『夢分析入門』鑪幹八郎(たたらみきはちろう)著
を借り出した。
鑪先生の講義は総合講義のとき、一度だけ大講義室で受講した。
そういう先生がいることさえも、広島大学当時知らなかった。
鑪先生は寅さんの大ファンらしく、テープレコーダー持ち込みで、講義で、「男はつらいよ」のテーマソングを流し、臨床心理の話などは一切なく、90分、ひたすら寅さんへの思いを語っていたような記憶がある。それまで、寅さんとか、無理やり連れて行かれる正月映画みたいな負のイメージしか私は持っていなかったのでものすごい印象を講義から受けた。先生が何をしゃべったのか記憶に言葉の断片さえも残っていないけど、とにかく、寅さんという存在は、鑪先生から見るとすごい存在なのである、という圧倒的印象だった。
時は移り、鹿児島へ帰ってきて、寅さん映画を全巻、ビデオショップで順番に借りた。タンカバイの口調や、寅さんの語りに引き込まれた。
『「芸能と差別」の深層―三国連太郎・沖浦和光対談』でまた別の寅さんというか渥美清像を見るのだが、それは後年で別の話である。すっかり脱線してしまったので戻る。
鑪先生の本そのものはあまり読んだことがなかった。だから、ちょっとちら読みすることにした。
『夢分析入門』をめくっていくと、「植物学研究所の夢」という話が出てきた。フロイトの著作集からの引用もあった。孫引きにはなるが、気になる人は著作集を当たってほしい。
「私はある植物に関する研究論文を著した。その本は、私の眼前にある。私は丁度、挿入された彩色のある図版のところをめくる。どの一冊にも、植物標本館からもってきたような、その植物の乾燥標本が綴り込まれている。」(著作集第二巻、一四四頁)
『夢分析入門』では115P
以下も『夢分析入門』からの引用、
次々にあらわれる連想をまとめたのが図7である。
「花の話をした婦人」→「私の妻の好きな花(シクラメン)、(ここでは、花の好きな奥さんに花をちっとも贈らないフロイト自身の反省も記述されていて興味深い)、など。
Epimbiメモ: 上の夢の話は初見であると最初思ったが「シクラメン」の話は何か新書で読み、それが記憶のどこかに残っているくらいの影響は受けたことになる。
たぶん、再発の後の時期であり、かつ植物標本室で働く前だろう。
『シナプスの笑い Vol.21』の「ラベルがべたべた貼られた標本」 というタイトルで書いた私の文章があるのだが、そこではシクラメンの話も影響をほとんど与えなかったと思いうし、フロイトの著作の中に植物標本館とか植物の乾燥標本というキーワードが出てくることは、知らなかったと断言できる。でも、一方で、「狼男の言語標本」というキーワードをたぶん、知っており、『樹をみつめて』の中の植物界の話は読んでいたと思う。そして、『徴候・記憶・外傷』の「世界における索引と徴候」の冒頭のキンモクセイの香りの話は鹿児島大学総合研究博物館、植物標本室で植物標本のラベル情報のデータベース入力をしていた頃、よく鹿大図書館で読んでいたような気がする。ラグーナ出版に入る前である。
この文章全体を通して、何が主張したいのだろうか? フロイトの「植物学研究所の夢」と私や私の文章をこじつけ的に結びつけたり、逆に、「植物学研究所の夢」を背景に文章を書いたということを否定しようとしているのだろうか。その解釈は私が書いても、主張はできても、立証できない。読み手にゆだねられる。恩師の「人形芝居のような人生はないよ」という言葉と、仮想世界でアバターを操っていて、画像を作っていることなど、あまりにもご都合主義的に出来ているところが私のライフストーリー中には散見できる、第三者がいろいろ詮索して、裏を取ろうと試みたとき、明らかな否定の証拠も挙がらなければ、明らかな肯定の証拠も挙がらない、という感じになると思われる。書いてしまっては全体の信頼度を下げてしまう恐れがあって、私にとっては面白いエピソードではあっても、書くことを控えていることも少しある。
かなりの労力を使って記録を綴っているので、全体の精度、信頼度が下がること自体は本人にとっても脅威である、ということだけは読者の方々の心のどこかに留めてほしい。記録自体が不整合などによって裏切ることもあるかもしれないが、そのときは多大な労苦が無に帰するわけである。