はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2013年7月28日日曜日

独創的なルートを選択すれば競合者はほぼいない

”基礎になるアイデア”というキーフレーズ周辺を
うろうろしてたらこんなページにたどりつきました。

http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20090403/168333/

アルゴリズムなど基礎になるアイデアは特許になりません。
アイデアには価値がないとさえ言い出す人もいます。
大いなる勘違いだと思います。アイデアは人類の共通財産と
呼べるようなもので貴重すぎるので独占できないのです。

ひとつ抜けてました。そのページにたどり着く前に
至ったページがこれです。

http://www.outlogic.jp/modules/news/article.php?storyid=189

ウォルト・ディズニーでは、ウォルト・ディズニー・イマジニア社で想像力を磨いている。企業の活力維持に責任を持ち、利益責任を持たないシンクタンクであるこの会社の「唯一の仕事は、基礎となるアイデアを出し、それらのアイデアを膨らませていくことだ」。

と引用にはあります。

要するにこの世で一番重要なことは「唯一の仕事は、基礎となるアイデアを出し、それらのアイデアを膨らませていくことだ」ということなのらしいのです。

で、ウォルト・ディズニー・イマジニアという会社に興味をもち検索して
前のページを釣り上げました。

この文章の中で気になる言葉は

「何よりも大切なことはプロセスだからね」という一文でした。

プロセスという言葉からそこへ至るプロセス、そこへ至るルートというフレーズを
思いつきました。

独創的なルートというフレーズを思いつき、
http://yuuji1421.at.webry.info/201211/article_3.html

このページを釣り上げました。

最後の文章が面白かったです

>そこから登山道を往復するのが普通ですが
こちらからの方が面白いと思います。(ただ尾根取付標高は170m弱)
そして静か、まず人に会いません。

P・S ルートデザインというキーワードを思いつき
検索したら

http://aqsh.net/supporter/promotion.html

会社の名前に使われていました。
企業コンセプトは 根のほうのrootでした。

私のイメージしてたのはrouteおしい。

自分なりに考えること

「ここ」は情報や知識の提供というよりも、自分なりに
考えたり感じたりしたことの記録の場のように思います。

といっても、それは独創的だったり、創造的だったり
するとは限りません。

なかなか借り物のイメージをコラージュするカラオケ的
な文章のレベルを越えられないのです。

見かけ上オリジナルな感じにもっていくための手段は
二つあると思います。構成する部品の自作と考える
方法の自作です。

考える手がかりといってもいいかもしれません。
こだわりのあるキーワードや固有フレーズを案出し
それを道具に掘って行くという方法です。

自分なりにということは自分の身体や境遇その他
から出てくる自分の限界というものを引き受けると
いうことです。そして、その限られたものに面白さ
を逆に見つけていくということです。

話がどうしても抽象的になってしまうので、ちょっと
例題を考えて見ましょう。

evernoteはスクラップブックとして、使い、検索して
たどりついた情報をコピペしています。

「妙に純粋で物悲しい感じが、ひしひしと伝わってくる」
「しかし、たとえどんなに美しくとも造花はしょせん造花である」
「情報のかけらを見つけ、それを信じるか信じないかを決めるのは」
「競争の中で実現される欲望である」

これらは釣り上げた文章の中に書かれてあった名文句です。
それぞれ検索すると元の文章が出てくると思います。
そしてこれらの文章を釣り上げるためのえさとなるフレーズもあります。
釣り上げられた文章の中に次の文章を釣り上げるためのえさに相当
するフレーズを見つけるときもあります。

本でみつけた面白いフレーズを早速使うときもあります。
前々回の文章で使った
「欲の皮がおちてくると」の欲の皮が落ちるという表現は
『統合失調症のひろば』の中に出てきたフレーズです。
でも自分に根をもっていないフレーズを使うのは軽薄な
ような気もするので、いったん寝かせます。

evernoteに保存した文章はたまにぺらぺらめくって反芻します。
私にとっての資料集なのです。

今の世の中、外部記憶できるので記憶するのはインデックス情報
だけでいいという人もいます。でも、私はその考え方をとりません。
evernoteに収められたものは折をみて何度も反芻し、
自分の深層意識に埋め込もうとします。暗誦するまで付き合うと
いうものはあまりないのですが、味読でもするように何度も何度も
味わうほうです。速読派ではありません。

evernoteはアイデアの冷蔵庫ではありません。アイデアの冷蔵庫は
頭の中にあります。ありあわせの材料で一席つくることが好きなの
です。もちろん確認のために資料参照することはありますけどね。

ここまでのアイデアの作り方の方法はこれまた自作したもの
ではありません。『アイデアのつくり方』という薄い本を参考にして
います。

こういう風に書いてみると、アイデアの部品を自作する
とかアイデア案出の方法を自作するとか偉そうなことを書きました
がこれは達成できていることというよりは理想であって、そこまで
たどり着いていません。せいぜい既成のものに自分なりの味付け
やら肉付けをして使っているというだけなのかもしれません。

自分なりに考えるというのは既成の道具や材料を使って
自分なりに一席つくってみるということなのでしょう。
いわば手料理みたいなものです。料理屋の料理風でなく、
洗練されていないところが家庭料理たるところなのでしょうか。

地方の草の根の知識人でありたいという欲望というか目標を
もったとき、それで十分なのかもしれません。

文房具屋で購入した温度計であれ、ものさしであれ、それは
それなりに使えます。使用範囲を守りさえすれば十分実用に
耐えるのです。



2013年7月27日土曜日

『アルゴノオト』県図書でちら読み

長らく読みたかった『アルゴノオト』井亀あおい著 何のことは
ない家から歩いて15分の県立図書館の書庫にあった。
一方『類推の山』のほうはジュンク堂にはなかった。こっちの
ほうは読むのはまたの機会にしよう。

で、例によってちら読み状態の『アルゴノオト』の感想。
自殺するしばらく前のところの文章読むにつけ、今まで気づか
なかったけど、私の幸福は錯乱状態を経験したことだったの
かもしれないと思った。

たしかにそれ以前より楽に生きられるようになった部分もある
のだった。意外でしょ。

それまでは幼児期からの矛盾みたいなものをずっと感じていて、
自分の心身を「欠陥住宅」だと思っていた。そういった心身を何か
押し付けられたものと感じていた。

積もり積もった矛盾が爆発したものが錯乱だったといえなくもない。
そこで一回リセットされたから楽になった感じがしたのだとも言える。

ただし、そこで決壊した精神の切れ目はたぶん一生残り、ひとたび
出来上がった断層は恒久的に機能するのとどこか似ているような
宿命を背負うことになる。

私の目から見ると、『アルゴノオト』にもまた地殻の歪みみたいなものを
感じる。

自分の心身に積もり積もった地殻の歪みみたいなものを狂うことで
解放することもできず、自裁してしまったという風に映ってしまうのだ。

私は非現実、妄想の世界から短い時間でこちら側に帰ってきた。
どうせ、また仮に再発したにせよ、同じようなモチーフで繰り返すだけ
なので再発する必要性をもう感じない。非現実のテーマは表現の上
で追えばいいと思うだけだ。

思えば『アルゴノオト』自体が月並みな言い方ではあるけど、一種の
昇華の産物といえる。「紙は人間よりも辛抱強い」とした『アンネの日記』
とよく似ている。

金羊毛を探す魂の探検航海。北極探検の航海者がしばしば探検の途上
で命を落としたように、彼女も道半ばで逝ってしまった。

それでも北極探検の航海者が極地にあるさまざまな島の発見をしたように、
彼女も金羊毛に至る手がかりを多数残してくれているに違いない。

「金羊毛」と象徴的に書かれたものは一体何だったのだろう。『類推の山』と
書かれたものの別の表現なのだろうか?文芸上の「賢者の石」であって、
彼女にとって日記を書くというのは言葉の錬金術の上での「作業」だったのか。

翻って私を見ると、彼女の至った場所からはるかに隔たった領域をうろうろ
しているに過ぎないように見える。そして彼女のようには純粋な気持ちでは
ものを書いていないような感じもするのだ。技術、才能それ以前の話である。

今の世の中にあって、彼女のいうところの金羊毛を探す旅の途上にある人は
いるのだろうか?

情報は多くなった、インターネットで探せば手がかりもみつかる。現に
『アルゴノオト』の存在自体もインターネットがなければ、一生知らなかったこと
だろう。手がかりと引き換えに何を失ったのだろう。現代のヒマラヤ登山で
失われたものと似ているのかもしれない。大衆化されたことと引き換えにして
何か大切なものを失った。私の吐き出すプラスチックな言葉はヒマラヤに
残していくゴミみたいなものだ。私は『アルゴノオト』の周囲にゴミを置いて行って
いるだけかもしれない。彼女の残した言葉とどんなに質が違うのだろう。

魂の抜けたプラスチックな言葉をこねくり回して真実に近づこうと悪あがき
している。「ここ」はアルゴ船のキャビンでも甲板でも船倉でもなく、浪間漂う
ママレモンの中かもしれない。漂海ゴミのひとかけらに過ぎない。

それでも言葉を吐き出すことをやめられない。卑金属を貴金属に変性させよう
とする欲望のように、虚しい言葉をこねくり回す。自分なりに自分にとっての
光り輝く何かへ至る手がかりをひとつでも多く見つけ出したいだけである。

光り輝く何か、それは自分ごとき者が憧れても、欲望しても詮無き何かである。
才能なきものでも時にはセレンディピティの女神は気まぐれなほほえみを送って
くれるかもしれない。そういう甘い望みをもつこと自体が才能なき者の才能なき
者たるところなのかもしれない。錬金術者の多くが単に人生を棒に振ったように
私も大切な時間を浪費しているだけなのかもしれない。いいたいことはそれだけか?
時間泥棒もそのくらいにしよう。彼女の航海日誌を読み込めば何か大切なものが
見つかるかもしれないが、私のログを目を皿のようにして眺めても単なる徒労だ。
ここまで読んだ奇特な方には感謝しなければならないけど、時間を無駄に使わせて
しまったような感じもして申し訳ないような気がする。饒舌はやめにして、続きは
ひとりでやろう。

欲望のあり方が進化すること そのモデル

欲望の制御、宗教の古くからのテーマだ。
「人はパンのみにて生きるにあらず」
有名な聖書の文句だけど、
欲望と環境負荷の関係を考えると
現代に響くことばだと思う。

しかし、欲望の制御というテーマを巡って
人類は何度も希望を裏切られてきた。
動物としての身体をもつ業深き人類。

話変わって、「さとり世代」という若者の
ことが言われ始めてしばらくたつ。

消費のほうにあまり向かわないらしい。
そして、むしろ中にはコンテンツ生産の
ほうに情熱を傾ける人々もいる。

デジタルコンテンツであればかさばらない。
構想を練る時間を多くすれば、電力もあまり
つかわず、複雑な機械を使うことにまつわる
資源の浪費も抑えられる。

今の人はどんなときに幸福を感じるのだろう?
気のおけない友達と有意義な会話をしている
時間という人は案外多いのかもしれない。

会話で済むのなら非常にエコだ。
料理や飲み物さえ不要であるときも多い。
ちょっとした公園のベンチでもあれば十分なのだ。

人々の欲の皮が落ちてくると経済やら税収の面
では困るのかもしれない。

ただ文明の残り時間は長くなるように思う。
その残り時間を使って何としてでも成し遂げたい
人類としての事業は何なのだろう。

万に一つでも、沈みゆくタイタニック号の上での
陣地合戦みたいな現状から離れ、違うストーリー
を人類が描くことができたらいいのになあと願わず
にはいられない。

物質的な財から象徴的な財へというのは一つの
ポイントかもしれない。

ゲームのルールづくりは密かにインターネットの
舞台裏で進んでいるかもしれず、シリアスゲーム
やTRPGなどの形で日常世界にその一部がもれ
出しているのかもしれない。

最終的にはルールづくりの主体は個人になるのだ。
ブログを書いたりするのもそういった一人遊びの
実践のような気がする。

P.S たぶん雑誌その他マスメディアには欲望肯定、
物質主義的な生活のモデル像と違うモデル像が潜在
的には待たれているのだろうと思う。現代社会における
隠遁者、ニート的な人物の中にモデルはちらほらとみつ
かるに違いない。方丈記、わびさびその他モデルになり
そうな事例はこの国には結構多い。

P.S2 今回も例によって借り物競争、カラオケ的な文章
のレベルを越えられなかった、でもほんの少しではある
けど、自前で考えていることも含まれている。カラオケ的
な文章ではあるけど、そういう風には考えているという
意味では書いた意味があると思う。そこからオリジナルな
発想を展開していくためのベースキャンプみたいな扱い
である。

文章のカラオケ化というテーマでむかしこんな文章を
書きました。http://epimbi-madrigal.blogspot.jp/2012/04/blog-post_8228.html
一方、文化のカラオケ化というキーワード
では私の文章なんぞよりもっと質の高い文章がみつか
ります。http://www.suntory.co.jp/sfnd/chiikibunka/kangaeru_k03.html

2013年7月21日日曜日

この世界について考えたすべてのこと

この世界について真面目に考え始めると、頭の中の
百科事典を一項目づつ書いて埋めていくという作業
になりかねない。

それはそれで一つの試みとしては面白いかもしれない
が、それは難事業だし、書いている途中でどんどん
世界観は変わっていくだろう。

そこで心の中のスナップ写真のように、あれこれ思い
ついたことを書いていくということになる。

そのことについて、その時期に書いたということは
本人にも気づいていないだけで何か意味があること
なのである。ちょうどそれは個人にとっての検索事項
の歴史にきっと秩序というものがあるように。

そのことを主題として心の中で結晶化したという記録
になるのかもしれない。それは読み手に解釈される
ことである。そして、その読み手とは時間がたったとき
の未来の自分であるに違いない。

何が形象化され、何が形象化されないのかは民族の
歴史を知るための手がかりにもなる。

たとえば、古事記に出てくる動植物のリストと万葉集
に出てくる動植物のリストの違い。

そして、それらのテクストと聖書など外国の初期の
テクストとの比較。

日本は動植物の名前が出てくるほうらしい。でも、
それも中国の文化から学んだ結果ということらしい。

かつて国としてテクストが編纂されてきたような営み
が今は団体レベルだったり、個人レベルで営まれている
ような気がする。ヨーロッパで文書館みたいなのが
できてきたように、今後は町内だったり、自分のところ
のマンションだったり、そういうローカルなレベルでの
記憶の文書化が進むのかもしれない。

市町村誌というのは図書館の郷土資料コーナーで
読むことができるけれど、さらに一階層ミクロなレベル
で作られるようになるのかもしれない。

いわばそのレベルにおけるDNAみたいなものなので
ある。その文書を手がかりにして未来を考えたりする
のだ。

自分たちがどこからきて、今どこにいて、これからどこ
にいくのか?それはログをつけてみないとわからない。
自分なりに始めた航海日誌なのである。

その形式は決して成熟されたものではない。そして、
だからこそ面白いのでもある。

そこには文字という道具に目覚めた若々しさがあふれて
いる。文字によって記録を蓄積し、眺め、その反芻の中
から自分独自の文化的要素が抽出されてくる。

自分の頭の中のOSを作り出そうという試みなのかも
しれないし、近代的自我と呼ばれるものに遅まきながら
目覚め始めたということなのかもしれない。

植物誌がその地域の財産目録としての植物リストのように
内面を記述するという営みは頭の中の財産目録を数え
あげ、形として現しているということなのかもしれない。

自分の器の小ささを愛せること、もしくは許せること

人間の器の大きさって何によって決まるのだろうか?
肝の大きさみたいなものであれば、かなり遺伝子も
関与しているかもしれない。

「器量により」という言葉が好きだ。一昔前の、フジカラー
のCMの「それなりに」というやつである。

「それなりに」という言葉を言うのは樹木希林。器量よし
とはいえないけど存在感のある役者さん。

役者としては不利である器量よしではないという現実に
めげず、役者としての工夫を凝らした結果ではないか
と思う。

同じことは中身としての器量にも言えるのではないか?

以前、関連するテーマ書いているのでおさらいしてみよう。

http://epimbi-madrigal.blogspot.jp/2013/04/blog-post_5900.html

今、この文章の中で取り出したいキーワードは「めげない」
という言葉だ。

自分の人生、誰も責任とってはくれないということと関係している
と思う。

現実にはめげてしまう時期はあると思う。お風呂にいくのに
さえ、多大なエネルギーを必要とする大うつ状態の人に「めげるな」
というのは無理というものである。やりすごす時期なのかもしれない。

長いトンネルもいつかは抜けることを信じ続けることが大事なの
かもしれない。

「めげない」というキーワードが有効な意味を持っている時期の
人に伝えたい。

現実を与えられた上での自分なりの工夫って面白いのではない
だろうか?

みんな同じ姿になる必要はない。そんなのは面白くない。
他人の姿は他人の姿。まあ、私も鏡に映った自分の姿に
コンプレックスをもち、ときにはがっかりしてしまうけれども、
どんなにみっともない姿であっても、それが自分なので、
そこから始めよう。

恵まれない自分の器量というのは天が与えてくれた
自分へのハンデなのかもしれない。ひらきなおるべし。

ひらきなおった上で、怠惰にならず、昔の農民が田圃を
耕しつくしたように、自分という素材に鍬を入れるのだ。

外国の棚田を見ると時に感動してしまう。棚田というの
は平地の田圃からみると不利な条件である。でも、その
不利さを存在としての美しさに変えるのは人間の力だ。

自分に押し付けられた不利な条件。でも、引き受けてみる
ことでその不利な条件は面白い効果として現れるかも
しれない。変形した土地を与えられた設計家はときには
内心喜ぶのかもしれない。変形した土地という制約は
ときにはユニークな建築を生むこともある。

epiさん、そういいながらもあなたは恵まれているんだよ、
自分はないないづくしだ、という声も聞こえてきそうである。
どうしよう。そういう人はとりあえず、どこから手をつける
べきであろう。

私は基本的にそういう境遇のひとに自分の言葉が届けば
いいのになあと思いながら書いている。どんな人でも、そして
何歳からでも人生はチャレンジ可能なものなのだろうか?

その答えは私は実は知らない。スタートの時期が全然、
私とあなたとでは違うとさえ、ひとによりけりだけど、伝えない
といけないこともあるかもしれない。

そこでも「器量により」という言葉が利いてくると思う。
持ち物が貧しければ貧しいほどポケットの中身を探さなければ
ならない。心の財布の中にいくら入っているかは知らない。

神様は残酷だから大体不公平にお金を入れているような気
がする。そこをめげないで心の財布の中身を豊かにしなけれ
ばならない。そう、めげないで。

今日の文章、読んだ人のどのくらいの人に届くのだろうか?
届かないとすれば、それも私の器量だと思う。そこが私の
今の限界なのだ。個人も、地域も、国も、世界も、その時の
限界というものを持っている。それぞれ与えられた器量に悩み、
それと闘っているに違いない。

P.S 心の財布のところは聖書の「タラントのたとえ」のところ
を参考にしました。でも、1タラントというのは意外に大金なの
だそうです。会社が新入社員に生涯払う金額は3億円って
若いころに聞きました。意外と高いものだなあと思いました。

2013年7月19日金曜日

背伸び

私は自分を自分以上の存在に見せかけようとすることは
自分の中ではキライだけど、その割には背伸びをするこ
とが多い。そして、大体後で後悔する。

「自分を自分以上の存在に見せかけようとは思わない」
という言葉自体が一種の背伸びのような気がする。

背伸びの手段として、本を読む、言葉を少しでも磨こう
とする。でも、そんなことをすると経験と行動が後に置
いてけぼりにされてしまう。

経験と行動は後からついていくものだろうか?それとも
遊離してしまうのだろうか?

悪い意味での標語のように言葉だけが空回りしてしまう
のだろうか?

それでも、さしあたって、ほかに手段がなかったので、
もっぱら言葉の学習のほうに傾斜してしまった。

まあ、見るひとから見ればそれも笑止千万なのかも
しれないけれど。

大きな目でみると南九州の人間にとって言葉の学習
は大事だと思う。

以下引用


○しかし、表12のようにいまだに措置入院患者が極端に多い地域と少ない地域があり、鹿児島県、佐賀県では10年以上措置入院している患者がそれぞれ45%,38%もいる一方、東京都では3ヶ月未満の患者が76%で、10年以上入院している患者は4%に満たない。このように依然として運用基準が地域によって異なっている。
○ 医療観察法の施行後、措置入院の新規件数、地域間格差、救急適用、入院期間などがどう変わるのか。今後の分析が必要である。
ソース http://www.kansatuhou.net/10_shiryoshu/07_01_shiryou_seisin.html


その話と関係あるかどうかわからないけれど、

http://todo-ran.com/t/kiji/12001

この図をみてもらうと鹿児島県は全国でもパチンコが多い県みたいだ。


措置入院患者が多いということと、パチンコが多いということは
どこかで結びつくのだろうか?その解釈はみなさんにおまかせする。

ただ、私の中ではパチンコ屋と博物館は世界の対局にある存在
であって、鹿児島は俗に「文化果つるところ」と言われていること
を裏書きしているような気がする。

要するに余暇を建設的に消費する文化が育っていないという
ことになるのだ。

そしてそのことは究極的には言葉の問題に帰着するような気がする。

何か問題が起こったときの当事者並びに周囲の取扱いのまずさ
みたいなものも悪い影響を及ぼしているような気がする。
そういったものが統計的に措置入院患者の数などに現れてくるの
かもしれない。

私は普段ニュースは見ない人間なのだけど、普段は表面に現れ
ないその地域、時代の深層に関わる何かが事件という現象を
通して表面に現れると思っている。事件は表層であって、根は深い。
対処療法的な扱いはできるけど、体質を含めた根本的治療は
難しい、それは地域、時代の文化に関わっているからだ。

また話は飛んで、志布志事件というものを考えてもらう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E5%B8%83%E5%BF%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6

日本の周縁で起こった異常な事件。究極的にいえば、人の問題であり
言葉の文化の問題だと思う。

すぐにブーメランは私に帰ってきてしまう、言葉の文化などと書きながら
こんな文章を書いてしまうような輩である。

P・S この文章で書いた「文化」という言葉だけど、西欧文化的な
高級文化、もしくは低級文化といった意味合いと、文化人類学や
民俗学で出てくる「文化」という言葉が混じっているような気がして
よくない。

物事には光の面と影の面があると思う。クローンのように標準化
された言葉を誰もがしゃべるのはあんまりよくないと思う。どちら
かというと文化の多様性のほうを重んじることのほうが好きだ。
でも、多様性のほうにも影の面があると思う。何かが起こった時の
扱いに影の面が現れると思う。その点では私にまったくあてはまる。
問題は根深く、根本的な治療は難しい。でも、遠回りでもいいから
少しずつは改善していきたい。

P.S 病気も事件と似たようなところがあって、平穏期のときも
病気は隠れていて、根は深く、根本的な治療は難しいのでは
ないかとなんとなく思いました。平穏な時は何も感じなくても
夫婦喧嘩のときに相手の本質みたいなものが見えてくるのと
どこか相通じています。あるいは戦争を通して、その民族の
深層がくっきりしてくるような感じです。

それでも、明るく希望をもって生きたいです。ちなみに私は
鹿児島県民大好きです。