はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2014年1月31日金曜日

対象に集中すること、対象が移動すること

瞑想とかやることなんてほとんどないのだけど、
瞑想の世界では花だったり、ろうそくの火だったり、
そういう対象に心を集中させることやり方があるそうだ。

別に科学者とか研究者でなくとも、目の前に主題が
あるときがある、非常に卑近な言い方をすれば、
愛する対象みたいな。

やり方はさまざまであれ、結局、瞑想者とあんまり
変わらないかもなと思ったりもする。

そういう書き方は抽象的であり、家族をもってたり
すると違うよってなるかもしれない。確かに自分の
親、子供、恋人などはコレクションの切手などとは
違う。対象化してしまうのはあまりにも冷血といえる。
研究対象ではないのだから。

人を研究対象とする場合では、対象との間に距離が
必要ならしい、一目ぼれでは困るのだ。作家や画家を
研究する人も、社会学や心理学の先生も、よき先生
でも暖かい心とつめたい頭、そしてカメラのような
ゆがみのない目をもっている(と信じたい)。

ところで、私だ。
私は何回も書いているとおり、幼稚園以前から汽車
が好きであり、表現する媒体さえあれば汽車を描いて
いた。地面があっても(当時は舗装されてない私道も
あった)広告の裏でも、マッチの軸があっても。
好きなもののイメージでアタマの中を満たすのが常
だった。

どうも、そういう子は発達障害の人には多いらしい。
豆博士と呼ばれる子。ちなみに運動音痴だったり、
片付けが下手だったり、忘れ物が多かったり、
発達障害の要素は主観的には多いと思うけど、
そう診断されたことはない。そして、そういう気質
のために卒論修論での教官との相性はなかなか
厳しいものがあった。話を戻す。

集中する一方で飽きるタイプなので、対象は
移り変わった。汽車から、亀や蛇へ、そして
天文へ、切手へ、蘭へといろいろ変わった。

今は雑学みたいに分散している。クイズ回答者
的な感じではないけど、いろんなものもそれぞれ
面白さがあるような気がする。いっぽう、拡散する
好奇心を限定するというより、まとめたいような気
がする。

そして、興味のあり方が、集める、分析する、知る
ということから構成する、表現するという方向に
変わった。美術系のほうに進むという選択枝は
考えたこともなかったけど、絵は一貫して好きだった。
大学のとき、蘭を研究することになったけど、
どうも後から考えるに、サイエンスをやりたいという
よりも、美しさを愛でたいという気持ちのほうが本当
は大きかったのではないのかなあと思うこともある。

構成するということで、仮想世界で積み木細工みたい
なやり方で場面を構成したりしている。構成すること
で、ものを内側から理解したいと本人的には思っている
のだけど、うまくそれをカタチにできず、模索中だ。

シゴトのほうは出版社の編集部に移った。
「雑誌という空間」という表現が成り立つように、冊子体
という媒体をとった仮想世界という風な捉え方に
自分の中ではなっている。シゴトの世界のより内部に
入っていくとき、そういう背景が役に立つのか、それとも
捨て去らないといけないのかはあまりまだ見えない。
差しさわりあるかもしれないので、シゴトの話はこのへんにしよう。

昔の写真です。


P.S 視点が集中している、あるいは移動するという現象は目を開けている
限りにおいて、いつでも発生している。非常に卑近な現象、あまり卑近過ぎて
逆にそれが何なのかわかりにくくなっている現象といえる。
視点が集中するのも、移動するのも自然な営みといえる。その一方で視点
を集中させるとものがよりよく見えてくる。
一日のあるいは一時間の中の視点の動き、経路、旅、それは人の一生の
縮図みたいなものか。

家族の思いをつなぐ 平成25年度 心の健康ネットワーク研修会(鹿児島)

出来事があったことを書くと、書いたためにその印象を
色づけてしまうという責任もあるけれど、何も書かないと
あったことさえ、薄い記憶になってしまう、ということなので
記録というよりも、この会を通して考えたことをいろいろ
書いてみる。

初めてこの研修会は参加したのだけれど、今年が最後に
なるというお知らせがあった。

いろいろ思うことはあるのだけど、こうやって、ネット上に
発信することは手軽で(ときに手軽するて無責任ということ
もあるのだけど)、一方でリアルで何か会をすることは何か
とコストがかかるのだと思った。

そして、人集めも大変だ。今の世の中、電車の中ですら
携帯であれこれ時間を埋めているくらいだから、人々には
会に足を運ぶということがなかなか難しくなっている。
私なども、月一回であれ、定期的な会に足を運ぶのは
億劫なほうだ。

さてと、前置きはこのくらいで本題に入ろう。
質疑応答のときに、いろいろ出た話。具体的なことは
個人情報なので省くが、鹿児島はやはり古い社会なのだな
と思った。全面的にということはないけれど、そういう側面を
もつということだ。精神病が発症したときの、本人の病識の
もちから、親族などの周囲の対応、等々。

そして、鹿児島市内、本土のいろんな地域、そして離島。
それぞれの精神病をとりまく環境が違う、人々の意識の
あり方も違う。そして、世代によるとらえ方の違い。
面白いといっては何だけど、今の時代は戦前生まれの
人から平成生まれの人まで、いろんな世代の人、育ちの
人が集っている。私は1966年生まれだけど、上下、数年
くらいで、PC,ネットなどとの付き合い方も多分違うだろう。
そういった違いもあれば、家族、学校、今かかわっている
施設など、そういった環境での違いも出てくる。かといって
環境決定論にはくみしない。状況、環境の受け取り方は
人それぞれ、でも、それにもその前での環境で受け取った
ものなども利いてくるのでなかなかひとことではいえない。

社会が複雑化したのか、いろいろな種類の精神疾患が
増えている。これは医学が発達したために、病気として
認知されているということでも一方ではあるかもしれない。

そういうこともあって、行政関係の人、大学の先生、
福祉施設の方々、大変忙しく、なかなか時間も捻出でき
ない。その分、それぞれの当事者が組織化したり、個々人の
力をつけていかなければならないらしい。

先にも書いたように、個々人、時間を捻出することは
難しくなっているのだけど、それでも、情報交換をしたり
という時間は必要なのかもしれない。今はネットがある
ので、利用手段の一つにはなるのかもしれない。

そして、ネットのこと。ネット依存の問題もあるので、
各人、自分でルールをつくったり、仲間とルールについて
話し合いながら、賢い利用法を考えださないといけない。
仮想世界でお世話になっている先生の話だと、
道具の進化に人間の進化が追い付いていないという
表現になるそうだ。交流の時代のように見えて、
憎悪や悪意の交換の時代になってしまっているのは
悲しい現実だ。

研修会では悪意からは悪意しか生まれない。
手を結びあい、信頼を積み上げていかなければならない
という話が印象的だった。社会をつくっているのカミサマ
ではなく、いろんな制約をもったヒトである。その時々の
対応のまずさ、などもあるかもしれない。それはお互い
さま。その辺はくみとって寛容さを養うということは必要
なのかもしれない。機械的なやりとりが多くなった現在
ちょっとした行き違いが大きな問題を生むということは
多いのかもしれない。負のバタフライ効果だ。
第一次世界大戦もきっかけは一発の銃弾であった。
そこまで大きくはないにしろ、なんだか似たような
負の雪崩現象はあちこちにおこっているのかもしれない。

やっぱり必要なのは寛容さ。破局的ではないくらいの
間違いから学びつつ、機械を使う人間として、進化
していくしかない。

さて、将来仮想世界がもっと一般化したとき、
さらにどのように状況は変わっていくのだろう。
多分光と影の双方あると思うけど、両方の面を利用者
として記録していこうと思う。

2014年1月25日土曜日

言葉のサンプリング

まず、表題の「言葉のサンプリング」、私が言い出したことでは
ないけど”言葉のサンプリング”で検索したらいろいろ出てきた
というわけで、コピペして表題に貼り付けたわけではない。
でも、こう書くことの意味をあまり感じない。

言葉をサンプリングして使えるフレーズ集とか
つくってない。どっちかというと文章単位でevernoteの中に
放り込んでいる。

いろいろ言葉を集めていると、逆にオリジナリティって何だろう
と意識する。何を共有物とし、何を著作物とすべきかみたいな
話だ。

オリジナリティを尊重しない土壌からは創造性のあるモノは
出てきそうもない。経済的合理性を考えるかぎり、二番手商法
が効率的だといえる。

とはいえ、現代の日本の文化の歴史を考えてみると、明治維新
なり終戦後なりの状況を考えてみても、西欧文化からの模倣から
始めるしかなかったと思う。だから、その歴史を今だに引きずり、
オリジナリティを軽視する風土が出来上がっているのだと思う。
まあ、思うというよりも、どこかで読んだ受け売りだ。

で、これも特に常識としか言えない話だけど、新規の創作といって
も既存の要素の組み合わせである。その上で新規性があれば、
著作物とみなされる。

ネット時代の創作はパソコンの組み立てみたいな感じがする。
パソコンを作ることはある程度の技術があればできるけど、
CPUは作れないみたいな感じ。

もっとさかのぼればラジオの製作だって電機店に行って、
トランジスタだの、抵抗だの、コンデンサだの買い集めて、
回路図に従ってハンダこてを利用しながら、作っていった
みたいな感じだった。

回路図も雑誌に載っていたりするわけだけど、もっと進んだ
人は回路図も自作することができた。

トランジスタを最初に作った人はアメリカでも日本でも艱難辛苦
の果てに作ったと読んだ。

容易推考、すなわち材料さえ与えられれば誰でもつくることが
できる範囲のものなのか、そうでもないのか?

そして、その材料の組み合わせはいかにも思いつきそうな
範囲のものなのか、そうでもないのか?

オリジナリティの有無はそのあたりにある。と、月並みなことしか
書けないのが残念な話ではある。

ひねりとか取り合わせとか隠し味とかいろいろ自分風にもっていく
方法もありそうだけど、まあ、このへんにしておこう。

P.S 本の名前を失念し、検索で調べようと思ったけど、探し出せ
なかった本なのだけど、日本での半導体草創期について書かれて
あった新書にはトランジスタを模倣するためにも、純度99.999....
正確な桁数も忘れたけど、とてつもない高純度のシリコンを作れない
とトランジスタを作ることはできず、その技術が戦後まもなくの日本
にはなくて、大変苦労したとあった。模倣するといっても、それをする
だけの十分な技術的背景がなければいけないのだった。

その話を文章やら、画像の世界に援用するとどうなることだろう。
たぶん、表面をコピーすることはできても、その裏づけとなる意味なり
思想なりまでを理解することは難しいということはいえそうだと思う。
実際、短いコピーの裏側にどれだけの苦労があるのやら知ることは
少ない。あるいはひとつの概念を生み出すまでの苦労とか。
もちろん、苦労なく、偶然で世に出たものもあるかもしれないけれど、
それは学生にさせた実験の間違いから大発明が生まれた話とそっく
りで、それにはそれの背景というものもあるのである。

2014年1月23日木曜日

周囲の地図をつくること

いろいろ書き込んだり、描いたりすることを続けていると
ともかくも、その人がどこにいるのか薄っすらとながらで
もみえてくる。見せようとする気持ちとは裏腹な景色さえ
も雄弁に語りだす。

嘘は突き通せない、嘘に嘘を重ねていくことによって、
だんだん全体としてのリアリティを失ってくる。
大人の世界で生き抜いていくための嘘というのはもち
ろんアリだとは思っているけれど、できるかぎり嘘という
添加物は少ないに越したことはない。

社会的な場所、精神的な場所、いろいろあるだろうけど、
物理的な空間の他にも見えない空間とでもいうものが
あるような気がする。

そして、それは見えないだけに、迷路みたいな構造なの
ではないかなと思うのだ。

確かに多くの人は毎日決まった家に帰り、その人なりの
繰り返しの毎日を送っている。でも、一方、視界の後ろに
も空間は広がっていて、その空間の中では迷路の中を
地図もなくさまよっているような気がするのだ。

ある人にとってはより有利な場所を求めて、
ある人にとってはより清浄な場所を求めて。

それはその人の生き方であって、どんな選択もありうると
思うし、どんな世界であれ、競争みたいなものもつきまとって
しまうということも案外あるかもしれない。

ともかくも書き込んでいるうちに、だんだんと見えてくるもの
がある。いろんな選択を重ねた結果たどり着いたところ。
その中には選択をしないという選択も入っている。
それでも頭の中ではさまざまな選択を行っている。
その結果、陰鬱な世界にも、妄想的な世界にも導かれていく
という場合もあるかもしれない。とはいえ、選択することによって
すべてがコントロールできるというのなら、話はもっと簡単だった
はずだ。

書かれたり、描かれたりしたものは現在、どういったモノに
捉われているかというのも語りだす。

精神的な価値と本人は信じ込んでいるものも
単なる欲望の対象、キラキラした光物のひとつ
なのかもしれない。

どこに向かっているのだろう?
何を求めているのだろう?

職場はいろいろ目標を定めてくれるけど、
人生上の目標はなかなか定まらない。
地図を売っている店があるというわけでもなく、
自力で、自分の周囲をマッピングしていくしかないのだ。

2014年1月22日水曜日

本の形にして周囲にバラまいてみようかな

単なるオモイツキなのだけど、本の体裁にして、
周囲にばらまいてみようかなとなんとなく思っている。

塵も積もれば山となるとはよく言ったもので、
twitter facbook blogger その他あれこれ合わせると
画像および、雑文の類は山のようにうなっている。
ゴミみたいなのも多いけど、ゴミをえり分けていくと
資源ゴミみたいなのも中にはあるのかもしれない。

本の体裁にして、周囲に反応をうかがうことで、
足らざるものを発見するかもしれないし。

P.S と思ったのだけど、5分間熟考して気持ちが萎えた。
読者の立場で厳しい目でみると、やっぱり素材なんだよね。
作品というよりも。

2014年1月21日火曜日

抑うつ、華やかな世界にいる人たちへの嫉妬なのか

抑うつ。活躍している人、華やかな世界にいる人たちへの嫉妬なのか?
最近、そういうたぐいの自分の中に渦巻く暗い情念にへきへきしてる。
といっても、人間くさい情念ではある。
そして、それは比較の問題ではある。

それは自分自身が輝けば、華やかな世界にいれば解決する
問題なのか?

私は今渦巻いている暗い情念をしみじみと味わいたい。
そして、人間、そういう気持ちになるんだとその苦い味わいをしみじみと
味わいたい。

なぜならば、きっとそういう思いは多くの人、多かれ少なかれ味わうからだ。
そのどろどろした暗い、醜いものをどういう風にして浄化しよう。

私の兄にせよ、母にせよ、単純素朴にテレビに出る人を応援している。
一ファンとして、お茶の間の席から拍手を送っている。
そこに何の複雑な気持ちもない。

私は妙に中途半端なのかもしれない。
だから醜い。

でも、一歩引いてみるとこの国に暮らせる幸せというものもあるものだ。
いろいろ不満はある人もいるかもしれないけど、
ともかく、図書館に行って、無料であれこれ調べ物をできる環境にいる。
いろいろ不満はあるかもしれないけれど、
今だって十分幸せかもしれないのだ。
そして、その幸せを支えている人の上にその幸せは成り立っている。
だから、自分なりに何かできることはないかと模索している。

そのあたりが自分で自分を納得させようとしている平凡人のこころの
内側なのだろうか?

何もしないから何も収穫できない、当然の結果なのか?
ここでごにょごにょ何か管をまいたところで何かをしたことにはならない。
そういうことなのだろうか?

でも、何かを代弁したことにはなるような気がする。
声にならない声を起こしたことにはなるような気がする。

やっぱり私は醜い。

でも、もうちょっと頑張って考えてみよう。
今は多くの人が舞台に立てる世の中である。
「ここ」も舞台と考えることができれば、確かにそうなのである。

たぶん、舞台に出ている人の立場からするならば、
隅にひっこんでいる人のほうが問題なのである。
何を権利放棄しているんだい、みたいな話。
自分でよく探すなら、いろいろ道は開かれている。
他人に嫉妬するくらいなら、それを健康な嫉妬に変えて、
その人なりにできることを精一杯やればいい。

その人なりの器量でできること、誰も見てくれないかもしれない
けれども、その人なりの今を伝えたことには十分なるのだ。

私も弱い人間だけど、本当に弱い人の気持ちはわからない
のかもしれない。健康な嫉妬をもてるということも恵みといえば
恵みだ。たぶん、足をひっぱるか、悪い噂話してうさはらしする
くらいのことしか思いつかない人もいる。それでは世の中は
いいほうにはちっとも動かない。

華やかな世界にいる人はもはや本当の意味では
自分自身の人生ではないかもしれない。
だとするならば、私の人生の中で、
そして、あなたの人生の中で、
やれることは、そしてやるべきことは
本当のところいったい何なのだろう?

2014年1月19日日曜日

精神生活

日々、こころの底で起こっていること、あるいはこころの底で
起こっていると本人が思っていること、それは言語化したり、
形象化したりする価値があるものなのだろうか。

それはあくまで私的であって、主観的であって、一般化する
ことなどできず、価値がない。常識的に考えるかぎりそうで
ある。

でも、一方、毎日顔を合わせる家族であっても、心の底など
なかなか知る機会などないものである。他人だって、見るも
のは社会的に作られた仮面であって、仮面の内側にあるも
のなど知るよしもない。

ここに並べてみたものも所詮、仮面であることに変わりがな
い。本当のこころの底にあるものなど、きっともっといやらし
かったり、汚かったりするものである。私も動物としての人間
である以上、そういう欲望にまみれたり、憎悪とか嫉妬とか
暗い情念を抱えている。露悪的にそれをさらけ出すことは
あまり趣味ではないけど、ただの人間として、そういうものも
抱えていることは明記したい。

こころの底にあるものは決して美しいものばかりではない。
美しく見せようとするこころばかりである。

でも、誠実に版を押すような感じで、何かを伝えようと努力
していったら何かが伝わると思う。

昔の人のもっていた日本人のこころの美しさ、そういうもの
に強くあこがれる。豊かになって失いかけているそういうも
のを取り戻したいと強く願う。

透明な心になろうと思うほどに、濁っている自分のこころを
自覚せずにはいられない。そして、自分を苛める。刃物み
たいな言葉を自分の胸に突き刺す。でも手加減している。

本音をいうと誇りたい自分がある。何かを認めてもらいたい
自分がいる。でも、それは所詮、広い世間を知らないという
ことの裏返しである。井の中の蛙。上には上がいる、そう
いう世界を知らないか、単に周りを見ないでうぬぼれている
だけである。

モノの豊かさからココロの豊かさへ。消費の飽和した日本
ではそういう方面に人々の欲望は向かっているということ
なのかもしれない。そして、ココロの豊かさを見せびらかし
たい、そういう醜さが蔓延しつつある証拠としてこのブログ
は機能しているのかもしれない。

庭は見せるための庭なのだ。
どんどんココロは屈折し、素直でなくなっていく。

P・S 「純粋」なヒトほど苦しみに苛まれる、そういう風に
見せたい、思わせたいのだろうと自己分析する。
自己言及の呪縛。もっと単純素朴な人間でいたい。

P・S2 どこまでいっても計算から逃れられない。
人間の業は海のように深い。
はからうこころから脱却できたときに、ほんとうの
こころはあらわれでるのかもしれない。
そのへんが今の私の限界である。

P・S3 そして借り物の言葉で化粧することをやめたときに。

2014年1月18日土曜日

こうもりのような気分

最近、抑うつらしきものも遠ざかり、気分は凪いでいる。
そうなると、今度は詐病じゃないかという気がもたげて
くる。あるいは誤診じゃないかと。

本当は急性一過性精神病か何かで、一時的な
精神錯乱であり、病名というラベルにこだわるあまり、
二次的に抑うつなどの症状が出てきたのではないか
などといった疑いが本人の中にもたげてくる。

でも、おそらく症状は表から目立たないだけで、いろんな
社会的場面に遭遇するとひょっこり出てくる、そのため
ここ一番みたいなところに弱く、要するに生殺し、本人的
にはそんな感じがする。といっても、説得力もつかどうか
は判然としないのだけど。

facebookとかの観察では、周囲の健常者のページとは
あきらかに色合いが違うような感じがする。そういう風に
作ろうと思っているわけではないのだけど、自然とそうな
ってくる。これはネット生活の昔からであり、そのため、
いつも集団の中で浮き上がってきた。

なんだか種族が違うのである。ぬきんでたという意味は
そこにない。

むしろ、村はずれに孤立して住む、変り者といった風情
だと思う。

幻聴、妄想、その他、これはあきらかに精神病の症状
といえるものを持っていない。その苦労がないだけ、
恵まれているとさえいえるかもしれない。

でも、本人的には欠陥住宅に住んでいる感じがぬけない。
高望みということはなく、どうにもならない、苦しみと喜び
みたいなものを感じることがある。

苦しみはわかるけど、喜びって何とひとによっては思う
かもしれない。でも、年々曖昧になっていくとはいえ、
病気になってあと、部分的に何かが亢進した感じがして
いた。その勢いで読書も進んだ、専門的興味から一般的
興味のほうに、興味の範囲が拡大したのは多分事実だと
思う。でも、加齢とともにその感覚も穏やかなものになりつつ
あるような気がする。知識の蓄積はあるけど、同時に
長期記憶、短期記憶ともに低下しているような感じがぬぐえない。
特にエピソード記憶が自信がない。

仕事の面に暗い影を差すのは恐怖だけど、基本的にそれら
のことを受け入れようと思う。あるいは受け入れるしかないとも
思う。

結局、才能のカケラ的なものでさえ、あったのかなかったのか
今ではわからないのだけど、淡々と日々のことを記録して
いこうと思う。

記録できる最低限の言葉はもっているのだから、せいぜい
社会のためにそれを生かそう。

P.S 本文中の欠陥住宅というのは比喩です。私の悪い癖で
比喩とことわりもなく、比喩でものを考え、比喩を言葉として
使用します。周囲にも比喩が比喩として通じるくらいに思って
いるのですが、たいたい通じることはないことが多いです。
面接の場面ではそういう場合はあとに戻り、たとえとして使った
ことを説明して、相手に理解してもらうことで解決されますが、
文章上では意味不明のまま残り、コミュニケーション上の障害
になることがあります。

2014年1月17日金曜日

心の中に対象をみつけ、それを記載する

ずいぶん前からだけど、時々プラントハンターの探検記の
たぐいの本を読んでいる。たとえば、プラントハンターでは
ないけど、ウォレスの『マレー諸島』など。

プラントハンターは植物の標本を採るためや、生きたまま
本国に植物を持ち帰るために、世界中に探検旅行に出かける。
幕末の日本にもやってきた。ペリー艦隊の中にも随行している。

そんなたぐいの本を読みながら、私は何をやっているかと
いうと、自分の心の中をまさぐり、何か対象を探し、書いたり
描いたりしている。植物に関心のある人はもとより、そうでない
人にもまったく興味のわかない話だ。

大体、文芸の世界などでも、アタマの中で作ったり、言葉を
こねくりまわして作った産物などお呼びでないのだ。むしろ、
現場でつくった、生の実体験の裏付けのあるリアリティのある
表現が好まれる。

でも、私は仮想世界というものを知ってしまったから、ココロの
中に眠る世界を見てみたいと思う。そして、そこは夢を見ても
瞑想しても、その入り口にしかたどりつけない世界だと思う。
なぜなら、それらのものの元となる材料は昼間の実体験だか
らだ。

こころの底にある風景は創作でしかつくれないような気がする。
そして、自分のこころの底にある風景への手がかりとして、
自分ならではの思いつきを探し出す。ふつうの人にそんなこと
などできるはずがないと思うなかれ。

ふつうの人とはいっても、その人の好みによって、あるいは
めぐりあわせによって、見てきたもの、そして考えることは
ちょっとずつ違うはずだ。そういったものをより合わせることに
よって、自分ならではの組み合わせはきっと見つかるのだと
思う。

誰の心のそこにもある、その人ならではの組み合わせ、
そういったものが具現化され、文章になったり、画像になったり
したものを見てみたいのだ。自分のこころのそこにはこんな
世界が隠れていたのかと。

そういう欲望を掻き立てられるのもある種、現実が貧しいから
かもしれない。貧しい現実だからこそ、美しい理想に恋い焦がれる。

前から疑問がある。美しいものを日頃、目にしたり、耳にしたりする
からこそ、美しい何かが生み出せるのか?
それとも、目の前にそういうものがないからこそ、自分の手によって
生み出そうとするのかと。
目の前にあるのなら、わざわざ苦労して自分で生み出すこともない
のだ。目の前にないからこそそれに恋い焦がれ、生み出そうとする、
私はそういう立場にたつ。

事実は両方とも真実というか、後者は前者のアンチテーゼみたいな
感じになると思う。逆説なのでそこに至る道は狭い。

2014年1月16日木曜日

リウマチがブレーキ代わりになっているような

リウマチがなんとなく進んでいる。
といってもはっきりとした感じではないけど、
もはや右肩と左小指だけという感じではなくて、
全身に痛みは散在している。

で、単なる説かもしれないけれど、リウマチと統合失調症
は併発しにくいという話を読んだことがある。

リウマチにかかれば病気が軽快するということかどうかは
わからない。病気にかかわる遺伝子がダブっていてその
影響とある文書もある。まったくネットは情報の森であって
何を信じていいのやらさっぱりわからない。

最近になって感じだしたのだけど、リウマチはブレーキに
なっているような気がする。あるいはアクセルがかかりにくい
というか。

本を読んでいても、文章書くその他でも、作業に入っていて、
世界に入っていて、テンションが上がっていくのにリウマチが
干渉しはじめる。どこかでリミットがかかってしまうのだ。
体全体がブレーキをかけ始めるという感じだと思う。

といっても、年をとってきて、テンションがあがらないとか
前書いておきながら、そうでもなかったという例もあるし、
一時的なものかもしれない。


そして、すぐ疲れるようにもなったような気がする。