とき、自分を抑え、なだめること。
「カミに出会えた」「宇宙的な体験」だからといって、宗教活動に
走らないこと。
その結果、ぱっとしない「平凡な私」の状態で社会の隅っこで
小さくなっているのだけど、線香花火の終わり方にも似て、
それが自分の身の丈なんだという感じがする。
母親はもう年老いているし、両親を悲しませる回数が割合
少なかった(とはいえ健常者とは比べられない)のはそれ
なりに良かったのだろう。
もっと欲の大きい人だったら、きっと「ひとびとを救おうと
思って」動いていたと思う。私は気が小さいから、ごしごし
ブログなんか書いてお茶を濁して満足している。
リウマチにはなったけど、脳機能の破壊はそれ程進まず、
それなりに人生楽しめている。運不運、その他の営みの
中で、皆それぞれのそれなりの今があると思うのだけど、
主に残りのコップの中身のほうに重点を置きながら、
それぞれの今の楽しみ方を工夫するのがいいのだと
思う。
書きながら、裏側の人生を考えてしまう。私はたまたま、
再発の回数が少なかったのだけど、多かったらどんな
感じなのだろう。今を楽しみのまったく感じられない心理
環境の中でむかえていたとしたらどうだったのだろう。
「ごめんなさい」とは言いたくない。
私もそう言われて嫌だったから。
いろいろ条件が違う中で、その人なりにもがいた上で
その人なりの今があるのだ。出発点も違うし、与えられた
ものも人それぞれ。簡単に比べられないし、結局のところ
本人のことが内からも外からも見えるのはカミさまのみ。
いるともいないとも、この世界の中からは分からないけど、
この世界の外からの視点をイメージすることはいろいろ
有効なのではないか。
「バランスというもの」という題から遠くなってしまった。
いろんなところで、心の均衡を探りながら日々生きている。
心の均衡を自力で取れるところに収まっているのは幸いだ。
多分自分で心底「ありがたい」と感じていないだけで、
限りなく贅沢なことに違いない。
たまに欠陥住宅のような身体を与えたカミさまを心底
恨み、呪いたくなることもある反面、もう一度人生を繰り返す
のなら迷わず自分の人生を選ぶだろう。社会的成功者、
そして有名人の人生も面白かろうけど、自分にとっては
自分の人生が一番しっくりくるものだ。
こういうことが書ける時点でお前は精神病者じゃないと
人は言うかもしれない。まあ、サクセスストーリーたる人生
ではなかったけど人間ドラマとしてはそれなりに面白かった
とは言える。「静かな人生」としかいえないけども、いろいろ
考える時間だけは十分に恵まれた。
P.S カミさまといっても、狂信的に信じ込んでいるという程
ではない。軽くたまに仏壇に手を合わせるくらいのものだ。
そのあたり、全く信心深くない。でも、唯物論的に割り切る
のも好きではなくて、よくわからないことはよくわからない
ままにしている感じだ。勝手に宇宙の外について思いめぐ
らせる自由は確保したい。
P.S カミさまといっても、狂信的に信じ込んでいるという程
ではない。軽くたまに仏壇に手を合わせるくらいのものだ。
そのあたり、全く信心深くない。でも、唯物論的に割り切る
のも好きではなくて、よくわからないことはよくわからない
ままにしている感じだ。勝手に宇宙の外について思いめぐ
らせる自由は確保したい。
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