ちょっとwebの中をお散歩して、「とおくでよくみえない」の紹介をさがしてみた。
高嶺格は、平面や立体、映像作品だけでなく、メディア横断的なインスタレーションやパフォーマンスなど多彩な表現形態で、常にインパクトある作品を発表し続けている作家だ。現代社会における不条理性を製作の糸口に、人間の行為に潜む矛盾や非合理な側面を批評的かつユーモアあふれる作品として提示している。http://www.cinra.net/news/2010/12/23/21412.php
引用ここまで。
たぶん、以上の紹介の文章みて、展覧会見に行ったら全然違う感想をもっただろう。そして、全然違う感想を書くことにあるいはなったかもしれない。
でも、それはよくありがちな読みのひとつのバリエーションかもしれない。鹿児島で読む、あるいは作品を受け取る意味について考えてみたい。たとえば首都圏ならば、身近に作家名や作品についてくわしい人がいて、いろんな集まりの中で自然に耳にはいってきて、受け取り方まで自然に耳に入ってくるに違いない。
評価のプロセス、読みの定型がどんなダイナミズムで出来上がっていくか知らない。ある集まりには力をもった人がいて、その人の読みが集団に模倣されて、あるいは偉い人の読みが歴史の連鎖を作っていって読みが定まっていくのかもしれない。
果たしてその読みは絶対的に正しいのだろうか?正当な評価なのだろうか?歴史の影に、歴史というデータベースの底のほうに世渡りが”拙”だったために埋もれてしまった魂というのも結構いるのではないか?
鹿児島は幸いというか、情報が隔離されている部分もあるので、先入観というのがないのかもしれない。もしかしたら、新しい読みができたり、新しい読みのことばをもつこともできるのかもしれない。
インフォメーションフリーで他者の読みに染まっていない処女地としての鹿児島。
私というかこの地に住む大部分の人は情報から隔離され、東京や京都の集まりに出ていたら当然入ってくる情報が入ってこなかったりして、あるいは集まりの中で交わされる対話に参加できなて、遅れていくことを短所と考えている。だからいつも目が東京や京都に向いていて、そことの繋がりが切れないことを心から望んでいる。そして、時にそことの繋がりを背中にちらつかせて在地の人を見下すことさえある。都落ちした人々に時々見られる型だ。
でも、鹿児島というか薩摩は人吉のある相良とともに日本でもっとも歴史が継続し、その結果、歴史的文献が残っている地域だ。いわばことばの根っこが日本の底の底まで根を下ろしている。そして、南には日本の原型の面影を残した南島が広がっている。そういう大地にささえられたことばは借り物ではない何かをもっているのではないだろうか?
昨日は鹿児島大学中央図書館で、東洋文庫のザビエルの書簡を読んでいた。「大書簡」と呼ばれる日本で最初に書かれた、日本を紹介した文章を読んでいた。たぶん同じ文章をゴッホもシーボルトも読んでいたのかもしれないと思うと胸が熱くなってくる。ここで絶賛されている日本人とはミヤコの人々ではなく、鹿児島の人々だ。庶民がボンズとよばれていた知識人よりも立派だと書かれている部分も興味深い。
こういったことばが歴史を超えて、この地に住む人々のことばを支えていく。自分の祖先は奄美、徳之島の犬田布という集落の出自で両親は戦後に鹿児島に渡ってきた。まあ、私は奄美2世ということになるだろう。鹿児島にある程度根っこは下ろしているけど、西南戦争を我が家の歴史としてはみることはできないような感じの薩摩との距離感はあるかもしれない。
そういった文脈でわたしは作品を読んでいる。作品の背後に作家がいて、作家は来歴を背負っている、受けてのほうも来歴を背負っている。そして作品と受け手は出会い。子供としてのテクストが生み出される。
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