何気に思うところがあって”一般の人” ”大活躍”で検索したら、
出てきたのは次の記事だった。
http://katsuji.yomiuri.co.jp/kyouyo/entry/post_12.htm
>歴史上の人物は一生をかけて人生の成功例と失敗例を見せてくれています。
>とくに乱世の時代は、一般の人たちが大活躍して世の中を変えていくわけですから。
>それは面白い。
小日向えりさんという人のひとことだ。ちなみにテレビみないのでこの人がどんなひと
なのか私は知らない。
一般の人たちが大活躍と書いたのはプロの人で一般の人ではなかった。
一般人もっとしっかりしろ。
といってもちょっといいすぎかもしれない。 ”一般人” ”活躍” とかいろいろ語句を
変えてみたら出てきそうだ。
でも、今も乱世といえば乱世なのに、「一般人が大活躍する」というモチーフをもっている
のは一般人ではなくてプロの人というのはやけに悲しい。
私も一般の人の一人だから、高みから見下ろすような言い方はしたくない。
一番問題なのはマスメディアを通じてなんとなく「一般人」という言葉のもつイメージを
視聴者自らが内面化しているように思えるところだ。
マスコミが成功者を持てはやすのは若き視聴者に対して具体的な自己実現像を提供
するためだと思っている。将来の一つのモデルとして、部分的にでもいいから要素を
取り込んでもらいたいというのがもともとの趣旨のように思う。
でも、なんだか「逆立ちしても自分はなれっこない」として最初から諦め、
単なる崇拝の対象にしているようにも見える。そして、私自身そういう毒に染まっている。
もちろん努力なしにはどこにもたどり着けない。選択されないのを恐れてマスコミは
離乳食のような顎の負担にならないようなものばかり送り続けている。それも単なる
印象なのだけど。合わせ鏡のように堕落のサイクルを回し続けているようにも見える。
ネット上をうろうろすると実態としては一般の人は十分大活躍して、水面下で世の中を
確かに変えていっているような気がする。それも目立った主役がいるというよりも、
太古の地球で光合成を発明した植物が酸素出して地球の環境を変えていったような
感じの変動である。一般の人々は情報環境そのものを変えつつある。
それは決して小さなことではないかわりに、地球そのものが移動しているような地盤の
変化なので大きすぎて逆に意識できない。
みなさんに問いかけてみたいけど、80年代でも、90年代の初めのころでもいいから
メディアとの付き合い方という視点にたつと、見えている風景、呼吸している世界が
全然別世界だと思う。一般人の大活躍という概念は景色の変化、環境の変化として
認識される。
明治維新前後、戦前戦後の風景の違いに相当する大変動が起きているのが実感できる。
社会基盤そのものを作ったのは社会のリーダーたちかもしれないけど、生活の風景を
作ったのは一般の人々だと思う。どちらとも。
家がほしくて馬車馬のように働き、私の親たちの世代は私が生活の足場としているささやか
な家をつくった。馬車馬というよりは淡々と書き散らしながらネット上に自分の居場所を今
私はつくっている。
それはそれで自分の城なのである。
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