最近では内省とか自己実験みたいな手段で研究される方もいらっしゃるようですね。私もそういう欲望はあるにはあるのです。ただ、やり方を知らない。
やり方を知らないにしても、素材を提供するくらいのことはできると思うのです。
過去の自分は時間が経つと自分ではあっても、現在の自分からは遠くなります。過去を眺めることによってある程度は客観的に自分を把握することができます。
一方で私はある程度の観察者です。記録したり公表したりとかはプライバシーなのでしませんが、メモくらいはときにしますが、親しい身近な人でも結構突き放して眺めるときがあります。テレビはあまり見ませんが、人間観察のために見ることもあります。youtubeとかは繰り返し観察できるいい媒体だと思います。文字による記録の観察をするときもあります。
といっても、単に眺めているだけです。詳細な分析とか分析に基づいた記録とかはしません。また例によってその方法も知りません。
なんのために?
アサガオの観察から始まって、小学校から高校にかけて、小規模ではありますが、子供レベルのランの栽培をしました。刻々と植物の姿は移り変わっていきます。
青年期の多感な時期にアジア周遊しました。肌でもって1980年代後半のアジアを体験しました。短いのであれば、デリー一泊とかカトマンドゥ一泊とかそんなのもありますが、街の中に実際に行ってみて、その全体的な感じを受け止めるというのも何かいいことがあるかもしれません。
話はずれ気味ですが、経験値を得たいという気持ちがあります。経験値という観念がどうも頭の中に刷り込まれているようです。そして、経験値を得たうえで何らかのものを外部に出力したいという欲望があります。どうせ脳はいつかは消滅します。記録も儚いものですが、残して発信すれば、どこか必要な人に届くかもしれません。そんな人がいるかどうかはかなり疑わしいですが、ともかくそういう儚い希望でもないと記録なんてできません。別に自分の存在を半永久化したいという大それた希望をもっているわけでもありません。しばらく後の自分が読み返せるというそれだけで今のところ十分です。だから必ずしも、私のことをよく知らない人に向けてわかりやすいように書かれているというところはうまくできていないかもしれません。読まれる方がいたらごめんなさい。
要するに独り言みたいなものかもしれませんね。
ただ、問題は内面が表現されている部分もあるかもしれないと思うことです。ショールームみたいな内面であって、しかも田舎のショールームであって見せ方もあまりうまくないと思います。でもその分いろいろよくみれば結構リアリティのあることも垣間見れると思います。少なくともこう見せたいという意図のもとというよりは今思いついたままにあまり無検閲に出しているような感じです。
内省という作業によって内面が発見される、あるいは構築されるという側面はあると思います。個人的にこれはひと財産だと思います。日本語の中に富があるとするとそういう富が本来なのではないかと思います。ある種の懐かしさを漂わせた富。でも、見えないにも関わらず、ひとたび失われたら復元するのもむずかしく、復元したと思ってもイミテーションにしかなりえないような富。そういう富のあり方もあるのではないかと思います。貧乏人の富ではあってでもですね。自分で書いたもののあまり説得力はないようですね。読まれた方も納得されないと思います。
あるいは今の人のある部分の欲望はそういう方面に向かいつつあるのではと読む人もいると思います。選択して購入するという方法では表現できない宝飾品としての心の富。書いたそばから書きますが、借り物競争みたいなもので、たぶんまだ血肉化されていないもの、消化されていないものを並べ立てているにすぎないという疑いを自分自身に対して持っています。
最近の私は消化できもしないものを消化できない速さで読みすぎています。胃にもたれるような感じで頭が締め付けられているような感覚があります。かといって記憶に自信がないために読んだものを取り出せず、どこかに痕跡はあるにせよ、自分のものにならないのです。
遠い誰かに対するとりとめのないメッセージみたいな感じにして書きました。たぶん、あなたのことを私が知る機会はないと思います。返信とかコメントとか別にいらないです。そういう関係がいいのでしょう。何か考える素材にでもなれば幸いです。何を考える素材かは自分でもよくわからないのですが。今日もお元気で。