夕べ、レオナルド・ダヴィンチについての本をちらちらと読んでいた。
よく言われそうなことは、レオナルドの時代は素朴だったから、万能の天才は成り立ったのであって、現代は情報爆発の時代だから、専門分化していて、そういうのは成り立たないというようなことである。
現代で「万能の天才」は成り立つのかはおいておこう。
前、放送大学で勉強していたころか、官僚をされていて、定年を迎えた感じの人に相同なことをきいてみた。昔は素朴な時代だったから、全体を見渡すことができたのであって、今ではもっと発達して、もっと複雑になったから全体を見渡すことは難しくなったのですか?みたいなことを。
その人は、「昔から複雑だったよ」と答えた。
ここから類推をしてあてはめてみて、何の証明にもならないのだけど、レオナルドの時代のもろもろのことごとといっても、もうすでに複雑であって、素朴だったから全体を見渡せたとはいえないのではないかと。
あともう一点、現代では電球はもうレガシーな物品だし、ガリレオの法則はわりと早い時期に習うのだけど、それは知識を継承しているからそうなのであって、当時に戻って、創造する作業を考えたら迷宮をさまようような複雑さをもっていたらしいことを読んだ。『ガリレオの迷宮』、とても私には歯のたちそうな本ではないけれど、知識の継承と、創造は全然世界が違うのだな、と推測した。
「万能の天才」について。私はそういう立場にないのでただ想像するにすぎないのだけど、『情報環境学』大橋力 著 を読むと、いろんな分野の入門書を交差させるように読むと、分野間で共通するパラダイムのようなものを学ぶことができるようなことを書いてあった。ずいぶん、昔に読んだので情報は正確か自信がない。
そこでいうパラダイムは錬金術的なニュアンスを含む、蜘蛛の巣のようなもので、南方熊楠のいう
萃点めいたもののような気がしてならない。
P.S 『情報環境学』の後ろのほうに農村での水争いを調整する社会エンジニアとしてのシャーマンみたいなことが書かれているくだりがあった。本をとってもらえるとすぐそのくだりはわかると思うけれども、私の言葉で書き直したので注意してほしい。
あと、考古学の先生から、古墳時代は宗教と経済と政治が融合されたような形態をしていたらしいことをうかがった。神殿経済みたいなもので、そこにはさまざまな職能を持った人の知恵が流れ込む湖みたいなところであって、そこからまた融合によって生まれた知恵がいろいろな職能をもった人たちの元に分流されていくといような循環があったのだろうか。
そこでのやりとりが耳学問のような形であれば、非常に素朴なレベルから話を始めることができる。質問ー答えみたいな形を繰り返していけば、そういう場所にいる限り、知恵は融合できるのではないかと想像してみた。
「万能の天才」みたいな形を前、日本で流行った複雑系の世界では目指していたような気がする。また、改訂版みたいな形で海外から波がやってきて、大騒ぎするのだろう。