こういうたぐいのことは何度も書いているのだけど、
今日はメソポタミアの歴史の本を読みながら、
あらためて、表記できることの意味について考えてみたい。
何度も書いているように、文字であれ、画像であれ、
ちょっと工夫すれば、それぞれの人の器量なりに
表現ができて、発信までできる。いい時代である。
多くの文書類に埋もれるとはいえ、その埋もれ具合も
ひっくり返してみれば、喧騒とは無縁の静かな環境とも
いえ心地よいといえば心地よい。
生計の問題はここでは考えない。
とりあえず、家全体としては、家計は全体的になんとか
回っている。たぶん、家計の規模は少しずつ細くはなりつつも。
結婚はしなかったし、またこれからもする予定もないので、
そして、最近は色恋沙汰の世界からも遠ざかっているので、
自然な流れとして、ひたすら家全体として老いていくのだろう。
ちょっと横にそれた。
要するにgeneとしてではなく、memeとして何かを残そうと企んで
いるらしい。そして、それは細々とした流れであって、流れにも
なりきれず、化石のようにどこかに埋もれてしまうか、情報自体
が破棄されたりして、最終的には残りえないものであっても
それなら結局そういう価値しかなかったのであるから
仕方がないといえる。そういう意味で腹もくくっている。
終末期の父から学んだことはじたばたしない、ということだった。
でも学びきれず、外目には十分もがいているようにも見える。
やっぱりハナシとしてまとまらない。長らく文章書かなかった
せいか文章のまとめかた自体も下手になってしまったのか。
それともそれも幻想であって、もともと文章力なぞもなく、
ただカンチガイで垂れ流し状態だったに過ぎないのか。
見苦しい。
表記可能であること、という表題から離れてしまった。
メソポタミアの歴史から学んだこと、
うっすらと思っていたことだけど、
文字自体がシステムであるらしい。
でも、ちら読みだったし、今日読んだ記憶もあいまいなので
文字自体がシステムである、ということが何を表しているのか
今の時点で書けない。
でも、それらは創造的に受け取るべきで、読んだたびごと
に記憶があいまい化する今をむしろ、愉しみ、その時々の
状況を逆手に取るべきだと、ちょっと強がったことを考えている。
認知の衰えを感じる今だと、後から読み直せるという事実は
ありがたい。
朗読の催し物のときに痛いほど味わったけれど、
今や、朗読を物語として楽しめなくなっている。
読んだ先から記憶が失われるような感じで短期記憶が揮発
してしまい、記憶が蓄積しないので、物語が物語りとして
私の中では機能せず、単にその時々の断片的な物語の
瞬間、瞬間の言葉の美しさを愉しむことしかできない。
そして、そういった状況に適応すべく、なんとか心理的に
調整しようとしている。
と書いたもののそれも、カンチガイであって、記憶というもの
はもうちょっと複雑かもしれない。
生活全体としては回っているのだから、認知障害という
ほど大騒ぎするものでもないかもしれない。
講義なども、そんな感じで、物語記憶として機能しない。
そして独特の脳がついていけない、感覚が代わりにしてくる。
独特の脳がついていけない感覚。
これはコンピュータのちょっと込み入ったメニュー操作の仕方を
教えてもらって、ついていけなくなって脳が悲鳴を上げるときとか
そういうときに典型的に起こる。
認知症の患者さんが、脳に過負荷な課題を与えられるときに
脳が悲鳴を上げる感じがこんな感じなのではないか。
そういう風なモザイクな感覚が今現在である。
そして、本人なりに感じたモザイク模様を、その時々の
本人なりの器量で表記しようとあくせくしている。
なんとか書けた。書いたことになるかどうかは不分明だが。