アケルナルの先にはみずへび座という星座があり、天の南極のほうへ延びている。天の南極ははちぶんぎ座にある。
子供のころからの空想で、エリダヌス座と銀河鉄道の路線と重ね合わせていた。アケルナルでみずへび座に乗り換えて、天の南極方面に向かう、と。
天文年鑑に日本から見えない4星座というのが載っていた。これはちょっとうろ覚えで自信がないので検索で確認しよう。テーブル山、カメレオン、はちぶんぎ、ふうちょうだった。ネットは便利だ。
見えないというのは逆にロマンを掻き立てるものだ。日本から見えない南の星座にあこがれていた。鹿児島でぎりぎりみえるらしい、南の地平線にちょろっとだけ顔を出す星座にもあこがれていた。でも、残念ながら、子供のころに住んでいた家で天文観測に使っていた物干し場から南の方角が天文館という繁華街で光が強く、南のほうの星座の観測には不向きだった。
知識は調べればすぐわかる時代である。調べるという言葉すらおこがましいところもあると思う。といっても、インスタントに調べられるほうの知識のみであるが。
知識は調べればすぐわかる時代である。調べるという言葉すらおこがましいところもあると思う。といっても、インスタントに調べられるほうの知識のみであるが。
それに対して、小学校3年か4年かぐらいで宇宙が膨張しているとか、星には終わりがあるとか、白色矮星で角砂糖くらいの大きさの物質がとてつもない質量がある、というのを知ったときにどう感じたか、という記憶があまりはっきりしない。宇宙が膨張しているのなら、宇宙の最初はどうなっているのだろう?という発想は小学校3、4年生の私はしなかった。ビッグバンの話を知ったのは大学3年生の化学の講義の中で、なんだか宗教の話でも聴いているような気分だった。
起源、というとちょっと脱線だけど、照葉樹林にも起源がある、ということを知ったのはもういい大人になってからだった。博物館時代に、古生物学の名誉教授に伺った。何しろ、照葉樹林の起源なんて発想したことないからだ。それは雲南あたりであるらしい。
大体ヒトの発想というものはそういうものかもしれない。知識は与えられるけれど、その知識を使って、その知識が帰結するところを探るという訓練を受けていない。
宇宙についての話題で人間原理というものがあり、それは専門家をも悩ませているらしいが、なぜだか、それについてつきつめて考えてみようとは思わない。それはそれ、これはこれ、という感じで流しているように思う。私の場合だったら、そこらへんつきつめはじめると、人間では終わらずに、私の友人知人、家族、そして私自身まで、人間原理をとりまく宇宙の体系の中にはいってきて、「すべてはつながっている」という発想になり、怖い思いをするだろうから。
ペレルマンの証明で、数学の証明の中に温度とかエントロピーとか物理の概念が出てきて、数学者を悩ませているらしい。でも、温度で悩むのだから、もし、そういう究極の理論の中に唐突に私や「あなた」の名前やら概念が出てきたら、それは誰をもどうかさせてしまうことだろう。
ない、ということを証明することは難しいらしいので、そういう可能性をも実現させかねない宇宙の多様性の豊かさでも胸にイメージしながら、今日も心健康に生きたいと思う。
P.S エリダヌス座についてどう考えていたかを落としていた。なんのことはない、これら私の吐き出した「標本たち」が時系列に並んでいくさまをイメージした。ネットの宇宙の片隅のデブリとして埋もれ消え行く存在かもしれないが、何かそこから発想を広げるヒトもいるかもしれない。どこまで表現するか、どのあたりの距離感が好ましいのか考えることがある。秘密めかす必要はないにしても、わからない楽しみもあると思うのだ。シベリアのいろんな地名、ヤクーツク、クラスノヤルスク、イルクーツク、オイミヤコン、チタ、ウランウデ、ノボシビルスク、ベルホヤンスク、このあたり、まったく地名しか知らなかったころはロマンを感じていた。シベリア鉄道と銀河鉄道を重ね合わせ、メーテルのような永遠の謎を秘めた女性がいるのかも、と、なんかそういう空想もなりたつぐらいのものであった。地図当てゲームの中で覚えたシベリアの地名のひびき。
クラスノヤルスクという言葉の響きとメーテルという名前が私の中では重なるんですね。でも、クラスノヤルスクにどういう歴史があるのかを知るのはずっと大人になってからだった。
P・S 光合成など、研究対象の歴史と対象を取り巻くヒトの歴史と、これがヘンテコリンな形で交差することはあるのだろうか。観察者たちもまた研究対象の歴史に取り込まれてしまうような具合に。
起源、というとちょっと脱線だけど、照葉樹林にも起源がある、ということを知ったのはもういい大人になってからだった。博物館時代に、古生物学の名誉教授に伺った。何しろ、照葉樹林の起源なんて発想したことないからだ。それは雲南あたりであるらしい。
大体ヒトの発想というものはそういうものかもしれない。知識は与えられるけれど、その知識を使って、その知識が帰結するところを探るという訓練を受けていない。
宇宙についての話題で人間原理というものがあり、それは専門家をも悩ませているらしいが、なぜだか、それについてつきつめて考えてみようとは思わない。それはそれ、これはこれ、という感じで流しているように思う。私の場合だったら、そこらへんつきつめはじめると、人間では終わらずに、私の友人知人、家族、そして私自身まで、人間原理をとりまく宇宙の体系の中にはいってきて、「すべてはつながっている」という発想になり、怖い思いをするだろうから。
ペレルマンの証明で、数学の証明の中に温度とかエントロピーとか物理の概念が出てきて、数学者を悩ませているらしい。でも、温度で悩むのだから、もし、そういう究極の理論の中に唐突に私や「あなた」の名前やら概念が出てきたら、それは誰をもどうかさせてしまうことだろう。
ない、ということを証明することは難しいらしいので、そういう可能性をも実現させかねない宇宙の多様性の豊かさでも胸にイメージしながら、今日も心健康に生きたいと思う。
P.S エリダヌス座についてどう考えていたかを落としていた。なんのことはない、これら私の吐き出した「標本たち」が時系列に並んでいくさまをイメージした。ネットの宇宙の片隅のデブリとして埋もれ消え行く存在かもしれないが、何かそこから発想を広げるヒトもいるかもしれない。どこまで表現するか、どのあたりの距離感が好ましいのか考えることがある。秘密めかす必要はないにしても、わからない楽しみもあると思うのだ。シベリアのいろんな地名、ヤクーツク、クラスノヤルスク、イルクーツク、オイミヤコン、チタ、ウランウデ、ノボシビルスク、ベルホヤンスク、このあたり、まったく地名しか知らなかったころはロマンを感じていた。シベリア鉄道と銀河鉄道を重ね合わせ、メーテルのような永遠の謎を秘めた女性がいるのかも、と、なんかそういう空想もなりたつぐらいのものであった。地図当てゲームの中で覚えたシベリアの地名のひびき。
クラスノヤルスクという言葉の響きとメーテルという名前が私の中では重なるんですね。でも、クラスノヤルスクにどういう歴史があるのかを知るのはずっと大人になってからだった。
P・S 光合成など、研究対象の歴史と対象を取り巻くヒトの歴史と、これがヘンテコリンな形で交差することはあるのだろうか。観察者たちもまた研究対象の歴史に取り込まれてしまうような具合に。
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