「ここ」は情報や知識の提供というよりも、自分なりに
考えたり感じたりしたことの記録の場のように思います。
といっても、それは独創的だったり、創造的だったり
するとは限りません。
なかなか借り物のイメージをコラージュするカラオケ的
な文章のレベルを越えられないのです。
見かけ上オリジナルな感じにもっていくための手段は
二つあると思います。構成する部品の自作と考える
方法の自作です。
考える手がかりといってもいいかもしれません。
こだわりのあるキーワードや固有フレーズを案出し
それを道具に掘って行くという方法です。
自分なりにということは自分の身体や境遇その他
から出てくる自分の限界というものを引き受けると
いうことです。そして、その限られたものに面白さ
を逆に見つけていくということです。
話がどうしても抽象的になってしまうので、ちょっと
例題を考えて見ましょう。
evernoteはスクラップブックとして、使い、検索して
たどりついた情報をコピペしています。
「妙に純粋で物悲しい感じが、ひしひしと伝わってくる」
「しかし、たとえどんなに美しくとも造花はしょせん造花である」
「情報のかけらを見つけ、それを信じるか信じないかを決めるのは」
「競争の中で実現される欲望である」
これらは釣り上げた文章の中に書かれてあった名文句です。
それぞれ検索すると元の文章が出てくると思います。
そしてこれらの文章を釣り上げるためのえさとなるフレーズもあります。
釣り上げられた文章の中に次の文章を釣り上げるためのえさに相当
するフレーズを見つけるときもあります。
本でみつけた面白いフレーズを早速使うときもあります。
前々回の文章で使った
「欲の皮がおちてくると」の欲の皮が落ちるという表現は
『統合失調症のひろば』の中に出てきたフレーズです。
でも自分に根をもっていないフレーズを使うのは軽薄な
ような気もするので、いったん寝かせます。
evernoteに保存した文章はたまにぺらぺらめくって反芻します。
私にとっての資料集なのです。
今の世の中、外部記憶できるので記憶するのはインデックス情報
だけでいいという人もいます。でも、私はその考え方をとりません。
evernoteに収められたものは折をみて何度も反芻し、
自分の深層意識に埋め込もうとします。暗誦するまで付き合うと
いうものはあまりないのですが、味読でもするように何度も何度も
味わうほうです。速読派ではありません。
evernoteはアイデアの冷蔵庫ではありません。アイデアの冷蔵庫は
頭の中にあります。ありあわせの材料で一席つくることが好きなの
です。もちろん確認のために資料参照することはありますけどね。
ここまでのアイデアの作り方の方法はこれまた自作したもの
ではありません。『アイデアのつくり方』という薄い本を参考にして
います。
こういう風に書いてみると、アイデアの部品を自作する
とかアイデア案出の方法を自作するとか偉そうなことを書きました
がこれは達成できていることというよりは理想であって、そこまで
たどり着いていません。せいぜい既成のものに自分なりの味付け
やら肉付けをして使っているというだけなのかもしれません。
自分なりに考えるというのは既成の道具や材料を使って
自分なりに一席つくってみるということなのでしょう。
いわば手料理みたいなものです。料理屋の料理風でなく、
洗練されていないところが家庭料理たるところなのでしょうか。
地方の草の根の知識人でありたいという欲望というか目標を
もったとき、それで十分なのかもしれません。
文房具屋で購入した温度計であれ、ものさしであれ、それは
それなりに使えます。使用範囲を守りさえすれば十分実用に
耐えるのです。
はじめての方へ
私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
Miyukaより
返信削除お久しぶりです。
ブログに目を通しているもののコメントをする時間なく。
久しぶりのコメントとさせて頂きますね。
「自分なりに考えること」
その源を考える。果たして その 考えた事 考えている事は
【自分なり】なのでしょうか。
自分では これは 「私の意見だ / 僕の思いだ 」等々思っていても その思考に至るまでには バックグランドが あると
Miyukaは想います。
確かに Epinnbiさんが書いている と いう 実証は有ります。 でも、 その思考回路には 様々な角度 様々なルートからの 脳への アプローチがあるハズ。
※決して 【自分なりの考えがが他者の意見だと 他者からの影響のみを受けている】と 言いたいのでは 有りません
自分なりの中には勿論 様々は要素もありますが・・・
はやり 自分は自分であると
ごもっともと思った件は 後半部の 「使用範囲さえ守りさえすれば・・・」の部分です。
Miyukaも脳に欠陥があります。
ですが 使用の仕方次第で 生きていける 過ごしすく暮らせると
なかなかムズカシイですがね
~ 書く名手 接すると迷手 ~
それゆえ 名酒好きと下戸なのに (~_~メ)
Miyukaさんへ
返信削除Miyukaさんのおっしゃっている文脈から
考えますと「自分なりに考えること」と
いうお題目自体が胡散臭いものですね。
そういうムナシさは至る所でこのブログの
テーマになっているのですが、それでも
「自分なりに考えてみよう」と努力する
悪あがきといいますか、その試み自体は
無駄でもないような気がするのです。
そうしないとホントに他者のもっとも
らしい考えをそのまま自分の考えとし
てしまうことから逃れられないような
気がするのです。
結論としては過去の偉い人の考えの
バリエーションの外に出られなかった
としても、自分なりに考えてみようと
することで、少なくとも自分にとって
の気づきがあればいいと思います。
むしろ「自分なりに考えてみよう」と
いう態度をとることで過去に学んだ
他者から与えられた道具を一度シャッフル
したり、整理したりすることと関係して
いるように思います。出てきた結果という
よりはそこに至る過程の問題です。
学生時代の数学の骨の堪える問題だったり、
小論文みたいな問題を例にとって考えるといい
と思います。
与えられた問題を解くのに過去学んだこと
を総動員して答えようとするようなことです。
そう書きながら話は料理に飛んでしまうのですが、
豆腐を豆板醤で煮込むという風に使わずに
漉し餡をあえてデザートにするような感じで
丁度同じようなことがアタマの中の冷蔵庫
のあり合わせの道具でできればと思うのです。
と書きながら、それでも今まで書いたことの
ひとつの要素でも純粋に自力で発見したもの
はあるのか?といわれると「ありません」と
答えるしかありません。
それでも、全体としては私なりの考えとしての
アイデンティティはあると思うのです。
丁度それは部屋の中にあるもの、そして
着るものなどが選択し、購入したものの組み
合わせであったとしても、個人のアイデン
ティティと関わっていることと似ていると
思います。
>Miyukaも脳に欠陥があります。
できれば、脳が余裕があるときには与えら
れた負荷である、他人より重めの荷物を背
負わされたのだと思ったほうが前向きに生
きられるように思います。
なぜ他人よりも重めの荷物を背負っている
のかというと背負うことができるからだと
思うのです。ほかの人だったら、とっくに
メゲてるかもしれないのに、なんとかかん
とか毎日を送っていらっしゃるではないですか。
Miyukaさんの境遇の詳細はわかりませんが、今の
Miyukaさんとまったく同じ条件を万人が背負わさ
れたと仮にしたとき、Miyukaさんはがんばってい
るほうなのではないでしょうか。
Miyukaさんに与えられた人間の条件のもとで過去
に伝えられた言葉、その他自分を支えてくれたり、
鼓舞してくれたりするものをやりくりしながら、
それこそ「自分なりに」毎日の自分を支えながら
生きているように他人の目には映るのですよ。
Miyukaさんに伝えられた言葉の力をMiyukaさんが
身を持って実証しているということさえいえるの
かもしれません。
何かに苦しみつつ生き抜くためには支えてくれる
何かが必要なのかもしれません。自分が苦しむ意
味とか苦しみを抱えつつ生きる意味って、自分も
「言葉自体」を鍛える現場になっているのでは
ないかとそういうことにあるのではないかと
なんとなく思うのです。「言葉自体」、万人に
鍛えられてその国の言葉は力をもつようになって
いくのだと思います。
イマージュの力に誘われてわけのわからないこと
をぐだぐだ書いてしまいました。どの位伝わる
か定かではありませんが、今日はこのあたりで、、、