はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2012年10月14日日曜日

魂の御蔵 場所としてのワタシ

セカンドライフの中で土地をもち、粘土のように場所をいじることができると
場所で考えることが多くなる。

地理学だと所与として与えられた場所(フィールド)を通して問題をみつけ
考えるという手続きを取るのかもしれないけれど、セカンドライフの土地いじり
は実験科学、もしくは技芸みたいもの、データ上ではあるけれど、手を動かして
考えるという作業に近い。

「場所で考える」という言い方と「場所を考える」という言い方はわたしにとっては
別物である。

「場所を考える」は野外科学みたいな感じであって、「場所で考える」は場所を
道具のように、あるいは粘土のように操作して考えることだ。

そういうことは建築関係の人やら、現代美術関係の方でインスタレーションしてる
人なども考えることなのかもしれないけれど、セカンドライフではそうしたことが
よりカジュアルに、より日常の生活次元で考えることができる。低コストで場所が
扱える効用だ。

積み木のように作り出したモノは拡大するとアバターの大きさを越えて、場所として
認知されるようになる。モノと場所が相互浸透する。まあ、続きはまたいずれ書くと
して、ここまでは話のマクラで、今日のお題は「魂の御蔵」というものだ。

どこかで読んだ精神的読み物のかけらがアタマの端っこに残っていたのかもしれ
ないけれど、「魂の御蔵」というキーワードが気にかかる。もちろん宗教的なニュアンス
も濃いのだけど、ワタシもしくはワタシのココロ、意識あるいは魂が一種の場所という
感覚だ。

いろんなとらえ方があって、私が知覚している世界もある意味脳が作り出した表象
であって、よくできているけれど世界そのものではない。世界に色がついているか
というとそうではなく、寒いわけでもなく、熱いわけでもない。それらは知覚に色づけ
された世界の表象だ。

そういう意味では独我論的ワタシに映っているワタシの世界そのものが「魂の御蔵」
の鏡みたいなものであり、魂の素材も、外から入ってきた情報だったりするので世界
の鏡だったりする。うまく言えないけれど、哲学やった人などだと常識的に知っている
ような話だ。

一人称視点だと魂の御蔵はただ一つの世界そのものとなるけれど、二人称、三人称
の視点だと、身体の中にというかうまく書けないけど、どこかにあると想定している
他人の魂みたいなものだ。

マクラの部分と接続すると、他人の魂といっても大部分は不明なのだけど、それを
仮想世界のような形で表現したり、それをスナップショットという画像取り込みみたい
なもので画像にすると不完全ではあるけれど、その人の世界みたいなものが他人に
伝達可能になる。

不完全というのはどこまでが自分の力であり、どこまでがキカイの力なのかわからなく
なることだ。もしかしたら、建物をつくるといっても、設計者が介在したり、施工者が介在
するのとどこか似ているのかもしれない。PCは工場としての比喩ももつものなのだから。

それはネットに接続した現代人が知的な意味でパワースーツをきていたり、モビルスーツ
に搭乗している姿と似ていることとどこか重なる。私たちはキカイの力によって強化された
人間だ。キカイの力がなかったら考えなかったようなことを考えている。それは十分には
自分の力とはいえないのかもしれないけれど、使用するごとに脳という身体になじんでいく、
そしていつしか身体の一部になっていく、衣服だってそういう歴史をたどったのだから。

ネット上の表現はワタシの分身と書かれたものを読んだことがある。ネットという織物上の
役どころを巡って競争しているのかもしれない。ワタシが競争しているのかもしれないし、
ワタシが書いている話題やら、あるいはキーワードが競争しているのかもしれない。
それは種の個体レベルの競争があり、種レベルの競争があるかと思えば、遺伝子の
あるモチーフどうしの競争があるのと似ている。

情報は0と1、あるいは無と有の列によって表現可能なのかもしれない。0と1で表現された
一次元の紙テープみたいな空間が媒体になってすべての出来事は起こっている、あるいは
起こりうるのかもしれない。話が難しくなって、自分でもよくわかってるのかわからないので
このへんにしよう。

P.S 最近、G.バシュラールの『空間の詩学』、イーフートゥアンの著書、ミンコフスキーの
『生きられた時間』そのへんの本を読んで、セカンドライフの土地について何か考えよう
と思っているのだけど、混乱状態だ。以前、清水博の著書、そして、ここ数日は西田幾多郎
の場所論についての文章など読んでいたりして、混迷ますます激しいものになっている。

私の弱い頭でそういう難解な文章を読み砕こうと考えるあたりが問題なのかもしれないし、
たぶん誤解か浅薄な理解しか得られないかもしれないけれど、場所づくり、ものづくりの
ヒントが得られるといいと思っている。

ただ一つよかったのは昔、滝沢克己の読書会に参加していたのだけど、その時は
わからなかった「人間の座」というキーワードが自分なりにわかったことだ。
まさに魂の御蔵、場所としてのワタシということなのだろう。ブログやっていることも
あしもとを掘っていく作業にほかならないもので、あしもとを掘っていく作業の中から
自分にとっての対象を探さないといけないのだろうと思う。そうでないと対象は自分
にとっての実存的な対象にならない。そこらへんのことは阿部謹也の
『自分のなかに歴史をよむ』という本をしばらく前に読んでいて影響をうけたことだ。
『自分のなかに地理をよむ』とでも私の場合はなるのかなあと思う。

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