文章読んでも分かる通り、私はそんなに頭がいいという
わけでもない。むしろ学習するだけ痛いとこが目につくといえる。
頭の悪さ、鈍さみたいなものをうまく作用させると、イレギュラー
な反応を引き出すことができないのだろうか?と密かに思う。
ヴァナキュラーな建築があるのなら、ひとの存在そのものが
ヴァナキュラーといったものもあるのではなかろうか?
知識や情報は流通に乗り、電波に乗り拡散されるけど、
届いたものはその人の生活の文脈にしたがって利用される。
数学の専門書の文章のカーゴカルト的使用法みたいなものも
考えられるのではないか、例としては。
それも、妙にオカルトチックな使用法というよりも、その人なりの
使いまわし方みたいな使用法もありだと思う。
多分そういうことも頭が適度に悪いから可能なのだと思う。
といっても、人によっては嫌味な書き方するなあと読む人もいるかも
しれない。あまり使わない語彙使うこともあるから、自分で本当は
頭悪いなんて思ってもいないでしょ、と読む人もいるかもしれない。
語彙を使えることと、意味をしっかり分かっているということは違う。
意味のとらえ方も正統的、異端的、主流的、傍流的、多分いろいろ
だと思う。知識の民主化そのものを嫌っている人もいるかもしれない。
民衆が知識を使うことで意味がずれ、あるいは堕落していくと。
魔女が異端審問かけられたようなことは現代でも起こりうると個人的
には思う。火あぶりといった形ではさすがに行われないとしても、もっと
隠微なやりかたで疎外されると思う。
イレギュラーな反応、あるいはイレギュラーな読みが創造的に機能する
ことはありうるのだろうか?
進化の起源がDNAの転写まちがいであるケースもありうる
ようにミームの場合でも同じようなことはおこりうるだろう。
ただしDNAの場合もそうであるようにむしろ破壊的に働くことが多かろう
と思う。あるいは中立的で単なるノイズとしてあつかわれるというか。
全体のコントロールが難しいネットの世界ではよくもわるくも自然のいとなみ
としてミームの集合的な編集が行われているように思う。熱運動みたいな
感じで細胞の中の分子が烏合衆参しているような感じで、ネットワーク中の
個人も何かゲームめいたことをしているのもしれない。
あまり深いことは考えずにガラクタを吐き出せばいいのかもしれない。
DNA中にはイントロンという領域がある。機能をもたないガラクタのような
領域。でも、何かの折に意味をもちはじめ、リクルートされるような感じで
代謝機能中のどこかのパートをうけもつかもしれない。
ガラクタのような記号列でも読み手にとっては意味をもつということも
たまにはあるような気がする。意味そのものにはなっていなくても、
ブログ全体の雰囲気を演出する何かの要素にはなっているかもしれないし。
頭の痛くなるような(別に全然痛くないという人もたくさんおられるだろう)のは
そろそろやめよう。
P.S 頭のよし悪し、といってもどこを基準にとるかで話は違ってくる。
そう書くと偏差値的な序列の世界を思い出し、吐き気がしてくる。
おまけに背伸びをしたような書き方はとても見苦しい。まあ、公刊された本の
書き手にも、やけにものものしい書き方をしてしまうひともいるから、自分をよりよく
見せようと思うのは業みたいなものかもしれない。
はじめての方へ
私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
2013年4月14日日曜日
本質的に新しい考え方のカケラ
本質的に新しいなどと書くのは誰でもできそうだけど、
それを実現するのは難しそうだ。
新しいものなら、案外多くの人が日常の中で言語表現
として使っている。組み合わせの妙を考え付くのはそんなに
難しいということでもなかろう。
そこに本質的と冠がかかると難しくなる。
生き物で例えると品種レベルでの新種なのか、
種レベルでの新種か、属レベルなのか、門レベルなのか?
同じような例えは生み出したものの新しさについても
成り立つと思う。生み出したものはどういう母集団の中の
バリエーションになるのだろうか?という発想だ。
容易推考、すなわちその材料を与えられたら誰でも
思いつくという範囲を越えて、その人でないと思いつかない
ようなものごとはどうやったら生み出せるのだろう?
たとえカケラのようなもの糸口にしか過ぎないようなもの
だとしても、そういったものをこの世に引き出すにはどういう
努力をすればいいのだろう?
ここで思いつくのは、私にとってのネットの世界は非常に
多くの、おそらく大部分は無名の人の共同作業によって
成り立っているという事実だと思う。
”無名の人の共同作業”とかなんとか文字列を思いついたら
検索かけてみる。今やってみたのだけど、
残念ながら釣れなかった。多分このテーマで書いたら何か
一席できるだろう。まあ、よく探せば似たような話題もどこか
にあるかもしれない。
気になる文字列で釣り上げた文章はEvernoteにスクラップ
ブックみたいに貯めている。何となく読みながら、なんとなく
一度は忘れてしまう。
で、全然違うところで文章書いていると、過去読んだ文章の
切れ端みたいなのが浮かんできて、そういうのを織り合わせて
文章書いているような気がする。
私もまた無名の人々のうちの一人だから、食物連鎖のように
情報やアイデアは誰かに食べられて、またそれが誰かへと
いった生態系になっているのかもしれない。
有名無名は微妙な差異であり、どちらにしても大部分の人は
時間が過ぎていくと忘れられる。大いなる歴史の河の流れに
紛れ込んでしまう。現代は情報が変なところに残ってしまい、
変なタイミングで、変な仕方でまた表面に浮き上がるという
可能性もないではない。
食物連鎖に戻ると、食物連鎖のピラミッドの上位階層、
下位階層に関わらず、重要な種が存在するということである。
情報生態系内のアイデア移動についても、後で追跡可能かも
しれない。そのアイデアがどこで発生したか、あるいはアイデア
の組み合わせがどこで出会ったかみたいなことも追跡可能に
なるのかもしれないと薄らながら思う。個人情報の収集が問題
になっているけれども、案外、小さな個人の業績を守るという
方向で使われることもあるかもしれない。
誰もが事実を知りたいと思う。真実を知りたいと思う。
2013年の真実って一体何なのだろう?誰かが何かを書き込んだ
あるいは描いた、公開した、そのことの結果は何だろう?
後世への影響は何だろう?
今までは草の根の個人にそんな力はないとされてきた。体よく
横取りさえできたのかもしれない。でも痕跡は意外と残る。
今の時代、アイデアが生まれ出てくる現場の息遣いさえ保存
可能なのかもしれない。
別に私自身が何やら特別な個人というわけではない。ただ何となく
思うのはネットの海に埋もれている個人、あるいは情報の中に
何かが隠れているのではないだろうか?ということ。
宮沢賢治にしろ、ヘンリーダーガーにしろ、誰かに発見され、
評価が集まると皆が崇め始める。
私思うのだけど、ネットの海の中でただで手に入るコンテンツの
中にも似たようなものが混じりこんでいるのではないかと思うの
だ。だから自分の目を養っていきたい。権威筋の評価のあるなし
に関わらず、自分の目で選び取っていきたいと思うのだ。
思えば、古典中の古典とされるコンテンツであっても、十分には
受容されていないと思う。古典でさえ店晒しにされているような
感じがぬぐえない。
何しろ、図書館にいって自分の読みたい本は行列せずに大体
読むことができる。当たり前みたいだけど不思議だ。自分が
図書館である本を読んでいるとき、日本国内で、あるいは世界
に範囲を広げても誰も同じ本を読んでいないような感じがする。
そういった世界の広さ、あるいは広くなさをネット検索の世界で
学んだような気がする。組み合わせの世界の膨大さを片方に
おくと世界なんて小さい、宇宙全体もそんなに大きくないという
のが真実かもしれない。
草野球、県大会、全国大会、そして世界へ、みたいな序列で
考えると世界ってとてつもなく大きく思う。一方、文字列検索
による体感では思っているほど大きくない。
まだまだ個人が活躍可能な世界があるような気がなんとなく
するのだった。
P.S ネットの中でのアイデア移動の追跡が可能になると
面白いのではないかと思った。多元的発生が起こりそうも
ないようなアイデアを同定して、その拡散、変異みたいなも
のが追跡できると面白いと思ったのですが、、、。コンピュータ
がもっと賢くなってそういう作業が行えるようになると面白かろ
うと思った。多元的発生が起こる確率が希少なアイデアないし
文字列ってどうやって評価するのだろう?
単にアイデア発生の確率が少ないだけでなく(それは単に組み合わせ
の問題だから)、アイデアの価値が高いものってどうやって評価すれば
いいのだろう。なんだか麻雀の話にも似てきた。麻雀の役に相当する
ものが価値なのだ。私自身は、しらない人の書いた文章の価値をどう
やって値付けしているのだろう?
それを実現するのは難しそうだ。
新しいものなら、案外多くの人が日常の中で言語表現
として使っている。組み合わせの妙を考え付くのはそんなに
難しいということでもなかろう。
そこに本質的と冠がかかると難しくなる。
生き物で例えると品種レベルでの新種なのか、
種レベルでの新種か、属レベルなのか、門レベルなのか?
同じような例えは生み出したものの新しさについても
成り立つと思う。生み出したものはどういう母集団の中の
バリエーションになるのだろうか?という発想だ。
容易推考、すなわちその材料を与えられたら誰でも
思いつくという範囲を越えて、その人でないと思いつかない
ようなものごとはどうやったら生み出せるのだろう?
たとえカケラのようなもの糸口にしか過ぎないようなもの
だとしても、そういったものをこの世に引き出すにはどういう
努力をすればいいのだろう?
ここで思いつくのは、私にとってのネットの世界は非常に
多くの、おそらく大部分は無名の人の共同作業によって
成り立っているという事実だと思う。
”無名の人の共同作業”とかなんとか文字列を思いついたら
検索かけてみる。今やってみたのだけど、
残念ながら釣れなかった。多分このテーマで書いたら何か
一席できるだろう。まあ、よく探せば似たような話題もどこか
にあるかもしれない。
気になる文字列で釣り上げた文章はEvernoteにスクラップ
ブックみたいに貯めている。何となく読みながら、なんとなく
一度は忘れてしまう。
で、全然違うところで文章書いていると、過去読んだ文章の
切れ端みたいなのが浮かんできて、そういうのを織り合わせて
文章書いているような気がする。
私もまた無名の人々のうちの一人だから、食物連鎖のように
情報やアイデアは誰かに食べられて、またそれが誰かへと
いった生態系になっているのかもしれない。
有名無名は微妙な差異であり、どちらにしても大部分の人は
時間が過ぎていくと忘れられる。大いなる歴史の河の流れに
紛れ込んでしまう。現代は情報が変なところに残ってしまい、
変なタイミングで、変な仕方でまた表面に浮き上がるという
可能性もないではない。
食物連鎖に戻ると、食物連鎖のピラミッドの上位階層、
下位階層に関わらず、重要な種が存在するということである。
情報生態系内のアイデア移動についても、後で追跡可能かも
しれない。そのアイデアがどこで発生したか、あるいはアイデア
の組み合わせがどこで出会ったかみたいなことも追跡可能に
なるのかもしれないと薄らながら思う。個人情報の収集が問題
になっているけれども、案外、小さな個人の業績を守るという
方向で使われることもあるかもしれない。
誰もが事実を知りたいと思う。真実を知りたいと思う。
2013年の真実って一体何なのだろう?誰かが何かを書き込んだ
あるいは描いた、公開した、そのことの結果は何だろう?
後世への影響は何だろう?
今までは草の根の個人にそんな力はないとされてきた。体よく
横取りさえできたのかもしれない。でも痕跡は意外と残る。
今の時代、アイデアが生まれ出てくる現場の息遣いさえ保存
可能なのかもしれない。
別に私自身が何やら特別な個人というわけではない。ただ何となく
思うのはネットの海に埋もれている個人、あるいは情報の中に
何かが隠れているのではないだろうか?ということ。
宮沢賢治にしろ、ヘンリーダーガーにしろ、誰かに発見され、
評価が集まると皆が崇め始める。
私思うのだけど、ネットの海の中でただで手に入るコンテンツの
中にも似たようなものが混じりこんでいるのではないかと思うの
だ。だから自分の目を養っていきたい。権威筋の評価のあるなし
に関わらず、自分の目で選び取っていきたいと思うのだ。
思えば、古典中の古典とされるコンテンツであっても、十分には
受容されていないと思う。古典でさえ店晒しにされているような
感じがぬぐえない。
何しろ、図書館にいって自分の読みたい本は行列せずに大体
読むことができる。当たり前みたいだけど不思議だ。自分が
図書館である本を読んでいるとき、日本国内で、あるいは世界
に範囲を広げても誰も同じ本を読んでいないような感じがする。
そういった世界の広さ、あるいは広くなさをネット検索の世界で
学んだような気がする。組み合わせの世界の膨大さを片方に
おくと世界なんて小さい、宇宙全体もそんなに大きくないという
のが真実かもしれない。
草野球、県大会、全国大会、そして世界へ、みたいな序列で
考えると世界ってとてつもなく大きく思う。一方、文字列検索
による体感では思っているほど大きくない。
まだまだ個人が活躍可能な世界があるような気がなんとなく
するのだった。
P.S ネットの中でのアイデア移動の追跡が可能になると
面白いのではないかと思った。多元的発生が起こりそうも
ないようなアイデアを同定して、その拡散、変異みたいなも
のが追跡できると面白いと思ったのですが、、、。コンピュータ
がもっと賢くなってそういう作業が行えるようになると面白かろ
うと思った。多元的発生が起こる確率が希少なアイデアないし
文字列ってどうやって評価するのだろう?
単にアイデア発生の確率が少ないだけでなく(それは単に組み合わせ
の問題だから)、アイデアの価値が高いものってどうやって評価すれば
いいのだろう。なんだか麻雀の話にも似てきた。麻雀の役に相当する
ものが価値なのだ。私自身は、しらない人の書いた文章の価値をどう
やって値付けしているのだろう?
2013年4月11日木曜日
我が家の味噌と世界観
また古い話で申し訳ないのだけど、昔は各々の家で味噌をつくって
いた時代もあるのだそうだ。
各々の家には自然にコウジカビの生態系みたいなのが潜在的に
あって、味噌をつくるとその家の味噌の味ができあがるそうなのだ。
世界観というのも似たようなものなのではないだろうか?
同じ時代に生き、同じ国や地域に住んでいたとしても、ちょっとした
偶然などが隠し味になって関心の重点が違ってくる。
たぶん我が家のコウジカビを同定していくような作業が必要なのでは
ないだろうか?まあ、自分を知っていくということでもあるし、自分の中
にある要素を拾い上げていくということになるのだと思う。
たとえば、普通は世界観と我が家の味噌は必ずしも結びつかないよう
に思う。ひょっこりインスタントに閃いただけなのだけど、偶然で結びついた
私だけの組み合わせを手掛かりにする。
手掛かりという言葉は普通の会話でも使うけど、より専門的にはロック
クライミングの世界で使う。広い世界で使うようになった用語も元をただせば
専門用語だったということもある。そういったときに、元の意味を知っておくと
皆が使う言葉でも自分なりの解釈で使うことができるようになる。そういった
言葉を思考の道具として使い、自分なりの世界を育てていく。
各々の人は歴史的な存在。それぞれのライフストーリーの経路は違う。
そして、本人は本人だけで成り立っていなくて、継承するなり、反発するなり
して親の影響は受けている。もちろん、その親もいる。そんな感じで一人の
人は大いなる時間の流れのどこかにいる。そういったようなことも意識化
していく。遠回りにはなるのかもしれないけれど、自分が立っている大地や
時間を含めて自分の世界を見つけて、それを忠実に表現することができた
らもっとも自分らしいものが出来上がるのではないだろうか?ここに書いた
ことはまったく陳腐なことではあるけれど、本人というものを通さずに他者の
ものを表面的に取り入れても仕方がないのではないかと思うのだ。
言葉は悪いけど、紳士服みたいな感じかもしれない。紳士という存在とは
かけ離れたものとして日本ではサラリーマンの仕事着になっている。
ある意味、表面的、ある意味、日本文化独自の解釈ということになる。
当初は猿まねだったものが意味がどんどんずれてきて面白い効果を生み
だしたということになるのかもしれない。素材としては他者から受け入れて、
自文化流の再解釈をほどこしたともいえる。昔は呉服と言われたキモノも
そんなものかもしれない。
現代文明全体をホームセンターと見立ててみるのはいかがだろう。
現代文明全体といって大風呂敷とするならば、図書館でもいいし、
今朝の新聞にまで縮尺してもいい。まだ、話はピンとこないだろうから
続けてみる。世の中には発明好きな人がいて、ホームセンターや
100円ショップで買ってきた素材を組み合わせて自分だけの道具を
作ってしまう人がいる。理系の研究室の人なども、使える素材はない
かといつも物色しているらしい。そんな感じで、素材の提供先として
世の中全体を眺めてみる。世の中、閉塞気味だと言われるけれど、
ホームセンターとしての世の中を使いこなせる人がいないということ
が一面にはあるらしい。私もエラそうなことは言えない。せいぜい
一席、ブログでもっともらしいオハナシを作り上げるだけだ。
部品を買ってきて、パソコン組み上げるようなものである。創造性
というよりは晩御飯のおかずをつくるような感じだ。ちなみに料理
関係の本、それも料理の人類学のような本は使える。料理はもっと
も古いテクノロジーの一つだと思う。だから要素を組み合わせて何
か新しいものを作り出す上で基本になるような考え方、ヒントがみつかる
ときがある。直接みつからなくても、そういうことを片一方で頭に置きながら
料理の本をめくるのは愉しい。
今日はネタ帳公開みたいな日になってしまった。どうせいつかは脳は朽ちてしまう。
人によってはガラクタみたいに、でも掘り出し物みつけたという人も稀には
いるだろう。
いた時代もあるのだそうだ。
各々の家には自然にコウジカビの生態系みたいなのが潜在的に
あって、味噌をつくるとその家の味噌の味ができあがるそうなのだ。
世界観というのも似たようなものなのではないだろうか?
同じ時代に生き、同じ国や地域に住んでいたとしても、ちょっとした
偶然などが隠し味になって関心の重点が違ってくる。
たぶん我が家のコウジカビを同定していくような作業が必要なのでは
ないだろうか?まあ、自分を知っていくということでもあるし、自分の中
にある要素を拾い上げていくということになるのだと思う。
たとえば、普通は世界観と我が家の味噌は必ずしも結びつかないよう
に思う。ひょっこりインスタントに閃いただけなのだけど、偶然で結びついた
私だけの組み合わせを手掛かりにする。
手掛かりという言葉は普通の会話でも使うけど、より専門的にはロック
クライミングの世界で使う。広い世界で使うようになった用語も元をただせば
専門用語だったということもある。そういったときに、元の意味を知っておくと
皆が使う言葉でも自分なりの解釈で使うことができるようになる。そういった
言葉を思考の道具として使い、自分なりの世界を育てていく。
各々の人は歴史的な存在。それぞれのライフストーリーの経路は違う。
そして、本人は本人だけで成り立っていなくて、継承するなり、反発するなり
して親の影響は受けている。もちろん、その親もいる。そんな感じで一人の
人は大いなる時間の流れのどこかにいる。そういったようなことも意識化
していく。遠回りにはなるのかもしれないけれど、自分が立っている大地や
時間を含めて自分の世界を見つけて、それを忠実に表現することができた
らもっとも自分らしいものが出来上がるのではないだろうか?ここに書いた
ことはまったく陳腐なことではあるけれど、本人というものを通さずに他者の
ものを表面的に取り入れても仕方がないのではないかと思うのだ。
言葉は悪いけど、紳士服みたいな感じかもしれない。紳士という存在とは
かけ離れたものとして日本ではサラリーマンの仕事着になっている。
ある意味、表面的、ある意味、日本文化独自の解釈ということになる。
当初は猿まねだったものが意味がどんどんずれてきて面白い効果を生み
だしたということになるのかもしれない。素材としては他者から受け入れて、
自文化流の再解釈をほどこしたともいえる。昔は呉服と言われたキモノも
そんなものかもしれない。
現代文明全体をホームセンターと見立ててみるのはいかがだろう。
現代文明全体といって大風呂敷とするならば、図書館でもいいし、
今朝の新聞にまで縮尺してもいい。まだ、話はピンとこないだろうから
続けてみる。世の中には発明好きな人がいて、ホームセンターや
100円ショップで買ってきた素材を組み合わせて自分だけの道具を
作ってしまう人がいる。理系の研究室の人なども、使える素材はない
かといつも物色しているらしい。そんな感じで、素材の提供先として
世の中全体を眺めてみる。世の中、閉塞気味だと言われるけれど、
ホームセンターとしての世の中を使いこなせる人がいないということ
が一面にはあるらしい。私もエラそうなことは言えない。せいぜい
一席、ブログでもっともらしいオハナシを作り上げるだけだ。
部品を買ってきて、パソコン組み上げるようなものである。創造性
というよりは晩御飯のおかずをつくるような感じだ。ちなみに料理
関係の本、それも料理の人類学のような本は使える。料理はもっと
も古いテクノロジーの一つだと思う。だから要素を組み合わせて何
か新しいものを作り出す上で基本になるような考え方、ヒントがみつかる
ときがある。直接みつからなくても、そういうことを片一方で頭に置きながら
料理の本をめくるのは愉しい。
今日はネタ帳公開みたいな日になってしまった。どうせいつかは脳は朽ちてしまう。
人によってはガラクタみたいに、でも掘り出し物みつけたという人も稀には
いるだろう。
2013年4月10日水曜日
自分の内側の世界をでっちあげること
まず、最初の前提だけど、今の私は内側を覗き込んでみても
真っ暗な虚空で何のビジョンが浮き上がるというわけでもない。
急性期のときも、考えたことが事実になるという感じで(もちろん
私の中での話だけど)、言語的な要素が大きかった。体感幻覚
みたいなものはあったけど。
明晰夢をたまに見る時期も若いころはあったけど、あれが病気
とどういう関係にあるのかは知らない。もちろん健康な人でも
明晰夢をみることはあるみたいだし。
そういうわけで誠実に表現するならば、「自分の内側の世界
をでっちあげる」という表現が適当であるように思う。
もとより、いわゆるアウトサイダーアート風の、病気の真っただ中
に描かれた感じの世界を描いてみたいとは思わないし、できもし
ないだろう。
よく言われる話が精神病の軽症化との兼ね合いで、最近は
ああいう感じの画を「描ける」ひとが減ってきたみたいな言われ方
がする。たしかにそれはもっともな話だけど、薬のおかげで状態が
よくなったからこそ描ける世界もまたあるのではなかろうかとも
思うのだ。
私は「世界の深層」とか「あちらの世界」を形象化したいと思う欲望
はあるけど、「病気の世界」を形象化しようという欲望はあまりない。
そちらは資料程度でいい。
健常なひとからみると、「世界の深層」だの「あちらの世界」だのと
いってもそりゃ「病気の世界」じゃないかと思うに違いない。
私も「何か」を垣間見ただけだから、悟ったふうなことは書く資格なんて
全くない。でも、そこには若干の微妙な差異があるような気がするのだ。
「何か」を見た、としても、その画を完成させるために、自分だけの記憶
の中から恣意的にパズルの断片を強引に力任せにはめ込む、そういう
ものに見えてしまうのだ。これが私からみた「病気の世界」。
それはそれとして興味深いものが仕上がるのだろうけど、「何か」をみた、
それは始まりであって、きっかけであって、その体験を本当に意味あるもの
としたいのなら、虚心坦懐にこの世界のいろいろなことを学ぶという作業も
必要なのではないだろうか?といっても、それさえも独りよがりで終わる
確率もたかそうではあるけれど。
世間の人はそういったものに興味をもたないかもしれないし、何か
インパクトのある世界みたいなものを見たいのかもしれない。世間は世間
できっとみたいものがあるのだから、そちらはそちらでいいだろう。
「世界の深層」だの「あちらの世界」だのといった大仰な世界は今の
私には重すぎる。もうちょっと若い頃に、その頃ならときたま起こった
超越的な気分に任せて何か描いたらそういったものが描けたのかも
しれない。若気の至りでこそ描ける世界なのかもしれない。
超越的な気分と何がしかの世界の知識の断片と置き換わるように
蓄積されていったが、加齢のためだんだんそちらも怪しくなってきた。
気のせいかもしれないけど、脳の老化も早いのじゃないかと最近疑っている。
画の世界ではご老体の人も頑張っている。クリエイティブな世界で一番
年老いてからも現役でいられる世界の一つが画の世界みたいだ。研究者
の世界よりは賞味期間が長いらしい。とはいっても私のような素人が吠えて
みても詮無きことだ。
要するに精神病が軽症化したからこそ描ける世界もあるのではないか
と思っただけのこと。「世界の深層」も「あちらの世界」も忘れてこちらの世界の
一員として漫然と日々を送っている人々も多いだろうけど、中にはそうでない
人々もいるだろう。健全とはいえないかもしれないけれど。
変わった人の範囲内で収まり、病気を再燃させるわけでもなかったとする
ならばそういう人生もアリかなと思うのだった。UFO研究家、オカルト博士、
等々、ヘンなヒトなら巷にも多い。科学用語を悪用、誤用したりしてそちらの
世界に迷惑をかけるというわけでもないとすると、別に私みたいな存在が
社会の片隅にいたところで、この世をささやかながら面白くはしても、悪く
はしないだろうと思う。一旗揚げようとかそういう野心があるわけでもないので。
P.S 本は、とりわけ専門書は部分的な知識は授けてくれるけれども、世界像は
各自自前で作らなければならないのだと思う。そのために皆毎日、新聞を読み、
テレビを見る。よく探せば、誰かが作った世界像みたいなものも提供されている
のかもしれないし、時間もないので、既成の世界像を取り入れるということに多く
の人はなるのだろうけど、私はそれでは物足りない。ハンドメイドだから見栄えの
いいものは出来上がらないにしても、自前で作りたいものだと切に思う。
真っ暗な虚空で何のビジョンが浮き上がるというわけでもない。
急性期のときも、考えたことが事実になるという感じで(もちろん
私の中での話だけど)、言語的な要素が大きかった。体感幻覚
みたいなものはあったけど。
明晰夢をたまに見る時期も若いころはあったけど、あれが病気
とどういう関係にあるのかは知らない。もちろん健康な人でも
明晰夢をみることはあるみたいだし。
そういうわけで誠実に表現するならば、「自分の内側の世界
をでっちあげる」という表現が適当であるように思う。
もとより、いわゆるアウトサイダーアート風の、病気の真っただ中
に描かれた感じの世界を描いてみたいとは思わないし、できもし
ないだろう。
よく言われる話が精神病の軽症化との兼ね合いで、最近は
ああいう感じの画を「描ける」ひとが減ってきたみたいな言われ方
がする。たしかにそれはもっともな話だけど、薬のおかげで状態が
よくなったからこそ描ける世界もまたあるのではなかろうかとも
思うのだ。
私は「世界の深層」とか「あちらの世界」を形象化したいと思う欲望
はあるけど、「病気の世界」を形象化しようという欲望はあまりない。
そちらは資料程度でいい。
健常なひとからみると、「世界の深層」だの「あちらの世界」だのと
いってもそりゃ「病気の世界」じゃないかと思うに違いない。
私も「何か」を垣間見ただけだから、悟ったふうなことは書く資格なんて
全くない。でも、そこには若干の微妙な差異があるような気がするのだ。
「何か」を見た、としても、その画を完成させるために、自分だけの記憶
の中から恣意的にパズルの断片を強引に力任せにはめ込む、そういう
ものに見えてしまうのだ。これが私からみた「病気の世界」。
それはそれとして興味深いものが仕上がるのだろうけど、「何か」をみた、
それは始まりであって、きっかけであって、その体験を本当に意味あるもの
としたいのなら、虚心坦懐にこの世界のいろいろなことを学ぶという作業も
必要なのではないだろうか?といっても、それさえも独りよがりで終わる
確率もたかそうではあるけれど。
世間の人はそういったものに興味をもたないかもしれないし、何か
インパクトのある世界みたいなものを見たいのかもしれない。世間は世間
できっとみたいものがあるのだから、そちらはそちらでいいだろう。
「世界の深層」だの「あちらの世界」だのといった大仰な世界は今の
私には重すぎる。もうちょっと若い頃に、その頃ならときたま起こった
超越的な気分に任せて何か描いたらそういったものが描けたのかも
しれない。若気の至りでこそ描ける世界なのかもしれない。
超越的な気分と何がしかの世界の知識の断片と置き換わるように
蓄積されていったが、加齢のためだんだんそちらも怪しくなってきた。
気のせいかもしれないけど、脳の老化も早いのじゃないかと最近疑っている。
画の世界ではご老体の人も頑張っている。クリエイティブな世界で一番
年老いてからも現役でいられる世界の一つが画の世界みたいだ。研究者
の世界よりは賞味期間が長いらしい。とはいっても私のような素人が吠えて
みても詮無きことだ。
要するに精神病が軽症化したからこそ描ける世界もあるのではないか
と思っただけのこと。「世界の深層」も「あちらの世界」も忘れてこちらの世界の
一員として漫然と日々を送っている人々も多いだろうけど、中にはそうでない
人々もいるだろう。健全とはいえないかもしれないけれど。
変わった人の範囲内で収まり、病気を再燃させるわけでもなかったとする
ならばそういう人生もアリかなと思うのだった。UFO研究家、オカルト博士、
等々、ヘンなヒトなら巷にも多い。科学用語を悪用、誤用したりしてそちらの
世界に迷惑をかけるというわけでもないとすると、別に私みたいな存在が
社会の片隅にいたところで、この世をささやかながら面白くはしても、悪く
はしないだろうと思う。一旗揚げようとかそういう野心があるわけでもないので。
P.S 本は、とりわけ専門書は部分的な知識は授けてくれるけれども、世界像は
各自自前で作らなければならないのだと思う。そのために皆毎日、新聞を読み、
テレビを見る。よく探せば、誰かが作った世界像みたいなものも提供されている
のかもしれないし、時間もないので、既成の世界像を取り入れるということに多く
の人はなるのだろうけど、私はそれでは物足りない。ハンドメイドだから見栄えの
いいものは出来上がらないにしても、自前で作りたいものだと切に思う。
2013年4月8日月曜日
社会のインフラに支えられた存在として
陳腐な話ではあるけど、自然災害などの現実を前にすると
私たちは社会のインフラに支えられた存在であることが
痛いほどわかる。
そして、それは全体社会のような大きな社会だけでなく、
なになに界と呼ばれている下位の社会についてもいえそう
だ。
私はどちらかというと今までニート的な立場にいて、
アウトサイドな方向からなになに界と呼ばれる社会に対して
排他的だと捉え、苦々しいようなまなざしで見ていたように
思う。
でも冷静に考えると、なになに界と呼ばれている下位の社会
はそれぞれ歴史をもち、歴史を担っている人々がその社会を
支え、その社会で生きられるようにソフト、ハード面を構築したり、
維持したりといった活動をされてきたということになると思う。
フラット化によって、知識は社会全体からアクセスできるよう
になり、断片的な知識ではあるけれど私のようなものにも
届くようになった。断片的な知識とはいっても組み合わせ方
編み方によれば強力な武器となる。といっても、ここまで
抽象的な書き方になっているように、あんまり私も物事が
分かっているのではなく、単に言葉をこねくりまわして
考えているだけである。
ニート的な立場にいて、図書館で黙々と本を読んで、
社会を外側から捉えるという努力ではなく、どこかの
組織の一員になり、周辺的な場所を得ると生に近い
情報が流れてくる。そういった生に近い情報の流れに
身を浸せるかどうかがインサイドとアウトサイドの分水嶺
になるのかもしれないとも思う。
今まで書いたことはその社会にいる人にとっては常識
レベルの話かもしれないし、今なお私は浅いレベルで
しか物事を理解していないのかもしれない。
今まで、理解あるいは誤解している内容を整理のために
メモ書きしてみた。
舞台の隅が居心地がいいのかも
どうも晴れの舞台というものがニガテだ。
カラオケで10人くらいを相手に盛り上がる
という位が私には丁度よく、そのくらいの
スケールを越えると緊張してしまう。
そんな私にも舞台からおよびがかかることがある。
随分前に地元の大学の心理学の先生と二人で
80人くらいの前で自分の体験などをしゃべった
ことがある。一人ではなかったので、たぶん奇跡的
にアガりを抑えつつ場をもたせることができた。
仮想世界セカンドライフでも舞台みたいなところ
だったり、テレビのスタジオみたいなところだったり
に出演させてもらったのだけど、こっちは文字通り
緊張してしまい、手がガクガク震えて文字打ちが
できなかったことを覚えている。
限りなく舞台に近い状況、衆人環境の中で有名な
人と対話状態、こういうことは稀にあるのだけど、
わりと平気なのに、私一人にスポットライトがあたり
そうになるとコチコチになる。そのあたりの心理
状態がまったく不思議だ。
でたがりなのでこんなところでものを書いている、
それは否定しない。最初の頃はともかく、ネット
で公開といってもたくさんの人が見るというわけ
でもないし、そんなに緊張しない。多分、慣れで
あって、注目されるのに慣れると苦痛から快感
に変わる、そういうものかもしれないとも思う。
そうはいうものの舞台の隅、ネットや社会という
舞台の隅で吠えているのが居心地がいいのかも
しれないと思う。
一人ひとりに十分な時間を割くことができる、こう
いうのは舞台の隅にいるものの特権だ。それに
どんなに知り合いが多い人でも、本当に濃いつき
あいができる人数は知れている。そして、器を選ぶ
ようにしてその少数の人を選ぶみたいなことは
人間としてしたくはない。もちろん、そうしなければ
いけないような状況でもないし、自然に近くにいる
ひとと、それぞれの時間を過ごしているような感じ
だ。私にはそういうのが合っている。
今でさえ、対人距離には神経使いながら近所づき
あいをしている位だから、近所の数が増えたら、
神経が衰弱してしまう。
こういう書き方を酸っぱいブドウみたいな感じで
読んでいる人もいるかもしれないけど、それは
それで構わない。今、人に見せるためというより
は自分で整理するために書いているような気が
するのだけど、言語化してみると以上のような
感じになるのだろう。
和光同塵という言葉にあこがれる。私がそういう
存在だと言い立てるつもりはこれっぽっちもない
のだけど、そういう人がこの空の下のどこかに
いてほしいとだけは思っている。そして、そのかけら
であれば、案外多くの人がもっているのかもしれない
し、退屈な日常生活と言われているものはそういった
かけらのようなものやひとときに支えられている
ように思う。
社会はそれ程悪い場所でもない、とたまに思ったり
するそういう気持ちがおきるひとときに和光同塵
という言葉を当てたい。
そんな潤いが多くの人を世間という苦界に
ひきとめているように思う。
カラオケで10人くらいを相手に盛り上がる
という位が私には丁度よく、そのくらいの
スケールを越えると緊張してしまう。
そんな私にも舞台からおよびがかかることがある。
随分前に地元の大学の心理学の先生と二人で
80人くらいの前で自分の体験などをしゃべった
ことがある。一人ではなかったので、たぶん奇跡的
にアガりを抑えつつ場をもたせることができた。
仮想世界セカンドライフでも舞台みたいなところ
だったり、テレビのスタジオみたいなところだったり
に出演させてもらったのだけど、こっちは文字通り
緊張してしまい、手がガクガク震えて文字打ちが
できなかったことを覚えている。
限りなく舞台に近い状況、衆人環境の中で有名な
人と対話状態、こういうことは稀にあるのだけど、
わりと平気なのに、私一人にスポットライトがあたり
そうになるとコチコチになる。そのあたりの心理
状態がまったく不思議だ。
でたがりなのでこんなところでものを書いている、
それは否定しない。最初の頃はともかく、ネット
で公開といってもたくさんの人が見るというわけ
でもないし、そんなに緊張しない。多分、慣れで
あって、注目されるのに慣れると苦痛から快感
に変わる、そういうものかもしれないとも思う。
そうはいうものの舞台の隅、ネットや社会という
舞台の隅で吠えているのが居心地がいいのかも
しれないと思う。
一人ひとりに十分な時間を割くことができる、こう
いうのは舞台の隅にいるものの特権だ。それに
どんなに知り合いが多い人でも、本当に濃いつき
あいができる人数は知れている。そして、器を選ぶ
ようにしてその少数の人を選ぶみたいなことは
人間としてしたくはない。もちろん、そうしなければ
いけないような状況でもないし、自然に近くにいる
ひとと、それぞれの時間を過ごしているような感じ
だ。私にはそういうのが合っている。
今でさえ、対人距離には神経使いながら近所づき
あいをしている位だから、近所の数が増えたら、
神経が衰弱してしまう。
こういう書き方を酸っぱいブドウみたいな感じで
読んでいる人もいるかもしれないけど、それは
それで構わない。今、人に見せるためというより
は自分で整理するために書いているような気が
するのだけど、言語化してみると以上のような
感じになるのだろう。
和光同塵という言葉にあこがれる。私がそういう
存在だと言い立てるつもりはこれっぽっちもない
のだけど、そういう人がこの空の下のどこかに
いてほしいとだけは思っている。そして、そのかけら
であれば、案外多くの人がもっているのかもしれない
し、退屈な日常生活と言われているものはそういった
かけらのようなものやひとときに支えられている
ように思う。
社会はそれ程悪い場所でもない、とたまに思ったり
するそういう気持ちがおきるひとときに和光同塵
という言葉を当てたい。
そんな潤いが多くの人を世間という苦界に
ひきとめているように思う。
2013年4月5日金曜日
いつの間にやら屋根裏部屋ができた話
前も書きましたが、長屋みたいな感じの家に前は
住んでいました。下町の木造家屋。
木造家屋というのは改築が結構ききます。粘土
細工とまではいかないものの、削ったり継ぎ足したり
いろいろ可能なのです。
ホーマンさんという名の家いつもきてくれる大工さん
がいらっしゃって、(子供だったのでどんな漢字だった
のかわかりません)お風呂つくってくれたり、なにかと
お世話になっていました。
あるとき、何のはずみか屋根裏部屋がほしいと父に
いいました。父はうん、いいよ。といってくれたのです
が、こういうことは我が家にはよくあるのです。どうせ
だめだろうと思いました。いつもこんな感じになるの
です。
家族会議の中で、今年の夏は富士山に行こう、という
話で盛り上がります。でも、その話はあっという間に
福岡になり、熊本になり、霧島になり、、、、最後は
いつも山形屋に買い物に行こうぐらいに終わってし
まうのでした。たぶん我が家の家計ではそういう感じ
だったのでしょう。皆で行った家族旅行といえば、
選挙がらみで徳之島に帰郷したの除けば、指宿の
どこかよく知らないホテルでの一泊旅行だけでした。
だから、また、似たような話に終わるのだろうとたか
をくくっていました。でも作ってくれたのです。
勉強机代わりに使っていた押入れが階段になり、
屋根裏の世界に通じていくのでした。やっと子供部屋
というものをもつことができるようになったのです。
べニア板で仕切られた粗末な空間と言ってしまえば
そうでした。もちろん天井は斜め。マーケットと呼ばれていた
長屋風の建物なので屋根は一方向の斜面でした。
戦後復興の時期にできた建物なので柱だけはしっかり
していて、丸く木の皮が残っている感じが好きでした。
夏は暑く、冬は寒いというのが難点でした。逆に屋根裏
の空間が緩衝になって室内の温度が調節されている
ことを子供なりに学んだものです。
ラジオの深夜放送が楽しみでした。親も寝てしまった
後、勉強するふりをしながら鹿児島のラジオ局ばかり
でなく、九州朝日放送や、MBS大阪、東海ラジオ放送
や文化放送、ニッポン放送など聞いていました。
仮想世界セカンドライフで自分なりに空間をつくっている
ときに、大工さんのことやら、屋根裏部屋のことやら
ちょっぴり思い出します。改造ができる木造家屋の自由さ
みたいな感覚を生かしていけたらなあと思うのです。
住んでいました。下町の木造家屋。
木造家屋というのは改築が結構ききます。粘土
細工とまではいかないものの、削ったり継ぎ足したり
いろいろ可能なのです。
ホーマンさんという名の家いつもきてくれる大工さん
がいらっしゃって、(子供だったのでどんな漢字だった
のかわかりません)お風呂つくってくれたり、なにかと
お世話になっていました。
あるとき、何のはずみか屋根裏部屋がほしいと父に
いいました。父はうん、いいよ。といってくれたのです
が、こういうことは我が家にはよくあるのです。どうせ
だめだろうと思いました。いつもこんな感じになるの
です。
家族会議の中で、今年の夏は富士山に行こう、という
話で盛り上がります。でも、その話はあっという間に
福岡になり、熊本になり、霧島になり、、、、最後は
いつも山形屋に買い物に行こうぐらいに終わってし
まうのでした。たぶん我が家の家計ではそういう感じ
だったのでしょう。皆で行った家族旅行といえば、
選挙がらみで徳之島に帰郷したの除けば、指宿の
どこかよく知らないホテルでの一泊旅行だけでした。
だから、また、似たような話に終わるのだろうとたか
をくくっていました。でも作ってくれたのです。
勉強机代わりに使っていた押入れが階段になり、
屋根裏の世界に通じていくのでした。やっと子供部屋
というものをもつことができるようになったのです。
べニア板で仕切られた粗末な空間と言ってしまえば
そうでした。もちろん天井は斜め。マーケットと呼ばれていた
長屋風の建物なので屋根は一方向の斜面でした。
戦後復興の時期にできた建物なので柱だけはしっかり
していて、丸く木の皮が残っている感じが好きでした。
夏は暑く、冬は寒いというのが難点でした。逆に屋根裏
の空間が緩衝になって室内の温度が調節されている
ことを子供なりに学んだものです。
ラジオの深夜放送が楽しみでした。親も寝てしまった
後、勉強するふりをしながら鹿児島のラジオ局ばかり
でなく、九州朝日放送や、MBS大阪、東海ラジオ放送
や文化放送、ニッポン放送など聞いていました。
仮想世界セカンドライフで自分なりに空間をつくっている
ときに、大工さんのことやら、屋根裏部屋のことやら
ちょっぴり思い出します。改造ができる木造家屋の自由さ
みたいな感覚を生かしていけたらなあと思うのです。
登録:
投稿 (Atom)
