はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2018年12月31日月曜日

節目 四方山ばなし

平成元年に大学院に入り(1989、その年の12月に23才)、平成3年の4月の頭に(正確な日付はわからない。主治医に聞けばわかるかもしれない)発症。7~10日、奈良県の松籟荘病院(現やまと精神医療センター)というところの閉鎖病棟に入院した。天理市の中堅企業の新入社員研修中だった。その後はしばらく(期間ははっきりしない。姉にきけばわかるかもしれない)吹田市の万博公園からほどちかい姉の住んでいるマンションで父とともに療養し、空路鹿児島へ帰ってきた。そのときも若干妄想は残っていた。もう激しい症状は残ってなく、いたって扱いやすい患者だったと思うけれども、不活発だった。

最初に友達と会ったのはw君だった。今、冷静に考えると薬の副作用は強く、ひとめで精神疾患であるとわかっていたはずである。それでも、彼は何もいわなかった。でも、こちらもコミュニケーションの仕方を忘れていてほとんど何も話せなかった。そういう状態からやや復活しはじめたのは母のすすめで、MBC学園の話し方教室に入ったころだった。
このころ、近くに古いレンタルビデオやさんがあって、寅さんシリーズが全巻そろっていたのだった。全部見て、タンカバイのいくつかを覚えた。寅さんは話術の達人だなと思った。なんで寅さんだったかというと、広島大学での特別講義で鑪幹八郎先生の講義が1回だけあり、ラジカセを持ち込んで、寅さんのテーマを流し、寅さんへの鑪先生の思いを1コマ切々と語るというのがあり、とてもインパクトがあったのだった。臨床心理学の話なぞはひとこともおっしゃらなかった。それもよかった。

MBC学園の先生は小澤達雄先生だった。話とは言葉の絵筆で相手の胸に画を描いていくことであるという話だった。たとえば、釣りの話であれば、釣りの道具の話とか餌の話とか具体的に話していくとわかりやすいという話だった。非常に興味がもてて、発表もあり、だんだん自身がもててきた。2期目も受けたのだけれど、自己紹介と他己紹介の項目で逆に言葉の魔性にはまってしまい、いろいろ偶然も重なって、また入院してしまった。平成4年の2月くらいだったと思う。

この話でひとつ、よい偶然があったとすれば、元号が変わる前後に父方の祖父母があいついで天寿を全うしたことだった。両方ともに90くらい。私が病気になるちょっと前だったことだ。だから、悲しませることはなく、送ることができた。

平成の頭のころはこんな感じだった。あれから三十年。

自分のことしか知らないけれど、似たような話はありふれていると思う。大学院とかで消耗して、会社にはいったり、博士課程に入ったりして、精神疾患になるという話。その中には自分なんかよりもずっと優秀であり、逆に優秀だったり、まじめだったりしたためなるが故に病気になってしまったというケースもあると思う。

私はちょっと勇気を出して、自分をさらした。「民主主義は声を出さないと機能しない」とある方から言われたからだ。「あなたは文章が書ける。だから、自分の体験を書きなさいと。それでこのブログ自体もはじまった。

「病気になった人がいかに生きるべきか?」みたいな大問題は私の人生ひとつなんかでとても何も言えはしないと思う。

自己表現そのものをするきっかけになったのは天文館にあったカフェ・ダールという
アート系の喫茶店に行き始めたことだった。「アートの扉を開く」というのがこの喫茶店の趣旨であったが、いくつか、画を購入し、何人ものアーティストを鹿児島に呼んでくれてイベントを開き、話をする機会をつくってくれた。そのアーティストの中には田中眠さんも入っている。

セカンドライフでのものづくりが深まるとともに足は遠のいてしまった。でもとても感謝している。ほかにもユング派のセラピストの先生とか感謝すべき人もいるし、ほかにもいろいろ感謝しなければならない人は多い。

考える患者シリーズに取り組んでいる間。中井久夫先生が神戸から寝台列車で鹿児島まで来てくださり、ラグーナ出版を訪問された。そのときの会で私は感きわまったのか号泣してしまった。おつやみたいな場になるかとおもいきや、Nさんが「うけるー」といって、場に笑いがおき、私も立ち直った。社長は「ラグーナの底力だ」と言っていた。

それで平成最後の大晦日。セカンドライフで借りていた土地も今日期限で返すことになる。

2018年12月27日木曜日

第三の道?

  病気の後しばらくのち、なだらかな軽躁状態が高原状に続いていた。文章を綴ることが苦痛でなく、文章を綴るのが苦痛である人の気持ちすらわからなかった。そういう時点から、頭が固まってしまい、文章を綴るのができない日が続くようになる、「考える患者シリーズ」が書かれたのは私にとってはその境目の時期に当たっている。
 気分の高下の問題なのか、統合失調症の前駆期の頭の冴えみたいなものがなだらかに持続していたのか自分の中ではわからない。

 昨日はベッドの下に眠っていた『最終講義』を発見し、購入した本は第三版であることを知った。そして、極期のところの記述、「ついに実在にふれた」と患者が感じてしまうくだりをもういちど眺めた。「ついに実在にふれた」と感じた、その実在の正体とは何なのだろうという疑問をいだきつづけ、図書館に籠もることによって何らかの手がかりが得られるのではないかと無駄に過ごした四半世紀だったのかもしれない。

 『最終講義』には原子炉モデルという文章があるがあそこも非常に気になるところだった。頭が暴走する寸前で通常の出力を超えた能力を患者が感じることがあるという。しかも、それは主観的に患者が感じているだけでは必ずしもないらしい。普段、中程度の学力だった生徒が、全国模試で一番になり、その後に発病してしまった例が書かれていた。

 自分の場合だと、主治医の前では、病気の後になんらかの理由で精神の能力が上がるという自分が主観的に感じていた現象はほぼ否定されていた。自分の中では病気の後に南島のほうではユタになる例があることが頭からこびりついて離れなかった。でも、そういう経路をとる可能性は今の精神医療のシステムの中では暗黙のうちに禁止されているか封印されているように感じられた。
 私自身も、魅力は感じこそすれ、今の世の中で生きるという意味では生きにくかろうと思われた。しばらく、合理主義のほうへ引っ張る力と非合理な方面へ引っ張る力と綱引き状態で、何か、神秘的に感じる出来事が起こると心を強く揺さぶられたり、また我に返って、なるだけ合理的に生きようと思ったり、シンクロニシティなど、非合理に思える現象を合理的に説明しようと工夫していた。

 第三の道ってあるのだろうかと思うようになった。非合理への道でも、日常性への回帰でもない、第三の道。現代の社会と整合性を保ちながらしかも、病気のときの神秘的な体験を忘れ去るわけでもないような生き方。そういう道ももしかしたらあるのではないかとぼんやり思っている。病気によって若干変容した意識からエネルギーを取り出してなんらかの意味で役立てるようなやり方。障害を契機に失うものがあるばかりでなく、反対給付のように何か能力的に得る場合もあると思う。調べていたらちらほらそんな例も出てくる。


 もし、万が一、自分の例もたまたまそうだったとしたら、そこにも光と影が待っていたことを書かなければならないような気がする。『アルジャーノンに花束を』のような軌跡を描きながら今、落ち着くべきところに落ち着いているような気がするのだ。密かに甘い汁をすするような人生でもあったが、もしかしたら、身体の消耗を早めるという対価も払っていたかもしれない。二つよいことはないという。まったくその通りだと思う。


  以上のことを患者のたわごとと取るか、なんらかのリアリティを含むと取るかは自由である。なるだけ自分に偽らず、自分の中では真実味を持っていると思うことを虚飾を排しつつ、素朴に綴ってみた。

2018年12月17日月曜日

炊飯器の蓋

今日は主治医との面談日だった。
久々に超越的な気分に浸ったという話をしたあとに、
ときどき入眠時幻覚のようなものはあるけれど、
若いときのようには神秘的な偶然の一致とか
明晰夢とか見なくなった、とくに起きているときの
神秘がかった体験をすることはほとんどなくなった
と寂しそうな感じで話した。ああいうのは若い時の
多感な時期独特の現象なのでしょうか?と主治医に
たずねると、そういう(生理的な)ことはきっとある
と思いますよ、みたいなことをおっしゃった。

次に最近困っていることとして、身体(からだ)のほうは枯れかかって
いるはずなのに、頭の中では性的な空想とか、あと、イライラ
が起こっているんですと言った。

若い頃に禁欲的に生きよう、道徳的な生き方をしよう、
綺麗に生きようという思いが強すぎて、
そういう仮面を被ったような生き方をしている
うちに、周囲ではすっかりそういうイメージが定着してしまった
と感じるようになって、そのイメージから降りられなくなって
しまったのです。夢を壊すんじゃないかと思って。

でも残酷なことに身体は正直でして、
炊飯器に蓋を載せるでしょう、
あんな感じでちょうど蓋みたいになって欲望を押さえつけ
ようとするのですが、炊飯器が熱せられてくると
蓋が「ぷくぷく、ぷくぷく」って言うでしょう。
あんな具合なんです。

『ジキル博士とハイド氏』って作品があるでしょう。
あの感覚がよ~くわかるんです。
といっても、仮面をかなぐり捨てて本能のままに
生きるというふうにはならないと思うのですが。
夢を壊しちゃいますしね。

私の言葉に対して主治医はこう答えた。
実は私もそういうところがあるのです。

P.S 職業柄、仮面をつけなくてはならない、という意だと思う。

一方、自分の内面を正直に語ることで、さらに点を稼ごうとしている
のではないかという、私への嫌疑については、
あたっているかもしれないが、自己言及的なのでもうこれ以上
書かない。

2018年12月7日金曜日

名山小学校の同窓会

昨日のお昼、母校の名山小学校の同窓会だった。
当時の先生と私たちの年次の方々と2級下の方々の一部が集まった。

名山小学校は市役所の裏、県立図書館の前あたりにあることし開校140周年を迎える歴史の古い小学校である。先生方にとっても思い入れのある小学校。教職員どうしの連携が濃密で、父兄との信頼の厚い時期にたまたま私は当たっていたようだった。もちろん、歴史は継続し、今でも学風はよいらしい。

当時の先生方が当時の校長先生(村山先生、故人)を慕って、毎年12月のはじめに集まっていた会がずっと続きに続いて、当時の私の担任の先生が77(喜寿)になった今年まで続いた。

去年から当時の生徒会長だったHさん(旧姓も偶然アルファベットで書くとHさん)が生徒のほうも混ざってはいけませんかみたいなことで、去年から生徒のほうも混ぜてもらうような会になった。

私の担任の先生はこれからは生徒たちのほうが集まる会とだんだんなっていくでしょう、と少しさびしいこともおっしゃったのであるが、こういう成り立ちの会は珍しいと思う。

小学校でよく教育され、成功することも大事かもしれないが、人生いろいろあってうまくいかなくなったとき、耐える力も、その根にあるのは広く深いものがあるのではないかと思った。

いずれにせよ、ひとりひとりの人が育っていくのにどれだけのコストがあるいはその環境を生み出しているさらにその背後の時代が係ってくるのかということに思いをはせずにはいかなかった。

12月4日で52歳の誕生日を迎えました。祝ってくれた方々、ありがとうございます。

2018年12月1日土曜日

論文をくれるサンタクロース 後編

広島大学植物遺伝子保管実験施設で卒論研究を始めた。

そこはラン少年からするとパラダイスのような世界に少なくとも最初のころは思われた。昔の付属小学校かどこかの校舎を使っていたのだけど、その横に小さな温室があった。霧が出たり、夏は冷房、冬は暖房みたいな感じで植物にとっては至れりつくせりの環境だった。先代の先輩の遺したものなのか、カトレアとかいろいろランの鉢もあった。後には後輩らが実習で行った先から持って帰ってきたアリドウシランのたぐいとか珍しいシュスランのたぐいとかほかにもいろいろ野生ランがあった。(悲しいことにもうランの趣味を離れていることと、そこまでヘビーな趣味とも客観的に考えると思えないので同定ができない。)

ランの組織培養もいろいろやっていた。キンリョウヘンのプロトコームとかカトレアとかファレノプシスとかシンビジウムとかネジバナの3倍体とか。先輩が置いていったものだった。当時はまだ成功していなかったレブンアツモリの種を培地に蒔いたものを私に託されていた。先輩のやり方がよかったのか、発芽までは見たのだが、その後を増殖させていくところで私には壁がきた。

ランの凍結保存は私の代からだった。一度、インドから研究者がたずねてきたことがあった。インドでも凍結保存の試みをしているらしかった。その時点で、世界ではまだ誰も成功していないらしいことを知った。

凍結保存の技術については北海道大学の名誉教授の酒井昭先生にいろいろ指導していだだいた。印象的な先生だった。論文のコピーをいつも持っていて、私にいろいろくれた。たとえば、ニンジンの組織か培養細胞かをある条件下で乾燥させて凍結、再培養するという論文があった。20年以上の前の記憶でしかも、病気を経ているので記憶が若干曖昧だ。乾燥させて凍結だったか、乾燥のみだったかぼんやりしている。ともかくも、エジプトのミイラの話のようで興味深く、キンリョウヘンの培養細胞をミイラ状態にして試してみた。でもうまくいかなかった。こういう状況のとき、私はだめなのである。アイデア崩れ。条件を細かく分けて考えたりするのが苦手である。後年、後の世代の人が発展させてこの方法も生かしている。

資料が残っているかわからないのであまり主張したくないが、アブシジン酸を使うというアイデアも使ってみた。高校のときの生物の教科書に休眠物質としてアブシジン酸が紹介されていて、試薬がほしいと申告したら指導教官は気前よく取り寄せてくれた。こっちもアイデア崩れ。アイデアの筋はよかったのだが、細かくものを考える能力がなかった。こっちも私の手では生かすことができなかった。

キャッサバの試験管苗を研究室は持っていて、それを培養しようしたこともある。これもうまくいかなかった。

酒井先生から凍結保存の初期の論文をもらった。「パイオニアの仕事ですね。」みたいなことを言われた。独創的ではあるが、不備がある、今はそのときの言葉をそう解釈している。

何か実験のアイデアを思いついたとき、酒井先生は「今日やりますか、明日やりますか?」とおっしゃられた。たぶん、今日も明日もやらなければ、ずっとやらないのだということだと思う。印象的な言葉だった。

「岩井くんはアイデアマンだから」みたいなことも酒井先生から言われた。評価されることの少ない人生の中でもらった勲章みたいなものだろう。

ある日、先生は公園にいかれて、そこにいたおじさんとしばらく世間話をされたそうだった。当時はなんでもなく思いつつも耳に残っていたのだけど、権威を持った研究者としてそういう平らかな態度はかならずしも当たり前とはいえないと思う。尊敬している。

ガラス化法の論文も酒井先生からもらった。酒井先生はときどき研究しつを訪れてサンタクロースみたいに論文をくれてまた帰っていくそんな感じだった。当時は幼くそれ以上のことを考えなかった。ネジバナでうまくいかなかったのでシンビジウムに材料を変えて、ガラス化法でやってみたらうまくいった。私がやったのはただ、それだけである。

MNRの集中講義を聴きにいって、笑われたり、その技術から派生するMRIで将来は染色体も観察できるようになる時代が来るのではなないかと「予言」して形態学講座の講師の先生からほめられたりした。

以上メモ的に書いてみた。文面みたところで、研究者としては所詮やっていけない鈍才学生であったと見て取れるであろう。

最後に酒井先生の訃報記事を載せておきます。

酒井昭先生の訃報について

論文をくれるサンタクロース 前編

大学時代、テーマは凍結保存であった。それについて覚えていることをメモ的に書いてみよう。

超能力がかった妖しい話だが、こういう話がある。信じる信じないは各自判断してもらたい。

まず、前にも書いたことがあるが、えびねブームを鹿児島で経験した私は中学校のころにはすでに広島大学でランの研究をしたいと思っていた。なんで広島大学だったかというと、小学校か中学校かで学校をおたふくとかああいう欠席にならない伝染病で休んでいたときに、みたテレビで広島大学の両生類研究所というところを紹介した番組があった。
受精卵を手術して、操作して体の半分はアルビノ、もう半分は普通の色のカエルが写されていた。私の世代にしか通じないがマジンガーzのアシュラ男爵みたいでびっくりした。それで広島大学がインプットされた。

後年広島大学に受かり、一年生のときのいきもの会のサークルの店だしのときに、まだサークルを決めていない私はそこに行き、親切な応対を受けた。両生研を見学したいというと、59年度の先輩の高木さんが連れて行ってくれた。高木さんは動物学専攻である。だが、両生研は生物学専攻の一年生という条件でも見学を認めてくれず、門前払いだった。

学科の紹介の折に、形態学の講座ではランの研究をしているということの紹介があった。ネットの時代でもなく、大学で何が研究されているか、鹿児島で知る手段は限られていた。電話してみるという発想はなかった。お見合いみたいな志望校決めの方法だが、なぜかランの研究は広島大学で行われていた。

もうひとつ、超能力がかった妖しい話。

3年くらいのとき、野武士といういきもの会行きつけの居酒屋さんで飲み会をしていた。揚げ物ばかりでなんとなく雰囲気に何かを直感したのかもしれない。自転車で下宿に帰った。1年の昭和60年、天皇のご在位60週記念の金貨が売り出されていた。それを何を思ったのか買っていた。それを下宿から持ち出して、野武士へ急いだ。野武士へついてみると何かは起こっていた。機嫌の悪くなったサークルの誰かが酔った勢いで壁を殴りつけぶち抜いてしまっていた。私はハマショーの「たたきつけてやる」という当時はやっていた歌のように十万円金貨をたたきつけてやろうとした。まあまあ、ということで止められて十万円金貨はまた持って帰った。

もうひとつあるここからが本題。

3年の終わりになり、形態学教室に入ることになり、テーマを考えることになった。SFか何かの話に影響されたのか凍結保存というものに関心を持っていた。植物でも凍結保存ができないのだろうかと漠然と考えていたら、実は私が研究することになった広島大学植物遺伝子保管実験施設で培養細胞の凍結保存をやりはじめていたのだった。助手の先生が凍結保存をやっていて、私とM1の先輩が培養細胞の凍結保存をやることになった。先輩はキク科のカワラヨモギというのが材料で私は4年のときはネジバナの培養細胞だった。

4年生のときの植物形態学講座の田中隆荘教授からはこんな感じでテーマをもらった。
ラン科はもしかしたら難しいかもしれないから、凍結保存がうまくいかず、成功しなかったらいかにうまくいかなかったかを書いてほしい、死んでいくプロセスを書いてほしい、記憶が曖昧でよく思い出せないのだけど、そういうふうなことをいわれた。組織の切片を顕微鏡撮影してどういう風に再増殖していくか、あるいはしないのかを調べることで、植物形態学という側面から研究してほしい、そんな感じだった。ちなみに4年のときが、田中先生は最後の年で、学長の選挙に出られて、学長になった。つづく。話が長いので続きは後半で。



2018年11月29日木曜日

画塾のギャラリー

いつもお世話になっているいづろ画塾のギャラリーがネット上で公開されたそうなので
リンクを載せておきます。

『いづろ画塾ギャラリー』サイト

私のは左上にあります。
https://sites.google.com/view/izuro-gallely/people

載せてもらった感想などは後日書きます。
まずはとりいそぎ。

2018年11月3日土曜日

月に二回だけ大学の演習に行こうと思っている

以上はまだ本決まりではないけれど、月に二回だけ午後を休みにしてもらって、大学の演習に参加させてもらおうかと思っている。

古くからの付き合いのあるS先生の演習に久しぶりに参加した。そしたら、浦島太郎状態であった。どういう意味合いで浦島太郎状態かというと、まずは社会人学生の存在。私がS先生のゼミにもぐりこんでいた時代は大学が地域に開放される前の時代、具体的には90年代くらいだった。ここらへんはちょっと記憶違いで、うすぼんやりした記憶を検索すると、社会人みたいな人もいたかなという感じもする。

当然のことながら、20代の学生諸氏は東京風のアクセントでしゃべっている。電車の中で東京風のアクセントの若い人たちの会話を聞くことは日常だけど、そういう層の人たちと普段あまり接点はない。なので、お互いに異文化なのだ。

イラレで作っている作品も自己紹介代わりに見てもらったのだが、すぐに帰ってきた。好評は得られなかった。

うまくいえないのだけど、なんだか、少し感覚が私がズレているような感じがしたのだ。ズレはズレとして開き直るしかないと思うのだけど、もうちょっと、どういうふうな意味合いでズレていると感じたのか、追求したい。

この文章でもわかるとおり、2012年くらいと比べてみても、認知が落ちていて、文章力も振るわない感じがする。そんな状態で、大学の演習受けてみても、向こうの負担になるだけなのではないかとも思うのだけど、再来週も午後の休みはもらっていて、大学の演習に出向く予定なので、ゆっくりと決めたいと思っている。

2018年10月27日土曜日

ミハルホラーク/アラベスクショシェ ピアノコンサート(於、加音ホール) いってきた。

ミハルホラーク/アラベスクショシェ ピアノコンサート
いってきた。

よかった。語彙が足らない。どこがどうよかったかは書けない。
耳が幼稚だから。
でも、そんな幼稚な耳でも目の前で弾いているのが天才だとわかった。
ただそれだけ。

午前中、国分シビックホールの国分図書館に行ってきた。
午後は、カノンホールの喫茶室の親切な店員さんに
道を教えられて、加治木図書館に行こうと思ったけれど
いきそびれた。ユニークな昔づくりの建物らしい。

姶良市立加治木図書館
たしかにユニークだ。

国分の街をうろうろしながら、鹿児島の市外の地域は
文化というものに渇望しているのではないかと思った。
民俗学的な意味合いでの文化ではなく、
近代ヨーロッパ的な意味合いでの文化のほう。

ミハルホラークさんと鹿児島は縁があると、ステージ上で
本人がおっしゃっていたから、もう一回、鹿児島で
演奏を聴いてみたいと願っている。

SL(仮想世界セカンドライフ)の方々にも何人か会った。
大阪とか東京からわざわざ、
鹿児島まで足を運んでくださったそうだった。
私については思っていたよりも話しやすい人だったという
感想をSLの方からもらった。

リアルで会うのは初めてなのに旧知の友達のような
感じで話は弾んだ。

月曜日には買ってきたCDをラグーナ診療所の
音楽療法家のSさんにまず、聞いてもらい
画塾の人たちにも聞いてもらって
感想をもらおう。

文化は大事にしなきゃ。








2018年10月12日金曜日

本当のことを知るのはとてもつらいこと

夕べ夢の中で唐突にひらめいた言葉

「本当のことを知るのはとてもつらいこと」

何か衝撃をうけ
空いている部屋に行って電気をつけ
夜中にメモをつけた。
以下そのときのメモ
ーーーーーー
青い空の向こうに(裏側に)
工事現場みたいな世界があって
この世界全体がモニタリングの
ドッキリみたいなものに本当はなっていて
唐突にモニタリング終了
みたいになってるってなりかねないような
美しい嘘のような世界……だったら。
美しい嘘の終了
親子の関係のおわり
恋愛関係の解消
生命の終了(いろんなスケールでの)について
そういうことにはリアリティがあって
美しい嘘を
美しい嘘として
成り立てさせつづけるには
常に誰か他を
あるいは周辺を
ギセイにしつづけなければならない
ーーーーー
以上夕べ付けたメモ

「本当のことを知るのはとてもつらいこと」
何か感情のこもったビジョンのようなものだったが、
一晩たつと思い出せないし、そうたいした言葉でも
ないように見える。
「モニタリング」とは最近、母と兄がよく見ているテレビ番組
「モニタリング終了」とはその番組の中の合図
天空の裏に超自然界がある、みたいな空想だけど、
工事現場みたいなバックヤードというのはなんだか
生々しい感じがした。ちょっと明るめの黙示録的な
「この世の終わりかた」のイメージなのだろうか。
世の中全体が「美しい嘘」というのは大風呂敷であるが、
いま、私が知覚していたり、あなたが知覚している
意識の世界が「美しい嘘」のような手品のような
仕掛けのようなものであることはなんとなくリアリティがある。
そういう世界を「維持」していくには何かしら資源がいる。
モニターには電源が必要なように。
ただめしはないのだ。
そして資源を自ら作り出せるような生き物は
私は聞いたことがない。
以上、一晩たった後の解説であるが、
一晩たつと、みすぼらしくみえる。

2018年10月11日木曜日

最近考えていること

なんとも漫然としたタイトルである。
だから漫然と書いてみよう。

しばらく、仕事上でのささやかな文章を書くようなたぐいの仕事が一切できなかった。
『シナプスの笑い』での書評サイズの600字くらいの文章を書くようなたぐいの仕事である。一方、facebookのほうの文章は書けた。

それでいろんな人が思うだろうことをやっぱり思った。

「創造的」な作業で生活の糧を得ている人は
楽しいときは天国だろうけれども、
浮かばないときは地獄だろうなと。

もっとも、仕事としてやりはじめたときから
表現することで楽しいと思ったことがない、
という文章も雑誌か何かで見たことがある。

私の場合は
文章が書けなくなるまではわりとのびのびと書けたのである。

ーーーー

前、生意気にもこんなことを考えていたことがある。
制度が育ててくれて、社会で活躍してもらうために
制度が経験を与えてくれる人もいる。

片一方で制度が経験を与えてくれなかったり、
むしろ半分意図的に与えなかったりして
日陰にかくれてしまう人もいる。

ネットや情報検索の世界は資格を問わない。
制度が経験を私に与えてくれないのなら
自分で自分を育てよう。
自分の実力で経験を得てやろう。
そういうふうに思ったことがあった。

土質が悪く、環境に恵まれないところの
ヒノキのほうが大事に育てられたヒノキより
性質が強く、1000年を超えるヒノキの巨木が
台湾で育ち、宮大工の大切な建築材料になっている。
境遇にめげず、悪条件を恵みと考え
むしろ長い目では自分を伸ばしてくれる
そういうふうに考えようと。

ーーーー

文章はその人の見た世界を表現し、
それまでに読んだ本はその人の世界を見るフィルターに
なっているのではと。

ーーーー

元いた植物形態学の講座の教授は
最終講義で、たしか、「事実とは何か?」
みたいなことを講義されて、長年の研究生活を
振り返られていた。
フランシス・ベーコンの帰納法を
染色体の観察の方法に応用されたという話で
あったが、四年生の私には何やら難しく
厳しげな話で詳細は覚えていない。

※※※

事実とか情報を扱う人間には
本来私は向いていなくて
ニューギニアの人のつけていた
ペニスケースが民族学者のもとで保管されるような
状況で初めてきちんとした保管ができ、
資料として生かされる道も開ける
みたいなことは私についても言えるのでは
ないかと思った。

私は観察する側の人間ではなく、
どうも観察される側の人間のようだ。

ーーーー
書き散らして、書き散らしてどこへともなく
持っていかれる。

『善き人のためのソナタ』みたいなオハナシは
世知辛い現実の世界のなかにもあるのだろうか?

2018年9月24日月曜日

心の過敏

心の過敏

本のコトバまで
こっちのことを非難して
いるように読めてくる

しんどいなぁ
めんどくさいなぁ

あしたからまたシゴトか

この休みも脳を
休められなかった



要するに誰もワルイ人は
いなくて
心の過敏のために
そういうニュアンスをもって
きこえてくるという
よくありがちなパターン
なのです

おいしいものでも食べて
ゆっくりします

2018年8月19日日曜日

イラレの作品今昔

2018.8.4 に作った制作物。




2014.3.1 にfacebook上にアップロードした制作物。

昔の作品は画像が劣化していますねぇ。もっとも画像ソフトイラストレーターでつくった制作物については原データが画塾のPCに残っているので劣化してもかまわないのですが。
制作物の整理上画題をつけたほうがいいのではないかと思うのですが、まだつけていないのです.

海外研究者の画像利用事情
https://www.shibusawa.or.jp/center/network/pdf/iup_all.pdf

を昔読みまして、アメリカやロシアのほうからも閲覧にきてくださる方も何人かいらっしゃるので、研究とか教育に関する利用についてはこちらに承諾とらなくて引用は可能なこととします。






2018年6月29日金曜日

読んでくださる方々へのお礼

なかなか改めて言葉にする機会がないので、いい機会なので言葉にしておきたい。
読み手が好意的に読んでくださっているのか、批判的な目で読んでくださっているのか
それとも他の理由なのか、私は知るよしがない。

でも、facebookなどをはじめ、それなりにいろいろな方々が読んでくださっているような
感じがある。

私の意識の中ではみなさんの普段、身近な生活の中で出会われるさまざまな人よりも
もっと内面を開示しているつもりである。すべてを開示しているわけではもちろんない
し、どちらかというと心にわだかまるどろどろした情念とかよりもキレイな部分を中心
として開示しているけれど、それでも、詳細にわたって日ごとの内面をさらしている
ということになると思う。

そういう文章に興味をもつかどうかはともかくとして、読んでくださっている方々に
深く感謝したいと思う。そして、私の書き込みの中から、人の心というものに対する
ふとした疑問点とか、着眼点とか拾ってくださることが可能ならよりいっそう私は幸せ
である。

今を生きる同じ時代の空気感を共有した人々へ。そして、時間、空間的に距離があり
ながらも、この文章が届いた人々へ。

ほんとうにありがとう。

2018年6月26日火曜日

「万能の天才」について

夕べ、レオナルド・ダヴィンチについての本をちらちらと読んでいた。
よく言われそうなことは、レオナルドの時代は素朴だったから、万能の天才は成り立ったのであって、現代は情報爆発の時代だから、専門分化していて、そういうのは成り立たないというようなことである。

現代で「万能の天才」は成り立つのかはおいておこう。

前、放送大学で勉強していたころか、官僚をされていて、定年を迎えた感じの人に相同なことをきいてみた。昔は素朴な時代だったから、全体を見渡すことができたのであって、今ではもっと発達して、もっと複雑になったから全体を見渡すことは難しくなったのですか?みたいなことを。

その人は、「昔から複雑だったよ」と答えた。

ここから類推をしてあてはめてみて、何の証明にもならないのだけど、レオナルドの時代のもろもろのことごとといっても、もうすでに複雑であって、素朴だったから全体を見渡せたとはいえないのではないかと。

あともう一点、現代では電球はもうレガシーな物品だし、ガリレオの法則はわりと早い時期に習うのだけど、それは知識を継承しているからそうなのであって、当時に戻って、創造する作業を考えたら迷宮をさまようような複雑さをもっていたらしいことを読んだ。『ガリレオの迷宮』、とても私には歯のたちそうな本ではないけれど、知識の継承と、創造は全然世界が違うのだな、と推測した。

「万能の天才」について。私はそういう立場にないのでただ想像するにすぎないのだけど、『情報環境学』大橋力 著 を読むと、いろんな分野の入門書を交差させるように読むと、分野間で共通するパラダイムのようなものを学ぶことができるようなことを書いてあった。ずいぶん、昔に読んだので情報は正確か自信がない。

そこでいうパラダイムは錬金術的なニュアンスを含む、蜘蛛の巣のようなもので、南方熊楠のいう萃点めいたもののような気がしてならない。

P.S 『情報環境学』の後ろのほうに農村での水争いを調整する社会
エンジニアとしてのシャーマンみたいなことが書かれているくだりがあった。本をとってもらえるとすぐそのくだりはわかると思うけれども、私の言葉で書き直したので注意してほしい。

あと、考古学の先生から、古墳時代は宗教と経済と政治が融合されたような形態をしていたらしいことをうかがった。神殿経済みたいなもので、そこにはさまざまな職能を持った人の知恵が流れ込む湖みたいなところであって、そこからまた融合によって生まれた知恵がいろいろな職能をもった人たちの元に分流されていくといような循環があったのだろうか。

そこでのやりとりが耳学問のような形であれば、非常に素朴なレベルから話を始めることができる。質問ー答えみたいな形を繰り返していけば、そういう場所にいる限り、知恵は融合できるのではないかと想像してみた。

「万能の天才」みたいな形を前、日本で流行った複雑系の世界では目指していたような気がする。また、改訂版みたいな形で海外から波がやってきて、大騒ぎするのだろう。

2018年5月20日日曜日

『西郷どん・奄美編』

『西郷どん』の奄美編を母と二人で見る。母は昭和ヒトケタで徳之島で生まれ、戦後、密航船で鹿児島に渡航した。

番組の中で、奄美の女性の手に刺青が彫ってあるのを見たとき、複雑な表情をした。たぶん、いやな気持ちがしたのだろうと思う。でも、だまっていた。

母の子供の頃の奄美の景色もあんな感じもかなり残っていたのではないかと思う。母方の祖母の家が瓦葺であるほかは集落の家は大体昔どおり。番組ではたいまつで照明にしていたが、母の子供の頃は、石油ランプを使っていたみたいである。

祖母の実家は「会社」と呼ばれ、「砂糖商売」をしていたと、もうなくなった親族のおばあさんから伺った。父からは祖母の実家の当主に会ったとき、「やまとぐち(標準語)とそろばんができないと商売はできない」ときいたそうだ。鹿児島と徳之島の間を「砂糖商売」のために行き来していたらしい。



母の実家は向学心が強い人が多く、そういう脈絡で母も鹿児島の高校に進学することを望んだが、母は10人くらいいた兄弟の末っ子であり、両親は老いており、その望みはかなわなかった。



私が幼稚園のころに通信制の高校にいった.

P.S 母関連の集まりで犬田布小学校100年記念集という冊子を母が借りてきた。

母の父は明治31年3月卒業と名簿に出ていた。前年卒業が犬田布小学校卒業の一期生なので、母の父は二期生ということになる。母の母方の祖父は母の父より当然年上なので、小学校に行っていなかったことになる。なのに、やまとぐちとそろばんができたことになる。小学校という制度が犬田布にできる前はどういうふうにして学習をしていたのだろう。興味がある。

各年度の卒業生が名簿として並び、母はあんな人もいた、こんな人もいた、と名前を見ながらなつかしがっていた。で、私はどんな人だったの、と聞くとやさしい人だったとか、親族上の関係とかを答えていた。この冊子があると、母の記憶を活性化できるのではないかとひそかに思っていて、コンビニで早急にコピーしようと思う。


あと、一言であれ、こんな人だった、あんな人だったという情報があるのとないのとでは大違いなので、その一言を記録できたら記録したいと思う。(空手形になるかもしれないが)

母方の父系のほうは商売人が多く、頭がよく、几帳面な人だけど、厳しい人が多かったとか、母系のほうは教員が多く、やさしい人が多かったといっていた。母については親族のイメージはなんとなくではあるが、本土の人よりも豊かなような気がする。隣の集落とも船で行ったほうが交通の便はよかったとか、議員さんとかが馬を使うことはあっても、基本的には徒歩で移動したとか、舗装はされていなかったとか、川には橋がかかっていなくて、石づたいに渡ったとかいう話である。集落ごとはある程度孤立していて、形質人類学的な気質の特徴などが集落ごと、あるいは家系ごとに出やすい感じなのではないかと想像している。

『西郷どん』の感想はあまりかけなかったな。

2018年3月24日土曜日

宇宙について 

昨日はエリダヌス座について考えていた。オリオン座の横あたりから流れ出す、河の星座である。マイナーなほうの星座であるが、アルファ星はアケルナルという名前であり、名前の意味は河の果てという意味らしい。鹿児島南岸の浜からならば、水平線上あたり、ぎりぎりのところに見えるらしい。でも、見たことがない。

アケルナルの先にはみずへび座という星座があり、天の南極のほうへ延びている。天の南極ははちぶんぎ座にある。

子供のころからの空想で、エリダヌス座と銀河鉄道の路線と重ね合わせていた。アケルナルでみずへび座に乗り換えて、天の南極方面に向かう、と。

天文年鑑に日本から見えない4星座というのが載っていた。これはちょっとうろ覚えで自信がないので検索で確認しよう。テーブル山、カメレオン、はちぶんぎ、ふうちょうだった。ネットは便利だ。

見えないというのは逆にロマンを掻き立てるものだ。日本から見えない南の星座にあこがれていた。鹿児島でぎりぎりみえるらしい、南の地平線にちょろっとだけ顔を出す星座にもあこがれていた。でも、残念ながら、子供のころに住んでいた家で天文観測に使っていた物干し場から南の方角が天文館という繁華街で光が強く、南のほうの星座の観測には不向きだった。

知識は調べればすぐわかる時代である。調べるという言葉すらおこがましいところもあると思う。といっても、インスタントに調べられるほうの知識のみであるが。

それに対して、小学校3年か4年かぐらいで宇宙が膨張しているとか、星には終わりがあるとか、白色矮星で角砂糖くらいの大きさの物質がとてつもない質量がある、というのを知ったときにどう感じたか、という記憶があまりはっきりしない。宇宙が膨張しているのなら、宇宙の最初はどうなっているのだろう?という発想は小学校3、4年生の私はしなかった。ビッグバンの話を知ったのは大学3年生の化学の講義の中で、なんだか宗教の話でも聴いているような気分だった。

起源、というとちょっと脱線だけど、照葉樹林にも起源がある、ということを知ったのはもういい大人になってからだった。博物館時代に、古生物学の名誉教授に伺った。何しろ、照葉樹林の起源なんて発想したことないからだ。それは雲南あたりであるらしい。

大体ヒトの発想というものはそういうものかもしれない。知識は与えられるけれど、その知識を使って、その知識が帰結するところを探るという訓練を受けていない。

宇宙についての話題で人間原理というものがあり、それは専門家をも悩ませているらしいが、なぜだか、それについてつきつめて考えてみようとは思わない。それはそれ、これはこれ、という感じで流しているように思う。私の場合だったら、そこらへんつきつめはじめると、人間では終わらずに、私の友人知人、家族、そして私自身まで、人間原理をとりまく宇宙の体系の中にはいってきて、「すべてはつながっている」という発想になり、怖い思いをするだろうから。

ペレルマンの証明で、数学の証明の中に温度とかエントロピーとか物理の概念が出てきて、数学者を悩ませているらしい。でも、温度で悩むのだから、もし、そういう究極の理論の中に唐突に私や「あなた」の名前やら概念が出てきたら、それは誰をもどうかさせてしまうことだろう。

ない、ということを証明することは難しいらしいので、そういう可能性をも実現させかねない宇宙の多様性の豊かさでも胸にイメージしながら、今日も心健康に生きたいと思う。

P.S エリダヌス座についてどう考えていたかを落としていた。なんのことはない、これら私の吐き出した「標本たち」が時系列に並んでいくさまをイメージした。ネットの宇宙の片隅のデブリとして埋もれ消え行く存在かもしれないが、何かそこから発想を広げるヒトもいるかもしれない。どこまで表現するか、どのあたりの距離感が好ましいのか考えることがある。秘密めかす必要はないにしても、わからない楽しみもあると思うのだ。シベリアのいろんな地名、ヤクーツク、クラスノヤルスク、イルクーツク、オイミヤコン、チタ、ウランウデ、ノボシビルスク、ベルホヤンスク、このあたり、まったく地名しか知らなかったころはロマンを感じていた。シベリア鉄道と銀河鉄道を重ね合わせ、メーテルのような永遠の謎を秘めた女性がいるのかも、と、なんかそういう空想もなりたつぐらいのものであった。地図当てゲームの中で覚えたシベリアの地名のひびき。

クラスノヤルスクという言葉の響きとメーテルという名前が私の中では重なるんですね。でも、クラスノヤルスクにどういう歴史があるのかを知るのはずっと大人になってからだった。

P・S 光合成など、研究対象の歴史と対象を取り巻くヒトの歴史と、これがヘンテコリンな形で交差することはあるのだろうか。観察者たちもまた研究対象の歴史に取り込まれてしまうような具合に。

2018年3月14日水曜日

今年の春は調子悪いです

鹿児島県鹿児島市 
12:00 (水曜日)
晴れ
降水確率10%
湿度60%
風速1m/s
 
調子あまりよくないです。
空気にかすかにアルコールが混じっているかのように
春の妖気にほろよい加減です。
 
春、一日か二日くらいそんな感じになる日があるのですが、
たまたま今日はそんな日みたいです。
 
ここ何年かなかったような気もするのですが。
 
まあ、何といいますか、本格的に調子を崩すのもこんな背景で
ありまして、あっちの世界に誘われてしまうような日なのであります。
 
陽の感じが非日常な感じに感じられているのですが、
その非日常の中身についてちょっと書けたら書いてみたいと思います。
 
すこしひんやりとした感じを残しながらも
あたたかくなった感じのする日。
 
街角の家の前の花が咲いている。
青いパンジーとか、ラベンダーのたぐいとか。
 
PSWの方に今日の日ざしはどんな感じですかと
きくと、光が白いですね、と答えた。
 
やわらかな風。
 
ここちよすぎるんです。

2018年2月25日日曜日

興味深い間違い

間違いそのものが考える糸口になる、ということはありえないのだろうか?
ある人がどこでどういうふうに間違うか、その間違い方。

間違いがあってはならない、という種類の文章と、
間違いそのもののなかに、あるいは書かれている正しいことよりもむしろ
間違っている情報の中に情報が入っているというようなことはありえない
のだろうか。

安心して間違うことができる、あるいは恥をかくことができる、
ということは案外私にとっての特権かもしれない。

2018年2月20日火曜日

心理的動物

つくづく若いうちにいろいろ経験していたほうがいいと思った一日だった。

病気とかして損だと思うのは経験値の少なさである。うろうろしていた時期が長いためか、経験値が少ないような気がする。病気をしたり、うろうろしていた時期も含めて、それも経験だといわれる人もいるかもしれないが、常識的に考えてみたとき、いろいろ狭めてしまう。

そういう意味でよくもわるくもうぶなのである。それもいい年をしてのうぶである。救いがたい。なぜなら、どうも頭も固くなってきてリベンジできない気配が濃厚だからである。リベンジすることを画策するよりも、若い人たちに道を譲ったほうがいいのではないか? そういわれるまでもなく、譲るとかそういう問題でもなく、かなり以前の段階で追い越され、落ちこぼれるような感じでうろうろしている、そういう感じである。

どっきりTVとかが典型であるが、ヒトは上手に状況をお膳立てされ、その中にいれられるとかなり容易に心が動揺される。どっきりTVは極端だとしても、自然な流れで人生はさまざまな状況を用意してくれる。逆にひきこもったような状況だと、図書館に篭るような場合であっても、時間の流れはスタティックである。

抽象的な書き方をしているけど、あまり具体的なことは書きたくないのでそう書いている。こういう書き方で勘弁してほしい。

人はとりつくろっていても心理的動物であって、獣性はいかんともしがたく、素直に状況に反応してしまう。ただ、幸いなことにその状況に反応した心理的な移り変わりをモニタリングして楽しんでいる自分もまた別にいる。そこらへんは誇らしいところである。

そういうところは日常ではなかなか、そういうふうな心理的な気分は味わえるものでもなく、具体的に状況がお膳立てされて、はじめていろいろ複雑なものを味わうことになる。

そういう意味合いで、なるだけ若いうちに、喜怒哀楽、いろいろな感情の動きを経験していたほうがいいのではないかと思った。

恥なことでもあるので、このへんでやめとこうと思う。

2018年2月15日木曜日

毎日文章書き

ラグーナ出版で出版された「考える患者シリーズ」の第四巻のための文章書きで連日、日が過ぎています。

自分で書いたと思えないほど、できがいいかもしれないと思える日もあれば、文章がかけなくなってしまう日もあります。午後も、文章書きなので、昼間は力を温存させていたほうがいいのかもしれませんが、ここしばらく読んでくれる人も多いのでしばらく書いてみます。

手紙も二件なかなか書けずじまいで、おいてあるのがあって、そっちもほっておくわけにもいかないので、時間を探して書こうと思います。

ぜんぜん関係ないのですが、夕べは図書館で『記録文学集』という中国古典の全集を少し読みました。『東京夢華録』という本のタイトルはどこかで見た覚えがあったので、あとがきのその本についてのくだりを読みました。

東京というのは日本の東京ではなく、北宋の東京です。そこでの暮らしを一市民が書くというものです。文学者ではなく、一市民だからこその筆致というものがあるらしいことを読みました。

外から知識人が観察して書くものと、内から一市民が書くものと選ぶものが違うのかもしれません。当然、知識人が書いたものには一市民なら見落とすものもあるかと思います。

逆はないのでしょうか。

2018年2月13日火曜日

柳宗悦 沖縄 ちら読み

先日、ジュンク堂で立ち読みしていて、柳宗悦が沖縄の工芸について書いている文章を読んだ。家のどこかにも手仕事について書かれた本があって、柳宗悦の文章の日本語としての美しさとともに、沖縄の工芸についての思い入れの深さに感動した。

北琉球としてくくられる徳之島出身の家系であることとともに、そういうふうなものを生み出してきた血につながっているということは私にとって大きなことだった。

ただし、工芸的なモノとして沖縄ほどさまざまな品物を奄美は生み出していない。幸福なことに芭蕉布や大島紬といったものはある。

欲にまみれて心を汚さなければ、何か作り出せるのかもしれないという野心がめらめらと沸き起こった。そういう野心もよこしまなものかもしれないが、実際にそう思ったのだから書き付けるしかない。

先住民がおみやげ物を作って収入につなげる、という感覚ではあんまりつくりたくない。最低限度の収入を職場で得ながら、あまり商業的な世界とつながらないようなものを作るのなら作りたいと思う。そこにももっとよこしまな野心が見え隠れするのでそう思った時点で天使はもう離れているのかもしれない。

世の中はなんとか豊かであり、その恵まれた環境の中で生きられる。
必死さという点ではかなわないかもしれないが、欲とは無縁なところで、いや、薄いところで何かつくれるかもしれない。

純粋な楽しみという点で、まさに人生そのものを豊かにするために。

さえずってみたのだが、あんまりさえずれなかった。

2018年2月12日月曜日

ガラクタなりに日々ものを考えている

自分ごときがものを考えてみても仕方がない。そう思うことは多い。いい思い付きがあっても、その場ですぐ、書き散らしてしまうから、それが本当にいい思いつきであれば、誰かにパクラれて、その人の手柄になってしまう。

でも、そう思うこと自体さもしいことである。貧乏ったらしい。別に貧乏貴族を気取ることはないにせよ、その時代という背景があって思いついたわけであるので、その時代に還せばいい。そう思ったほうが健全に生きられる。

その一方で、いろいろ条件があって、それがうまい具合に利いて、お金はないけれど、恵まれた条件下にあって、ものを思いついたりしている。

最近、なかなか文章が書けないときも多いし、書いてみたとしても、以上のような結果なので、逆説的に、文章が思いつくということ自体、かなり恵まれた状態なのだな、と嫌でも気づく。今日はこれでも、書けるほうかもしれない。書けない日はとんと書けない。そういうパターンが多くなった。仕事以外の場ではぜんぜん文章を書く気が起こらないという人の気持ちも少しわかるような気がする。

北国のほうでは春といっても、南国からすれば肌寒い感じかもしれない。それでも、スプリング・エフェルメといった美しさは南国の人には経験できないような特別なものだと思う。広島県の吉和冠山か寂地山かで、カタクリの花の群生を見て、美しいと思った。そこにギフチョウでもいたら最高である。

そんな感じで、文章が思いつく今日を楽しんでいる。

ガラクタなりに日々ものを考えている が表題であった。体にがたのきはじめた、有象無象の一人である。そういう自分がものを考えている。日々考えている。テレビを見る限り、世の中は退廃している感がする。身の回りの世界はそこまではいっていない。退廃という言葉が当てはまるほど汚れている感じは周囲からはしない。

だから退廃した世界を知らない。ネットも十分退廃しているのかもしれないが、そういう交わりの中に入っていこうとしない。

代わりに何を考えているのかというと「捧げものとしての科学はありえないか」とかそういうことを考えている。最近の科学本は結局のところ謎解きに終始しているような気がする。そして名誉と絡み付いている。それ以上の何事かってできないのだろうか。たとえ、見栄えはしないものであったとしても。

私が本を読む理由のひとつは記述の力を上げるためである。記述の力を上げて何をするのかというと、心の中のものを具現化するのである。日本人ってまじめなところもあるから、ある程度信頼できそうなものを書き付けることができるのではないかと思うことが多い。そして、嘘をつくのが下手なところもあるから、嘘をやむおえない事情で書いたところも発見しやすいのではないかと思う。たぶん、そういうところは許せる嘘に違いない。

記述力を上げることは大風呂敷ではあるが、今、世の中で困っているような大問題を理解したり、解決に近づけるようなこととどこかで関係していると思う。遠回りであるが、貧乏人にもできる社会貢献のあり方なのかもしれないと思っている。

2018年1月20日土曜日

一患者にとっての科学

一般化できる話じゃありません。あくまでも一個人としての患者にとっての科学です。

私にとっての科学はたぶん、旧鹿児島県文化センター(現宝山ホール)の地下にあった科学館から始まりました。
幼少のころ、関心はひたすら汽車に向いていました。何度も書いたように、地面があったら汽車、広告の裏に汽車、マッチ軸があったら汽車、という生活態度でした。ずいぶん後になってそのころのことを「好きなもののイメージで頭の中を満たしてしまう」というふうな表現で言うようになりました。関心は移り、星座、蘭と移っていきました。なので、科学といっても抽象概念的なものではなく、具体的な好きなものとの結びつきに関係した言葉でした。むしろ、大学に行っても、哲学青年的な側面はきわめて希薄で「科学とは何か?」などと考え込むことはありませんでした。蘭の趣味の延長であり、蘭にしか感心がなく、しかもサイエンスというよりも趣味的な方向にずれていました。なので「ランの生物学」というたぐいの本があってもあまり読めませんでした。

前後しますが科学館についてちょっとだけ書いておきます。文化センターの玄関を入ると鹿児島県の大きなジオラマのような模型地図があり、ボタンを押すと各地の産品が豆電球のような感じで表示されるものがありました。今もあるのですが、地下への階段の壁には大きなタイルの壁面画があります。

ロボットもいました。子供からすると大きなもので動きました。でも、今の基準でのロボットとは違うかもしれません。地震の模型、原子炉の解説板、ロケットのビデオ、ペンシルロケットの模型、滑車で重い石を持ち上げるもの、いろいろありました。

面白かったのは三面張りの鏡の小部屋で中に入ると自分が万華鏡のように遠くまで合わせ鏡のように映っていました。

雷の放電の実験装置。これはインパクトのあるものでした。ボタンを押すと放電しました。テレビ電話の実験設備。ストロボの効果で噴水の水玉が逆流するようなものもありました。

一番のお目当ては巨大な鉄道模型のパノラマでした。

四階建てで、3階には科学本の図書室、4階にはプラネタリウムとアロザウルス、カンプトザウルスの骨格模型、解説員がいて、小学校の見学があり、解説をして、そこでいつも質問をする習慣がありました。

そのようなもろもろで、科学はまずは遊び場みたいなものでした。

いきなり飛んでしまいますが、今は患者としての身の上です。不養生で、いろんなところを悪くしています。学んだことと生活とが結びついていないところも多いです。

きちんとした大人として、精神的に成熟しているのかどうかも怪しいと思います。

でも、逆にそういうことから、「大人として成熟する」とはどういうことだという疑問が起こるようになりました。気分の変動から「そもそも気分とは何か」とか。

ただ、今の私の状況では素朴な疑問をもつことができても、そこから先に進めません。たぶん、単なる疑問出しだったり、書き散らしだったりかもしれません。でも、あえて書いてみることで内側のもやもやを外に出せます。出したら中身について吟味ができます。

しばらく前よりも、知能が若干落ちているのではないか?そういう印象がするとか、何か文面がつまらなくなったとか、まとまりがなくなったとか、いろいろ印象は出てくると思います。考える素材を吐き出しながら、自分もまた考えてみる、そんな感じです。

科学といっても、辞書的な説明は調べれば可能かもしれませんが、その人の歩んできた道により、どんなことを、どこまで、その記号の中にこめることができるかは違うと思います。「普遍的」な西欧科学が日本のある社会層の中で野生化し「民俗科学化」しているのかもしれません。それならそれでいいと思うし、今いる身近なところにひきつけて考える限り、そうなる必然性もあると思います。

言葉は共有財産である側面でありながら、極私的な面もあると思います。そのイメージはやはりその人の中からしか出てこないのです。ある文脈の中で生きるその人の中からです。

以上、即興的に書いてみました。あくまで、当座で書いてみただけです。

2018年1月2日火曜日

Kinga


あけましておめでとうございます。みなさまにとっていい年でありますように。

それはそうと、新年早々なのですが、そして実現しないかもしれないのですが、「道具箱」というものを作ってみたいと思います。wrap(元気行動回復プラン)というものが精神福祉の世界にあるのですが、その「心の道具箱」です。

せっかく、3Dで簡易な工作ができるので、その特技を生かして、「心の道具箱」を具現化しようと思うのです。象徴的に何か入れようと思うのですが、

1 メスです。解剖用のメス。
2 虫眼鏡
3 双眼鏡
4 六分儀または八分儀
5 地球儀
6 ほしいのを聞いてみます。
7 ほしいのを聞いてみます。

変更もあるかもしれません。
とりあえず、そんな感じでつくってみようと思います。

あと、昨日、即興できめたのですが、元旦にその年のテーマ、をキーワードとして決めて、その年はそのテーマに少々こだわってみようかなということを思いつきました。

うまくいきますでしょうか。それとも、あっという間に忘れてしまうでしょうか。