そこはラン少年からするとパラダイスのような世界に少なくとも最初のころは思われた。昔の付属小学校かどこかの校舎を使っていたのだけど、その横に小さな温室があった。霧が出たり、夏は冷房、冬は暖房みたいな感じで植物にとっては至れりつくせりの環境だった。先代の先輩の遺したものなのか、カトレアとかいろいろランの鉢もあった。後には後輩らが実習で行った先から持って帰ってきたアリドウシランのたぐいとか珍しいシュスランのたぐいとかほかにもいろいろ野生ランがあった。(悲しいことにもうランの趣味を離れていることと、そこまでヘビーな趣味とも客観的に考えると思えないので同定ができない。)
ランの組織培養もいろいろやっていた。キンリョウヘンのプロトコームとかカトレアとかファレノプシスとかシンビジウムとかネジバナの3倍体とか。先輩が置いていったものだった。当時はまだ成功していなかったレブンアツモリの種を培地に蒔いたものを私に託されていた。先輩のやり方がよかったのか、発芽までは見たのだが、その後を増殖させていくところで私には壁がきた。
ランの凍結保存は私の代からだった。一度、インドから研究者がたずねてきたことがあった。インドでも凍結保存の試みをしているらしかった。その時点で、世界ではまだ誰も成功していないらしいことを知った。
凍結保存の技術については北海道大学の名誉教授の酒井昭先生にいろいろ指導していだだいた。印象的な先生だった。論文のコピーをいつも持っていて、私にいろいろくれた。たとえば、ニンジンの組織か培養細胞かをある条件下で乾燥させて凍結、再培養するという論文があった。20年以上の前の記憶でしかも、病気を経ているので記憶が若干曖昧だ。乾燥させて凍結だったか、乾燥のみだったかぼんやりしている。ともかくも、エジプトのミイラの話のようで興味深く、キンリョウヘンの培養細胞をミイラ状態にして試してみた。でもうまくいかなかった。こういう状況のとき、私はだめなのである。アイデア崩れ。条件を細かく分けて考えたりするのが苦手である。後年、後の世代の人が発展させてこの方法も生かしている。
ランの組織培養もいろいろやっていた。キンリョウヘンのプロトコームとかカトレアとかファレノプシスとかシンビジウムとかネジバナの3倍体とか。先輩が置いていったものだった。当時はまだ成功していなかったレブンアツモリの種を培地に蒔いたものを私に託されていた。先輩のやり方がよかったのか、発芽までは見たのだが、その後を増殖させていくところで私には壁がきた。
ランの凍結保存は私の代からだった。一度、インドから研究者がたずねてきたことがあった。インドでも凍結保存の試みをしているらしかった。その時点で、世界ではまだ誰も成功していないらしいことを知った。
凍結保存の技術については北海道大学の名誉教授の酒井昭先生にいろいろ指導していだだいた。印象的な先生だった。論文のコピーをいつも持っていて、私にいろいろくれた。たとえば、ニンジンの組織か培養細胞かをある条件下で乾燥させて凍結、再培養するという論文があった。20年以上の前の記憶でしかも、病気を経ているので記憶が若干曖昧だ。乾燥させて凍結だったか、乾燥のみだったかぼんやりしている。ともかくも、エジプトのミイラの話のようで興味深く、キンリョウヘンの培養細胞をミイラ状態にして試してみた。でもうまくいかなかった。こういう状況のとき、私はだめなのである。アイデア崩れ。条件を細かく分けて考えたりするのが苦手である。後年、後の世代の人が発展させてこの方法も生かしている。
資料が残っているかわからないのであまり主張したくないが、アブシジン酸を使うというアイデアも使ってみた。高校のときの生物の教科書に休眠物質としてアブシジン酸が紹介されていて、試薬がほしいと申告したら指導教官は気前よく取り寄せてくれた。こっちもアイデア崩れ。アイデアの筋はよかったのだが、細かくものを考える能力がなかった。こっちも私の手では生かすことができなかった。
キャッサバの試験管苗を研究室は持っていて、それを培養しようしたこともある。これもうまくいかなかった。
酒井先生から凍結保存の初期の論文をもらった。「パイオニアの仕事ですね。」みたいなことを言われた。独創的ではあるが、不備がある、今はそのときの言葉をそう解釈している。
何か実験のアイデアを思いついたとき、酒井先生は「今日やりますか、明日やりますか?」とおっしゃられた。たぶん、今日も明日もやらなければ、ずっとやらないのだということだと思う。印象的な言葉だった。
「岩井くんはアイデアマンだから」みたいなことも酒井先生から言われた。評価されることの少ない人生の中でもらった勲章みたいなものだろう。
ある日、先生は公園にいかれて、そこにいたおじさんとしばらく世間話をされたそうだった。当時はなんでもなく思いつつも耳に残っていたのだけど、権威を持った研究者としてそういう平らかな態度はかならずしも当たり前とはいえないと思う。尊敬している。
ガラス化法の論文も酒井先生からもらった。酒井先生はときどき研究しつを訪れてサンタクロースみたいに論文をくれてまた帰っていくそんな感じだった。当時は幼くそれ以上のことを考えなかった。ネジバナでうまくいかなかったのでシンビジウムに材料を変えて、ガラス化法でやってみたらうまくいった。私がやったのはただ、それだけである。
MNRの集中講義を聴きにいって、笑われたり、その技術から派生するMRIで将来は染色体も観察できるようになる時代が来るのではなないかと「予言」して形態学講座の講師の先生からほめられたりした。
以上メモ的に書いてみた。文面みたところで、研究者としては所詮やっていけない鈍才学生であったと見て取れるであろう。
キャッサバの試験管苗を研究室は持っていて、それを培養しようしたこともある。これもうまくいかなかった。
酒井先生から凍結保存の初期の論文をもらった。「パイオニアの仕事ですね。」みたいなことを言われた。独創的ではあるが、不備がある、今はそのときの言葉をそう解釈している。
何か実験のアイデアを思いついたとき、酒井先生は「今日やりますか、明日やりますか?」とおっしゃられた。たぶん、今日も明日もやらなければ、ずっとやらないのだということだと思う。印象的な言葉だった。
「岩井くんはアイデアマンだから」みたいなことも酒井先生から言われた。評価されることの少ない人生の中でもらった勲章みたいなものだろう。
ある日、先生は公園にいかれて、そこにいたおじさんとしばらく世間話をされたそうだった。当時はなんでもなく思いつつも耳に残っていたのだけど、権威を持った研究者としてそういう平らかな態度はかならずしも当たり前とはいえないと思う。尊敬している。
ガラス化法の論文も酒井先生からもらった。酒井先生はときどき研究しつを訪れてサンタクロースみたいに論文をくれてまた帰っていくそんな感じだった。当時は幼くそれ以上のことを考えなかった。ネジバナでうまくいかなかったのでシンビジウムに材料を変えて、ガラス化法でやってみたらうまくいった。私がやったのはただ、それだけである。
MNRの集中講義を聴きにいって、笑われたり、その技術から派生するMRIで将来は染色体も観察できるようになる時代が来るのではなないかと「予言」して形態学講座の講師の先生からほめられたりした。
以上メモ的に書いてみた。文面みたところで、研究者としては所詮やっていけない鈍才学生であったと見て取れるであろう。
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