「高嶺格」 「とおくてよくみえない」 「霧島」で検索してみた。
ほとんど感想がみえない。
ほかの鹿児島人はあの作品たちをどう受け止めたのだろう?
「鹿児島エスペラント」はともかくとして、とくに初期の作品について
言語化するのは難しい。
でも県内にも美術に関係した人は星の数ほどいるはずだから、
どう受け止めたのかをみてみたい。
ほんとうに「とおくてよくみえない」のは作り手から見た
受け手の姿かもしれない。
考えてみたら私もいままでいろんなものを受け取ってきたけど
受け取った結果を言語化するのはあまりなかった。
いまどきそこまで作品につきあう人も珍しいのかもしれない。
でもあのときどう受け止めたかというのは自分にとっても
貴重な記録である。そのとき言語化しなければ、印象は
忘却に消えてしまうだろう。
それにたとえ拙いことばであっても、言語化された言葉を
手がかりにして、理解していく他者という存在もいるだろう。
地域や時代それぞれの「読み」は集団的な作業なのかもしれない。
はじめての方へ
私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。
p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)
P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)
2011年10月11日火曜日
2011年10月8日土曜日
まとまらないメモ(つづき)
あたりまえの話かもしれないけども
映像作品について
こういう風に受け取ってほしいというメッセージは
一切なかった。
受け手主体でどう受け取ってもいいんだ。
どう受け取ると一番オモシロイのだろう。
今度はこっちにボールが受け渡される。
先回りして考えると
観客が受け取って返したボールを
表現者が受け取ってきた
その歴史の繰り返しなのだろう。
そして、そのゲームに気がついた人が、
郵便の受取人となる。
メッセージの解読。
映像表現ゲームとして考えると
どんなルールになっているのだろう。
表現とはある種の拷問であり、
自分とのタタカイである。
表現から逃げるか逃げないか。
何にしろ自分にはあんな
表現をする勇気がない。
表現とは自分をハダカにして自分と向き合うことだ
特に光ではなく、カゲになっている部分と、、、
言うは易し、行うは難し
文字、文化、コトバがキーワードになってた。
とおくてよくみえない、
「何が」かが書いていない。
だから受け手主体でうめてみよう。
鹿児島という文脈で見たときに思うのは
見えないのは表現であり、メッセージだ。
ブランドの影に隠れてよくみえない。
あこがれてはいても、そのものをよくみていない。
鹿児島のお茶の間からは
とにかく、画面の向こうはよくみえない。
ブランドの向こうでよくみえない。
でも、向こうからも受け手の姿は
よく見えないのではないか
手紙はちゃんと伝わっているのだろうか?
ブランドではなくメッセージを
ちゃんと受け止めているのだろうか?
自分の伝えたい何かを本当に受け取って
くれる誰かはいるのだろうか?
メディアは人と人を近づけているのだろうか?
映像作品について
こういう風に受け取ってほしいというメッセージは
一切なかった。
受け手主体でどう受け取ってもいいんだ。
どう受け取ると一番オモシロイのだろう。
今度はこっちにボールが受け渡される。
先回りして考えると
観客が受け取って返したボールを
表現者が受け取ってきた
その歴史の繰り返しなのだろう。
そして、そのゲームに気がついた人が、
郵便の受取人となる。
メッセージの解読。
映像表現ゲームとして考えると
どんなルールになっているのだろう。
表現とはある種の拷問であり、
自分とのタタカイである。
表現から逃げるか逃げないか。
何にしろ自分にはあんな
表現をする勇気がない。
表現とは自分をハダカにして自分と向き合うことだ
特に光ではなく、カゲになっている部分と、、、
言うは易し、行うは難し
文字、文化、コトバがキーワードになってた。
とおくてよくみえない、
「何が」かが書いていない。
だから受け手主体でうめてみよう。
鹿児島という文脈で見たときに思うのは
見えないのは表現であり、メッセージだ。
ブランドの影に隠れてよくみえない。
あこがれてはいても、そのものをよくみていない。
鹿児島のお茶の間からは
とにかく、画面の向こうはよくみえない。
ブランドの向こうでよくみえない。
でも、向こうからも受け手の姿は
よく見えないのではないか
手紙はちゃんと伝わっているのだろうか?
ブランドではなくメッセージを
ちゃんと受け止めているのだろうか?
自分の伝えたい何かを本当に受け取って
くれる誰かはいるのだろうか?
メディアは人と人を近づけているのだろうか?
2011年10月7日金曜日
鹿児島、霧島アートの森「高嶺格:とおくてよくみえない」初日、まとまらないメモ、まとまらないままに、、、
夕べよみさしの本の中でビデオアートという単語を知った。
うっすらと覚えているナムジュンパイクと いう人の名前も思い出した。
その昔、ビデオ機材をもっていたら、誰にもアーティストへの道が
開けているという時代があったらしい、今でいうセカンドライフに
相当する媒体がビデオだったのか。
ビデオアートの歴史という文脈を知らなかったら、
高嶺格の初期の頃の作品はやはり理解不能
だったろう。でも、情報が隔離されている鹿児島という文脈で
インフォメーションフリーの状態で
暗号解読するという楽しみもまたあるのかもしれない。以下夕べ考えたメモ。
ナザレに帰郷したイエス(のようだと本人がセレモニーで言っていた。)
美術館全体が現代アートだった。
どういう風に受け止めたか。
それぞれの人がアクター。
受け入れる。反発する。理解不能。腹の底では理解不能だけど、
ブランドもあるのだからと お茶を濁す態度。
横浜ではああいうのがインパクトあると面白がられるかもしれないけど、
なんとなく反発心が起こってくるのは保守的な鹿児島の風土に染まっているからなのか?
ああゆうのもありだよねと受け入れるまとまった層もいるのかもしれないけど、
どういうコンテクストで受け入れられているのかよくわからない。
(検索すれば、一瞬だけど、 まだ検索したくない。)
検索して一通りの予備知識仕入れたうえでさも解ったように
反応することだけはやめたい。
なんで鹿児島の土壌からああゆう表現が生まれたのか知りたい。
もしかして、鹿児島の保守的な土壌が、学校での制服強制、禿強制、
管理教育等々、 自由のなかった教育風土だったからこそ、
自由を求めて、表現する自由を求めて、
ああいう過激な表現をするようになったのではなかろうか?
「鹿児島エスペラント」について
リアルの世界とバーチャルの世界をどう統合するかと
考えたときにもっともリアルな表現の
素材として、土臭い土を選び、光の媒体でバーチャルを表現した。
リアルとバーチャルをどう統合するかという話の一つの
答えなのではないかと思った。
理想をはらみながら滅んでいく共通語と、ある種の人格のありかた
とともに滅んでいく地方語。
そして、地方語を担ってきた人たち、
地方語を忘れていく人たちが暗闇の中で佇んでいる。
(初日の会場にいないと意味不明かも。)
また初期の作品に戻って、
映像としてみたとき、確かにインパクトのある映像である。
しかし、そこまで表現するの? という気持ちになり、
そこがある意味の面白さなのかもと思ってしまう。
受け止める、受け止めない。 メッセージが伝わる、伝わらない。
世界的に有名なアーティストということで教育目的で
小学生が引率されてくる。 表現することの責任。
映像としてのインパクトがなければ、歴史の中で残らない。
でも、インパクトがあれば、歴史の中で残ってしまう。「郷土の宝」として存在し続ける。
自分が当事者だったとすると、やはり、影に隠れて、解説しそうだ。
針のむしろの上に座らされた表現者の気持ちが伝わってくる。
表現するという種をまいた結果を刈り取っているのだと思う。
ある意味郷土との対決だし、郷土との対決の向こうにしか
その先はないのだという気も伝わってくる。
郷土との対決としての表現という行為を通して、鹿児島の土壌に
何かを撒いた。その結果はどのように芽を出し、どのように育っていくのだろう。
うっすらと覚えているナムジュンパイクと いう人の名前も思い出した。
その昔、ビデオ機材をもっていたら、誰にもアーティストへの道が
開けているという時代があったらしい、今でいうセカンドライフに
相当する媒体がビデオだったのか。
ビデオアートの歴史という文脈を知らなかったら、
高嶺格の初期の頃の作品はやはり理解不能
だったろう。でも、情報が隔離されている鹿児島という文脈で
インフォメーションフリーの状態で
暗号解読するという楽しみもまたあるのかもしれない。以下夕べ考えたメモ。
ナザレに帰郷したイエス(のようだと本人がセレモニーで言っていた。)
美術館全体が現代アートだった。
どういう風に受け止めたか。
それぞれの人がアクター。
受け入れる。反発する。理解不能。腹の底では理解不能だけど、
ブランドもあるのだからと お茶を濁す態度。
横浜ではああいうのがインパクトあると面白がられるかもしれないけど、
なんとなく反発心が起こってくるのは保守的な鹿児島の風土に染まっているからなのか?
ああゆうのもありだよねと受け入れるまとまった層もいるのかもしれないけど、
どういうコンテクストで受け入れられているのかよくわからない。
(検索すれば、一瞬だけど、 まだ検索したくない。)
検索して一通りの予備知識仕入れたうえでさも解ったように
反応することだけはやめたい。
なんで鹿児島の土壌からああゆう表現が生まれたのか知りたい。
もしかして、鹿児島の保守的な土壌が、学校での制服強制、禿強制、
管理教育等々、 自由のなかった教育風土だったからこそ、
自由を求めて、表現する自由を求めて、
ああいう過激な表現をするようになったのではなかろうか?
「鹿児島エスペラント」について
リアルの世界とバーチャルの世界をどう統合するかと
考えたときにもっともリアルな表現の
素材として、土臭い土を選び、光の媒体でバーチャルを表現した。
リアルとバーチャルをどう統合するかという話の一つの
答えなのではないかと思った。
理想をはらみながら滅んでいく共通語と、ある種の人格のありかた
とともに滅んでいく地方語。
そして、地方語を担ってきた人たち、
地方語を忘れていく人たちが暗闇の中で佇んでいる。
(初日の会場にいないと意味不明かも。)
また初期の作品に戻って、
映像としてみたとき、確かにインパクトのある映像である。
しかし、そこまで表現するの? という気持ちになり、
そこがある意味の面白さなのかもと思ってしまう。
受け止める、受け止めない。 メッセージが伝わる、伝わらない。
世界的に有名なアーティストということで教育目的で
小学生が引率されてくる。 表現することの責任。
映像としてのインパクトがなければ、歴史の中で残らない。
でも、インパクトがあれば、歴史の中で残ってしまう。「郷土の宝」として存在し続ける。
自分が当事者だったとすると、やはり、影に隠れて、解説しそうだ。
針のむしろの上に座らされた表現者の気持ちが伝わってくる。
表現するという種をまいた結果を刈り取っているのだと思う。
ある意味郷土との対決だし、郷土との対決の向こうにしか
その先はないのだという気も伝わってくる。
郷土との対決としての表現という行為を通して、鹿児島の土壌に
何かを撒いた。その結果はどのように芽を出し、どのように育っていくのだろう。
2011年2月27日日曜日
Sela Boa監督「ぼくのおとうさん」感想文
何となくなじんだつもりになっているセカンドライフの風景が
また違って見える感じの映画だった。
画面に映っている場所とか要素とかはそれぞれをとってみると
広いセカンドライフのどこかにはありそうなものが映っている
のだけど、ストーリーにして、作品になってしまうとなんだか
現実世界ともセカンドライフとも違う別世界のようになってし
まう。
これって何だろう?て思ったときに、物語の存在がそうさせて
ることに気がついた。
確かにセカンドライフの中にも物語は存在して、イベントとか
チャットとかいう形で物語は存在するのかもしれないけど、劇
的な空間というよりももう一つの日常空間て感じがする。
一方作品の中の世界は、いつものセカンドライフの中の世界と
いうよりはセカンドライフと日常世界の中間のような質感が実
現されていて、物語が存在して、当然だけど劇的に展開する。
仮想と日常と劇的という言葉が入れ子状に重なって映像空間が
成り立っているように感じました。
たぶんこれは作品中の人物や世界が生き生きしている感じに仕
上がっていることから来ることでしょう。
いつも仮想世界にいると逆に現実世界のことを反省的に考えた
りするのですが、物語作品という要素が入ることによって、劇
的かどうかは分からない第二の人生について反省するのですね。
舞台と衣装と大道具小道具はそろっているけど、脚本と俳優は
あるとまでは言えない第二の人生についてですね。
本当は形式のことなんか忘れてストーリーの内容にどっぷり浸
りこむべきだったのだけど、映画で展開されてる映像世界とセ
カンドライフと現実世界が合わせ鏡の万華鏡のように乱反射さ
れていろんなイメージが浮かんでくる映画でした。
開けてびっくり玉手箱、玉手箱の中に入ってたのは世界を覗く
万華鏡でした。映画という道具も原初的にはそんな道具だった
のでしょう。
また違って見える感じの映画だった。
画面に映っている場所とか要素とかはそれぞれをとってみると
広いセカンドライフのどこかにはありそうなものが映っている
のだけど、ストーリーにして、作品になってしまうとなんだか
現実世界ともセカンドライフとも違う別世界のようになってし
まう。
これって何だろう?て思ったときに、物語の存在がそうさせて
ることに気がついた。
確かにセカンドライフの中にも物語は存在して、イベントとか
チャットとかいう形で物語は存在するのかもしれないけど、劇
的な空間というよりももう一つの日常空間て感じがする。
一方作品の中の世界は、いつものセカンドライフの中の世界と
いうよりはセカンドライフと日常世界の中間のような質感が実
現されていて、物語が存在して、当然だけど劇的に展開する。
仮想と日常と劇的という言葉が入れ子状に重なって映像空間が
成り立っているように感じました。
たぶんこれは作品中の人物や世界が生き生きしている感じに仕
上がっていることから来ることでしょう。
いつも仮想世界にいると逆に現実世界のことを反省的に考えた
りするのですが、物語作品という要素が入ることによって、劇
的かどうかは分からない第二の人生について反省するのですね。
舞台と衣装と大道具小道具はそろっているけど、脚本と俳優は
あるとまでは言えない第二の人生についてですね。
本当は形式のことなんか忘れてストーリーの内容にどっぷり浸
りこむべきだったのだけど、映画で展開されてる映像世界とセ
カンドライフと現実世界が合わせ鏡の万華鏡のように乱反射さ
れていろんなイメージが浮かんでくる映画でした。
開けてびっくり玉手箱、玉手箱の中に入ってたのは世界を覗く
万華鏡でした。映画という道具も原初的にはそんな道具だった
のでしょう。
2011年2月3日木曜日
リウマチの痛みで発作はおきなかった
ここしばらくの問題はささいなこと、たとえば一瞬何かを
思い出すことなどで、トリガーがひかれて気分が不安定に
なるというものでしたけど、仕事の負担がなくなったことで
ここ半年、割合快調でした。
さて、節々がいたくなって、関節リウマチの診断も受けた
のだけど不思議なくらい「発作」はおきてません。
非定型精神病と関節リウマチ抱えても病気自慢にこそなれ
将来を悲観するとか今の段階ではなっていないようです。
ただし病気自慢といっても冗談なので真に受けないでくだ
さいね。
昔のフジカラーの宣伝の「それなりに、、、」というのが
あったけど、まさにあの言葉なのです。
それなりの幸福感なのです。まだ飲みかけの缶コーヒーが
残ってるとか、人生もう夕暮れ時なのかもしれないけど
あとしばらく遊べそうだとかそんな気持ちですね。
ささいなことで発作がおきて、頭がくらくらするかと思
えば、精神患者独特の構えみたいなのがあって、わりか
し急速に節々痛くなったのだけど、意外と心理的にがた
がたになっていないのです。しぶといです。
脆弱さとしぶとさの関係よくわかりません。もうすでに
ほころんでいるのでさらにほころんでも耐性があるのかも。
あと、要求水準高くして気に病むとさらにほころんでいく
と思っているかもしれないので力を抜いて自然のいとなみ
に任せているのかもしれません。
思い出すことなどで、トリガーがひかれて気分が不安定に
なるというものでしたけど、仕事の負担がなくなったことで
ここ半年、割合快調でした。
さて、節々がいたくなって、関節リウマチの診断も受けた
のだけど不思議なくらい「発作」はおきてません。
非定型精神病と関節リウマチ抱えても病気自慢にこそなれ
将来を悲観するとか今の段階ではなっていないようです。
ただし病気自慢といっても冗談なので真に受けないでくだ
さいね。
昔のフジカラーの宣伝の「それなりに、、、」というのが
あったけど、まさにあの言葉なのです。
それなりの幸福感なのです。まだ飲みかけの缶コーヒーが
残ってるとか、人生もう夕暮れ時なのかもしれないけど
あとしばらく遊べそうだとかそんな気持ちですね。
ささいなことで発作がおきて、頭がくらくらするかと思
えば、精神患者独特の構えみたいなのがあって、わりか
し急速に節々痛くなったのだけど、意外と心理的にがた
がたになっていないのです。しぶといです。
脆弱さとしぶとさの関係よくわかりません。もうすでに
ほころんでいるのでさらにほころんでも耐性があるのかも。
あと、要求水準高くして気に病むとさらにほころんでいく
と思っているかもしれないので力を抜いて自然のいとなみ
に任せているのかもしれません。
2011年1月23日日曜日
人生の上手な負け方
”人生の上手な負け方”って検索してみたのだけど、一件もなかった。
思えば、人生の勝ち方を教えてくれる参考書はたくさんあるけど、
負け方を説いてくれる本は案外すくない。せいぜい倒産本くらいなもの。
栄華をつくしても、最後はすってんてんになってあの世へいく。
負け方には負け方の作法というか苦しみをなるだけ少なくしたり、
負けて勝つような不思議な負け方があったり、工夫のし甲斐も
あるのではなかろうか?
なぜこんなこと今日は考えているかといえば、先日リウマチの診断
受けたからだ。非定型精神病の精神症状をやりすごしている過程の
中でリウマチにかかったと私は勝手に解釈してる。
その状況下なりのベターな生きる姿勢はきっとあるだろうというのが
今日の思索のテーマだった。
思えば、人生の勝ち方を教えてくれる参考書はたくさんあるけど、
負け方を説いてくれる本は案外すくない。せいぜい倒産本くらいなもの。
栄華をつくしても、最後はすってんてんになってあの世へいく。
負け方には負け方の作法というか苦しみをなるだけ少なくしたり、
負けて勝つような不思議な負け方があったり、工夫のし甲斐も
あるのではなかろうか?
なぜこんなこと今日は考えているかといえば、先日リウマチの診断
受けたからだ。非定型精神病の精神症状をやりすごしている過程の
中でリウマチにかかったと私は勝手に解釈してる。
その状況下なりのベターな生きる姿勢はきっとあるだろうというのが
今日の思索のテーマだった。
2011年1月17日月曜日
データベース上の戦い
データベースといっても個々のデータベースではなくて、
検索空間のことである。
検索空間とはある文字列を検索したときに展開する一次元
の順序空間のことを言っている。
私は気になる言い回しが浮かんだら検索してみて文例を見
ている。
同じようなやり方は「ウェブ進化論」とかネーミングの世
界でも頻繁にされるが、単語レベルではなくて句や文でやっ
てみるのも面白い。
新しい文字列が出てきても意味が十分育っていない場合が
ある。水や肥料をやって新しい文字列を育てる場合もあるけど、
私も忘れてしまうことも多い。
水面下で言語空間はカオス的な進化を遂げているのかもしれない。
「幼年期の終わり」のように私たちの孫世代は理解不能な宇宙人の
ような精神を獲得しているのかもしれない。多分私の世代で十分
上世代にとってはニュータイプかプロトタイプで理解不能に違いない。
P.S ”検索空間”で検索したら次の用例がでてきた。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~fullchin/aso/f+b/09/09.htm
”検索空間”と表記してもそこから立ち現れる意味は人それぞれみ
たいだ。言葉って誰のものなのだろうかとかデータベース上での意
味の争奪戦とかいろいろ考えてしまう。
P.S2 ”データベース上の戦い”って自分はどんなイメージを込め
ているか書き忘れてしまった。twitterをはじめとして自己コンテン
ツ化みたいなものが進行するなかで、マスメディアの業界関係者ばか
りでなく一般の生活者もメディア戦士としてデータベース上での陣地
争いに参戦することになるのでは
ないだろうか?
一般消費者が人生の消費者となりそれぞれの人生脚本を背負いながら
一種の俳優として切磋琢磨する。RLで出会いが起こったときに双方の
背後にスタンドのようにアバターもしくはキャラクターが立ち現れ、
心理戦、プロパガンダ戦が展開するそんな近未来をイメージしてる。
生活全面のエンタメ化といってもいいかもしれない。生きた証として
データベース上に足跡が残り、アニメのキャラクターや歴史上のキャ
ラクターと関係をもったり、戦いなどしながら、有象無象の一人とし
て検索されるその日を待つのであろう。
検索空間のことである。
検索空間とはある文字列を検索したときに展開する一次元
の順序空間のことを言っている。
私は気になる言い回しが浮かんだら検索してみて文例を見
ている。
同じようなやり方は「ウェブ進化論」とかネーミングの世
界でも頻繁にされるが、単語レベルではなくて句や文でやっ
てみるのも面白い。
新しい文字列が出てきても意味が十分育っていない場合が
ある。水や肥料をやって新しい文字列を育てる場合もあるけど、
私も忘れてしまうことも多い。
水面下で言語空間はカオス的な進化を遂げているのかもしれない。
「幼年期の終わり」のように私たちの孫世代は理解不能な宇宙人の
ような精神を獲得しているのかもしれない。多分私の世代で十分
上世代にとってはニュータイプかプロトタイプで理解不能に違いない。
P.S ”検索空間”で検索したら次の用例がでてきた。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~fullchin/aso/f+b/09/09.htm
”検索空間”と表記してもそこから立ち現れる意味は人それぞれみ
たいだ。言葉って誰のものなのだろうかとかデータベース上での意
味の争奪戦とかいろいろ考えてしまう。
P.S2 ”データベース上の戦い”って自分はどんなイメージを込め
ているか書き忘れてしまった。twitterをはじめとして自己コンテン
ツ化みたいなものが進行するなかで、マスメディアの業界関係者ばか
りでなく一般の生活者もメディア戦士としてデータベース上での陣地
争いに参戦することになるのでは
ないだろうか?
一般消費者が人生の消費者となりそれぞれの人生脚本を背負いながら
一種の俳優として切磋琢磨する。RLで出会いが起こったときに双方の
背後にスタンドのようにアバターもしくはキャラクターが立ち現れ、
心理戦、プロパガンダ戦が展開するそんな近未来をイメージしてる。
生活全面のエンタメ化といってもいいかもしれない。生きた証として
データベース上に足跡が残り、アニメのキャラクターや歴史上のキャ
ラクターと関係をもったり、戦いなどしながら、有象無象の一人とし
て検索されるその日を待つのであろう。
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