セカンドライフでもの作っていて感じるようになったの
だけど、所有にもいろいろ意味があるのではないかと。
オブジェクト指向にクラスとインスタンスという概念が
ありますけど、クラスとは型紙みたいなものでインスタンス
は型紙から作った製品みたいなものです。
で世の中眺めてみると所有といっても大体所有している
ものはインスタンスに相当するものだと思います。
設計図にあたるものはほかの誰かのものです。
で、なんとなく思ったことは真の意味の所有って設計図つくったり
デザインしたりすることなのではないかということでした。
そんな感じで家にある私ももちものが必ずしも私のもちもの
にみえなくなってきて、むしろここに書いている文章とか
セカンドライフでつくったものとかが所有物のように思えて
きたわけです。
P.S もっともトータルとしての、ものを含めた生活自体は
それぞれの人が真に所有しているものかもしれません。
ちょうどここに書いた文章が単語レベルでは既存のもの
でも文章全体としては私の書いた文章であるように。
今日の文章全体に突っ込みどころが多いかもしれませんが
思考の計算用紙みたいな感じで残しておきます。
はじめての方へ
私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
2012年5月31日木曜日
図書館ゲームと代替現実
図書館ゲームとはセカンドライフやらない日に
図書館を舞台として行っているゲーム?である。
セカンドライフやっているうちに2つの欲望がわいてきた。
ひとつは一日中仮想世界にいたいという欲望と、
パソコンという複雑な機械を使うのはエコではないかも
しれないからできれば使わずにいたいということだ。
セカンドライフに生活の拠点を移し、物欲を情報で
代替すると大幅な節約になる。
その上でさらにパソコンを使わない方法を考えて
みると生活はかなり簡素なものになる。
パソコンを使っていないときも、現実世界の中で
セカンドライフに持ち込める素材はないかと物色
している。その主な舞台が図書館だ。
図書館で本読みながらアイデア練っている時間も
込みで仮想世界とみなし、本の行間や紙の上で
仮想世界を体験する。
数学の世界に慣れてきたら、仮想世界上で空間
表示されているものを紙ナプキンや封筒裏の数字
で楽しめないものかと妄想中だ。
ところで図書館ゲームとは何か?実は自分にも
よくわからない。あえていえば図書館ゲームとは
何かというのを探っていくのがその遊び方なの
かもしれない。
態度としての代替現実で、態度として生活全体を
少しずつゲーム化していく感じです。生活の方法を
見つけるということも中に入っているけれど、誰に
とっても難しいようにやっぱり難しいです。
代替現実の意味は説明がめんどくさいので検索
してみてください。普通は誰かにプログラムされた
代替現実を大勢の人で楽しむという解釈がおこな
われますが、代替現実とかゲームなどの概念を
道具に生活を解釈しなおすというやり方でも実現
できるように思います。
ついでに”チョアウォーズ”という用語も検索して
みてください。この概念も拡張可能だと思います。
たとえば、今、私はブログ書いていますけど、
「ブログゲーム」をプレイしているという解釈も可能
です。twitter, facebookその他のゲームとも連動して
いて、トータルとしてのゲーム空間の性質は未知な
のです。現実生活を含めたトータルとしてのゲーム
空間がお金の問題も含め生活を回してくれるという野望も
もてないわけではないかもしれませんし。
P.S 最後のあたり、インターネットを使った錬金術めいた
発想になって、いかがわしい匂いが漂っている。カネと
性の問題が人が生きていく営みに必ずついて回るのは
なぜなのだろうなんて形而上学的なことまで考えてしまう。
P.S2 人間の弱点はカネと性らしい。なんでそうなのか考える
ために”物語” ”キャラクター” ”弱点”で検索してみた。
google先生のおっしゃるところによるとキャラクターに弱点
があることで物語に深みが出て面白さが増すのだとか。
P.S3 セカンドライフにはまりすぎなんじゃないかと友達から
心配したメールが入ったのでメモ。さっきからつらつら考えて
いるのだけど、セカンドライフと非定型精神病の患者である
私の出会いって本当のところとてつもない組み合わせだった
のではないかと思っているところ。魅力的といえば、
魅力的だけどあまりに危険すぎる出会いなのではないかと。
しばらく頭冷やしてみます。
図書館を舞台として行っているゲーム?である。
セカンドライフやっているうちに2つの欲望がわいてきた。
ひとつは一日中仮想世界にいたいという欲望と、
パソコンという複雑な機械を使うのはエコではないかも
しれないからできれば使わずにいたいということだ。
セカンドライフに生活の拠点を移し、物欲を情報で
代替すると大幅な節約になる。
その上でさらにパソコンを使わない方法を考えて
みると生活はかなり簡素なものになる。
パソコンを使っていないときも、現実世界の中で
セカンドライフに持ち込める素材はないかと物色
している。その主な舞台が図書館だ。
図書館で本読みながらアイデア練っている時間も
込みで仮想世界とみなし、本の行間や紙の上で
仮想世界を体験する。
数学の世界に慣れてきたら、仮想世界上で空間
表示されているものを紙ナプキンや封筒裏の数字
で楽しめないものかと妄想中だ。
ところで図書館ゲームとは何か?実は自分にも
よくわからない。あえていえば図書館ゲームとは
何かというのを探っていくのがその遊び方なの
かもしれない。
態度としての代替現実で、態度として生活全体を
少しずつゲーム化していく感じです。生活の方法を
見つけるということも中に入っているけれど、誰に
とっても難しいようにやっぱり難しいです。
代替現実の意味は説明がめんどくさいので検索
してみてください。普通は誰かにプログラムされた
代替現実を大勢の人で楽しむという解釈がおこな
われますが、代替現実とかゲームなどの概念を
道具に生活を解釈しなおすというやり方でも実現
できるように思います。
ついでに”チョアウォーズ”という用語も検索して
みてください。この概念も拡張可能だと思います。
たとえば、今、私はブログ書いていますけど、
「ブログゲーム」をプレイしているという解釈も可能
です。twitter, facebookその他のゲームとも連動して
いて、トータルとしてのゲーム空間の性質は未知な
のです。現実生活を含めたトータルとしてのゲーム
空間がお金の問題も含め生活を回してくれるという野望も
もてないわけではないかもしれませんし。
P.S 最後のあたり、インターネットを使った錬金術めいた
発想になって、いかがわしい匂いが漂っている。カネと
性の問題が人が生きていく営みに必ずついて回るのは
なぜなのだろうなんて形而上学的なことまで考えてしまう。
P.S2 人間の弱点はカネと性らしい。なんでそうなのか考える
ために”物語” ”キャラクター” ”弱点”で検索してみた。
google先生のおっしゃるところによるとキャラクターに弱点
があることで物語に深みが出て面白さが増すのだとか。
P.S3 セカンドライフにはまりすぎなんじゃないかと友達から
心配したメールが入ったのでメモ。さっきからつらつら考えて
いるのだけど、セカンドライフと非定型精神病の患者である
私の出会いって本当のところとてつもない組み合わせだった
のではないかと思っているところ。魅力的といえば、
魅力的だけどあまりに危険すぎる出会いなのではないかと。
しばらく頭冷やしてみます。
2012年5月30日水曜日
商売ベースから自己表現ベースへ
表現活動全体にいえることだけど、
表現技術の大衆化とともに商売ベースから
自己表現ベースにシフトしつつあるのでは
なかろうか?
情報を拡散させるという意味ではインターネット
があるし、情報の生産、流通に関してはコストが
かからない。
そのために表現活動の大衆化が広がり、
逆にプロとしての活動が難しくなりつつあるのが
全体的な流れだ。
料理や世間話同様、表現活動も
拡張された自己表現としての
コミュニケーション手段になりつつあるのでは
ないかとも思うのだ。
もともと日常のそばにあった表現活動が
純粋化、芸術化されて、
見る人と表現する人に分かれていったのが
また、技術が大衆化して
日常の近くに戻ってきた感じだ。
そのことで表現活動の層が厚くなり、
裾野が広くなって同時に
受け手としても育ち、より高度な表現も
受け入れやすくなったような気がするのだけど
どうだろう。
家庭料理を日々つくりつつ、
たまには料理屋の料理も賞味するような
感じでこれからもプロの表現も成り立って
いくと思うのだけど、
料理を作れればプロだった時代から
料理屋の料理をつくらなければならなくなった
時代になったのではないだろうか。
表現技術の大衆化とともに商売ベースから
自己表現ベースにシフトしつつあるのでは
なかろうか?
情報を拡散させるという意味ではインターネット
があるし、情報の生産、流通に関してはコストが
かからない。
そのために表現活動の大衆化が広がり、
逆にプロとしての活動が難しくなりつつあるのが
全体的な流れだ。
料理や世間話同様、表現活動も
拡張された自己表現としての
コミュニケーション手段になりつつあるのでは
ないかとも思うのだ。
もともと日常のそばにあった表現活動が
純粋化、芸術化されて、
見る人と表現する人に分かれていったのが
また、技術が大衆化して
日常の近くに戻ってきた感じだ。
そのことで表現活動の層が厚くなり、
裾野が広くなって同時に
受け手としても育ち、より高度な表現も
受け入れやすくなったような気がするのだけど
どうだろう。
家庭料理を日々つくりつつ、
たまには料理屋の料理も賞味するような
感じでこれからもプロの表現も成り立って
いくと思うのだけど、
料理を作れればプロだった時代から
料理屋の料理をつくらなければならなくなった
時代になったのではないだろうか。
仮想世界としての表現が出てくるには要素イメージが足りていないか
今の仮想世界は現実世界からモチーフを借りてきて、
現実世界の模型であるかのように、仮想世界が構成
されているけれども、そのうち借りてきた要素同士を
掛け合わせて、仮想世界独特のものが出来ていくよ
うな気がする。
類似するものは今見ているパソコンの画面で、机とか
書類のモチーフは利用しているけれど、パソコン独特
の世界でもある。
そんな感じで、現実世界を理解の手がかりとしながら
も、現実世界にあんまり縛られないで仮想世界その
ものとしての表現が少しずつ出てくるような感じがする。
絵画のリアリズムが完成し、陳腐化した後で抽象画が
出てきたような流れはきっと仮想世界にも出てくるよう
に思う。
あるいはアニメが劇画化の流れにならなくて、
アニメ画としてのアイデンティティを獲得したようなこと
が起こってくるような気がするのだけれどどうだろう。
リアリズムが完成していくにしたがって、表現は一つ
のものに収束していくと思う。でも、表現のあり方には
多様性があってもいいのではないかとも思う。
現実世界を模写するほかにも、仮想世界は心象風景
みたいなものを表現する媒体として優れている。
もっともその心象風景を自在に表現するためには
そのための引き出しとしてのイメージの在庫が豊富
でなくてはならないのかもしれない。
そのため、全体としてみたときに、現実世界あるいは
既存の表現からの移入が行われている段階だけど、
そのうち仮想世界の性質をうまく使った、仮想世界
ならではの表現が出てくると思われる。
私たちはこれまで自己というものをうまく表現する
すべをもたなかった。服装にしろ、家の中の空間
表現にしても、他者によって作られたものを選択
して自分の組み合わせで自己を表現するという
方法しかもたなかった。
他者の表現によらず、自分で作るとなると素朴
なものしか作れないのかもしれない。しかし、
そのような素朴なものでも、雄弁に自分のなに
がしかを表現してくれると思われる。
文字表現が大衆化して、自己の存在を主張する
道具になりつつあるけれど、文字の次に大衆化
するのは空間表現や音楽かもしれない。
服装で自己を表現するような気軽さで、仮想世界
で自分の世界を構成していく世代も現れるに
違いない。
現実世界の模型であるかのように、仮想世界が構成
されているけれども、そのうち借りてきた要素同士を
掛け合わせて、仮想世界独特のものが出来ていくよ
うな気がする。
類似するものは今見ているパソコンの画面で、机とか
書類のモチーフは利用しているけれど、パソコン独特
の世界でもある。
そんな感じで、現実世界を理解の手がかりとしながら
も、現実世界にあんまり縛られないで仮想世界その
ものとしての表現が少しずつ出てくるような感じがする。
絵画のリアリズムが完成し、陳腐化した後で抽象画が
出てきたような流れはきっと仮想世界にも出てくるよう
に思う。
あるいはアニメが劇画化の流れにならなくて、
アニメ画としてのアイデンティティを獲得したようなこと
が起こってくるような気がするのだけれどどうだろう。
リアリズムが完成していくにしたがって、表現は一つ
のものに収束していくと思う。でも、表現のあり方には
多様性があってもいいのではないかとも思う。
現実世界を模写するほかにも、仮想世界は心象風景
みたいなものを表現する媒体として優れている。
もっともその心象風景を自在に表現するためには
そのための引き出しとしてのイメージの在庫が豊富
でなくてはならないのかもしれない。
そのため、全体としてみたときに、現実世界あるいは
既存の表現からの移入が行われている段階だけど、
そのうち仮想世界の性質をうまく使った、仮想世界
ならではの表現が出てくると思われる。
私たちはこれまで自己というものをうまく表現する
すべをもたなかった。服装にしろ、家の中の空間
表現にしても、他者によって作られたものを選択
して自分の組み合わせで自己を表現するという
方法しかもたなかった。
他者の表現によらず、自分で作るとなると素朴
なものしか作れないのかもしれない。しかし、
そのような素朴なものでも、雄弁に自分のなに
がしかを表現してくれると思われる。
文字表現が大衆化して、自己の存在を主張する
道具になりつつあるけれど、文字の次に大衆化
するのは空間表現や音楽かもしれない。
服装で自己を表現するような気軽さで、仮想世界
で自分の世界を構成していく世代も現れるに
違いない。
3Dを簡便に操作できる世界の正体はまだわかった感じがしない
いまだにもどかしい思いがなくならない。
それはセカンドライフでは簡便に3Dの世界が操作できるのだけど、
そのことにまつわる深い意味合いがわからない。
そこにはきっと何かあるのだけど、私の能力ではわからない。
その何かの正体がわからない。
3Dの世界にもちこむ素材を漁るために現実世界を物色して
いくとよーくわかることがある。それは決まりきった世界であること。
そんなに突拍子もないものになかなか出会えない。
同じく何か漁ろうとして漫画本やアニメみて思うこと。
量産を前提にしているために、画面の背景はあんまり考え込んで
つくられていない。そして、大体は現実世界や既存の世界からの
移入された要素によって成り立っていること。
といっても何か新たに作り出そうとすると無為に近い時間が
浪費されてしまう。既存のものを移入することからすると効率
も悪いし、創造したところで使えるものであれば、誰かがもって
いってしまわないとも限らない。
それでも3Dの世界の醍醐味は模倣にあるのではなくて、
この世に存在しないものを生み出すことだと思う。
そのための操作の簡便さのように思えてならない。
模倣から入るというのも確かに一つの方便だとは思う。
俳句に写生俳句というのがあるように、創造とか言っている
暇があったら、ひとつでも多くのものをイメージに取り込んで
イメージの引き出しの中身を豊富にさせておくのが賢い戦略
に違いない。
引き出しがいっぱいになったところで、初めて要素同士を
掛け合わせて創造が始まるものだという意見はもっとも
だと思う。でも、なにかいいたいことがある。
日本は模倣から始まるのに対して、アメリカ文化はゼロから
作り出すのだという。アメリカなどではなく、時間の軸をはるか
古代に引き戻し、シュメール文明までいってしまうと、彼らは
文字通りゼロから都市文明の基本要素を見事に作り出した。
模倣からはじめるのに対して、ゼロから作り出すのは効率的
といえないし、出来上がったものはえてしてプリミティブな
完成度にとどまる。細部を重視する日本人にとっては魅力的
にはそれらは映らないかもしれないけれど、0を1にするという
のはそういうことなのだと思う。
そして、学校教育がいきわたり、都市文化が田舎までいきわたった
この世界で普通の人が何か創造しようとするときにこんないい
道具はないと思う。教育によって得た知識をやりくりして、
カレーライスやラーメンを進化させたような日本人のエネルギーを
3Dにつぎ込むことができたら何か面白いものがきっとできて
くると思うのだけどどうだろう。
それはセカンドライフでは簡便に3Dの世界が操作できるのだけど、
そのことにまつわる深い意味合いがわからない。
そこにはきっと何かあるのだけど、私の能力ではわからない。
その何かの正体がわからない。
3Dの世界にもちこむ素材を漁るために現実世界を物色して
いくとよーくわかることがある。それは決まりきった世界であること。
そんなに突拍子もないものになかなか出会えない。
同じく何か漁ろうとして漫画本やアニメみて思うこと。
量産を前提にしているために、画面の背景はあんまり考え込んで
つくられていない。そして、大体は現実世界や既存の世界からの
移入された要素によって成り立っていること。
といっても何か新たに作り出そうとすると無為に近い時間が
浪費されてしまう。既存のものを移入することからすると効率
も悪いし、創造したところで使えるものであれば、誰かがもって
いってしまわないとも限らない。
それでも3Dの世界の醍醐味は模倣にあるのではなくて、
この世に存在しないものを生み出すことだと思う。
そのための操作の簡便さのように思えてならない。
模倣から入るというのも確かに一つの方便だとは思う。
俳句に写生俳句というのがあるように、創造とか言っている
暇があったら、ひとつでも多くのものをイメージに取り込んで
イメージの引き出しの中身を豊富にさせておくのが賢い戦略
に違いない。
引き出しがいっぱいになったところで、初めて要素同士を
掛け合わせて創造が始まるものだという意見はもっとも
だと思う。でも、なにかいいたいことがある。
日本は模倣から始まるのに対して、アメリカ文化はゼロから
作り出すのだという。アメリカなどではなく、時間の軸をはるか
古代に引き戻し、シュメール文明までいってしまうと、彼らは
文字通りゼロから都市文明の基本要素を見事に作り出した。
模倣からはじめるのに対して、ゼロから作り出すのは効率的
といえないし、出来上がったものはえてしてプリミティブな
完成度にとどまる。細部を重視する日本人にとっては魅力的
にはそれらは映らないかもしれないけれど、0を1にするという
のはそういうことなのだと思う。
そして、学校教育がいきわたり、都市文化が田舎までいきわたった
この世界で普通の人が何か創造しようとするときにこんないい
道具はないと思う。教育によって得た知識をやりくりして、
カレーライスやラーメンを進化させたような日本人のエネルギーを
3Dにつぎ込むことができたら何か面白いものがきっとできて
くると思うのだけどどうだろう。
2012年5月29日火曜日
今日は不漁です。
今日はネタも思い浮かばず、あんまりいい文章かけそうに
ありません。もっとも、毎日そんなにいい文章書いているわ
けでもないのですが、、、
内的省察とはいっても、とくに何か特別なものがそこにある
わけではありません。だだ、思いついたことを思いついたま
まに文字化していくだけです。
心の中を覗き込んでも、真っ暗闇みたいに見えるだけで、
とくに何かつかまるわけではありません。そして、一生懸命
目を凝らしてみてもやっぱり何も捕まえられないのです。
それでも、何かを捕えようとしてしまう。
もやもやを言語に捕えるとき何が起こっているのでしょう。
その選択は何を根拠にその言葉に変換していくのでしょう。
水の中から何かが浮かび上がるのはあくまでも比喩です。
もやもやを言語に捕えると書いたのも比喩です。視覚的な
イメージがくっきりしているかどうかわからないけれど、
曖昧なイメージと言語を駆使してものを考えます。
イメージがさかんに浮かぶかどうかはその時の気分と
関係あるような感じがします。そして今日は不漁です。
イメージが浮かばないと言葉が続きません。外に出てこ
ないのです。というわけで、今日は苦しいのでこのへんで。
最初はそれなりにいけるのかなあと思ったのですが、
やっぱりだめでした。
ありません。もっとも、毎日そんなにいい文章書いているわ
けでもないのですが、、、
内的省察とはいっても、とくに何か特別なものがそこにある
わけではありません。だだ、思いついたことを思いついたま
まに文字化していくだけです。
心の中を覗き込んでも、真っ暗闇みたいに見えるだけで、
とくに何かつかまるわけではありません。そして、一生懸命
目を凝らしてみてもやっぱり何も捕まえられないのです。
それでも、何かを捕えようとしてしまう。
もやもやを言語に捕えるとき何が起こっているのでしょう。
その選択は何を根拠にその言葉に変換していくのでしょう。
水の中から何かが浮かび上がるのはあくまでも比喩です。
もやもやを言語に捕えると書いたのも比喩です。視覚的な
イメージがくっきりしているかどうかわからないけれど、
曖昧なイメージと言語を駆使してものを考えます。
イメージがさかんに浮かぶかどうかはその時の気分と
関係あるような感じがします。そして今日は不漁です。
イメージが浮かばないと言葉が続きません。外に出てこ
ないのです。というわけで、今日は苦しいのでこのへんで。
最初はそれなりにいけるのかなあと思ったのですが、
やっぱりだめでした。
2012年5月28日月曜日
上から目線で書いているわけではないのだけど
文体が丁寧なですます調でなくて、だ、であるとかそういう書き方
になってしまっていることに気を病んでいる。といっても単に書き
改めればいい話なのだけど。
ニーチェと自分を比べる気などさらさらないのだけど、
ニーチェの使ったタイプライターとか、今私の使っているキーボード
とかは書く文体を電文調にしてしまうこともあるらしい。
打ち込んでいる文章の呼吸みたいなものがあって、それに素直に
従うとどうしても電文調の今ごらんになっている文体になって
しまう。
でも、上から目線で、自分は偉いんだと必ずしも思っているわけ
ではないのです。
必ずしもと限定がつくのは気分が高揚して本当に言葉が強くなって
しまうときも多々あるからです。
身の丈にあったことだけを書きたいのに、それに反して大きな
言葉を使ってしまう。言葉に酔って思い上がったことをつい書いてしまう。
読むほうからすると迷惑千番な話に違いないと思うのだけど、
それも含めて自分なので、平に平に許してもらいたい。
と無理なお願いをしてしまうのだけど、やっぱり丁寧な文体に
したほうがきっといいのかもしれません。
読んでもらうという意識が足りないのかもしれません。
打ち込んでいるときの呼吸が気持ちがよくて、そのまま
書いてみて、何か変だと自分で気づき、文末を丁寧に変えてみたり
するのですが、それはそれで変になってしまって、どうしようかと
悩んでいるところです。
になってしまっていることに気を病んでいる。といっても単に書き
改めればいい話なのだけど。
ニーチェと自分を比べる気などさらさらないのだけど、
ニーチェの使ったタイプライターとか、今私の使っているキーボード
とかは書く文体を電文調にしてしまうこともあるらしい。
打ち込んでいる文章の呼吸みたいなものがあって、それに素直に
従うとどうしても電文調の今ごらんになっている文体になって
しまう。
でも、上から目線で、自分は偉いんだと必ずしも思っているわけ
ではないのです。
必ずしもと限定がつくのは気分が高揚して本当に言葉が強くなって
しまうときも多々あるからです。
身の丈にあったことだけを書きたいのに、それに反して大きな
言葉を使ってしまう。言葉に酔って思い上がったことをつい書いてしまう。
読むほうからすると迷惑千番な話に違いないと思うのだけど、
それも含めて自分なので、平に平に許してもらいたい。
と無理なお願いをしてしまうのだけど、やっぱり丁寧な文体に
したほうがきっといいのかもしれません。
読んでもらうという意識が足りないのかもしれません。
打ち込んでいるときの呼吸が気持ちがよくて、そのまま
書いてみて、何か変だと自分で気づき、文末を丁寧に変えてみたり
するのですが、それはそれで変になってしまって、どうしようかと
悩んでいるところです。
登録:
投稿 (Atom)