はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2013年7月28日日曜日

独創的なルートを選択すれば競合者はほぼいない

”基礎になるアイデア”というキーフレーズ周辺を
うろうろしてたらこんなページにたどりつきました。

http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20090403/168333/

アルゴリズムなど基礎になるアイデアは特許になりません。
アイデアには価値がないとさえ言い出す人もいます。
大いなる勘違いだと思います。アイデアは人類の共通財産と
呼べるようなもので貴重すぎるので独占できないのです。

ひとつ抜けてました。そのページにたどり着く前に
至ったページがこれです。

http://www.outlogic.jp/modules/news/article.php?storyid=189

ウォルト・ディズニーでは、ウォルト・ディズニー・イマジニア社で想像力を磨いている。企業の活力維持に責任を持ち、利益責任を持たないシンクタンクであるこの会社の「唯一の仕事は、基礎となるアイデアを出し、それらのアイデアを膨らませていくことだ」。

と引用にはあります。

要するにこの世で一番重要なことは「唯一の仕事は、基礎となるアイデアを出し、それらのアイデアを膨らませていくことだ」ということなのらしいのです。

で、ウォルト・ディズニー・イマジニアという会社に興味をもち検索して
前のページを釣り上げました。

この文章の中で気になる言葉は

「何よりも大切なことはプロセスだからね」という一文でした。

プロセスという言葉からそこへ至るプロセス、そこへ至るルートというフレーズを
思いつきました。

独創的なルートというフレーズを思いつき、
http://yuuji1421.at.webry.info/201211/article_3.html

このページを釣り上げました。

最後の文章が面白かったです

>そこから登山道を往復するのが普通ですが
こちらからの方が面白いと思います。(ただ尾根取付標高は170m弱)
そして静か、まず人に会いません。

P・S ルートデザインというキーワードを思いつき
検索したら

http://aqsh.net/supporter/promotion.html

会社の名前に使われていました。
企業コンセプトは 根のほうのrootでした。

私のイメージしてたのはrouteおしい。

自分なりに考えること

「ここ」は情報や知識の提供というよりも、自分なりに
考えたり感じたりしたことの記録の場のように思います。

といっても、それは独創的だったり、創造的だったり
するとは限りません。

なかなか借り物のイメージをコラージュするカラオケ的
な文章のレベルを越えられないのです。

見かけ上オリジナルな感じにもっていくための手段は
二つあると思います。構成する部品の自作と考える
方法の自作です。

考える手がかりといってもいいかもしれません。
こだわりのあるキーワードや固有フレーズを案出し
それを道具に掘って行くという方法です。

自分なりにということは自分の身体や境遇その他
から出てくる自分の限界というものを引き受けると
いうことです。そして、その限られたものに面白さ
を逆に見つけていくということです。

話がどうしても抽象的になってしまうので、ちょっと
例題を考えて見ましょう。

evernoteはスクラップブックとして、使い、検索して
たどりついた情報をコピペしています。

「妙に純粋で物悲しい感じが、ひしひしと伝わってくる」
「しかし、たとえどんなに美しくとも造花はしょせん造花である」
「情報のかけらを見つけ、それを信じるか信じないかを決めるのは」
「競争の中で実現される欲望である」

これらは釣り上げた文章の中に書かれてあった名文句です。
それぞれ検索すると元の文章が出てくると思います。
そしてこれらの文章を釣り上げるためのえさとなるフレーズもあります。
釣り上げられた文章の中に次の文章を釣り上げるためのえさに相当
するフレーズを見つけるときもあります。

本でみつけた面白いフレーズを早速使うときもあります。
前々回の文章で使った
「欲の皮がおちてくると」の欲の皮が落ちるという表現は
『統合失調症のひろば』の中に出てきたフレーズです。
でも自分に根をもっていないフレーズを使うのは軽薄な
ような気もするので、いったん寝かせます。

evernoteに保存した文章はたまにぺらぺらめくって反芻します。
私にとっての資料集なのです。

今の世の中、外部記憶できるので記憶するのはインデックス情報
だけでいいという人もいます。でも、私はその考え方をとりません。
evernoteに収められたものは折をみて何度も反芻し、
自分の深層意識に埋め込もうとします。暗誦するまで付き合うと
いうものはあまりないのですが、味読でもするように何度も何度も
味わうほうです。速読派ではありません。

evernoteはアイデアの冷蔵庫ではありません。アイデアの冷蔵庫は
頭の中にあります。ありあわせの材料で一席つくることが好きなの
です。もちろん確認のために資料参照することはありますけどね。

ここまでのアイデアの作り方の方法はこれまた自作したもの
ではありません。『アイデアのつくり方』という薄い本を参考にして
います。

こういう風に書いてみると、アイデアの部品を自作する
とかアイデア案出の方法を自作するとか偉そうなことを書きました
がこれは達成できていることというよりは理想であって、そこまで
たどり着いていません。せいぜい既成のものに自分なりの味付け
やら肉付けをして使っているというだけなのかもしれません。

自分なりに考えるというのは既成の道具や材料を使って
自分なりに一席つくってみるということなのでしょう。
いわば手料理みたいなものです。料理屋の料理風でなく、
洗練されていないところが家庭料理たるところなのでしょうか。

地方の草の根の知識人でありたいという欲望というか目標を
もったとき、それで十分なのかもしれません。

文房具屋で購入した温度計であれ、ものさしであれ、それは
それなりに使えます。使用範囲を守りさえすれば十分実用に
耐えるのです。



2013年7月27日土曜日

『アルゴノオト』県図書でちら読み

長らく読みたかった『アルゴノオト』井亀あおい著 何のことは
ない家から歩いて15分の県立図書館の書庫にあった。
一方『類推の山』のほうはジュンク堂にはなかった。こっちの
ほうは読むのはまたの機会にしよう。

で、例によってちら読み状態の『アルゴノオト』の感想。
自殺するしばらく前のところの文章読むにつけ、今まで気づか
なかったけど、私の幸福は錯乱状態を経験したことだったの
かもしれないと思った。

たしかにそれ以前より楽に生きられるようになった部分もある
のだった。意外でしょ。

それまでは幼児期からの矛盾みたいなものをずっと感じていて、
自分の心身を「欠陥住宅」だと思っていた。そういった心身を何か
押し付けられたものと感じていた。

積もり積もった矛盾が爆発したものが錯乱だったといえなくもない。
そこで一回リセットされたから楽になった感じがしたのだとも言える。

ただし、そこで決壊した精神の切れ目はたぶん一生残り、ひとたび
出来上がった断層は恒久的に機能するのとどこか似ているような
宿命を背負うことになる。

私の目から見ると、『アルゴノオト』にもまた地殻の歪みみたいなものを
感じる。

自分の心身に積もり積もった地殻の歪みみたいなものを狂うことで
解放することもできず、自裁してしまったという風に映ってしまうのだ。

私は非現実、妄想の世界から短い時間でこちら側に帰ってきた。
どうせ、また仮に再発したにせよ、同じようなモチーフで繰り返すだけ
なので再発する必要性をもう感じない。非現実のテーマは表現の上
で追えばいいと思うだけだ。

思えば『アルゴノオト』自体が月並みな言い方ではあるけど、一種の
昇華の産物といえる。「紙は人間よりも辛抱強い」とした『アンネの日記』
とよく似ている。

金羊毛を探す魂の探検航海。北極探検の航海者がしばしば探検の途上
で命を落としたように、彼女も道半ばで逝ってしまった。

それでも北極探検の航海者が極地にあるさまざまな島の発見をしたように、
彼女も金羊毛に至る手がかりを多数残してくれているに違いない。

「金羊毛」と象徴的に書かれたものは一体何だったのだろう。『類推の山』と
書かれたものの別の表現なのだろうか?文芸上の「賢者の石」であって、
彼女にとって日記を書くというのは言葉の錬金術の上での「作業」だったのか。

翻って私を見ると、彼女の至った場所からはるかに隔たった領域をうろうろ
しているに過ぎないように見える。そして彼女のようには純粋な気持ちでは
ものを書いていないような感じもするのだ。技術、才能それ以前の話である。

今の世の中にあって、彼女のいうところの金羊毛を探す旅の途上にある人は
いるのだろうか?

情報は多くなった、インターネットで探せば手がかりもみつかる。現に
『アルゴノオト』の存在自体もインターネットがなければ、一生知らなかったこと
だろう。手がかりと引き換えに何を失ったのだろう。現代のヒマラヤ登山で
失われたものと似ているのかもしれない。大衆化されたことと引き換えにして
何か大切なものを失った。私の吐き出すプラスチックな言葉はヒマラヤに
残していくゴミみたいなものだ。私は『アルゴノオト』の周囲にゴミを置いて行って
いるだけかもしれない。彼女の残した言葉とどんなに質が違うのだろう。

魂の抜けたプラスチックな言葉をこねくり回して真実に近づこうと悪あがき
している。「ここ」はアルゴ船のキャビンでも甲板でも船倉でもなく、浪間漂う
ママレモンの中かもしれない。漂海ゴミのひとかけらに過ぎない。

それでも言葉を吐き出すことをやめられない。卑金属を貴金属に変性させよう
とする欲望のように、虚しい言葉をこねくり回す。自分なりに自分にとっての
光り輝く何かへ至る手がかりをひとつでも多く見つけ出したいだけである。

光り輝く何か、それは自分ごとき者が憧れても、欲望しても詮無き何かである。
才能なきものでも時にはセレンディピティの女神は気まぐれなほほえみを送って
くれるかもしれない。そういう甘い望みをもつこと自体が才能なき者の才能なき
者たるところなのかもしれない。錬金術者の多くが単に人生を棒に振ったように
私も大切な時間を浪費しているだけなのかもしれない。いいたいことはそれだけか?
時間泥棒もそのくらいにしよう。彼女の航海日誌を読み込めば何か大切なものが
見つかるかもしれないが、私のログを目を皿のようにして眺めても単なる徒労だ。
ここまで読んだ奇特な方には感謝しなければならないけど、時間を無駄に使わせて
しまったような感じもして申し訳ないような気がする。饒舌はやめにして、続きは
ひとりでやろう。

欲望のあり方が進化すること そのモデル

欲望の制御、宗教の古くからのテーマだ。
「人はパンのみにて生きるにあらず」
有名な聖書の文句だけど、
欲望と環境負荷の関係を考えると
現代に響くことばだと思う。

しかし、欲望の制御というテーマを巡って
人類は何度も希望を裏切られてきた。
動物としての身体をもつ業深き人類。

話変わって、「さとり世代」という若者の
ことが言われ始めてしばらくたつ。

消費のほうにあまり向かわないらしい。
そして、むしろ中にはコンテンツ生産の
ほうに情熱を傾ける人々もいる。

デジタルコンテンツであればかさばらない。
構想を練る時間を多くすれば、電力もあまり
つかわず、複雑な機械を使うことにまつわる
資源の浪費も抑えられる。

今の人はどんなときに幸福を感じるのだろう?
気のおけない友達と有意義な会話をしている
時間という人は案外多いのかもしれない。

会話で済むのなら非常にエコだ。
料理や飲み物さえ不要であるときも多い。
ちょっとした公園のベンチでもあれば十分なのだ。

人々の欲の皮が落ちてくると経済やら税収の面
では困るのかもしれない。

ただ文明の残り時間は長くなるように思う。
その残り時間を使って何としてでも成し遂げたい
人類としての事業は何なのだろう。

万に一つでも、沈みゆくタイタニック号の上での
陣地合戦みたいな現状から離れ、違うストーリー
を人類が描くことができたらいいのになあと願わず
にはいられない。

物質的な財から象徴的な財へというのは一つの
ポイントかもしれない。

ゲームのルールづくりは密かにインターネットの
舞台裏で進んでいるかもしれず、シリアスゲーム
やTRPGなどの形で日常世界にその一部がもれ
出しているのかもしれない。

最終的にはルールづくりの主体は個人になるのだ。
ブログを書いたりするのもそういった一人遊びの
実践のような気がする。

P.S たぶん雑誌その他マスメディアには欲望肯定、
物質主義的な生活のモデル像と違うモデル像が潜在
的には待たれているのだろうと思う。現代社会における
隠遁者、ニート的な人物の中にモデルはちらほらとみつ
かるに違いない。方丈記、わびさびその他モデルになり
そうな事例はこの国には結構多い。

P.S2 今回も例によって借り物競争、カラオケ的な文章
のレベルを越えられなかった、でもほんの少しではある
けど、自前で考えていることも含まれている。カラオケ的
な文章ではあるけど、そういう風には考えているという
意味では書いた意味があると思う。そこからオリジナルな
発想を展開していくためのベースキャンプみたいな扱い
である。

文章のカラオケ化というテーマでむかしこんな文章を
書きました。http://epimbi-madrigal.blogspot.jp/2012/04/blog-post_8228.html
一方、文化のカラオケ化というキーワード
では私の文章なんぞよりもっと質の高い文章がみつか
ります。http://www.suntory.co.jp/sfnd/chiikibunka/kangaeru_k03.html

2013年7月21日日曜日

この世界について考えたすべてのこと

この世界について真面目に考え始めると、頭の中の
百科事典を一項目づつ書いて埋めていくという作業
になりかねない。

それはそれで一つの試みとしては面白いかもしれない
が、それは難事業だし、書いている途中でどんどん
世界観は変わっていくだろう。

そこで心の中のスナップ写真のように、あれこれ思い
ついたことを書いていくということになる。

そのことについて、その時期に書いたということは
本人にも気づいていないだけで何か意味があること
なのである。ちょうどそれは個人にとっての検索事項
の歴史にきっと秩序というものがあるように。

そのことを主題として心の中で結晶化したという記録
になるのかもしれない。それは読み手に解釈される
ことである。そして、その読み手とは時間がたったとき
の未来の自分であるに違いない。

何が形象化され、何が形象化されないのかは民族の
歴史を知るための手がかりにもなる。

たとえば、古事記に出てくる動植物のリストと万葉集
に出てくる動植物のリストの違い。

そして、それらのテクストと聖書など外国の初期の
テクストとの比較。

日本は動植物の名前が出てくるほうらしい。でも、
それも中国の文化から学んだ結果ということらしい。

かつて国としてテクストが編纂されてきたような営み
が今は団体レベルだったり、個人レベルで営まれている
ような気がする。ヨーロッパで文書館みたいなのが
できてきたように、今後は町内だったり、自分のところ
のマンションだったり、そういうローカルなレベルでの
記憶の文書化が進むのかもしれない。

市町村誌というのは図書館の郷土資料コーナーで
読むことができるけれど、さらに一階層ミクロなレベル
で作られるようになるのかもしれない。

いわばそのレベルにおけるDNAみたいなものなので
ある。その文書を手がかりにして未来を考えたりする
のだ。

自分たちがどこからきて、今どこにいて、これからどこ
にいくのか?それはログをつけてみないとわからない。
自分なりに始めた航海日誌なのである。

その形式は決して成熟されたものではない。そして、
だからこそ面白いのでもある。

そこには文字という道具に目覚めた若々しさがあふれて
いる。文字によって記録を蓄積し、眺め、その反芻の中
から自分独自の文化的要素が抽出されてくる。

自分の頭の中のOSを作り出そうという試みなのかも
しれないし、近代的自我と呼ばれるものに遅まきながら
目覚め始めたということなのかもしれない。

植物誌がその地域の財産目録としての植物リストのように
内面を記述するという営みは頭の中の財産目録を数え
あげ、形として現しているということなのかもしれない。

自分の器の小ささを愛せること、もしくは許せること

人間の器の大きさって何によって決まるのだろうか?
肝の大きさみたいなものであれば、かなり遺伝子も
関与しているかもしれない。

「器量により」という言葉が好きだ。一昔前の、フジカラー
のCMの「それなりに」というやつである。

「それなりに」という言葉を言うのは樹木希林。器量よし
とはいえないけど存在感のある役者さん。

役者としては不利である器量よしではないという現実に
めげず、役者としての工夫を凝らした結果ではないか
と思う。

同じことは中身としての器量にも言えるのではないか?

以前、関連するテーマ書いているのでおさらいしてみよう。

http://epimbi-madrigal.blogspot.jp/2013/04/blog-post_5900.html

今、この文章の中で取り出したいキーワードは「めげない」
という言葉だ。

自分の人生、誰も責任とってはくれないということと関係している
と思う。

現実にはめげてしまう時期はあると思う。お風呂にいくのに
さえ、多大なエネルギーを必要とする大うつ状態の人に「めげるな」
というのは無理というものである。やりすごす時期なのかもしれない。

長いトンネルもいつかは抜けることを信じ続けることが大事なの
かもしれない。

「めげない」というキーワードが有効な意味を持っている時期の
人に伝えたい。

現実を与えられた上での自分なりの工夫って面白いのではない
だろうか?

みんな同じ姿になる必要はない。そんなのは面白くない。
他人の姿は他人の姿。まあ、私も鏡に映った自分の姿に
コンプレックスをもち、ときにはがっかりしてしまうけれども、
どんなにみっともない姿であっても、それが自分なので、
そこから始めよう。

恵まれない自分の器量というのは天が与えてくれた
自分へのハンデなのかもしれない。ひらきなおるべし。

ひらきなおった上で、怠惰にならず、昔の農民が田圃を
耕しつくしたように、自分という素材に鍬を入れるのだ。

外国の棚田を見ると時に感動してしまう。棚田というの
は平地の田圃からみると不利な条件である。でも、その
不利さを存在としての美しさに変えるのは人間の力だ。

自分に押し付けられた不利な条件。でも、引き受けてみる
ことでその不利な条件は面白い効果として現れるかも
しれない。変形した土地を与えられた設計家はときには
内心喜ぶのかもしれない。変形した土地という制約は
ときにはユニークな建築を生むこともある。

epiさん、そういいながらもあなたは恵まれているんだよ、
自分はないないづくしだ、という声も聞こえてきそうである。
どうしよう。そういう人はとりあえず、どこから手をつける
べきであろう。

私は基本的にそういう境遇のひとに自分の言葉が届けば
いいのになあと思いながら書いている。どんな人でも、そして
何歳からでも人生はチャレンジ可能なものなのだろうか?

その答えは私は実は知らない。スタートの時期が全然、
私とあなたとでは違うとさえ、ひとによりけりだけど、伝えない
といけないこともあるかもしれない。

そこでも「器量により」という言葉が利いてくると思う。
持ち物が貧しければ貧しいほどポケットの中身を探さなければ
ならない。心の財布の中にいくら入っているかは知らない。

神様は残酷だから大体不公平にお金を入れているような気
がする。そこをめげないで心の財布の中身を豊かにしなけれ
ばならない。そう、めげないで。

今日の文章、読んだ人のどのくらいの人に届くのだろうか?
届かないとすれば、それも私の器量だと思う。そこが私の
今の限界なのだ。個人も、地域も、国も、世界も、その時の
限界というものを持っている。それぞれ与えられた器量に悩み、
それと闘っているに違いない。

P.S 心の財布のところは聖書の「タラントのたとえ」のところ
を参考にしました。でも、1タラントというのは意外に大金なの
だそうです。会社が新入社員に生涯払う金額は3億円って
若いころに聞きました。意外と高いものだなあと思いました。

2013年7月19日金曜日

背伸び

私は自分を自分以上の存在に見せかけようとすることは
自分の中ではキライだけど、その割には背伸びをするこ
とが多い。そして、大体後で後悔する。

「自分を自分以上の存在に見せかけようとは思わない」
という言葉自体が一種の背伸びのような気がする。

背伸びの手段として、本を読む、言葉を少しでも磨こう
とする。でも、そんなことをすると経験と行動が後に置
いてけぼりにされてしまう。

経験と行動は後からついていくものだろうか?それとも
遊離してしまうのだろうか?

悪い意味での標語のように言葉だけが空回りしてしまう
のだろうか?

それでも、さしあたって、ほかに手段がなかったので、
もっぱら言葉の学習のほうに傾斜してしまった。

まあ、見るひとから見ればそれも笑止千万なのかも
しれないけれど。

大きな目でみると南九州の人間にとって言葉の学習
は大事だと思う。

以下引用


○しかし、表12のようにいまだに措置入院患者が極端に多い地域と少ない地域があり、鹿児島県、佐賀県では10年以上措置入院している患者がそれぞれ45%,38%もいる一方、東京都では3ヶ月未満の患者が76%で、10年以上入院している患者は4%に満たない。このように依然として運用基準が地域によって異なっている。
○ 医療観察法の施行後、措置入院の新規件数、地域間格差、救急適用、入院期間などがどう変わるのか。今後の分析が必要である。
ソース http://www.kansatuhou.net/10_shiryoshu/07_01_shiryou_seisin.html


その話と関係あるかどうかわからないけれど、

http://todo-ran.com/t/kiji/12001

この図をみてもらうと鹿児島県は全国でもパチンコが多い県みたいだ。


措置入院患者が多いということと、パチンコが多いということは
どこかで結びつくのだろうか?その解釈はみなさんにおまかせする。

ただ、私の中ではパチンコ屋と博物館は世界の対局にある存在
であって、鹿児島は俗に「文化果つるところ」と言われていること
を裏書きしているような気がする。

要するに余暇を建設的に消費する文化が育っていないという
ことになるのだ。

そしてそのことは究極的には言葉の問題に帰着するような気がする。

何か問題が起こったときの当事者並びに周囲の取扱いのまずさ
みたいなものも悪い影響を及ぼしているような気がする。
そういったものが統計的に措置入院患者の数などに現れてくるの
かもしれない。

私は普段ニュースは見ない人間なのだけど、普段は表面に現れ
ないその地域、時代の深層に関わる何かが事件という現象を
通して表面に現れると思っている。事件は表層であって、根は深い。
対処療法的な扱いはできるけど、体質を含めた根本的治療は
難しい、それは地域、時代の文化に関わっているからだ。

また話は飛んで、志布志事件というものを考えてもらう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E5%B8%83%E5%BF%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6

日本の周縁で起こった異常な事件。究極的にいえば、人の問題であり
言葉の文化の問題だと思う。

すぐにブーメランは私に帰ってきてしまう、言葉の文化などと書きながら
こんな文章を書いてしまうような輩である。

P・S この文章で書いた「文化」という言葉だけど、西欧文化的な
高級文化、もしくは低級文化といった意味合いと、文化人類学や
民俗学で出てくる「文化」という言葉が混じっているような気がして
よくない。

物事には光の面と影の面があると思う。クローンのように標準化
された言葉を誰もがしゃべるのはあんまりよくないと思う。どちら
かというと文化の多様性のほうを重んじることのほうが好きだ。
でも、多様性のほうにも影の面があると思う。何かが起こった時の
扱いに影の面が現れると思う。その点では私にまったくあてはまる。
問題は根深く、根本的な治療は難しい。でも、遠回りでもいいから
少しずつは改善していきたい。

P.S 病気も事件と似たようなところがあって、平穏期のときも
病気は隠れていて、根は深く、根本的な治療は難しいのでは
ないかとなんとなく思いました。平穏な時は何も感じなくても
夫婦喧嘩のときに相手の本質みたいなものが見えてくるのと
どこか相通じています。あるいは戦争を通して、その民族の
深層がくっきりしてくるような感じです。

それでも、明るく希望をもって生きたいです。ちなみに私は
鹿児島県民大好きです。

2013年7月18日木曜日

組み合わせの不思議さ 万屋的デザイン

近所の文房具屋さんなのですが、私は全然意識していなかった
のですが、大阪から帰郷した姉の話によるとなんでも屋的
な要素があるようなのです。あつかう品目が。

家族経営の昔ながらの文房具屋です。
大きな地図で見る

鹿児島みたいな地方都市になりますと、大都市とは違って
いろんな業種で万屋的な側面が多くなると聞いたことが
あります。

建築屋さんでも病院でも、会社でも、一般の家でもと
いった具合に(あくまでもたとえです)扱う領域が都会
と比べて広くなるそうです。間口を広く扱わないと商売
が成り立ちにくいのだそうです。それは必然的に専門的
な強さが発揮しにくくなることとつながります。

法律家でもやはり間口が広く、専門性が都会の法律家と
比べると薄くなる傾向があるそうです。

それは否定的にみればそういうことなのですけど、
何かクリエイティブなことをしようとするとどういう
風に効いてくるのでしょう。

あつかう要素同志を混ぜ合わせたりかけ合わせられる
分野であれば万屋的側面というものが面白い効果を
発揮すると思うのです。

理屈の上では以上の通りなのですが、それを実現させ
るにはある程度の研究をする時間的余裕が必要な感じ
がします。

あと、みなさんの日常風景の中で空気のように存在する
ものたちを違った目で見直し、掘り下げ、それは本質的
にはどういったものであって、アイデアのヒントとして
はどういう風に受け止めるべきなのかということを思い
めぐらせなくてはいけないような気がします。

皆さんのご近所にも、気づかないだけで面白いもの
があると思います。時にその地方の人ではなく、違う
地方の人の目でみたり、外国人の目でみたり、未来の
人の目でまなざしてみると何か発見があるかもしれません。

2013年7月17日水曜日

対象との適切な距離について

近すぎる距離は盲目的な模倣を生んでしまう。

鹿児島にいると距離について自覚的になる。
距離という道具を使いこなそうとさえ思うこともある。

日本自体が東北方向、西南方向に長い軸を持った国土である。
フランスの国土の形とは対象的である。

その形態性、空間的な性質をうまく機能させることはできない
ものであろうか。

街には隠れ家的店という存在がある。
街の中心から離れた店。戦略的に選んだものか、
最初は制約だったのかは店の歴史にもよる。

でも、中心から離れていることの逆説的利点に目覚めると
それを戦略的に利用するという道が開けてくる。

そんなことを考えるようになった理由は何だろうか。
生物学の学習が大きいように思う。

隔離は種分化を生む。種の多様性は環境の変化に
対するリスクヘッジとして機能する。

距離というものに自覚的になったもう一つの理由は
臨床心理学の学習も大きい。

臨床心理学には転移/逆転移という概念がある。
本でしか学んでいないので正しい理解かどうか
わからないが転移/逆転移の一つの例として
それぞれの当事者の心の中に発生する恋愛と
憎悪の感情だ。

治療的関係のようなハードな状況ではとりわけ
異性間の関係だったりすると、近すぎるがゆえに
感情の泥沼状態が発生しやすい。

裏を返せばきちんとした間合いが取れているから
こそ治療的な関係は維持できる。ここは人間として
の自然な感情と反し、人工的な関係といえる。

同じような関係は職業的な人間関係であれば
至る所で発生する。

私自身について言えば、職業的な関係と
個人的な関係をきっちり分けようと努力している。
人間関係の登録の窓口が私の中では違うのである。
それは履歴として、その後の人間関係の歴史の中
でもきっちりその人間関係を規定する。そこは自分の
中の厳しいルールとしてきっちりさせようと思っている。
それが双方の当事者の利益を最終的に守ることだと
信じているからだ。

ただし、店のルールを客が守っている限り、店のルール
を客は意識に昇らせる必要はないように、普段そういう
ことは話題にされない。それは野暮というものだ。

象徴的に言えば、店のカウンターの仕切りが一種の
国境であり、それぞれの領分の範囲なのである。

さてと、話題は最初のほうに戻る。鹿児島県は面白い
ことに仕切られた空間の宝庫である。本土といっても
半島的な要素が多く、空間的な隔離がある。宮崎県
とは随分違う。

それは行政コストを増大させ、鹿児島県は貧乏県と
言われてきた。象徴的には鹿児島県から宮崎県側に
入ると道路の雰囲気まで変わるそうである。情報は
古いので今は違うかもしれない。

でも文化的には豊かである。郷土性、地域性が豊か
だと東京出身の鹿児島在住の研究者から聞いた。
でも、どういう意味かは地元の人間には意識化で
きない。

「近すぎる距離は盲目的な模倣を生んでしまう」と
最初に書いた。適切な距離であれば、情報流入を
絞り、模倣するにしても、何を学び、何を学ばないか
という選択ができるのかもしれない。

適切な距離があるということは自力でやらないと
いけないことが増えるということでもある。もちろん
自力を養うための戦略も必要ということになる。

対象の解釈における誤読、勘違い、創造的な読み
は裏腹な関係にある。いい意味での異端を目指したい。

2013年7月15日月曜日

精神病の患者独特のものの見方考え方ってあるのだろうか?

精神病の患者独特のものの見方考え方ってあるのだろうか?
「精神病になってよかった」という人がいる。もちろん患者の
ほとんどがそう考えるのかどうかわからない。むしろ、そう
考えられる心境に至った患者は、精神病を潜り抜けた患者
というべきなのかもしれない。

「精神病になってよかった」という言葉は一つは当事者の
間で共有されつつある、文化的な要素ではないかと思う。

「降りていく生き方」をはじめ共有財産となりつつある言葉
は結構あるみたいだ。そういう意味でべてる文化に尊敬の
意を表したい。

翻ってラグーナ文化というののはあるのだろうか?はたまた
サポートネットラグーナの文化とか。あるといえばあると思うし
でも、むしろ草創期、勃興期、形成期みたいな感じだと思う。
まだ、展開期という感じはわかない。

文化の芽をめざとくみつけ、それを大事に育てていくのが
いいのだろうと思う。

当地鹿児島だと文芸好きの精神病者は何人かいる。
それを独自性をもった文化といえるまで育てていくには
どうすればいいのだろう。

私としては単なる他文化の模倣ではなく、独自性を
追求したい。そして、鹿児島は端っこにあることで、
自主性、独立性を育てることが可能であって、
情報から隔離されていることでかえって自力で
考え抜くということも可能になってくる環境である
と信じたい。

さて、最初の話に戻って、「精神病になってよかった」
という発想法は精神病者独特だと思う。健常者がもっている
常識と反している。

そして、何人もの精神病者を眺めてみていくと、世間で
いわれていることと反して、平和的な人が多いような
気がする。ただ、これも比較的状態のいい精神病者
だからなのかもしれない。

その裏面として状態の悪い精神病者という存在も
いるのかもしれない。

しかし、それも外側からしかも表面的にとらえると
そう見えるわけで、内側には内側なりの内在的論理
みたいなものもあるのだと思う。

ちょっと目を転じて凶悪犯罪者の世界をみてみよう。

http://www.amazon.co.jp/%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E8%80%85%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AB%E8%AA%95%E7%94%9F%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8B%E2%80%95%E3%80%8C%E5%8D%81%E5%A4%A7%E5%87%B6%E6%82%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%80%8D%E3%82%92%E7%8D%84%E4%B8%AD%E5%AF%BE%E8%A9%B1%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F-%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D-%E5%8D%9A%E4%B8%80/dp/4103287616

長谷川博一『殺人者はいかに誕生したか』という本がある、

時間に余裕があればぜひ検索してみられたい。
要するに凶悪犯罪者とはいえ、寄り添う形で眺めれば
新聞で記載される人間像とは違った姿が立ち現われて
くるのである。

人間存在というものは非常に複雑、多面的だと思わざる
をえない。

「精神病になってよかった」という言葉の背景にあるもの
は悲しみの涙が人間としての彫りを深くしたという
霜山徳爾の本で出てくる発想と通底するような
ものだと思う。精神病になることで人の痛みがわかる
ようになった、精神病になっていなかったらもっと
薄っぺらい人間だったと思う、そういう意見も当事者の
世界にはあるのである。

2013年7月14日日曜日

心の制御と言葉

私は気分の制御の効きがもしかしたら病気の後悪くなっている
のかもしれない。いわばブレーキの効きの悪くなった車のように。

人によっては怒りの感情、人によっては恋愛感情の制御の効き
が悪くなってしまう。

これらは周囲との関係にも影響し、その人の印象を形成させて
しまう原因になるので厄介だ。

でも、それは本人には何の罪もないときもあるのである。

さて、そうした時に、どういった処方箋があるのだろう。
私は言葉の力が大きいと思っている。脳の生理学的には制御の
効きが弱くなったとしても、言葉の力で埋め合わせることはある程度
であればできるような気がする。もちろん、ある程度であってある
限度を超えてしまうとまた別の方法を考えないといけないのでは
あるけれど。

できれば、周囲もそういう本人の事情を分かってあげると幾分かは
本人の立場も改善すると思う。

自分ではない他人の問題としてではなく、もし自分がそういう人の
ような境遇だったらどんな気持ちがするのだろうといった想像力
をもつことは有意義だと思う。他人の痛みがわかるような人間に
なりたいものだ。

しかし言葉の力は一朝一夕にはつかない。むしろ一生仕事の部類
に入る。それにいつの頃から努力をし始めたかということは残酷な
位効いてくると思う。語学も日本語の勉強も言葉の勉強であること
には変わりがない。

一つの努力として、平素読んでいる読み物より、若干レベルを上げて
みること。自分の知らない専門用語やら熟語みたいなものも入って
いるような読み物に手を伸ばしてみることだと思う。英語の長文と
同じで知らない単語は飛ばして最後まで読んで、全体の意味がなんと
なく取れればいいのである。そういうことを3日坊主で終わらぜずに
継続させることが望ましい。

継続させるためのコツは薀蓄を語るマスターのいる喫茶店などを探し、
そういう場で耳学問することだと思う。耳学問することで、いつもより、
若干レベルの高い読み物を読むことの意味が出てくる。音楽の話、
映画の話、小説の話、アートの話、焼き物の話、その他いろいろ。
そういった話は大人として知っているのもいい。ちょっと耳に入れて
おくとパーティの席で知らない人との共通の話題づくりに役立つものだ。

言葉の力をつける効用のもう一つは、何か困ったことがあって、
心理相談員などと話をするときに、何に困っているのかを言葉で
説明することができることだ。言葉で自分の困りごとをちゃんと
説明できると、相談員も何に困っているのか理解しやすいし、
そのヒントになるような話もし易いのだ。

残念ながら、もっとも読んでほしいような類の人には今日の文章は
届かないかもしれない。周囲の人の誰かに届けばいいと思っている。
もっとも釈迦に説法みたいなものかもしれない。当事者も頑張って
いるので、テレビ視聴時間とかを30分でも減らして、勉強の時間に
振り返るとかして、当事者の努力に負けないようにしてほしい。

2013年7月12日金曜日

心の形 表現型について

心の形って何だろうか?と考えることがある。その人の心の表した
あらゆること。

高校の生物の授業のメンデルの法則のところで遺伝子型というの
と表現型というのを習ったことがある。

一応は大学でも生物を専攻したのだけど、数学は苦手でいまだに
メンデルの法則のところはよくわからない。

植物は素朴に考えると植物の形とか色とか、ものによっては味などに
表現型は現れる。もちろんもっと細かくみていくといろいろあるのだろ
うけど。

動物は動く。植物ももちろん厳密にいうと動くのだけど、ちょっとここ
では素朴に考えてみる。動物は動くので行動という表現型のチャンネル
が現れる。

人間はさらに言語を持っている。心の中で言語をあれこれ操作するこ
とも出来るし、複雑な内容を他人に伝え、他人の心と力を合わせながら
いろんなものを表すことができる。

よって人間にとって表現型というのは体そのもの、行動を含みながら
人間の心の働きによって生まれたいろいろなものまで含まれると思う。

それは必ずしも、自分自身の力のみで作り出したものばかりではなく、
自分の目によって選択され、購入することによって、所有することに
なったあらゆるものを含む。ほとんどの人にとって、表現するとはその
前提として選択するということを含んでいる。

心の形って何か?などど私が気になりだしたのはなぜなのだろう。

一つは植物標本室で、幾多の植物を眺めたことも関係あるかもし
れない。

押し葉標本なので、死物であり、色や臭いなど、重要な形質は落ちて
いるものが多い。周りの植物を始め、周囲の環境についての手がかり
も落ちている。それでも、その植物についての多くのことを標本は教えて
くれる。

私は実は分類学についてはほとんどよく分かっていないのだけど、
なんとなく、人間でいう心に相当するものが植物では植物体自身によ
って表現されているのだと思った。

通勤の路面電車の中の人の格好、人の顔についてもさらに気になる
ようになった。いろんな様式の人が電車に乗ってくる。自分とは異質な
様式の背景には異質な生活のあり方とか異質な人生とかあるんだろう
なとなんとなく思ったのだった。

さて、ここ数年間ではあるけれど、ブログで日々の内面を綴っている。
時にはビジュアルで描いたものもある。日々の内面を綴ろうと思った
動機の一つは標本室勤めだったと思う。

自分の主観的な目で世界を眺めたとき、視野の周囲は身体とか、
服とか自分の一部が写っている。同時に、その時、その時、
意識の中では様々な思いが、それこそ意識の流れのように動いて
いる。要するに世界の半分くらいは自分なのだ。

でも、それについて自分では知るところは少ない。図書館の出納と
違って、昨日入ってきたもの、忘れていったものそういうものも把握
していない。もちろん、本屋に行っても、図書館に行っても、有名人
でもない自分の心についての資料は置いていない。需要もないだろう
し、そういうものは自前で作らないといけない。

記録を書きつければ書きつけるほど、自分というものをいかに知らない
かよく分かってくる。自分のことだから知っていると思い込んでいるのは
脳が仕組んだ陰謀なのかもしれない。とはいっても自分を知りたいという
路線も病理的にならない、ほどほどという線もあろうから、その点、楽しみ
の範囲内でやっている。

実践的に言えばブログを自己管理ツールとして使っているということ
なのだろう。精神科に通っている人にしか通じないかもしれないが、
電子カルテを自分で打っているような感覚である。気分の上下、
過去のちょっとした異常心理を記録できる。

P.S 私の考える心の表現型というものと文化というキーワードは
重なる部分が多いのかもしれない。ミクロな文化を紡いでいるのかも
しれない。

2013年7月11日木曜日

画二題

今日は先日、画塾で描いた画の紹介です。



まず最初の画は北極地方と天の北極付近を重ね合わせてみた画です。
どんな感じになるのかな?という単なる興味から描いてみました。といっても
ネット上の資料をあれこれ重ね合わせただけの(トレースに近いのですが)
ものなのです。孫引きの孫引きの孫引きということになるのでしょう。

多分、北極地方と天の北極を重ね合わせるというアイデアもどこかで誰か
が思いついているはずです。

ところで天球上の緯線経線はそれぞれ赤緯赤経といいますので赤の線で
表現してました。丸に十の字の島津家の御紋みたいな感じになったので、
隅にいろんな家紋を配置してみました。




次の画は最新作です。先週の日曜日(2013.07.07)に作成しました。
この日、なかなか画のモチーフが浮かばなくて困っていました。
画塾は鹿児島市のいづろという地区にあるのですが、画塾に行きがけ、
西本願寺のそばを通っているとき、西本願寺の塀の影をみて形が面白い
と思ったのです。お寺の塀なのでところどころ瓦が載っていて、でこぼこし
ています。強い日差しの中それが影になっていたので、光と影の世界で
いこうとひらめいたのでした。

山形屋の前を通っていたら七夕の飾りがありました。そして六月燈の燈籠
も飾っていたのでした。六月燈といえば鹿児島の夏の風物詩です。縁日に
花火の祭りです。画の題材も七夕と花火でいこうと思ったのでした。

左上は私の定番のモチーフの蘭です。

やってみたらこうなったという感じに仕上がりました。最初の画もそうなのです
がやってみないと分からないから面白いという感じで作っていきます。実験す
るのが好きなのです。

塀の影という本当にわずかな隙間をこじ開けて、そこから開かれる世界を
表現してみました。どこにでも、世界は隠れているのだなというのが感想です。
コンピュータによる描画はそういうところが楽しいですね。

2013年7月10日水曜日

より難しい状況下の方々への手がかりになれることを願って

私のケースは非常にうまくいった場合のケース、問題がこじれなかった
場合のケースの一つだろう。

だから人によってはあまり参考にはならないかもしれない。現在も心理的
には健常者に限りなく近い面も多い。

でも、そういう発信する価値があるかどうかわからない私のケースについて
長々と発信し続ける理由は、より難しいケースの方々にとっても何らかの
意味において手がかりの一つになれないだろうかと願うからだ。

やや難しいケースならば、私のケースの応用問題として、自己の問題を
扱うことができるかもしれない。そして、もしうまくその状況を乗り越える
ことができたら、その記録はさらに難しいケースの方々にとってのひとつ
の道しるべになりうるかもしれないと思うのだ。

困難な状況、人によっては「自分の人生は失敗した人生だ」と思い詰めて
いるかもしれない。それはどうかわからないけど、それでも自分の歩いた
道を書き残すことで、同じ失敗は後の人は避けられるかもしれない。

私も散々人生の回り道をしてしまい、人生のかなり多くの時間を浪費して
しまったということは言えると思う。後の人はもっと時間を節約して、私の
しただろう失敗のひとつでも免れるとしたら、発信した価値はあったと
思うのである。

経験という痛い対価を払って学んだ。私の場合は無為に過ごし、社会に
出ていれば得られた経験を自ら放棄したという意味での経験かもしれない。
でもまた逆説的にではあるけど、社会に出なかったことで葛藤が避けられ、
再発を免れた部分もあったかもしれないと思っている。

今は就労施設という保護的な環境で働いている。でも、もっとハードな
一般就労の世界で無理して働いていたら、頑張りすぎてしまったかも
しれない。要するに社会環境が整備されるのを静かに待っていたという
側面もないわけでもないのだろう。

服薬の話、就労の話、世間から聞かされる話はいろいろあるけれど、
最終的に受け取るのは自分の責任だと思う。どう考えても自分の人生に
ついての責任は世間はとってくれるとは思えない。何を信じ、何を信じない
のか最終的には自分が決めるからだ。

反面教師としての私というのもありうるかもしれない。人は他人の人生から
何を学ぶかは人それぞれだと思う。単なるきっかけの一つを提供している
に過ぎない。ネット上にはより多様な観察のための事例があってもいいと
思う。それは未来の自分かもしれないし、過去の自分かもしれない。まったく
自分とは関わりのない違う世界の人の記録かもしれない。それはそれで
そこにあることは何の問題もないのである。

皮肉なことに典型的な非定型精神病の理解から遠ざけるノイズの一つで
さえあるかもしれない。私はなるべく自分で自分を偽らず、誠実に自分の
ことを表現しているつもりではある。でも、それははなはだ迷惑な試みかも
しれない。実体のない病気のラベルを貼られただけの不幸な健常者の
一人であるという解釈もまた成り立つかもしれないからだ。

とはいえ、個人的には健常者の世界からもなんとなく疎外されているような
気もしないでもないのだ。健常者の世界はもっと明るい世界だ。薄暗い
自分の内面についてくどくど書き連ねる文章は健常者の世界には少ない。

2013年7月5日金曜日

病気をみる 人間をみる

「フツーの人は病気と闘うものだけど、epimbiさんは
病気とオトモダチになっているようですね」

市民講座で友達だったご婦人の一人がおっしゃられた
言葉だ。

たしかにそうなのかもしれないと苦笑い。

別の精神病関連の施設では、「病気も長くなると、
どこまでが病気で、どこまでが性格なのか、その人の
人生なのか分からなくなるのです。それらが絡み合って
くるのです」と聞いた。

何回も書いたけど、今の私の状態が病気といえるか
どうかわからない。精神病の履歴がある人というべきな
のかもしれない。でも、負荷がかかっていないからそう
見えるだけで、負荷が上がればなんらかの不具合が
表面化するかもしれない。傷のついたOSのような具合に。

一たびがけ崩れが起きると、次のがけ崩れもそこから
起こるそうだ。それが崩壊地の宿命みたいだ。一度できた
断層も、火山も機能し続けるように。病気の場合もどこか
似ていると思う。

でも、神経システムに出来た傷の場合はメンテの仕方に
よって破たんする確率は減らせるのかもしれない。とは
いうものの人生そんなに管理できるものでもないから、
腹をくくらないといけないのかもしれない。

私の場合、環境的にラクだったということは言えると思う。
家族も南国的でよくもわるくもユルい家族で、厳しい締め付け
圧迫等はなかった。本土に住みながら、沖縄、奄美的な
人間的ユルさみたいなものはあったと思う。

また前置きが長くなってしまった。
表題の「病気をみる 人間をみる」という題なのだけど、
病気の中でも精神の病の場合、その人の人生の中での
病気の意味の位置づけみたいな側面が大きいのではない
かということだ。あまりにも有意味な病なのだ。また、そこ
に捉われてしまうという罠ももっているかもしれない。

悩みというのは比較的時間があって、心に余裕もあった
場合、パズル的な要素も持ち合わせる。

沢山ものを書き出せばその人の全体像みたいなものも
出来上がるのではないか?という非常に楽観的な前提
でものを書いている。でも、それは虚しい望みだし、また
書き上げられたアカの他人の人生の書付けにつきあって
くれる誰かというのもほとんど期待できない。せいぜい
読んでくれるのはどこか奇特なコンピュータということで
はないだろうか。苦いけど、それもよし。少なくとも自分
という一人の読者は持っているのだから。

精神病者のカルテは星の数ほどあるかもしれないけど、
症状というよりも、患者の人生そのものを知ろうとした
とき、カルテだけでは十分ではないような気がする。

患者の人生そのものを知りたいと思う人なんているの
だろうか?知ったところでそれは多様なありようのうち
の点に過ぎない一つのケースに過ぎないはずだ。
一般化もできない、そんな一つのケースにつきあうよ
りはより多くの例に触れたほうがいいではないか?
それも正当な考え方だと思う。

でも、それではひとりひとりの奥行きみたいなものが
感じられないのではないか?植物図鑑で一通りなが
めただけで、本当のところは何もわかってないような
感じのもどかしさは人は感じないのだろうか?

一つ一つの植物には例えば、「イネと日本人」といった
テーマに相当するくらいの奥行きがあると思う。それは
イネからそれぞれの患者に対象を移したときも言える
のではないか?

2013年7月4日木曜日

公開することと自己愛

思うに人一倍欲望が大きかったり、人を恨んだり
妬んだり、ドロドロとしたものを抱えていたり、
ネガティブにものごとを考える性向のある人は
あんまりそのことを記録して公開したりはしない
のではないかと思う。もちろん例外はあるかも
しれないけど。

ということは私はやっぱり、自分に対して自信が
あるのだと思う。自分の胸のうちをさらけ出しても
恥ずかしくないと思うだけの。

それは自己愛でもあるし、自己欺瞞でもある。
ドロドロした情念のない人なんているのだろうか。
私も嫉妬の念やら、ドロドロの部分ももっている
ことは自覚しているけど、そこは書かないだけだ。

ここをというよりも、読み手のこころをゴミ袋には
したくないだけだ。

本当はどぶさらいのように、勇気をもって心の奥の
開かずの間やら、饐えた臭いのこもる心のマンホール
のふたを開けて、掃除しないといけないのかもしれ
ない。正確を期すなら、見るに堪えないようなものを
ここで陳列しなければならないのかもしれない。

でも、それはしない。大量にものを書けば、何を書いて
いないかによって、それらの所在はわかると思うのだ。
武士の情けというものを読者に求めてもいいではないか。
それに蛮勇奮って、私が変な前例をつくってしまったら
それもよくないのではないだろうか。

公開する当事者についての一つの留保として、
自分の公開できる範囲内での、という条項はあっても
いいような気がする。

もうすでに危険な選択は行っている。大量の個人情報
を吐き出してしまった。これらはどのように本人に不利益
として跳ね返ってくるかわからない。

それでも、それを選択した。それは精神病の当事者
みずからが勇気をもって情報発信すれば、世間の
精神病者像、患者像がかすかなりとも動くと信じている
からだ。でも、それは発信されたものが典型例として
誤認されるという歪みもまた引き起こされてしまう。

「世の中にベストというものはない。それでも、ベター
なものを選択しづづけなければならない。」恩師の一人
から学んだことだ。私の選択はベターな選択だったか
どうかさえ分からない。

病気を通して、有名になりたい、人に知られたい、
そういった娑婆っ気はないわけではないだろう。
なにせものを表現しているのだから。ささやかであれ
ものを表現する人であれば、より広く、より遠くまで
届けたいと思うのは人情であろう。

その一方で、この世的なそういった娑婆っ気を憎む
心をも持っていると思う。当事者的には精神の病気
とは脳の故障で収まりきるものではなく、精神の病を
通して(生理的ではあれ)、この世ならぬ世界を垣間
見るものでもある。少なくとも一回はこの世的な価値観
がすべてリセットされたことだけは確かなことなのだ。

今は社会に参加している。でも、この世ならぬものの
記憶も忘れたくはない。恐怖体験ではあったけど、
その中にも微かながら、人生を放擲してもいいくらい
美しい何かもあったのである。

患者の自己観察癖と心身の異常と変異とゆらぎ

現在、主観的には(おそらく客観的にも)、なんらかの
精神症状で困ったり、困らせたりしてはいないと思う。

ただし、うっかりミスが多少多いことや、判断のまずさ、
事務的なことを長く覚えていることの不得意さはある
と思う。今の職場は保護的な環境といっていいので、
これらのことは病理に発展していかないような気がする。

自己観察癖といってもいいような私の属性でもあるけど、
それは心の歪みを増幅させているのか?それとも、
記録を取ることで心の自己管理ができる方向にもって
いっているのだろうか?

多分両方の側面がある。自己観察癖と観察記録癖は
なんだか、当事者の集団の中にいても孤独感を感じる
要因になっているような気がする。

そもそも当事者とはいえ、誰もが自分の精神について
深い興味を抱いているわけではないと思う。そして、
それはある意味健康なことであり、深く分析したり、
考えないことによって、病気を遠ざけていると思う。

でも、私は興味を持ってしまった。きちんとした自己観察
の方法を学んだわけではないので、記録としての価値は
低いかもしれない。

まあ、系統的な自己観察の方法を知らない人が自分なり
の自己観察の方法を編み出し、自分なりに自分の心から
何かを学んでいく学習者の成長の記録にはなっていると
思っている。

過去の記録を読むと顔から火がでるくらい恥ずかしい。
書いたときには悦に浸っているけど、時間がたてばたつ
ほど恥ずかしさが増してくる。そして、公開までしてしま
ったことに変な勇気さえ感じてくる。何も知らなかったから
こそ公開できたのだと思う。

リアルタイムで記録は更新されていく。読み手に相当する
人は何人かいらっしゃるのだろうか。

とくに目をひく派手な症状があるわけでもなく、何かの
隠れた欲望と目的をもちつつ自己観察し、公開するという
そのこと自体が不自然だ。そんなものに読む価値がある
のかどうかわからない。

ただし、本人にとって価値があるのかないのかわからない
けど、価値は読み手が決めるのだと思う。

くどいくらい書いたけど、臨床の現場にいたからといって、
当事者は心の底までなかなか見せない。表面にちらちら
と現れる徴から内面を推察しなければならないことが多い
と思う。私秘的なものだけでなく、あらためて内面を語る
という機会がなかなか日常訪れないものだ。

それは身近な両親やら兄弟、配偶者でさえもそうではない
のだろうか。深い胸のうちはなかなか語りだされない。

さてと、前置きが長くなってしまった。

最初に書いた通り、現在の私の精神は異常という範疇で
はなく、変異あるいはゆらぎの範囲に収まっていると思う。

ただ、精神病の履歴はある人なので、そういう人の特徴
みたいなものはあるのだろうか?という興味がある。

精神科医のなかには患者に魅力を感じる人が多い。
その魅力とは何なのか。自分なりになんとなく他の当事者
やら当事者仲間の世界と世間の世界の雰囲気的な違い
を通して感じるところはある。

でもそれはあえていうところではないし、こと上げすること
でもない。こう見せたい、ここは隠したいという欲望はもち
ろんあるだろうし、事実すべてを見せているわけではない。
こう見られたいという欲望から自由になっているわけでも
ない。それでも、くどいように書いたように、大量にものを
書くとすべては管理できないことから、おのずから真実が
あぶりだしのように浮かび上がってくる、その一点がこれ
だけものを書き続けている動機だと思う。

ひとそれぞれ世界がある。いろんな名をもつ生き物が
いるように。でも、それらは普通、極めて低い評価しか
されない。百科事典は電話帳のようにはならないのだ。
現にほとんどのお読みの人の祖父母だって百科事典
には載っていない。
一方それは普通の人とされる人の怠慢でもある。自分
というひとりしかいない人間の孕む問題に気づき、自分
の身体のうちでしか考えられないような問題、自分の
身体の中で歴史の中で最初で最後に実現するなんらか
の出会いについて、もっと目を凝らせば何かが見つかる
と思うのだ。ひとそれぞれの違い、その平凡なことについて
もうちょっと突っ込んで何が違うのか、それを言語化して
みることの大事さみたいなものだ。

皮肉なことに、私の場合、病を通して、そのことについて
考えやすくなった。百円ショップの商品も出荷時には個性
をもたないかもしれないけど、摩耗し、壊れていく過程では
かけがえのない一つ一つの過程をたどる。ピカピカの未使用
のものがほころび、すりきれ、最後は崩壊していくこと、
それはまさに記録されるべき歴史の一齣なのだと思う。

わっ「中二病」だ。

BS11で先週『中二病でも恋がしたい』というアニメ番組が
終わった。何かと考えさせられることの多い番組だった。

何に考えさせられたか?
アニメのキャラクターたちは妄想ならぬファンタジーの世界
にときたま入り込んでしまう。その手段。

臭いフレーズを連用し、異化された言葉づかいをすることに
よって日常とは違う世界を作り出してしまう。

なんだかそういうやり方が誰かさんと似ているのでは?という
気がうすうすしてくるのだった。

思えば、学研『ムー』の読者欄の世界には前世少女と呼ばれる
彼女らがいた。ファンタジーの世界にいってしまった少女たちだ。

彼女らは実のところをいうと現実世界に存在した中二病患者で
あって、臭いフレーズを日常であらゆるところで使っているうち
に日常世界から超出しちゃったのではないだろうか?

宗教その他、言葉の力を使って日常/非日常の境、『中二病で
も恋をしたい』の世界の用語を使うならば、「不可視境界線」
を揺らがせてしまう人間の営みはいろいろありそうだ。

能をはじめ、舞台の世界でさえ、幕の内/幕の外の関係性、
テレビの世界だって、画面の向こう/お茶の間の世界みたいな
感じで境界線を巡って、その揺らぎを楽しんだり、意識的に
なったりするではないか。

場末も場末、「ここ」なんかどうだろう。現実の場に移すならば、
どこかの飲食店で「芸」を披露しているつもりなのだけど、
「能」が足りないためか、お客さんはほとんど前に張り付いて
いないというか。そういう「場」としての「ここ」。

そこでさえ、境界線を巡って遊ぶことはできる。
「境界線の向こう」と思っているのは「虚の世界」。本当は
読み手の心の中にしか存在しない。

「あなたの信仰があなたを救った」と聖書の中のイエスは
言う。いろんな解釈はあろうけど、「救い主」は読み手とし
ての民衆の中の「イエス像」であって、本人にとっては
肉体をもったただのおじさんにすぎなかったのではなかろうか。

テレビを分解しても、アタマを分解してもそこには精巧では
あるけど、虚ろなからくりがあるだけ。

ココロの世界、もっとどぎつい言い方をすれば、
「霊の世界」はいったいどこにあるのだろう?