画像編集ソフト、イラストレーターを自分なり?のやり方で使っている。
もともとペンタブレットを使うという発想も、下書きした画像を取り込むと
いう発想ももっていなかったためにできてしまったやり方だ。
画像見てわかるとおり、単純な線ばかりを多く使っている。(葉のところは
やり方教えてもらったので複雑な曲線一部使っている)
ずっとこんなやり方続けるうちに見えてきたことは、描いているうちに
自分なりのルールみたいなものが立ち上がってきて、そのルールにしたが
ってやっていくとスポーツの中で戦術が進化していくみたいな感じで
その世界が広がっていくような感じがあることだ。
こういうことを最初に気がついたのはtwitter使っているときに、俳句や
短歌のようなものだと気がついたときだった。
俳句や短歌は文字数を絞る、季語をつかうなどのルールで縛られた
短詩であることが逆に世界を広げているように思う。twitterも140字で
盛れる文字の器でしかないけれど、使いようによっては十分なサイズだ。
同じアナロジーを自分の場合は地方に住んでいること、精神病の履歴が
あること、リウマチの症状が出始めていること等々に自分なりに応用して
みようかなと思った。といっても具体的に何かやっているということでは
ないのだけど、制約を受け入れることで見えてくる世界もあるのではなか
ろうかと思ったのだった。話は広がるけど、イラストレーターに戻る。
イラストレーターで描いたものをCGと呼ぶべきなのかどうかわからないけ
イラストレーターで描いたものをCGと呼ぶべきなのかどうかわからないけ
れど、CGで描いたものは深みがなく、人間味もなく、感動しないという人
がいる。確かにCGの歴史はかつて「魔法の素材」と呼ばれたプラスチック
の歴史と似ているような気がする。プラスチックでバンドでも何でもつくって
みたという時期も一時期あったらしい。そういう意味でどこなくプラスチック
臭がする感じのするCGではあるけれど、本当に深みも人間味も出せない
のだろうか?
こうできているというよりは単にこうありたいという理想像なのだけど、
簡素なCGの表現の背後に何かを滲ませるということが可能なのではない
簡素なCGの表現の背後に何かを滲ませるということが可能なのではない
かと思う。ワープロの文字の背後にでも行間というものは十分表現できる
ように。私にわびさびなんて解説できる立場にはないけれど、わびさびは
簡素さのもつ逆説を利用したもののように思う。茶室の狭さも、制約のも
つ逆説とどこかで重なる。技術てんこ盛りのCG表現はそれはそれでいいけ
れど、どこか厚化粧みたいなところもある。私は子供の頃、切手集めして
たのだけど、希少価値は別にしても切手の魅力は過去のもの、戦前の
切手のほうが存在感があるのを不思議に思っていた。印刷技術が進化
していくにしたがって失われていく魅力もあるのである。
私は切手もアニメもチェコスロバキアのものが好きだ。結論らしきものは
ないのだけど、とりとめもない話なのでとりとめもなく終わるとしよう。
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P.S 機械時計や機械式カメラに人間味や温かさを感じる感性は不思議に思う。
そういった「古き良き郷愁」みたいなものはデジタルの世界にも引き継がれるのだろうか?
白黒のマッキントッシュの画像やら、アーケードゲーム、ファミコンのレトロゲームの
画像に郷愁を感じるのだろうか?
P.S 機械時計や機械式カメラに人間味や温かさを感じる感性は不思議に思う。
そういった「古き良き郷愁」みたいなものはデジタルの世界にも引き継がれるのだろうか?
白黒のマッキントッシュの画像やら、アーケードゲーム、ファミコンのレトロゲームの
画像に郷愁を感じるのだろうか?
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