その手の作業はさぼっていた。机につくという習慣はあん
まりなかった。虫取りならぬトカゲとりやおたまじゃくし掬い
ばかりしていた。
中学へあがってもまじめに机につくタイプではなかった。
落着きがなく、忘れ物ばかりする、そんなタイプだった。
英語はあっという間に落ちこぼれてしまった。数学も
そんな感じだった。
そういうわけなので勉学については基礎がなっていない。
これは大人になって取り返しのつくものではなく、言葉の
切れなさ、論理の弱さとして私に染みついたものだ。
精神病になった。ちょうど大学が終わって、社会人になる
境目のところで。真理を悟ったというのは大げさすぎるの
だけど、カケラみたいなものみた感じがした。
それでも、それはカケラというよりもガラクタ程度のもの
であるということはしばらく前のエントリーをみてもらうと
よくわかると思う。このあたりの話です。
たぶん、発見した内容というよりも、この世界には何かしら秘密
があるというのを直観したことに意味があったのだと思う。
それ以来、本を学生のときよりも読むようになった。
読む本はわりと広い分野かもしれない。
でも、私は書いているようにデキるほうの人間ではない。
「アタマがよくなった」という主観的な感覚とは裏腹に客観的には
能力障碍がおそらくあり、適性検査では適性が合う仕事がほと
んど見つからなかった。
あとになって気づいたことだけど、本を読んでも記憶にはあまり
残らず、霞がかかったように曖昧になり、知識として取り出せない
ことが多かった。
それでもめげず、というか本を読む喜びまでは奪われなかったの
で相変わらず本は読み続けている。再認(読んだときに、これ前
読んだことがあるとわかるようなこと)はできるのでそれなりに
読むのは楽しいのだった。
記憶障碍とっても生活に困るほどのものではなく、気にすれば
気になるというくらい。仕事になると困りそうだけど、今さしあたり
困っていない。
「精神病者のアタマの中」というとショッキングな内容だったり、
意味不明だったり想像されそうなのだけどどうなのだろう?
逆に地味なことが多いような気がする。とはいえ、体験によって
はオカルト趣味に走ったり、宗教関係の路を巡ったりする。
私もまったくその気がないとはいえないけれど。
新世紀に入ってなのか、自分の体験を相対化できる人が増えている
のではないかとなんとなく思う。内側でおこった体験なのか外側の
現象なのか峻別というよりは留保できるような。
私も留保組だと思う。でも、割り切るところまではいってなくて、
不確定な状態を愉しむというか。一種のロマンチシズム、
唯物論的な考え方では荒涼としすぎるというか。でも、その影響
は深々と受けている。いちいちの偶然をカミサマの摂理と受け取る
という感じにはいきそうにない。さりとてカミサマの正体はサイコロだ
と受け取るのも寂しすぎ。
書いたばかりのことを裏切るようだけど、いちいちの偶然の出来事の
タイミングが内的な何かとぴったりあってしまう感じがするひとときが
たまにある。能面のほほえみのように世間が不気味化する。不気味
ではあっても魅惑的でもあり、天上的な何かでさえある。それも一応
は留保する。世間と能面とサイコロとカミサマが交差する。
感覚としては座標空間上を普段うろうろしている感じで普段は座標が
きりのいい数字ではないので、座標を意識しない(357.89、 47.43)
みたいな感じかな。キリのいい座標上に止まったら座標というものを
意識するのではないだろうか。空間上の秩序というか。
(120.00, 240.00)みたいなとき。空間上に秩序があることを直観する
わけ。そんな感じで普段、無関係な出来事はランダムに動いていて
そこに何も感じることはないけど、きりのいい座標にとまると、空間、
時間軸上の秩序を感じて、恐怖する、そんな感じかな。たぶん多く
の人には意味不明だと思うし、同じような体験した人でも違う説明
を好むかもしれないので、単なる参考まで。
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