与えられた枠って何だろう?
江戸時代だったら身分制度みたいなものだ。
枠を受け入れて、枠の中で精進する生き方。
小さいといえば小さい生き方なのかもしれない
けれど、枠が外れて得たものばかりだったの
だろうか?
私の母は自分の決めた自分の器を越えた生き方
をしなかった。
洋裁店を経営し、自分の扱える金額の中でお金を
回し、店をやたらと大きくしようとしなかった。
むしろ、一時期は10人くらいいた縫い子さんを少し
ずつ減らし、長い間相棒の縫い子さんと二人で店
を回していた。
その一人にもやめてもらって、今は一人で店を
維持している。
大きな金額を動かしたからといって、大きなお金が
残るとは限らない。
むしろ、小さなお金をこつこつと貯めていったほうが
長くはかかるかもしれないけれど、堅実にお金はたまる
のかもしれない。
私は今働いていないヤクザなドラ息子だと思うのだけど、
私なりに母の生き方を観察している。
私に与えられた枠は精神病の履歴かもしれない。
その枠の中で小さく生きようとしている。
負けず嫌いだったので努力はそれなりにしたけども、
もともと学校時代もリーダーとしては育てられることも
なく、教室の隅のほうにいるようなタイプだった。
自分でそう認めることはできなかったけど、
もって生まれた気質的にも性格は弱かった。
そういうわけで、あまり無茶はせずに枠を生かす
ような感じで生きていこうと思う。
最初に書きかけた江戸時代のそれぞれの階層
の人々だけど、枠に縛られた人たちだったのだろうか。
商人層とか見ていると枠に縛られながらも
枠を超えてしまっている部分さえみえてくる。
米相場つくって、役人たちに対して実質的に
強い立場になってみたりなどである。
そういう皮肉な現象は金融業者になった
ユダヤ人たちにもみてとれる。
枠というものも見かけほど単純なものでもないような
気がしてくる。
結局、枠というのも道具なのだ。状況なりに上手に
使えばいいではないか。
枠を超えるも生かすもそれぞれ一つのあり方。
道具なのだから、自由に、できれば独創的に
使えばいい。
はじめての方へ
私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
2012年12月29日土曜日
2012年12月28日金曜日
与えられた局面をクリアできるかどうかって
人それぞれ、それぞれの道を巡りながら、それぞれの今
に至っているのだと強く思った日だった。
今日、耳を傾けた話を思い出しながら、与えられた場面、
場面で、その場面をクリアできるかどうかってどうやって
決まるのだろうと思った。
私は高校の頃にいじめを受けていたと何回か書いた。
でも、大したいじめではなかったと思う。
少なくともクラス全員のシカトなど受けたことはなかったし、
徹底的につぶされるというものでもなかった。
昔のいじめには「このへんでやめておこう」などの暗黙の
ルールみたいなものがあったのかもしれない。
私は負けず嫌いだったので、強弱の秩序みたいなもの
が受け入れられなったから、クラスを仕切ってた連中に
嫌われていたのかもしれない。
そのころNHKテレビでは人形劇三国志というものをやって
いて、長坂波の戦いのくだりをやっていた。
曹操に追われて劉備たちの一群が戦いながら逃げ延びる
という風な筋だったと思うのだけど、わたしはずっとこの
シーンを思い浮かべながら、高校の後半を送っていたよう
な気がする。
一方で私なりに戦い、一方でやり過ごす。そんなにカッコいい
姿でもなかったと思うのだけど、なんとか欠席らしい欠席も
せずに高校を卒業し、広島大学へ進学した。
とはいえ、これは私側からみた当時の記憶であって、病気の
ずいぶん前のことだったこともあって当時の記憶は非常に
曖昧だ。クラスを仕切ってた連中の側から見るとまた違う
リアリティもあるのだろうけど、まあ、なんとかかんとか
やり過ごせたのだから、いい経験だったのかもしれない。
その人のその時の力量で、あるいは若干運も絡んでくるの
かもしれないけれど、なんとかその場面を乗り越えて、一つ
の経験として積みあがる場合もあれば、その時のその人に
とって難しすぎて切り抜けられないという場合もあるだろう。
その力量とやらも、気質その他の遺伝的な要素ももちろん
絡み合いながら、その前の場面までで積み上げた経験など
の織物状になった何かに違いない。
ともあれそういうのは全部過去の話だ。過去の話をどう
ほじくっても現在は変わらない。
時にやる心の持ち方なのだけど、戦略ゲームのシナリオ
みたいな仕組みで、ちょうど今の状況の私を、この文章
読んでいる人がいるのなら今の状況のあなたを選んで
ゲームがスタートしたというような心の持ち方をすること
がある。
1945年1月の状況の日本軍の何々連隊で戦ってみるみ
たいな感じだ。いろんな状況ありうると思うのだけど、
その状況なりにベストではないにしても、ベターな戦い方
ってあるのではないかといつも思うのだ。まあ、あくまで
理屈で考えただけのお話ではあるけれど。
に至っているのだと強く思った日だった。
今日、耳を傾けた話を思い出しながら、与えられた場面、
場面で、その場面をクリアできるかどうかってどうやって
決まるのだろうと思った。
私は高校の頃にいじめを受けていたと何回か書いた。
でも、大したいじめではなかったと思う。
少なくともクラス全員のシカトなど受けたことはなかったし、
徹底的につぶされるというものでもなかった。
昔のいじめには「このへんでやめておこう」などの暗黙の
ルールみたいなものがあったのかもしれない。
私は負けず嫌いだったので、強弱の秩序みたいなもの
が受け入れられなったから、クラスを仕切ってた連中に
嫌われていたのかもしれない。
そのころNHKテレビでは人形劇三国志というものをやって
いて、長坂波の戦いのくだりをやっていた。
曹操に追われて劉備たちの一群が戦いながら逃げ延びる
という風な筋だったと思うのだけど、わたしはずっとこの
シーンを思い浮かべながら、高校の後半を送っていたよう
な気がする。
一方で私なりに戦い、一方でやり過ごす。そんなにカッコいい
姿でもなかったと思うのだけど、なんとか欠席らしい欠席も
せずに高校を卒業し、広島大学へ進学した。
とはいえ、これは私側からみた当時の記憶であって、病気の
ずいぶん前のことだったこともあって当時の記憶は非常に
曖昧だ。クラスを仕切ってた連中の側から見るとまた違う
リアリティもあるのだろうけど、まあ、なんとかかんとか
やり過ごせたのだから、いい経験だったのかもしれない。
その人のその時の力量で、あるいは若干運も絡んでくるの
かもしれないけれど、なんとかその場面を乗り越えて、一つ
の経験として積みあがる場合もあれば、その時のその人に
とって難しすぎて切り抜けられないという場合もあるだろう。
その力量とやらも、気質その他の遺伝的な要素ももちろん
絡み合いながら、その前の場面までで積み上げた経験など
の織物状になった何かに違いない。
ともあれそういうのは全部過去の話だ。過去の話をどう
ほじくっても現在は変わらない。
時にやる心の持ち方なのだけど、戦略ゲームのシナリオ
みたいな仕組みで、ちょうど今の状況の私を、この文章
読んでいる人がいるのなら今の状況のあなたを選んで
ゲームがスタートしたというような心の持ち方をすること
がある。
1945年1月の状況の日本軍の何々連隊で戦ってみるみ
たいな感じだ。いろんな状況ありうると思うのだけど、
その状況なりにベストではないにしても、ベターな戦い方
ってあるのではないかといつも思うのだ。まあ、あくまで
理屈で考えただけのお話ではあるけれど。
イマージュの花が咲くとき
今はそうでもないのだけど、夕べくらいまで
「イマージュの世界」とかナントカそんなこと
ばっかり考えていて、心配はしなかったけど
大丈夫かなあと内心思っていました。
視覚的なイメージがどんどん湧いてくるとか
まあ、そういう風な感じではなくて、単にあれ
これ想像を膨らましていただけなのですが。
『Cymbiノ青キ心』というブログタイトルの
Cymbiってシンビジウムという洋蘭の名を
略したものなのですが、『青い花』といえば
ノヴァーリスですよね。
あの話私も読みました。なんとなく心の底
に求めるものって青い花なのですね。
青いシンビジウムといえば青寒蘭という
ものがあるのですが、これは緑色の花弁
をした普通の寒蘭という意味です。
私がイメージしてるのはラピスの群青み
たいなイメージだったり、深い空の色みた
いな色だったりします。
遺伝子導入みたいな感じで今の技術を
使えば「青いバラ」のような感じの青い
シンビジウムも作れるのかもしれません
けど、私は見たくないです。
ノヴァーリスの『青い花』は後半は未完
なのですが、ある意味未完だからこその
完成なのかもしれないような気もするの
です。どんな感じで完結するのだろうと
いつまでも思いを巡らせ続けられますからね。
「イマージュの世界」とかナントカそんなこと
ばっかり考えていて、心配はしなかったけど
大丈夫かなあと内心思っていました。
視覚的なイメージがどんどん湧いてくるとか
まあ、そういう風な感じではなくて、単にあれ
これ想像を膨らましていただけなのですが。
『Cymbiノ青キ心』というブログタイトルの
Cymbiってシンビジウムという洋蘭の名を
略したものなのですが、『青い花』といえば
ノヴァーリスですよね。
あの話私も読みました。なんとなく心の底
に求めるものって青い花なのですね。
青いシンビジウムといえば青寒蘭という
ものがあるのですが、これは緑色の花弁
をした普通の寒蘭という意味です。
私がイメージしてるのはラピスの群青み
たいなイメージだったり、深い空の色みた
いな色だったりします。
遺伝子導入みたいな感じで今の技術を
使えば「青いバラ」のような感じの青い
シンビジウムも作れるのかもしれません
けど、私は見たくないです。
ノヴァーリスの『青い花』は後半は未完
なのですが、ある意味未完だからこその
完成なのかもしれないような気もするの
です。どんな感じで完結するのだろうと
いつまでも思いを巡らせ続けられますからね。
寝入りにはいる前のひととき
ベッドに入って寝付くまでがかなり長いほうです。
中には5分くらいで眠りに落ちる方もいらっしゃるそうですが
そういう方がうらやましいです。
考えがどんどん浮かんでくるのです。
いわゆる雑念というやつでしょうか。
さすがに笑いだすほどのものはないのですが、
考えに引き込まれることは多く、
1時間2時間すぐ経ってしまうのです。
毎晩大体こんな感じです。
文章書くときもそうなのですが、日によって着想が
思いつきやすい日、ぜんぜん思いつかない日まちまち
であって、豊漁不漁の差が大きいのですが、
寝入り前もたぶんそんな感じだと思います。
無意識の活動が活発な日、不活発な日とでもいうので
しょうかねぇ。
たしか病気が発病したときは
「眠るのがもったいない」という感じでした。
怖いですね。
「ああ、これは徹夜モードだ」とわかる日もあります。
目をつぶっている意識の視野がなんとなく明るくて
昼間の意識そのもので、こういうときはどんなに
がんばっても眠れません。
何も考えないようにする、頭をからっぽにする、
ゆっくり呼吸をする、あらゆる努力は何の意味も
もちません。
努力すればするほど、さらに意識は昼間のそれ
に近づいていきます。
こういう日、最後のたよりになるのが明け方に
なってきて、なんとなく疲れてきたときです。
知らない間に眠っているときも、
知らない間に夢を見ているときもあります。
夢を見るとほっとします。
昼間の意識のごみが掃除されたような感じがして。
寝不足のときの夢は不思議な夢が多いです。
中には5分くらいで眠りに落ちる方もいらっしゃるそうですが
そういう方がうらやましいです。
考えがどんどん浮かんでくるのです。
いわゆる雑念というやつでしょうか。
さすがに笑いだすほどのものはないのですが、
考えに引き込まれることは多く、
1時間2時間すぐ経ってしまうのです。
毎晩大体こんな感じです。
文章書くときもそうなのですが、日によって着想が
思いつきやすい日、ぜんぜん思いつかない日まちまち
であって、豊漁不漁の差が大きいのですが、
寝入り前もたぶんそんな感じだと思います。
無意識の活動が活発な日、不活発な日とでもいうので
しょうかねぇ。
たしか病気が発病したときは
「眠るのがもったいない」という感じでした。
怖いですね。
「ああ、これは徹夜モードだ」とわかる日もあります。
目をつぶっている意識の視野がなんとなく明るくて
昼間の意識そのもので、こういうときはどんなに
がんばっても眠れません。
何も考えないようにする、頭をからっぽにする、
ゆっくり呼吸をする、あらゆる努力は何の意味も
もちません。
努力すればするほど、さらに意識は昼間のそれ
に近づいていきます。
こういう日、最後のたよりになるのが明け方に
なってきて、なんとなく疲れてきたときです。
知らない間に眠っているときも、
知らない間に夢を見ているときもあります。
夢を見るとほっとします。
昼間の意識のごみが掃除されたような感じがして。
寝不足のときの夢は不思議な夢が多いです。
2012年12月27日木曜日
その人なりの人生の形をみつけること
ゲームという見方で人生というものを眺めたときにみえてくる、
ゲームとしての人生の目的ってなんだろうかと考えたとき、
出てきた答えは「人生とは何か?」ということをそれぞれの人に
考えてもらうということなのではないかと思った。
人生の目的なんて考え始めたのはセカンドライフのおかげだ。
セカンドライフにはゲームの目的がない。
それぞれの人が自分の目的をみつけるのだ。
でも、なかなか自分の目的とやらにたどりつけなくて、
脱落していく人も多い。
社会ではどうなのか?
自力で人生の目的なんてそうそう思いつかない。
そこで社会はというかマスメディアはてっとり早く
人生の目的、どういう生活が望ましい生活なのかと
いうことを教えてくれる。
立身出世ゲームなのかもしれないし、
億万長者ゲームなのかもしれない。
でも、情報化が進み、そういう目的の空しさみたい
なものも知れ渡るようになり、目的を失うひとも多く
なってきたような感じがする。
目的なんて悠長なことなど言っていられなくて、
サバイバルゲームになりつつあるような感じもしてくる。
でも、自分がこの世に別れを告げるときに時間の目盛を
進め、ちょっと考えてみるとやはり、人生の目的とか
人生とは何かという問いというのも大事なのではないか
と思うのだ。
その時に、ポイントとなるのは
その人なりの人生の形をみつけること
なのではないかと思う。
そこに着目することによって、生まれた地域やら世代やら
何やらのその人の状況にまつわる不平等というのが薄まる
のではないかと思う。
昔、あるゼミにまぎれこんでいたときに、そこの学生さんが
東南アジアに旅行してきたのだけど、現地の人々について
「自分と彼らと同じ人生を生きているのではない」と言っていた。
正確にどう言っていたのか失念したのだけど、
「自分たち日本人の人生の質と彼らの人生の質は決定的に
違っていて、自分たちの人生の質のほうが彼らの人生の質
よりもはるかに勝っていて、比較にならない」そういう風な
ニュアンスで私は受け取り、心の底に染みついた。
人生を出来レースと考えるのはつまらない。
それぞれの人にとって納得のつく形で
ゲームの設定の仕方などに思いを巡らしてみる
というのも有意義なことなのではないだろうか?
まあ、そういう風に考えられることも状況が生み出した
ある種の贅沢なことと考えることも正しいのではあるけども。
P.S まったくもって、空理空論、抽象的な話になってしまった。
具体的経験が少ないのだから仕方ないことなのかもしれない。
ゲームとしての人生の目的ってなんだろうかと考えたとき、
出てきた答えは「人生とは何か?」ということをそれぞれの人に
考えてもらうということなのではないかと思った。
人生の目的なんて考え始めたのはセカンドライフのおかげだ。
セカンドライフにはゲームの目的がない。
それぞれの人が自分の目的をみつけるのだ。
でも、なかなか自分の目的とやらにたどりつけなくて、
脱落していく人も多い。
社会ではどうなのか?
自力で人生の目的なんてそうそう思いつかない。
そこで社会はというかマスメディアはてっとり早く
人生の目的、どういう生活が望ましい生活なのかと
いうことを教えてくれる。
立身出世ゲームなのかもしれないし、
億万長者ゲームなのかもしれない。
でも、情報化が進み、そういう目的の空しさみたい
なものも知れ渡るようになり、目的を失うひとも多く
なってきたような感じがする。
目的なんて悠長なことなど言っていられなくて、
サバイバルゲームになりつつあるような感じもしてくる。
でも、自分がこの世に別れを告げるときに時間の目盛を
進め、ちょっと考えてみるとやはり、人生の目的とか
人生とは何かという問いというのも大事なのではないか
と思うのだ。
その時に、ポイントとなるのは
その人なりの人生の形をみつけること
なのではないかと思う。
そこに着目することによって、生まれた地域やら世代やら
何やらのその人の状況にまつわる不平等というのが薄まる
のではないかと思う。
昔、あるゼミにまぎれこんでいたときに、そこの学生さんが
東南アジアに旅行してきたのだけど、現地の人々について
「自分と彼らと同じ人生を生きているのではない」と言っていた。
正確にどう言っていたのか失念したのだけど、
「自分たち日本人の人生の質と彼らの人生の質は決定的に
違っていて、自分たちの人生の質のほうが彼らの人生の質
よりもはるかに勝っていて、比較にならない」そういう風な
ニュアンスで私は受け取り、心の底に染みついた。
人生を出来レースと考えるのはつまらない。
それぞれの人にとって納得のつく形で
ゲームの設定の仕方などに思いを巡らしてみる
というのも有意義なことなのではないだろうか?
まあ、そういう風に考えられることも状況が生み出した
ある種の贅沢なことと考えることも正しいのではあるけども。
P.S まったくもって、空理空論、抽象的な話になってしまった。
具体的経験が少ないのだから仕方ないことなのかもしれない。
2012年12月26日水曜日
あちら側を思い起こさせるもの
あちら側を思い起させるものに惹かれるのはなぜだろう?
その一方で、あちら側の世界に飲み込まれることについて
これほどまで恐怖するのはなぜだろう?
誘蛾灯に引き込まれて、ついには身を焦がしてしまうような存在たち。
それは、どこか心の奥底で強く惹きつけられながらも、
同時に引き込まれることを生理的に恐怖する、カルトを遠巻きに見守る
人々とも重なる。
狂気やカルトの毒を清涼飲料水程度に薄めたものが娯楽としての
コンテンツに違いない。
アヘンとしてのお酒にどこかちょっと似ている。
単なる宴会もごく小規模なお祭りみたいなものだ。
儀式につきもののご馳走も演出するメディアの一つ
みたいなものだ。クリスマスケーキなんてまさにそう。
テレビの空間では毎日が正月みたいになっているから
もはやピンとこないけど、かつてはお笑いのようなもの
がたっぷり見られたのはお正月だけだった。
私はその時代を知らないけれど、鶏肉が食べられたのは
お正月だけだったと母は言っていた。
かつて強い光を放ちながら非日常の世界を演出していた
さまざまなものが光を失いながら、なんてことのない日常
の生活を彩るあれやこれやになっている。
たぶん今使っている言葉自体もそうなのだろう。
言葉の力が失われて久しいと聞くけど、
日常の隅々まで言葉がいきわたった結果
なのかもしれない。
今はどーでもよくなっているものすべて
かつては光輝く存在であったとイメージするのは愉しい。
可能性の世界、夢の世界から
それらはやってきたのかどうかは知らないけれど、
詩的な表現を使えば、カミサマからの手紙とでも
書くことができるのだろう。
そう考えると気にもとめないだけで、
結構贅沢な世界で暮らしていることになる。
ただ、この世の端っこに存在しているだけでも、、、
その一方で、あちら側の世界に飲み込まれることについて
これほどまで恐怖するのはなぜだろう?
誘蛾灯に引き込まれて、ついには身を焦がしてしまうような存在たち。
それは、どこか心の奥底で強く惹きつけられながらも、
同時に引き込まれることを生理的に恐怖する、カルトを遠巻きに見守る
人々とも重なる。
狂気やカルトの毒を清涼飲料水程度に薄めたものが娯楽としての
コンテンツに違いない。
アヘンとしてのお酒にどこかちょっと似ている。
単なる宴会もごく小規模なお祭りみたいなものだ。
儀式につきもののご馳走も演出するメディアの一つ
みたいなものだ。クリスマスケーキなんてまさにそう。
テレビの空間では毎日が正月みたいになっているから
もはやピンとこないけど、かつてはお笑いのようなもの
がたっぷり見られたのはお正月だけだった。
私はその時代を知らないけれど、鶏肉が食べられたのは
お正月だけだったと母は言っていた。
かつて強い光を放ちながら非日常の世界を演出していた
さまざまなものが光を失いながら、なんてことのない日常
の生活を彩るあれやこれやになっている。
たぶん今使っている言葉自体もそうなのだろう。
言葉の力が失われて久しいと聞くけど、
日常の隅々まで言葉がいきわたった結果
なのかもしれない。
今はどーでもよくなっているものすべて
かつては光輝く存在であったとイメージするのは愉しい。
可能性の世界、夢の世界から
それらはやってきたのかどうかは知らないけれど、
詩的な表現を使えば、カミサマからの手紙とでも
書くことができるのだろう。
そう考えると気にもとめないだけで、
結構贅沢な世界で暮らしていることになる。
ただ、この世の端っこに存在しているだけでも、、、
ヴァーチャルなものへのこだわりとあちら側への郷愁と
こんな文章みつけた。
http://www.bekkoame.ne.jp/~hmuroi/vol5.html
読んでなんとなく思ったことは私のヴァーチャルなものへの
こだわりとあちら側への郷愁とどこかつながりがあるのでは
ないかということだった。
なぜにあちら側、すなわち病気の世界なんかに郷愁を感じる
のだろうか?
それは怖い思いをさんざん味わいながらも、こちらの世界で
は味わうことのできない誘惑的な要素をもつからだと思う。
思ったことが本人の中では事実になる世界。
天上的なものも、地獄的なものも即座にインスタントに
本人の中では事実として体験してしまう世界。
思い描くことができさえすれば、インスタントに実現できてしまう、
そういう意味でヴァーチャルな世界と重なる部分がある。
現実って何なのだろう?実現って何なのだろう?
現実と実現の間にはどういう関係があるのだろう。
都市なんて、文明生活なんて、夢の世界が実現した
ものではないか。
テレビなんて、天上の世界のインチキな模型みたいな
ものじゃないか。
その証拠に、憧れているのは業界の中に生身として生計を
たててるアイドルじゃなくて、アイドルがさししめしている
もの、画面の彼方に像を結ぶ、虚像じゃないか。
憧れているもの大体においてみんなそうじゃないか。
誰もがみているのは表面であって、虚像であって、
それよりははるかにみすぼらしいリアルな生計の
世界じゃない。
実現されたものからなるこの世界はどこかインチキ臭い
ところがあって、実現された夢はどこかに苦味をもって
しまう。
リアルといいながら、どこか虚ろな、不完全さを併せ持った
世界に住んでいるから、純粋なイマージュからなる世界に
憧れてしまう。
本当は媒体抜きの純粋なイマージュが生き生きと活動
する世界に行ってみたい。
対象と一つになることを根源的な欲望とするように
媒介となるもののお世話になりたくない。
たぶん、恍惚の絶頂において我を失うことも
肉体が滅びて消滅してしまうことも、
一つの比喩なのだと思う。
精神の病を潜り抜けた人々は
この世は比喩から成り立っていると
どこか心の底で思っている。
ヴァーチャルなものというよりも
メディアそのものが何かの比喩に違いないと
思っている。
http://www.bekkoame.ne.jp/~hmuroi/vol5.html
読んでなんとなく思ったことは私のヴァーチャルなものへの
こだわりとあちら側への郷愁とどこかつながりがあるのでは
ないかということだった。
なぜにあちら側、すなわち病気の世界なんかに郷愁を感じる
のだろうか?
それは怖い思いをさんざん味わいながらも、こちらの世界で
は味わうことのできない誘惑的な要素をもつからだと思う。
思ったことが本人の中では事実になる世界。
天上的なものも、地獄的なものも即座にインスタントに
本人の中では事実として体験してしまう世界。
思い描くことができさえすれば、インスタントに実現できてしまう、
そういう意味でヴァーチャルな世界と重なる部分がある。
現実って何なのだろう?実現って何なのだろう?
現実と実現の間にはどういう関係があるのだろう。
都市なんて、文明生活なんて、夢の世界が実現した
ものではないか。
テレビなんて、天上の世界のインチキな模型みたいな
ものじゃないか。
その証拠に、憧れているのは業界の中に生身として生計を
たててるアイドルじゃなくて、アイドルがさししめしている
もの、画面の彼方に像を結ぶ、虚像じゃないか。
憧れているもの大体においてみんなそうじゃないか。
誰もがみているのは表面であって、虚像であって、
それよりははるかにみすぼらしいリアルな生計の
世界じゃない。
実現されたものからなるこの世界はどこかインチキ臭い
ところがあって、実現された夢はどこかに苦味をもって
しまう。
リアルといいながら、どこか虚ろな、不完全さを併せ持った
世界に住んでいるから、純粋なイマージュからなる世界に
憧れてしまう。
本当は媒体抜きの純粋なイマージュが生き生きと活動
する世界に行ってみたい。
対象と一つになることを根源的な欲望とするように
媒介となるもののお世話になりたくない。
たぶん、恍惚の絶頂において我を失うことも
肉体が滅びて消滅してしまうことも、
一つの比喩なのだと思う。
精神の病を潜り抜けた人々は
この世は比喩から成り立っていると
どこか心の底で思っている。
ヴァーチャルなものというよりも
メディアそのものが何かの比喩に違いないと
思っている。
登録:
投稿 (Atom)