はじめての方へ

私が入院したのは1992年と93年のそれぞれ春です。入院期間は短く、現在も小さな症状があるくらいです。非定型精神病に典型ってあるのかどうかわかりませんが、今は精神病者と健常者の狭間にいるような感覚です。外来は最初から途絶えることなく続いてますし、服薬のほうは一生つづくでしょう。病気の理解の助けになるかどうか知りませんが、ある種の人間の理解の助けにはなるかもしれません。

P.S 読んでいただいている奇特な少数の読者さまへ
おかげさまで、毎日読んでくださる人もいらっしゃるよう
になりました。当事者の方もいらっしゃるのでしょうか。
状況は異なれ、何か役立てられたら幸いです。急性状態を
体験されたことはさぞ大変だったことでしょう。でも、
まだ人生は終わっていません。その後の分岐点もさまざま
でしょうけど、希望の光、ともし続けてください。ゆらめく
ことはありましょうけど、大事に守ってあげてください。

p.s2 ブログの文章中には論証しようとか説得しようという
意図をもったものはありません。単に一個人からみたら
こう見えるというものにすぎません。仮設的な思考の計算
用紙、あるいは個人用のネタ帳といったところです。

P.S3 現在の診断は統合失調症です。内側から見た統合失調症と本来しなければならないのですが、まぎらわしいのですが、タイトルはそのままとし、概要のほうで調整することにしました。まあ、心因反応と最初につけられた後の病名が非定型精神病で、その時期が長く、主治医から見ると、非定型精神病寄りの統合失調症ということなのでしょう。(聞いたことはありません)(2015・05・08)

P。S4 あともう一点重要な修正があります。私が最初に精神病で入院したのは91年で再発したのは92年のようです。履歴書用の暦でしらべたら、そういうことになりました。85年に大学に現役で入学し、留年とかはせずに、大学院も修了し、会社の研修期間中に発病。その翌年に再発です。修正があるときには、上書き方式をとらず、コメントで調整しようと思います。修正の履歴が残ったほうがいいと考えるからです。(2015・05・08)


2019年9月14日土曜日

日本語論文を読むたのしみ

いつのころからか日本語論文をネット上で読む楽しみを見出したのかよくわからない。同じことは大学図書館でもできるはずだし、本や論文の参考文献から収録雑誌、タイトル名前などを探し出し、芋づる的に読んでいくというのが本式のやり方のはずだけど、不思議にやったことはない。類似の論文探しは仕事の一環として、博物館での仕事ではやったことがある。だからやろうと思えばやれるはずである。

書こうと思っていることは論文を読む楽しみである。純粋に娯楽のようなものとしてやっている。職業としての科学が成り立つ前は、趣味として西洋人は科学をやっていたわけだからこれでいいと思うし、いまどき純粋にやっています、という人がいても別にかまわないと思う。

論文の書き方のスタイルにはきまりがあるらしいことを放送大学の学習センターの面談室で学んだ。一度だけ、その形式で書いた。ラグーナ出版の同僚の話では私の書く文体は論文調で、論理的であるといわれる。門前の小僧、習わぬ経を読むという感覚で知らず知らずのうちに論文の文体の影響は受けているのかもしれない。でも、本人からするとそんなに似ていないと思うし、もっと全く自由な調子で書いてみたいと思うわけである。論文だけでなく、商業的な文章のスタイルからも自由でありたいと思う。

論文を読むスタイルはまったくの乱読である。著者がその世界でどういう扱いを受けているのか、正統なのか異端なのか、本流なのか、傍系なのか、まったくかまわず、内容でなんとなく面白そうかつまらなさそうか判断している。

それでも数あたるとなんとなく、面白そうだとか、独創的な感じがする、とか味でわかるような気がするのだけれど、それが本当にそうなのかわからない。

おそらくその時代では正しいとされていたけれども、時の経過とともに、間違いだったことがわかり、より正しい知識に置き換えられたというのも理系の論文では結構あると思うのだけど、身近にその分野の先生が気安く話せる間柄としているわけではないので、訂正されにくい。いろいろな論文を読み続けているなかで、訂正されるものもちらほらあるという感じである。

したがって、私の頭の中にあることは大量に間違いを含んでいるはずである。だから事実としてはあまり書けず、意見やアイデアとして書き連ねるしかない。

大学のときは専門がちょっとでもずれると土地勘がまったくわかず、興味も持てず、理解もできない、ということが多々あった。研究発表とかではとくにそうだった。

そういうふうな受け付けない感じが不思議に論文を読んでいるときにはしない。ひとつには興味をひくタイトルの論文を検索で探し、興味にしたがって読んでいるからだと思う。その点では大学図書館に並んでいる本の大部分は興味を現時点ではひかない。自分の専門だから読まないといけないので読んでいるという感覚ではなく、分野にこだわらず、面白そうな本、論文を読むというスタイルである。雑食性のタラみたいな食性をしている。

疲れたので、また続きはいつか書こうと思う。

2019年6月1日土曜日

あわせ鏡と鏡のずれと

他人はまったくもって謎である。他人の不可解さは、他人に映る自己の不可解さでもあるかもしれない。

一方、他人や他人の書いたものを正確に読み取る力が足りない。それもまた、間の空間をゆがませてしまう理由になる。

他人は一人でなく、多数いる。一方の他人から受けた干渉は、もう一方の他人へのメッセージの中に紛れ込んでしまい、混乱をさらに大きくしてしまう。

ネット空間はビリヤード場でもあり、ミラーハウスでもある。他人は自己の万華鏡を彩る断片であり、自己もまた、どこかの他人の万華鏡の視野を彩る断片である。

そうやって出来上がる、全体は多数の人間が参加するこっくりさんのような場であってあらぬ方向へと進んでいるように見える。

今日はお日柄も悪く、謎めいた文章を書くことになった。

すべてのタイミングが悪かった。

P.S その一方で、私は所詮、ミクロな当事者にとどまる。おそらくはバタフライ効果のようなものは起こらないか、認識することはできず、全体のランダムな動きのなかに消えてしまう。大体の日々の暮らしが、その人の人生へは影響を与えずに、昨日のように今日もあり、今日のように明日もあるように。明日がないと考えることは大体において胡蝶の夢のようなものに過ぎない。日常性を信頼しよう。

2019年5月2日木曜日

夕べの夢 メモ 南の島の妖しい教団

夕べの夢。
めんどうなのでまたしてもメモ。

奄美のかけろま島のあたりのどこか。
延々つづく森の中が格子状の区画になっていて、
ご丁寧にも交差点には信号機がある。

そこを歩いている。
「聖地」になっているらしい。

ずっと歩くと、町っぽくなり、茶色い色の雑居ビルみたいな
建物が見えてくる。各階ごとに正面に向けて、龍のオブジェがある。

どこにこんなにヒトがいたんだろうかと思ったくらいヒトがうじゃうじゃいる。

真ん中に教祖らしきヒトが。
なぜか関西弁らしき言葉をしゃべっている。
シマのヒトではないんだ、などと思う。

みんなで何か食べている。
教祖らしきヒトがシマのヒトをしかりつけている。

教祖らしきヒトが私に言う。
これ買ったら300円。
それでもらえるのが下の9万円の美術品。

私の金銭感覚を狂わせ、取り込もうとしているのかな、
などと思い身構える。と思ったらおきてしまった。

(書きながら)ついさっきまで、夢の中で鳴っていたBGMが脳の中でリフレインしていた。ゲーム音楽のような、ぴこぴこ音だった。

メモ。新宗教的なものは、野際陽子が『私の運命』で怪演した、描かれたものと、友人、知人に、行き先があいまいなまま、連れ込まれ、それ一回きりで、「お誘い」はおことわりしたものと、大学一年の頃、何の免疫もないときに、PCを持っていたトモダチの家にいくたびに、「センパイの家へ行こ」と言って、その教団の学生組織の拠点みたいなところに、数回連れ込まれたのがすべてである。そのうちの一回はその組織の大人向けの施設みたいなところに連れ込まれ、地域での幹部みたいなヒトと面会させられ、話をきき、ヘラヘラと話をあわせながら、ひっこんでいった。その幹部みたいなヒトが、激しく論戦すれば、よかった、などと言っていた。逆に私は「こういう状況では絶対に論戦はしてはいけないのだ」と学んだ。後で、極左系の集団のボスと真っ向から論戦を挑み、説得され、取り込まれ、今ではその集団の幹部になっている人もいる、という話を別のトモダチから伝え聞き、論戦してはいけないという知恵は補強された。教理問答みたいな訓練を受けているはずなので、太刀打ちできないのかもしれない。

今ではいい社会勉強だったと思っている。

P.S 大人になって、宗教社会学とかなんちゃらかんちゃら、世代的にもオウム事件も青年期の終わりころにあって、無関心でもいられず、あれこれ読書はしている。その読書を通じて、新宗教だからとむやみな偏見を持つのも狭い了見だな、と思うようになった。基本的には教団にかかわっているのは善良なまじめな人だと思う。

2019年4月23日火曜日

夕べの夢 danryu

夕べの夢のメモ

銀河鉄道999で出てきた「機械化母星」のかのようになった未来の日本。

danryuシステムというもので社会は覆われている。

道路のような感じで渓谷のようなものがあり、大雨シーズン。
岩がごろごろしている中、増水している中、作業員が工事している。
今日の事故死者何人とか数字になっている。

はるか上のほうに橋がかかり、信号機がある。水族館の区画にわたるために、
どっちの橋をわたろうか私は悩んでいる。

別のシーン

道路のような感じで、複車線のような感じで農地が広がっている。
「道路」はベルトコンベアみたいな感じの可動式で動いている。
ところどころに散水機があって、固定されていて、農地に灌水している。

別のシーン

未来世界での既婚者のカップルの生活。
写真をランダムにまき散らしたような感じで仮想世界の画面が折り重なり、
それぞれが別々の抽象的な画面になっていて、それをいったりきたり
するのは迷宮的。

花粉が世界中に漂っていて、不安をまき散らしている。

注) この夢見て、怖くなった。無意識のやばそうな感じのものが表にでてくるような感じで。
でも、書き出してみると、どこが怖かったのか、さっぱりわからない。自然を屈服させるような感じで、機械化母星化が貫徹されつつも、自然に逆襲されてしまう、宿命みたいなものを感じたのかもしれない。あるいは、無邪気な未来を信じるカーツワイルの本に対する反感なのか。




2019年4月6日土曜日

文学サロン月の舟で『ダロウェイ夫人』を聴講

今日は文学サロン月の舟で『ダロウェイ夫人』の随談を聴講した。
講師は鹿児島国際大学の小林潤司先生。
小林先生の言葉で書くと、彼岸の目で眺める此岸の世界というような話だった。

講義が終わったあとまた例によって質問をした。
「英語の原文で読まれたときに、言葉とか書き方ではなく、言葉の向こうに見えてくる、ヴァージニア・ウルフの意識性はどんな感じに見えるのですか?
意識性というのは眠っている時間があって、朝起きて、起きたときはぼんやりしていて、お昼ごろになると、目がぱっちりして、言葉もくっきりしてくる、そのようなイメージで考えてみるとというような意味です」

先生はそれに対して、言葉から見えてくる意識のきめの細かさということですね、とおっしゃられた。

「きめの細かさ」という表現はすごく参考になった。

大昔、麻酔科兼精神科医をされている先生と話したことがあり、意識水準の話になった。麻酔をすると、意識水準が下がってきて、見当識が失われていき、眠ってしまう。では逆に超覚醒みたいな感じで、意識水準が上がってきたときはどうなるのだろうか?

物事に集中しているとき、熱中しているとき、普段がけだるい感じの意識だったとすれば、もっとくっきりした意識の感じになると思う。残念ながら、今、そういう状態から程遠くけだるい感じの意識に近い。

どこまで物事に集中できるかは状況により、人によりさまざまだろう。私はぜんぜんだめだけど、将棋がうまい人が手を考えていたり、数学者が重要なアイデアを思いつく寸前とかはすさまじいものだろう。同じような感じでヴァージニア・ウルフ級の小説家がものを書いているとき。そういう言葉を持つとものの見え方も違ってきて、それは循環するのではないだろうか。危険なぐらいに。

残念ながら、私はけだるい。そして、リウマチの痛みとだるさがその点でいうと「絶望」をプレゼントしてくれる。本当に物事に集中できるとき、リウマチの痛みとだるさも問題にならなくなる、そういう想像はできるけれども、今はやっぱりどんよりしている。体の鈍さを味わう。

人類の星の時間、個人版というか、多くの人で生涯を見渡してみたときの名場面、そのシーンを何回も反芻するかのように再生する、そんな出来事ってあるかもしれない。のるかそるかの場面。そんな話が霜山徳爾の本の中にあったような気がする。もしかしたら、ヴァージニア・ウルフはわりと日常茶飯事に近い感じでそういう場面があったのかもしれない。それも、波があり、頂高ければ、谷も深い、という感じでそういう状態があったのかもしれないし、加齢とともに、頂のほうが永久的に去っていった感覚がしたのかもしれない。忍耐して待っていたらまた良い時期がやってくるとちょっとでも思えたのなら、絶望はしなかったのだろうと思う。

自分の能力が去っていったあと、どう生きるのかというのは高木貞治が自伝的に生涯を振り返ったときの文章にヒントが載っていた。何も特にできなくとも、世の中の移り変わりを見届けるという役割は果たすことができる。無理をしない、と振り返りの文章の中に出てきた。

私自身はたぶん、何でもない存在だと思うけれども、自分ができそうな役割を淡々と続けていきたい。世の中の隅で。

2019年4月4日木曜日

見えなくて脆弱な「信頼」

自分の会社の会長と久しぶりに雑談をした。

信頼についての話題だった。
どういういきさつでそういう話題になったのかは省く。

で、私はこんなことを言った。

「信頼って見えないじゃないですか。だから、言わなくてもわかるだろう、伝わるだろう、などとは絶対に思わないで、折に触れて、会長の思いをみなに言葉にして伝えてください。」

「たとえば、PSWとか会長とか、いるじゃないですか。でも、しばらく話さないうちに、PSWがあるいは会長が私に悪意をもっているんじゃないかとか、思い込みが発生して、話してみて、そうじゃなかったんだ、と検証されるわけです。でも、思い込みは頑固な場合もあって、また、しばらく話さないと悪意があるんじゃないかという思い込みが心の中にまたもたげてくる」

「前の職場でも、そんな感じで上司との折り合いが悪くなったのです。上司は言葉にしなくても思いは伝わる、そう考えているわけですよ。でも、そうじゃない。言葉にケチなうちに、次第に冷たい空気が広がってきて、だんだん距離が開いていき、最後は面従腹背的になってしまって……」

たぶん、私のほうがどちらかというと特殊なのだと思う。頑固な思い込みがまたもたげてくる、などという妄想的な感覚は悲劇的でさえある。

そういう思いがあるから、私の場合も必死になって、どうにか「伝えよう」と言葉にすることにこだわる。残すことにこだわる。

それは誤解の種になるのだとしたら、それも悲劇的なことかもしれない。

何を伝え、何を伝えないのがいいのだろう。

2019年4月3日水曜日

インターネットのない世界 RPGのない世界

職場の精神保健福祉士のスタッフに「インターネットのある世界についてどう思いますか?」と聞いてみた。対象化しにくいので難しい質問だ。

「以前は7割ぐらい現実に置きたいと思っていた。でも、児童の教科書も電子化が考えられている世の中で、世の中自体も動いているので、インターネットを拒むというわけにもいかず、戸惑っている。でも、ない生活もあっていいと思う」

正確にはこんな言い方ではなくて、思い出せないのでだいぶ私流に翻案されていると思う。

私はインターネットのない世界で20台前半ぐらいまでを送った。ごく一部の情報の専門家の世界であって、イメージがつかめず、なおかつ憧れていた世界だった。

RPGも似ている、高校のとき、雑誌の中で海の向こうにはAppleⅡというパソコンがあり、ウィザードリーとかウルティマというゲームがあるらしいことを読んだ。紙の上のもので想像するしかなかった。

想像する、溜めのような期間があった。

そういうふうな憧れの背景があるので、インターネットは辞書代わり、みたいなロマンのない感覚とはずいぶん違う。


その非日常だったときの気分は大事にしたいと思う。

2019年3月26日火曜日

アフリカの人について

前の文章を読みながら、タイトルのつけ方間違ってたか、アフリカ人について差別感覚があったかいろいろ考えたが、ちょっとアフリカの人との生活上での関係について振り返りたい。

テレビ視聴など以外で、アフリカの人と初めて会ったのは、80年代後半、台北の安宿においてだった。
そのとき、私は大学2年の春休み。アフリカのどこからやってきたのかはぼんやりしているのだけど、仕事しながら、お金をためて、台湾にたどりつき、次の目的地は日本で、さらにお金をためたらアメリカに行きたいと言っていた。私の頭の中では日本から外国に行って帰るというパターンしかそのころなかったので、片道でどんどん進んでいくという旅もありうるのだと、ちょっとした衝撃を受けた。

月日はたち、鹿児島かえって来たあとに、ダカールから来た(国名がでてこない。)女の人からフランス語を習っていた。話し方と話に付随する体の動きに音楽性を感じた。母語である、ウォルフ語も少し教えてもらったが、両方とも初歩に終わった。一番衝撃を受けたのは、「あなた、友達にどこまでしますか? セネガルから友達が来たとします。その友達と食事しますか?」「はい」「その友達を家に泊めてあげますか?」「……」「セネガルから日本までの旅費をその友達のために支払いますか?」「………」そういうやりとりだった。日本でいう友達というのはセネガルでは友達に値しないのではないかとぼんやり思った。

旧友が華道を教えていて、アフリカからの留学生にも教えていた。あるときこう聞かれたことを私に教えてくれた「鹿児島の今のような感じになるにはどこをどういうところから始めたら街ができあがるのですか」

私の話はずいぶん古く、グローバル化で現状はぜんぜん違っているかもしれない。それに対して私は無知なのかもしれない。

P・S 前の文章を読みながら、タイトルのつけ方が配慮が足りなかったなと感じるとともに、何か書くとするとしたら、どういう書き方がいいのかとか思った。基本的にはアフリカの人については以上のような感覚である。アフリカといっても、ひとつの大陸であるし、「九州人」といわれても私はピンとこないくらいだから、アフリカの人という言い方が何か意味をなすのかといえばなさないだろうと思う。

2019年1月6日日曜日

野生のサルと餌付けされたサルと

観光地の俗化という現象と似ているのかもしれないけれども、私はあまり人から干渉を受けないほうがいいのではないかと思った。

なぜなら、それなりに自分のことを自力で伝えることができるからである。ゆえに、それ以上に人と関係を持とうという欲求を強めると、あまりよくないのではないかと思った。だから、いろんな人と関係を近づけたりするのではなく、あたかも、遠くから望遠鏡で覗き合うような、天文学的距離においての関係性がいいのではないかと思う。

昔、いかりや長介とマサイの人々との交流を描いたドキュメンタリーのなかでいかりやはこう言っていた。マサイの人々に求められたからといって、懐中電灯(番組中では何だったかは具体的には忘れてしまった。)をあげるのはよくない。彼らは懐中電灯をつくることはできないし、それをあげるのは彼らの生活を壊してしまうことだ。そう禁欲し、マサイの人々と適切な距離をもって交流した。しかし、今のテレビ番組を見れば想像がつくように、いろんな意味で現地の人々の何かを今の人たちは壊しているのかもしれない。

マサイは現地に行ってみないと見ることができなかった。でも、私は自力でメディアをあるていど使える。メディアに映ったものが真正なものであるとは限らないが、自衛隊のやっている内容分析みたいなことをすると多くのことがわかるだろう。

干渉を最小限にすることで撹乱が防げる。自然の営みに従った内発的な変化を見ることができるのだと思う。内発的な変化を起こす力、それもある程度もっているかもしれないと思う。日本語という言語を使えば、ある程度、高級なことを考えたり書いたりすることは可能であって、それは非西欧諸国の中で考えると恵まれていることであるというようなことを読んだ。

今はデジタルでつながり、いいこともあるけれど、急速に画一化も起こっているらしい。交流のチャンネルを絞ったりすることやら、意識的に距離を設定することは、自分の中から変化を起こして、独自なことをすることに貢献するかもしれない。

孤独を愉しもう。

2019年1月5日土曜日

また、世間に嫌われるようなことを書いてしまった。

前の文章の最後らへんでまた、世間に嫌われるようなことを書いてしまった。

特に、迫害めいたことはないのだけど、なんとなく冷え冷えしたものを世間に感じている。

私はえなりかずきみたいなタイプの人間に見られているのではないかと想像することがある。子役としてはよかったけど、成長するにしたがってかわいげを失ってしまったような感じである。本当のえなりかずきはどんな感じなのか知らない。でも、子供のころから俳優をやっていたがゆえの雄弁さがその魅力を減らせるように作用し、必死の努力にもかかわらず、それがうまく機能していないように見える感じになるような。(えなりかずきさんごめんなさい。でも、そういう状態を説明するのにもってこいなのです)

かわいげがない、というのは立場的に序列は下なのに、堂々としている感じがするので居丈高に見える、それが許せないという感じである。日本的秩序感と関係している。そして、それは理屈の問題ではなく、受け手の知性とも関係しない、深い情念からやってくる感覚である。そこを乗り越えるのは本当に難しい。

序列が下なのに、というのはたとえば、自分よりかなり年下の若者から「ジイさん」と乱暴に呼ばれてとても腹が立つ感じと似ている。これは他者への配慮の問題かもしれない。今書きながら思っているけれども、その配慮は私にも足りなかったと思う。

研究者の人からは本当にいろいろ教えてもらった。何の立場もないのにたくさんの時間を割いていただいた。にもかかわらず、また別の研究者からは居丈高な態度をとられたり、毒を含んだ言葉を受けて、その毒に当たったり、知的消費者としては歓迎されても、それ以上学習が進んで、なにやら縄張りを侵犯されそうな気配になってくると線を引かれたような感じになったり、冷たくされたり、で愛憎半ばする状態にある。

そして、本などの文章上で、「衆愚」という言葉を見つけたりすると、本当に今の日本文化自体に悲しい思いを感じてしまうのだ。研究者ならば、日本語の美しさを感じるような言葉を使ってほしいと切に願うのだ。

世間と書いたけれども、研究者の世間のなかには私は入っていないような気がする。そのしきたりは知らないし、価値観も違うだろうし、本当のところではわかりあえないような気がする。私は患者の世間の中にはなんとか入っているような気がする。健常者の世間の中には入っているような気もすれば入っていないような気もする。

どの世間に目が向いているのだろうか、自分ではあまり自覚できない。研究者の世間の中に擦り寄っていく態度はとりたくないし、擦り寄っていってもそこで待っているのは非対称的な搾取的関係だろう。

むしろ、普通の生活者の感覚からなるだけずれないように、(ということは世俗的な成功のほうはほぼあきらめる努力をして)普通の生活人の生活を保持するようにしたほうがいいと思う。すっぱい葡萄みたいに見えるけれど、経済的な意味での生活水準でも、つきあう人の階層とか職種みたいなものでも、普通の生活人の感覚を狂わせるようなことはなるだけしないほうがいいのではないかと思うのである。

なぜなら、普通の生活人として生涯を送り、その心性を自分の心をもっぱら解析することによって資料化するということも自分のやりたいことだからである。

自分は必死に学んだ。でも、母の子供であり、父の子供である。その意味では母語としては庶民の言葉に根を持ち、庶民のこころも失っていないと思う。むしろ、そういう心の中の要素やら、言葉を具現化したり、解析するための道具を手に入れるために学習を続けたと自分は思っている。そのことによって、庶民性というものをいくらか失ってしまったかもしれないが、それでも十分な位は残っていると思う。母の大事な価値観である「情を持つ」ということにまつわる事柄である。

「なさけのちゅらさ」沖縄では心の清らかさのことをこう言ったらしいことを本で学んだが、母の故郷、伊仙町では類する言葉はないのか、探してみた。

「きむぎゅらむん」という言葉が出てきた。肝の清い人という表現である。
そこを足場にして、南島の人の心の根っこを掘っていき、同じような感覚が自分の心に残っているのか同定したい。

居丈高なところも相当私はもう身につけてしまったかもしれないけれど、その一方で身を低くして、どんな相手であれ、相手が継承してきた文化の伝統には配慮し、尊敬の念を持ち続けたいと思う。そうすれば、相手はきっと気をよくして、そのいかほどかの文化を器量に応じてわけて下さると思うのだ。

えなりかずき的な努力は続けてみようと思う。

問いを設定して、学んだ知識を総動員

問いを設定して、学んだ知識を総動員。ハードルを作って、そのハードルを越えていくこと。

おかげさまで、今は創作意欲はそんなに悪くないようだ。一時期は、枯渇していて、仕事でもほとんど文章が書けなかった。今は、タイピングが軽い。

創作と今、書いたけれども、虚構はほぼ入っていなくて、実録である。記録文学みたいなものを目指している。誰か、虚構を作ったりする人の資料になりうるもの。嘘を混ぜると、時間とともに発覚し、それは記録の価値を下げる、そういうことはわかっていると思う。そして、欲が少ないような気がするので、嘘を書いてみかけの魅力を上げようという動機がない。ただ、それはちゃんと検証してみる必要がある。読者の鑑識眼に期待する。

問いを設定して、学んだ知識を総動員。自分の考えた数学のイメージにそれは似ている。
本当に数学と付き合ったのは高校時代とかである。最大の名場面は広島大学の数学の記述試験。数題文章題があった。それに対して、必死に解いた。最後まで解けたかどうかわからない。ただし、部分点はもらえ、それで入れたような気がする。

大学院のとき、植物学の口頭試問を受けた。院に入ったあと、口頭試問の答え方がよかったと先生から伺った。やっぱり、自分の持てる知識を総動員して答えようと試みた、そのプロセスを評価してくれたようだった。

病気になり、あるとき、自分は

「自分の人生における、精神病の意味とは何か?」というお題を与えられ、それをある種の博士課程として、生涯という持ち時間を使って解こうとしている、という空想をするようになった。ここやらで書き散らしているのも、その思考の計算用紙なのかもしれない。

このブログを通読に近い形で読まれている人は思うかもしれないけれど、羊頭具肉的なところがある。お題は仰々しく、内容はたいしたことを書いていないというようなものだ。
それは、お題がそもそも、即興的に書けるようなものではないことが多いという事情にあると思う。

私の力量で、即興で書ける時間ぐらいの範囲で、適切な問いを見つけるのはそもそも難しいと思う。それでも、その時々で思いついたお題に対して、挑戦してみた。その時々のひとつの挑戦の記録として読めば、それなりに面白いと思う。

適切な問いを選ぶこと、その着眼点。社会学のアンケート調査をしている人と桜島のユースホステル時代に話したことがあるけれど、社会調査のアンケートの問いには情報が含まれていると教えてもらった。その意味は調べたことがないのでよくわからないけれど、暗黙の前提、それまでの経験が反映されているような気がする。ついでなので書こうと思うけれども、私の表現したものは教育、学術用の目的であれば、引用可としたけれど、実際使われるとはあまり期待していない。特に日本人の研究者に利用されることは。海外の日本語、日本文化の研究者に学術、教育用の利用をされるということに関しては若干期待している。私の日本語でもどうも、読みこなす人はいるような気がするのである。日本人については研究のテーマ探しなどのお役に立てればいいなと思う。そこでも、搾取的な利用であって、私の名前まで出して、お礼を書かれるとはまず期待していない。そこまで勇気の持てる人はまずいないと思っている。そして、いつか手の平返しみたいなことが起こるかもしれないが、まあ、世間とはそのレベルであると思っている。話がずれた。

今回も羊頭具肉に終わったけれど、今後チャレンジしてみたいものがある。ひとりディベートなり、ひとりブレインストーミングみたいなものである。対話調の文章。自分の中に対立する立場を仮構して議論させてみる。これをやると、それぞれの言葉の意味であったり、実際のいろいろなことが独白調よりもさらに詳細にわかるという恩恵があるらしい。

力尽きたのでこのへんで。

2019年1月1日火曜日

謹賀新年 「一患者にとってのアート」

あけましておめでとうございます。

しばらく前にタイトルは忘れたのだけど、自分にとって科学なるものは何かということを書いたので、それと対になるような感じを込めて、「一患者にとってのアート」というお題で一席ぶってみたいと思います。即興で書き散らすだけなのであんまり期待しないでください。

まず、現代アートでもなんでもいいのですが、外から見たアートの文法をなぞりつつ、それっぽいものを作ったとき、おそらく、まっとうな人からみて、生理的嫌悪感が走り、「ぞぞっと」くるような作品も世の中にはありうるし、もしかしたら、私がちょこっと書いた以上にあふれているのではないかと思いました。

たぶん、近代文明とか、その象徴としての飛行機とか見て、「カーゴ・カルト」のような行いをする、そこまでズレてしまったら、それは「絵」になると思います。でも、そのズレかたが微妙な場合、さっき書いたような「ぞぞっと」する感じになります。それは私の単なる直感です。

私の作った「制作物」たちもそういう「ぞぞっと」する感じから逃れられているのかどうかわかりません。でも、なんらかの意味で自信があるから、こんな文章を書いているのだと思います。

私がつくっている「ものたち」。話は簡単です。もやもやの具現化です。とりあえず、外に出してみれば、感想を言ってもらえる。感想は本当はもらえないかもしれませんが(笑)。今書いて気づいたのですが他者が出てくる。でも、実際は、その他者は時間をおいたあとの自分です(苦)。

標本です。標本たちが蓄積してくると、コレクションになり、ある程度まとまった数になると、そのこと自体が価値を帯びてきます。博物館類似の「施設」の誕生です。

さきほど書いた、「ぞぞっと」くる作品たちも、表現してみればこそ、感じることができ、そしてその理由を考えることもできます。そういう意味では意味を担っています。

何かつくっていたら、そのことを通して、いろいろ考えることができます。今まで学んできたこともその中にぶちこむこともできます。そして、具現化することで、見えなかった学習の意味とか性質とか他人が考えてみたり、そして、そういうものたちを生み出した世相の性質についてまた考えることができます。カゲロウやコイを観察することによって、それらの住んでいる環境についてもあるていど考えるよすがになること似ています。

そういう意味合いでは、作品そのものを味わうというよりも、作品を通して、時代や地域を考える、その媒体になっている、というようなことかもしれません。

ほとんどオリジナルな考えはないと思います。やっぱり「ぞぞっと」されるかもしれません。