じたばたしないのが理想だけど、
じたばたしちゃうのがニンゲン。
こんなこと書くのも週末の読書会やら
読書会がらみの中継やら番組出演やら、
そういうものでいかにもじたばたしそうな
感じがすでに予想されているからだ。
なんてちっぽけな人間なのだろうって
自分でも思うのだけど、私って所詮その
程度の器の人間なのだ。
日頃エラそうなこと書いていても、
いざとなるとボロが出る。
そういう人間臭さみたいなのをちょっと
外から喜劇を眺めるようにでもみてあげると
自分というものにもうちょっと優しくなれるの
かも。
せいぜい笑ってあげてください。もし何か
醜態さらしてしまったら。困った状況こそ、
あとになれば面白い思い出になることで
しょう。
ただそれだけのことであるのは間違いない、
どう転んでもせいぜいのところひと時の間
だれかをハラハラさせる、その程度のことで
事は済んでしまう。
迷惑は迷惑だけど、最悪の場合でもその
程度のこと。そういう風に考えていけば
幾分かは気が楽になる。
気が楽になれば、余裕が出て、状況を
楽しめる。
そういう感じで週末まで気分をもっていこう。
これ読んだ人で何か感じるものがある奇特
な人は週末の読書会にぜひ来てください。
http://quest-and-ans.blogspot.jp/2012/07/blog-post_20.html
はじめての方へ
私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
2012年7月31日火曜日
どう転んでも手の上で踊っているだけ
結局、どう転んでもお釈迦様の手の上で
踊っているだけ、有頂天の孫悟空がお釈迦様
の手の間から出られなかったように。
そういうものなのだろうか?
ある意味そう考えると生きていくのはとてつも
なく楽になる。
人類史眺めていても、巨視的にはそういう
構造になっているようにも見て取れる。
巨視的にはということであって、ローカルな
視点ではあくせくせざるおえない。当事者
というものはそういうものだ。
でも、自分の人生とか振り返ってみても
いろいろあったけど、今のところに落ち着いて
きている。人類史も今のところに落ち着いて
きている。ほんとうにいろいろあったけど。
たぶんそれぞれの当事者の視点で考えると
たまったものではないと思うのだけど、
今ぐらいのところに落ち着いてきている。
のど元過ぎれば熱さはおさまるとはよく
言ったものだと思う。
幸福の頂も不幸のどん底も持続しない。
踊っているだけ、有頂天の孫悟空がお釈迦様
の手の間から出られなかったように。
そういうものなのだろうか?
ある意味そう考えると生きていくのはとてつも
なく楽になる。
人類史眺めていても、巨視的にはそういう
構造になっているようにも見て取れる。
巨視的にはということであって、ローカルな
視点ではあくせくせざるおえない。当事者
というものはそういうものだ。
でも、自分の人生とか振り返ってみても
いろいろあったけど、今のところに落ち着いて
きている。人類史も今のところに落ち着いて
きている。ほんとうにいろいろあったけど。
たぶんそれぞれの当事者の視点で考えると
たまったものではないと思うのだけど、
今ぐらいのところに落ち着いてきている。
のど元過ぎれば熱さはおさまるとはよく
言ったものだと思う。
幸福の頂も不幸のどん底も持続しない。
はからわない文章、はからわない表現
はからわない文章とかはからわない表現、
そんなものはあるのだろうか。
かきたいようにかけばいい、
表現したいように表現すればいい、
そういうことはよく言われることだ。
そして、そのような心持で書かれた子供の
文章、子供の絵をみていると心が晴れ晴れ
するものだ。
それを狙ってやるといやらしさがにじみ出る
そういうこともよく言われる。
結局どうころんでも、本人の本質は長い間
には滲み出してしまう。
だからはからってみたところで仕方がない。
居直ってしまうのも一つの戦略なのだろう。
向上心のない怠惰な生き方なのかもしれ
ないけれど、悟ってしまえばそういうことに
違いない。
努力の果てにスタート地点に戻る、それを
知識として最初に知ってしまうと人は努力
しなくなる。
自然農法の逆説みたいなもので、耕さない
ことで最大の収量を得る、そういう不思議
な世界もまた存在するのかもしれない。
そんなものはあるのだろうか。
かきたいようにかけばいい、
表現したいように表現すればいい、
そういうことはよく言われることだ。
そして、そのような心持で書かれた子供の
文章、子供の絵をみていると心が晴れ晴れ
するものだ。
それを狙ってやるといやらしさがにじみ出る
そういうこともよく言われる。
結局どうころんでも、本人の本質は長い間
には滲み出してしまう。
だからはからってみたところで仕方がない。
居直ってしまうのも一つの戦略なのだろう。
向上心のない怠惰な生き方なのかもしれ
ないけれど、悟ってしまえばそういうことに
違いない。
努力の果てにスタート地点に戻る、それを
知識として最初に知ってしまうと人は努力
しなくなる。
自然農法の逆説みたいなもので、耕さない
ことで最大の収量を得る、そういう不思議
な世界もまた存在するのかもしれない。
内なる価値を守る
内なる価値を守る、あるいは内なる価値を守り通す、
結構これって世知辛い現在の世の中で難しいことの
ように思う。
内なる価値は秘めるもので、「内なる価値」と書いた
ところで本当は失格なのかもしれない。
秘められた内なる価値は乞食に身をやつした神様
みたいなもので、そういうものをもった人に会ってみ
たいと皆思うものの、そんな人が現れても
見逃してしまいそうなものでもある。
リア王のコーディリアみたいな感じではっきりいって
そんなものは伝わらないに違いない。
あるいは今まで散々見逃してきたものの中にこそ
何か光るものがあったのかもしれない。
それはわからない。でも、そんな目でまわりのもの
を眺めなおしてみると表面的なみすぼらしさの奥に
ちらちら光輝く何かを発見できるのかもしれない。
犬にさえ仏性があるなんて言い方がそんな感じなの
かもしれない。
人は自分でも気づかずに乞食に身をやつした神様
をそれぞれ演じているのかもしれないと何となく思う
ことがある。
光輝くものは人それぞれ持っているものだと思う。
だからこそ、商品を含めてそういうものをほしがる
に違いない。光り輝くもの、それは象徴に違いない。
そういうものを身近に置くことで、内面にそうした
イメージを取り込みたいということになるのだろう。
内なる価値、内なる光、これを求めるのは今の世の中
においても究極の欲望のような気がする。
結構これって世知辛い現在の世の中で難しいことの
ように思う。
内なる価値は秘めるもので、「内なる価値」と書いた
ところで本当は失格なのかもしれない。
秘められた内なる価値は乞食に身をやつした神様
みたいなもので、そういうものをもった人に会ってみ
たいと皆思うものの、そんな人が現れても
見逃してしまいそうなものでもある。
リア王のコーディリアみたいな感じではっきりいって
そんなものは伝わらないに違いない。
あるいは今まで散々見逃してきたものの中にこそ
何か光るものがあったのかもしれない。
それはわからない。でも、そんな目でまわりのもの
を眺めなおしてみると表面的なみすぼらしさの奥に
ちらちら光輝く何かを発見できるのかもしれない。
犬にさえ仏性があるなんて言い方がそんな感じなの
かもしれない。
人は自分でも気づかずに乞食に身をやつした神様
をそれぞれ演じているのかもしれないと何となく思う
ことがある。
光輝くものは人それぞれ持っているものだと思う。
だからこそ、商品を含めてそういうものをほしがる
に違いない。光り輝くもの、それは象徴に違いない。
そういうものを身近に置くことで、内面にそうした
イメージを取り込みたいということになるのだろう。
内なる価値、内なる光、これを求めるのは今の世の中
においても究極の欲望のような気がする。
現実と幻想を折り合わせる
自分の隠れた欲望を分析していくと、
現実と幻想を折り合わせるということなのかもしれない。
今、現実のまっただなかで生きている。
にも関わらず、病気のときに垣間見たあちらの世界への
郷愁というか憧れみたいなものを完全に振り捨てること
ができない。
でも、やっぱり現実の世界の中で生きていかないといけない。
運よく、今は病気の世界に生きているわけではないのだから。
と、したときに、都合のいい媒体がセカンドライフなのでは
ないかと思ったりする。
セカンドライフの中では外見上はファンタジックな恰好になれる。
中身はドンキホーテがやったように、年から年中本ばかり読んで、
ついには本の世界に生きるようになり、本の言葉を話すように
なったら、中身のほうもオッケーである。
と真面目に書いてしまうと私はかなり危険な領域を歩いている
ような感じがしてしまう。
みんなひいてしまうに違いない。
だから、この世でちゃんと生きていくために少し妥協を計る。
自分の内なるファンタジーを大切にしながら、
現実は現実として、「幻実」ではなく「幻日」でもなく、
ちゃんと現実を生きて、この社会の隅っこで生きる場所を
もらって、あまり人に迷惑をかけないで生きていく方法も
なにかあるのではないかと思ったりするのだ。
この世知辛い世の中で夢に生きられる、本当に夢に生きて
いるかどうかはわからないけど、日常の中で夢を大切に
しながら生きていくというのもそれなりに有意義な生き方
なのではないかと思う。現実に存在することで陰りが生じて
ある意味みすぼらしい存在として埋もれることは承知して
いるのだけど、でも内なる価値を守りながら生きとおしたい。
それが私の願いだ。
現実と幻想を折り合わせるということなのかもしれない。
今、現実のまっただなかで生きている。
にも関わらず、病気のときに垣間見たあちらの世界への
郷愁というか憧れみたいなものを完全に振り捨てること
ができない。
でも、やっぱり現実の世界の中で生きていかないといけない。
運よく、今は病気の世界に生きているわけではないのだから。
と、したときに、都合のいい媒体がセカンドライフなのでは
ないかと思ったりする。
セカンドライフの中では外見上はファンタジックな恰好になれる。
中身はドンキホーテがやったように、年から年中本ばかり読んで、
ついには本の世界に生きるようになり、本の言葉を話すように
なったら、中身のほうもオッケーである。
と真面目に書いてしまうと私はかなり危険な領域を歩いている
ような感じがしてしまう。
みんなひいてしまうに違いない。
だから、この世でちゃんと生きていくために少し妥協を計る。
自分の内なるファンタジーを大切にしながら、
現実は現実として、「幻実」ではなく「幻日」でもなく、
ちゃんと現実を生きて、この社会の隅っこで生きる場所を
もらって、あまり人に迷惑をかけないで生きていく方法も
なにかあるのではないかと思ったりするのだ。
この世知辛い世の中で夢に生きられる、本当に夢に生きて
いるかどうかはわからないけど、日常の中で夢を大切に
しながら生きていくというのもそれなりに有意義な生き方
なのではないかと思う。現実に存在することで陰りが生じて
ある意味みすぼらしい存在として埋もれることは承知して
いるのだけど、でも内なる価値を守りながら生きとおしたい。
それが私の願いだ。
2012年7月30日月曜日
精神病者の自己実現
自分の問題のハードルを高くしているのは、多分
精神病者の就労というテーマでもがいているのではなく、
精神病者の自己実現というテーマでもがいているから
なのかもしれない。
就労した時点でそれは自己実現なのではないかと
思う人もいるかもしれない。
でも、人間というのは欲が深くて、よりよい形という
ものを求めるのだろうし、それは誰でも持っている、
そして誰でも持つことを許されている欲望に違い
ないと思う。
精神病を得た人間として、どこまで欲をもつことを
許されているのだろう?どこまで社会に、そして
自分の人生に対して期待することを許されている
のだろうと常々思う。
何も努力しないで、棚からぼたもちが降ってくる
ような感じで今まで生きてきたとも思えない。
努力の方向性は正しかったかどうかは定かでは
ないものの、自分なりの努力は重ねつづけて
きたように思う。
精神病者に限らず、自己実現というのは重いテーマ
だと思う。
ある意味、夢を持つように育てられてきた。それは
消費者の一人として、夢という餌に食いつき、
夢のために対価を支払い続けてきたおろかな
人生なのかもしれない。
そうやって育てられてきた人間は多かろうと思う。
そして、その人々の多くはある程度進んだところで
梯子をはずされ、あるいは途中までしか線路は
なかったということなのだろう。
開拓者の時代は途中までの線路そのものが
なかったのだからまだましだという人もいるかも
しれないけれど、夢の旅路で遭難した多くの人
に対して、幾ばくかの責任もまた存在すると思う。
ひとづくり、あるいは教育というものも一種の
ねずみ講であるのかもしれない。でも、それを
嘆いても仕方がない。確かに、目に見えない財産
を一山築いたのだから有効利用を考えよう。
精神病者の就労というテーマでもがいているのではなく、
精神病者の自己実現というテーマでもがいているから
なのかもしれない。
就労した時点でそれは自己実現なのではないかと
思う人もいるかもしれない。
でも、人間というのは欲が深くて、よりよい形という
ものを求めるのだろうし、それは誰でも持っている、
そして誰でも持つことを許されている欲望に違い
ないと思う。
精神病を得た人間として、どこまで欲をもつことを
許されているのだろう?どこまで社会に、そして
自分の人生に対して期待することを許されている
のだろうと常々思う。
何も努力しないで、棚からぼたもちが降ってくる
ような感じで今まで生きてきたとも思えない。
努力の方向性は正しかったかどうかは定かでは
ないものの、自分なりの努力は重ねつづけて
きたように思う。
精神病者に限らず、自己実現というのは重いテーマ
だと思う。
ある意味、夢を持つように育てられてきた。それは
消費者の一人として、夢という餌に食いつき、
夢のために対価を支払い続けてきたおろかな
人生なのかもしれない。
そうやって育てられてきた人間は多かろうと思う。
そして、その人々の多くはある程度進んだところで
梯子をはずされ、あるいは途中までしか線路は
なかったということなのだろう。
開拓者の時代は途中までの線路そのものが
なかったのだからまだましだという人もいるかも
しれないけれど、夢の旅路で遭難した多くの人
に対して、幾ばくかの責任もまた存在すると思う。
ひとづくり、あるいは教育というものも一種の
ねずみ講であるのかもしれない。でも、それを
嘆いても仕方がない。確かに、目に見えない財産
を一山築いたのだから有効利用を考えよう。
2012年7月28日土曜日
強いものが強いのは当たり前
”強いものが強いのは当たり前だが、
弱いものが弱いなりに健気にがんばっている姿というは、
人に希望を与えるものであるかもしれない。”
という文章がネット上にあったので、自分なりにこのこと
について考えてみたい。
私は体がひ弱に生まれて、格闘技を覚えるなどという
知恵もなかったために、ずっといじめられていた。
だからことあるごとに
「なんでこの世には強いものと弱いものがあるのだろう?」
って素朴に思っていた。
そんなことも大学で生物学学んでみようと思った隠れた
動機の一つかもしれない。
強い集団はおいしい場所を占有している。そして、
弱い集団は周辺に追い出される、そんなイメージがある。
弱い集団の中には世界の外の別世界への冒険に
出るものもいるかもしれない。
新しい世界には敵がいないかもしれない。そして、
その新しい世界で世代を重ね、進化していくうちに
強さを獲得するかもしれない。
人間は学習機能があるから、ひと世代の中で
そういうことを経験できそうな感じがする。
新しい世界を開拓するのは骨が折れる。
でも、目立った敵が少ないのはいいことなのかも
しれない。
何も工夫することがなかったら、開拓した世界を
後からやってきた強いものに奪われる、ただそれ
だけのことかもしれない。でも、開拓した先には
さらなるフロンティアもあることだろう。
もしかしたら、日本人ってそういう集団なのかも
しれぬと獏と思っている。極寒のバイカル湖周辺、
そして、さらに周辺の極東に日本人の祖先は
移ってきた。冒険野郎というよりはより弱い集団が
押し出されてきたのかもしれない。東アジアの民族
の中でも身体的には華奢に日本人が見えるのも
かならずしも錯覚とはいえないだろうから。
弱いものが弱いなりに健気にがんばっている姿というは、
人に希望を与えるものであるかもしれない。”
という文章がネット上にあったので、自分なりにこのこと
について考えてみたい。
私は体がひ弱に生まれて、格闘技を覚えるなどという
知恵もなかったために、ずっといじめられていた。
だからことあるごとに
「なんでこの世には強いものと弱いものがあるのだろう?」
って素朴に思っていた。
そんなことも大学で生物学学んでみようと思った隠れた
動機の一つかもしれない。
強い集団はおいしい場所を占有している。そして、
弱い集団は周辺に追い出される、そんなイメージがある。
弱い集団の中には世界の外の別世界への冒険に
出るものもいるかもしれない。
新しい世界には敵がいないかもしれない。そして、
その新しい世界で世代を重ね、進化していくうちに
強さを獲得するかもしれない。
人間は学習機能があるから、ひと世代の中で
そういうことを経験できそうな感じがする。
新しい世界を開拓するのは骨が折れる。
でも、目立った敵が少ないのはいいことなのかも
しれない。
何も工夫することがなかったら、開拓した世界を
後からやってきた強いものに奪われる、ただそれ
だけのことかもしれない。でも、開拓した先には
さらなるフロンティアもあることだろう。
もしかしたら、日本人ってそういう集団なのかも
しれぬと獏と思っている。極寒のバイカル湖周辺、
そして、さらに周辺の極東に日本人の祖先は
移ってきた。冒険野郎というよりはより弱い集団が
押し出されてきたのかもしれない。東アジアの民族
の中でも身体的には華奢に日本人が見えるのも
かならずしも錯覚とはいえないだろうから。
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