欧米人は起承転結という書き方を好まない。
論理的でないので何が言いたいのか伝わらない
らしい。
一方日本人にとってはリニアな論理的な書き方は
もしかしたら退屈に映るのかもしれない。
転という揺らぎをどうしても入れたがる。
転という揺らぎを入れることで、文章の複雑さは
上がる。
でも転、転となってしまうと飛びすぎてわけの
わからない文章になってしまう。
そのあたりのバランス感覚というのが東洋人に
とって大切にされるのかもしれない。
少しの揺らぎが複雑さをあげて、退屈さから
文章を救い、それが行き過ぎない程度に抑えられ
いる。
転は文章の中のトリックスターなのだ。
はじめての方へ
私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
2012年9月4日火曜日
一歩手前の秩序
部屋の中も、PCも、そしてアタマの中も混沌として
ゴミ屋敷に近くなっている。
ゴミを宝に変えたり、ゴミの山から宝を生み出すすべ
はないのだろうか?
一つのキーポイントは「整理」で整理されることで
ゴミは宝に化ける。分別されればゴミも宝とはよく
言うではないか?
しかし、一方である程度の「混沌」もまた何か面白い
ものを生み出す要素であるような気がする。
関係あるかないかわからないけど、台湾旅行で
安宿のドミトリーに泊まっていた際に同室の香港
在住の白人の人らと一緒に夜の台北市街に出て
行った。
長期滞在中のその白人(白人なのに中国語ペラペラ
で漢字もスラスラというのは不思議に映った)は
綺麗な店には目もくれず、入ったところは老夫婦が営んでいる
小さな小汚い店だった。そこがとっても美味かった。
混沌の面白さというとき、なぜかそのエピソードが
浮かんでくる。
アタマの中の話にもカオスの縁というのはあるのでは
ないだろうか?完全なるカオスでもなく、きまりきった
秩序でもない領域が複雑といえば複雑なのかもしれない。
ゴミ屋敷に近くなっている。
ゴミを宝に変えたり、ゴミの山から宝を生み出すすべ
はないのだろうか?
一つのキーポイントは「整理」で整理されることで
ゴミは宝に化ける。分別されればゴミも宝とはよく
言うではないか?
しかし、一方である程度の「混沌」もまた何か面白い
ものを生み出す要素であるような気がする。
関係あるかないかわからないけど、台湾旅行で
安宿のドミトリーに泊まっていた際に同室の香港
在住の白人の人らと一緒に夜の台北市街に出て
行った。
長期滞在中のその白人(白人なのに中国語ペラペラ
で漢字もスラスラというのは不思議に映った)は
綺麗な店には目もくれず、入ったところは老夫婦が営んでいる
小さな小汚い店だった。そこがとっても美味かった。
混沌の面白さというとき、なぜかそのエピソードが
浮かんでくる。
アタマの中の話にもカオスの縁というのはあるのでは
ないだろうか?完全なるカオスでもなく、きまりきった
秩序でもない領域が複雑といえば複雑なのかもしれない。
2012年9月1日土曜日
重大な意味をもつテキスト
ひとびとの欲望として、重大な意味をもつテキスト
を生み出したいというものがある。
テキストといっても文字とは限らずなんらかの
表現という広がりをもったものかもしれない。
今の時代、それは本を出版するという手続き
をとらないでもネット上で書き込みするだけで
十分達せられるような気がする。
本という単位ではなく、記事単位の中に
後あと効いてくる表現があるに違いない。
それらは検索によって呼び出される。
検索可能なことが大事なことなのかもしれない。
露天掘りのようにそれらは多くの人によって
掘り出される。意味のあるテキストであれば、
詳細なるテキストがあとに続くことになるのだ
けど、第一発見者や、そのことの大事さを世間に
先駆けて知った人は重要に違いない。
ところでしばらく前から私は何をやっているのだろう?
思いついた文字列や目にした気になる文字列を
検索してみて、検索にあまり引っかからなかったとき、
あるいはその文字列の大事さを世間の人があまり
気づいていないように私に映ったとき、私はごしごしと
ものを書き始める。
この行動の初期のころのものは以下である。
http://epimbi-madrigal.blogspot.jp/2010/04/blog-post.html
「考案した言葉の種に水をやって肥料をやって育ててみることにします」
とこの中で書いた。実際には一回水やってそれっきりということが多い。
文字列というものはしっかり育てていったらものによっては
一冊の本に仕上がるものなのかもしれない。
でも、即興で考えてみただけでも、想定される本の目次の
何項目かは埋まるだろう。
それはできそこないのショートショートという風情をもつ
ものであるような気がする。
作品をつくるに先立つ素描か短歌のようなもののようにも
見える。
何を考えるともなく、そういったものをごしごし作り投げ出してみる。
人知れず書庫の底に時限爆弾のように、あるいは埋蔵経のように
重大な意味をもつテキストは眠っているのだろうか?
ネットの片隅にもそんな断片はあるのだろうか?
私なりに情報の目利きでありたい。みすぼらしい姿をした
宝物たちを見つけ出したい。
を生み出したいというものがある。
テキストといっても文字とは限らずなんらかの
表現という広がりをもったものかもしれない。
今の時代、それは本を出版するという手続き
をとらないでもネット上で書き込みするだけで
十分達せられるような気がする。
本という単位ではなく、記事単位の中に
後あと効いてくる表現があるに違いない。
それらは検索によって呼び出される。
検索可能なことが大事なことなのかもしれない。
露天掘りのようにそれらは多くの人によって
掘り出される。意味のあるテキストであれば、
詳細なるテキストがあとに続くことになるのだ
けど、第一発見者や、そのことの大事さを世間に
先駆けて知った人は重要に違いない。
ところでしばらく前から私は何をやっているのだろう?
思いついた文字列や目にした気になる文字列を
検索してみて、検索にあまり引っかからなかったとき、
あるいはその文字列の大事さを世間の人があまり
気づいていないように私に映ったとき、私はごしごしと
ものを書き始める。
この行動の初期のころのものは以下である。
http://epimbi-madrigal.blogspot.jp/2010/04/blog-post.html
「考案した言葉の種に水をやって肥料をやって育ててみることにします」
とこの中で書いた。実際には一回水やってそれっきりということが多い。
文字列というものはしっかり育てていったらものによっては
一冊の本に仕上がるものなのかもしれない。
でも、即興で考えてみただけでも、想定される本の目次の
何項目かは埋まるだろう。
それはできそこないのショートショートという風情をもつ
ものであるような気がする。
作品をつくるに先立つ素描か短歌のようなもののようにも
見える。
何を考えるともなく、そういったものをごしごし作り投げ出してみる。
人知れず書庫の底に時限爆弾のように、あるいは埋蔵経のように
重大な意味をもつテキストは眠っているのだろうか?
ネットの片隅にもそんな断片はあるのだろうか?
私なりに情報の目利きでありたい。みすぼらしい姿をした
宝物たちを見つけ出したい。
アマチュアの表現の面白さ
アマチュアの表現の面白さ、あるいは
アマチュアとしての表現の成熟みたいな話なのだけど、
生活にねざしているという要素が深くかかわっている
と思う。
今の時代、それぞれの人の生きられた環境は違う。
ネットの使い方ひとつとっても個人化されている。
そういう複雑な環境の中に住んでいる。
そして、さらにそういう人々に囲まれて、社会的環境
が成り立っている。
熱帯雨林の不可思議な昆虫や蘭の花のようなものだ。
そういった社会環境に根差したものをうまく表現できる
とそれは面白いものになるに違いない。
いかにそれぞれが面白い世界をもっていてももはや
その一つ一つの種に対して深い考察をするのが難しい
ことに似ていて、ネットの海に生息しているそれぞれの
社会種についてスポットライトが当たることは難しいの
かもしれない。
むしろそれぞれの種はそういうことと超越して存在して
いるように思われる。
のっぺらぼうの大衆どころか一人ひとりの人について
小説中のキャラクターやら研究対象としての生物種
と似たような重みをもっているのではなかろうかと
思っている。
家財道具で一杯になった部屋の中はそのまま頭の
中を反映しているようにも思われる。それらの道具
をうまい具合に使いこなして情報が吐き出され、
酸素で一杯になった大気を太古の藻類が作り出したように
ネットの海の人々も大気のような情報環境をつくり
あげることだろう。
きっとその環境を前提として次の時代を担う「生き物」たちが
進化してくる。
アマチュアとしての表現の成熟みたいな話なのだけど、
生活にねざしているという要素が深くかかわっている
と思う。
今の時代、それぞれの人の生きられた環境は違う。
ネットの使い方ひとつとっても個人化されている。
そういう複雑な環境の中に住んでいる。
そして、さらにそういう人々に囲まれて、社会的環境
が成り立っている。
熱帯雨林の不可思議な昆虫や蘭の花のようなものだ。
そういった社会環境に根差したものをうまく表現できる
とそれは面白いものになるに違いない。
いかにそれぞれが面白い世界をもっていてももはや
その一つ一つの種に対して深い考察をするのが難しい
ことに似ていて、ネットの海に生息しているそれぞれの
社会種についてスポットライトが当たることは難しいの
かもしれない。
むしろそれぞれの種はそういうことと超越して存在して
いるように思われる。
のっぺらぼうの大衆どころか一人ひとりの人について
小説中のキャラクターやら研究対象としての生物種
と似たような重みをもっているのではなかろうかと
思っている。
家財道具で一杯になった部屋の中はそのまま頭の
中を反映しているようにも思われる。それらの道具
をうまい具合に使いこなして情報が吐き出され、
酸素で一杯になった大気を太古の藻類が作り出したように
ネットの海の人々も大気のような情報環境をつくり
あげることだろう。
きっとその環境を前提として次の時代を担う「生き物」たちが
進化してくる。
プロのような表現を目指さなくていい
完璧でない表現、表現の中の欠点を愛したい。
商品としての表現って雑誌のモデルのような感じで
欠点のない完璧な表情をもった表現なのだろうか?
そういえば雑誌のモデルだって、一昔前の雑誌とは違って
完璧な美しさよりも、存在感とか個性とかを大事にするように
なってきた。
細部にこだわる日本文化の中ではいまだに粗のある表現は
キツイのかもしれない。
それは表現者のいい加減さが表に出てきているということなの
かもしれないし。
でもお隣、韓国など大陸系の人からは日本人的な細部まで手を
抜かない表現は気づまりに映るらしい。
昔、エアロビの国際大会の日本人グループの演技をテレビで
みたのだけど、目が笑っていないのに強い印象を受けたことがある、
対して米国人グループの演技は心から楽しんでいる様子が伝わって
きて対照的だった。
日本人はよくも悪くも緊張感を大事にする。凛と張りつめた感じが
好きなのだけど、悪く転ぶと国際試合で上がって場に飲まれてしまう。
それも、最近は少し変わってきているらしい。のびのびと実力を出し切る
選手が多くなってきたと聞く。
そういうことを踏まえつつ表現のありかたについて考えると、
プロのような表現を目指さなくていいのかもしれない。
アマチュアのアニメ作品の講評に立った手塚治虫はそれらの作品の
よさはマイナーの良さであって、カネ取ろうなどと思わないことです
と言っていた。
宮崎駿も似たようなことを言っていた。
作り手になればサラリーマンと違って自由になれると思ってたけど
見方が甘かった。今ではアニメーションの奴隷だと。
ネット上でも無料で表現することに飽き足らずプロを目指したい人は
たくさんいると思うけど、アマチュアとしての表現の成熟みたいなものも
あるのではないだろうか?
文字化される前の民話の世界、伝統芸能化する前の民謡の世界に
それは似ている。
マスメディア以前の人たちは地域の中で娯楽を自給自足していた。
マスメディアが飽和した今、少しずつ先祖返りが起こり始めている。
じゃあ、どうやって生きていけばいいのだろう?というのが唯一の悩みだ。
たぶんそこの問題がクリアーされれば多くの無料の作り手たちは成仏できる。
商品としての表現って雑誌のモデルのような感じで
欠点のない完璧な表情をもった表現なのだろうか?
そういえば雑誌のモデルだって、一昔前の雑誌とは違って
完璧な美しさよりも、存在感とか個性とかを大事にするように
なってきた。
細部にこだわる日本文化の中ではいまだに粗のある表現は
キツイのかもしれない。
それは表現者のいい加減さが表に出てきているということなの
かもしれないし。
でもお隣、韓国など大陸系の人からは日本人的な細部まで手を
抜かない表現は気づまりに映るらしい。
昔、エアロビの国際大会の日本人グループの演技をテレビで
みたのだけど、目が笑っていないのに強い印象を受けたことがある、
対して米国人グループの演技は心から楽しんでいる様子が伝わって
きて対照的だった。
日本人はよくも悪くも緊張感を大事にする。凛と張りつめた感じが
好きなのだけど、悪く転ぶと国際試合で上がって場に飲まれてしまう。
それも、最近は少し変わってきているらしい。のびのびと実力を出し切る
選手が多くなってきたと聞く。
そういうことを踏まえつつ表現のありかたについて考えると、
プロのような表現を目指さなくていいのかもしれない。
アマチュアのアニメ作品の講評に立った手塚治虫はそれらの作品の
よさはマイナーの良さであって、カネ取ろうなどと思わないことです
と言っていた。
宮崎駿も似たようなことを言っていた。
作り手になればサラリーマンと違って自由になれると思ってたけど
見方が甘かった。今ではアニメーションの奴隷だと。
ネット上でも無料で表現することに飽き足らずプロを目指したい人は
たくさんいると思うけど、アマチュアとしての表現の成熟みたいなものも
あるのではないだろうか?
文字化される前の民話の世界、伝統芸能化する前の民謡の世界に
それは似ている。
マスメディア以前の人たちは地域の中で娯楽を自給自足していた。
マスメディアが飽和した今、少しずつ先祖返りが起こり始めている。
じゃあ、どうやって生きていけばいいのだろう?というのが唯一の悩みだ。
たぶんそこの問題がクリアーされれば多くの無料の作り手たちは成仏できる。
保護室、人生の勲章とやっと思えるようになってきた
保護室に入れられた経験、人によっては蓋をかぶせたい経験
だったり、心の中の開かずの扉の中に入っている経験だったり
するのかもしれない。
私も御多分にもれず、その一人だった。
初回の病気のとき、意識が少し戻ってきて何が悲しかった
かというと、まわりの窓に鉄格子があることが分かったことだ。
本人の意識の中での話なのだけど、病気とは本人がおかしく
なったという感じではなく、まわりの世界がおかしくなったという
感じになる。
断片的に知っている黙示録の世界だ。
現前した黙示録的な世界の中で、ウルトラマンでも何でもない
ただの男の私が、世界を救おうとして孤軍奮闘している感じ。
誰だってその状況に追い込まれたら似たり寄ったりの行動を
するに違いない。
奮闘努力の甲斐もなく、気が付けば鉄格子のある建物の中の
ベッドの上にいるという状況だ。
なんという屈辱、なんという哀しさ。
喜劇として感じることができるなら、神様の用意した
「どっきりカメラ」ということになるのかもしれないけど、そう
捉えられるだけの心の余裕なんてあるはずもなく。
閉鎖病棟の中でさえ屈辱なのだから、さらにその中の
保護室に入った経験はなんとしても忘れたい経験では
あるのかもしれない。
初回の病気の保護室の経験はぼんやりとしか覚えていない。
閉鎖病棟の中のナースステーションの中に入り込んで、
モニターつきの電話(もしかしたら偽記憶かもしれないけど)を
見て、未来の電話はパソコンと一体化されるんだと興奮して
ボタンを押しまくって取り押さえられた。急性期中の私なので
まあ、仕方がない。もちろん保護室に一泊ということに。
そのあとのこともよく覚えていない。1992年のことなので、
電話とパソコンが一体化するというのは画期的なことだった。
ちょっと脱線しちゃうのだけど、たぶんその一件でパソコンと
いうものに執着するようになったと思う。
退院したあと、マッキントッシュ、マッキントッシュとうわごと
のように頭に染みつき、なぜかしらないけどハイパーカード
というものに憧れて、街中の展示スペースみたいなところに
押しかけて、買えもしないのに説明聞いたことがある。それも
ろれつが回らない状況で。
で、外来の診察室でマッキントッシュ買いたいといったら
「秋まで待ちなさい。秋になったらアップルと任天堂が合弁
で新しいパソコンが出るから」と主治医はのたまった。
そういうセリフがとっさで出る主治医は今も尊敬するけど、
それでその時の私は納得して、収まり、しばらくすると
マッキントッシュのことは忘れてしまった。
保護室の話に戻る。保護室は再発時のときも最初は
そこで過ごした。保護室に入るくらいなので状態は
悪く、そういう時期があったこと自体を思い出したく
ない人は多いのかもしれない。
退院して何年も経ち、やっと最近になって保護室に
入ったのも「人生の勲章」と思えるようになってきた。
それだけ、病気のときの記憶が風化してきたのかも
しれないし、ある意味開き直るだけの心の余裕という
のも出てきたのかもしれない。
消しゴムで消せない過去というよりも、貴重な経験と
いう風に捉えられるようになってきた。それはもしか
したら書いて表現することを覚えてきたからなのかも
しれない。表現するという点では様々な経験は身の
肥やしになる。その経験を踏まえないと見えてこない
こと、表現できないこともあるにはあるからだ。
保護室という究極の不自由は今、自由なことを確認
する道具でもある。生活に不満が出たらいつもそこ
に帰る。自由ということは有難い。細かく言い出すと
精神の安定性の底の薄さ等々問題含みだけど、
今、維持しているなりの状態を大切にしたい。
だったり、心の中の開かずの扉の中に入っている経験だったり
するのかもしれない。
私も御多分にもれず、その一人だった。
初回の病気のとき、意識が少し戻ってきて何が悲しかった
かというと、まわりの窓に鉄格子があることが分かったことだ。
本人の意識の中での話なのだけど、病気とは本人がおかしく
なったという感じではなく、まわりの世界がおかしくなったという
感じになる。
断片的に知っている黙示録の世界だ。
現前した黙示録的な世界の中で、ウルトラマンでも何でもない
ただの男の私が、世界を救おうとして孤軍奮闘している感じ。
誰だってその状況に追い込まれたら似たり寄ったりの行動を
するに違いない。
奮闘努力の甲斐もなく、気が付けば鉄格子のある建物の中の
ベッドの上にいるという状況だ。
なんという屈辱、なんという哀しさ。
喜劇として感じることができるなら、神様の用意した
「どっきりカメラ」ということになるのかもしれないけど、そう
捉えられるだけの心の余裕なんてあるはずもなく。
閉鎖病棟の中でさえ屈辱なのだから、さらにその中の
保護室に入った経験はなんとしても忘れたい経験では
あるのかもしれない。
初回の病気の保護室の経験はぼんやりとしか覚えていない。
閉鎖病棟の中のナースステーションの中に入り込んで、
モニターつきの電話(もしかしたら偽記憶かもしれないけど)を
見て、未来の電話はパソコンと一体化されるんだと興奮して
ボタンを押しまくって取り押さえられた。急性期中の私なので
まあ、仕方がない。もちろん保護室に一泊ということに。
そのあとのこともよく覚えていない。1992年のことなので、
電話とパソコンが一体化するというのは画期的なことだった。
ちょっと脱線しちゃうのだけど、たぶんその一件でパソコンと
いうものに執着するようになったと思う。
退院したあと、マッキントッシュ、マッキントッシュとうわごと
のように頭に染みつき、なぜかしらないけどハイパーカード
というものに憧れて、街中の展示スペースみたいなところに
押しかけて、買えもしないのに説明聞いたことがある。それも
ろれつが回らない状況で。
で、外来の診察室でマッキントッシュ買いたいといったら
「秋まで待ちなさい。秋になったらアップルと任天堂が合弁
で新しいパソコンが出るから」と主治医はのたまった。
そういうセリフがとっさで出る主治医は今も尊敬するけど、
それでその時の私は納得して、収まり、しばらくすると
マッキントッシュのことは忘れてしまった。
保護室の話に戻る。保護室は再発時のときも最初は
そこで過ごした。保護室に入るくらいなので状態は
悪く、そういう時期があったこと自体を思い出したく
ない人は多いのかもしれない。
退院して何年も経ち、やっと最近になって保護室に
入ったのも「人生の勲章」と思えるようになってきた。
それだけ、病気のときの記憶が風化してきたのかも
しれないし、ある意味開き直るだけの心の余裕という
のも出てきたのかもしれない。
消しゴムで消せない過去というよりも、貴重な経験と
いう風に捉えられるようになってきた。それはもしか
したら書いて表現することを覚えてきたからなのかも
しれない。表現するという点では様々な経験は身の
肥やしになる。その経験を踏まえないと見えてこない
こと、表現できないこともあるにはあるからだ。
保護室という究極の不自由は今、自由なことを確認
する道具でもある。生活に不満が出たらいつもそこ
に帰る。自由ということは有難い。細かく言い出すと
精神の安定性の底の薄さ等々問題含みだけど、
今、維持しているなりの状態を大切にしたい。
悩まないで素直に書いたほうがいいのかな
子供が素直に描くようにみたいな感じでのびのび
書きたいとは思うものの、書くことを自覚しはじめる
と悩み始める。
イメージ的には書きたいように書いているうちに、
筆跡のようなものができてきて、自分の世界に
なる、、、みたいな。そんな感じで書きたかったの
かもしれない。
話は飛ぶけど、草間彌生さんの例の水玉の作品群
などを見ているとそんな感じがする。
単なる水玉が並んでいるだけだけど、草間さんの
筆跡みたいなものが背景に感じられてきて心が
揺さぶられる感じである。
思えば、その人その人の表現の周囲にはなんとなく
たたずまいというものが出てきて、受け取るほうは
なんとなく感じるものだと思う。
だから、無心に自分の心のうちにあるものを素直に
出していって、自分の内の世界が忠実に表現される
ように努力するのがいいのだと思う。
むしろ大事にすべきなのは内側の生態系かな。
これは谷崎潤一郎の書いた『文章読本』の中に
ある含蓄という言葉と相通じるところかなと思う。
その人の吐く言葉の中身にその人の人生の中
から得られた薬効成分が詰まっている感じの
言葉である。
裏を返せばいかめしい言葉が踊っていても、
薬の入っていない薬瓶のように中身はスカスカ
ということもある。
そんなこと書くと図書館で本ばかり読んでいて
もだめで、世間にちゃんと出て一通りの体験
経験をするべきだとも思うのだけど、その一方
で経験は貧しくても、本を読みながらものを
考えることは十分できて、そういう時間を贅沢
なものだと思っている自分もいる。難しい。
体験経験は貧しくても、ものは一杯考えている、
それしかできないのだから。私の「場所」って
そういう場所なのかな。それでも、別に保護室
にいるわけでもないので、世間を十分観察できる。
こういうところで「保護室」という言葉が出てくること
は世間の人ではまずないと思うのだけど、私は
私なりの道筋を歩いているわけで、そこから
見えてくる何かもきっとあるから、そういう視点が
偶然出て、書き出すことができたらそれでいいの
かもしれない。
P.S 保護室といっても何のことかわからぬ人も
いるので説明するけど、精神科の病棟の中で
病状がひどかったりする人が入る格子つきの
個室。広さは四畳半から六畳くらい。監視カメラ
と仕切りのない和式トイレがある。隣の部屋の
人と世間話できるような環境のところもある。
書きたいとは思うものの、書くことを自覚しはじめる
と悩み始める。
イメージ的には書きたいように書いているうちに、
筆跡のようなものができてきて、自分の世界に
なる、、、みたいな。そんな感じで書きたかったの
かもしれない。
話は飛ぶけど、草間彌生さんの例の水玉の作品群
などを見ているとそんな感じがする。
単なる水玉が並んでいるだけだけど、草間さんの
筆跡みたいなものが背景に感じられてきて心が
揺さぶられる感じである。
思えば、その人その人の表現の周囲にはなんとなく
たたずまいというものが出てきて、受け取るほうは
なんとなく感じるものだと思う。
だから、無心に自分の心のうちにあるものを素直に
出していって、自分の内の世界が忠実に表現される
ように努力するのがいいのだと思う。
むしろ大事にすべきなのは内側の生態系かな。
これは谷崎潤一郎の書いた『文章読本』の中に
ある含蓄という言葉と相通じるところかなと思う。
その人の吐く言葉の中身にその人の人生の中
から得られた薬効成分が詰まっている感じの
言葉である。
裏を返せばいかめしい言葉が踊っていても、
薬の入っていない薬瓶のように中身はスカスカ
ということもある。
そんなこと書くと図書館で本ばかり読んでいて
もだめで、世間にちゃんと出て一通りの体験
経験をするべきだとも思うのだけど、その一方
で経験は貧しくても、本を読みながらものを
考えることは十分できて、そういう時間を贅沢
なものだと思っている自分もいる。難しい。
体験経験は貧しくても、ものは一杯考えている、
それしかできないのだから。私の「場所」って
そういう場所なのかな。それでも、別に保護室
にいるわけでもないので、世間を十分観察できる。
こういうところで「保護室」という言葉が出てくること
は世間の人ではまずないと思うのだけど、私は
私なりの道筋を歩いているわけで、そこから
見えてくる何かもきっとあるから、そういう視点が
偶然出て、書き出すことができたらそれでいいの
かもしれない。
P.S 保護室といっても何のことかわからぬ人も
いるので説明するけど、精神科の病棟の中で
病状がひどかったりする人が入る格子つきの
個室。広さは四畳半から六畳くらい。監視カメラ
と仕切りのない和式トイレがある。隣の部屋の
人と世間話できるような環境のところもある。
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