今日のサポートネットラグーナは「聴き方・話し方教室」で講師は
KTSアナウンサーの山本慎一先生でした。
今日は最初は挨拶の話でしたが、挨拶も奥が深いものだなあ
と思いました。授業中いろいろ挨拶について教えていただき
ながら、ふと思いついたイメージがありました。
自己紹介もそうなのですが、挨拶はその日、その方との人間関係
に入っていく玄関口みたいなものではないだろうかと思ったのです。
みんな玄関口はきれいにします。家という、個人にとってのお城みたい
なものの門にあたる場所です。家の第一印象はそこに現れるのです。
そして、玄関から廊下を通って奥座敷にはいっていくように、
挨拶から、季節の話題があって、話の本題に入っていくという
共通する順序というか流れみたいなものがあるように思いました。
スクリプトというそうなのですが、芝居の台本のように、
さまざまな物事には流れがあるようですね。
お客様にとっては初めてでも、業者さんにとっては毎回同じことの
繰り返しなので、キレイに流れができています。
ちょうど個人レベルでも、社会上のやりとりみたいなものに
自分なりの台本をつくって、できれば繰り返し稽古して
心の中にスクリプトをつくっておけば、もっともっと社会の
中で生きていくのが楽になるだろうなと思いました。
たぶん、つまらないところで、つまづいてしまって、
スクリプト作るのに失敗したり、失敗が原因で
スクリプト作り続けるのをあきらめてしまったりしたり
で、社会の上でのやりとりが稚拙になってしまったのでは
ないだろうかって自分を反省して思うのです。
たぶん社会で普通に働いてらっしゃる方々は仕事の上での
日々のやりとりをとおして、常識という名の膨大なスクリプト
を積み上げてられるのだなあとなんとなく思ったのです。
安心して失敗できる場があればいいのになあと
思ってます。安心して失敗できる場で経験を重ねて、
周回遅れでも、自分なりのスクリプトをつくって
自分なりに社会に参加してみたいです。
はじめての方へ
私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
2011年12月13日火曜日
書く環境によってネタが浮かんだり浮かばなかったりいろいろですね
今日はいつもの場所と違う場所でアクセスして
ブログ書いているのですが、環境が違うと書く
感覚もぜーんぜん違いますね。
今、気づいたのだけど、体全体の皮膚の感覚とか
そういうものも総動員して書いているようです。
書く環境に慣れないと、書いているからだ全体に
違和感があって、緊張したような、アガったような
感じになり、全然うまくいきません。あまり、筆進まない
ので今回はこのへんで。
ブログ書いているのですが、環境が違うと書く
感覚もぜーんぜん違いますね。
今、気づいたのだけど、体全体の皮膚の感覚とか
そういうものも総動員して書いているようです。
書く環境に慣れないと、書いているからだ全体に
違和感があって、緊張したような、アガったような
感じになり、全然うまくいきません。あまり、筆進まない
ので今回はこのへんで。
2011年12月12日月曜日
ワークショップと躁転
”ワークショップ” ”躁転”で検索して、らしいページが
出てこなかったので私が書こうと思います。
たぶんこの二つは相性がいいのです。
たぶんワークショップを深ぶかと体験できるのは
躁転の素質をもった人だと思います。
さじ加減が難しい。
刺激を受けることは大好きなのです。
深い体験は人生の薬になります。
薬も分量間違えば毒になります。
危ないと本人が直感したときに、
さらなる刺激を遠ざけることができるか?
そもそも危ないと状況を直感できるか?
幸福感や楽しさも腹八分目までいかないところで
収められる人は治められるのかもしれません。
それは自然の本能には逆らう行為です。
とはいえ私も模範的な人間ではなく、
単に今まで運命に魅入られなかっただけ
だと思います。
ほどほどのところで、しっかりと愉しみながら
愉しみ過ぎなかっただけなのでしょう。
出てこなかったので私が書こうと思います。
たぶんこの二つは相性がいいのです。
たぶんワークショップを深ぶかと体験できるのは
躁転の素質をもった人だと思います。
さじ加減が難しい。
刺激を受けることは大好きなのです。
深い体験は人生の薬になります。
薬も分量間違えば毒になります。
危ないと本人が直感したときに、
さらなる刺激を遠ざけることができるか?
そもそも危ないと状況を直感できるか?
幸福感や楽しさも腹八分目までいかないところで
収められる人は治められるのかもしれません。
それは自然の本能には逆らう行為です。
とはいえ私も模範的な人間ではなく、
単に今まで運命に魅入られなかっただけ
だと思います。
ほどほどのところで、しっかりと愉しみながら
愉しみ過ぎなかっただけなのでしょう。
2011年12月10日土曜日
灰色の健康
想像力って不思議なものだと思う。
脳も体の一部であり、
頭と胴体は連動しているという
厳然なる事実もあって、
ぜんぜん文章が進まない。
脳になんだか悪い物質が蓄積している
ような体内の感覚があって、
さらに、リウマチの影響で微妙な痛みと
ともに、何かを作り出そうというパワーが
少しずつどこかに漏れ出しているような感覚
も若干ある。
それらを所与のものとして受け入れながら
生きていくしか仕方がない。
もしかしたら、単に気分が少し落ち気味
なだけで、やがて今の状態が嘘のように
またノリノリの時期がやってくるような
気もしないでもない。
まあ、それなりに書けるのだから、
深刻というほどではない。
ノリノリではない今はそう大きな
失敗もやらかさないだろうし、
充電中ということで
むしろ本当の健康なのかもしれない。
これが健康なのなら灰色の健康と
いうほかないのだけども。
脳も体の一部であり、
頭と胴体は連動しているという
厳然なる事実もあって、
ぜんぜん文章が進まない。
脳になんだか悪い物質が蓄積している
ような体内の感覚があって、
さらに、リウマチの影響で微妙な痛みと
ともに、何かを作り出そうというパワーが
少しずつどこかに漏れ出しているような感覚
も若干ある。
それらを所与のものとして受け入れながら
生きていくしか仕方がない。
もしかしたら、単に気分が少し落ち気味
なだけで、やがて今の状態が嘘のように
またノリノリの時期がやってくるような
気もしないでもない。
まあ、それなりに書けるのだから、
深刻というほどではない。
ノリノリではない今はそう大きな
失敗もやらかさないだろうし、
充電中ということで
むしろ本当の健康なのかもしれない。
これが健康なのなら灰色の健康と
いうほかないのだけども。
2011年12月7日水曜日
2011年12月6日火曜日
精神のかく乱と再編集のモデル
モデルというほどのものではなく、たんに
たとえ話くらいのものだと思うのですが、
南島のほうでは、病気(カンダーリ)の後、
シャマンになったりして、病気がかならずしも
否定的な体験ともいえなくなるのはなぜなのか
ということをちょっと考えてみたいと思います。
学習には臨界期があって、たとえば9才くらい
だとします。前頭前野のほうはもうすこし、
遅れて25才くらいだとします。このへんの知識は
読みかじりなのでヨタ話くらいに思ってください。
大人になるにしたがって、脳は成熟し、
大枠は臨界期くらいのときに定まり、
その枠の中で微調整がおこなわれる
という感じなのかもしれません。
精神病の発生はシステムに対する
どのくらいに相当するかはわかりませんが
かく乱だとします。
その後、社会的、あるいは文化的な環境が
よければ、システムは再編集されて、
かく乱が創造的に働くこともありうるのでは
ないでしょうか?
南島では発病後の本人の構えも本土とは
違って、病気自体をクリエイティブに捉えられる
文化的環境みたいなものが歴史の積み上げに
よって実現されているのではないか?と妄想したり
するのです。
コンピュータがフリーズしたときも再起動する
方法があるし、フリーズさせたことは恥には
なりません。むしろ、再起動する微妙な時間を
どのように保護的に過ごすかということが
再起動中の事故を減らして、システムに傷を
つけないこととして大事になります。
柔道では受身を、ヨットでは沈させたときの
手続きを習います。
脳に難しい作業を行わせることの多くなった
現在、脳がフリーズしたり、クラッシュしたり
したときの構えみたいなものをどこかで
学んでおくことも本当は必要なのかもしれません。
本土は南島と確かに文化的環境は違います。
でも、文脈は違っても、相同的なシナリオ、
病気になった人が別にシャマンになるわけでは
なくても、その後の人生をクリエイティブに送れる
ようなシナリオはありうると思います。
自分なりのシナリオづくり、未来に続く、
それぞれの地域における文化的環境上の
一人のアクターとして、道なき道の探索
に汗流してみるのはいかがでしょう。
たとえ話くらいのものだと思うのですが、
南島のほうでは、病気(カンダーリ)の後、
シャマンになったりして、病気がかならずしも
否定的な体験ともいえなくなるのはなぜなのか
ということをちょっと考えてみたいと思います。
学習には臨界期があって、たとえば9才くらい
だとします。前頭前野のほうはもうすこし、
遅れて25才くらいだとします。このへんの知識は
読みかじりなのでヨタ話くらいに思ってください。
大人になるにしたがって、脳は成熟し、
大枠は臨界期くらいのときに定まり、
その枠の中で微調整がおこなわれる
という感じなのかもしれません。
精神病の発生はシステムに対する
どのくらいに相当するかはわかりませんが
かく乱だとします。
その後、社会的、あるいは文化的な環境が
よければ、システムは再編集されて、
かく乱が創造的に働くこともありうるのでは
ないでしょうか?
南島では発病後の本人の構えも本土とは
違って、病気自体をクリエイティブに捉えられる
文化的環境みたいなものが歴史の積み上げに
よって実現されているのではないか?と妄想したり
するのです。
コンピュータがフリーズしたときも再起動する
方法があるし、フリーズさせたことは恥には
なりません。むしろ、再起動する微妙な時間を
どのように保護的に過ごすかということが
再起動中の事故を減らして、システムに傷を
つけないこととして大事になります。
柔道では受身を、ヨットでは沈させたときの
手続きを習います。
脳に難しい作業を行わせることの多くなった
現在、脳がフリーズしたり、クラッシュしたり
したときの構えみたいなものをどこかで
学んでおくことも本当は必要なのかもしれません。
本土は南島と確かに文化的環境は違います。
でも、文脈は違っても、相同的なシナリオ、
病気になった人が別にシャマンになるわけでは
なくても、その後の人生をクリエイティブに送れる
ようなシナリオはありうると思います。
自分なりのシナリオづくり、未来に続く、
それぞれの地域における文化的環境上の
一人のアクターとして、道なき道の探索
に汗流してみるのはいかがでしょう。
自分が食べたいもの、お客さんが食べたいもの
ものづくりを料理でたとえる習慣があるのですが、
根本的な話、
自分が食べたいもの、
お客さんが食べたいもの、
どちらを作るべきなのでしょう?
仕事として、何かのサービスを成り立たせよう
と思ったときに、自分がほしいものと
お客さんがほしいものの間を調和させないと
いけないのかもしれません。
でも、本気でものをつくろうとしたときに、
根本的に自分が作りたいとおもっていない
ようなものにパワーって出るのでしょうか?
自分がやりたいことは趣味でやればいいの
でしょうか?
卑近な話、ブログづくりなのですが、
自分が書きたいことを書いています。
お客さんが読んでくれればよし、
読む人がいなくてもよし。
膨大な人がいれば、中には
こういう文章でも読んでみたいという
酔狂な人がいるかもしれません。
膨大な人というところに味噌があるの
かもしれないです。
自分に似た人は、膨大にひとがいれば
誰かいるはずです。
そのたった一人に届けられたら
目的は十分達せられると思います。
根本的な話、
自分が食べたいもの、
お客さんが食べたいもの、
どちらを作るべきなのでしょう?
仕事として、何かのサービスを成り立たせよう
と思ったときに、自分がほしいものと
お客さんがほしいものの間を調和させないと
いけないのかもしれません。
でも、本気でものをつくろうとしたときに、
根本的に自分が作りたいとおもっていない
ようなものにパワーって出るのでしょうか?
自分がやりたいことは趣味でやればいいの
でしょうか?
卑近な話、ブログづくりなのですが、
自分が書きたいことを書いています。
お客さんが読んでくれればよし、
読む人がいなくてもよし。
膨大な人がいれば、中には
こういう文章でも読んでみたいという
酔狂な人がいるかもしれません。
膨大な人というところに味噌があるの
かもしれないです。
自分に似た人は、膨大にひとがいれば
誰かいるはずです。
そのたった一人に届けられたら
目的は十分達せられると思います。
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