病気とオトモダチになっているようですね」
市民講座で友達だったご婦人の一人がおっしゃられた
言葉だ。
たしかにそうなのかもしれないと苦笑い。
別の精神病関連の施設では、「病気も長くなると、
どこまでが病気で、どこまでが性格なのか、その人の
人生なのか分からなくなるのです。それらが絡み合って
くるのです」と聞いた。
何回も書いたけど、今の私の状態が病気といえるか
どうかわからない。精神病の履歴がある人というべきな
のかもしれない。でも、負荷がかかっていないからそう
見えるだけで、負荷が上がればなんらかの不具合が
表面化するかもしれない。傷のついたOSのような具合に。
一たびがけ崩れが起きると、次のがけ崩れもそこから
起こるそうだ。それが崩壊地の宿命みたいだ。一度できた
断層も、火山も機能し続けるように。病気の場合もどこか
似ていると思う。
でも、神経システムに出来た傷の場合はメンテの仕方に
よって破たんする確率は減らせるのかもしれない。とは
いうものの人生そんなに管理できるものでもないから、
腹をくくらないといけないのかもしれない。
私の場合、環境的にラクだったということは言えると思う。
家族も南国的でよくもわるくもユルい家族で、厳しい締め付け
圧迫等はなかった。本土に住みながら、沖縄、奄美的な
人間的ユルさみたいなものはあったと思う。
また前置きが長くなってしまった。
表題の「病気をみる 人間をみる」という題なのだけど、
病気の中でも精神の病の場合、その人の人生の中での
病気の意味の位置づけみたいな側面が大きいのではない
かということだ。あまりにも有意味な病なのだ。また、そこ
に捉われてしまうという罠ももっているかもしれない。
悩みというのは比較的時間があって、心に余裕もあった
場合、パズル的な要素も持ち合わせる。
沢山ものを書き出せばその人の全体像みたいなものも
出来上がるのではないか?という非常に楽観的な前提
でものを書いている。でも、それは虚しい望みだし、また
書き上げられたアカの他人の人生の書付けにつきあって
くれる誰かというのもほとんど期待できない。せいぜい
読んでくれるのはどこか奇特なコンピュータということで
はないだろうか。苦いけど、それもよし。少なくとも自分
という一人の読者は持っているのだから。
精神病者のカルテは星の数ほどあるかもしれないけど、
症状というよりも、患者の人生そのものを知ろうとした
とき、カルテだけでは十分ではないような気がする。
患者の人生そのものを知りたいと思う人なんているの
だろうか?知ったところでそれは多様なありようのうち
の点に過ぎない一つのケースに過ぎないはずだ。
一般化もできない、そんな一つのケースにつきあうよ
りはより多くの例に触れたほうがいいではないか?
それも正当な考え方だと思う。
でも、それではひとりひとりの奥行きみたいなものが
感じられないのではないか?植物図鑑で一通りなが
めただけで、本当のところは何もわかってないような
感じのもどかしさは人は感じないのだろうか?
一つ一つの植物には例えば、「イネと日本人」といった
テーマに相当するくらいの奥行きがあると思う。それは
イネからそれぞれの患者に対象を移したときも言える
のではないか?
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