ある。
口をすべらせてとんでもないことを言ってしまう政治家
が新聞種になったりするけれど、あれは一体何なのだろう
っていつも思ってしまう。
一方言葉を慎重に選びすぎると建前の言葉になる、
本人がこころの底では思ってもいない言葉や信じてもいない
言葉がマスメディアの世界には載ることが多いような印象がある。
言葉の選択ミスということもある。いいまちがってしまった発話。
これが取り返しのつかぬミスにつながり、人間関係をぶちこわし
にしてしまうこともある。
思えば、家の文化として、ブログの表現について、親から教えられた
こともなければ、先輩からこういうことを習ったこともない。
すべては手探りで、ときどき痛い思いをしながら学んできた。
でも、過去の失敗に十分学べたかといえば、そうでもないような気が
する。
世間が狭いか広いかの問題もある。世間が十分広ければ、他人の
失敗を傍観して、ああはなるまいといった心構えができるかもしれない。
でも、そんなに世間が広いわけでもない。
せっかくだから、昨日の失言をいろいろ検証してみよう。
>一種のわけあり商品。『将棋は歩から』という名著
>もあるそうだけど、一見、無力な駒も有機的に組み合わせると思わぬ
>戦力になるらしい。
他人はともかくとして、自分のことに手を当てるとわけあり商品のような
気がやっぱりする。「無力な駒」という表現をみていやな気分になる人
は多いかもしれない。だいいち駒という表現がよくない。
「ひとり一人は主人公なのかねじなのか」という文章を前書いた。
なんだかそこで書いたことと矛盾しているような気もする。
自分の障がい観みたいなのが「無力な駒」という表現の中に滲み出して
自分の障がい観みたいなのが「無力な駒」という表現の中に滲み出して
きているような気がする。そう気づいたときどうすればいいのだろう?
表現を修正したり、文章自体を消してしまったりすることは簡単である。
情報そのものはどこかに残り続けるのであろうが、、、でも、書いたこと
は書いたことで、事実としてとっておき、その意味について考えたい。
自分の歴史を振り返る際にも大切なポイントのように思われる。
>ひとりひとりは言葉は悪い表現だけど、「あてにならない」存在だとしても、
>それらが多数組み合わさることで不具合のイベントは分散されて、システム>ひとりひとりは言葉は悪い表現だけど、「あてにならない」存在だとしても、
>はうまく回る、なんかそんな気がした。
周囲の患者仲間を観察してみると、それぞれ精一杯生きているような気が
する。「あてにならない」存在と断じてしまうのは無体なように思われる。
ここにも自分の障がい観みたいなのが出てきているような気がする。
そういう風な障がい観が形成されてしまった背景みたいなのもきっとある
のだろうけど、もう少しゆっくり考えてみよう。そして、もうちょっと違った見方
はできないものか、そういう見方はどういうところから育ってくるのか思案し
てみよう。まわりの人をよく観察し、学ばせてくれるものを大事にしよう。
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