暮れには大体、調子が崩れることが多い。
今年という列車が思い出をのせて、虚空に旅立っていくというイメージ
が重なってしまう。
銀河鉄道999の影響なのかどうか。
あくまでも、文学的、あるいは詩的な意味と限定したほうが安全かも
しれないが、出来事、あるいは時は活きているような気がする。
それは人間的要素に染まったイメージだからかもしれない。
紙の上の文字はインクの染みにすぎないかもしれないが、
心の中に納まった言葉は生きているといえるのかもしれないと思う。
心から心に移った言葉たちも生きているといえるのかもしれない。
それが相手にとって働きをもった言葉ならなおさらのことである。
そんなこと考えるから、いつかやってくるだろう自分の死というものを
そんなに恐怖することはない。美化もしないし、心が弱いほうだから、
いざ、そういう場面に遭遇したら、みっともない姿をさらすかもしれないが、
運しだいという感じだろう。
バクトリア王国。ロマンを誘う国だが、ミリンダ王の問いが残るくらいで、
文字資料はそんなに恵まれないらしい。余白が多いという意味合いでは
かえって史料の少なさがロマンをかきたてる要素にもなっているのかも
しれない。
現代は出版された本でさえ多くて書庫の無縁仏となり果てるケースが
ほとんどなのかもしれない。
逆に読者としての存在の価値が上がっていることは確かな気がする。
一人ひとりの読者が本を読むという習慣を支え、その人自身やその人
の周囲に読者界とでもいえるエコシステムをつくっていく。
本を読むことに価値があると思えるミームを広げていっているような
気がする。地理的だったり、社会的にだったり、周辺的であればあるほど
大事なような気がするし、もしかしたら、中心ー周縁といった固定観念すら
もほどいてくれるかもしれない。
私はきっと死ぬまで銀河鉄道999の存在を忘れることはないだろう。
私の存在をいつまでも覚えていてくれている遠くの存在っているのだろうか?
そんなに多くの数、別にいなくてもいいのだが。
誇大妄想な感じではないので、いつまでも読まれるだろうとは
あまり考えないのだが、そしてそういうことを想像することさえ
今の状況だと難しいのであるが、ただひとつだけ、遠くに届いてほしい
ことがある。
この文章が遠くに届いた程には、逆の方向からも届く望みが開かれている
ということ。若い時間を無為に過ごさなければなおさらである。
次の時代を静かに準備しよう。
もし、何か大きな世の中の動きがあったときも、あわてずに、
地域のコミュニティを硬く維持しながら、
次の時代を担う受け皿となれるよう、自分の言葉の道具を研いでおこう。
不穏な感じが進行し、国際情勢も、環境問題も深刻化していくけれど、
今まで歴史が続いた程度には、この世界には安定性があると信じる。
だから、結果はどうあれ望みを捨てずよく生きて、
自分なりの存在感を主張していこう。
その人の立場にたってみれば、その人を主役とした物語が成り立つはずだ。
その器に自分なりの中身を盛り付けていこう。
P.S しばらくブログ書いていなかったので、facebookふうのだらだら文章になり、
支離滅裂でまとまりの欠ける文章になってしまった。
別に革命思想を信奉するわけではないが、今は変動期とみている。
今の延長線上に未来の姿は思い描けないが、萌芽的な要素はかなりそろっている
と見ている。どの芽に時間を投資するか、選択眼が試されている。
はじめての方へ
私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
2015年12月29日火曜日
2015年7月31日金曜日
憑依と脱魂
たわいのない入眠時幻覚の話といえばたしかにそうで、
またいつもの寝入りばなの話である。
夢の物語のほうは覚えていない。
ただ、後半、いつもより激しい体感幻覚のような感じになった。
憑依という感じかもしれない。それはいつものやつのよりも若干強かった。
で、なぜか脱魂という言葉を思い出した。
「この状態で飛べるのだろうか?」という疑問である。
こういう疑問が起こるということは、夢の物語に巻き込まれてはおらず、
半覚醒状態なのだろう。
「飛べた」といったも、風景がみれたわけじゃない。
目をつぶった暗黒な状態で、それでも上方向に飛んでいく感覚が
かなり明瞭に見られただけだ。
何が起こるか怖いので、すぐやめて、起きた。
何度も書いたように、こういう時は、ともかくも、目を覚まし、灯りをつけ、
完全に覚醒することが肝要なのだ。灯りをつけずに、眠るとまた憑依が
起こってしまう。
灯りをつけた。でも、しばらく、意識水準がいかにも下がったような感じの
感覚がのこり、完全に覚醒したような感じになるのに時間がかかった。
寝た。すんなり寝れた。いつものとおり。
出社した。
夕べのできごとをPSWでもある社長に伝えた。
「もう飛ぶのはやめたほうがいいですかね」
「やめたほうがいいと思うよ。何が起こるか怖いから、、、」
さあ、飛べるという心的事実を知った私はその探究心を抑えることができるかどうか、、、、
まあ、単に意識水準が下がったというたわいのない話かもしれない。
またいつもの寝入りばなの話である。
夢の物語のほうは覚えていない。
ただ、後半、いつもより激しい体感幻覚のような感じになった。
憑依という感じかもしれない。それはいつものやつのよりも若干強かった。
で、なぜか脱魂という言葉を思い出した。
「この状態で飛べるのだろうか?」という疑問である。
こういう疑問が起こるということは、夢の物語に巻き込まれてはおらず、
半覚醒状態なのだろう。
「飛べた」といったも、風景がみれたわけじゃない。
目をつぶった暗黒な状態で、それでも上方向に飛んでいく感覚が
かなり明瞭に見られただけだ。
何が起こるか怖いので、すぐやめて、起きた。
何度も書いたように、こういう時は、ともかくも、目を覚まし、灯りをつけ、
完全に覚醒することが肝要なのだ。灯りをつけずに、眠るとまた憑依が
起こってしまう。
灯りをつけた。でも、しばらく、意識水準がいかにも下がったような感じの
感覚がのこり、完全に覚醒したような感じになるのに時間がかかった。
寝た。すんなり寝れた。いつものとおり。
出社した。
夕べのできごとをPSWでもある社長に伝えた。
「もう飛ぶのはやめたほうがいいですかね」
「やめたほうがいいと思うよ。何が起こるか怖いから、、、」
さあ、飛べるという心的事実を知った私はその探究心を抑えることができるかどうか、、、、
まあ、単に意識水準が下がったというたわいのない話かもしれない。
2015年6月7日日曜日
表記可能であること
こういうたぐいのことは何度も書いているのだけど、
今日はメソポタミアの歴史の本を読みながら、
あらためて、表記できることの意味について考えてみたい。
何度も書いているように、文字であれ、画像であれ、
ちょっと工夫すれば、それぞれの人の器量なりに
表現ができて、発信までできる。いい時代である。
多くの文書類に埋もれるとはいえ、その埋もれ具合も
ひっくり返してみれば、喧騒とは無縁の静かな環境とも
いえ心地よいといえば心地よい。
生計の問題はここでは考えない。
とりあえず、家全体としては、家計は全体的になんとか
回っている。たぶん、家計の規模は少しずつ細くはなりつつも。
結婚はしなかったし、またこれからもする予定もないので、
そして、最近は色恋沙汰の世界からも遠ざかっているので、
自然な流れとして、ひたすら家全体として老いていくのだろう。
ちょっと横にそれた。
要するにgeneとしてではなく、memeとして何かを残そうと企んで
いるらしい。そして、それは細々とした流れであって、流れにも
なりきれず、化石のようにどこかに埋もれてしまうか、情報自体
が破棄されたりして、最終的には残りえないものであっても
それなら結局そういう価値しかなかったのであるから
仕方がないといえる。そういう意味で腹もくくっている。
終末期の父から学んだことはじたばたしない、ということだった。
でも学びきれず、外目には十分もがいているようにも見える。
やっぱりハナシとしてまとまらない。長らく文章書かなかった
せいか文章のまとめかた自体も下手になってしまったのか。
それともそれも幻想であって、もともと文章力なぞもなく、
ただカンチガイで垂れ流し状態だったに過ぎないのか。
見苦しい。
表記可能であること、という表題から離れてしまった。
メソポタミアの歴史から学んだこと、
うっすらと思っていたことだけど、
文字自体がシステムであるらしい。
でも、ちら読みだったし、今日読んだ記憶もあいまいなので
文字自体がシステムである、ということが何を表しているのか
今の時点で書けない。
でも、それらは創造的に受け取るべきで、読んだたびごと
に記憶があいまい化する今をむしろ、愉しみ、その時々の
状況を逆手に取るべきだと、ちょっと強がったことを考えている。
認知の衰えを感じる今だと、後から読み直せるという事実は
ありがたい。
朗読の催し物のときに痛いほど味わったけれど、
今や、朗読を物語として楽しめなくなっている。
読んだ先から記憶が失われるような感じで短期記憶が揮発
してしまい、記憶が蓄積しないので、物語が物語りとして
私の中では機能せず、単にその時々の断片的な物語の
瞬間、瞬間の言葉の美しさを愉しむことしかできない。
そして、そういった状況に適応すべく、なんとか心理的に
調整しようとしている。
と書いたもののそれも、カンチガイであって、記憶というもの
はもうちょっと複雑かもしれない。
生活全体としては回っているのだから、認知障害という
ほど大騒ぎするものでもないかもしれない。
講義なども、そんな感じで、物語記憶として機能しない。
そして独特の脳がついていけない、感覚が代わりにしてくる。
独特の脳がついていけない感覚。
これはコンピュータのちょっと込み入ったメニュー操作の仕方を
教えてもらって、ついていけなくなって脳が悲鳴を上げるときとか
そういうときに典型的に起こる。
認知症の患者さんが、脳に過負荷な課題を与えられるときに
脳が悲鳴を上げる感じがこんな感じなのではないか。
そういう風なモザイクな感覚が今現在である。
そして、本人なりに感じたモザイク模様を、その時々の
本人なりの器量で表記しようとあくせくしている。
なんとか書けた。書いたことになるかどうかは不分明だが。
今日はメソポタミアの歴史の本を読みながら、
あらためて、表記できることの意味について考えてみたい。
何度も書いているように、文字であれ、画像であれ、
ちょっと工夫すれば、それぞれの人の器量なりに
表現ができて、発信までできる。いい時代である。
多くの文書類に埋もれるとはいえ、その埋もれ具合も
ひっくり返してみれば、喧騒とは無縁の静かな環境とも
いえ心地よいといえば心地よい。
生計の問題はここでは考えない。
とりあえず、家全体としては、家計は全体的になんとか
回っている。たぶん、家計の規模は少しずつ細くはなりつつも。
結婚はしなかったし、またこれからもする予定もないので、
そして、最近は色恋沙汰の世界からも遠ざかっているので、
自然な流れとして、ひたすら家全体として老いていくのだろう。
ちょっと横にそれた。
要するにgeneとしてではなく、memeとして何かを残そうと企んで
いるらしい。そして、それは細々とした流れであって、流れにも
なりきれず、化石のようにどこかに埋もれてしまうか、情報自体
が破棄されたりして、最終的には残りえないものであっても
それなら結局そういう価値しかなかったのであるから
仕方がないといえる。そういう意味で腹もくくっている。
終末期の父から学んだことはじたばたしない、ということだった。
でも学びきれず、外目には十分もがいているようにも見える。
やっぱりハナシとしてまとまらない。長らく文章書かなかった
せいか文章のまとめかた自体も下手になってしまったのか。
それともそれも幻想であって、もともと文章力なぞもなく、
ただカンチガイで垂れ流し状態だったに過ぎないのか。
見苦しい。
表記可能であること、という表題から離れてしまった。
メソポタミアの歴史から学んだこと、
うっすらと思っていたことだけど、
文字自体がシステムであるらしい。
でも、ちら読みだったし、今日読んだ記憶もあいまいなので
文字自体がシステムである、ということが何を表しているのか
今の時点で書けない。
でも、それらは創造的に受け取るべきで、読んだたびごと
に記憶があいまい化する今をむしろ、愉しみ、その時々の
状況を逆手に取るべきだと、ちょっと強がったことを考えている。
認知の衰えを感じる今だと、後から読み直せるという事実は
ありがたい。
朗読の催し物のときに痛いほど味わったけれど、
今や、朗読を物語として楽しめなくなっている。
読んだ先から記憶が失われるような感じで短期記憶が揮発
してしまい、記憶が蓄積しないので、物語が物語りとして
私の中では機能せず、単にその時々の断片的な物語の
瞬間、瞬間の言葉の美しさを愉しむことしかできない。
そして、そういった状況に適応すべく、なんとか心理的に
調整しようとしている。
と書いたもののそれも、カンチガイであって、記憶というもの
はもうちょっと複雑かもしれない。
生活全体としては回っているのだから、認知障害という
ほど大騒ぎするものでもないかもしれない。
講義なども、そんな感じで、物語記憶として機能しない。
そして独特の脳がついていけない、感覚が代わりにしてくる。
独特の脳がついていけない感覚。
これはコンピュータのちょっと込み入ったメニュー操作の仕方を
教えてもらって、ついていけなくなって脳が悲鳴を上げるときとか
そういうときに典型的に起こる。
認知症の患者さんが、脳に過負荷な課題を与えられるときに
脳が悲鳴を上げる感じがこんな感じなのではないか。
そういう風なモザイクな感覚が今現在である。
そして、本人なりに感じたモザイク模様を、その時々の
本人なりの器量で表記しようとあくせくしている。
なんとか書けた。書いたことになるかどうかは不分明だが。
2015年6月1日月曜日
過去の文章を読むと鼻をつまみたくなる
最近、更新はしてないのに、毎日誰かが読んでくれる。
で、読まれたページを忘れっぽいので、読み返してみると、
鼻つまみなのである。
肩をいからせているような、ピノキオの鼻が高くなっている
ようなそんな印象を受けてしまうのである。
で、今、改善しているかというと、どうも治っていない。
そういう自分があまり、人から褒められるのはよくないと思う。
特に公的な意味で褒められることは多分よくないと思う。
蔑まれるくらいがちょうどいい。
権利意識がない、という話とちょっと違うかもしれない。
権利意識みたいなものが西欧由来のもので、
少なくとも普遍的な概念としては西欧由来のもので、
歴史が違うので、しっくりしたところではわからない。
だから社会では矛盾が起きるし、個人の心の中でも整理がつかない。
言葉ひとつひとつの意味がよくわかっていないような気がする。
鼻高々になって、世間を歩いている自分はみたくない。
で、読まれたページを忘れっぽいので、読み返してみると、
鼻つまみなのである。
肩をいからせているような、ピノキオの鼻が高くなっている
ようなそんな印象を受けてしまうのである。
で、今、改善しているかというと、どうも治っていない。
そういう自分があまり、人から褒められるのはよくないと思う。
特に公的な意味で褒められることは多分よくないと思う。
蔑まれるくらいがちょうどいい。
権利意識がない、という話とちょっと違うかもしれない。
権利意識みたいなものが西欧由来のもので、
少なくとも普遍的な概念としては西欧由来のもので、
歴史が違うので、しっくりしたところではわからない。
だから社会では矛盾が起きるし、個人の心の中でも整理がつかない。
言葉ひとつひとつの意味がよくわかっていないような気がする。
鼻高々になって、世間を歩いている自分はみたくない。
2015年5月23日土曜日
最近考えていること。
なんとなく、現代文明の構成要素それぞれに、賞味期限というか寿命みたいなものがあるのではないかとふと考える。その賞味期限が切れかけてきたなという感じがほのかに、すでに漂っている感じもするのだけど、その時、順次、より素朴な技術で代替していくことは可能なのだろうか?
昔、ザ・ディ・アフター というテレビ番組か何かがあった。それをもじってザ・ディ・ビフォアー と書いてみる。そういうコンテンツも日本ではすでにあるのだが、公共財と考え、ほかにいい表現がないので使ってみる。
その日の後、であれば、いかなる権力といえどもできないことでも、その日の前であれば、個人でもできること、というのは意外とたくさんあるのではないだろうか?
非常に現実感のわかない大きな話なのだけど、何か決定的なイベントが起こり、その時を境にして、前後で世界が変わる、そういう敷居が未来に何十にも張られているのではないだろうか?
よくよく目を凝らしてみれば、派手なテクノロジーが「昨日できなかったことを今日はできるようにしている」現状がある。
その一方で、「昨日はできたけど今日はもうできない」ような伝統的なやり方のほうも目立たないだけで結構多いのかもしれない。
個人的には古代レベルの鍛冶の技術とか、鍛冶に使う道具をより素朴な方法でつくる技術とか、系統保存するといざというときに役に立つような気がする。
アーミッシュほどの厳格さはなくても、世界中つながってしまった文明のブレーカーが落ちてしまったときに、再起動できるような感じで、社会の傍らに、ある程度自立した共同体のような何かがあるといいのかもしれないけれど。
物質的、経済的なレベルでの自立が難しいとするのなら、文化的な意味での自立をまずは確立して、ローカルな知恵をつかいこなしながら、できることを増やしていく、ような感じにもっていければいいのにと思う。
まとまらない話でした。
昔、ザ・ディ・アフター というテレビ番組か何かがあった。それをもじってザ・ディ・ビフォアー と書いてみる。そういうコンテンツも日本ではすでにあるのだが、公共財と考え、ほかにいい表現がないので使ってみる。
その日の後、であれば、いかなる権力といえどもできないことでも、その日の前であれば、個人でもできること、というのは意外とたくさんあるのではないだろうか?
非常に現実感のわかない大きな話なのだけど、何か決定的なイベントが起こり、その時を境にして、前後で世界が変わる、そういう敷居が未来に何十にも張られているのではないだろうか?
よくよく目を凝らしてみれば、派手なテクノロジーが「昨日できなかったことを今日はできるようにしている」現状がある。
その一方で、「昨日はできたけど今日はもうできない」ような伝統的なやり方のほうも目立たないだけで結構多いのかもしれない。
個人的には古代レベルの鍛冶の技術とか、鍛冶に使う道具をより素朴な方法でつくる技術とか、系統保存するといざというときに役に立つような気がする。
アーミッシュほどの厳格さはなくても、世界中つながってしまった文明のブレーカーが落ちてしまったときに、再起動できるような感じで、社会の傍らに、ある程度自立した共同体のような何かがあるといいのかもしれないけれど。
物質的、経済的なレベルでの自立が難しいとするのなら、文化的な意味での自立をまずは確立して、ローカルな知恵をつかいこなしながら、できることを増やしていく、ような感じにもっていければいいのにと思う。
まとまらない話でした。
2015年4月14日火曜日
他人がわからない。
いつものようにカラオケ文章をさえずってみる。
自分が汗して見つけたことばではなく、
他人が見つけたことばのつぎはぎにすぎないのかもしれない。
やっぱり他人がわからない。
少なくとも、文章を書けば、しかもまとまった量、書きさえすれば、
ヒトは自分のことをわかってくれるというふうにはならないと思う。
むしろ、量を書けば書くほど、相手の労苦は多くなり、全体像も
結びにくくなる。そして、それほどまでに労苦を骨折ってまで
つきあう文章なのか?という疑問も自分の中から芽生えてしまう。
自分の生きた証である、自分の文章は何を伝えるか?
すごく厳しい見方をすると、マスメディアの影響が強すぎるかもしれない。
私はテレビとかはほとんど見ないから、どこかで読んだ出版書やネット
で漁った情報ということになる。
それらを器用に組み合わせて、「自分の」文章を作っているのかも
しれない。
一次情報では少なくともないように見える。
でも、自分のココロの中で何か、新しいと信じるものを見、
それを既存の言葉をレンガやタイルとして組み合わせて
構築しているとするならば、それはそれで、ココロの風景を
表現しているということになるのではないか?
私はカネがないから、旅行もほとんどすることなく、
代わりに旅行記を読み、想像上の旅行をする。
そんな感じで、間接情報にもっぱら頼りながら、
想像をめぐらしながら、いろいろ読んでいるはずである。
それが、他人の文章になると、とんと使えない。
相手の世界のイメージがつかめないのだ。
相手の背景とする世界がつかめない。
安易に自分のささやかな体験で類推するのはよくないことだ。
山には違いないが、違う山なのなら、違う風景が見えているはずだ。
山は山だとして、自分の見えた、風景を相手の文章に押し付けるのは
よくない。
と、まじめに考え始めると、読めていたと幻想していたものまで
なにがなにやら読めなくなってきてしまう。
漢字も眺めすぎるとゲシュタルトを失い、部首にわかれ、要素に
わかれて、わからなくなってしまうがごとく。
と、感情をたぶんにこめながら、書いてみたが、たぶん、伝わるまい。
過不足なく書いているわけではないのだから。
でも、今まで、たぶん、伝わるだろうと思いながら書いていたふしがある。
他人の文章、読み込む立場になって、あらためて気づいたことである。
P・S 理想としては相手の気持ちがわかるところまで行きたいのである。
自分が汗して見つけたことばではなく、
他人が見つけたことばのつぎはぎにすぎないのかもしれない。
やっぱり他人がわからない。
少なくとも、文章を書けば、しかもまとまった量、書きさえすれば、
ヒトは自分のことをわかってくれるというふうにはならないと思う。
むしろ、量を書けば書くほど、相手の労苦は多くなり、全体像も
結びにくくなる。そして、それほどまでに労苦を骨折ってまで
つきあう文章なのか?という疑問も自分の中から芽生えてしまう。
自分の生きた証である、自分の文章は何を伝えるか?
すごく厳しい見方をすると、マスメディアの影響が強すぎるかもしれない。
私はテレビとかはほとんど見ないから、どこかで読んだ出版書やネット
で漁った情報ということになる。
それらを器用に組み合わせて、「自分の」文章を作っているのかも
しれない。
一次情報では少なくともないように見える。
でも、自分のココロの中で何か、新しいと信じるものを見、
それを既存の言葉をレンガやタイルとして組み合わせて
構築しているとするならば、それはそれで、ココロの風景を
表現しているということになるのではないか?
私はカネがないから、旅行もほとんどすることなく、
代わりに旅行記を読み、想像上の旅行をする。
そんな感じで、間接情報にもっぱら頼りながら、
想像をめぐらしながら、いろいろ読んでいるはずである。
それが、他人の文章になると、とんと使えない。
相手の世界のイメージがつかめないのだ。
相手の背景とする世界がつかめない。
安易に自分のささやかな体験で類推するのはよくないことだ。
山には違いないが、違う山なのなら、違う風景が見えているはずだ。
山は山だとして、自分の見えた、風景を相手の文章に押し付けるのは
よくない。
と、まじめに考え始めると、読めていたと幻想していたものまで
なにがなにやら読めなくなってきてしまう。
漢字も眺めすぎるとゲシュタルトを失い、部首にわかれ、要素に
わかれて、わからなくなってしまうがごとく。
と、感情をたぶんにこめながら、書いてみたが、たぶん、伝わるまい。
過不足なく書いているわけではないのだから。
でも、今まで、たぶん、伝わるだろうと思いながら書いていたふしがある。
他人の文章、読み込む立場になって、あらためて気づいたことである。
P・S 理想としては相手の気持ちがわかるところまで行きたいのである。
2015年3月21日土曜日
2015年3月14日土曜日
睡眠てんかんも併発かも、、、
なにかで、ちらっと、見た記憶があって、しかも気になる項目がありました。
睡眠てんかんです。外側からみた症状しかなくて、内側からの記述がありませんでした。
入眠時、入眠時幻覚が起こる帯域で、「電気びりびり」状態になるのです。よくないのは夢に巻き込まれていて、半分、無意識状態で、半分、自分の意思で、「電気びりびり」状態の中に入っていこうとするのです。うまい比喩かどうかわかりませんが、「輪ゴムを指にぐるぐる巻いて、巻いていくとともに指が締め付けられてきつくなっていく」ような感じです。輪ゴムを巻いた感じになるのはもちろん、意識水準が下がった状態下の意識です。がんばってしまうのか、その感覚が面白いのかよくわかりません。
なんとなくは気になっていたのですが、精神症状はいろいろあるので気づくのが遅れていました。結構古くからの症状です。
そういえば、リウマチの痛みにまぎれて、がんの初期症状とかみのがしそうだなと時々おもいます。ま、そのときはそういう運命なのでしょう。
頭は白髪がほとんどで、記憶障害があります。もしかしたら、こっちから来ていたのかもしれません。月曜日には主治医に相談します。今も服用しているテグレトールの増量になるかもしれませんが、そうなれば、午後二時まで異様な眠気が出てきて、仕事にならない、という生活がまた再開するかもしれません。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12113305982
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8150750.html
http://yuryo-blog.blogspot.jp/p/blog-page_12.html
統合失調症と病名は現在変更されていますが、実質、非定型精神病に近いとすると、教科書通り、統合失調症、双極性障害、てんかん、と役者はそろったことになります。
P.S 2016.1.1
書きそびれたのですが、精神科の主治医に症状が起こってすぐのころに相談したところ、少なくとも睡眠てんかんではない、という話でした。症状の内容を聞いての話です。
たまに、この種の発作は睡眠中におきます。主観的な判断ですが、あまりいい刺激ではないのではないかと思うことがあります。そして、たいていの精神症状は言葉で説明しても、それが何なのかはっきりしたことはわかりません。
睡眠てんかんです。外側からみた症状しかなくて、内側からの記述がありませんでした。
入眠時、入眠時幻覚が起こる帯域で、「電気びりびり」状態になるのです。よくないのは夢に巻き込まれていて、半分、無意識状態で、半分、自分の意思で、「電気びりびり」状態の中に入っていこうとするのです。うまい比喩かどうかわかりませんが、「輪ゴムを指にぐるぐる巻いて、巻いていくとともに指が締め付けられてきつくなっていく」ような感じです。輪ゴムを巻いた感じになるのはもちろん、意識水準が下がった状態下の意識です。がんばってしまうのか、その感覚が面白いのかよくわかりません。
なんとなくは気になっていたのですが、精神症状はいろいろあるので気づくのが遅れていました。結構古くからの症状です。
そういえば、リウマチの痛みにまぎれて、がんの初期症状とかみのがしそうだなと時々おもいます。ま、そのときはそういう運命なのでしょう。
頭は白髪がほとんどで、記憶障害があります。もしかしたら、こっちから来ていたのかもしれません。月曜日には主治医に相談します。今も服用しているテグレトールの増量になるかもしれませんが、そうなれば、午後二時まで異様な眠気が出てきて、仕事にならない、という生活がまた再開するかもしれません。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12113305982
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8150750.html
http://yuryo-blog.blogspot.jp/p/blog-page_12.html
統合失調症と病名は現在変更されていますが、実質、非定型精神病に近いとすると、教科書通り、統合失調症、双極性障害、てんかん、と役者はそろったことになります。
P.S 2016.1.1
書きそびれたのですが、精神科の主治医に症状が起こってすぐのころに相談したところ、少なくとも睡眠てんかんではない、という話でした。症状の内容を聞いての話です。
たまに、この種の発作は睡眠中におきます。主観的な判断ですが、あまりいい刺激ではないのではないかと思うことがあります。そして、たいていの精神症状は言葉で説明しても、それが何なのかはっきりしたことはわかりません。
2015年1月1日木曜日
アタマの中だけで考えてみただけのこと
あけましておめでとうございます。
雑誌投稿のネタを探すために過去ログあさってみたのですが、このごに及んで、やっとネタとしては使えないということが分かったのです。外目からは十分わかりすぎるほどわかるとは思うのですが。
要するにアタマで考えてみただけのことがあまりにも多すぎるのです。
考えること、これは私の習い性なので、もうどうにもこうにもしようのないことかもしれません。
雑誌投稿のネタを探すために過去ログあさってみたのですが、このごに及んで、やっとネタとしては使えないということが分かったのです。外目からは十分わかりすぎるほどわかるとは思うのですが。
要するにアタマで考えてみただけのことがあまりにも多すぎるのです。
考えること、これは私の習い性なので、もうどうにもこうにもしようのないことかもしれません。
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