以下は昨日の友愛フェスティバルの発表全文です。
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題 寝耳に水 岩井雄次(エピンビ)
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題 寝耳に水 岩井雄次(エピンビ)
私は一九六六年生まれの丙午世代です。いわゆるバブル世代と世間では言われます。
父は大正一五年(昭和元年)生まれ、母も昭和一桁です。私は四人兄弟の末っ子。長女とは十二歳違います。
一九七〇年前後の話だと思いますが、実家から百mほど離れた祖父母のやっていたたばこ屋のすぐ近くに海岸線と地元では呼ばれる貨物引込線が鹿児島駅と中央市場とを結んでいました。かなり遅くの時期まで蒸気機関車が海岸線では走っていました。貨物列車の色と形に興味を持ち、祖母に手を引かれて、鹿児島駅や海岸線に並んでいる貨物列車を見に行っていたりしていました。
私の子供の頃の家はマーケットと呼ばれる個人商店の集まった市場の一角にありました。
戦災復興時にできた木造の繁華街で中には洋裁店、散髪屋さん、ふとんやさん、魚屋さん、缶詰ものの店、樽造りの味噌が売っている店、精肉店、米屋さん、和菓子が売っている店、めんどうみのいいガキ大将のすんでいた衣料品やさん。そんな感じでした。地域で子育てする環境だったのです。
興味は移り、春や秋の植木市に入り浸るようになりました。蘭の花が目当てでした。えびね蘭ブームというものがあり、丹精込めて育てられた色とりどりのえびね蘭が品評会を飾っていました。そういうのを眺めてそだちました。
念願叶って大学では植物学を学び、両親は苦労しながらも学費を工面してくれました。私は充実して学生生活を送り、無事大学も終え、就職した、と家族はイメージしたと思います。そんな折りでした。
家族の視点に立つと何の前触れもなく就職先の奈良から鹿児島の上町に住む家族のもとに私が精神病になってしまったという知らせが届いたそうです。寝耳に水のような感じだったということです。
家族の視点に立つと何の前触れもなく就職先の奈良から鹿児島の上町に住む家族のもとに私が精神病になってしまったという知らせが届いたそうです。寝耳に水のような感じだったということです。
大学は県外に出て、さらに馴染みのない奈良県に転出した早々でのできごとでした。姉の話では私に面会するとほっとしていた表情をしていたという話でした。
父の話では「自分がどんなことになってもいいから、どうか雄次を元の姿に戻してください」と天に祈ったそうです。
急性精神病の最中にあった私も病院のベッドで記憶がもうろうとする中で父と姉が目の前にいたことは唐突でした。もう病気の世界にいたので、「ここは死後の世界で、父と姉もがんで死んでしまったんだ」と思ったのでした。
主治医の判断で一週間位で退院しました。姉の話によると退院の日、私は病院のホワイトボードに自分の名前を大きく書き、「さようなら」といって帰ったそうです。病院の中でも友達をつくっていたようだったといいます。私のほうは記憶がぼんやりして断片的にしか思い出せないのです。
大阪を経て鹿児島に帰り、大量の薬を飲む生活が続きました。よだれが止まらず、ものが噛めなくなりました。母はそれを見て、カボチャやキュウリをミキサーですりつぶして、どろどろにしたスープをつくってくれました。あとはうどんをつくってくれて、私はそれをまるのみにしていました。
こんなかたちでの帰郷は、父にとってショックだったと思いますが、「鹿児島に戻ってきてくれたから、いっぱい話すことができてうれしい。戻ってこなかったらこんなに話し合う機会はなかっただろう」と言ってくれました。月日は経ち、父も死んでしまいました。 父が元いた戦前の台湾での暮らしなど父の話は沢山聞きましたが、ついに私の病気のことは立ち入って語らずじまいでした。
ラジオに出演して私の病気の体験を話し、会社でCDに焼いてくれました。母に聞かせるのは勇気が必要でしたが、姉が帰郷中だったので姉に一緒にいてもらい、母姉兄私の四人で聞きました。私から見た病気の体験を中心とした家族には語られることのなかった私の歴史でした。「雄次のことを何にもしらなくてごめんね」と姉は泣いておりました。
ラグーナ出版で9月、「統合失調症をほどく」という本が刊行されました。沢山のヒントを頂いた精神科医である中井久夫先生の文章を患者と医療者が共同で読み解いていくというスタイルの本です。その中で私も長文の体験談を載せてもらいました。この本が刷り上がったころに中井先生が会社を訪れてくださいました。私も先生と話す機会があったのですが、相変わらず人生、模索中であったので、「僕は今、どういうところに着地しようかと考えているところです。」と申しますと、先生は「地面を選んで、着地なさると、自然に着地するところが分かるでしょう。」とお答えになりました。私の人生の着地点を探しながらゆっくり地道に生きていこうと思います。御清聴ありがとうございました。
P・S 録音のテーブで中井先生の言葉を聞きながら書き起こしたのですが「地面を選んで、着地なさると、自然に着地するところが分かるでしょう。」と発表では言いましたが、録音の音声は「着地なさるか」というふうに聞こえました。でも、それでは意味が通りにくくなるので、発表では「着地なさると」と言いました。読まれる方に補足しておきます。
P・S 録音のテーブで中井先生の言葉を聞きながら書き起こしたのですが「地面を選んで、着地なさると、自然に着地するところが分かるでしょう。」と発表では言いましたが、録音の音声は「着地なさるか」というふうに聞こえました。でも、それでは意味が通りにくくなるので、発表では「着地なさると」と言いました。読まれる方に補足しておきます。