はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2013年2月28日木曜日

春っぽい天気 19度 ヤバイ

2013年2月28日、15時の気温が鹿児島市は19度くらいだったそうです。
なんだかヤバイ。といってもまあ大丈夫なのですが、大体調子が悪くなって
再発して、ご入院というのはこういう日なのです。

ここしばらくの天気の推移をみてみます。


21       22      23       24    25     26      27      28       日付
晴れ  曇り 曇り 晴れ 晴れ 雨  曇り 晴れ  天気
14.2  13.3  14.2   14.9   15.3    14.3   20.7    19   最高気温
2.6     3.8     3.2     1.9     5.2    10.7   11.9      最低気温

ソース
http://weather.goo.ne.jp/past/2013/12/827/index.html
http://tenki.jp/forecast/point-1888.html

で、寒い日が続いて、昨日くらいから暖かくなりました。
一方天気のほうは26日にぐずついて昨日が曇りで今日は晴れでした。
冬が終わって春がやってくるという感じの日でした。
城山ではムラサキケマンが咲き、城山近辺の喫茶店にはホトケノザ
が活けてありました。

毎年、何日かそういう特別の日があります。
調子は悪くはならないまでも、調子悪くなるのはこういう日だな
というのはなんとなく感覚でわかるのです。そういう受けの感覚
もスイッチの機構の一つになってしまうのかもしれませんけど。

P.S なんとなく鬱屈とさせる雰囲気の日が続いた後に
早春の雰囲気を感じさせる日がやってきて、
「すばらしい明日」が開けてくるような感じがしてくるとき
がマズイです。すばらしい明日が開けてくるような気分は心地
よいものです。その気分を味わいつつも、少し引き気味にして
身を任せて無理しないことがいいのかもしれません。
どうせまた移ろいゆきます。破たんしなければ、少しづつでも
積み重なっていくものもあるかと思います。「スーパーマン」には
なれなくても、自分なりに世の中のあれこれを思いめぐらせる自由
をもつだけでも素晴らしいではありませんか。ほんのちょっとした
楽しみ、でも陰性状態も知っているので「楽しめる」ことこそかけがえ
のないものです。バブリーな境遇は誰かにおまかせして、自分の密か
な楽しみを心行くまで味わいたいです。

日本の地方都市における精神病者の可能性とその限界

なんだか、仰々しい卒論のテーマめいたお題ですね。
何度もこのブログ読んだ方にとっては、また羊頭狗肉か
という印象ですけど、露天掘り方式で即席ででっちあげて
みます。

まず、「日本の」という限定詞をつける理由。
発信者の時間軸空間軸をはっきりさせたいわけです。
できればグローバルな座標の中の。

逆を言えば、日常はほぼ鹿児島市内数か所のスポットを
めぐる線上で完結していまうわけで、世界が狭いわけです。
だから発想も、そういうスケールで完結してしまいがちです。

カントはケーニヒスベルグからほとんど動かなかったそうです。
その一方で世界地理に明るかったそうです。私に同じロジック
が働いていると言い立てるつもりはありません。

ただ、制約があるからこそ、その制約下の可能性を追ってみたく
なるものです。

都市を使いこなすことも、図書館を使い倒すことも現実には無理
です。そういうわけで、少なくとも最低限の豊かな環境はあるの
です。

そういうところを出発点にしながら、そういう背景での精神病者の
可能性と限界について考えてみたいと思います。

可能性というキーワードに着目した理由は、「そもそも私は何を
やりたかったのだろう?」「何をもがいていたのだろう?」といった
疑問が起こったからです。

精神病になった時点で、人生はあきらめるものなのかどうか。
あきらめきれないとしたら何をしたらいいのだろうか?

別に成功したいという欲なのではないのですよ。ただ、命尽きる
までの有限の時間をどう使うのがいいのだろうかなんて考える
わけです。結局乱読の日々に蕩尽してしまった感があるのです
けども。

乱読するにしても、地方都市の可能性と限界という枠がかかって
くると思います。鹿児島市は60万人くらいの人口の地方都市。
総合大学一つに私立大学、短大がいくつか。そんな感じの都市
なので、そういう条件から図書館で読める本も決まってくると思い
ます。専門図書館がある都市とも条件は違うし、区立図書館が
いくつもあるという都市とも条件は違うと思います。

その一方で地域性は豊かで離島も多く、県の広さは日本の中でも
一番広い県の一つです。そこからくる自然や文化の多様性も魅力
で、情報は図書館に集められています。といっても結局はさらに
集約した感じで大都市の研究室などに南西諸島についてのデータ
も集積されていることも知ってはいるのですけども。

そこで精神病者というキーワードに移りたいと思います。
私はどういう意味で精神病者という言葉を使い、どういう観点から
自分のことを精神病者とみなしているのでしょう。

非定型精神病という診断をもらって、外来に通っているという意味
では精神病者ということなのかもしれません。でも症状は落ち着き、
今ではたまに地味な鬱っぽい感じのときがあるに過ぎません。
かといって再発の可能性がまったくないわけでもないのですけど。

急性精神病を経たことで決定的に自分の中で何かが変わってしまった
ことは自覚しています。ある意味「宇宙的」な体験をして、宗教活動を
始めるというところまではならなかったけど、周囲の世界に対する
まなざしはすっかり変わりました。

周囲の事物の背後には探究するべきに値する宇宙のような世界が
広がっていて、ありとあらゆることに興味と感心は広がりました。
でも、逆に一つのことを究めることは難しくなりました。自分の中では
いろいろなものを見つめていても一つの存在みたいなものを見つめて
いるという感じにもっていきたいわけですけど、観念的には分かっても
実際どんな感じなのかよくわかりません。

先ほどの図書館がらみの話と合わせますと、都市の文化的中心の一つ
は図書館であって、図書館の深層部分を探究したいという不思議な
欲求なのかもしれません。図書館で得た知識を自分の中で統合したい。
そういう無理な欲求を抱えているのかもしれません。

とはいえ、少しは自分のことを客観視できるようにはなり、能力的にも
時間的にもそんなことは無理だということがしみじみわかるようになり
ました。ある意味、私の書き散らしたものは、急性精神病で「宇宙的」
何かに目覚めてしまった誰かに対する、遠くからのメッセージなのかも
しれません。

錬金術者の多くが結局は無為に人生を蕩尽してしまったように、私も
無為にこの歳まで過ごしてしまったような気がします。

されど、周囲の事物の一つ一つが無意味な存在ではないように、
ひとりひとりの人生の営みが無意味な時間の経過ではないように
思います。もちろん私の人生も、読まれている方の人生も。

ある種の難破船の航海日誌として、書き続けていきたいです。
同じく漂流中の船にのっていらっしゃる方々にエールを送ります。

「その人生に幸あれ」

2013年2月27日水曜日

モノや情報の整理と統合

家の中もパソコンの中もそして頭の中もごたごたしている。
21世紀は整理統合の時代らしい。個人レベルでもそうなのかも。

ところであたまの中の情報の整理は一人でもできるかもしれない
けれど、できれば対話相手を探したほうがよろしい。

ブログなどに書き散らしたものも情報の整理には役立っている
かもしれない。

よく考えるとなにがなんだかよくわからなくなってしまった世の中
だけど、自分なりに消化していく時間も必要なのかもしれない。

消化するには十分な時間が必要だ。

脳は寝ている間に断片化した情報の整理と統合をしているらしい。
その結果がそれぞれの人の自我だとすると、なんとか統合できている
という意味でそれぞれの人の人格なるものはすごいものだと思えてくる。

それなりのまとまりがあり、多少の歪みはあるかもしれないけども、
少なくとも、もよりの人々にとってはかけがえのない存在として、
各個人は成り立っている。

いつもつきあっていて、これ以上の卑近なる存在はないともいえるけども、
それぞれの人の雰囲気というのは何かしら味のある不思議なエンティティ
だ。

それはそうである一方、より整理された統合というカタチもきっとある
はずで、これはきっと一生仕事に違いない。

なんとなく、雑念のように意識の流れがとりとめもないことを考えているが
これも、営々とした頭の中の掃除のような気がする。

その結果どうなるのかわからない。
どうもならないような公算が大きい。

されど、そのようなものとして、各人は日々生き、考え続けている。
社会の大きさからみると一匹の蟻以下の存在ではあるが、
別是一壺天、それぞれの大宇宙が広がっている。

両親の文化の継承と統合

日本は文化の坩堝状態で、世界中の文学もそして、思想も図書館に
籠るだけで勉強することができるそうです。

文化といっても漠然としているのですが、道具や素材が入っている棚
みたいな感じですね。

分かりやすい例が無国籍料理でしょう。料理というジャンルは料理以外の
分野のことを考えるためにも、使えそうな喩を与えてくれるように思い
ます。

そういう目で両親の背中に運んできた荷物、両親の背景とする文化も
道具箱みたいな感じで眺めることができます。

といっても、十分な内容を聞くこともできないうちに父は死んでしまい
ました。ぼんやりと父の生まれ育った台湾のことが頭に残っています。

それらの断片を元手にやっぱり図書館にいきます。チンチン電車で
20分ほど離れた鹿児島大学中央図書館。

ある程度まとまった量の台湾文学の本と、戦前期の台湾文学の
全集みたいなものもあります。歴史の棚にも少数ではありますが
台湾関連の本が並んでいます。

それらを開くと、父から聞いた話、例えば当時蕃人と呼ばれていた
少数民族の話など、そういった話の背景を肉付けしてくれます。

母は徳之島育ち。鹿児島県立図書館の郷土資料コーナーには
奄美や徳之島関連の本もあります。

小さな頃はまったく興味をもたなかったのですが、年をとり、
自分の中の根無し草感を痛感するうちにこういった過去に関する
本をときたまめくるようになりました。遅ればせながらなのでは
ありますが。

私は鹿児島育ち、幼稚園の時、選挙がらみで一家揃って20日間、
徳之島に帰郷したことがあります。70年代初めの徳之島です。
それが一番長く滞在した時で、原風景のようにガジュマルの樹や
昔風の家、降るような星空、サンゴ礁の潮溜まり、今でも思い出し
ます。

でも、シマグチ(徳之島方言)は挨拶くらいしか知りません。
母が時折、静岡に暮らす叔母と共通語とシマグチをときおり
混ぜながらしゃべるのもまったく理解できません。

ついでに書くのですが、母方の祖母が中学生になる前までの期間
私の家で暮らしていたのですが、祖母は共通語がしゃべれず、
私との間でコミュニケーションができませんでした。そのため、祖母
がどんな人だったのかよくわからないのです。そして、もっと悲しい
ことにそれが悲しいことであるということすら最近になるまで気づかな
かったのです。

私の生まれる前に祖母の元にアメリカのエール大学からシーバー
さんという方がやってきて、祖母はシマグチのインフォーマントとなって
多分その資料は今もエール大学のどこかに眠っていると思います。
ちなみにシーバーさんの名は奄美に縁の深い作家島尾敏夫の全集
の中にちらっと出てきます。

両親それぞれの背景となす文化や歴史を掘っていくと底なし状態に
なるのかもしれないのですが、ちょっとずつでもそういう大仕事をした
ほうがいいのではないかと思うようになりました。といっても研究とか
そういう意味合いのものではなく、両親が背負っていた文化の道具
箱の中に何か使える道具が入っていたのではなかろうかというような
まったく功利的な動機です。

そう思ってしまうのはそこらへんの風景が個性を失っていくのと同期
しながら、自分たちの頭の中からも歴史的な背景が失われてしまう
のではないかという危惧です。とはいっても歴史にこだわってしまうの
は鹿児島独特の文化的影響かもしれませんけどね。

中央から発信された情報を受け取る場合でも、自分なりの受け方を
したいという欲望なのかもしれません。地方的な風味をつけるという
発想もまた中央由来のものかもしれませんけど、そこは仕方があり
ません。せっかく南北に細長い日本で暮らすのだから、そこからくる
メリットを生かしたいと精一杯あがいているのかもしれません。

さてと、今まで散々過去と関係深い話をしてきたのですが、そういう
生活の一方で仮想世界「セカンドライフ」であれこれモノづくりしたり
変な恰好して歩いていたりします。こっちはどちらかというと未来と
関係深い話です。

単なる生活者として、ブログでさんざん書きちらし、仮想世界という
形でネット世界における身体と場所性みたいなものも持っています。

そういう過去と未来を結ぶような不思議な組み合わせが個人的には
気に入っているのです。表現することにまつわる欲もないではないの
ですが、そういう娑婆っ気と吹っ切れたふつうの人による生活から出
てきた表現みたいなものが面白いのではないかと思います。

とどめの一撃としてリンクを挙げておきます。こんな感じの自然な感じ
で何かを表現したいのです。

https://www.youtube.com/watch?v=4U5QgFuhqko



P.S ちなみに徳之島の方言はこんな感じです。
https://www.youtube.com/watch?v=2ZrhuTy2GrA

耳から入るとほとんど外国語という感じなのですが、
文字をみると共通語と対応していて意味はなんとな
くわかります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E4%B9%8B%E5%B3%B6%E7%AF%80

2013年2月24日日曜日

バランスというもの

気分が盛り上がってきて「俺は天才だ」みたいな状態になった
とき、自分を抑え、なだめること。

「カミに出会えた」「宇宙的な体験」だからといって、宗教活動に
走らないこと。

その結果、ぱっとしない「平凡な私」の状態で社会の隅っこで
小さくなっているのだけど、線香花火の終わり方にも似て、
それが自分の身の丈なんだという感じがする。

母親はもう年老いているし、両親を悲しませる回数が割合
少なかった(とはいえ健常者とは比べられない)のはそれ
なりに良かったのだろう。

もっと欲の大きい人だったら、きっと「ひとびとを救おうと
思って」動いていたと思う。私は気が小さいから、ごしごし
ブログなんか書いてお茶を濁して満足している。

リウマチにはなったけど、脳機能の破壊はそれ程進まず、
それなりに人生楽しめている。運不運、その他の営みの
中で、皆それぞれのそれなりの今があると思うのだけど、
主に残りのコップの中身のほうに重点を置きながら、
それぞれの今の楽しみ方を工夫するのがいいのだと
思う。

書きながら、裏側の人生を考えてしまう。私はたまたま、
再発の回数が少なかったのだけど、多かったらどんな
感じなのだろう。今を楽しみのまったく感じられない心理
環境の中でむかえていたとしたらどうだったのだろう。

「ごめんなさい」とは言いたくない。
私もそう言われて嫌だったから。

いろいろ条件が違う中で、その人なりにもがいた上で
その人なりの今があるのだ。出発点も違うし、与えられた
ものも人それぞれ。簡単に比べられないし、結局のところ
本人のことが内からも外からも見えるのはカミさまのみ。
いるともいないとも、この世界の中からは分からないけど、
この世界の外からの視点をイメージすることはいろいろ
有効なのではないか。
「バランスというもの」という題から遠くなってしまった。

いろんなところで、心の均衡を探りながら日々生きている。
心の均衡を自力で取れるところに収まっているのは幸いだ。
多分自分で心底「ありがたい」と感じていないだけで、
限りなく贅沢なことに違いない。

たまに欠陥住宅のような身体を与えたカミさまを心底
恨み、呪いたくなることもある反面、もう一度人生を繰り返す
のなら迷わず自分の人生を選ぶだろう。社会的成功者、
そして有名人の人生も面白かろうけど、自分にとっては
自分の人生が一番しっくりくるものだ。

こういうことが書ける時点でお前は精神病者じゃないと
人は言うかもしれない。まあ、サクセスストーリーたる人生
ではなかったけど人間ドラマとしてはそれなりに面白かった
とは言える。「静かな人生」としかいえないけども、いろいろ
考える時間だけは十分に恵まれた。

P.S カミさまといっても、狂信的に信じ込んでいるという程
ではない。軽くたまに仏壇に手を合わせるくらいのものだ。
そのあたり、全く信心深くない。でも、唯物論的に割り切る
のも好きではなくて、よくわからないことはよくわからない
ままにしている感じだ。勝手に宇宙の外について思いめぐ
らせる自由は確保したい。

2013年2月23日土曜日

21世紀に生きる精神病者って

21世紀に生きる精神病者などというとんでもないタイトルを
またつけたものだと思うのだけど、例によって露天掘り方式
で即席で考えてみます。

表現技術の大衆化は大きいと思います。文字を使うという
ことだけとっても、生活の一部として文字を使う人が増えて
きたのはネット時代になってからだと思います。

良くも悪くも心理学、精神医学の知識は大衆化しつつある
と思います。中途半端にという意味でもあるし、顕微鏡も
実験室も必要ないのでという意味も込められています。

患者であれば24時間実験室にいるということになります。
患者でなくても脳は誰でももっているので、それなりに
専門家であります。もちろん日常的過ぎて見えなくなる
ということは言語や社会にまつわることには多々あります。

多くの人がカメラをもつという状況を背景にして、先日の
ロシアでの隕石落下の映像を私たちはみることができました。

多分、多くの人が表現技術をもつことではじめて言語化される
精神病にまつわる物事もあるのではないかと思うのです。

21世紀初頭を生きる日本の地方都市の精神病者の自然誌
みたいな感じの記録ができあがればいいのになあと思っています。

鹿児島県だと離島が多いので研究者のフィールドになっています。
でも一方、研究しっぱなしで地元に還元されないとか、貴重な地元の
資料をもっていったまま還ってこないという苦情を聞いたこともあります。

その点、自分で記録をつければ恨みっこなしというのは考えが甘い
でしょうか?

他の患者のことはネットで調べれば日本語圏なら比較的簡単に
みることができます。

海外の当事者情報についてはまだ調べたことがありません。
海外どころか鹿児島県内にしてみても、どこにどういう当事者が
おられるのかさっぱり分かりません。

本当に身の回りの当事者仲間のことしか知りません。

そういう狭い世界の中でも最近思うことがあります。
当事者といっても、健常者に紛れんでしまうような当事者から
それなりに症状らしきものが表面に出てしまうことのある当事者
やらいろいろです。

でも、どちらにしても、表面は見ることができるのですが、
なかなか本当のところを理解することは難しいのです。

表面に出ているものがどれ程の苦しみを与えているのか
なかなか聞く気にもなれません。

表面に出ていなければ、出ていないなりにさらにどこで
困っているのかを理解することが難しくなってしまいます。

私みたいに生殺し状態で、仕事みたいな負荷を与えて初めて
表面化したり、普段は何でもないのに肝心かなめな場面で
不具合がでたりする人もいるのでしょう。

ある種の精神病は単に欠損するだけでなく、反対給付のように
恵みを与える場合もあるでしょうけど、それを社会の中で生かして
いくのは難しいと思います。そういう時は生かされないことが苦しみ
となります。

それでも、今の時代ならば過去であったら語られずじまいであった
それぞれの患者の物語を表現に落として発信することが可能です。
ネットに流しておけば、もし必要とする人がいるのなら、情報は
どこかに届くはずです。

私自身も他の当事者の言葉の中にたくさんのヒントをもらいました。

「私を見て」というワケでは多分ないのですよね

そもそもたがが私なんて「見せる程」のものじゃありません。
それじゃ、なんで個人情報垂れ流し風にいろいろ自分のこと
ばかり書いているの?という質問も出てきそうです。

ちょっとその答えを考えてみましょう。
しばらく前、アラーキーの『日本人ノ顔』というプロジェクトがありました。
http://www.j-face.info/drift.html

発想は結構近いのかもしれません。いろんな時代、いろんな場所の
それぞれの人、それぞれ世界をもっています。
そして、いくらかのサンプルをよく観察することで、人間というものに
ついて幾ばくかの直観を得ることができるのではないかと思ったのです。

「観察してほしいんだ。ジロジロ見られるのそんなに好き?」

きっとそうではないと思います。観察されるよりは観察するほうが好きです。
でも、自己観察して、こうやってデータ?として表に出すと感想を言ってくれる
奇特な人もいて、自分では気づけない自分のいろんなことを気づかせてくれ
たりするのです。

「やっぱり自分のことが知りたいんだ。自分探し系?」

確かにそういう面はあると思います。でも、植物なり星なり興味を持って
知りたくなるというのも、裏を返せばそういう対象に魅かれる自分を知るという
ことなのではないかと思うのです。

卑近なところではアイドルだったり、俳優さんだったり、それぞれご贔屓の方が
いらっしゃると思うのですが、それも内なる何かの投影みたいなもので、鏡みたい
な感じとしての誰かみたいな感じなのではないかと思うのです。ちょっとずれてきた。

戻します。
自分のことは自分ではなかなか知りえません。いいところもそうでないところも
曖昧なまま、ぼんやりとした自己像みたいなものを持っているのではないかと
思うのです。でも、あるていど文章の形などに落としてみると、他の人の随筆やら
自伝みたいなものと比べることができるようになります。

最近、ほかの人の文章みることが楽しいです。

「こういう考え方はしたことないなあ。」
「こういう書き方に時代の違いを感じるなあ」
などと感心しながら読んでいきます。

図書館の郷土資料コーナーなどにいくと、自費出版に限りなく近い
かたちの伝記みたいなものがたまにあるのですが、
以前はそういうものは素通りでした。有名人でもない普通に近い人の
文章にみるべきものはないなどと勝手に思い込んでいたのです。

でも、そこにはその人の境遇やら、時代やら、その人の文章を生み出した
背景というものがあります。

そういうものを見ているうちに、世間や近くの人の発言なども、そういう
言い方を生み出した背景があることがわかってきます。

自分の感覚とはかなり違ったり、ときとして違和感、嫌悪感が出てきた、
としてもそれなりの事情があるのです。そして、あくまでもそれは自分を
ものさしとして考えたときのものであって、それも世の中に無数あるもの
さしの一つでしかないのです。

そういうわけで、まず、曖昧でもやもやした自分なるものを固定するため、
そして、固定したものを他者のものと比べてみて、他者や自分のことを
知るために多分いろいろ書き出して記録をつけていると思うのです。

人間理解は社会を生きていくための土台にはなりえると思います。
世の中で最も複雑なもののひとつである人間は理解することも
本当は難しいものだと思います。

多くは自分なりに単純化して理解しているのだと思います。
せいぜいのところ表面的なところを理解したつもりになったまま
一生を終るのが精一杯なのだと思います。

本格的な小説は一読するだけではわからず、何度も何度も読み直す
ことによってやっと少しずつ理解を深めることができます。

本当は人の一生だってそうでしょう。輪廻転生のごとく、何度となく
生きなおさない限り、本当のところのことは分からないでしょう。

世間というものを知るには一生は短すぎて、大人になれば、
あるいは一生を終る頃には分かるというものでもないと思います。

一生を何度も繰り返すことは無理でも、文章は繰り返し読むことができます。
だからせめてものことですけど、その時考えたことを文章に纏めて
何回か読んでみることで、はじめは分からなかった、表面的でない何かが
分かってくるのではないかと思うのです。

祖父母、それから父ももう死んでしまったのですが、どんなことを言っていた
のか日々曖昧になります。ぼんやりとしたイメージだけが頭の中に残って
います。それもいいことなのでしょうけど。

生生しくその人の表現したものが残ることはある意味気味の悪いものでも
ありますけど、いつかは朽ちていく存在としてのせめてもの抗いなのかも
しれません。21世紀の人間は飛ぶ鳥跡を濁さずというわけにはいかないの
です。

2013年2月22日金曜日

旧世代的要素と新世代的要素の混在

これはどの世代についてもいえると思うのだけど、自分の内面に
旧世代的要素と新世代的要素が混在しているように思う。

先日、平成育ちの人に昭和育ちの人はどう見えるかという曖昧
な質問してみた。

『ALWAYS』風だという。映画は見なかったけど、言いたいことは
なんとなくわかる感じがする。

ちなみに私は1966年生まれの丙午世代だ。まあ、バブル世代
といったほうが世間には通りがいいかもしれない。

祖父母は日清日露の頃に生まれ、昭和の終わりに死んだ。
父は大正15年(昭和元年)生まれ、母は昭和一桁だ。

よくもわるくも両親が戦前育ちというのは大きいと思う。
よくもというのは戦前という異世界の話を直接、本でなく、
本人の実体験として聞けたこと。

わるくもというのは、親子の世代間にある種の断絶があること。
団塊の世代の親と団塊ジュニアの子供が文化や趣味の話を
親子でできるというのをうらやましく感じることもあった。
戦後教育というのが共通の土俵みたいな感じになっていて、
同じ世界観で話が通じるというのか。

あまり同世代のほかの人の話をじっくり聞いたことはないの
だけど、同じくらいの世代でも、兄弟の何番目の子供かによ
って親の世代はずいぶん違う。私の場合、私は四人兄弟の
末っ子で一番上とは12才違う。私の父の場合、20才で台北
で終戦を迎えたわけなので、10才前後の年齢差があった時
同じ、戦前育ちの親といっても、どこで育ったのかどういう風
に育ったのかずいぶん違うことになる。親から聞かされる話
と一口に言っても、中身はずいぶん違うことになる。当たり前
な話だけど。

私が育ったのが鹿児島駅周辺の下町だったこともあって、
幼少の頃の生活体験はわりかし濃密だったかもしれない。
長屋っぽい建物に住んでいたので隣の家のお姉さんと窓
越しにシーモンキーを手渡しで見せてもらったりした。Eの字
みたいな感じの構造の長屋みたいなところで溝越しに向かい
の家との距離が1m位で、同じところに窓があったのだった。
その窓はお隣とのコミュニケーションの窓口になっていて、
窓を挟んで、隣の子とあれこれ話していたような気がする。
話が脱線した。

兄とは6才違うのだけど、その6才の違いで地域体験に随分
濃淡があるような感じがする。兄と私とでは地域についての
知識、どこどこにだれそれがいるみたいな知識が随分違う。
私が育った頃は地域のまとまりが解体していく過程にあって
近所にいた人がばらばらになっていったり、昔風の商店が
消えていくような感じだった。兄の同級生は近所に何人も
いるのに、私の同級生はほとんど近所に残っていないのは
どういう訳なのだろう?要するに過去の要素の幾ばくかは
記憶にあるという貴重な体験を持つ一方、何かその風景に
は哀しさがまとわりついているわけである。

新世代的要素のことを大急ぎで書いてみる。
言うまでもなくコンピュータとの付き合い。

1980年代、高校の3年生の頃、
街頭テレビならぬ、友達の家でPCゲームをするというのが
コンピュータとの付き合いのはじめだった。それ以前も、
アーケードゲームその他あったけど、それは置いておこう。

ワープロ専用機を卒論の時に強制的に買わされた。
タッチタイピングはその時に教則本で勉強した。1989年
頃だろうか。22才の頃。遅い。

以後、Mac Power Book 150から始まり、貧乏なりに、
パソコンを買ったりする。パソコン通信に、メーリング
リスト、そして、インターネット。

同世代付近でも、PCやる人やらない人、さまざまだ。
ネットやる人でも検索の使い方はまた人それぞれ。

30代の人は嬉々としてPC使いこなしているように
私どもからは見えてしまう。単なる嫉妬かもしれない
けれど。

現代の日本人の心の中は東西の文化が衝突する
現場だという人もいる。自分なりに文章かいたりして
気持ちを整理して、新旧の要素を自分なりに統合させ
たいという野心をもつことがある。

森鴎外の日本語が江戸文化と明治文化の統合みたい
なイメージをもっていて、ああいう風にはとてもなれない
けれど、同じアナロジーで新旧の要素を統合して、
誰かにとってのロールモデルみたいな感じに自分を
もっていきたいという野心がもたげるときが時々ある。




2013年2月19日火曜日

今頃になって失敗しないリスクに身に浸みるようになった

擦り傷いっぱいしながらナイフの使い方を覚えていく。
社会経験も同じアナロジーが効くのだろう。

無菌室で育った、ひ弱な苗のように、ひ弱なまま中年を
迎えてしまった。嘆いても仕方がない。

ただ、私にできることは後の世代の同類の人に、擦り傷
をそれなりに求め、学習経験を積み上げていくことを
勧めるだけだ。

とはいえ完全なる無菌室育ちでもないので、まだ望みが
あるといえば、望みがある。

どういう風に無菌室のような、ある意味保護された環境
から、雑菌がうようよいるようなある意味厳しい、世間と
いう環境に慣れていくのが無理がないのだろう?

擦れてない、いい面も確かにあるのだろう。
そして、無理をしたら折れてしまう。
それもよくない。

そこを考えると野生の生き物たちは本当に上手にやっている
といつも思う。人間様のほうが偉いとはどうしても思えない。

P.S 支えあって生きていくというイメージがなんとなく浮かぶ。
ゆるく結び合いながら、なんとなく支えあっている。そういう
つながりを大事にしたい。

2013年2月17日日曜日

観察者と観察対象

要するにここは檻の中、あるいは水槽の中ということになる。
社会に開かれた窓から、私の精神生活の何がしかを覗き見ることになる。

動物園にいる動物たちは、とりわけ知能が高ければ高いほど、
見学者のニンゲンたちを意識する。見られていることを意識する。

それはアーティファクトなのだろうか。確かにそうだ。水族館の魚たち
は水族館色をしている。飼育環境が何かを歪ませている。

そういうわけで、社会への窓を開けることによって何がが歪み、それだけ
自然環境下での精神病者像とずれることになる。

それはどこか似ていないだろうか?不確定性原理と。

観測という行為が対象に影響を与える。

観測機器ー対象という全体を一つのシステムとしてまとめた
うえで対象をみなくてはいけない。

そういうわけで、みなさんの目は確かに組み込まれている。
感想のひとことでもおっしゃろうなら、完璧に私の周囲に広がる
生態系みたいなものとして組み込まれてしまう。

それは舞台に観客席のお客さんが組み込まれてしまうことと
どこか似ている。



それはそうと、なんで自分自身を見世物の位置に、
動物園の動物たちのように好奇の目に晒したがる
のだろうか?

何か有名にでもなりたい野心があるのだろうか。
それとも一種の露出狂みたいなものなのだろうか。

自分ではよくわかっていないリスクがたくさんあるかも
しれないのに。


たぶん一つはしばらくの間、観察者として実験室で
顕微鏡越しに培養細胞という対象をみていたり、
趣味人としてラン科植物を眺め回していたりそういう
過去が影響しているのであろう。

それが突然、白い服の人々(精神科医たち)によって
観察され、分厚いカルテにあれこれ記述される対象に
なってしまった。

観察する側から観察される側に。

私の場合はそこに不思議な面白さを感じてしまったのだった。


それは屈辱ではないのか?

比較はできないけど、『菊と刀』が出版されたときに、
いくらかの日本の知識人は屈辱に感じたらしい。

丁度、未開人が万博に「展示」されたように、
自分たちも文化人類学的な手法によって、「解明」
される対象になってしまったと感じたらしい。

日本列島が檻にでも入れられ、外側から研究される
かのように。


何か、対等の位置から落とされ、対象化される屈辱を
まったく感じないわけでもない。

観察者とは何様なのだろうか?どういう資格があって、
われわれを覗き見入っているのだろうか?

どんどん言葉は出てくる。多分動物園の動物たちも
言葉をもつことができれば言いたいことに違いない。



そう、「言葉をもっている」、それはキーワードの一つだ。
想いを伝えることができる。私たちも同じニンゲンだ。
生き物だ。まずはそう伝えたい。

その上で、多様性としての面白さを私はちょっとだけ
感じることができる。


グローバル化し、どこもここも同じように個性のない
建物が建ち始め、骨董的価値をもたない大量生産品
に満たされた中で感性を育み、今や頭の中まで、
ある側面では規格品の詰め合わせになっている。


そんな中で割合分かりやすい個性的な状況として
自分のケースを考えることができる。

のっぺらぼうな大量生産品のような郊外的な状況
の中に一つの目鼻立ちとして自分の状況の「個性」
を感じることができる。


一つの崩れ方としての個性しか持てないことは皮肉
だけど。

丁度、ぴかぴかの大量生産品、たとえば100円ショップ
で購入した湯呑が古ぼけ、傷や汚れがつくことで、
唯一無二の個性を持ち始めるように。

いうまでもなく、それらの「個性」はある範囲内に入っている。
だから、私の「個性」とやらも一つの類型の項目を埋める
点としてのデータに過ぎない。

されど、点としてのデータも本当は生きている。
背景にはちゃんと歴史も物語ももっている、そういうものだ。


そういうことも忘れかけていた。原子としてのデータ上の点、
モナドみたいなもの。

我々の意識の及ばないはるかミクロの世界で、あるいは
名も知れぬどこかの銀河の片隅で、一つ一つの粒子たちは、
情報の履歴と、粒子たちに関わった様々な他のものたちを
抱えている。

ミクロな世界からマクロな世界のどこかに私やあなたも
引っかかっている。


今日もカラオケのように、一人湯船に浸かってさえずる
ように、放歌高吟している。

偉い人がどこかに書き散らした断片をパッチワークして
自分の歌としてさえずっている。


組み合わせは私独特のもの。多分、購入した物品の
組み合わせで成り立っているみなさんのお部屋のように。


それも、自己表現には違いないでしょ。そういう訳。

2013年2月13日水曜日

「ここ」は世間に開かれた窓

私という狭い世間と、限られた体験をもつ人が開いた世間への窓。
でも、その狭い窓を使って、私という存在を広く世間に伝えること
ができる。

世間にはいろんな人がいる。他人のブログ読むたびにそう実感する。
そして、それらの群れの片隅に自分のブログも加えてもらう。

限られた実体験。だからこそ本を読み、考える。
たとえそれが疑似体験にすぎないとしても。

それは単に知識をため込むことにすぎないとしても。
死んだ知識にすぎないとしても。

読んだ知識を生かす場として「ここ」で考え、ものを書いている。

実体験の裏付けのない単なる思弁にすぎないとしても。

理論は検証されないと自分にとって意味あるものにはならないこと
は知っている。といっても単なる受け売りかもしれない。

単に言葉をこねくりまわしているにすぎないのは分かっているけど、
こねくりまわすことぐらいしか今の私にはやることがない。

本当に悪あがき。

そういう自分を表現していることにはなるのかもしれないけれど、
他の人にとってはまったく意味のないがらくただろう。

でも、私はことばを持っている。
自由に使うことができると勝手に思い込んでいる数少ない道具の一つ。

言葉をもっているから声を出す。
伝えるべきことは特になくとも、「ここにいます」と力の限り叫びたい。

どうせ朽ちていくから、どうせ埋もれていくから、
声の続くかぎり、存在を主張したい。

一寸の虫にも、五分の魂。
弱い犬だからこそ、せめて声だけでも大きく。

本当に悪あがき。

でも、悪あがきできるだけでも救われているのだと思う。

多くの人は声を奪われているから。朽ちていき、いずれ忘れ去られて
いくだけなのだから。

夏の蝉の声のように、
秋のキリギリスのように、
生命の続く限り、
「ここにいます」という詩をうたいつづける。

2013年2月7日木曜日

不安発作は続く

不安発作になりかけの状態で書いています。
株価の変動のように、朝一番から気分はぐずつき始め、
気分を逸らそうとしたり、いろんな努力をするのですが、
結局は悪くなってしまうのです。

一人でいるとマズイと思い、いつも通ってる自立訓練に
今日は私は午前中予定入れていなかったけど割り込ま
せてもらい、今、何人かいる部屋でこれ書いています。

調子がもっと悪くなると、人がいてざわざわしたりすると
全然だめな感じで、ひとりで横になっていたくなるのです
が、今は状態の悪い感じにまだ入り込み切ってはいない
ので、人がいた感じのほうがいいです。

いつも悪文ですが、今日はことのほかそうですね。

先ほど一人でいるときに、過去のささいな失敗のことと
か思い出して、「ああー」っと奇声でもあげたくなりまし
た。小さな声で何かつぶやいたと思います。

いつも、過去のいやなことが火種のように腹の底に
抱えていて、調子が悪いと意識に上ってきて、奇声でも
上げたくなるのです。

その発作が出てきたら、それが引き金になって調子は
急下りになります。


今日は一人でいないで、自立訓練の場に出てきて、
正解でした。

自立訓練の場は心なしか暖かい場のような雰囲気が
して(私にとってそういう場なのでしょう)、気分がほぐれ
つつあるようです。

たいていいつもは一人の力であらゆる努力をして、
不安発作の状態に入り込まないようにするのですが、
無駄なあがきで、結局は発作で苦しむことになります。

でも、まだぐずついている状態なら、他人の力やら
場の力を借りて、気分をほぐれさせることによって、
状態を落ち着かせることもできるのですね。

一つ勉強になりました。

2013年2月6日水曜日

不安発作、第Nラウンド

また不安発作が始まりだした。ここしばらくは大人しくしていてくれた
のだけど。いつも思うのだけど、表面的には安定している時期も
安定の土壌は薄く、些細なことで安定は破れてしまう。

安定している時期は不安定だった頃のことは忘れがちで、主観的な
体験であることもあって、詐病じゃないかと自分で自分を疑う。

でも、不安発作がまた起こることで「やっぱり病人だったんだ」と確認
するわけだけど、はっきりとしない曖昧な症状であり、体験だ。

ネット上をうろうろすると自分の症状やら状態と一部重なる書き込みが
稀にあって、他人の書き込みによって自分の抱えている問題が
”客観的”に存在するのだなと思ったりする。でも書き込みからだけ
だと同定するのは無理だともまた思うのだけど。

で、万が一、自分の症状を”客観的”に確認しようとうろうろネット上を
している人が「ここ」に来たとしてのその人へのメッセージなのだけど、

「人それぞれ、それぞれの強度の症状を抱えているわけですけど、
自分なりに受け止めたり、やり過ごしたりしながら、今位の症状の
レベルでなんとか持ちこたえているのは素晴らしいと思います。
そういう自分に誇りをもってもいいと思います。」

うまく伝わるかどうかわからないのですが、私は不安発作の症状で
苦しんでいるときに、苦しみを抱えている自分に誇りをもたせること
でなんとかやり過ごしています。まあ、宗教的な意味で「神様、さらなる
苦しみをお与えください。」という境地まではいかないのですが、
本などに書かれているそういう境地は苦しみに耐えるための若干の
参考にはなります。


2013年2月1日金曜日

言葉が強かった頃

先日、ふとしたことで前、言葉が強かった頃のことを思い出しました。
私は二回、急性精神病で入院したのですが、前兆として言葉が強く
なるという現象がありました。

ほとんど、唐突に何でもわかるような感じに頭がすっきりして、
「オレは天才だ。」なんてまじめに思うのです。最後は天才を通り越して
カミホトケの世界まで行ってしまうのですが、言葉が強くなるのです。
自信に満ち溢れるような感じでもあります。気分がきっとそうさせている
のでしょう。

そして、心のアクセルを一杯に踏み込んで、最後は滝壺にドボンと
突っ込む感じで病院に入院というはめになるのですが、二回で自分
なりにその感じがつかめたのかもしれません。前兆で気づいて、
アクセルは踏み込まないようにして、自分から病院に駆け込んで、
薬増やしてもらったりして、難をやりすごすようになりました。

今は何でしょう。言葉が強かった頃が懐かしいくらいです。
「オレは天才だ。」なんて幻想でも思えないのです。言葉もそれほど
強くなくなったような気もします。まあ、それも気分のいたずら次第
なのでまた唐突に言葉が強くなるかもしれません。

うまい具合に脳内の環境というか、心の状態というか、そういうもの
を自分自身で調整する方法はないものかと考える次第です。

その日、その日でけっこう変動があって、労働もしていないのに
一日中疲労みたいな感じがづづく日、朝一番から気分が崩れて
憂鬱が止まらない日、不安な感じにつきまとわれる日、超越的
な感じに覆われてしまう日、いろいろ日々表情があります。

今日はアクセルが快調でなく、あんまり思いつかないほうの日かなあ
と思っております。そういうことでこのへんで、、、

P.S 「オレは天才だ。」と思うのは単に気分がそうさせているだけで
あって、実際はそうではないところが悲しいところです。
「オレは天才だ。」まではいかないけど、気分が上がり気味のときに
その熱を利用して本を読みまくっていた頃もあります。熱の消費には
よかったのかもしれないのですが、「言葉に酔う」素地をつくってしまい
ました。