というか、でも、よく考えるとバカみたいな話だ。何かに
表示されていたとしても、それを見る何かがあるわけだ
から単なる入れ子じゃないか?でもタマネギ状態という
のはヒントになりうる。タマネギの皮を剥いていくと、、、
みたいな話だ。そういえば劇場モデルとか言って、
脳内の劇場で映写されていたとしても、それを見る何か
があって、みたいな話で堂々巡りになってしまうという
話があった。ダニエル・デネットとかいう哲学者が書いて
いた。

昔思ってた空想で、テレビのブラウン管にビデオカメラ
がかぶさっているようなものが意識なのかなと思った
ことがある。テレビとビデオカメラをつなぎブラウン管を
撮影するとハウリングみたいなのが起こり、合わせ鏡
みたいな像が映る。

意識というのはハウリングみたいな現象であって、
増幅しながら視覚情報がぐるぐる回っているうちに
創発みたいな現象が起こり、別次元に飛び出して
しまうのだろうかといった空想もしたことがある。

色も音ももちろん意味も存在しない脳の外の世界
も奇怪だけど、どこかこの世的なものではない
意識世界も奇怪だ。もっともこの世的なもので
あるはずの知覚された現実世界がどこかこの世
的ではないというのは不思議だ。頭を切開しても
こんな世界があるわけないからだ。

日本語の文字の連なりをみるといよいよ「ここ」は
脳内世界である感じが濃厚に漂ってくる。自動的
に情報処理されニュアンスの色合いの質感まで
かもし出されてくるからだ。

まあ、ここまでお勉強したことをつらつら書いてみ
たのだけど、では私がたまに書いたりする「あちら
側」って何なのだろうと思う。私は別に瞑想などや
ってみて体験としてこの世を超えたものと出会いた
いという感じは希薄だと思う。少なくとも今現在は
そんな感じだ。でも、何か表現として、「あちら側」
を感じさせるものを生み出したいという意欲だけ
はある。それだけの才能は多分ないとも思うの
だけど。

それも、インパクトがあり、いかにも超越的な
というものを生み出したいという欲望はあまり
持たない。むしろ、嗅覚の優れた人だけに
かぎ分けられるような微細な香りのするような
雰囲気の何かができたらなあと思う。もとよりこれは
単なる欲望である。単にそういうものに憧れる
というだけの話かもしれない。

そんな感じで自然が生み出したものを改めて
眺めてみると通奏低音のようにそういう趣が
あるような気がする。そうでないとしたら、
多分感性が鈍っているのだ。もちろん私自身
の感性も鈍い。それでも、雨に濡れたアジサイ
の葉とか、夕焼け朝焼け、満月にかさがかかる
とき、そうゆうのに非日常的な不思議な感覚を
味わうひと時ってないだろうか。また話がずれた。

2013年4月20日土曜日

その状況下でやれる精一杯のことって何だろう?

やり込みプレイという用語が気になっている。
ゲームの世界の用語で一回終わらせたゲームを
もう一度プレイする際、ルールで制限をかけて
楽しむというやり方だ。

これは実人生にも応用がきく。

大部分の人は自分に才能なんかみとめていない
と思う。そこをルールとしての制限とする。

その状況下でどこまでプレイできるのか?みたい
な話。

自分に関わる制限がすべてやり込みプレイのルール
として使えることがわかる。下手をすると一生で二回分
の人生を楽しめるかもしれない。

こうなると平凡なる自分という立ち位置も、人生半分
無為に生きてしまったというような背景も魅力的な
ハードルとして立ち現われてくる。

とはいうものの、、、という人ももちろんいるだろう。
そういう前向きな考えをもつことができたのなら、
とっくの昔にもうちょっとマシな人生送れたかもしれ
ないと人は言うだろう。

それでも私は言ってみる。やりこみプレイという
言葉はヒントになるキーワードではないかと。

私の場合はネットで無料で使える媒体をやり込み
プレイの現場として使ってきた。

社会的地位の上昇みたいな目的でやると途中で
めげてしまいかねない。あくまでも、自分の中の
楽しみとしてやるのが一番だと思う。自分の人生は
つまるところ自分の人生なのだ。自分が納得できたら
それでいいではないか。

人によっては客観的結果を求めるかもしれない。
自己満足では足りないと。

それもモチベーションを失わせてしまう理由になり
やすい。なんだか出来レースのように世の中全体
が見えてしまいがちだ。

ささやかではあるけれど、世界中から検索できる
という条件は大きいと思う。

自分に似た誰かは世の中に一人くらいはいるに
違いない。多くの人から評価を受けたいという
欲望もそりゃあるだろうけど、自分に似た一人の
受け手に届けばいいという考え方もあるだろう。

そもそも、パブリックに発表されたコンテンツも
本当の意味で届いているのだろうか?
一時的な熱狂かもしれず、それよりはきちんと
した一人の受け手がいたほうがいいのではない
だろうか?

これは職業的に食っていくという発想とは違う
のかもしれない。多くの人に受け入れられると
いうこととは違うから。

まったく自分とは接点のない人と、どこかで
つながるという面白さを私は期待している。

縁もゆかりもないところに自分と似たような
ものの考え方をする人がいたら面白いだろう
なあと思う。

逆に全然異質な存在として認識されるという
面白さもあるかもしれない。

世の中にはいろんな人がいて、そのいろんな
人がいろんな表現をするというしごく単純な
ことの面白さを追求したいのだ。

いろんな人といっても珍獣珍鳥のような存在
ではなく、そこらへんにいる範囲でのいろんな
人のことだ。マンションの同じ階の人の考えている
いろんなこと、単にそんなことでも面白いように
思うのだ。平凡という言葉では括りきれない
ような内容もあるはずである。

なんだか表現するにはつまらないと最初から
思い込んで、消えてしまうにはもったいない
と思うのだ。

平凡な存在というのを受け入れたうえで、
その中にある可能性みたいなものを作用
させたら平凡とは言えない花も咲くのでは
なかろうか?現在を生きる人、ひとりひとり
にはそんな資格が本人が気づいていないだ
けで実はあるのではないか?そんな気がするのだ。

教養と人間の深みについて

まずは括弧で両方ともくくろう。
「教養」のほうも「人間の深み」のほうも恥ずかしい言葉
かもしれない。そしてここで言う「恥ずかしい」という概念も、
『素足の心理療法』という本の中に書いていたことであって
受け売りに過ぎない。

受け売りに過ぎないのではあるけど、その言葉を知ること
によって、いくらかは恥をかかなくて済む、そういうことは
あるかもしれない。

受け売りの言葉を振り回す、そういう意味では恥の上塗り
にすぎないこともあったとしても。これも自分で思いついた
ことではなく、どこかから借りてきた言葉だと思う。

重ね着に重ね着を重ねた借り物の言葉を必死になって、
自分の言葉に着こなしていく、たぶんこれが精一杯のこと
だと思う。その段階で一つ一つの言葉の意味を自分なりに
考えていく、そんな作業の積み重ねだと思う。
それも素手ではなくて、それまでに重ね着された借り物の
言葉の束を道具として使いながら。

経験に裏打ちされた言葉を持っている人は偉いと思う。
そういう意味では教養など単なるファッションであって
見かけを綺麗にするだけのものに違いない。

借り物の言葉の束ではあったとしても、自分のありったけ
の力を使いながら、自分なりに言葉の意味を考え抜く、
これも経験なのだろうか?と思う。バーチャルな経験の
比重が重くなっている最近の人はハードな体験を経てない
ので存在感が軽いという悩みをもっているらしい。

畳の上の水練などという古い言葉もある。現地に行く予定
もなく、図書館の旅行ガイドなどを読み込み、旅行計画だけ
を精緻に編んでいく、そういう作業に似ているのかもしれない。

さしたる経験を持たなくても、言葉さえもっていたら思いを
巡らせることができる。それが教養の利得ということなの
かもしれない。それは人間の深みと関係するのだろうか?

人間の深みとは精神の深み。結局それは動けないことと
裏腹なことのような気がする。現実に制約があって、外で
は動けないから内面深く掘っていく、そしてそういう時間だ
けは恵まれている、そんな条件下におこること。

自由な内面とはいうものの、内面を支えているのは現実
から得られる素材なので、意外とイメージの世界は不自由
だ。そんなに自由に思い描けない。自分が考ええることな
んて知れてる。限界がある。

と、ここまでコラージュで切り貼りするような感じで齧ったこと
を継ぎ合せて「自分の文章」を作成してみた。醜いキメラだ
としてもそれが自分の姿だから仕方がない。何ら新しいこと
は書いていないと思う。だったら書く必要なんかないじゃないか
とも思えるのだけど、ここを出発点にして自分なりの鉱脈を
探していきたいと思うのだ。多分このブログ全体にわたって
貫かれている方針だと思う。吐き出されたものは鉱滓みたい
なものだ。

まあ、ある学習者がこれまで学んだことを使いながらどれ程
のものを考えうるのかという試みにはなったのかもしれない。
自分の心のレントゲン写真みたいなもの。見る人が見れば
いろんなものが透けて見えるような気がする。まさに「恥ずかしい」
話だけど、正直に自分の姿が映ればいいと思っている。

ある時期の地方都市に住む、私のような人間にとって、
「教養」とはどういうイメージのものなのか、そして
「人間の深み」とはどういうイメージのものなのかということ
の標本みたいなものだ。そういう情報が保存された化石
みたいなものかもしれない。人々の心の中には存在した
としてもこうやって形象化されるというケースは意外と少ない
のかもしれないから。一点の化石ではあったとしても、そういう
ものが存在したという証拠にはなる。

教養書という形で本はばらまかれる。でもそれを取った人の
手の中でどういう形で受け取られるのか?作り手側の人は
関心をもったとしても確かめようはない。海外放送に対応して
受信報告書というものが作られる。私のブログもそんな機能
があるのかもしれない。受信報告書のたとえを使うと、電波の
届く範囲の端っこであればあるほど、面白い受信報告書が
書けるのかもしれない。私は比較的社会の周縁近くで生きている
という自覚がある。社会の周縁にいる人でものを表現してみよう
という意欲を見せる人は面白いことにあまりいない。

エリートだけが表現すればいいという時代ではもちろんないから
私のような者が表現することにも十分な意味と価値があるのかも
しれない。

P.S オーバーな表現つかっていると思う。「考え抜く」という言葉
を使うには一週間くらいパズルの問題に悩んだ経験があったほう
がいいのかも知れない。「自分は本当は何がやりたいのか?」という
問題だったら時々悩むけどいつも堂々巡りだ。

2013年4月19日金曜日

思いを巡らせることと現実化

現実という言葉をひっくり返すと実現となる。現実実現、実現現実、
おまじないのように言葉を繰り返すと不思議な気分になってくる。
この現実世界そのものも実現されたものであって、現実世界が実現
される前は非現実世界が広がっていた、とか、現実世界を実現させた
のは「このワタシなんだ」とか(そんなアホな)。この妄想をまじめに
追及するか、なーんちゃってと流してしまうかが、私と麻原彰晃を
分ける境目になっているのかもしれないし、私が「宗教活動」などに走る
ことなく、一介の当事者としてつつがなく再発もなく、やりすごしている
ということなのかもしれないし、もともと99パーセントの当事者はなんなく
こういうファンタジーめいた空想をやり過ごしているに違いないとも思う。

内界から引き出されたイメージに乗っかって「運動」を展開していくには
肝が必要であって、そういう肝はカミが憑依したりしないことにはできあが
らないだろう。小心者的に小さくなった今は望むべくもない。でも、小さく
なったものもまた、自己イメージではある。

自己イメージなるものは椅子が作っていくのだろうか?線香と同じ火が
山火事になってしまうかのように、小さな自己イメージも育っていくと
コントロール不能なくらいの大きさになってしまうのだろうか?

一種のマインドコントロールめいたものを小心な自分に上手にかけていって
だんだんとBigな存在になっていくのか?自分も他人たちもBigなスケールに
だんだんと納得していくのだろうか?イメージと自分の器についての興味は
つきない。

ただ面白いことはもやもやが文字になってこの世に引き出された途端にもの
ごとは現実化の方向へ動き出すという事実だと思う。文字にされたものに
絵をつけ、2D化、3D化、アニメーションにして動きをつけるなどといった操作
をするとどんどん妄想はリアリティを帯びてくる。リアリティを帯びるにしたがって
まずは自分が、そして周囲の他人たちがそのイメージに巻き込まれていく。

世界史の大きな物語も一種のバタフライ効果であって、その過程で実現された
ものたちも最初のきっかけは誰かの頭に浮かんだ気の利いただけの
キーワードだったのかもしれない。
とするとインターネットという巨大な氷河に凍結されているのは人類をゆる
がすことになる危険なミームということなのだろうか?手に乗るサイズの
コンピュータをひとりひとりに渡されめいめい勝手なことをネットに書き込ん
でいる。遺伝的プログラミングという言葉が一時期はやったけど、ひとり
ひとりが文化遺伝子の培養器ということなのか?養殖させた、アイデアを
胴元が引き上げる、羊飼いが羊の乳を搾り取るような感じで、、、という
ことなのだろうか?妄想を勝手に膨らませる作業は楽しい。

でも、こういう妄想をまじめに考え始めるという人もいないわけではない
だろう。そういう妄想も詳細化していくと、まずは自分が、そして周囲のひと
びとがという風な感じで巻き込まれ始める。宇宙を実現するために、だれが
周囲をどのように巻き込んだ結果こうなってしまったのか?物質を巻き込ん
で生命が実現し、生命はお互いを巻き込んだり、巻き込まれたりした挙句
脳みたいなものを実現させてしまった。こういう大きな物語はメビウスの輪
のような感じでまた宇宙を実現させることで閉じられるのか、昔話から始まる
仮想世界の進化はそういうことの予行演習なのか、、、。ヨタ話はこのへんで。

P.S まあ今日の話は日本語にもなっていない、支離滅裂なお話です。
まじめに受け取る人はたぶんいないと思うのですが、なーんちゃってと
流しつつ、本気で考えていることを伝えていると意地悪な読者には伝わって
しまうのかもしれません。思えば、冗談とかも毒ありますしね。

P.S どこまでが冗談でどこからが本気なのか?とかけてそのこころは
と解くと『ヴァリス』という作品を思いつく。かなりまじめな気持ちで全世界に
作品という種をばらまいたと受け取る不健康な読者の一人が私だと思う。
などと書き始めると、まったく冗談のつもりで書き始めたこの文章自体に
不健康な影がちらついてくる。

自分なりのルールを設定すること



画像編集ソフト、イラストレーターを自分なり?のやり方で使っている。
もともとペンタブレットを使うという発想も、下書きした画像を取り込むと
いう発想ももっていなかったためにできてしまったやり方だ。

画像見てわかるとおり、単純な線ばかりを多く使っている。(葉のところは
やり方教えてもらったので複雑な曲線一部使っている)

ずっとこんなやり方続けるうちに見えてきたことは、描いているうちに
自分なりのルールみたいなものが立ち上がってきて、そのルールにしたが
ってやっていくとスポーツの中で戦術が進化していくみたいな感じで
その世界が広がっていくような感じがあることだ。

こういうことを最初に気がついたのはtwitter使っているときに、俳句や
短歌のようなものだと気がついたときだった。

俳句や短歌は文字数を絞る、季語をつかうなどのルールで縛られた
短詩であることが逆に世界を広げているように思う。twitterも140字で
盛れる文字の器でしかないけれど、使いようによっては十分なサイズだ。

同じアナロジーを自分の場合は地方に住んでいること、精神病の履歴が
あること、リウマチの症状が出始めていること等々に自分なりに応用して
みようかなと思った。といっても具体的に何かやっているということでは
ないのだけど、制約を受け入れることで見えてくる世界もあるのではなか
ろうかと思ったのだった。話は広がるけど、イラストレーターに戻る。

イラストレーターで描いたものをCGと呼ぶべきなのかどうかわからないけ
れど、CGで描いたものは深みがなく、人間味もなく、感動しないという人
がいる。確かにCGの歴史はかつて「魔法の素材」と呼ばれたプラスチック
の歴史と似ているような気がする。プラスチックでバンドでも何でもつくって
みたという時期も一時期あったらしい。そういう意味でどこなくプラスチック
臭がする感じのするCGではあるけれど、本当に深みも人間味も出せない
のだろうか?

こうできているというよりは単にこうありたいという理想像なのだけど、
簡素なCGの表現の背後に何かを滲ませるということが可能なのではない
かと思う。ワープロの文字の背後にでも行間というものは十分表現できる
ように。私にわびさびなんて解説できる立場にはないけれど、わびさびは
簡素さのもつ逆説を利用したもののように思う。茶室の狭さも、制約のも
つ逆説とどこかで重なる。技術てんこ盛りのCG表現はそれはそれでいいけ
れど、どこか厚化粧みたいなところもある。私は子供の頃、切手集めして
たのだけど、希少価値は別にしても切手の魅力は過去のもの、戦前の
切手のほうが存在感があるのを不思議に思っていた。印刷技術が進化
していくにしたがって失われていく魅力もあるのである。

私は切手もアニメもチェコスロバキアのものが好きだ。結論らしきものは
ないのだけど、とりとめもない話なのでとりとめもなく終わるとしよう。

https://www.google.com/search?hl=ja&gs_rn=9&gs_ri=psy-ab&tok=0tzl73_0XxFPDPG-xX4K6A&suggest=p&gs_is=1&cp=11&gs_id=mn&xhr=t&q=%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%90%E3%82%AD%E3%82%A2+%E5%88%87%E6%89%8B&bav=on.2,or.r_cp.r_qf.&bvm=bv.45373924,d.dGI&biw=1366&bih=667&bs=1&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&ei=S6NwUbqOEcickQWu9oDIDw

P.S 機械時計や機械式カメラに人間味や温かさを感じる感性は不思議に思う。
そういった「古き良き郷愁」みたいなものはデジタルの世界にも引き継がれるのだろうか?
白黒のマッキントッシュの画像やら、アーケードゲーム、ファミコンのレトロゲームの
画像に郷愁を感じるのだろうか?


2013年4月17日水曜日

今日からまた働くことになりました。

今日からまた働くことになりました。
ラグーナ出版(株)という地元の出版社です。
最終バスつかまえたような気分です。

ニート生活はニート生活で私には天国みたいな
部分もあったのですが、何事にも潮時というのが
あるのかなあ、となんとなく思ったのでした。

水戸黄門の「もういいでしょう」というセリフなどが
なんとなく浮かびます。

生活を切り替えて、アタマのねじもしっかりと
巻かなければなりません。

長らくのニート生活ですっかり体はなまっています。
仕事はじめは何事であれ、きついものですが、
しばらく我慢すれば、体は慣れていきます。

無理をせずにきっちりとやりたいです。

2013年4月16日火曜日

私の中の中二病的な要素

少し昔の文章を読むと恥ずかしさが胸いっぱいに
こみあげてきます。かといってこれから恥ずかしくない
文章を書けるかというと、相変わらず恥ずかしい文章
を書き続けていくのだと思います。

私なりに恥を知ることは知っていたとしても、
書いているときは高揚した気持ちのもとにいるので
どうしようもありません。

まあ、要は一晩寝かせるなどして、恥ずかしい部分を
推敲したりすればいいのですけど、恥ずかしいものを
恥ずかしいままに垂れ流していくことを選択してしまい
ました。笑っていただけたら幸いです。

単なる道化なのです。道化である、自分をそのまま
なるだけ偽らないようにして表に出しています。

自分のいいところも、悪いところも、賢いところも、
そして勿論愚かなところも全部出てくればいいと思います。
賢いところも、なんて自分で書いてしまうところも
笑ってしまう人もいるかもしれませんが、たぶんプライド
みたいなものもあるにはあるのです。

もちろん書かないで黙秘しているところもあるし、
よく見せようという計算もどこかで働いていることでしょう。

でも、すべてを含めて長い間にはいろんなものがちらちら
と漏れ出てくるでしょう。隠しおおすことなんてできないの
です。特に嘘をつくのは下手なので、どうせつけない嘘なら
正直にさらけだしてしまおうという計算も働いています。
といっても、全てを正直に書けるほどの勇気もまたもって
はいないのですけども。

まあもっとも、私のブログ読む人なんてどれほどいるのでしょう。
基本、自分のことしか書いていないし、アカの他人、それも
一般のひとのことが知りたいという既得な人もそんなには
いないでしょう。

ある意味精一杯のことを書いているので、一般の人が
その人なりに精一杯のことを考えて書くとこういうことに
なるという見本にはなるのではないでしょうか?

一般の人が考えることだから高々知れている、おそらく
マスコミその他の意見の受け売りにすぎないだろうし、
こう考える人も大勢でしょう。

でも、そこでいう一般の人というのはしっかり調べて考え
られたものではなく、何とはなしにというかマスコミによって
植えつけられた「一般の人」のイメージにしか過ぎないのでは
ないでしょうか?

それぞれの人はそれぞれの地域に住み、意外とかけ離れた
歴史的背景をそれぞれの地域は持っています。食文化も違う
ことから分かると思うのですが、歴史が違うとその歴史的背景
に影響を受ける感じで違ったものの考え方とか生まれてくるの
だと思います。一地域内というよりも、モザイク状に分かれている
ように思うのです。もちろん世代によっても影響されるものは
違います。ひとりひとり顔が違うように考えることも違うことは
常識みたいなものですよね。

ひとりひとりの違い、その多様性って意外と面白いものだと
思うのです。でもあらためてそのことを自覚しない人が多い
から皆あまりそれを表現してカタチにしたりしません。

実にもったいないことだと思います。普通の人にも何かのきっかけ
で普通でない何かが生み出せるチャンスはあるのにといつも
思うのです。多様性のほうをもっと意識して、棚卸するような
感じで自分の中にある要素を明確化していくと面白いことが
できるように思うのです。

他人の目になって自分のブログを読みたい

他人の目になって自分のブログを読みたい。
でも、その他人の目になるという操作が私の場合なかなか
できない。

突き放して、もっと覚めた目に仮になってみて見直してみる
そういうことは必要だ。一種俳優的な要素がいるのだろうか?

一般的な他人ではなくて、もっと近くの他人、友達とか親族とか
そういう他人に仮になってみて、想像してみて読んでみる、
そういうことになるのだろうか?

それも私には難しい。他人の身になるという操作が私には
難しいのだ。

きっと自己中心的なのだろう。それとも想像力が足りないのか。
他人のことをあまり知らないというわけではない。

ほかの人といろんな話題について深く話すことはけっこう多いの
で素材としてのほかの人についての知識はたくさん記憶している
と思う。

その一方で思い込みが激しい。そして、若干常識からずれている
部分もあることが話を難しくしている。

話はもっと簡単なのかもしれない。他人の目になる、他人の身に
なってものを考えるというのは意外と日常的にやっていて、それ
だからこそ日本社会でそう問題を起こすこともなく、日々送っている
のかもしれない。

親切にする、といっても押しつけがましくやるのではないとすると、
一応他人に対して配慮していることになる。

他人に対する配慮というものをもう少し意識的に行うということなの
かもしれない。

母とアニミズム、そして唯物論、スピ系の本

前にも書いたけど、母は徳之島生まれで、アニミズム
みたいな感覚をちょっとだけ持っている。

http://epimbi-madrigal.blogspot.jp/2012/06/blog-post_7700.html

母からじっくり話を聞いたことはない。
なんだか、せっかく出来ている母の世界を壊しそうな
感じがするからだ。

仏壇周りの母の感じをよくみていると、
演劇的な手法で、死んだ父(父が死ぬ前は祖父母)
に話しかけるような感じで手を合わせたりしていた。

それも仰々しく、長々しくやるのではなく、
日常の中でさりげなく、砂糖一振りという感じで
やるのだった。うまくここで再現はできないのだけど、
その世界を壊したくないような感じがして、母から
「あなたも拝みなさい」と言われると自然に体が
動いてしまうのだった。兄もまた素直に母の気持ちかなにかが
伝わり、私より長々と仏壇にお祈りをしている。

ところで、母はそういう素朴な信仰を信じ込んでいるのか
というとそうでもないような気がする。母からこんな話を
聞いたからだ。

母がまだ小さいとき、舞台は戦前か戦後復帰する前
の徳之島。母のそばには母の父がいる。
母の父は徳之島の島尻にいて、東京に住む母の兄
から一週間に一度まとめて郵便で東京で発行された
新聞を送ってもらったり、雑誌を送ってもらったりして
読んでいた。学者みたいな人だったそうだ。
読んでどうするかというと、蒋介石はどうの、
ムッソリーニがどうのと集落の小作人などを集めて
皆の前で解説していたそうだ。

祖父は集落の地主であったけど、小作人を泣かすよう
なことはしなかった、農作物が不作の年は一袋づつ
小麦を小作人たちに届けるよう頼んだ、と母に聞いた。
祖父の説明が長くなってしまった。祖父は合理的な
考え方をする人でこんな話をした。

母の前でろうそくの炎をつけて、そして息を吹きかけて
消してしまった。そして、「命というものはこういうものだ。
霊魂というのはないのだ。」そういう風なことを言ったら
しい。この話を悲しそうに母は語り、やっぱりそういうもの
なのかねぇと私に言った。もちろん私は何も答えなかった
けど。

しばらく前に私の姉が母にスピリチュアル系の読み物を
送ってきた。どうやらそういう系統の本を姉は読んでいる
らしい。姉は二人いて、埼玉と大阪に嫁いでいる。
人生の午後3時、自分の先々のこともなんとなく考えるよ
うになったし、かといって母譲りの素朴な信仰では満足
できなくなったということなのかなあと何となく私自身は
思っている。

母はその本をしばらく毎晩のように読んでいた。
私は徳之島の民俗に根差した母の素朴な信仰はそれは
それで大事な感覚だと思っていたので、
「そういう本を読むよりも、周囲の人から習った昔ながら
のやり方を大事にしたほうがいいのじゃない?」と言った
けど、あまり伝わらなかった。とはいえ、母の仏壇周り
の行動はほとんど影響も受けなかったし、そのうち本も
飽きてしまったみたいだった。

最後に仏壇のことも書いておこう。家の仏壇は特殊だ。
もともと父方の祖父母の家で使っていたもので、いつの
頃に作ったものかは定かではない。沖縄で作られた仏壇
なのだそうだ。簡素な感じの木製だ。父が生きていたとき
に一度は新調しようという話もあったけど、私が頑強に
反対し、そのまま古いものを使っている。

一応、家は、浄土真宗に所属しているけど、根本的には
限りなく琉球神道的というか徳之島的な要素が大きいと思う。

母の子である私自身はどうなのか?というと西欧的なものと
東洋的なものの狭間にいるような気がする。現代の日本人
なら誰でもそうなのかもしれないけれど。いろいろ雑多な
要素が自分の中に混在し、矛盾しながらなんとか摺合せ、
折り合わせをしよう、整理しようとしているのかもしれない。


2013年4月14日日曜日

頭の悪さとイレギュラーな反応

文章読んでも分かる通り、私はそんなに頭がいいという
わけでもない。むしろ学習するだけ痛いとこが目につくといえる。

頭の悪さ、鈍さみたいなものをうまく作用させると、イレギュラー
な反応を引き出すことができないのだろうか?と密かに思う。

ヴァナキュラーな建築があるのなら、ひとの存在そのものが
ヴァナキュラーといったものもあるのではなかろうか?

知識や情報は流通に乗り、電波に乗り拡散されるけど、
届いたものはその人の生活の文脈にしたがって利用される。

数学の専門書の文章のカーゴカルト的使用法みたいなものも
考えられるのではないか、例としては。

それも、妙にオカルトチックな使用法というよりも、その人なりの
使いまわし方みたいな使用法もありだと思う。

多分そういうことも頭が適度に悪いから可能なのだと思う。

といっても、人によっては嫌味な書き方するなあと読む人もいるかも
しれない。あまり使わない語彙使うこともあるから、自分で本当は
頭悪いなんて思ってもいないでしょ、と読む人もいるかもしれない。

語彙を使えることと、意味をしっかり分かっているということは違う。
意味のとらえ方も正統的、異端的、主流的、傍流的、多分いろいろ
だと思う。知識の民主化そのものを嫌っている人もいるかもしれない。
民衆が知識を使うことで意味がずれ、あるいは堕落していくと。

魔女が異端審問かけられたようなことは現代でも起こりうると個人的
には思う。火あぶりといった形ではさすがに行われないとしても、もっと
隠微なやりかたで疎外されると思う。

イレギュラーな反応、あるいはイレギュラーな読みが創造的に機能する
ことはありうるのだろうか?

進化の起源がDNAの転写まちがいであるケースもありうる
ようにミームの場合でも同じようなことはおこりうるだろう。

ただしDNAの場合もそうであるようにむしろ破壊的に働くことが多かろう
と思う。あるいは中立的で単なるノイズとしてあつかわれるというか。

全体のコントロールが難しいネットの世界ではよくもわるくも自然のいとなみ
としてミームの集合的な編集が行われているように思う。熱運動みたいな
感じで細胞の中の分子が烏合衆参しているような感じで、ネットワーク中の
個人も何かゲームめいたことをしているのもしれない。

あまり深いことは考えずにガラクタを吐き出せばいいのかもしれない。

DNA中にはイントロンという領域がある。機能をもたないガラクタのような
領域。でも、何かの折に意味をもちはじめ、リクルートされるような感じで
代謝機能中のどこかのパートをうけもつかもしれない。

ガラクタのような記号列でも読み手にとっては意味をもつということも
たまにはあるような気がする。意味そのものにはなっていなくても、
ブログ全体の雰囲気を演出する何かの要素にはなっているかもしれないし。

頭の痛くなるような(別に全然痛くないという人もたくさんおられるだろう)のは
そろそろやめよう。

P.S 頭のよし悪し、といってもどこを基準にとるかで話は違ってくる。
そう書くと偏差値的な序列の世界を思い出し、吐き気がしてくる。
おまけに背伸びをしたような書き方はとても見苦しい。まあ、公刊された本の
書き手にも、やけにものものしい書き方をしてしまうひともいるから、自分をよりよく
見せようと思うのは業みたいなものかもしれない。

本質的に新しい考え方のカケラ

本質的に新しいなどと書くのは誰でもできそうだけど、
それを実現するのは難しそうだ。

新しいものなら、案外多くの人が日常の中で言語表現
として使っている。組み合わせの妙を考え付くのはそんなに
難しいということでもなかろう。

そこに本質的と冠がかかると難しくなる。
生き物で例えると品種レベルでの新種なのか、
種レベルでの新種か、属レベルなのか、門レベルなのか?
同じような例えは生み出したものの新しさについても
成り立つと思う。生み出したものはどういう母集団の中の
バリエーションになるのだろうか?という発想だ。

容易推考、すなわちその材料を与えられたら誰でも
思いつくという範囲を越えて、その人でないと思いつかない
ようなものごとはどうやったら生み出せるのだろう?
たとえカケラのようなもの糸口にしか過ぎないようなもの
だとしても、そういったものをこの世に引き出すにはどういう
努力をすればいいのだろう?

ここで思いつくのは、私にとってのネットの世界は非常に
多くの、おそらく大部分は無名の人の共同作業によって
成り立っているという事実だと思う。

”無名の人の共同作業”とかなんとか文字列を思いついたら
検索かけてみる。今やってみたのだけど、
残念ながら釣れなかった。多分このテーマで書いたら何か
一席できるだろう。まあ、よく探せば似たような話題もどこか
にあるかもしれない。

気になる文字列で釣り上げた文章はEvernoteにスクラップ
ブックみたいに貯めている。何となく読みながら、なんとなく
一度は忘れてしまう。

で、全然違うところで文章書いていると、過去読んだ文章の
切れ端みたいなのが浮かんできて、そういうのを織り合わせて
文章書いているような気がする。

私もまた無名の人々のうちの一人だから、食物連鎖のように
情報やアイデアは誰かに食べられて、またそれが誰かへと
いった生態系になっているのかもしれない。

有名無名は微妙な差異であり、どちらにしても大部分の人は
時間が過ぎていくと忘れられる。大いなる歴史の河の流れに
紛れ込んでしまう。現代は情報が変なところに残ってしまい、
変なタイミングで、変な仕方でまた表面に浮き上がるという
可能性もないではない。

食物連鎖に戻ると、食物連鎖のピラミッドの上位階層、
下位階層に関わらず、重要な種が存在するということである。
情報生態系内のアイデア移動についても、後で追跡可能かも
しれない。そのアイデアがどこで発生したか、あるいはアイデア
の組み合わせがどこで出会ったかみたいなことも追跡可能に
なるのかもしれないと薄らながら思う。個人情報の収集が問題
になっているけれども、案外、小さな個人の業績を守るという
方向で使われることもあるかもしれない。

誰もが事実を知りたいと思う。真実を知りたいと思う。
2013年の真実って一体何なのだろう?誰かが何かを書き込んだ
あるいは描いた、公開した、そのことの結果は何だろう?
後世への影響は何だろう?

今までは草の根の個人にそんな力はないとされてきた。体よく
横取りさえできたのかもしれない。でも痕跡は意外と残る。
今の時代、アイデアが生まれ出てくる現場の息遣いさえ保存
可能なのかもしれない。

別に私自身が何やら特別な個人というわけではない。ただ何となく
思うのはネットの海に埋もれている個人、あるいは情報の中に
何かが隠れているのではないだろうか?ということ。

宮沢賢治にしろ、ヘンリーダーガーにしろ、誰かに発見され、
評価が集まると皆が崇め始める。

私思うのだけど、ネットの海の中でただで手に入るコンテンツの
中にも似たようなものが混じりこんでいるのではないかと思うの
だ。だから自分の目を養っていきたい。権威筋の評価のあるなし
に関わらず、自分の目で選び取っていきたいと思うのだ。

思えば、古典中の古典とされるコンテンツであっても、十分には
受容されていないと思う。古典でさえ店晒しにされているような
感じがぬぐえない。

何しろ、図書館にいって自分の読みたい本は行列せずに大体
読むことができる。当たり前みたいだけど不思議だ。自分が
図書館である本を読んでいるとき、日本国内で、あるいは世界
に範囲を広げても誰も同じ本を読んでいないような感じがする。
そういった世界の広さ、あるいは広くなさをネット検索の世界で
学んだような気がする。組み合わせの世界の膨大さを片方に
おくと世界なんて小さい、宇宙全体もそんなに大きくないという
のが真実かもしれない。

草野球、県大会、全国大会、そして世界へ、みたいな序列で
考えると世界ってとてつもなく大きく思う。一方、文字列検索
による体感では思っているほど大きくない。

まだまだ個人が活躍可能な世界があるような気がなんとなく
するのだった。

P.S ネットの中でのアイデア移動の追跡が可能になると
面白いのではないかと思った。多元的発生が起こりそうも
ないようなアイデアを同定して、その拡散、変異みたいなも
のが追跡できると面白いと思ったのですが、、、。コンピュータ
がもっと賢くなってそういう作業が行えるようになると面白かろ
うと思った。多元的発生が起こる確率が希少なアイデアないし
文字列ってどうやって評価するのだろう?

単にアイデア発生の確率が少ないだけでなく(それは単に組み合わせ
の問題だから)、アイデアの価値が高いものってどうやって評価すれば
いいのだろう。なんだか麻雀の話にも似てきた。麻雀の役に相当する
ものが価値なのだ。私自身は、しらない人の書いた文章の価値をどう
やって値付けしているのだろう?

2013年4月11日木曜日

我が家の味噌と世界観

また古い話で申し訳ないのだけど、昔は各々の家で味噌をつくって
いた時代もあるのだそうだ。

各々の家には自然にコウジカビの生態系みたいなのが潜在的に
あって、味噌をつくるとその家の味噌の味ができあがるそうなのだ。

世界観というのも似たようなものなのではないだろうか?
同じ時代に生き、同じ国や地域に住んでいたとしても、ちょっとした
偶然などが隠し味になって関心の重点が違ってくる。

たぶん我が家のコウジカビを同定していくような作業が必要なのでは
ないだろうか?まあ、自分を知っていくということでもあるし、自分の中
にある要素を拾い上げていくということになるのだと思う。

たとえば、普通は世界観と我が家の味噌は必ずしも結びつかないよう
に思う。ひょっこりインスタントに閃いただけなのだけど、偶然で結びついた
私だけの組み合わせを手掛かりにする。

手掛かりという言葉は普通の会話でも使うけど、より専門的にはロック
クライミングの世界で使う。広い世界で使うようになった用語も元をただせば
専門用語だったということもある。そういったときに、元の意味を知っておくと
皆が使う言葉でも自分なりの解釈で使うことができるようになる。そういった
言葉を思考の道具として使い、自分なりの世界を育てていく。

各々の人は歴史的な存在。それぞれのライフストーリーの経路は違う。
そして、本人は本人だけで成り立っていなくて、継承するなり、反発するなり
して親の影響は受けている。もちろん、その親もいる。そんな感じで一人の
人は大いなる時間の流れのどこかにいる。そういったようなことも意識化
していく。遠回りにはなるのかもしれないけれど、自分が立っている大地や
時間を含めて自分の世界を見つけて、それを忠実に表現することができた
らもっとも自分らしいものが出来上がるのではないだろうか?ここに書いた
ことはまったく陳腐なことではあるけれど、本人というものを通さずに他者の
ものを表面的に取り入れても仕方がないのではないかと思うのだ。

言葉は悪いけど、紳士服みたいな感じかもしれない。紳士という存在とは
かけ離れたものとして日本ではサラリーマンの仕事着になっている。
ある意味、表面的、ある意味、日本文化独自の解釈ということになる。
当初は猿まねだったものが意味がどんどんずれてきて面白い効果を生み
だしたということになるのかもしれない。素材としては他者から受け入れて、
自文化流の再解釈をほどこしたともいえる。昔は呉服と言われたキモノも
そんなものかもしれない。

現代文明全体をホームセンターと見立ててみるのはいかがだろう。
現代文明全体といって大風呂敷とするならば、図書館でもいいし、
今朝の新聞にまで縮尺してもいい。まだ、話はピンとこないだろうから
続けてみる。世の中には発明好きな人がいて、ホームセンターや
100円ショップで買ってきた素材を組み合わせて自分だけの道具を
作ってしまう人がいる。理系の研究室の人なども、使える素材はない
かといつも物色しているらしい。そんな感じで、素材の提供先として
世の中全体を眺めてみる。世の中、閉塞気味だと言われるけれど、
ホームセンターとしての世の中を使いこなせる人がいないということ
が一面にはあるらしい。私もエラそうなことは言えない。せいぜい
一席、ブログでもっともらしいオハナシを作り上げるだけだ。

部品を買ってきて、パソコン組み上げるようなものである。創造性
というよりは晩御飯のおかずをつくるような感じだ。ちなみに料理
関係の本、それも料理の人類学のような本は使える。料理はもっと
も古いテクノロジーの一つだと思う。だから要素を組み合わせて何
か新しいものを作り出す上で基本になるような考え方、ヒントがみつかる
ときがある。直接みつからなくても、そういうことを片一方で頭に置きながら
料理の本をめくるのは愉しい。

今日はネタ帳公開みたいな日になってしまった。どうせいつかは脳は朽ちてしまう。
人によってはガラクタみたいに、でも掘り出し物みつけたという人も稀には
いるだろう。

2013年4月10日水曜日

自分の内側の世界をでっちあげること

まず、最初の前提だけど、今の私は内側を覗き込んでみても
真っ暗な虚空で何のビジョンが浮き上がるというわけでもない。

急性期のときも、考えたことが事実になるという感じで(もちろん
私の中での話だけど)、言語的な要素が大きかった。体感幻覚
みたいなものはあったけど。

明晰夢をたまに見る時期も若いころはあったけど、あれが病気
とどういう関係にあるのかは知らない。もちろん健康な人でも
明晰夢をみることはあるみたいだし。

そういうわけで誠実に表現するならば、「自分の内側の世界
をでっちあげる」という表現が適当であるように思う。

もとより、いわゆるアウトサイダーアート風の、病気の真っただ中
に描かれた感じの世界を描いてみたいとは思わないし、できもし
ないだろう。

よく言われる話が精神病の軽症化との兼ね合いで、最近は
ああいう感じの画を「描ける」ひとが減ってきたみたいな言われ方
がする。たしかにそれはもっともな話だけど、薬のおかげで状態が
よくなったからこそ描ける世界もまたあるのではなかろうかとも
思うのだ。

私は「世界の深層」とか「あちらの世界」を形象化したいと思う欲望
はあるけど、「病気の世界」を形象化しようという欲望はあまりない。
そちらは資料程度でいい。

健常なひとからみると、「世界の深層」だの「あちらの世界」だのと
いってもそりゃ「病気の世界」じゃないかと思うに違いない。

私も「何か」を垣間見ただけだから、悟ったふうなことは書く資格なんて
全くない。でも、そこには若干の微妙な差異があるような気がするのだ。

「何か」を見た、としても、その画を完成させるために、自分だけの記憶
の中から恣意的にパズルの断片を強引に力任せにはめ込む、そういう
ものに見えてしまうのだ。これが私からみた「病気の世界」。

それはそれとして興味深いものが仕上がるのだろうけど、「何か」をみた、
それは始まりであって、きっかけであって、その体験を本当に意味あるもの
としたいのなら、虚心坦懐にこの世界のいろいろなことを学ぶという作業も
必要なのではないだろうか?といっても、それさえも独りよがりで終わる
確率もたかそうではあるけれど。

世間の人はそういったものに興味をもたないかもしれないし、何か
インパクトのある世界みたいなものを見たいのかもしれない。世間は世間
できっとみたいものがあるのだから、そちらはそちらでいいだろう。

「世界の深層」だの「あちらの世界」だのといった大仰な世界は今の
私には重すぎる。もうちょっと若い頃に、その頃ならときたま起こった
超越的な気分に任せて何か描いたらそういったものが描けたのかも
しれない。若気の至りでこそ描ける世界なのかもしれない。

超越的な気分と何がしかの世界の知識の断片と置き換わるように
蓄積されていったが、加齢のためだんだんそちらも怪しくなってきた。
気のせいかもしれないけど、脳の老化も早いのじゃないかと最近疑っている。

画の世界ではご老体の人も頑張っている。クリエイティブな世界で一番
年老いてからも現役でいられる世界の一つが画の世界みたいだ。研究者
の世界よりは賞味期間が長いらしい。とはいっても私のような素人が吠えて
みても詮無きことだ。

要するに精神病が軽症化したからこそ描ける世界もあるのではないか
と思っただけのこと。「世界の深層」も「あちらの世界」も忘れてこちらの世界の
一員として漫然と日々を送っている人々も多いだろうけど、中にはそうでない
人々もいるだろう。健全とはいえないかもしれないけれど。

変わった人の範囲内で収まり、病気を再燃させるわけでもなかったとする
ならばそういう人生もアリかなと思うのだった。UFO研究家、オカルト博士、
等々、ヘンなヒトなら巷にも多い。科学用語を悪用、誤用したりしてそちらの
世界に迷惑をかけるというわけでもないとすると、別に私みたいな存在が
社会の片隅にいたところで、この世をささやかながら面白くはしても、悪く
はしないだろうと思う。一旗揚げようとかそういう野心があるわけでもないので。

P.S 本は、とりわけ専門書は部分的な知識は授けてくれるけれども、世界像は
各自自前で作らなければならないのだと思う。そのために皆毎日、新聞を読み、
テレビを見る。よく探せば、誰かが作った世界像みたいなものも提供されている
のかもしれないし、時間もないので、既成の世界像を取り入れるということに多く
の人はなるのだろうけど、私はそれでは物足りない。ハンドメイドだから見栄えの
いいものは出来上がらないにしても、自前で作りたいものだと切に思う。
 

2013年4月8日月曜日

社会のインフラに支えられた存在として

陳腐な話ではあるけど、自然災害などの現実を前にすると
私たちは社会のインフラに支えられた存在であることが
痛いほどわかる。

そして、それは全体社会のような大きな社会だけでなく、
なになに界と呼ばれている下位の社会についてもいえそう
だ。

私はどちらかというと今までニート的な立場にいて、
アウトサイドな方向からなになに界と呼ばれる社会に対して
排他的だと捉え、苦々しいようなまなざしで見ていたように
思う。

でも冷静に考えると、なになに界と呼ばれている下位の社会
はそれぞれ歴史をもち、歴史を担っている人々がその社会を
支え、その社会で生きられるようにソフト、ハード面を構築したり、
維持したりといった活動をされてきたということになると思う。

フラット化によって、知識は社会全体からアクセスできるよう
になり、断片的な知識ではあるけれど私のようなものにも
届くようになった。断片的な知識とはいっても組み合わせ方
編み方によれば強力な武器となる。といっても、ここまで
抽象的な書き方になっているように、あんまり私も物事が
分かっているのではなく、単に言葉をこねくりまわして
考えているだけである。

ニート的な立場にいて、図書館で黙々と本を読んで、
社会を外側から捉えるという努力ではなく、どこかの
組織の一員になり、周辺的な場所を得ると生に近い
情報が流れてくる。そういった生に近い情報の流れに
身を浸せるかどうかがインサイドとアウトサイドの分水嶺
になるのかもしれないとも思う。

今まで書いたことはその社会にいる人にとっては常識
レベルの話かもしれないし、今なお私は浅いレベルで
しか物事を理解していないのかもしれない。

今まで、理解あるいは誤解している内容を整理のために
メモ書きしてみた。

舞台の隅が居心地がいいのかも

どうも晴れの舞台というものがニガテだ。
カラオケで10人くらいを相手に盛り上がる
という位が私には丁度よく、そのくらいの
スケールを越えると緊張してしまう。

そんな私にも舞台からおよびがかかることがある。
随分前に地元の大学の心理学の先生と二人で
80人くらいの前で自分の体験などをしゃべった
ことがある。一人ではなかったので、たぶん奇跡的
にアガりを抑えつつ場をもたせることができた。

仮想世界セカンドライフでも舞台みたいなところ
だったり、テレビのスタジオみたいなところだったり
に出演させてもらったのだけど、こっちは文字通り
緊張してしまい、手がガクガク震えて文字打ちが
できなかったことを覚えている。

限りなく舞台に近い状況、衆人環境の中で有名な
人と対話状態、こういうことは稀にあるのだけど、
わりと平気なのに、私一人にスポットライトがあたり
そうになるとコチコチになる。そのあたりの心理
状態がまったく不思議だ。

でたがりなのでこんなところでものを書いている、
それは否定しない。最初の頃はともかく、ネット
で公開といってもたくさんの人が見るというわけ
でもないし、そんなに緊張しない。多分、慣れで
あって、注目されるのに慣れると苦痛から快感
に変わる、そういうものかもしれないとも思う。

そうはいうものの舞台の隅、ネットや社会という
舞台の隅で吠えているのが居心地がいいのかも
しれないと思う。

一人ひとりに十分な時間を割くことができる、こう
いうのは舞台の隅にいるものの特権だ。それに
どんなに知り合いが多い人でも、本当に濃いつき
あいができる人数は知れている。そして、器を選ぶ
ようにしてその少数の人を選ぶみたいなことは
人間としてしたくはない。もちろん、そうしなければ
いけないような状況でもないし、自然に近くにいる
ひとと、それぞれの時間を過ごしているような感じ
だ。私にはそういうのが合っている。

今でさえ、対人距離には神経使いながら近所づき
あいをしている位だから、近所の数が増えたら、
神経が衰弱してしまう。

こういう書き方を酸っぱいブドウみたいな感じで
読んでいる人もいるかもしれないけど、それは
それで構わない。今、人に見せるためというより
は自分で整理するために書いているような気が
するのだけど、言語化してみると以上のような
感じになるのだろう。

和光同塵という言葉にあこがれる。私がそういう
存在だと言い立てるつもりはこれっぽっちもない
のだけど、そういう人がこの空の下のどこかに
いてほしいとだけは思っている。そして、そのかけら
であれば、案外多くの人がもっているのかもしれない
し、退屈な日常生活と言われているものはそういった
かけらのようなものやひとときに支えられている
ように思う。

社会はそれ程悪い場所でもない、とたまに思ったり
するそういう気持ちがおきるひとときに和光同塵
という言葉を当てたい。

そんな潤いが多くの人を世間という苦界に
ひきとめているように思う。

2013年4月5日金曜日

いつの間にやら屋根裏部屋ができた話

前も書きましたが、長屋みたいな感じの家に前は
住んでいました。下町の木造家屋。

木造家屋というのは改築が結構ききます。粘土
細工とまではいかないものの、削ったり継ぎ足したり
いろいろ可能なのです。

ホーマンさんという名の家いつもきてくれる大工さん
がいらっしゃって、(子供だったのでどんな漢字だった
のかわかりません)お風呂つくってくれたり、なにかと
お世話になっていました。

あるとき、何のはずみか屋根裏部屋がほしいと父に
いいました。父はうん、いいよ。といってくれたのです
が、こういうことは我が家にはよくあるのです。どうせ
だめだろうと思いました。いつもこんな感じになるの
です。

家族会議の中で、今年の夏は富士山に行こう、という
話で盛り上がります。でも、その話はあっという間に
福岡になり、熊本になり、霧島になり、、、、最後は
いつも山形屋に買い物に行こうぐらいに終わってし
まうのでした。たぶん我が家の家計ではそういう感じ
だったのでしょう。皆で行った家族旅行といえば、
選挙がらみで徳之島に帰郷したの除けば、指宿の
どこかよく知らないホテルでの一泊旅行だけでした。

だから、また、似たような話に終わるのだろうとたか
をくくっていました。でも作ってくれたのです。

勉強机代わりに使っていた押入れが階段になり、
屋根裏の世界に通じていくのでした。やっと子供部屋
というものをもつことができるようになったのです。

べニア板で仕切られた粗末な空間と言ってしまえば
そうでした。もちろん天井は斜め。マーケットと呼ばれていた
長屋風の建物なので屋根は一方向の斜面でした。
戦後復興の時期にできた建物なので柱だけはしっかり
していて、丸く木の皮が残っている感じが好きでした。

夏は暑く、冬は寒いというのが難点でした。逆に屋根裏
の空間が緩衝になって室内の温度が調節されている
ことを子供なりに学んだものです。

ラジオの深夜放送が楽しみでした。親も寝てしまった
後、勉強するふりをしながら鹿児島のラジオ局ばかり
でなく、九州朝日放送や、MBS大阪、東海ラジオ放送
や文化放送、ニッポン放送など聞いていました。

仮想世界セカンドライフで自分なりに空間をつくっている
ときに、大工さんのことやら、屋根裏部屋のことやら
ちょっぴり思い出します。改造ができる木造家屋の自由さ
みたいな感覚を生かしていけたらなあと思うのです。